クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 16 January, 2018   (追記・校正:2018年3月8日、9月11日、2019年1月10日、12月18日,2021年12月28日)
35-1 (2)    モスクワから北ロシア コミ共和国(2)
スィクティフカル
        2017年6月25日から7月9日(のうちの6月26日から6月29日)

Путешествие по Коми через москву, 2017 года (25.6.2017−09.7.2017)

モスクワからコミ共和国
1  準備(地図) 成田発モスクワ着 モスクワ郊外の団地 バシュキール人ヤミーリャさん(地図) モスクワ国民経済達成博物館
2  コミ共和国ガリーナさん宅(地図) スィクティフカル市を回る ニュヴィチムの溢流口 児童文学者ガボヴァさん
3   北のイジマ村へ(地図) イジマ村着(地図) ルド祭り 対岸のイジャフスク村 夜中の日の出
4  イジマ川に沿って イジマ7大奇景の大石 旧強制収容者のウフタ市 ナショナル・ギャラリー
5   児童図書館 アルテェエフさんのダーチャ ゲーティド団地 鍛冶屋祭 スィクティフカル発
カフカスからモスクワ
 コミ共和国スィクティフカル市のガリーナさん宅
 6月27(火) 。モスクワ。朝早く起きて朝食を作ってくれたヤミーリャさんには大感謝。マンションから5時半出発。パヴレンコさんが送ってくれてシェレメチェヴォ空港までいく。タクシー代1000ルーブル。私が出すより先にタジク人だと言う運転手さんはパヴレンコさんの出した1000ルーブル札を受け取ってしまった。空港の入り口ゲートには、やはり車の順番ができていた。駐車料金用ゲートが1カ所しか空いてないからだとか。それほど待たずに6時15分には空港搭乗口ホールに到着
 08時40分、シェレメチェヴォ発。アエロフロート航空(6152ルーブル)。パヴレンコさんはこのまま公共交通機関で仕事場(モスクワ中心地近く)に行くと、ちょうどの時間だと言う。パヴレンコさんのマンションから最も近いシェレメチェヴォ空港発着便は、(ロシア国内航空ではほぼ)アエロフロート航空しか運航していないようだ。
 10時30分、スィクティフカル着。待つほどもなく機外へ出て、迎えに来てくれていたセルゲイさんとガリーナさんに挨拶。
1.空港 2.ステファン広場 3.キーロフ(河岸)公園 4.ナショナル・ギャラリー 5.児童図書館 6.オペラ・バレエ劇場 7クラ―トフ文学博物館. 8.駅
スィクティフカル市中心地

 ガリーナさんとは2016年セルゲイさんや彼の妻のアンジェラさんと4人で亜北極圏ウラルの水晶採掘跡のジェランナヤ・ペンションへ行った。1945年生まれのガリーナさんはセルゲイさんの母のクララさんが、コミ国営テレビのトップだった時、その下で働き、またコミの主要雑誌の編集者になり、1996年から99年までコミ共和国の5人の副大統領(今では副知事と呼ぶ)の一人で、文化担当だった。今は退職しているが、知人が多く、みんなから敬意をもって接されている。
 スィクティフカル空港は市の中心から車で10分ぐらい。セルゲイさんの家まで5分ぐらい。スィクティフカル市も、やや大きな川岸のやや大きな市のタイプで、川の一方の岸から半円状に広がっている。(ヤロスラブリなどもそうだ)。スィソラ川の婉曲した方の外側に川岸通りがあり(対岸に市は広がらない、橋をかける必要がない)それに並行した道があり、それらの同心円(しかし半円、つまり弧状)の道に交差して大通りが走っている。中央の大通りがコムニスティチェスカヤ通りで(*)、川岸から鉄道駅までほぼまっすぐ3キロほど貫き、町の見どころはこの周囲に多い。セルゲイさん宅もガリーナさん宅も川岸通りから一つ入ったソヴェトスカヤ通りとコムニスティチェスカヤ通りとの交差点付近にある一等地。
(*)コムニスティチェスカヤ通り コムニスト(共産主義者)の通りの意で、ロシアの多くの市町村にはその名の町名がある。地名が時代の政治状況によってよく変わり、スィクティフカルのコムニスティチェスカヤ通りは、以前は、『ウスチ・ヴィムの3人の聖職者通り』と歴史的な故事を踏まえた長い名前だった。Бывшая Трехсвятительская (была названа в честь 3 уст-вымских епископов)。ソヴィエト時代以前は宗教的な地名が多く、ソヴィエト時代にすべて『革命的な』地名に改名され、さらに現在になって、元に戻った地名も多い。
ガリーナさん宅のキッチン
劇場前広場でガリーナさんとセルゲイさん
コミ族のカレンダー(ステファン広場近く)

 まず、セルゲイさん宅で朝食。今回はガリーナさんが私のホーム・スティを引き受けてくれるので、彼女宅へ。セルゲイさんが車で送ってくれたが、ガリーナさんのマンションまで歩いても近い。彼女の集合住宅は7階建てなのにエレヴェーターがない。規則では6階以上はエレヴェーターをつけなければならないことになっているそうで、建築業者(当時、国営か、すでに民営か)は5階建てを建てて、それを各戸あて売却したことになっているが、7階建てにして売却したのでその分の戸数の売却費を儲けたことになったとか。5階分の戸数を売るより、7階分の戸数を売った方が、建築費を差し引いても儲けが大きく、エレヴェーター設置代も節約できたと言う訳か。
 ガリーナさん宅は5階にある設備の良く整った、つまり『ヨーロッパ風』に修理された(欧風リフォーム евроремонтと言う)2DKマンションだった。モスクワのパヴレンコさん宅と言い、セルゲイさん宅と言い、ガリーナさん宅と言い、システムキッチンが素晴らしい。10‐20年ほど前は、どの家も狭い流し台、電気コンロ台、小さな冷蔵庫しかなかったものだ。
 ガリーナさん宅で私の部屋となったのは、棚と言う棚、追加の棚やテーブルも含め、テーマをそろえたお土産品が整然と並んでいる客間だった。壁には、ロシア各地や外国の観光地の名前を書いた飾り皿がかけられている。一つのテーブルは、テーマが魚。ガリーナさんによるとお土産品の大部分は捨てたと言うが、つまり、残しておく価値のある素晴らしいものか、ガリーナさんのよくよくの愛着のあるものだけが飾られていたというわけだ。ガリーナさんは、私を部屋に案内すると、丁寧に展示物の由来などを説明してくれたが、「まあ、博物館以上だわ」と感嘆の言葉を思いつく。アンジェリカさんによると年配独身女性は自分の巣を飾り立てるものだとか。
 朝早かったので、一休みすることにした。
 夕方、タクシーで市の中心部へ行く。タクシー代100ルーブル。劇場前広場には噴水と、クラートフ(下記)の像がある。ガリーナさんは文学博物館へ行こうと思ったらしいが、もう閉まっていた。セルゲイさんが車で来てくれて、一緒に写真。
 ガリーナさんと歩いて廻る。10世紀ごろのコミ族の青銅製カレンダーがヴィチェグダ川(*)辺で、1975年発見され、そのコピーが街角に展示してある。カレンダーは大きなドーナツ状の時計の形で、1から12の数字ではなく9匹の動物が刻まれ、ドーナツの外側にも内側にも刻み目がある。4日をひと刻みにするとちょうど1年になるとか。1年の初めは3月21日の春分で、クマが彫られ、その鼻の先には赤鹿が彫られ、貂、アナグマ、ヘラジカ、ビーバー、キツネ、リス、イタチと狩猟用動物がぐるりとリングになっている。1年を9期間に分け、たとえば、現代の8月10日から10月4日まではヘラジカが彫ってあり、この期間は繁殖期なので禁猟となっているそうだ。ドーナツの横にはロシア語とコミ語で説明があった。
(*)ヴィチェグダ川は1130キロ、北ドヴィナ川右岸支流。コミではエジヴァЭжва(くさはらの川の意)と言う。エジヴァとはオビ・ウゴル語(ハンティやマンシィ語)からの翻訳借用語。ロシア語のヴィチェグダとは同じくオビ・ウゴル語からの音訳借用がロシア語風になまったもの

 ガリーナさんとぶらぶら歩いて、本屋で地図を買ったり(69.8ルーブル)、スーパーで食料を買ったりして帰る。ホーム・スティで食事は出されるのだが、自分用にミネラル水とジュース、チョコレートなどを買う。ガリーナさんは、自分がお客さんに十分食べさせていないように思えるじゃないと、文句を言うが、水は自分のがあった方がいい。チョコレートは旅行時の非常食。
 ガリーナさんとスィクティフカル市内を回る
 6月28(水)。早めに休んだせいか、夜中の12時半に目が覚めた。明るかったからだ。入眠剤を飲んで眠ったが、2時半ごろまぶしくて目がさめた。起きるには早すぎるので、また入眠剤を飲んで寝たが4時半に目覚める。暑くはないが太陽の光だけは強い。何とか続けて眠ろうとしたが、どうしてもだめだ。6時半ごろは起きて服に着替えた。ガリーナさんは自分の部屋でぐっすり眠っている。
文学博物館で館長とガリーナさん
地質学博物館
ユーリー・リトフスキィさん
バグパイプの演奏

 10時ごろ、二人で向かったのは昨日行こうとして閉まっていたクラートフ名称文学博物館だ。市のたいていの記念建物同様、旧市街地(つまり川岸通り近く)にあり、19世紀初めは地元の大商人のスハノフ家のものだった。スハノフ宅は19世紀後半から郡立の(後に市立の)学校になり、当時コミの文化人が教鞭をとったり、未来の文化人が学んだりした。1924年からはコミ州立博物館となったというものだ。コミでは現在、旧市街地のかつての大商人の邸宅やかつての郡役所に、歴史博物館、民俗博物館、自然博物館などとあり、1969年からは、ここが文学博物館となったのだ。イヴァン・アレクセイヴィッチ・クラートフ(1839‐1875)はコミ文学の創始者。言語学者で詩人。コミの文化人と言えば、第一に彼の名が上がる。
(後記:クラ-トフの伝記を翌年コミ文化会館へ訪れた折、作者のリメロフさんから送られる)
 ガリーナ・ブティレーヴァさんは、コミ内のたいていの文化施設には知り合いがいて、どこへ行っても恭しく迎えられる。コミ政府の高官だったから…
 文学博物館は休館期間中だったようで、ホールの椅子は一カ所に集められ、各ホールも明かりはなかった。
 後に館長からもらったパンフによると、常設は、フィン・ウゴール語族の一つコミ語、コミ文字と19,20世紀初めの研究。クラートフ。20世紀初めのコミ文学。20世紀半ばのコミ文学。現代のコミ文学の6ホールあり、特別展ではコミ族の伝説を描いた版画が展示してあった。
 博物館だから貴重な初版本や原本なども保管されている。もらったパンフレットには『文学の夕餉』などが催された時の写真なども載っていた。
 館長(副館長だったかも)とガリーナさんがしばらく懐かしそうに話していた。文学博物館を1時間ぐらいで引き上げ、次はコミ大学内にあるチェルノフ名称地質学博物館へ行く。ガリーナさんが行こうと言ったので喜んで賛成したのだ。ここにもいくつかのコーナーがあって、コミの、つまり北ウラル山脈の地質学調査史から始まり、鉱物学、地下資源、化石、貴石、岩石学、個人収集物などがある。最後にわざわざ管理人室によって、チケットを160ルーブルで購入した。
 お昼ごろ、セルゲイさんからお昼をごちそうするからと言う電話があり、セルゲイさんとアンジェリカさん宅へ伺う。この家では、いつも大きな立派な食卓で、美しい食器でおいしいものを用意してくれる。スィクティフカル初日はどうでしたかと聞かれるので、夜中が明るくてよく眠れなかったと言うと、アイマスクを貸してくれた。本当は窓ガラスに新聞紙か黒布でも貼り付けたい。
 それから夕方までは特に観光はなかった。小さな町での観光地探しに、ガリーナさんは持てあましそうだったかもしれない。
 夕方、セルゲイさん宅の隣人オリガさんと一緒にみんなで、コミの民族画家ユーリー・リトフスキィ Юрий Литовскийさんのアトリエへ行く。
 そこから、今当地で話題になっているらしいバグパイプ演奏者、ウラジーミル・モラドツォフ Молодцовが演奏しているというバーに行く。彼は地元出身で、スコットランドで演奏を習い、現在はサンクト・ペテルブルクで活動をしているとか。毎年、スィクティフカルに来て広場などで演奏しているとか。バーなので若者がぎっしり座っていて、セルゲイさんの席がなかったのか、彼はすぐ去る。私達も間もなく、その地下室バーを出る。歩いて帰ろうとしていたところに雨が降ってきたのでセルゲイさんに迎えに来てもらう。バグパイプ演奏については、なぜスィクティフカルでスコットランド民族楽器演奏をと思うが、オリガさんやアンジェリカさんは、評判になっている演奏会にこの機会に訪れてみたかったのだろう。後に、『レスプブリカ』誌に載った記者のアルチュール・アレテェエフさんの記事で、私は演奏者の名前を知ったのだ。
 ニュヴィチムの溢流口(いつりゅうぐち)
スィクティフカル市の南60キロ
 6月29(木)。この日の日程は前もって決まっていたので、どこへ行けばいいか考えなくてもいい。
 9時半に郷土研究家と言うガイドのスヴェトラーナ・チュルニナТюрнинаさんがガリーナさん宅へ来てくれ、二人は再会を喜び(コミの文化関係者の多くはガリーナさんの知り合い)、一緒にお茶を飲む。やがてセルゲイさんもアンジェラさんを乗せて来てくれる。この日はスィソラ川の右岸を遡り、ニュヴチム村へ行く。主要道もスィクティフカル市もスィソラ川の左岸にあるので、右岸のこの道を通過するのは初めてだ。
 目的地はスィクティフカル市から40キロほど離れている。18世紀半ば、この沼地に鉄が産出され、ニュヴチム川(31キロ、スィソラ川の右岸支流)とデンヂョーリ Дендёль川(ニュヴチム川の右岸支流)の合流点にロシアから来た商人が工場を建てた。ニュヴチム川の水をせき止めてダム池を作り、農奴を連れてきて働かせたそうだ。18世紀後半から19世紀前半には優良な鋳鉄を生産していたが、1980年代には閉鎖され、人口も2000人から500人に減。
ニュヴチムのパンフレット

 スィソラ川下流(ヴィチェグダ川へ合流点近く)左岸は昔からの村も多い。現代の4輪車が比較的快適に通行できる道路も付いているのは高台になっているからかもしれない。一方、右岸は低地、つまり沼地が多いので道は悪い。右岸にはもともと集落はなく、つまり、自然にできたコミ人の村はなく、ニュヴチムは無人の沼地にできた鉄工場城下村だった。こうした荒野に、スターリン時代の強制移住者は送られたのだ。1940年代から、沼地を流れるカルナナィヨーリКарнанаёль川(11キロ、スィソラ右岸)岸にできた上カルナナィヨーリ村と下カルナナィヨーリ村、ヤスネグ Яснэг村などだ。これらの村は、ヴォルガ中流から強制移住者させられたヴォルガ・ドイツ人、旧富農、第2次大戦時の反ソ軍(*)参加者たちからできていた(すべて強制移住者)。たとえば、1949年上カルナナィヨーリ村には120人のドイツ人、3人の元富農、54人のウラソフ同調者がいたそうだ。未開拓地にできた強制移住者村の上下のカルナナィヨーリ村などは、今は廃止され、残っていた村民はニュヴチム村などに移っている。今は、その場所に墓地だけある。
 
(*)第2次大戦時西ウクライナの『反ソ連軍』は『ロシア解放軍Русская освободительная армия』と自称した。独ソ戦の最中に結成されたソ連人捕虜による反共産党の対独協力者の軍事組織とウィキペディアにある。総司令官はアンドレイ・ウラソフ
かつての村の説明書の横のチュルニナさん
図書館兼文化会館、
私の左後ろの館長がパンフを作った

 『カルナナ』と言うのは、今でも水を運ぶ時などの担いでいた弓型の天秤棒で、『ィヨーリ』と言うのは森の中の小川の意味だと、チュルニナさんが説明してくれる。廃村になっても、この辺りは『豊かな』沼地が続き、ベリー類キノコ類が豊富だ。

 ガイドのチュルニナさんがまず案内してくれたのは、ニュヴチム村のプロメテイ・チスタリョフ Прометей Чисталёвと言う音楽家の生家。チスタリョフはコミの民族楽器を集めた作曲者であると、家の前の看板に書いてあった。生家は村の入り口近くにあったようだ。村の出口近くには工場跡とダム湖が見える。ここにも由来の看板が立っている。村の中央の草原(に見えるが、村の中央広場)に行くと、ここにもかつての村の説明のある看板と村役場、そして図書館兼文化会館の新しい建物がある。ここは開館していて、みんなで入る。子どもたちが何人かと若い館長がいて、チュルリナさんは彼女たちと挨拶。ニュヴチム村をコミの観光地の一つにしようと努力している。現に歴史や由来を書いた看板が数カ所立っていて、『ニュヴィチムの溢流口(いつりゅうぐち)Нювчимские переливы』と言うA4判表裏のカラー印刷して3つ折りにしたツーリスト用パンフレットまで出ている(上記写真)。
 児童文学者ガボヴァ
スィソラ川の浮き橋。
エレーナ・ガボヴァさんと
2015年にアマゾンから購入
チェルニナさんと夫
 ニュヴチム村を12時ごろ出たが、道が悪いので長い間かかって、対岸のゥイブ村に着く、沼地のスィソラ川に橋はないが、夏場だけ浮き橋がかかっている。だからスィクティフカル市まで戻らなくても、ヤスネグ村近くから、ザハロヴォ村近くへ行けるのだ。途中セルゲイさんのダーチャへ寄ってから、エレーナ・ガボヴァ Елена Габоваさんのダーチャへ行く。
 エレーナ・ガボヴァさんは、児童文学者で多くの作品があって、日本語に翻訳されたものもある。1999年の学研から野田素子訳、川口峰子画で出版された『わんぱくアントンと少女探偵団』というものだ。コミの作家で日本語に翻訳されたものがあると、前から聞いていたので、私はアマゾンで購入して読んだことがある。が、原作者に会えるとは思わなかった。1952年生まれのガボヴァさんは銀髪のショートカットでとても魅力的だった。この別荘で夫のピョートル・ストルポフスキィ Петр Стлеповскийさんと二人暮らし(彼女の本名はエレーナ・ヴァシリエヴナ・ストルポフスカヤ)。別荘は夫が建てたと言う。こちらでは男性は黄金の腕を持っていると言うわけだ。そして同じく作家でもある。2階も見せてもらったが、日本で普通の男性はとてもここまではできないと感心。
 彼女の息子さんは30代半ばで病死した。コミの原生林に調査旅行中、発病して手当てが遅れたので(死ななくてもいい病気で)死んでしまったそうだ。悲しい話だ。
 ガボヴァさんは1度だけ日本へ行ったことがある。学研出版社の編集者が招待してくれて東北を旅行したそうだ。日本のことをとても好意的に話し、日本食がおいしかったと言う。箸で食べることも練習したそうだ。私は日本からお土産の箸を持ってきていたが、この時持ってこなかった。後にセルゲイさんに、託して届けてもらった。
 6時ごろにはチュルニナさんを彼女のダーチャに送る。セルゲイさんも、ガボヴァさんも、チュルニナさんもゥイブ村にダーチャがあるのだ。ダーチャ団地として開発されたわけではなく、元々は村だったので、ダーチャはお互いに離れ、持ち主でないと見つけられないような場所にある。
 チュルニナさんをダーチャに送り届けた時、彼女の夫が出てきた。彼はウドムルト人だという。スヴェトラーナ・チェルニナさんは父がウドムルト人で母がコミ人。ウドムルトとコミが分かれたのはコミ人とフィン人が分かれたよりずっと後だ。つまり、コミ語に一番近いのはウドムルト語。コミ人もロシア人も区別はつかないと思っていたが、数世代前からコミ人だと言う人の容貌は、やはりロシア系とは違う。
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