クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 12 July, 2019 (追記:2019年10月9日,12月27日、2020年6月11日、2022年1月17日)
37 - (1) 2019年 コミ共和国とチェチェン共和国 (1)
    スィクティフカル市
        2019年2月18日から3月6日(のうちの2月18日から19日)

Путешествие по республике Коми и Чечне, 2019 года (18.02.2019−06.03.2019)
   ロシア語のカフカスКавказの力点は第2音節にあるのでカフカ―スと聞こえる。英語読みはコーカサスCaucasus

ロシア連邦地図

モスクワとスィクティフカルの直線距離は1005キロ。最短行程で1315キロ。
モスクワとグローズヌィの直線距離は1499キロ。最短行程で1779キロ。
東京(成田)とモスクワの直線距離は約7500キロ。航路では約10,000キロ

  コミ共和国スィクティフカル市へ (地図)
1 2/18-2/19 旅行計画 長い1日 ガリーナさん宅へ 複線型中等教育ギムナジウム
2 2/20 アンジェリカの先祖のコサック コミ文化会館 コミ・ペルム方言 歴史的地名インゲルマンディア
3 2/21-2/22 博物館。蕎麦スプラウト・サラダ 図書館、連邦会議議員 ウードル地方ィヨルトム村へ ィヨルトム着 水洗トイレ付住宅
4 2/23-2/26 クィトシヤス祭り ザハロフ家 そり用滑り台 プロシェーク記者 コミからチェチェンへ

  チェチェン共和国グローズヌィ市へ (地図、チェチェン略史
5 2/26-2/27 グローズヌィ着 マディーナ宅 マディーナと夕べ カディロフ博物館 トゥルパルとテレク川へ アダムと夕食
6 2/28-3/1 グローズヌィ市内見物 野外民俗博ドンディ・ユルト(チェチェン略史 マディーナのオセチア観 アルグーン峡谷へ ヤルディ・マルディの戦い ニハロイ大滝
7 3/1 歴史的なイトゥム・カリ区、今は国境地帯 イトゥム・カリ村 タズビチ・ゲスト・ハウス ハンカラ基地 妹ハーヴァ
8 3/2 ジャルカ村の共和国ナンバー2 グデリメスとクムィク人 カスピ海のダゲスタン ハサヴユルト市 水資源の宝庫スラーク川 ディマも通ったスレーク峡谷
9 3/2-3/3 チルケイスカヤ・ダム湖 新道を通って帰宅 ジェイラフ区には行けない 大氏族ベノイ 山奥のベノイ村 チェチェン女性と英雄、主権国家
10 3/3-3/6 地表から消された村 英雄エルモロフ像 国立図書館 いとこのマリーカ トルストイ・ユルタの豪宅 チェチェン飛行場
ウラル山脈北西のコミ共和国とカフカース山脈北東のチェチェン共和国への旅行計画を立てる
 ウラル山脈北西のコミ共和国へ行くのは2015年が最初で、2016年、2017年と続けて行き、今回で、もう4回目になる。私を招待してくれるのは、今までも今回も、セルゲイ・ガルブノーフさん一家や、ガリーナ・ブティレーヴァさんで、彼らが案内してくれたおかげで、コミ人が昔から住んでいるウードル地方や、白夜祭のあったイジム地方、原始林の残るユギッド・ヴァ自然保護区などを訪れる機会があった。私ばかりが招待され、お世話になるのも気が引ける。交互に行き来すべきだと思って、彼らに日本に来ることを強く勧めていた。ブティレーヴァさんには、
前夜祭『文学の夕べ』のポスター
中央座っているのがプロシャークさん。BKから
「順番と言うものよ。今度はあなたの番ね」と私は言い続けてきたが、
「なにが順番よ。2月に私の故郷のウードル地方ヴァシカ川のィヨルトム Ёртом村で ≪クィトシヤス Кытшъяс≫と言う冬祭りがあるからぜひ来てくださいよ」と言われる。その祭りは、かつてはコミ共和国文化相も務めたソ連邦作家同盟会員のブティレーヴァさんも主催者の一人らしい。断りづらかったので行くことに決めた。
作家同盟会員ガリーナさん。
↑クィトシヤス祭プログラム↓
マディーナさん,WhatsAppから
「あなたが、今度は日本に来るよう直々に説得するためにいきます」と、答えたが、彼女からは
「ふふふ」と言う返事。でも、ィヨルトム村に行ったため新しい知り合いもできた。クィトシヤス祭の前夜祭に『文学の夕べ』と言うのを催す。彼女がその宣伝文句に『カナクラ・タカコ、日本からの来訪者。サイマ・ゴルデエヴァСайма Гордеева、エストニアからの来訪者。リュドミラ・プロシァークЛюдмила Прошак、モスクワのジャーナリスト。パーヴェル・リメロフПавел Лимеров『アルト』誌の編集…』などと書いたため、かもしれない。

 カフカース山脈東北のチェチェン共和国へは3回目となる。1度目はチェチェン共和国に近い同じく北カフカースの北オセチア=アラニア共和国のウラジカフカース市から、日帰りでグローズヌィ市へ行った。その時は、通りにチェチェン共和国トップの故アフマト・カディロフやその息子ラムザン・カディロフ、プーチンの肖像写真の多いのにただただ驚いた。また2度目もウラジカフカースから1泊で訪れ、チェチェンの名所はそこそこに見たが、もう一度ロシアへ行くなら、ぜひともチェチェンへ行きたいと思っていたのだ。チェチェン人とチェチェンについて話したい。マディーナと言う新たに知り合いになった若い女性も招待してくれている。2月と言う山国チェチェンの観光にはあまり適した時期ではなかったが、『クィトシヤス祭』に合わせてコミに1週間、チェチェンに1週間と決めた。往き帰りの行程も含めて17日間となる。
 チェチェンは1990年代から2000年代初めにかけて戦場だった。ロシア連邦からの独立戦争であったはずだ。その頃私はクラスノヤルスクにいて、ロシア人の知人たちがチェチェンはマフィア・ギャングの国、悪の国だと言うのを聞いていた。聞き返すとトップだけが悪だと言うのだが、おおむね国全体が悪とみなしているようだった。みんな口をそろえてテレビのニュースと解説通りのことを言うので嫌悪感(つまり、本当かなと思うこと)を覚えていた。一斉に非難されるチェチェンに味方したかった。(『判官ひいき』とかいう傾向だ)。私は、1994年から1996年は日本にいた。その時、日本に招待された5人のロシア人を案内していたことがあった。5人のうち4人はロシア人風の容貌で亜麻色の髪の男女だったが、一人だけが黒い髪、黒い目の女性だった。ほかの4人が冗談に言うには、その女性は黒髪だからチェチェン人と疑われて出入国ゲートを通るのにかなり時間がかかったとか。

 ウラル山脈北西のコミ共和国首都のスィクティフカル市とカフカース山脈北麓のチェチェン共和国首都のグローズヌィ市は、ついでと言うにはかなり離れている。日本からロシアへの直行便と言えばモスクワか、ウラジオストックか、またはハバロフスクの他はない。ウラジオストックやハバロフスクからはスィクティフカルやグローズヌィへは直行便はない。だから成田からモスクワに飛び、そこからスィクティフカル。スィクティフカルからモスクワに戻り、そこからグローズヌィへ。グローズヌィからまたモスクワに戻り、そこから成田へと言う行程にした。グローズヌィ空港へは、首都の他、中東や近辺からは何本か飛んでいるようだが、ロシア国内のシベリアや極東からは、直行便はないからだ(ウラルのイスラム系の都市からならある)。
 クィトシヤス祭は2月23日(土)と24日(日)にあるという。その後にグローズヌィに行くか、その前に行くかで、念のため、前回と前々回にグローズヌィを案内してもらったマゴメド・ザクリエフさんに連絡してみると、2月後半なら都合つくかもと言う返事。(結局、彼にはそれほど私には時間を割いてはもらわなかったが)。
 それで出発は2月18日ごろ、まずはコミへと決めて飛行機を調べてみた。
国際便では;
・往は、2月18日(月)13時20分成田発、同日17時35分モスクワ・シェレメチエヴォ空港着。
・復は、3月5日(火)19時55分モスクワ・シェレメチエヴォ空港発、翌日11時20分成田着。アエロフロート航空便、往復73,644ルーブル(130,163円、手荷物は23キロまで2個含む)
ロシア国内便では;
・2月18日23時00分モスクワ・シェレメチエヴォ空港発、翌日01時00分スィクティフカル着。アエロフロート航空便、5338ルーブル(9281円、手荷物23キロまで1個を含む)
・2月26日06時20分、スィクティフカル発、同日08時20分、モスクワ・ヴヌコヴォ空港着
・同日10時40分ヴヌコヴォ空港発、同日13時10分グローズヌィ着。スィクティフカルからグローズヌィまでトランジットでユーティ・エアー航空便、手荷物を含まない料金。機内持ち込み10キロまで無料。5801ルーブル(購入したのは12月だったが、その後2月の搭乗からは機内持ち込み5キロまでとなり、それ以上は追加料金がかかる。搭乗時に空港で支払うよりあらかじめウェブサイトで購入しておいた方が割安だとか。それで20キロまでの手荷物料金を追加注文すると、その分が5499ルーブル(9293円)だった。(安い運賃設定は手荷物代でもうけるためだ)
・3月5日12時55分グローズヌィ発、同日15時45分モスクワ・シェレメチエヴォ空港着 アエロフロート航空・5882ルーブル(手荷物23キロまで1個を含む)。
 はじめに購入したコミからモスクワ、グローズヌィ、モスクワの航空券が11,683ルーブル(20,288円)だった。つまり、ロシア国内便は合計38,862円で、飛行機の全チケット代は合計169,025円だった。

 この日程であれば、早起きして成田に到着すれば、その日のうちに(日本時間にすれば翌日だ。西周りに航空するので時間が伸びる。下記)コミのスィクティフカルまでたどりつける。1週間後の、スィクティフカルからグローズヌィまでも、モスクワでのちょうどよい乗り換え時間だ。3回の乗り換えは同じ空港ですむ。特に、モスクワは3つの空港が互いに離れていて電車などで直通移動はできないが、乗り換えが同じ空港なら、迷子になることはない。
 これは『オゾンOZON』と言うモスクワにある旅行会社で調べた日程と値段だ。ほかの会社も調べてみればよかったのだが、後でわかったことは、このチケットはかなり高い。特にモスクワ成田が、23キロまでの手荷物2個と言うチケットなので高くついたのだろう。出発の直前(購入の後)、日本語のサイトを開いてみたが、1万円ほど差があった。
 また1日目はその日のうちに自宅からスィクティフカルまでたどり着けると言っても、早朝5時に家を出て、新幹線に乗り東京で乗り換え、余裕をもって成田着、余裕をもってシェレメチエフで乗り換え、深夜1時着では、実際では、6時間の時差があって、26時間もかかっている。この初日のきつい行程での疲れが、数日は取れなかった。成田で前泊すればよかった。
 グローズヌィもカードは使えるだろうが、6万ルーブルを9万5千円で滑川に来ているスラーヴァに両替してもらった(2019年1月初めはルーブルの値がその前後に比べて低かった)。しかし、あまり現金を使う機会がなくて、帰りのシェレメチエフ空港の銀行で41,990ルーブルを552ドルに両替した。それを日本で円に換えると59,588円となる。つまり現金は35,412円費やした。これに新幹線と成田エクスプレスの往復チケット代、駅から自宅までのタクシー代(片道約2300円)、向こうへのお土産代約1万円。飛行機のチケット代と合わせて約25万円が今回の旅費。
 長い1日だった
 2月18日(月)。18日早朝5時15分に自宅を出て金沢駅へ(乗り降りを入れても20分しかかからないが、余裕をもって出る。ここで乗り遅れると、スィクティフカルまで買いなおしと言うことになるかもしれないから)。6時発の新幹線で8時半ごろ東京駅着。成田エクスプレスで10時前に成田空港着。格安のバスなど利用すれば、もっと安価に行きつけるだろうが、17キロのスーツケースをあまり引きずりたくないので、楽な行程にした。アエロフロート航空は前日にウェブサイトで搭乗手続きと座席指定はしてあったが、一応3時間も前に到着したわけだ。カウンターでの手続きは始まっていて、1万円ほど追加でちょっと良い席に移動できると言われた。ちょっと広くてちょっと食事がいいそうだ。試してみてもよかったが、倹約。
 2月にロシアへ行く乗客も少ないだろう、機内は空席も多いに違いないと思っていたが、アエロフロートは団体客にチケットを安売りしていたのか、モスクワ経由でヨーロッパへ行く乗客で満席だった。30万円弱でヨーロッパの3都市ぐらいを1週間ほど回るという数グルーが乗っていた。私は飛行機に乗るときは、後方3列目くらいの通路側と決めている。横10列もあり、3席、4席、3席とある場合は、真ん中の4席の通路側がいつも私の席だ。ウェブサイトで席をとるときは、たいていこんな席はまだ空いている。団体客は自由に席を選べないらしい。
 この便も団体日本人客で埋っていた。団体でもペアで参加が多いので、4人席で私が通路側をとっていると、私の隣はペアではない一人旅が来る。団体の一人旅のときもあるが、この時は、個人の旅人らしく、卒業旅行でヨーロッパをユーレイパスで回ると言う女性だった。スペインから始めるそうだ。このような旅のスタイルをとる若い女性も珍しくない。私のスタイルとは異なる。4人席の真ん中の席で10時間の飛行と言うのは、いくら若くても疲れるだろう。私のように出発時刻24時間前からのオンライン・チェック・インをしなくて、空港での搭乗手続きの時、空いている席に割り当てられたのだろうか。
 出発24時間前からウェブサイトで搭乗手続きと座席指定ができるためには、予約番号コードが必要だ。それはチケット購入の時の確認メールに記されている。出発の数日前に航空会社から「あなたの便の出発は…」と言うロシア語(英語にも変換できる)のメールが届く。そこにも記されている。そのメールの文中のオンライン・チェック・インと言うボタンをクリップしてもいいし、航空会社のサイトへ行って、オンライン・チェック・インと言うボタンを押してもいい(アエロフロートは日本語版もある)。このやり方は、2016年サンクト・ペテルブルクの双子の姉妹に教えてもらったのだ。
 成田から乗った飛行機は古い機体らしくて前の座席裏についているテレビのスイッチが甘い。ロシア人機内乗務員がやり方を教えてくれた。児童番組が見たいのだがと言って驚かれた。ロシア語字幕か英語しかない。ほかのどの番組を選んでも古くて退屈なもので、この便では、以前にはなかった機内用スリッパがあることだけがよかった。
 シェレメチエヴォ空港に着いてみんな(日本人団体客)の行く方に行くと、添乗員さんらしい女性からいやな顔をされた。自分たちのグループに知らない顔が混ざるのを嫌がったのか。出口に向かって長い列があった。私がついたために一人分が長くなったからか、どうか、その女性から「ここは国際トランジットですよ」と言われた。慌てて列から出て、職員の人に、国内トランジットはどこかと聞いた。指さされた方へ行くと手荷物受取ホール。いくつものターンテーブルを見てまわり、電光掲示板を探してもNARITAがない。そのうち出てくるかと待ったが、成田から乗ったはずの日本人らしい客は一人も見当たらない。もしかしてシェレメチエヴォ空港国内線トランジット客は私一人(または2,3人)だったのか。手荷物捜索窓口へ行って「Narita」と言っただけでターンテーブルの番号を教えてくれた。全く反対側にあって、もう私のスーツケースは降ろされていた。国内トランジットの出口はどこか、ターンテーブル近くにいた日本人らしい乗客に尋ねてみると、彼女は親切に教えてくれたが、ヴェトナム人だった。
 教えられた出口へ行くと、職員が立っていて、どこからか、と尋ねる。成田と答えると、こっちだと、ひと気のない方を指される。そこは通関で、レントゲンがあったが、そのまま通過。すぐ、入国検査窓口があり、私の他はだれもいなかった。国際トランジットは満員なのに。
 入国検査窓口を出るとすぐ国内便の搭乗窓口があって、空いているのは2つだけ。順番もなく、私がスーツケースを秤に乗せた方の窓口女性は私が来たことで喜んでいるようにすら見えた。スィクティフカルまでたった2時間なのでウェブサイト予約はしてなかった(と言うより、長時間の移動中なので24時間前以降にはできなかった)。通路側にしてくださいと言うと「いいですよ。一番前の席をとってあげますね」と言われた。
 次はどの方向へ行けばいいか。左のドアから出てくださいと言われたが、そのドアは開かなかった。困って戻ってみると、男性職員がドアの開け方を教えてくれた。外側から入れないようになっているらしかった。それにしても、外国から来た国内トランジット客はよほど少ないのか。(ちなみに帰りの便もそうだった、国際便でモスクワまで来て、モスクワを見ないで地方へ行く旅行者も少ないからだろうか)。
 ドアを出て、『ターミナルB』と矢印の方へ行くとやっと歩いている人々に出会った。かなりの距離を歩いた。電車にも乗った。ターミナルBは広々していて、搭乗窓口のあるホールも成田よりずっとわかりやすい。床が光っている。モスクワやサンクト・ペテルブルクはロシアではないと言われるのももっともだ。
シェレメチエヴォ空港ターミナルB

 ここのぴかぴかの搭乗窓口にも、幸いもう用はない。見ると、ホールの椅子群とはちょっと離れて、横になれる椅子が数脚ある。空き席もあったので、ここでまどろんだ。シェレメチエヴォ空港での国際便ターミナルDから国内便ターミナルBへの乗り換えは最低で1時間半とウェブサイトにはあるが、順番がなければ、ゆっくり歩いても20分もあれば間に合う。この時は5時間もあった。間に合うかとひやひやするより、うんざりするほど待った方がまだいい。うんざりするほど待つ間に、近くの売店で絵ハガキを3枚買った。1枚が75ルーブルなんて、安くない。

 一番前の通路側をとってもらったスィクティフカル行きのアエロフロート便は、空席が多いのかと思っていたら一番前の6席以外は満席だった。空いている窓際席に行って、モスクワから離れ北東へ向かう機内から地上の明かりを眺めることができた。23時発で01時着とあるが、実際に空中にいる時間はほぼ1時間。モスクワの明かりが遠ざかり、それより小さいいくつかの光の塊の上を飛んでいった。この日は快晴だったに違いない。この辺は、シベリアほど町々が離れていない。光の塊と隣の光の塊の間には黒い大きな地面があって、森かもしれない、または北ロシアに多い湖沼かも知れないと見つめていたが、耕地かもしれない。
 機内食の小さなサンドイッチと丸ごとの小さなリンゴが出た。やがて高度が下がってくると、今まで下に見えてきたような光の塊が前方に見えだす。スィクティフカルに到着だ。ターミナルビルに入ると、セルゲイ・ガルブノーフさんが待っていてくれた。ちょうど間に合ったとのこと。空港から彼のマンションまではこの時間では5分で行ける。
 12月に交わしたガリーナ・ブティレーヴァさんとのメールでは、『私の家で泊まってください』と言われていた。空港まで迎えに来てくれるようセルゲイ・ガルブノーフさんにも知らせてあった。出発の数日前、ガリーナ・ブティレーヴァさんから、『古いフィン人の友達のサイムがエストニアからくることになった。彼女は自分の所に泊まる。しかし、自分の家は余裕があるから2人の客を泊めることができる。二部屋あって居間の方にはあなたが、寝室は自分とサイマがつかうから。またはセルゲイ・ガルブノーフさん宅で泊まってもいい。お好きなように』とあった。フィン系エストニア人とお知り合いになれるなんて、今回も幸運だ。
 空港で迎えてくれたセルゲイ・ガルブノーフさんは、もう決まったことのように自分宅へ行こうといった。その方が、寝室が2つあって広い。二つ目の寝室は、もともと娘のカーチャの部屋で、彼女がサンクト・ペテルブルクに去った後は、寝たきりになったセルゲイさんの母クララの病室だった。数年前にクララさんもなくなり、セルゲイさんがパソコンを使う部屋になっているようだ。いつも私はその予備寝室に泊まる。
 アンジェリカさんがベッドも作ってくれていた。彼女は寝巻のまま起きてきて、どうぞと言ってすぐ寝室へ。夜中の2時近い時刻だったからだ。セルゲイ・ガルブノーフさんがお茶か夜食はいかが、と言ってくれたが、私は、用意されていた寝床に倒れこんだ。日本時間では朝の8時ではないか。27時間前に家を出て、ほぼ休んではいない。
 ガリーナさん宅へ
朝起きてセルゲイさん宅の窓から
セルゲイさん宅のLDK
 2月19日(火)。9時(モスクワ時間で、コミも同じ))に目覚めたので、朝食後セルゲイさんがガリーナ・ブティレーフさん宅に送ってくれた。彼女のマンションは5階なのにエレベーターがない。建築法(?)では5階以上はエレベーターをつけることになっているが、施工者が、エレベーター設置費を抑えて6階までにして、1階分のマンションを儲けた(?)とか。前回はガリーナさん宅に宿泊したが、台所の排水管工事が始まったため、私はセルゲイ・ガルブノーフさん宅に引き上げた。1年半後の今、もちろん修理は終わっている。それも、久しぶりで会ったガリーナ・ブティレーヴァさんとの話題の一つとなる。
 居間に落ち着いて、まずは、注文のお土産を渡す。出発前、「何を日本から持って行きましょうか」と尋ねたところ、馬か魚と返事があった。彼女は色々なもののコレクションをしている。博物館のウインドウのように並べている。今回、展示物が少し減っていた。処分しているのだろう。彼女は、このような小物はスーツケースにも入り、手ごろな値段で簡単に手に入るだろう、と思ったから馬、または、魚と返事をしたのだそうだ。私は出発前アマゾンで探して用意した。成田空港お土産店で買った錦鯉のマグネットも加えて、アマゾンでそろえた木製魚やプラスチックの馬をわたす。
 スィクティフカル訪問の私の目的の一つ、つまり、出発前にも彼女に書いた日本へのお誘いの件は、うまくいかなかった。ガリーナ・ブティレーヴァさんは、去年、日本旅行の予定はしていたが、心臓手術を受けることになり、断念したそうだ。健康そうに見えて、5階までの階段で私より楽に上り下りしていそうだが、やはり遠い日本へは行けないと言う。しかし、こうやって一人日本からやってきた私も、最近、硝子体の手術を3回うけたなどと言う話を眼球の解剖図を描きながら説明したが、よくわかってもらえなかったかもしれない。保険診療をしないモスクワの先進医療の私立病院で手術すると日本での保険外診療よりやや安いかもしれないが、医療水準はわからない。ロシアでは医療費は医療技術や医薬品の質を問わなければ無料。都会のロシア人は無料のソ連式病院には行きたくないと言っている。田舎では選択の余地がない。有料の私立の医院の治療費などのプライスリストはとても細かい。

 今回の予定も教えてもらう。この日は18時にギムナジウムの演劇科の発表会があるそうだ。
20日は『アルト』誌編集部や同じ建物のフィン語系民族友好協会を訪ねる。夕方には鉄道でサイマが来る。
21日(木)3人で博物館などへ行く。
22日(金)お昼近くにクィトシヤス祭会場のあるウードル地方ィヨルトム村に出発する。
23日(土)と24日(日)はクィトシヤス祭に参加。夕方スィクティフカルへ戻る。
25日(月)は予備日。
各地からのお土産品が飾ってある部屋で。
SNSの更新中のガリーナさん

 こうしてクィトシヤス祭の日以外にも私が退屈しないような予定を立ててくれたわけだ。
 前もって、ガリーナさんは私の服装のことを心配してくれていた。コミのスィクティフカルはモスクワより寒いが、ウードル地方はもっと寒い。もちろん屋内に入って暖まることもできるがスキー大会は外の雪上でやる。だから、私にこの外套はどうかと、重くてダブダブの外套を試着させてくれた。長靴も、ヴァーレンキ(フェルト長靴)を用意すると言ってくれた。(しかし、ロシアの伝統長靴ヴァーレンキではなくて、普通の分厚い靴が用意され、外套はアンジェリカさんが着なくなったミンクのコートと襟巻などを貸してくれた)
 午後からは、モスクワの空港で買った絵葉書に便りを書いて、郵便局に出しに行った。日本宛ての葉書はたとえ航空便でも、私が帰国してから宛名人に届いたりしないよう早めに出す。
 複線型中等教育機関ギムナジウム Гимназия
 5時過ぎには『スピリドノフ名称コミ共和国首長付属芸術ギムナジウム Гимназия искусств при Главе Республики Коми≫ имени Ю.А.Спиридонова』と言うところに行く。ギムナジウムとはヨーロッパ型複線中等教育機関らしい。ヨーロッパ文化を(あこがれて)取り入れていた帝政時代に貴族の子弟用にラテン語や古典ギリシャ語などの科目のある中等学校として創設されたが、ソ連時代には廃止されていた。復活したのはソ連崩壊直前のペレストロイカの頃だが、それこそ各地にできたのはソ連崩壊後の90年代で、もちろん貴族階級ではなく、中流以上の家庭の子女が(有料で)学んでいる。ギムナジウムは高等教育への進学準備を目指し、主に8年制の中等教育機関でエリート学校と言える。スィクティフカル市には5校ほどあって、文学、外国語などに特化している。このギムナジウムは芸術に特化しているようだ。コミ文化に特化したギムナジウムもある。この芸術ギムナジウムはそれまであった前身を改革して、1995年初代コミ共和国首長のスピリドノフが設置し、自分の名前を付けたそうだ。
ロビーで
手のひらに日の丸を
ユルコフスキィ氏とガリーナさん
舞台で記念写真(3列向かって左3が私)
 他に物理・数学に特化したリツェー(リセー)と言うこれも複線型中等教育機関もある。(そういえば、2015年ウードル地方メゼニ川沿いのパトラコーヴァ村に行った時のゲスト・ハウスの女主人の孫のアンドレイも、そのリツェーを出てモスクワ大学物理数学部で学んでいる)。リツェーやギムナジウムはコミ共和国では首都のスィクティフカルにしかなく、全共和国から(優秀な)生徒が集まり寄宿舎で過ごす。また普通教育学校(初等から始める11年制)にも特別にギムナジウム・クラスと言うものがあって、こちらも何かの科目に特化している。
 共和国内各地から音楽、美術、舞踏、演劇に才能のある生徒が学んでいると言うこの芸術ギムナジウムには、学校付属の劇場もある。5時過ぎに着いたのは劇場横ロビー(そこもミニ劇場になる)で、芸術学校らしくローマ風衣装を着た男子生徒やロココ風衣装の女子生徒がふらふらと歩いて雰囲気を盛り上げていた。中2階には仮面舞踏会のような衣装の生徒がゆるゆると歩いているという念の入れようだ。 
 ロビー(ホール)の片隅にテーブルがあって、顔や手に絵の具で絵をかきますと言う。それも衣装を着た女生徒が愛想よく来場者を誘っている。ガリーナさんが
「この人は日本から来たのよ。あなたたち、日本の国旗を知ってる?」と同伴者(私)の宣伝をしている。みんな一斉に私の顔を見る。きまり悪いものだ。
「知ってるわよ」と言うので、手のひらに描いてもらった(日の丸には抵抗がないわけではないが)。まずは白い長四角から書き始める。縦横比もそれなりだ。女の子が日の丸を書き終わると、ガリーナさんが、私に、
「じゃ、『人』と言う漢字を書いてほしい」と言うので、2画の『人』をガリーナさんの手のひらにていねいに書いてあげる。
 子供たちが増えてくる。この学校の俳優部門以外の生徒だそうだ。たぶん出演する子供たちの親も隅に立っている。学校関係者が来て、ガリーナさんに挨拶している。校長なのか、演劇部門の教育トップなのか、客員監督なのかわからない。その一人がユルコフスキィ Юрковский Владимир Ивановичだと、後でわかる。(帰国後、ガリーナさんに尋ねた)。彼は声楽家で、コミ共和国立オペラ・バレエ劇所のソリストだった。2009年から2011年まではコミ共和国文化相でもあった。(ガリーナさんは1986年から、副文化相やコミ民族省など歴任し、1995−1999年はコミ共和国副首長でもあった)
 学校の建物の、学校付属劇場のロビー、あるいは休憩室、あるいは小舞台のあるロビーに私たちは集まっていたのだ。初め、私はこの小舞台で生徒たちが演じるのかと思っていた。が、ドアの向こうには座席数も多い立派な劇場があり、私とガリーナさんの席は最も見やすい真ん中にあった。次第に全席が埋まっていく。ガリーナさんは3席の招待券を持っていたらしく、隅の席に座っていた先ほどの知り合いユルコフスキィ氏を呼び寄せていた。会場には地元テレビ局からも来ていた。
 舞台も本格的で、ロシア地方都市の一般劇場より立派かもしれない。演劇は、たぶん特別のストーリーはなく、踊りも含めてスピーディに場面が入れ替わり、1時間余、一気に演じられた。日本の高校の演劇クラブに比べても、町の劇団に比べても、豪華で見事。ロシア地方都市の青年劇場に比べても演出は上、のように思えた。
 終わると舞台で写真を撮っている。招かれて私も舞台に上がった。50人か60人ほどの生徒に交じって3列目は大人。つまり関係者や、ガリーナさんの知り合い・同伴者たちが10人並んでいる。
 来る時はわざわざバスできたが、帰りはガリーナさん知り合いの男性の車に乗せてもらって、セルゲイ・ガルブノーフさん宅に送ってもらう。
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