クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
              Welcome to my homepage

home up date  16 January, 2018 (追記 2018年3月15日)
モスクワから北ロシアのコミ共和国(3)
ルド祭
        2017年6月25日から7月9日(のうちの6月30日から7月1日)

Путешествие по Коми через москву, 2017 года (25.6.2017−09.7.2017)

モスクワからコミ共和国
1  準備(地図) 成田発モスクワ着 モスクワ郊外の団地 バシュキール人ヤミーリャさん(地図) モスクワ国民経済達成博物館
2  コミ共和国ガリーナさん宅(地図) スィクティフカル市を回る ニュヴィチムの溢流口 児童文学者ガボヴァ
3  北のイジマ村へ(地図) イジマ村着(地図) ルド祭 対岸のイジャフスク村 夜中の日の出
4  イジマ川に沿って イジマ7大奇景の大石 旧強制収容所のウフタ市 ナショナル・ギャラリー
5  児童図書館 アルテェエフさんのダーチャ ゲーティド団地 鍛冶屋祭 スィクティフカル発モスクワへ
カフカスからモスクワ
 スィクティフカルから北のイジマ村へ
 6月30(金)。この日はこの旅の目的の北のイジマ村へ出発する日だ。550キロの道のりで舗装されていない部分もあるはずだ。早朝から出れば暗くなる前に到着できると思うのは、中低緯度地帯に住む私たちが思うことで、コミのような高緯度地帯では、しばらくは太陽が沈むが、暗くなることはない。だから出発も急がない。
エムヴァからウフタへの森林を切り開いた道
ルツコイのスタンドにあるカフェ
ウフタ市を通り過ぎる
道路の両側は沼地
片側通行の工事個所前で
 セルゲイさんが迎えに来てくれてガリーナさんの家を出たのは9時過ぎだが、アンジェラさん経営の保育園にも寄り、銀行などにも寄ったので、町を出たのは10時半ごろ。ヴィチェグダ川(*上記)を渡り、森の中を切り開いてできたまっすぐな道を進む。スィクティフカル市から120キロほどのところにあるのが、エムヴァ市でここからはウフタ市の先まで北方幹線鉄道にほぼ並行した快適な自動車道が続く、今のところ。2年前にもジェーニャ・ストレリツとセルゲイ車でヴィクティルへ行った時通った。その時は夏の終わりで夕方だったが、今回は夏至のころで昼間。シンドールСиндорと言う村の近く(村は道路からは見えない)を通った時、セルゲイさんが
「エムヴァから、シンドール、ウフタにある集落は、みんな元は強制収容所だったところだ」と言っている。シベリアはもちろん、コミも強制収容所の囚人労働で開発されたのだ。帰国後ネットで見ると、ソルジェヌィツィンの『収容所列島』にはクニャジパゴスト村Княжпогостがたびたび言及されている。クニャジパゴストとは『クニャジ(侯爵の)パゴスト(宿)』と言う意味だから、15世紀ごろヴィミ侯の邸宅があったとか。現在のエムヴァ市はその対岸にあり、市を通る北方鉄道の駅名もクニャジパゴスト駅と言う。エムヴァ市とは、ヴィチェグダ川(コミ語ではエジヴァ)の右岸支流ヴィム川(コミ語ではエムヴァ)が町中を流れることで名づけられた。エムヴァ市の前身は前記のように1937年にできた収容所列島の一つの島だった。今でもエムヴァ市には20区とか21区とかがある。それは収容所の番号だった。当時ヴィミ管理局統制下には収容所支部は20カ所ほどあった。現在は無人になったか、普通の村になっている。かつて第18収容所支部だったシンドール村にだけ、現在矯正労働コロニアがあるとネットにある。

 私達は途中のドライブ・インで軽食を取った。主要道にはガソリン・スタンドが建ち、たいていは中に売店があり、たまには軽食(メニューはピロシキやコーヒー)のできるテーブルも並んでいたりする。1990年代から2000年代初めは、ガソリン・スタンドも数少なく、あっても売り切れで停止中だった。売店と言っても車のオイルだけだった頃に比べると、車社会になったものだ。そのドライブ・インのピロシキを売っている店もあまり清潔そうでなく、有料トイレも汚れていたが、水洗式なので助かる。もう少し田舎へ行くとスタンドの裏手のはずれの『ぼっとん便所』小屋だったりする。私たちが入った店は、セルゲイさんがこの道筋を通るときは必ず寄るらしい石油会社ルツコイのスタンドだった。ちなみにコミにはルツコイのスタンドしかない。
 スィクティフカル市からひし形の形をしたコミ共和国の地理的中心にあるウフタ市までは道のりで317キロ、直線では256キロ。ガソリン・スタンドで軽食を取ったので、出発してから3時間半後にウフタ市を通過。
 スィクティフカルからウフタに向かう鉄道は北東に向かい、鉄道に平行な道も北東に向かっているが(スィクティフカルは南西にあり、ウフタは中央にある)、ウフタを過ぎ、140キロも行ってイラヨリИраёль駅も過ぎると道は鉄道と離れ北へ向かう。イラヨリからイジマ村へは98キロだが、(つまり、ウフタからイジマまでは約240キロもある)荷馬車が通れる道ができたのは1944年で、1998年には通年車の通行可能な道になり、1993年からアスファルト舗装工事が始まっている。つまり、少し前までは冬道か、大型高駆動車など悪路でも通れる道しかなく、イジマへ行くには昔からの水路(ヴィチェグダ川)か、1940年にできたイジマ空港への空路しかなかったのだ。1940年から、スィクティフカルからウフタ経由イジマまでの航空便が飛ぶようになったのだ。陸上で普通に通行できるようになったのは、ほんの十数年前のことだ。
 ウフタを過ぎると道路がよくなったり悪くなったりする。よいのは舗装工事が最近終わった箇所。悪いのは、まだまだのところ、もっと悪いのは工事前のところで、荒い砂利が撒いてある。通行の車が礫を多少なりとも圧し締め固めた後で、工事用鉄輪ローラで仕上げの圧し締固めをするのかな。さらに悪いのは工事中で片側通行の場所。今頃は、皆この道を通ってイジマの祭りに行くせいか、片側通行の区域が車で数十分もかかるほども長いのか、片側通行に入る場所の前だけ乗用車と工事用トラックの長い長い列ができている。ここで、私たちの数台前に止まっていたジャーナリストのアルチュール・アルテェエフを見つけて挨拶する。
 イジマ村着
 前記のようにイラヨリИраёль村の近くで鉄道から離れ、イジマ区へ入ったのだが、このへんからイジマへの道の両側はツンドラ沼地草原だった。そこは低地で沼草原になっていて枯れ木がわずかに立っている。遠く針葉樹林の森が見える。沼地のそばや、森を切り開いて道は続いている。
 この辺には集落はほとんどない。
 行政中心地イジマ村のイジマ区は人口1万7千人(80%はイジマ人)、面積1万8千平方キロ(岩手県1万5千)、地形は大部分がペチョーラ川流域低地。集落は25個ほどあるがすべて、ペチョーラ川岸か、その支流のイジマ川岸にある。
 イジマ・スロボダ(スロボダとは11‐18世紀の自由農民の大村、つまり地主屋敷のある農奴村ではない)は16世紀後半にできた。16世紀末から17世紀、ぺチョーラやウラル東との通商は、ヴィミ川やイジマ川航路を通った。南からのコミ・ジリャーン人や西からのポモール人(12世紀頃白海沿岸に入植したスラブ人がもと)が先住のネネツ人やサーミ人のトナカイ遊牧などの生活を取り入れて住むようになったのがイジマ人だ。。トナカイの皮製品(なめし皮)取引も富をもたらしたのだろう。
 現在イジマ村は80%が代々のイジマ人だ。だから伝統がよく保たれているとか。
アグニアさんの作ったお祝いのケーキ
ガリーナ、セルゲイ、アグニア、アンジェラ
システムキッチンに向かうアグニアさん

 ウフタから4時間(240キロ)も、黙々と草原沼地のほか何もないところを走って、やっとイジマ村はずれに着く。イジマ村にホテルはあるだろうが、祭りのときは満員だろう(知事もやってくる)から、村役場関係者の自宅にホーム・スティすることになっている。もちろんガリーナさんのコネだ。私達は、かつてのコミ大物(ガリーナさんのこと)や外国人(私のこと)や、かつてのかつての大物の息子夫婦(セルゲイさんのこと)と4人もいるので大きめの設備の整った家が必要だ。村役場では、ちゃんとそんな家を見つけておいてくれ、私たちが村に入ってから電話すると、役場前に係りの人が出て待っていてくれることになっている。

 到着したのは18時過ぎ、夜に暗くならないイジマ村では1日中昼間だ。役場前には係りの女性と待っていてくれた年配の男性がいて、その男性が私たちを自分の家まで案内してくれた。家は村はずれにあり広い敷地を柵で囲ってある。セルゲイさんの車を敷地内に入れて、私たちは建て増しを何度もしたような家に入る。
 アグニア・セミャシキナさんというこの家の女主人がとても愛想よく迎えてくれた。私達を役所から自宅まで案内してくれたのは彼女の夫のアレクサンドル・セミャシキンさんだ。今は都会に出ていると言う息子と娘たちの2階の部屋が空いていて、私は息子の部屋へ、セルゲイさんは二人の娘の部屋へ、ガリーナさんは1階の居間に案内された。息子さんのウラジーミルは29歳で、ウフタ工科大学(もちろん石油ガス工学部)卒業で、今はインタ市でガスパイプ管理技術者として働いている。独身。2011年には兵役で極東ウスリィスクにいた。経理学校は出たが、今はスィクティフカルで店員として働いているという長女のクラウディアさんは28歳。モスクワの大学4年生で学んでいるイリーナさんは、夏休みは実家に帰るのだが、今はいなかった。
 村にある個人の家はその個人が自分の手で建てたものだ。だから階段は急で少しぐらぐらする。それで年配のガリーナさんは1階と言うことになったらしい。私は、武器をもって鋭い目つきの若者の写真が何枚も張ってあるが(息子のウラジーミルさんの兵役時代の写真だろう)、こじんまりして網戸もしっかりついてカーテンもある(夜、少しは暗くできる)部屋に案内されて大満足。おまけに水洗トイレまで屋内にあり、聞いてみるとワイ・ファイまである。都会生活の息子や娘たちは家に帰ってもネットなしでは不便だ。パスワードはアグニャさんがすぐ娘に電話して聞いてくれる。ワイ・ファイの機器の裏に書いてあったが。
 アグニャさんは祭りのごちそうをたくさん作って私たちを待っていたのだ。サラダの上にイジマ民族模様や『450年』とニンジンやピーマンで描いたサラダ、白い生クリームの上に赤や水色のクリームで模様を描き、『コミ450年イジマ』と書かれたケーキなどをみて、私たちは思いっきり驚嘆し感激したのだ。イジマ村ができてから450年経ったと言う。
 アグニャさんは村役場の社会保障関係の部署の長、部には17人の職員がいて、保障の対象となっている高齢者と障害者市民は約100人だそうだ。この家の縁の下の力持ちのような夫のアレクサンドルさんは村役場の経理主任。(後にSMSで教えてもらった。
 田舎の家にはシャワーはない。たいていの家には蒸し風呂があるからだ。そこは別棟になっていて玄関から一旦外に出なければならない。近道があって、かつての家畜小屋を通れば、あまり外を歩かなくてもいい。家畜小屋は、北方の田舎家では家に付属してあるものだ。(昔は家畜小屋に家族が寝泊まりしていた。その逆もある。家畜にも暖房してやらなくてはならないからだ)。今、セミャシキニさん一家は家畜を飼ってはいない。牛の世話は大変だ。夫婦は村役場でよい地位にある。
 近道で蒸し風呂小屋に行くときは、家畜小屋の、今でも残る家畜の匂いを味わっていく。玄関から出ると、3重のドアと蚊除けカーテンを開け閉めし、敷地内の草原を通らなくてはならないので、みんな近道を通る。。
 台所には都会と変わらないシステム・キッチン・セットが並んでいた。上下水道は通っていないだろうから自家製の井戸水だろうか。蛇口をひねると出てくれるのがありがたい。蒸し風呂の方は、湯はかまどの上、水はドラム缶から汲む。
 ワインやヴォッカを開けてみんなは夜遅くまでテーブルにいたかもしれないが、私は早めに休ませてもらう。
 イジマ村の国際ルド祭り
町の中心、古い教会前の通り
イジマ川を見晴らす高台にある記念碑(左隅)
北方民の移動式住居チュムの前で
輪舞を踊った後で
ロッチェフさん
この辺から来ましたとピンを止める
乾草の周りでも輪舞
博物館の民族衣装のガイドと
 7月1(土)。この日と次の日が『ルド』祭だ。2日間も祭りがあるわけではなく、夏至のころなので日没はないも同然。だから、一晩中祭りが続き、いつの間にか2日目の太陽が低く天空を回っていると言うことになる。『ルド』と言うのは広い原っぱと言う意味だそうだ。異教時代(一神教のキリスト教の自分中心の言葉だが気にしない)の太陽崇拝にも関係していて、草刈りのシーズンの前に行われる夏至祭りだろう。遠方からも村の出身者たちが集まり、近郊からも仲間が集まり、様々な催し物が行われるよう広い場所が必要だ。そんなくさはらがルドだ。
 9時過ぎには朝食が出て、10時過ぎにはみんなでセルゲイさんの車に乗って村の中心へ行く。村はイジマ川の右岸に沿って4−5キロほど、幅は2−3キロだが、セミャシキンさんたちの家は、市の中心で川岸近くにある村役場からは少し離れているから歩くより車の方がみんなをまとめて運べる。村役場の近くには部分的にしか修復されていないかつての教会がある。ソ連時代は農業用の倉庫として使われ、手入れもされなかったのだろう。イジマ地方ばかりかペチョーラ流域で最初の石造りの歴史的に貴重な建物だそうだ。1807年から1828年に建てられた丸屋根もある立派だった建物だが、完全に修復するには費用が掛かるのか、屋根や壁の穴をふさぐためや窓修理など足場が組まれたままだ。その横には2011年に建ったという新しい教会がより川岸近くの高台にあって、信心深いアンジェラさんと一緒に入ってみた。この見晴らしのよい高台には、第2次大戦中の『1942年から1944年のカレリア前線(とあるが、つまり、ソ連のフィンランド侵略戦争)に参加した勇敢なる英雄たちへの記念』として、動員され没したイジマ・トナカイ飼育業者の名前を刻んだ碑があった。同姓が並んでいる。
 祭りは11時からだそうだが、村役場前のメイン・ストリートには店や工房、展示場などが開き始めている。ルドはもともとイジマ川に沿って古くからできている集落ごとの自主的な祭り、つまり仕事をしないで楽しく遊ぶ日で19世紀、20世紀初めには催されていた。が、ソ連時代は、反宗教運動と、旧弊・過去の残滓一層運動のため(このような民族的な集会)は開催されなかった。1991年ソ連崩壊後、1997年に復活し、2006年イジマ地方の伝統を伝える民族的祭日と指定され、名前も『国際祭りルド』となった。

 村役場や古い教会プレオブラジェンスカヤ・ツェルコフПреображенская церквь前通り(ソ連時代はソヴィエト通りと名付けられた。村に4本しか通りがなかった時代からあった最も古い通り。今は村に20本以上ある)は、今も昔も中央通りで、店や村役場など並んでいて、小さなレーニン像が建っている広場もある。屋台には民族人形や、民族道具、飾り、食品などが展示されていたり、売られていたり、工房では自分で作ったりできる。北方民のチュム(円錐形移動住宅)も設営され、中に入ると、トナカイのスープがふるまわれる。北方民族(ここではネネツ)の太鼓の踊りもあって。私は長い間見とれていた。役場前で、テレンチエヴァ区長Терентьева Любовь Ивановнаさんと写真を撮る。ぶらぶら歩いていると、イジマの輪舞へ誘われて入る。屋台の店員も道行く人も民族衣装を着ている。子どもも子供用の民族衣装だ。スィクティフカルからのジャーナリストのアルチュール・アルテェエフもカメラを持ってうろうろしていた。地元のジャーナリストもいた。地元出身の有名人、詩人や作家、オリンピック選手もいて、わざわざ紹介された。日本に行ったことがあると言うので長野オリンピックですかと聞くと、それは息子で、自分は札幌だと言う。(後から調べると札幌は1972年、長野は1998年だ。なるほど彼はかなりの年配に見える)。手帳に名前を書いてもらった。サインの筆記体はわからないので普通の文字で書きなおしてもらう。ロッチェフВасилий Повлович Рочев(1951年生まれ)さんだった。彼は、私の手帳にバクールБакур村生まれだよ、とも書いてくれた。バクール村は、イジマの対岸にある4つの村の一つだ。
 役場や文化宮殿前広場の横には大きな地図が貼ってあった。国際祭りなので、自分が世界のどこからやってきたか、地図にピンで留める。そのピンから赤い糸がイジマへ直線距離で延びるようになっている。まだ時間が早いので、留められているピンは少ない。アグニャさんたちから、「タカコさんも印をつけて」と言われてピンを受け取ったが、それは世界地図ではなくてロシア連邦地図だった。それでも周辺諸国は入っている。東は千島列島まで、南はウラジヴォストックまで地図に入っているので、日本の北半分ぐらいは地図内に収まっていた。それで、新潟くらいのところにピンをさした。確かに日本からイジマは、この地図でも遠い。国際祭りと言っても外国人は見かけなかったようだ。スィクティフカル市から車で8時間では、国外からわざわざやってくるのは私ぐらいしかいなかったかも。イジマ区の祭りなのでイジマ区内の村々(と言ってもイジマ村と対岸の4村)からの参加者が大部分だ。もともと、旅行者用の観光祭りではなく、地元民の楽しみのためにあるのだ。イジマ出身者がこの日は故郷に戻ってきて祭りに参加する。
 15世紀16世紀に、南からやってきたコミ・ジリャーン人が地元のトナカイ遊牧ネネツ人や、アルハンゲリスクからのポモール人(上記)たちやサーミ人たち現地人の子孫とできたと言うサブ・エスニックがイジマ人だ。
 村の文化宮殿前には舞台がしつらえてあり、その前には2列に椅子も並んでいる。11時過ぎに開会式のようなものがあり首長(少し前まではコミ共和国大統領と言っていたが、『大統領』の名は遠慮することにして『首長』または『知事』と変わった)があいさつする。アンジェラさんやアグニアさんによると、この1年半ほど前にプーチンに任命されてやってきた知事は人気がない。初任の演説でコミ人の生活水準を西ヨーロッパ並みに挙げると約束したそうだが、そのたとえも気にくわないし、実際に少しも上がっていない。前の知事ガイゼルВячслав Гайзерは収賄罪で、知事ほか18人が逮捕され、モスクワで審議中だが、彼はインタ生まれのコミ人だ。(父は強制移住のドイツ系ロシア人)。今の知事ガプリコフСергей Гапликовはコミとは何の関係もない。コミに来る前はチュワシ共和国の政府にいたが、そこではチュワシのために何もしなかったという意地悪な評判もある。たぶん普段はモスクワに家族と住んでいて時々コミにやってくるのだろう。
 ガプリコフ首長のお決まりのお祝いの挨拶や、この間イジマに尽くした人々の表彰状授与など延々とあって、私たちは広場に設けられた椅子に座って思い出したように拍手をしていた。コンサートもあるが、退屈してしまったので、またソヴェト通りをぶらぶら歩く。レーニン広場の横にはちょっと広い草原があって、干し草が3束ほど積んである。熊手もあった。干し草を囲んで民族衣装の女性たちが輪舞を踊っている。イジマらしいなあ。その横には、やり投げ場や弓矢コーナーがある、と言っても子供用。ガリーナさんが投げてみるとちっとも飛ばない。的までの半分も飛ばない。弓矢コーナーへ行ってみたがそこは少年たちが順番をついていたので、あきらめる。
 通りには20世紀初めの大商人や富農の木造の家が数軒残っている。その一つがイジマ歴史郷土博物館で、もちろん、入ってみる。民族衣装のガイドさんが説明してくれる。博物館で、アナスタシヤ・ヴァシリエヴァАнастасия Васильеваと言う若い女性と知り合う。彼女はこの祭りに、モスクワからやってきたロシア人だが、コミ語を学習している。コミへやってきたのは2回目で、地元のコミ人とコミ語で多少は会話ができるとのこと。コミ人ではないのにコミ語を習得しようとは珍しい、とみんな思っている。
 イジマ川対岸のシジャフスク村
 夕方の5時からイジマ川の中州で競馬があると言う。それまで、いったんアグニャさん宅へ帰って深夜の祭りに備えて一休みすることにした。そして5時ごろ、20年ほど前からあると言う浮き橋を通ってルド祭の続きが行われると言う中洲へ行く。(浮き橋は夏場だけ、冬は氷上路で対岸へ行ける)。中洲は春の雪解け期には灌水する。今は多少の起伏のある広い原っぱだ。舞台(本部)もしつらえてあり、競馬ができるように楕円のコースに旗が立っていた。見物客の車が多くて駐車に苦労する。人は集まってもトイレは作らない。ソヴィエト通りなら、役所に入らせてもらえるが。
中洲でもルド祭。17時ごろから競馬がある

 6時頃、ジャーナリストのアルテェエフさんが案内してくれると言うシジャブスク村へ後半の浮き橋を通って行く。浮き橋はイジマ川の左岸から中洲を通って右岸まである)。時間と場所は打ち合わせておいたようだ。アルテェエフさんは、シジャブスク出身だ。彼はスィクティフカル生まれだが、何代にもわたってシジャブスクに住んでいたから、自分をコミ・イジマ人だと見なしている。イジマ村の対岸には、イジマに劣らない古い村が続いて4村ある。イジマの真向かいモフチャМохча、その南がガイГам、モフチャの北に続いてバクールБакур(スキーのロフチャフさんの出身地)、さらに 最も北の大村がシジャブスクСизябскだ。これら4村は18世紀半ばにでき、18世紀後半には、イジマ村やここからの移住者たちが、イジマ川下流の村々やペチョーラ川流域の村々を作ったそうだ。古くはトナカイ飼育をしていたので、飼育地を求めて去っていったのか。20世紀初めには人口も多かったが、今は、シジャクスクを除いて1000人以下。シジャブスクは1200人。私たちはセルゲイさんの車で順番に村を通り過ぎていき、シジャブスク村の店(村に通りは1本だけだし、店も一軒だけ)の前で止まってアルテェエフさんを待つ。
シジャブスクの蚊
スジャブスク村の高台、
アルテェエフさん、ヴァシリエヴァさん
 やがて、彼はコミ語を話すヴァシリエヴァさんと現れる。のちに彼の新聞『レスプブリカ』の7月6日号をもらって開いてみると、12面と13面いっぱいに『ルド』の記事があり、祭りの由来、首長のあいさつの抜粋、村の教会、出し物の紹介のほか、彼女と私が写真入りで載っていた。シジャブスクを案内したという記事だ。
「村の中央にある古い井戸を見せたところ、中に氷が見えたので日本女性タカコ・サンはびっくりしていた。…村には最近大きな金属製の蚊の像ができた。それを見て、北方の蚊の大きさに驚いたタカコ・サンは写真を撮るだけでなく、その蚊に惜しげもなく蚊除けスプレーをかけていた」と書いてある。その写真も載っている。私はこんなグロテスクなものを、だれがわざわざ作ったのだろうと、内心では思っていたが。(下記のレスプブリカ誌に載ったアルテェエフさんの記事も参照)
 イジマ村からの移住家族から18世紀ごろできたシジャブスクなど4村は、その後イジマ流域やペチョーラ流域のコルヴィКолвыなどからイジマ人やネネツ人(といっても、洗礼を受けたサモディツ系のネネツ人(ロシア正教徒になったと言うことはロシア帝国民の一員とみなされる)が移住してきた。

 窓に木彫りの装飾のある古い2階建て木造の建物、この地方特有と言う塀の構造、村ができてすぐに建て始めた教会など、「遠方からの客たちには印象深いものだった」とアルテェエフさんの記事にある。教会は足場が組んであって未修理だ。敷地内に小さな新しい鐘楼があった。1843年、村に石造りの聖母受胎告知教会(聖母はロシア正教では生神女福音(しょうしんじょふくいん)が建てられ始めた、そうだ。
 私がこの村で最も印象深かったのは、イジマ川を見渡せる高台だった。イジマ村は河岸段丘の上にあって、川岸近くに村があるが、シジャブスク村はイジマ川の左岸、広い河原の奥の奥にある。だからシジャブスク村の高台に建つと、広い緑の河原の向こうに流れる川、そして対岸のイズム村がかすかに見える。
ルド際の踊り『ヴァロータ』

 私達は7時半ごろ、また浮き橋を通ってイジマ村に戻る、ルド祭のハイライトである踊りの行列『ヴァロータВорота門の意』が始まるからだ。それは役所前のソヴィエト通りの端から始まる。民族衣装の男女が、道いっぱいに10人ずつの横列になって手をつないで出発を待っている。その後ろにはやはり横に10人ほど手をつないだ横列が何列にも続いている。ルド祭は見るものではない、参加するものだ。しかし、民族衣装を持っていないと参加しづらい。昔からの衣装を出してきて着るか、この日のために新調する。年配の男性は踊りに入らない。
 ここで、ガリーナさんやアグニャさんといっしょの私は、地元の有名人作家のアレクセイ・パポフАлексей Поповと詩人のアレクサンドル・スヴォロフАлександр Суворовさんに紹介される。
 やがて歌に合わせて行列は動き出す。それは横隊の端の二人が向かい合い両手を合わせて門を作り、残りの踊り手が手をつないで門を潜り抜け、門を作っていた二人が最後尾に続き、先頭になった二人が門を作っていくと行列は少しづつ前に進んでいく、と言うイジマの民族踊り行列だ。みんな、マイクからの歌声に合わせて歌を口ずさ、手をつないで、コースとしては道をジグザグ行進することになる。
 行列は文化宮殿前を通り、レーニン前広場を通り、役所前を通り、歴史博物館前へ向かう。役所の正面には気温、時間、日付を示す電光掲示板がある。このとき12度だった。
 夜中の日の出
 私達は、もっと夜遅くの中州で行われる出し物を見るために一旦アグニャさんの家に戻る。この日は何度も彼女宅に出入りしたものだ。そして私は2度もお昼寝(明るいから昼)をした。
 夜(暗くない)11時ごろに中洲へ向かう。ガリーナさんから寒いからもってきた服は全部身につけていきなさいと言われる。中洲ではルド祭が盛り上がり、コンサートや火祭り、『輪舞の女王選び』などがある。ルドと言うのは広々とした原っぱのことだ。そこで祭りが執り行われる。祭りには混交から大勢の人々が集まって、みんな一緒に、民族遊戯や、舞踏、歌、踊り、スポーツなどを楽しむためには広い場所がいる。
 広い草原の地平線近くに引っかかっている半月が白く見える。太陽は沈んだらしく、空低くは一面夕焼け色だ。スマホで日没時間を見ると22時45分だった。地平線近くの180度は夕焼け色だが、天空は青色だ。スマホでは翌日の日の出は0時44分とある。夜中の日の出を見たい。アグニャさんによるとこの時期の日の出は川下の方(つまり北)だと言う。私達は河岸段丘にある村の教会前の高台で日の出を待った。確かに川下が金色に光っている。アンジェラさんが、もう太陽は出ている。日の出はもう見たから帰ろうと言う。いやいや、日の出は0時44分で、まだ0時30分にもなっていないと、私は頑張った。じゃ、あの金色は何なのと言われる。もう天球の半分は金色になっていた。私達が陣取ったところからは日の出の地点にはわずかに陸地が見える。ほとんどイジマ川の水平線か河原の地平線だが、わずかに起伏があるから、日の出は5分ほど遅れて見えるかもしれない。私とセルゲイさんはカメラを持って外で待っていたが(彼は3脚付きの本格カメラ、私はスマホ・カメラ)、アンジェラさんたちは車内にいた。外は本当に寒い。0時46分にはかすかに太陽の頭からの直接の光が見え、49分にははっきりと本体が見え、55分には全体が見えた。このころ車の中からガリーナさんやアグニャさんが出てきて。一緒に写真を撮る。1時2分には地平線から離れてギラギラ輝いていた。だが気温は低い。
イジマ川、0時50分の日の出

 満足して、家に帰り、カーテンを閉めてやっと本格的に眠る。後に、みんなからイジマのルド祭で最も興味深く、最も印象に残ったのはと聞かれるが、私は夜中の日の出と答えた。夜中の日の出はイジマでなくても見られるだろうと思われたかもしれないが、それはルド祭があってこそ、感動的だったのだ。アグニャさんのおもてなしにも大感謝だ。
 
 上記アルテェエフさんの7月6日の『レスプブリカ』誌の1面はカラーでイジマ人と交流するガプリコフ知事の写真で、12と13面いっぱいに5枚の写真(その1枚が巨大な作り物の蚊にスプレーをかける私)とともに書かれたルド際の記事には、祭りの由来や歴史、祭りの様子とともに、私のことが書いてある。
『タカコ・カナクラはレスプブリカ誌の質問に関してイジマで最も感動したのは白夜と深夜の日の出だと語る。また、イジマ人のおもてなしにも感謝していると言う。さらにその日本女性は付け加える。「イジマ人と他のコミのサブ・エスニックは区別できない、コミ人とロシア人も区別できない。私には双方の文化や慣習の違いが判らない。言葉は異なるだろうが。しかし、家も衣装も北ロシアと同じだ。これがコミの特徴と指摘することは困難だ。コミ人がロシア人に同化してしまったかのようだ。またはロシア人がコミ人にか。ロシア人とはロシア語を話すフィン・ウゴル人であるように思える。是非ともまた、イジム村に来たい」
とある。しかし、コミとロシア人云々に関しては、今回話したことではなく、以前にSMSメールでアルテェエフさんに書いたことだ。さりげなくまとめてある。実は、コミ人とロシア人云々の私の言葉は、その後のアルテェエフさんの記事にも引用されている。私は、ネットのあるサイトから剽窃したのだが、それは言わない。私は、先住民が侵入者を同化させたことに賛成。
HOME  ホーム BACK 前のページ ページのはじめ NEXT 次のページ