クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home  up date  16 January, 2018  (追記2018年3月19日、9月13日、2019年12月18日、2021年12月29日)
35-1-(4)   モスクワから北ロシアのコミ共和国(4)
イジマ川
        2017年6月25日から7月9日(のうちの7月2日から7月4日)

Путешествие по Коми через москву, 2017 года (25.6.2017−09.7.2017)

モスクワからコミ共和国
1  準備(地図) 成田発モスクワ着 モスクワ郊外の団地 バシュキール人ヤミーリャさん(地図) モスクワ国民経済達成博物館
2  コミ共和国ガリーナさん宅(地図) スィクティフカル市を回る ニュヴィチムの溢流口 児童文学者ガボヴァ
3  北のイジマ村へ(地図) イジマ村着 ルド祭り 対岸のイジャフスク村 (地図) 夜中の日の出
4 イジマ川下流へ イジマ 7大奇景の大石 旧強制収容所のインタ市 ナショナル・ギャラリー
5  児童図書館 アルテェエフさんのダーチャ ゲーティド団地 鍛冶屋祭 スィクティフカル発
  カフカスからモスクワ
 イジマ川下流へ (地図は前ページのここ
 7月2(日)。祭りで夜更かしした村人は、この日は日曜日なのでゆっくり起きる。祭りの翌日は休息するので、出し物は図書館での小規模な文化的集まりの他はない。私達はイジマ区の観光をしよう。アルテェエフさんがチェルノボルスカヤ Черноборская村(*)へこうと誘ってくれたそうだが、ガリーナさんとアンジェラさんが断固反対。なぜならチェルノボルスカヤ村は左岸にあり、道路は右岸にしかないからだ。イジマ村は右岸に、その対岸に4村が並んであり、イジマ川の浮き橋も含めてそれら5村のみをつなぐ道はあるが、最も北のシジャブスク村で道は終わる。だから、シジャブスクより30キロ近くも北にある左岸に行くには、右岸からのボートを利用しなければならないが、イジマは危険な川だ。ボートで対岸に渡ろうとして急に風が吹いて転覆することが多いと言って、ガリーナさんたちは大反対する。
(*)チェルノボルスカヤ村 アルテェエフさんはそこへ行った。後に記事を送ってくれた『イジマの針葉樹林帯の行き止まり Таежный тупик на Ижме』と言う題で新聞は7月24日発行。過疎村チェルノボルスカヤは古くからあったが50人以上の住民だったことはない、現在、冬場は3人のみ。その一人の80歳のゾーヤ・カネーヴァはシジャブスク出身だった。チェルノボルスカヤから最も近い同岸の村はシジャブスクだ。
 チェルノボルスカヤ村は右岸のイジマ村から30キロほど北に行ったところで道から出て左岸に渡るのだが、ボートを拒絶したガリーナさん達が行かないと言う以上、みんなも行かない。それなら、70キロほど北のマーロエ・ガーロヴォ村の有名な大石を見てきたらいいですよとアグニャさんが勧めてくれた。川を渡らなくていいし、まともな陸路もある。イジマ区の名所でもある。
 10時ごろ家を出る。まずは、図書館へ寄る。なぜなら、前記のように2日目の催し物が、ここであるからだ。図書館では館長はアグニアさんの知り合いで、私達の訪問は知らせてあった。愛想よく案内されて、その時集いを開いていた文学グループの仲間に入り、ガリーナさんがあいさつ。みんなで写真を撮る。民族衣装を着て歌ってくれた一団とも写真。記念品のイジマ人形をもらう。30分ほどいてそこを出たのは12時ごろ。
イジマ川右岸の村の一つ
マーロエ・ガーロヴ村の川岸の上

 イジマ川に沿って、北西へ北西へと行く。イジマ川右岸のかなり傷んでいても一応は舗装がしてある道を行く。対向車も数十キロは出会わないと言う交通量の少ないこんな道を走るのは好きだ。これはイジマ区にある主要道『ウフタからイラョリとイジマを通りウスチ・ツィルマ』道、全362キロ(10時間)の一部だ。
 ウフタより南から北へと延々と流れてきたイジマ川は、この先もう少し流れてペチョーラ川に合流し、ペチョーラ川はさらに北へ流れネネツ自治管区を通って北極海に流れ出すのだが、イジマ川のペチョーラ川合流点近くにもいくつかの村がある。人口600人と最も大きいクラスノボル村にまず入る。ここにイジマのテレンチエヴァ区長が住んでいるそうだが、後ろの席のガリーナさんとアンジェラさんが、彼女は毎日ここから通ってくるのかしら、とあまり友好的ではない口調で噂している。片道50キロ以上はある。村はなかなか豊そうで家々の屋根も塀も美しい。店があったので入る。田舎を通るとき店を覗く機会があれば、私は逃さない。クラスノボルの店は明るくて、商品が自由に手に取って選べるスーパーのような都会の店と変わらなかった。
 隣にカフェまであって、マイクロ・バスから降りた一行がぞろぞろ入っていった。珍しい光景だ。祭りの翌日なので記者団だったようだ。私達も帰りに入ろう。(しかし、帰りには閉まっていた。常設ではないのだ。)
 クラスノボルから1キロも行ったところで北東への分かれ道がある。そこを曲がって沼地と山を越えて8キロも行くとでシャリヤユール村 Щельяюрに通じる。シャリヤユールはイジマ川ではなくペチョーラ川の左岸にあり、そこで渡し船に乗って対岸に渡ると、続きの道があり60キロも行くと、ウスチ・ツィリム区の中心ウスチ・ツィリム村に着く。この北東へ曲がる方が共和国道で、ウフタの北イラヨリから渡し船航路も含め220キロだ(上記全362キロの一部)。
 私たちはそちらの共和国道へは曲がらないで、直進のイジマ川右岸に沿った広いが寂しい非舗装道を進む。
 ちなみに、帰りは、私のたっての依頼でシャリヤユール河岸港に寄った(下記)。 
 イジマ七大自然
イジマ右岸に流れ込む小川の一つを渡る
大石(コンクリーション)のある川岸
セルゲイさんとアンジェラさん
帰りもボートを引いたり押したり
シャリヤユール河川港
トラックを積んだフェリーが出発
民族衣装の着せ方。まずは地元の女性に
 クラスノボルを過ぎると小さな村がイジマ川の終わるまで、つまりペチョーラ川に合流するまで、7個ある。その一つが私たちの目的地マーロエ・ガーロヴォ村だ。『マーロエ・ガーロヴォ』と標識のあるその村に着いたのは13時過ぎ。大石がごろごろあると言う川岸を探す。『コミ七大奇景』の中には入っていないが、『イジマ区七大自然』には入っている。
 村はイジマ川岸の高台にあり、急な坂道を降りるとイジマ川水面近くの川岸に出られる。崖の下は砂地の狭い河原になっていて、小さな川がイジマへ流れ込んでいる。川と言うより底に水のたまった窪地で、川岸を歩こうにもこの窪(あるいは川あるいは沼地)を越えなくてはならない。この向こうに大石が見えるのだ。ぼろ船が河口につないであった。沼地を進んでぼろ船で対岸の沼地へ渡るほかない。ほんの5メートルくらいの浅い水場だが、歩いて渡るわけにはいかないから。私たちが乗ったぼろ船をセルゲイさんが竿で5メートル、押してくれた。
 渡ったところも砂地で、そこに、3メートルはありそうな球体の石が数十個もあった。半分は砂浜にめり込んでいて、地表の大イボのようだ。楕円形のもの、割れ目の走っているもの、割れてしまったもの、などが河原や浅瀬にムッとしたように陣取っている。恐竜の卵のようでもあり、古代文明の残照のようでもあると形容されている。
 この大石群を村人(住民30人)さえあまり知らない(関心がない)。数年前ある写真家が上手に写した写真が新聞や雑誌に載り話題になったのだ。それ以来名所の一つとなったのだ。しかし、大石の写真は実は、1929年に最初に映されていた。
1929年の写真
これはウフタの石油採掘調査隊(国家政治保安部、つまり秘密警察GPUの所属、調査隊は囚人を含む)が写したものだ。当時、コミの中央部にあるウフタへは、もちろん陸路はなく、調査隊はアルハンゲリスクから北極海を渡って、ペチョーラ湾にたどり着き、ペチョーラ川(1809キロ)をさかのぼり、イジマ川との合流点まで来て、今度はイジマをさかのぼり、ウフタ川(199キロ)合流点まで来た。さらにはウフタ川を35キロほどさかのぼりチビユ川(49キロ)との合流点までたどり着き、そこにチビユと言う油田開発の拠点を作った。チビユは1939年ウフタと改名し、その後大石油産地となった。その最初の調査隊がイジマ川をさかのぼるとき、写した写真の中にマーロエ・ガーロヴォ村の大石がある。
 その大石とはコンクリーションのことで、鉱物事典によれば、「堆積岩の特定の自生鉱物組成が団塊状または不規則に濃集したものを総合した名称」とある。世界中に大小いろいろの形をしたコンクリーションがあるそうだ。生成過程も様々だ。鉱物を核として何百万年もかけてできたものもあり、核に保存状態の良い化石が見つかることもあるそうだ。マーロエ・ガーロヴォのコングレーションは地質学者によれば、炭酸鉄からできていて200万年以上ではないそうだ。
 新聞に載った写真で有名になったマーロエ・ガーロヴォの大石だが、さすが遠くからのツーリストはここまで来ないだろうが、近郊から訪れる人々が増えた。大石にはところ狭しと落書きがされるようになってしまった。

 ここですることはせっせと写真を撮ることのみ。2時半ごろ引き上げて元の道路に戻る。せっかくイジマ川もここまで来たのだから、まだ時間も早いので、ペチョーラ川を見たいと頼んだ。2年前にヴクティルで見たし、川は川で、広いか狭いか、深いか浅いか、水が流れているだけでどれも同じだとセルゲイさんは言うが、一応寄ってくれた。クラスノボルから北へ曲がるとイジマ川右岸とペチョーラ川左岸が最も近づいているところで、前記のようにシャリヤユールと言う河川港がある。シャリヤユールは18世紀からあった村だが、20世紀後半にウフタから陸路で北上し、ここでフェリーに乗り移り、目的地まで航行する地点として発展した。今は人口3000人の村(船着き場は村より数キロ離れている)
 行ってみると、ちょうどシャリヤユールからネネツ自治管区のナリヤン・マル Нарьян-Марへいく渡し船が停泊していた。DSVと書いた大型トラックがバックで乗ろうとしている。角材を積んだ大型車や、背の高い重機も先に乗っている。まだ乗せる場所には余裕があるが、フェリー船は陸地とつながるブリッジを上げて出港していった。ウィキペディアによると、DSV(デンマーク語: DSV A/S)は、デンマーク・コペンハーゲン近郊のHedehuseneに本社を置き、陸海空のロジスティクス・サービスを提供する、世界有数の規模を持つ貨物運送会社。日本法人はディエスヴィ・エアーシー株式会社。
 マリヤン・マルはペチョーラ川の下流にあって、ここから船で380キロ、ほぼ1日かかる。渡し船は週に3便ほどしかないから私たちは、ラッキーだった。ちなみに乗客は片道2000ルーブル、車は8メートルくらいのトラックで2万ルーブル。「内地」からネネツ自治管区中心のナリヤン・マルへ行くには、航空便でなければ、このコースしかない。
 ここでも写真を撮って満足して引き上げる。

 4時過ぎにイジマ村へ戻る。約束があって、私たちはアグニャさんの親せきの家へ寄る。その女性はイジマ民族衣装を作っているそうだ。そこで、試着をする。どうせ私が着ても似合わないが、一通り着せてもらって、写真を撮る。
 7時ごろアグニャさんの家に戻るとお別れ夕食会だった。地元の記者も来ていてインタビューされる。イジマの写真集が贈られたのはありがたい。
 ちなみに、この日は朝マーロエ・ガロヴァへ出発する前に、村で一番大きい店へ行ってアグニャさんへのプレゼントを買った。散々お世話になったし、宿泊料を支払おうとしても決して受け取ってくれないだろうからと、アグニャさんの趣味に合いそうなバッグを買ったのだ。アンジェラさんとガリーナさんがあれやこれらやと選んでいる間、店ではトイレに行きたくなってもないのが普通だ。普通は、トイレはどこですかと聞いてもないと言われる。しかし、ここではとても愛想よく、店員用のトイレに案内してくれた。店員にしては愛想が良すぎる。外国人が祭りを見に来たよと言う情報でも入っていたのかな。
 大規模強制収容所だったインタ市
 7月3(月)。10時過ぎ、私たちはイジマ村を後にして、元来た道を戻っていった。途中のウフタ市は通過したことは何度かあるが、街中を見たことはない。ガリーナさんが旧市街地見物を提案してくれたが、アンジェラさんは、長居はしたくなさそうだった。自分たち夫婦は、ウフタ市を何度も訪れているからと言っていた。ウフタ市でも、インタ市でも、ヴォルクタ市でも、ノリリスク市でも無人の地に資源採掘の収容所群・バラックから始まった町は、未開拓・荒野に名だたる建築家(しかし囚人)の設計でゼロから作られた人工的で美しい街並みのことが多い。機会があれば見ておこう。
レーニンが建つ中央広場
ブルーニ製作のプーシキン像
ヴィクトリアさん
後ろのビルにはルクオイル・コミと言う看板
元文化会館の教会
ほぼ完成の新サナトリウムだが、閉鎖中

 2時半ぐらいに旧ウフタ市(新ウフタ市はどこでもそうだが無味な団地・ベッド・タウンに過ぎない)の中央広場に着いた。レーニン像が広場に向かって立っている。その背後にある大きな建物の一部がウフタ区文化会館だ。つまり、ガリーナさんの知り合いがいる。館長は若い女性でヴィクトリア・ガボヴァ Виктория Габоваさんと言う。彼女もイジマのルド祭から帰ったばかりだった。私達と同じだ。ヴィクトリアさんは、館内の展示物を案内してくれて、私にルド祭の印象を尋ねる。最も印象深かったのは夜中の日の出だったと言う私の答が、彼女には印象的だったそうだ(後のメールのやり取りから)。
 館内を一通り案内してくれると、彼女は外に出て、旧市街も案内してくれた。広場のレーニン像の反対側には小さな公園があって、プーシキンの像があった。サンクト・ペテルブルクでよく見かけるポーズで椅子に座って本を持つプーシキンだ。しかし、プーシキンとは関係ないこんな石油と収容所の町ウフタになぜ?
 ヴィクトリアさんが、この像の作者は囚人だったことを教えてくれる。1937年にブルーニ Николай Буруни(1891生まれ)と言う芸術家が作ったのだ、ブルーニは、画家、音楽家、詩人、飛行士、神父で、1938年にウフタ・ペチョーラ・ラーゲリ(1931年チビユ(ウフタの旧名)に本部が設けられた。資料によって収容人数は異なるが6万人から9万人。1938年、ヴォルクタ・ラーゲリやウフタ・イジマ・ラーゲリ、北部鉄道ラーゲリなどに分割される)で銃殺されている。
 1950年代に囚人だが専門の建築家たちによって設計建設されたウフタ旧市街はそれなりに美しい
 ファサードに列柱が13本並んだソヴィエト様式の建物があった。もともとはここは文化宮殿(文化会館)だった。モスクワのボリショイ劇場のような外観だ。しかし、現在、列柱の上には十字架が張られ教会に変貌していた。ソ連崩壊後、宗教が復活し、多くの教会が新築か修復されているのはいいが、何も文化宮殿(文化会館)を教会にしなくてもいいではないかと、ガリーナさんは憤慨している。ソ連文化政策の拠点だったかつての文化宮殿は確かに立派な建物で、そのまま文化宮殿として市の文化活動の中心であるべきで、教会にしなくてもよいと、共和国文化担当だったガリーナさんの意見だ。賛成だ。ソ連時代にできた工業都市には修復しようにも革命前の教会がそもそもない。しかし、イジマ村のような古い村でも、(ウフタ市のような財政豊富でなくても)早急に修復ができかねる教会の横に、新規に小さめの教会を建てているではないか。
 モスクワのボリショイ劇場か、サンクト・ペテルブルクの離宮を思わせるような8本の列柱の建物は、1951年囚人の建築家が建てたものだ。そして、今、聖ステファン・ペルム教会となっている。自分の設計した文化宮殿が教会になると聞いてその建築家は涙を流して喜んだそうだ(彼は5年の刑で、終了後もウフタにとどまる)。彼はもともと教会の設計をしたいと思っていたが、ソ連時代それは不可能だった。だが、ところどころ教会建築様式を、こっそり取り入れたそうだ。しかし、外見は聖ステファン・ペルム教会はどう見ても劇場か文化宮殿だ。十字架がなければ教会とは思えない。
 4時ごろにはウフタ市を発つ。共和国道は北部鉄道に沿って(ソ連時代収容所が列島のようにあったと言う)ツンドラ森林地帯をヴィミ川のィエムヴァ市に向かう。ヴィミ川はヴィチェグダ川に流れ込み、合流地点には中世以前コミ人の中心だったウスチ・ヴィミ(ィエムヂン)村がある。エムヴァからウスチ・ヴィミまでは、共和国道は北部鉄道から離れ、スィクティフカル市の方へ向かってヴィミ川の左岸を通る。中ほどにセリョゴヴォ村(ィエムヴァから38キロ、スィクティフカルまでまだ100キロ)があり、17世紀は岩塩の大産地で、いまは採掘されてはいないが、鉱泉場として1960年代サナトリウムが建てらた。最近新サナトリウムができたそうで、ガリーナさんが見たいと言う。セリョゴヴォ村と旧サナトリウムは右岸にあるが、新サナトリウムは国道の通る左岸にある。新しく快適そうな宿泊施設だが、門が閉まって「関係者以外立ち入り禁止」の札がでていた。帰国後ネットで調べたところ、共和国から2011年から2015年にかけて予算のでていたこのサナトリウムに関して、共和国トップの不正があり、完成間際に工事はストップ、閉鎖されたらしい。
 夕方7時過ぎにスィクティフカルのガリーナさん宅に帰宅。
 ナショナル・ギャラリー(スィクティフカル市)
 7月4日(火)。休息の日だ。コミを発つのは9日だからまだ5日もある。自宅での5日は瞬時にすぎるが、旅先では長い。最後の7月8日にはコルトケロス村の鍛冶祭りに行き、6日にはジャーナリストのアルテェエフさんが自分の別荘に招待してくれることになっているが、それでも残りの3日間どこへ行って何をするか、ガリーナさんやセルゲイさんを悩ませたものだ。
 この日は、2時過ぎ、ナショナル・ギャラリーへ行った。
 川岸通りをまっすぐ歩いていくと、立派な3階建ての建物があり、19世紀末に聖職者の学校として建てられた。当時もっとも大きな建物だったそうだ。後に教育大学になり、1993年から美術館としてある。コミで唯一の美術館だ。
 ガリーナさんは私を知り合いのガイドに託すと、帰っていった。ガリーナさんに頼まれた若いガイドは丁寧に案内してくれた。外国語用ガイドだったのかもしれない(私はロシア語でいいのに)。途中で英語圏の見学客が来て、私の案内を同僚に頼んでそちらへ行く。私はよほどゆっくり見物していたのだろう、英語の説明が終わった前のガイドが戻ってきて引き継いでくれた。3時間以上も見学して、川岸通りを戻る途中にガリーナさんが出迎えてくれた。二人で、スィソラ川まで下りて、夕方8時前の明るい空を見ながら散歩。
 護岸工事のできた川岸通りはキーロフ公園を伝って降りる。中央の階段は整備されているが、公園わきの階段は古いままで雑草が生い茂っている。中でも大きな葉を広げ群生している背の高い草を
「ボルシェヴィッキ борщевикだから触らないように」とガリーナさんが注意してくれる。ロシア革命時レーニンたちの党はボリシェヴィッキ Большевикと言った。それで、ガリーナさんに問いただして、笑われた。手帳につづりを書いてもらって私も納得。植物のボルシェヴィッキは、セリ科の和名ハナウド属で、英名ホグウィード。その中でも、ジャイアント・ホグウィードは、根、茎、花、種のどの部分の液体でも皮膚に触れ、日光に当たると植物性光線皮膚炎にかかる。少量でも目に入ると失明する。侵略的外来植物で、ヨーロッパやアメリカでは駆除や除草剤散布が行われているそうだ。ガリーナさんによると予算がないからここまでは駆除できていないという。
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