クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date  16 January, 2018  (追記・校正:2018年3月21日、9月14日、2019年12月19日、2021年12月30日)
35-1 (5)   モスクワから北ロシアのコミ共和国(5)
       スィクティフカル市と近郊
 2017年6月25日から7月9日(
のうちの7月5日から7月9日)

Путешествие по Коми через москву, 2017 года (25.6.2017−09.7.2017)

      モスクワからコミ共和国 (6月25から月9日)
1 6/25-6/26 準備(地図) 成田発モスクワ着 モスクワ郊外の団地 バシュキール人ヤミーリャさん(地図) モスクワ国民経済達成博物館
2 6/27-6/29 コミ共和国ガリーナさん宅(地図) スィクティフカル市を回る ニュヴィチムの溢流口 児童文学者ガボヴァ
3 6/30-7/1 北のイジマ村へ(地図) イジマ村着 ルド祭り 対岸のイジャフスク村(地図) 夜中の日の出
4 7/2-7/4 イジマ川に沿って イジマ7大奇景の大石 旧強制収容所のインタ市 ナショナル・ギャラリー
5 7/5-7/9 児童図書館・歴史博物館 アルテェエフさんのダーチャ ゲーティド団地 鍛冶屋祭 スィクティフカル発
      カフカース(コーカサス)からモスクワ (7月9日から7月26日)
 児童図書館、歴史博物館
児童図書館のお話の部屋、館長さんと
 書庫にあった本。コミ共和国内収容所の記録
その1ページ
2はエストニアからの「殉教者」名簿
 7月5日(水)。ガリーナさんのマンションで、ガリーナさんが住む縦列に1階から最上階まで新しい水道管を取り付けるという大工事が、この日に当たってしまっていた。そのためには台所の流し台も、どかさなけれなならない、つまり切り取らなければならない。それで、工事の埃に巻き込まれないように、セルゲイさん宅へ移ったらいいと言われた。
 朝から荷物を持ってセルゲイさん宅へ移動し、この日はセルゲイさんの案内で過ごすことになった。
 児童図書館はセルゲイさん宅の隣の建物だ。こちらも建築記念物になっている重厚な20世紀初めの大商人カムバロフ Камбаловの館だった。今はマルシャーク名称共和国立児童図書館と言う。マルシャークはロシアの子供ならみんな知っている児童文学作家で、彼の童話は韻文で書いてあるので、読み聞かせるのも、文字がよく読めない子供が韻文なので覚えてしまって自分で読んでるつもりで音読するのもいい。この日は休館だったが、職員はいる。ガリーナさんからも連絡はいっている。
 セルゲイさんと入ってみると保育園か幼稚園のように、童話や昔話の楽しい切り絵が貼ってある。年齢に応じた読書室もある。プーシキンの童話の登場人物やおとぎ話の動物でいっぱいの部屋もある。館長マリーナ・クルグロヴァ Марина Кругловаさんはとても愛想がよく、だから美人にも見えた。
 児童図書館ではあるが、別棟に最近出来上がったと言う全体が金庫のような書庫があった。もちろん、ここは20世紀初めの大商人の館の一部ではない。館長によると、予算でこのような頑丈な書庫がやっと別棟に建てられたとのこと。ここにはソ連時代からの色褪せた児童雑誌などが保管されている。
 ふと別の本棚を見ると、黒のバックに鉄条網が描かれた表紙の分厚い本が並んでいる、1冊を手に取ってみるとそれは「懺悔 покаяние、公式殉教者名簿録 мартиролог」とある。開いてみると、ウフタ・ペチョーラ収容所(その収容所から、のちにコミ全体を網羅するようないくつもの支部ができる)に収容された囚人の名簿だった。粛正の犠牲者を殉教者と言う連想は当たっているのかどうかわからない。アルファベット順に名前が並び、どこで生まれ、どんな罪状で、どこでどう裁かれ、どこの監獄または収容所から送られてきて(囚人はかなり頻繁に移管させられていたらしい)、いつ釈放されたか、銃殺されたか。またはいつ没したかが書かれている。釈放されても、元の場所へは戻れない。都会から100キロ以内には住めない。30年代後半、特に1938年では多くの囚人は到着後数ヶ月で死んでいる。収容者が後に書いた手記もある。罪状は刑法58条の『反革命』罪で処罰規定は18項あった。故国への裏切り罪、武装蜂起(準備)罪。外国との接触、外国への傾倒、国営企業への害やサボタージュなどなどだ。共和国立児童図書館の書庫には児童図書関係ばかりではなく、共和国全体の保存書類が保管されているのだろう。
 館長さんから図書館のパンフをもらう。こちらは児童図書館の活動がカラー写真で印刷されている。
ルィトキンの言語学著書の初版本

 続いて市の中心の大学内にある『コミ地方啓蒙歴史博物館』へ行く。フィン・ウゴル系の異教徒をロシア正教と文化で啓蒙したと言う展示物でもあるのかと思ったが、そうでもない。国立歴史博物館と、大学内の考古学博物館、この啓蒙歴史博物館は、それぞれそれなりにテーマが別で、住み分けがなされているのだろうか。と言うより、ここは大学(教官)博物館で、なされてきた研究や研究者たちのポートレートが展示してある。
 その中にルィトキンЛыткинと言う20世紀半ばのコミ人学者の著書『古ペルム語』の初版本があった。周りに鉄条網があるので帰国後調べてみると、ルィトキンは1933年逮捕されて強制収容所に送られている。作家でもあり詩人でもあった。(当時、フィン・ウゴル語系の研究者は分離主義者・反ソ連インテリであると弾圧されていたのか)
 ガラスケースの中には考古学調査発見物もある。ブルルィキーナ Бурлыкина Майяと言う館長さんが顔を出してくれて、セルゲイさんに説明している。彼女は文化学博士で教授だ。
 4時前に去る。ちなみに去年、考古学博物館を案内してくれたエレオノーラ・サヴェリエヴァ Савельева Элеонора Анатольевна 教授は、ガリーナさんが電話をしてくれたが、入院中だと言う。
 アルテェエフさんの別荘
アンヌ・リーザさんの学習机
アルテェエフさん宅の居間
 7月6日(木)。コミ滞在10日間は長すぎたかと思っていた。だがこの日は『レスブリカ』誌記者のアルチュール・アルテェエフさんが自分のダーチャに招待してくれている。(レスプリカは共和国という意味。同誌はコミ共和国御用誌らしい)
 10時ごろ、セルゲイさんにアルテェエフさんの新聞社前まで送ってもらう。10時過ぎにはアルテェエフさんの車に乗って、彼のアパートまでいく。セルゲイさんやガリーナさんたちはコミ歴史記念建築物も多い市の中心に住んでいるが、アルテェエフさんのアパートは、ロシアのどの中程度の都市にでもあるようなあまり整備されていない郊外ベッド・タウンにあった。彼の妻ナターシャさんは医師、長女アンヌ・リーザは中学生で日本のアニメのファン、息子のアルチュールは10歳だ。
 子供部屋では、アンヌ・リーザ好みのアニメが自分の机の周り一面に貼ってあった。サスケやナルトだ。彼女自身はそんな年ごろなので、私を見るなりどこかへ行ってしまう。案内されたアルテェエフ宅の居間は部屋の3分の1が本で埋まっていた。本箱に入りきらないので、本箱の前に幾重にも積み重ねてある。これでは目的の本がどこにあるか覚えていても、手に取る前に大量の本をどかさなければならない。地震で本が崩れ落ちてくれば、文字通り本に埋まる。アルテェエフさんはいったん買った本は決して処分しない人なのだ。私もだが、彼のアパートの方が狭く居住人数が多いから、こうして平地に積み上げることになる。
 彼のダーチャはモーロヴァ Морово村にある(地図)。途中に食料品店でバーベキューの材料など買って、着いたのは11時ごろだ。もともとモーロヴォは普通の村(しかし定住者は数人)だったが、ソ連時代後期、村の近くにダーチャ団地ができた。ダーチャ組合がいくつかあって、アルテェエフさんのダーチャはレソヴィック Лесовик組合(*)だ。会費も払うのかな(*)。国道のモーロヴォ村の入り口にもバス停はあり、モーロヴォ・ダーチャ村の中央の曲がり角にもバス停がある。
 ダーチャ団地の諸組合 帰国後モーロヴォ・ダーチャ不動産サイトを開いてみた。レソヴィクやコスモス、ルーチなどと言った地区ごとの組合が9個あってそれぞれの組合で数十軒のダーチャを管理しているのだろう。レソヴィックは国道に一番近い。ちなみにその不動産サイトでは、レソヴィックの隣のコスモス組合の5アールのダーチャが530 000ルーブル、約110万円で売り出されていた。

 アルテェエフさんのダーチャ面積は広くはない。5アールで縦横は20メートルと25メートルだそうだ。たぶん典型的な農作業小屋つき菜園だと思う。農作業小屋と言っても、古い家具があり、夏場ならなんとか宿泊もでき、食事もできる。だからダーチャだ。2階もあるが物置。2階からは屋根へも出られる。小屋根に立って外を眺めるなんて何年ぶりだろう。落ちないように。
小屋根に出られる家と菜園
シャシリクの準備
SMSで送られてきた記事をパソコンにだした

 アルテェエフさんが建てたのではなく、3,4年前に購入したので、前の持ち主のものも雑然と積んであった。急いで捨てることはない、いつか役に立つかもしれない(ロシアではどこもごみは無料)。菜園は、アルテェエフさんとナターシャさんの努力で、整然として、収穫も容易そうだった。畔にはチップが撒かれている。雑草が生えなくていいな。(そのチップをどこで買ったかも教えてくれた)。畑の半分はジャガイモだ。他にビーツ、ネギ、ウイキョウ、ニンニク、レタス、カボチャ、大豆などが植えられていた。だいたい農業には向かない寒い気候なので、緑の季節は短い。トマトやキュウリなどはハウスでないと育たない。じゃがいもは私も自宅の菜園に植えているが、6月末この旅行に出発する前に収穫してきた、と言ったら、彼は後の記事にそのことを書いていた(下記)。ここでは、じゃがいもなど収穫は9月だ。
 バーベキューでごちそうしてくれた。来るとき、バーべキュー(シャシリク、串焼き)用味付け肉を買ってきたのだ。バーべキューは都会のマンションのキッチンではできないから、ダーチャの楽しみの一つだ。
 ダーチャ村を散歩する。ダーチャのある森はキルティミユ Кылтымъю(37キロ)というスィソラ川の小さな支流の合流点近くにあり、この川で泳ぐこともあると言う。泳げるような温かい水温になるのはきっと夏場でも数日だろうか。冷たそうな川が水草の間を流れていた。
 アルテェエフさんのダーチャにはトイレがないので(ナターシャさんが「うちのお父さんはトイレをまだ作ってくれない」と言う)、空き家の隣家の半壊でドアなしのトイレ小屋を利用する。このダーチャにはトイレはないが蒸し風呂小屋はある。ナターシャさんは自宅のシャワーがいいからと入らなかった。10歳のアルチュームもパス。都会のアパートではできない蒸し風呂に入らないなんて。アルテェエフさんはきっと私をもてなすために特別に焚いてくれたのだ。
 彼のダーチャがモーロヴォ村にあるのは偶然ではない。もとの自分のダーチャも(今の)両親のダーチャも、この辺にあるからだ。彼の父親ボリス・アルテェエフさんのダーチャにも行く。それはレソヴィック組合から道路を挟んで隣の隣のルーチ組合管理下にある。ボリスさんは畑仕事中だった。写真を撮る。と言うのも彼のダーチャに軍服(制服)が保存されていたからだ。男性は兵役があって軍服が支給される。あるいは国防関係に勤務していると制服が支給される。その外套は重くてかさばるが、不要になっても使用に耐えそうだ。捨てずにしまっておく人もいるが、しまい場所はたいていダーチャだ。都会のマンションのクローゼットは狭すぎる。と言うわけで、私は試着したばかりではなく、イミテーションの自動小銃まで持って写真を撮ってもらった(満足そうな顔で撮らされた)。
 8時近く、アルテェエフさんのアパートに戻ってきて、セルゲイさんに迎えに来てもらい、帰ったのは9時過ぎだ。
 後から、ジャーナリストのアルテェエフさんにメールでダーチャの感想を聞かれた。私は普通のことを書いて出した。すると、写真といっしょに記事にされた。彼は私を材料に5個ほどは記事を書いている。私のような普通の旅行者でも記事になるものだ。
 8月2日の『レスプブリカ』誌の『モーロヴォでタカコ・サン、日本からの客がロシアのダーチャを訪れる』記事のURL
http://respublika11.ru/2017/08/02/takako-san-v-morovo/
 ィヨリャ・トィのゲーティッド団地 (地図)
 7月7日(金)。ガリーナさん宅の水道管と台所工事は続いている。だからこの日もセルゲイさんが案内してくれた。ガリーナさんの情報ではヴィリゴルト村のソスノーヴォイ・ベーレグ Сосновый берег(松林の岸辺)へ行ってみればいいと言うことだった。ヴィリゴルトはスィクティフカルの南の一部ともいえるほどの近辺の村で、南からスィクティフカルに入るときは必ず通る。(ロシア中央部から来る時は南ルートしかない)。ヴィリゴルトはコミ語では『新しい住居』と言う意味だそうだが、16世紀からの文献にはもう載っている。現在、周りの14個の村を合わせて、ヴィゴルトの人口は1万人余。
ゲーティッド団地の入り口

 その14個の一つがィヨリャ・トィ Еля ты(トィはコミ語で湖)と言って、同名の湖(と言っても旧川床)の辺にあり、1940年代は強制移住者が住む村だった。(ウィキペディアによると、旧富農、ヴォルガ・ドイツ人、西ウクライナ人などの強制移住者が住まわされていた)。現在は新コッテージ団地となり、モスクワ郊外の富裕層向け別荘団地の一つをまねて、その名もソスノーヴォイ・ベーレグなどと名乗り、団地全体を囲い、入り口には遮断機と番人を置いている。こういう富裕層向けゲーティド団地(門のある閉鎖団地)は各都市の、最も憧憬地に不動産業者によって設営販売されている。スィクティフカルのような田舎の町の富裕層向けにもできたようだ。141戸分あり、各広さは12アールから30アールだそうだ。
 閉鎖団地の敷地内には誰でもは、入れない。この地区全体が道路も含めて個人所有(不動産会社か)となっているからだ。セルゲイさんはこの富裕層団地の一人(花屋をやって成功しているとか)と知り合いで、番人に連絡してもらったので、入れた。ヴィリゴルトからィヨリャ・トィまでは非舗装の泥だらけの道だが、団地への遮断機を入ると、なめらかなアスファルト舗装された道になる。歩道も石畳で整備され、雑草なんか生えていない。アンチックな街灯まである。泥ぬまの中の別天地と言ったところだ。立派な門構えの完成した家もあれば、建設中のもある。業者が建てて売り出し中らしい物件は大きく連絡先電話番号の書いた看板が門の前に張り付けてある。
 この景勝地は、団地ができる前はチムーロヴェツ Тимуровец(ソ連人気少年小説の主人公チムールの名から)と名付けられたピオネール・キャンプ場(青少年の家)だった。ソ連時代、長い夏休み期間中の健全教育と将来のソ連人育成にこのような青少年の家が各地に建てられたものだ。今、それらの多くは廃墟となるか、別の用途に回っている。
*「チムールとその仲間」シリーズの作品を書いたのは、アルカディ・ゴリコフ(ペンネームはガイダール、1904ー1941)。1922年国内戦時、ハカシアでソロビョーフの白軍(反革命軍)とその同調者と疑われた多数のハカシア人を情け容赦なく弾圧したことで有名。村人全員を虐殺したこともあって、ハカシアではその後、泣く子に「ガイダールが来るよ」と言って泣き止ませたとか。しかし、ロシアではソ連少年物語の主人公としてチムールは有名。その孫のエゴール・ガイダールはエリツィン時代前期の政治家。
ヴィリゴルト郷土博物館
テレビ局。ディレクター、私、アナウンサー
ラジオ部門のアナウンサー

 セルゲイさんと団地内を歩く。彼は昔のキャンプ場を知っていたのだろう。ィヨリャ湖の方へ行く。この湖の松林に青少年の家があったらしい。(今は、廃墟すらない。当然だ。富裕層向け別荘地なのだから。)昔を思い出したのか、セルゲイさんは難しい顔をしている。湖に向かって木造の新しい橋もかかっていて、白いテントの結婚式場と披露宴会場(多分)が建っている。テントのように見えるだけの建築物だったのかもしれない。この日は無人でテーブルと椅子が並んでいるのが空いた戸口から見えた。白いテントのホールの周りは記念写真を撮るにぴったりの庭やあずまやがあった。

 まだ12時半だった。ヴィリゴルト村を見ることにする。村には必ず中央通りがあり、そこには村の役所や博物館など主要な建物と、ソ連時代からの祝賀行事用の広場があるものだ。その広場にはレーニンが必ずいる。
 一応博物館に入る。村の博物館はたいてい建築記念物として残されている革命前の豪商か大富農の屋敷が充てられているものだ。ヴィリゴルトの歴史文化博物館も、そんな古めかしい3階建ての木造建築だ。入り口前広場にはバラライカなど楽器の匠セミョーン・ナリモフ Семён Налимов(1857‐1916)の像があり、この博物館も『エミリア・ナリモフ名称歴史と文化博物館(2017年改名)』となっている。1999年以前はこの建物は村の小学校だったそうだ。その前は何だったのかネットには載っていない。 そして、村の博物館には必ずと言っていい展示物として、第2次世界大戦を戦い、英雄となった郷土出身者の業績付きの写真があった。

 午後からはガリーナさんがテレビ・ラジオ局ユルガン Юрганを案内してくれた。天気予報の番組どりを見物。ラジオ部門ではエレーナ・ホジャイノヴァ Елена Хозяиноваと言う女性が愛想よく迎えてくれ、コミ文化についてコミ人の気質について話してくれる。彼女ともっと話したかったが仕事中のようなので遠慮する。
 夕方にはアンジェリカさんと川岸通りを散歩。カフェでアイスをおごってもらう。
 
 コルトケロス村の鍛冶屋祭り (地図)
レミユ・ペンション
レミユの書き物机のある部屋
 7月8日(土)。この日も祭りがある。私の滞在期間に間に合ったというより、イベントがあるせいで日程が埋まって助かる。スィクティフカルから40キロほど東のコルトケロス корткерос村の鍛冶祭だった。ガリーナさんやセルゲイさんと出かけるが、途中、16キロのところにレミユ Лемьюと言うペンションがある。ガリーナさんから、当初ここへ行って宿泊しようと言われていたところだ。作家同盟会員なら無料だからとか。
 だから寄ってみた。道路沿い林の中にあり、下に降りて行くと小川もある。この時は内部にも周辺にも人気がなかった。ガリーナさんは鍵を持っている。2階建てで、3階に素敵な屋根裏部屋もある、木造の快適そうなペンションだった。床にはじゅうたんが敷いてあり、執筆活動ができるよう机もある。しかし宿泊するためには食料の他に布団やシーツを持ってこなくてはならないだろう。家の周りには間違いなく蚊の大群がいるだろう。
祭りの舞台
地元鍛冶師による実演に参加する少年
お供を連れて屋台を回る首長(中央)

 12時半ごろ、コルトケロス村に着き、祭りが開催されていると言う旧飛行場を探し当てた。その広場には民族歌謡や民族踊りの輪、お土産や、試食コーナー、そして何よりも多分地元の鍛冶師による実演と作品展示即売台がある。火の中にいれた鉄をたたいて鍛えるという伝統的な作業を実演している。見物客が参加できる一角もある。作者が自分の作品を売っている屋台で、花の模様の小さな鍵かけをアンジェラさんが買ってプレゼントしてくれた。鉄製品でも小さいので重くない。
 広場には舞台がしつらえてあり、司会者がマイクで何か言っていたり、音楽が流れていたりしている。コミ共和国首長のガプリコフが祭りの挨拶に来ると言う。イジマでの彼の挨拶と比べてみようとは思わなかったので(同じようなことを言っているだろう)、広い旧飛行場の原っぱの屋台巡りをしていた。知事が挨拶をしている舞台の下にはカメラを持ったアルテェエフがいた。記事にしなくてはならないからね。挨拶の終わった知事は、お供を連れて屋台を回っている。コルトケロス人と握手なんかしている。
 第4回国際祭りキョルト・アイカ Кёрт Айка(正式にはこういう名前らしい)の取材をしていたアルテェエフが、私を見つけ、呼んでいる。テントにいるリュドミラ・カラレェヴァ Людмила Королеваさんと言う女性を紹介すると言う。彼女はコミ人だが、夫は強制移住のドイツ人だ。ここで彼女は白樺の皮で民芸品のネックレスを作っている。一つ、私にプレゼントしてくれた。
 後でアルテェエフから確かめたのだが、彼女の夫のアナトーリー・スミレンゴフ Анатолий Смиленгосはスターリン時代の強制労働施設の調査と歴史の著書(スィクティフカル市児童図書館の書庫にあった本の作者・編者の一人か)がある。夫妻についてはモスクワからもインタービュー記者が来たそうだ。(繰り返しになるが、年配のロシア人にとって『コミ イコール 強制収容所』だから)
 2時過ぎ、首長のガプリコフが引き上げた頃、私達も引き上げてスィクティフカルにもどる。すぐには帰宅しないで、市内の工房に行き見物。最近できた新しい建物だった。ここでガリーナさんが私にコミ模様のTシャツを買ってくれた。
 その後、町でも立派なインテリアのレストランで食事。 
 スィクティフカルからモスクワ経由ウラジカフカス
 7月9日(日)。UTエアー社のモスクワ行きの飛行機は6時20分発だ。あとで、UT エアーはサービスがよくなくて、買い方によっては(下記のように)割高になると知ったが、5月に予約した時は、一つの航空会社の便で、同日乗り換えでスィクティフカルからウラジカフカースに行く便はこれしかなかった。
 5時10分にセルゲイさんの車で出発、5時20分には空港について搭乗手続きの窓口にいた。私の購入したチケットは手荷物を含まない。ネットで購入した時は、別料金支払窓口で荷物の重さの分を、手続きの時支払えばいいと思ったのだ。セルゲイさんも付いていてくれることだし。
 追加荷物22キロ以内の料金は一区間に付き2000ルーブルと言われる。私はモスクワで乗り換えるので4000ルーブル支払った。購入時に手荷物込み料金のチケットにすれば、一区間500ルーブルで済んだのにと窓口で言われる。購入時にサイトをもっとよく見なかったので気が付かなかった。だから、10キロ以内の小さな機内持ち込みバッグのみ無料のチケット13,436ルーブル(2万5千円)とさらに、4000ルーブル(約7600円)払ったことになる。
 空港でセルゲイさんは知り合いのスヴェトラーナ・バラショーヴァさんとナタリア・バブロヴァさんに挨拶している。

 スィクティフカルを発って2時間後の8時20分には、モスクワのヴヌコヴォ空港に着く。ここで私は8時間待たなければならない。有料ラウンジがあるはずなので、そこで休もうと思っていたが、トランジット客は、どこへどういったらいいのだろう。空港内をみんなの行く方に歩いていると、先ほどのバラショーヴァさん達と並ぶことになった。みんなが行くようにエスカレーターに乗る。彼女たちも、ここで乗り換えるそうだ。待ち時間が長いので空港内をぶらぶらすると言う。何度もこのコースを利用しているらしい彼女らのお馴染みのカフェで食事を付き合う。次いでラウンジへ行くと言うので、くっついていく。バラショーヴァさんはカードを持っていて、そのカードのポイントで入れたのかもしれない。有料ラウンジの5時間ほどをおごってもらったことになる。3000ルーブルほどか。
搭乗口まで見送ってくれたバラショーヴァさん達
ウラジカフカス空港着

 実はスィクティフカルに来る前、モスクワにいる時から、ヴヌコヴォ空港の8時間をどう過ごすか考えていた。有料ラウンジ(6時間、3000ルーブル)で過ごそうと、割安のカード前払いを試みたが、私の電話番号では入らなかったのだ。満員の場合は入れないなどと書いてあったから予約しておこうと思ったのに。
 しかし、ラウンジは空席の椅子も多く、めったに満員にはならないようだった。毛布もあって大きな椅子なので横になって休められ、ヴァイキングのテーブルもあった。ラウンジ客用トイレもある。わざわざ外に出てホテルを探すよりずっと手ごろだと思う。高くないホテルの1泊料金と同額かもしれない。バラショーヴァさんのプレミアム・カードでもそのくらいはしたかも。
 バラショーヴァさんはスィクティフカルの学校の校長だ。バブローヴァさんは英語の先生。話していてわかったことだが、バラショワさんの息子は孫とニューヨークにいる。もう何度も渡米している。観光ではなく孫が網膜芽細胞腫で、その治療のためと言う。ロシア国内では治療を行っていない(そうだ)。アメリカの財団が費用を援助してくれているそうだ。初回は検査のため1ヶ月も滞在した。その後は数ヶ月に一度、数日の滞在ですむ。アメリカの医師は眼球を摘出しない治療を試みているそうだ。刑事コロンバは昔だったので古い方法で治療されたのか、片目は義眼だそう。
 ラウンジはワイ・ファイが通じたし、ヴァイキングの軽食もあり、座り心地のよい深い椅子もあり、連れもいたので、8時間は苦痛でなかった。ウェイトレスやウェイターが絶えず回って、整頓している。ヴァイキングのテーブルからとってきたお皿も、まだ残っていても片付けられてしまう。国際空港のVIPラウンジなのでやたらサービスが良いと言うことなのか。
 16時40分出発のウラジカフカス行の搭乗口まで彼女たちは見送ってくれた。彼女たちの飛行機はさらに2,3時間後になる。ヴヌコヴォからウラジカフカスまでの3時間の飛行機も、今朝がた乗った飛行機と同じタイプ、同じ広さで、私は同じ座席(後部から2列目通路側をネットで予約済み)に座った。

 19時にウラジカフカースのベスラン空港に到着。電話で何度か連絡済みのアスランが出迎えてくれ、スーツケースを空港の駐車場まで運んでくれる。車の横ではルスランが次女のサーシャと待っている。アスランやルスランと無事再会できてうれしい。
 今年のルスランは、去年故障で困ったウァズではなく、チェヴロキー・ニーヴァ Chevrolet Niva(ロシアでおなじみの軽ジープの二―ヴァとシヴォレーの連名)だった。夕方の金色の空を見ながらウラジカフカス市への連邦道を走る。去年と同じアスラン宅に着き、両親のクララさんとルスランさんに挨拶。カフカスではアスランとかルスランとかソスラン、バトラスとか言った英雄叙事詩に登場する人物の名前が多い(私でもそれぞれ2名ずつ知り合いがいる)。去年と同じアスランの長男のヘータ君(18歳)の部屋を使わせてもらう。今年は、彼の古いウインドウのパソコンを使わなくてもいい。モバイルWi-Fiルータをつけたそうだから。しかし、その無線LANを利用したインターネット接続サービスは料金不足で停止中。翌日、1000ルーブルをヘータ君に渡して(郵便局の窓口に)支払ってきてもらった(釣銭あり)。これで通じるので3階のエルザロフЕлдзаровxさん宅にお邪魔しなくてもよくなった。
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