クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 05 September, 2019  (追記・校正:2019年10月26日,12月31日、2010年1月18日,6月8日、2022年1月30日、2024年10月11日) 
37 - (9)    2019年 コミ共和国とチェチェン共和国 (9)
    ベノイ氏族のベノイ村
        2019年2月18日から3月6日(のうちの3月2日から3日)

Путешествие по республике Коми и Чечне, 2019 года (18.02.2019−06.03.2019)
   ロシア語のカフカースКавказの力点は第2音節にあるのでカフカ―スとも聞こえる。英語読みはコーカサスCaucasus

 コミ共和国スィクティフカル市へ (2月18日から2月26日) (地図)
1 2/18-2/19 旅行計画 (地図) 長い1日 ガリーナさん宅へ 複線型中等教育ギムナジウム
2 2/20 アンジェリカさん祖先のコサック コミ文化会館 コミ・ペルム方言 歴史的地名インゲルマンディア
3 2/21-2/22 博物館。蕎麦スプラウト・サラダ 図書館、連邦会議議員 ウードル地方ィヨルトム村へ ィヨルトム着 水洗トイレ付き住宅
4 2/23-2/26 クィトシヤス祭 ザハロフ家 橇で滑る プロシャーク記者 コミからチェチェンへ
 チェチェン共和国グローズヌィ市へ (2月26日から3月5日)(地図)   チェチェン略史
5 2/26-2/27 グローズヌィ着(地図) マディーナ宅 マディーナと夕べ カディロフ博物館 トゥルパルとテレク川へ(地図) アーダムと夕食
6 2/28-3/1 グローズヌィ市内見物 野外民俗博ドンディ・ユルト(地図)チェチェン略史 マディーナのオセチア観 アルグーン峡谷へ ヤルディ・マルディの戦い ニハロイ大滝
7 3/1 歴史的なイトゥム・カリ区、今は国境地帯(地図) イトゥム・カリ村 タズビチ・ゲスト・ハウス ハンカラ基地(地図) 妹ハーヴァ
8 3/2 ジャルカ村 グデルメスとクムィク人 カスピ海のダゲスタン(地図) ハサヴユルト市 水資源の宝庫スラーク川 デュマも通ったスレーク峡谷
9 3/2-3/3 チルケイスコエ・ダム湖 新道を通って帰宅(地図) ジェイラフ区には行けない(地図) 大氏族ベノイ、旧ツェンタロイ村 山奥のベノイ村 チェチェン女性と英雄、主権国家
10 3/3-3/6 地表から消された村 英雄エルモロフ像 国立図書館 いとこのマリーカ トルストイ・ユルタの豪宅 チェチェン飛行場
 スラーク川のチルケイスコエ・ダム湖
 運転手がダム湖を見ようかという。ここまで来たのだから、そこも見に行こう。
ダム湖
ダム湖側からのドゥプキ町入り口
ヘヤピンカーブの年季の入ったフェンス
 ドゥプキ Дубки町を出て、坂道を降りると、確かに広いダム湖に出た。ダム湖からスラーク川への出口に発電所が建設されているはずだ。その出口でダム(堤防)を作りこのダム湖のように水をため、ダムより下流にある峡谷に流し落とす力で発電しているはずだ。峡谷のあるところはダム建設に好都合だ。発電所と堤防も見たかったが、私たちが案内された湖岸とは別のところにあったようだ。ダム湖の標高は約350メートル、面積は45平方キロ。もちろん1970年代ダム湖ができたため多くの村が水没した。中でも、旧チルケイ Чиркей村は全村が水没したので、村民はダム湖の右岸(ドゥプキ村より上流)に移住した。現在チルケイ村人口は1万人。上記のように、このチルケイスカヤ・ダム湖 Чиркейская ГЭС は1連のダム湖(スラーク・カスカードと呼ばれる10基以上のダム)の中で最も大きい。この下流には5基の大小の発電所がある。チルケイスカヤ発電所の上流にも4基あるが、そこはスラーク川の右岸源流のアンディ・コイスー川になる。つまり、チルケイスカヤ・ダム湖は、スラーク川の左右の源流が合流した地点にあるのだ。
 これらの情報は帰国後ウィキペディアで得たもので、その時は全く説明なしで、ここが目的地だと、ただ見せられていただけで、数分眺めていて引き上げた。また坂道を登ってドゥプキ町に戻る。この坂道の両側の空き地は町民の自由ゴミ捨て場になっているらしい。ハサヴユルトからの道で町へ入る入り口にもドゥプキと書いた道標はあるが、それは表口で、こちらは裏口になる。集落の正面(表口)でなければ、どこへでも、特に裏口などに勝手にごみを捨てるのは、ロシアの田舎はどこででもだが、ダゲスタンでも変わらない。

 ドゥプキ町の正面入り口(ごみのない方)から、町を出る。元来た道を通って薄雪の上を下っていく。来る時も気づいていたがヘアピンカーブの外側のフェンスはコンクリートでできていて、発電所で働く勇ましくきりりとした青年を描いた絵や、『ドゥプキ』、『ひろい故郷は君たちを呼んでいる』と言ったソ連時代のスローガンやソ連風の絵が大きく描かれているが、その上に現代人が落書きをしている。ロシア語ではなく現地語かもしれない。ロシア語だとしても隠語かもしれない。私には全く読めない。
 新道を通って帰宅
 
 クルチャロィ市を通る新道とベノイ村
現ハンガシ・ユルト村近くに旧ダディ・ユルト村があった
 ハサヴユルトには3時半過ぎに入り、4時15分にはチェチェンとの国境に向かった。チェチェンに入り、このまま来た時のように連邦道を通って帰らず、新道を通ることにした。車内で私は地図を広げていたので、連邦道(旧道)はグデルメスに寄るので北寄りに走り、新道はクルチャロイ Курчалой区に近づいていると分かる。
 ダゲスタンとの国境を過ぎて15分も行ったところで連邦道を左折すると、オイスハラ村Ойсхараに入る。周りはダゲスタンの村々と違って、急に整然としてくる。
 オイスハラは古い集落で、18世紀、キズリャール Кизляр(*)のロシア帝国砦の司令官が、書類に初めてその存在を言及したそうだ。当時、主にクムィク人が住む村だった。クムィク人の700家族が住んでいると記載されている。(伝統的なチェチェン氏族の集落だったと言う説もある)。現在は人口1万2千人でほぼ100%チェチェン人。立派な新しいモスクもある。
(*)キズリャール。前記のように、沿カスピ海低地のテレク川岸にある、現在でもテレク・コサックの子孫を含むロシア人が40%もいる
クルチャロイ市のモスク
アルグーン市の入り口マーチを出る
グローズヌィ市東側入り口アーチ
 いとこのマリーカさん

 すぐ隣のバチ・ユルト БачиЮрт村は人口2万人、こちらも、ほぼ全員がチェチェン人。新しく立派なモスクと広い道、おなじみのプーチンとアフマト・カディロフの慈愛と威厳を表した肖像写真を見ながら村役場前も通り過ぎる。チェチェンからダゲスタンへ行き、またチェチェンに戻ると、チェチェンの街並みがいかに整然としているかというその差をひしひしと感じるではないか。肖像写真の2人のおかげか。
 道なりに行ったマイルトゥプ Майртуп村は、人口1万3千人でほぼ全員がチェチェン人。19世紀はチェチェン人の民会があり、また、19世紀反ロシア帝国蜂起の中心の一つでもあった。(1877年のチェチェンとダゲスタンにおける蜂起
 すぐクルチャロイ市 Курчалойに入る。クルチャロイが市に昇格したのは2019年1月、人口は2万6千人でクルチャロイ区の行政中心地だ。クルチャロイ氏族などが住んでいた。カフカース戦争の1826年4月12日、クルチャロイ村は数回の帝国軍の攻撃によって完全に廃墟となったとある。1860年頃旧クルチャロフ村の近くのチェチェン人の住む村々が集まり、新たなクルチャロイ村となったそうだ。現在住民はほぼ100%がチェチェン人。りっぱなモスクがある。クンタ・ハッジ・キシェエフ名称記念モスク Мечеть имени Кунта-хаджи Кишиеваと言って、金色の丸屋根がある。5000人が同時に祈りを上げられると言う。
  (*)クンタ・ハッジ・キシェエフ Кунта-Хаджи Кишиев(18世紀末―1867年)スーフィー派のシェイフ(長老・賢人・指導者)чеченский суфийский шейх. Последователей Кунта-Хаджи называют хаджи-мюридами.
 私達が通り過ぎた2か月前に村から市に昇格したクルチャロイはチェチェンで最も美しい町にしようと政府が企画しているそうだ。しかし、新しく高層建築を建てるため先祖代々住んでいる古い家々を一掃されることに、市民(村民)は賛成しているとは限らないと思うが。
 クルチャロフ市を過ぎると新道に入る道がある。新道は全線が開通していないそうだ。開通すればチェチェン平野を突っ切ってグローズヌィまで通じるらしい。路肩までアスファルト舗装された(これは珍しい)4車線の分離フェンスのある国際規模(?)の道路が走っていた。今はアルグーンまでしか通じていない。一度アルグーンに入って元々の連邦道(今では旧連邦道。下記)に出、右手にハンカラを見ながら進んだところでグローズヌィの門をくぐった。
  (追記:2011年製の印刷した地図では確かに連邦道だが、2020年のグーグル地図では連邦道はグデルメスを過ぎるとアルグーンを南から迂回し、グローズヌィもグローズヌィ海の南から迂回して、以前からの連邦道『ルート・カフカース』につながる)

 運転手のアスランは、昨日のウアズの運転手のようではなく、マディーナによると遠慮深かったそうだ。私に日本のことは何も聞かなかった。本当は聞きたかったが、旅行会社の運転手として、相手のことを聞くのは遠慮したそうだ。と言っても、観光地スラークの説明もしなかったし、自分のこともロシア語では話さなかった。しかし、彼は絶えず後ろの二人としゃべっていた。チェチェン語なので何もわからない。あなたたちがチェチェン語で話すと私は退屈だわと言うと、CDの音楽をかけてくれようとする。いや、ここで音楽など聞きたくはない。土地のことを知りたいのだ。後でマディーナの言うには、彼はよくしゃべっていたが、だいたいつまらないことばかりだった。嫁さんの実家がどうとかいう…そんな、普通のチェチェン人のことこそ、スラーク・キャニオンより知りたかったことなのに。彼女が言うには、そんな雑談はロシア語では話しにくい、母国語のチェチェン語でなら気軽に話せる、とのこと。
 前もって、マディーナからガイドの類の人たちとは政治(歴史を含む)のことなどは話さない方がよいと言われていた。私が彼女によく政治のこと(?)を質問するからだ。だから、運転手アスランさんには、
「今まで日本人のための運転手(ガイド)はやったことあるか」とだけ聞いた。あるそうだ。若い男女の旅行者で半日ほど案内をしたが、彼らにグローズヌィは気に入らなかったようだったとか。なぜならその日は暑い日で、不快そうだった。彼らには英語のガイドがついていたので、アスランはただチェチェン語(ロシア語)のみ喋ればよかった、そうだ(私相手にも、日本語も英語もしゃべらなくてもいいのに。彼は私にはロシア語すらあまりしゃべらなかった)。彼ら男女の日本人は、カフカースを旅してみようと思った旅行者たちだろうか、それとも仕事で来て半日だけ観光をしたのだろうか。

 8時過ぎぐらいに帰宅。部屋に入った途端にマディーナが、5000ルーブル札2枚を私に押し付けた。キャニオン・スレークで運転手と二人になった時、ガイド代としてこっそり渡したものだ。
「あなたがお金を持っているってことは知っているわよ。でもあなたは私たちのお客ですからね。払わないでください。どうして私が知っているかって?運転手とチェチェン語で話したのですよ」。そうか、これがロシア連邦の民族共和国に行った時の私の不利なところだ。オセチアにはまだロシア人の運転手はいるが、チェチェンではロシア人を全く見かけない(制服のほかは)。

 家にはマリーカと言う年配の女性がいて、私たちを待っていた。マディーナのところに日本人が来たと聞いて遊びに来てくれたのかな。彼女はファーティマのいとこ、つまり彼女たちの母親が姉妹だそうだ。そして、マリーカは、ファーティマの3人の女の子のうちハーヴァを育てた(ようなものだ)そうだ。
 イングーシのジェィラフ区には行けない
 
 ロシア連邦内で最も面積の小さいイングーシ共和国
 3月3日(日)。5日前にグローズヌィのマディーナ宅に到着後、「チェチェンのどこへ行きたいか」と尋ねられて、グルジアとの国境付近のマイスタ村とかマルヒスタ村とか、立ち入り許可が必要な場所ばかり並べた私だ。山岳チェチェンの首都とすら言われた古くからのマイスタ村やマルヒスタ村方面へは、前記のように国境地帯の廃村なので行けないが、旅行会社から提案のあったジェィラフ Джейрах峡谷には行きたい。
 ウラジカフカースからグルジアの国境に向けたかつてのグルジア軍用道路、今は連邦道А161線でその場所らしいところの近くを通ったことは何度もある。連邦道はテレク川の左岸(西)を通っているが、右岸には河岸段丘の向こうに山があり、その山奥にジェィラフ峡谷があるはずだ(地図)。そこはイングーシ共和国で、テレクを渡る橋には検問所があった。イングーシとオセチアは民族紛争があった(ある)ので、チェチェンとダゲスタンの検問より厳しい(下記)。この部分のテレク川の東西岸は紛争が最も激しかった地帯の一つだ。ジェィラフ区は、イングーシ南西で、グルジアとの国境をなすカフカース山脈の北部山中にある。
 
 イングーシ共和国最南山岳地帯の
ジェイラフ区。(2018年)
ウラジカフカスの東は
イングーシ人の地だった
 元々イングーシは『チェチェン・イングーシ社会主義自治共和国』として1957年復活された(復活共和国は、1936年からあった自治共和国が、1944年のチェチェン・イングーシ民族の中央アジアへの強制移住で消滅し、1957年強制移住が解除された後、以前の強制移住前の境界とは異なる範囲に復活された)。1991年ソ連崩壊後、イングーシはチェチェンと分離してイングーシ共和国となった。強制移住中(だからイングーシ人は不在だった時期)に占領していたテレク右岸(西)を返還しない北オセチアと、その領土問題で1992年戦争。しかし、強制移住前からのイングーシ人のテリトリーであるウラジカフカスのテレク川右岸は取り戻せないまま、イングーシ共和国として(当初は仮に)成立。そのイングーシ共和国はロシア連邦でもモスクワ市など特別市を除く最も面積の小さい共和国・自治体(連邦構成主体)となった。(面積3123平方キロは奈良県の3691平方キロより小さい)。同共和国は2018年にそれまで曖昧だったチェチェンとの国境を定め、現在4つの区と5つ市のがある。
 南端でグルジアと国境を接するジェイラフ区は厳しい山岳地帯にある。かつて85の集落があったが、今ではその大部分が廃村となって、約2000人余のイングーシ人が5個の村に住む。ここジェイラフ峡谷とアッサ川上流には、6万4千ヘクタールのジェィラフ・アッサ国立歴史考古学及び自然保護・野外博物館 Джейрахско-Ассинский государственный историко-архитектурный и природный музей-заповедник がある。
 この保護区には約500群の石の建造物(納骨堂、キリスト以前の神殿、イスラム以前のキリスト教会、塔など17000基)が残っている(ウィキペディア、ロシア語版)。特に遺跡が集中している場所として5カ所挙がっている。それは;
 エルジ Эрзи。イングーシ様式の巨大な塔がある。それは高さ30メートルにも及ぶ8基の戦闘・防御用の塔、47基の居住用の塔、2基の防御兼居住用の塔などだ。ここに19世紀に、高さ38センチの青銅製の鷲の像が見つかった。それにはアラビア語で『いと慈愛なるアラーの名で』と言う文字とイスラム暦189年(西暦796ー797に相当)と刻印がある。現在エルミタージュに保管されていて、そのコピーがエルミタージュから2013年にイングーシ博物館に贈呈されたとか。実はこのような像は世界に全部で4体あって、他の3体はベルリンのイスラム芸術博物館やイタリアのルッカ、エジプトのシナイ山の聖カタリナ修道院に保管されているそうだ。しかしそれら3体には刻印がない。
 
ヴォヴヌシキのイングーシ様式の塔群(ウェブから) 
 
トゥハバ・エルディ教会堂(ウェブから) 
 ヴォヴヌシキ Вовнушки。険しい岩山の上に聳える3基の塔は印象的で、2008年『ロシアの7不思議』決定の決勝戦までいったとか。2009年にはその図案が切手に、2010年には額面3ルーブルの記念銀貨になった。
 タルギム Таргим。紀元前2千年紀から1千年紀の巨石を積み上げた建造物が残っている。青銅器時代、ギリシアのミュケーナイ(ミケーネ)やアルメニア山中にもある『キュクロープス(サイクロプス)の巨石建造物様式』の一つとされているそうだ。
 中世後期にはハムヒ氏族のテリトーリーとなっていた。つまり、イングーシ人の最も古い集落の一つだった。現在は廃村。
 トゥハバ・エルディ Тхаба-Ерды。 前記タルギムや後記エギカルの近くの、グルジアとの国境に近いアッサ川峡谷に、8世紀の石造りのキリスト教教会がある。それは世界で最初にキリスト教を国教としたアルメニアやグルジアの布教活動と関係があるとされる。早い時期にカフカス・アルバニア国(紀元前1世紀から紀元後5世紀。東カフカス中心にカフカス全体を勢力下においた)に、キリスト教が伝播されたとある。12使徒の一人、ヴァルフォロメイ Варфоломейがアルメニアに布教した。アルメニアは301年アルメニア王によって国教(アルメニア使徒教会)とされ、337年にはカルトリ(グルジア)でも国教(現在はグルジア使徒伝承独立正教会)とされた。
 トゥハバ・エルディの教会遺跡は長さが17メートル、幅が7.5メートルのバジリカ様式の教会堂という。この様式はアルメニアでは7世紀まで建てられていたそうだ。その後12世紀にその土台の上に現代の教会堂(遺跡)が立てられたのだが、それはほぼカフカス全体を勢力下においた時代のグルジア王国のタマーラ女王の影響が大きいとされる。この教会堂はグルジア様式とイングーシ様式の混合という。前記のように、カフカース地方はキリスト教がはじめに伝道された地の一つといえる。キリスト教側から言えば、19世紀までイングーシには多くのキリスト教会があり、古グルジア語で教会儀式が行われていた。チェチェン・イングーシの平地部でイスラムが普及した頃でも、山岳地帯では『山岳キリスト教』が長い間残ってた。多くの教会のうち、現在にまで比較的無傷に残っているのはトゥハバ・エルディだ。ほかにアルビ・エルディ Алби-Ерды, タルギン教会 Таргимский храм、モルズ・エルディ Молдз-Ерды、トゥモギ教会 храм в Тумги], ドシュハクレ教会 храм в Дошхакле], アムガリ・エルディ Амгали-Ерды、トィフェプシプフェクト Тфвщпффкгなど。
 イングーシにイスラムがしっかりと根付いたのは19世紀になってからだ。キリスト教やプリミティブな『異教』の撲滅はカフカス戦争時のシャミールによる。ちなみに、モスクワ総主教座(ロシア正教)の報道によると2002年に、100年以上の空白の後、始めて礼拝がそこで執り行われたとか。
 エギカル Эгикал。 廃村になっているかつての集落。巨石建造物やイングーシ様式の塔が数十基ある。そのほかにエギカル墓地群が近くにあり、年代は紀元前3000年期末とされている(1988年調査)。それは、この地にクラー・アラクス文化の担い手が住んでいたと言うことだ。クラー・アラクス文化は紀元前4000年から2200年、中東北部カフカス地方、クラー川(トルコ東山地からカスピ海まで延長1364キロ)とアラクス川(トルコ東山脈からクラー川下流に合流まで1072キロ)中心に広まった文化で、担い手はフリル語やカルトヴェリ語(グルジア語のその一つ)を話したとされる。

2016年、オセチアの連邦道A161から、テレク川を渡って
イングーシへ出る道路の入り口に立つ警官

 ジェィラフ村は、かつてのチェチェン・イングーシ自治共和国の領内でも最も西南の山中の僻地にあり、イングーシの人口の多い平地(スンジャ川岸より北)とつながる通年通行可能の道がないとか。ぜひ、行きたいと頼んだが、後に旅行会社から、そこへは冬場は車で行くのは難しいからと断られたとか。いや、オセチア側からならいけるはずだと私は言い張った。オセチアとイングーシは関係が悪くて閉鎖されていると言う。いや2年前は通行できそうだった、と言うと、最近また悪化して、旅行会社からの車は回せないと言われたそうだ。理由は多分そうではないだろうが、行けないことには変わりない。とても残念だった。2年前にオセチアに訪れた時は、オセチア人のアスランは決して(私とでも誰とでも)イングーシへ行こうとはしない。チェチェン人のマディーナやトゥルパルならいっしょに行ってくれるかも、と思ったのに。
 大氏族ベノイ
 しかし、ベノイ Беной地方は可能だ。この日はそのベノイへ行くことになった。イトゥム・カリの先の峠越えや、スラーク・キャニオンは旅行会社の車で行ったが、ベノイはそんなに遠くはないし道も普通だからトゥルパルの車で行こうとなった。ベノイ村はチェチェン共和国でも最も南東、ダゲスタンとの国境に接するノジャイ・ユルト区でもその最も奥の、アンディ山中にある。ノジャイ・ユルト区の南はアンディ山脈があって行き止まり。問題のグルジアとは接しない。アルグーン川やアッサ川のように山脈を越えて流れてくる大きな川もなく、だから国境をまたぐような峡谷もなく、治安のよくない国境を超えるような峠さえもない(アンディ山脈を超えるハラミ峠はノジャイ・ユルタ区ではなくヴェデノ区にある。ハラミ峠はダゲスタンに出る)
 チェチェン共和国は広くないので、通行可能な道路さえあればどこへでも数時間で行ける。
 そのせいか、この日の出発は2時近くだった。「ベノイは近いところにあるからね」と言われる。
1.5kg以上ある本『ベノイ』の表紙

 私が、それまで知っている限りでは、この山奥のベノイ村こそアフマト・カディロフの出身地だ(生まれたのは強制移住中なのでカザフスタン)。『ベノイ』と言うカラー・ページの多い厚い本(紙質のせいか重い)まである。前回チェチェンに来た時にマゴメド・ザクリエフさんが図書館の館長から購入したのを、私と別れ際にプレゼントしてくれた本だ。半分近くはチェチェン語で書かれていて、読みきれないが、カラー写真の多くはカディロフ親子だ。
 ザクリエフさんの当時10歳の息子さんのアリーが教えてくれたチェチェンの英雄の一人、バイサングル・ベノエフスキィが、ベノイ出身だ。前記書籍『ベノイ』にもバイサングルのことが言及されている。(ウィキペディアに載っているのと同じ肖像写真だった)。ベノイはカフカース戦争以後も、帝国に対して蜂起が多かった村だそうだ。またソ連政権以後も蜂起が多発していたそうだ。
 もちろん今はすっかり変わっているだろうが、ベノイ村を見ておきたかったのだ。ノジャイ・ユルト区はチェチェンの中でも600平方キロと面積の小さな行政区で全体が山岳地帯にある割には人口が多い。6万人、98%がチェチェン人で53個の集落に住む。チェチェン人とはもともと(『もともと』とは中世の頃からの意、正しくは近世の16世紀ごろからだ。もっとも、紀元前から彼らの祖先の一部が住んでいただろうが)山岳民族で、チェチェン平野などに住んでいるチェチェン人は山岳から移ってきた。チェチェン人の故郷はカフカース山脈北側の山中にある。たとえば、アルグーン川上中流や、ベノイのあるアンディ山脈北麓のように。

ベノイ氏族(タイプ)
 ベノイを自分たちの村とするベノイ氏族(タイプ)はチェチェンの中でも最も有力なタイプの一つであるそうだ。タイプ Тайп, тейп とは中世ごろ、元々は土地や血縁関係を中心にしてできた共同体だ。つまり、一つの集落は一つのタイプでなりたち、共通の祖先をもっていたのだ。そうしたタイプが有事には幾つか集まってトゥクフム союз-тукхумを作ることもあれば、どのトゥクフムにも入らないタイプもあった。ナフ民族(チェチェン・イングーシ)には9トゥクフムがあった。
 元々は一つの村に住んでいたタイプの成員は、後に、チェチェンの様々な土地に移住して行ったので、現在は、特に平野部の各市町村には、多くのタイプの出身者が住む。現在のタイプの数は170ともいわれている。分岐したものもあるので数え方によっても数が違う。チュルク系民族居住地に移ったタイプもある。が、移動しても遠い祖先のタイプの伝統を保持しているそうだ。
 共同体内は平等であり、決定するのは選挙で選ばれた長老会議員だ。つまりチェチェンには統一国家がなかった。他のカフカース北の諸民族にはあった貴族階級と言うものもなかったと言う。ちなみに、カフカース南(グルジアなど)には部族社会ではなく、古代から国家があった。
 前述のように、ベノイ氏族はチェチェンの歴史の上では最も力があり、最も頑強にロシア帝国の侵略と戦った(ことになっている)。ベノイ氏族の中には、カフカース戦争の英雄、前述のバイサングル・ベノエフスキィ(1794-1861。シャミールの副官の一人で、シャミールがロシア帝国に降伏したのちも帝国軍のベノイ氏族の抑圧に対して戦った)が有名だ。北東カフカースのすべての地が帝国の管轄下に入った後も、いつまでも頑強に抵抗していたのはベノイ氏族だと言う。だから、ベノイ氏族は、チェチェンの各地の村に分散され住まわされることになったそうだ。各タイプには自分たちの村や自分たちの山、自分たちの塔がある。どこに住んでいても、自分の氏族、先祖が住んでいた村が『自分の村』だ。それは自分が生まれ育った村とは限らない。ちなみに、上記のようにアフマト・カディロフは1951年カザフ・ソヴィト共和国(現カザフスタン)のカラガンダ Карагандаで生まれている。1944年から1956年までチェチェン・イングーシ人は故地から中央アジアのカザフなどに強制移住させられていたからだ(前記)。息子のラムザン・カディロフの方は1976年、前日も近道で通ったクルチャロイ区 ツェントロイ Центарой村で生まれている。
旧住民の家屋移転によって一新した
アフマト・ユルタ村入り口アーチ

(追記) 旧ツェントロイ村 Центарой (チェチェン語ではホシ・ユルト Хоси Юрт)、クルチャロイ市から北東12キロ、グローズヌィ市の南東52キロ。人口9000人弱。これは、アンディ山中の上ツェントロイ村出身のホサ・ウマハノフによって建てられた村。19世紀前半のカフカース戦争や1922年の反ソヴィエト闘争などで荒廃。1996-2001年の2度にわたるチェチェン戦争では完全に廃墟となった。
ラムザン・カディロフの生地と言うことで2010年『カフカース首長国(独立派の残党)』を名乗る30-60人の『戦士』に襲われたくらいだ。
2019年5月21日付でアフマト・ユルタ村と改名。(地図

(追記2)カディロフ一族 ラムザン・カディロフは2016年のテレビのインタヴューで自分たちの一族には70人の政治家や軍隊指揮者を出せるだけの男性がいると述べた。30人の親族はラムザン・カディロフの助手が指揮する特殊部隊で、軍事訓練を受けているとも、以前には述べている(カディロフの私兵もいる)。事実、100人ほどのカディロフ一族の面々、またはカディロフの息のかかった者が政治と官憲の中枢、及び中堅にいる。100人のうち3分の1が親族、3分の1が旧ツェントロイ村出身、つまり幼馴染・親友・隣人で、残り3分の1が遠い親戚縁者親友に当たる。カディロフ一族とはいとこ、はとこ、おじ、甥、姉妹の夫の一族、母親の一族、妻の一族、同級生などだ。中には25歳でロシア最年少でグローズヌィ市長になったいとこのイスラム・カディロフもいる。   
それら地位はたびたび変更される。任命される地位は、その人の専門性によるのではなく、カディロフの信頼の程度によるものだ。つまりカディロフの胸三寸によるので、その地位に着いたからと言って安泰ではない。こうした、いくらロシアでもの、見え見えお手盛り政治と人事をモスクワが知らないわけではないが、プーチンにとって、チェチェンが首尾よく、特別の紛争もなく統治されていることが大切なのだ、そうだ。(2016年のウェブ記事から)
 ベノイ氏族が有名なのも、今はカディロフ家の氏族だからだ。当然現在の首長ラムザン・カディロフの氏族でもある。だからカディロフ家を賛美している前記『ベノイ』というカラー写真入り分厚い本も出版されている。しかし、現代の名家カディロフの他に、ヤマダエフ6兄弟と言う一家もベノイ氏族出身だ。ヤマダエフ家はグデルメスを支配していた。第1次チェチェン戦争では独立派支持だったが、第2次には連邦軍に投降、独立派軍のグデルメス通行を阻止したりした。ヴォストーク部隊と言う特殊任務部隊を作り、連邦軍側に立って戦い、3人までがロシア連邦英雄の称号を得ている。しかし、戦後の2000年代にはアフマト・カディロフと対立し、英雄称号授与の3人(長男、次男、四男)は暗殺されている。
 山奥のベノイ村へ (地図は上記)
ベノイ・村ソヴィエト入り口のアーチ
ベノイ村入り口アーチ
ベノイ村モスク
ベノイ村モスクに続く塀
軍事愛国教育総合施設への入り口案内板
 2時ごろトゥルパルの車ラーダで出発して、いつも通る連邦道を東に向かい、ダゲスタンとの国境近くまで行って南に曲がると、山手に向かって両側に薄く雪の積もった舗装道が伸びている。まだ、クルチャロフ区内の上り坂の道だ。坂道を行くと、アフマト・カディロフとラムザン・カディロフの肖像写真が両側に収められた立派なアーチを通りすぎる。ここからがノジャイ・ユルト区だ。
 チェチェンでも山手のノジャイ・ユルト区の山奥にあるベノイ村は行政中心地ノジャイ・ユルト村(7000人)から23キロ、グローズヌィからだと90キロのところにあり、人口は1200人だ。ベノイ村はノジャイ・ユルト区の中の22の村ソヴィェト(*)の一つで、ベノイ村ソヴィェトの行政中心地で、同ソヴィェト内にはベノイ村を含めて9個の村がある。どれも、標高950メートル付近にある。
   (*)村ソヴィエトは区の下位、村の上位の行政単位。
 
 ベノイ村(ベノイ村ソヴィエト)の入り口には、また立派な門があって上に『ベノイ、ようこそ』と2か国語で書かれ、両脇には馬上の英雄姿のアフマトとラムザン・カディロフの写真がある。アルグーン川方面の村々のアーチより立派なものだった。(肝いりだから)
 ベノイ村に入るとすぐ、1200人の村にあるとは思えない驚くほど華美で雄大なモスクが目立つ。名称は『ベノイ村中央モスク』と言うそうだ。
 金色の丸屋根が3個、高いミナレットが中央の丸屋根を囲んで聳えている。帰国後ヴェブサイトで調べたところ、2018年8月に完成、宗教と政治関係のトップを招いて、この1500人が同時に祈ることのできるモスクの完成式が執り行われたそうだ。モスクに付属して、50人が学ぶことのできるイスラム中等学校、2階建てパーキング(山がちな村の地形を利用して斜面を仕切ってできた)、男女別の洗い場がある。モスクはアフマト・カディロフ公共フォンドからの支給金で建ったそうだ(つまり、出元はモスクワからか)。この10年ばかりのチェチェンの復興ぶりは納得できる。道路やモスクの新築などの資金はほぼ連邦政府から出ている。連邦政府はまた戦争するより安上がりだと見なしているのだろう。公共事業などの受注者は連邦政府の資本家だろうから、よい経済循環になっている。チェチェン政府では公金の多くがトップとその周辺に消えていくと言うが、それでもこれだけ立派なものが年々建てられるのは、よほどモスクワから潤沢な交付金があるのだろうか、と思ってしまう。
(追記) プーチンが補助金をふんだんに出すのはうなずける。しかし、それは連邦政府の税金からだろうから、不公平な税制にあえぐ納税者にとっては苦々しいことだ。先日、モスクワからのロシア人と話す機会があって、チェチェンはかなり立派な外観になって、もしかしてサンクト・ペテルブルクより美しいかもしれないと冗談半分に言ってみた。そのモスクワ人は嫌な顔をしていた。「町中至る所にプーチンの肖像写真があったけど」と付け加えると、そのモスクワ人は「ふん、どれだけお金が流れていると思ってるのよ」と、腹立たしげに言う。
モスク前の道路で
トイレの個室。水道の蛇口と
水差しがついている
手足の洗場
 私達は、この道を、山手に行けるところまで行くことにした。雪が深くなってゆく。ベノイ・村ソヴィエトに属する小さな村がいくつかあるはずだ。が、雪が深く山道なのでこの車では、これ以上は無理だと言うところまで行く。途中にデニギ・ユルト Деньги-Юртという475人の村があり、ここには『多方面にわたる軍事愛国主義青少年総合施設』Многофункциональный воено-патриотический молодежный комплексというのがあるのだ。2017年に開校で定員は200名。職業軍人への準備教育を行うらしい。この看板が道路の曲がり角に立っている。施設内の図も描かれてあった。快適そうな『コの字』型の校舎の前には訓練用の広場があり、後ろにはスポーツ広場がある。500人が観戦できると言うサッカー場もある。この施設はラムザン・カディロフの肝いりらしく、建設中もたびたび視察に来たと言う。施設内には射的場もモスクもある。そのモスクは同時に100人が祈れて、その名もアフマト・カディロフ・モスクと言う。
http://vesti95.ru/2017/10/krupnyj-voenno-patrioticheskij-molod/
 カデットスキィ・コルプス(帝政時代の幼年軍事学校を真似た名称)など、似たような施設はロシア各地にある。エリツィン時代に建てられたものが多い。最近では、ここにあるような『・・・愛国主義..』というような名称で、各地に建てられているらしい。
 私だけがわざわざ車から降りて看板の文字を読みに行った。写真も撮った。トゥルパルとマディーナは車内にとどまっていた。
 元来た道を戻り、ベノイの中央モスクワに入ってみる。まずトイレ。イスラムではトイレット・ペーパーを使わずに水で洗う。水差しが便器の横に置いてあるのが普通だ。手ですくって洗う。ここでは腰掛けるのではなくしゃがむ。水道の蛇口と水差しが、各個室についている。温水洗浄便座があれば便利だろう。マディーナにビデ付き便座・便器があったら便利でしょうと言ったことがある。それは乾燥もできるのか、と聞かれた。乾燥機付きの製品もある。「お、それは便利」とすげなく言っただけ。
 日本ではたいていのトイレは、便座は暖かく、噴水のように出てくるのは温度調節ができる温水であり、ちょうどいい角度で、水流も調節できる、とまでは同行者に解説しなかった。ロシアでは高級ホテルなどに便器の横にビデ付き器が並んでいることもある。出てくるのは水で方向の調節は手動だ。乾燥ができるような形ではない。

 モスクの幾何学模様の美しさは言うまでもない。雪が積もっていたが、モスクワの敷地内を歩いて写真を撮った。
 ベノイ村出口まで来て、来る時に感心したアーチをバックに何枚も写真を撮った。ここには馬上のアフマト・カディロフと、あまり見かけない馬上のラムザン・カディロフの肖像がある。
 チェチェン女性と英雄、主権国家
 帰りの車での対話。チェチェンではいかに女性が大切にされているかと、マディーナは語る。女性は尊敬されている。チェチェンの男性は女性を守るために戦う。もし一人の女性が(ロシア人に)殺されると必ず2人のロシア人が仕返しに殺される。殺人者を、殺された女性の一族が殺す。男性の場合は被殺人数は1対1だ。こうした復讐こそが、犯罪・殺害の抑止になっている、と言う。(現実の世界を見れば、決して抑止にはなっていない)
 チェチェン戦争時、多くの若いチェチェン女性がロシア軍兵士に拉致されレイプされ殺された。それはロシア連邦法で、ほとんど罰せられなかった。ただユーリー・ブダーノフ大佐が17歳の少女を拉致強姦殺害した事件だけは、ロシアや国際マスコミも取り上げた。チェチェン戦争中にロシアの将兵によって行われた強姦・殺人は枚挙の暇もないが、この犯行は、ロシア陸軍の高級将校によって行われ、現実に犯人がロシア刑法によって訴追された数少ない事件として、戦後も注目を集めた。
https://chechen.hatenadiary.org/entry/20110611/1307722387
 ロシア政府は戦後追訴されていたブダーノフを軽犯罪にして釈放しようとしたが、チェチェン人は大反対。プーチンの傀儡のラムザン・カディロフ首長すら、反対のデモを阻止しなかったと言う。2009年に、10年の刑期が6年で放免されたブダーノフは、しかし2011年モスクワ路上で暗殺された。
http://russia.hix05.com/present-3/present301.chechen.html

 マディーナは数年前モスクワで研修をしていた時、ある男性(ロシア人か)に絡まれた。彼女は
「15分だけ時間をあげるわよ」と言った。それは彼女の一族の男性が駆けつけてその男性を痛めつけるところを、逃げ出すための時間だ。モスクワなどで彼女が危ない時(凌辱されるとか)駆けつけてくれる一族の男性は、15人はいると言う。その時、凌辱(?)しようとした男性は、しかし、マディーナの一族の男性につかまり、けがはさせられなかったが厳しく謝罪させられたとか。
 マディーナは、チェチェン女性はいかに誇り高いかと強調する。そのことをチェチェン人は知っているから復讐を恐れなければならないようなことはしない。チェチェン男性も誇り高い。一族の団結は固い。
 チェチェンは主権国家になりたいと思っているか、ともう一度聞く。アフマト・カディロフは実は主権国家を目指していた(と、第2次チェチェン戦争時、チェチェンの地は泥沼化し、過激化する独立派に反対して連邦軍側に立ったチェチェン人たちは信じている。私の知っているチェチェン人の多くはそう思っている)。ではラムザン・カディロフもそうだろうか。マディーナはやや躊躇した後、
「そうだ」と言って「私はそうだと願っている」と付け加える。
「しかし、どうやって、主権国家に?」、民族蜂起は必ず制圧されるし、独立戦争はもはやあまり現実的ではない。
「イスラムで」と、彼女は凛として答える。イスラムで? 19世紀のイマム・シャミールのようにか。それともカスカス首長国連邦のようにか。それとも中東のイスラム国のようにか。私は聞き返さなかった。もう一度よく関連の印刷物やウェブサイトを読んでからだ。
運転のトゥルパル
刑場へひかれるバイサングールを描いた絵。
彼は片目片腕だった。(ヴェブサイトから)

 運転のトゥルパルはずっとこの私とマディーナの会話を黙って聞いていた。言いたそうな場面もあったが、沈黙を守っていた。政治のことは無関心だ、知らないと言うのが彼の持論だから。しかし、時々、マディーナとの対話に口をはさみそうな様子を私は感じた。しかし、彼は沈黙を守ってハンドルを握っていた。私がこんなやや危険な質問(かもしれない)をしたのは運転手がトゥルパルだからだ。旅行会社からの運転手の時はしない。

「チェチェンの歴史の中で尊敬できるのは誰?」と私は聞いた。マディーナは考えている。
「バイサングル・ベノエフスキィは?」と聞いてみる。バイサングルはベノイのバイサングルと言われているし(前記)、たいていのチェチェン人は英雄とみなしているし、彼の伝記のビデオ(最初の部分だけ)も、かつてマディーナは私にSNSで送ってくれたから。しかし、彼女はややためらって、
「いや、彼はアブレーク(山匪)だから」。前記アレクサンドル・デュマの紀行文『カフカース』にも『アブレキー(山匪の複数形)」と言う章もあるくらい、山岳地方ではこのような匪賊が有名で、かつ多かったのか。もちろん『山匪』とはロシア人が軽蔑的に呼んだもので、もともとは、何らかの理由で一族を追われて(去って)匪賊となったチェチェン人だが、そうしたアブレキ―はテレク岸のコサック村を主に襲撃して物品を奪っていたそうだ。ロシア軍基地をも略奪していた。チェチェン側からすれば、アブレキーはカフカース戦争の始まる前、戦争中、戦後の平定後にも活躍して、帝国からの抑圧に反発したパルチザン、ゲリラのようなものだ。
 マディーナによれば、18世紀、侵略ロシア軍と初めて大規模に戦い、勝利を収めたシェイフ・マンスルもアブレークだったそうだ。カフカース戦争のイスラム軍指導者のシャミールがロシア軍に降伏して、カフカース戦争が一応終わった後にもあった多くの蜂起グループの首謀者も、その多くはアブレキーだった。20世紀初めにロシア軍を襲って強奪を繰り返していたので、チェチェンのロビン・フッドと呼ばれていたゼリムハン・ハラチョエフスキィは、最も有名なアブレークだ。 
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