up date | 16 January, 2018 | (追記・校正: 2018年3月7日、7月18日、9月9日、2019年1月10日、12月18日、2021年12月26日) |
35-1 (1) モスクワから北ロシアのコミ共和国(1) モスクワ経由 2017年6月25日から7月9日(のうちの6月25日から6月26日) |
Путешествие по Коми через москву, 2017 года (25.6.2017-09.7.2017)
ロシア連邦地図 |
モスクワからコミ共和国(6/25 - 7/9) | ||||||
1. | 6/25-6-26 | 準備(地図) | 成田発モスクワ着 | モスクワ郊外の団地 | バシュキール人ヤミーリャさん(地図) | モスクワ国民経済達成博覧会 |
2. | 6/27-6/29 | コミ共和国ガリーナさん宅(地図) | スィクティフカル市を回る | ニュヴィチムの溢流口 | 児童文学者ガボヴァさん | |
3. | 6/30-7/1 | 北のイジマ村へ(地図) | イジマ村着(地図) | ルド祭り | 対岸のイジャフスク村 | 夜中の日の出 |
4. | 7/2-7/4 | イジマ川に沿って | イジマ7大奇景の大石 | 旧強制収容所のウフタ市 | ナショナル・ギャラリー | |
5. | 7/5-7/9 | 児童図書館 | アルテェエフさんのダーチャ | ゲーティド団地 | 鍛冶屋祭 | スィクティフカル発 |
カフカスからモスクワ (7/9 - 7/26) |
旅の準備 | ||||||||||
この年初めには、コミ共和国(ロシア連邦の構成主体の1つ)のガリーナ・ブティレーヴァさんからイジマの祭りに誘われていた。昨年もイジマ村へ行こうとコミを訪れたが、そのイジマへは行かずに亜北極圏ウラル山中のジェランナヤ水晶発掘所跡へ行った。イジマ村は夏祭り『Лудルド』の時でないとつまらないと言われたからだ。今年はその『ルド』の日程に合わせて、ペチョーラ川を観光船で下ってブィゾフ村のチェルニャニ・ガジュЧернянь
гаж祭り、イジマ村のルド祭り、ウスチ・ツルィマ村のゴルカГорка祭りと順番に見ていくという企画がコミ共和国の文化部にあって、ぜひこれに参加しようとガリーナさんに招かれていた。(それらの祭りの地はペチョーラ川に沿ってあり、1週間ごとくらいの間隔で開催されるので、船で航行するとちょうど日程が合う)。その後、観光船を出すという企画は費用がかかりすぎると中止になったそうだが、ガリーナさんからは交通機関は考えるから1ヶ月くらいの予定で来てほしいと言われていた クラスノヤルスクやトゥヴァは、今年はパスすることにした。北のコミと、昨年も行って気になっていた北コーカサス(カフカス)の北オセチア・アラニア共和国のウラジカフカス市を訪れようと思ったのだ。日本からの行き方としてはモスクワまで飛んで、そこから北のコミ共和国首都のスィクティフカルへ行き、またモスクワに戻って南のウラジカフカスへ行き、日本へ帰るために3度目にモスクワに戻るというモスクワ基点の、全コースで1ヶ月くらいの期間がよさそうに思われた。(コミだけに1ヶ月は長すぎる)。 昨年はサンクト・ペテルブルクを基点にしたが、それは、日本から一旦クラスノヤルスクに行き、そこから西へ飛んだからだ。日本(ここ数年は成田空港のみ)からだと直通便があるのは、極東の他はモスクワだけだ。モスクワにはそれまで知り合いがいなかったが、最近パヴレンコさんと言う男性との文通が復活している。だいたいの日程とコースを彼に知らせると、モスクワでの送迎とホーム・スティを快諾された。直後のメールに、私の帰国といっしょに妻と日本へ行きたいから個人招待状を出してほしいと書いてあった。お互いホーム・スティをするのは気が楽だから私も快諾。(しかし、彼は自分の休暇は8月15日からだと書いてきた。私の日程は変えられない。メールをやり取りしているうちに、彼らの日程は明確でなくなり、のちに、彼にモスクワで会ったときは海外出張があるかもしれないから今年はいけないと言われた。一応個人招待状は持って行ったのだが。その後、クリミヤアで休暇を過ごしたようだ。ロシア政府が実効支配するようになって、クリミアへの旅行者が増えた)。
彼はモスクワではなく、モスクワ中心までは2時間はかかると言う北西の衛星都市クラスノゴルスクに住んでいる(と後にわかった)。これでは、空港までの3回もの送迎は不便だ。モスクワには現在(当時)、シェレメチェヴォ(北西)、ドモデェドヴォ(南)、ヴヌコヴォ(南東)の3カ所の空港があって、東京からシェレメチェヴォに離着するアエロフロート便とドモデェドヴォに離着するS7便がある。東京モスクワ往復料金と、空港から彼の自宅まで送迎してくれる手間(休日なら送迎が好都合)を考えて、次のような日程を立て、チケットを購入した。 6月25日(日)S7航空とJALの共同運航。成田発、モスクワ・ドモデェドヴォ着(往復85,560円、日本で購入) 7月27日(火) アエロフロート航空。8時40分モスクワ・シェレメチェヴォ空港発、10時30分スィクティフカル空港着(ロシアの旅行社からネットで購入。5093ルーブル、カード引き去り11,512円)。シェレメチェヴォ空港が彼の自宅に一番近い。 7月9日(日)UTエアー航空。6時20分スィクティフカル空港発、モスクワ・ヴヌコヴァ空港8時20分着、8時間20分空港で待って、乗り換え便で16時40分ヴヌコヴォ空港発、19時ウラジカフカス空港着(ロシアの旅行社からネットで購入、13,436ルーブル、カード引き去り28,036円)。しかし、荷物を含まない料金だったので空港で2回分4000ルーブル徴収された。 7月20日(木)ロシア鉄道。17時46分ウラジカフカス駅発、22日6時30分モスクワ・カザン駅着(ロシアの旅行社からネットで購入5093ルーブル、カード引き去り10,255円) 7月27日(木)17時15分モスクワ・ドモジェドヴォ空港発、28日8時35分成田着 事前に購入したチケット代、ビザ取得手数料(5400円)を入れて140,763円。出発前、富山県に来ていたディマに77,000円(39,000ルーブル)両替してもらう。出発前に購入したホーム・スティ先などへのお土産代(約2万円)。17日に宿泊したグローズヌィのホテル代(6500ルーブル、カードで支払い12,569円)。ほかに109ドル。自宅から成田空港までの交通費(往はANAで9366円、復は新幹線で16,586円、前泊の成田空港近くのホテル代(6800円)、宅急便代(1700円)など34日間の出発から帰宅までの全旅費は自分へのお土産、本代などを含めて約30万円だった(3000ルーブルほど残金あり。次回に使う)。 6月24(土)1時40分のバスで金沢駅から小松空港へ。空港売店で金沢絵手ぬぐいなど購入。ウラジカフカスのルスランが欲しいと言っていた(1296円を2枚、お土産品は見た目より高い) ANAで小松14時40分発、成田15時55分着。すぐシャトルバスで成田エアポートゲストハウス。夕方のまだ早い時間だが、寝ることとお風呂に入ること、スマホでモスクワなどに連絡すること以外にすることがない。それにホテルの周囲には道の他は何もない。コンビニもなく、レストランは安くないので軽食を持参していた。モスクワのパヴレンコさんにワッツアップで電話。彼は空港に迎えに来てくれることになっているから、お互いに確認しておく。 |
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成田発、モスクワ着 | ||||||||||
6月25日、成田空港近くのホテルではすることもないので、早めに寝て早めに起きて早めのシャトルバスでホテル発、成田空港着。そこでは3時間も前から搭乗手続きを始めていてくれた。私が最初の乗客だった。と言うのも9時間も飛行するのに、良い席を取りたいと思ったが、ネットで搭乗手続きも座席指定もできなかったから、早めに窓口に行った。係りの人に聞いてみると安全のため、対面でのみ手続きをしているとのこと。これは帰りの便でもそうだった。 成田空港免税店でパヴレンコさん希望のサントリー・トリス2500円を購入(大瓶は重いので小瓶)。 10時45分成田発『S7シベリア・エア・ライン』はJALとコード・シェア(共同運航)していて、カウンターの職員はもちろん、機内乗務員も見かける限りは日本人だった。ロシア人の乗務員は、国際便でもサービスがよくないこともある。(例えば、薬を飲みたいから水がほしいと頼んでも、自分の仕事が終わらないと持ってきてくれない。日本人乗務員なら、自分の仕事があっても、手のあいた同僚に頼んで乗客の要望をすぐかなえてくれる。ロシア人乗務員はひざ掛け毛布はすぐには絶対にくれない)。機内ではビデオを見て過ごす。 15時モスクワ・ドモデェドヴォ空港着。迎えに来てくれるパヴレンコさんに電話する。S7便はこの5年間の記録で最も定刻に発着する便だそうだ(2016年8月2日の成田ハバロフスク便の延着は苦しかったが)。しかし、飛行機は着陸しても、なかなかドアが開かなかった。空港内が満員だからしばらく待ってほしいとアナウンスがあった(それは延着も同然ではないか)。数十分もざわざわとする機内で待って出てみると、本当に入国審査のあるホールは人であふれていて、窓口がどこか、行列がどう伸びているのかも不明。最後尾に着いたつもりでも順番が全く進まない。この時刻にあまりにも多くの便が到着したからなのか、窓口が少ないからなのかもわからない。S7便がいくら定刻についても、この空港では意味がない。
入国審査を済ませるまで2時間ほどもかかった。だから荷物はとっくに出てきているはずだ。ターン・テーブルのホールに走りこんできた私を見て、どの便かとも聞かず、ロシア人職員が成田便のトランクが集まっている場所を指さしてくれた。 10回 ほども、黄色いジャンパーを着て右側で待っているからとショート・メールを送ってくれたパヴレンコさんはすぐ見つかった。モスクワがやたら不便で、これまで乗り換えにモスクワを利用しなかったのは、空港からの交通が不便だからだ。タクシーは渋滞で時間がかかり、値段も高いだろう。パヴレンコさんのメールには「自分は30キロまでの荷物は持てるから公共交通機関で家まで行こうと」と書かれてあった。私のトランクは19キロでもちろん車輪付きだ。彼の家までは空港特急、地下鉄を2回、郊外電車、徒歩10-15分、合計3時間以上と言う道のりだと言う。
まず、空港特急(エクスプレス)に乗るが、500ルーブルと言う安くない値段なのにドモデェドヴォ空港をいったん出て段差のある非舗装道(工事中とか)を数分歩かないとプラット・ホームにつけない。終着のパベレツカヤ駅では空港特急駅を出て、いったん地上に上がり、それから、また、段差のある歩道を通って地下鉄のパベレツカヤ駅に潜る。モスクワは普通に歩いてもやたら段差がある。地下鉄駅には改札口(50ルーブルで買ったメダル、または500ルーブルで13回ほど乗れるカードを入れるところ)を入ると、ホームに降りる長いエスカレーターはあるが、乗り換えとなると、短いが階段を登り降りしなくてはならない。シューキンスカヤ шукинскаяと言う地下鉄駅から出て、クラスノゴルスク方面の郊外電車駅トゥシノ Тушноにたどり着くにも数分は段差のある道を歩き、また、階段の上り下りもある。この郊外電車を20分ほど乗ってアパリハ Опалиха駅で降りる。彼らのマンションまでの近道では、舗装があったりなかったり、あっても割れていたりで、私のスーツケースは、ごろごろと苦しそうな音を立てていた。 出発前からの電話連絡では空港から家までの交通費はすべて彼が負担しますと言うことだった。タクシーだと3000ルーブル近く、と言われ、それでは悪いので、まずは公共交通機関を利用したのだ。(実際は、最終日の家からこの空港までは私が一人でタクシーに乗って行った、1500ルーブルだった。確かに公共交通機関の倍以上はするが、3000ルーブルというほどではない。こちらの方が手間もいらず時間も早い、二人で乗ればトントンだ) |
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モスクワ郊外のアパリハ団地 (復路、カフカスから戻った時も、アパリハ団地へ) | ||||||||||
パヴレンコさんたちのマンションは新しく、室内に入った途端に、公共の駅や道路の不備さと雑然さとの落差に驚く。ロシアでは昔から個人の場所(マンジョン室内)は、共同の場所(建物に入って階段やエレヴェーター)と比べてはるかに小綺麗だ。
3室あり、家具は少なかった。台所には大型冷蔵庫が2台あり、夫婦の寝室には大きなベッドと大型テレビがあり、私にあてられた部屋には客用ソファ・ベッドと、パヴレンコさんの趣味と言う望遠鏡があった。書き物机はない。夫婦のダブルベッド上が、パソコンをする場所であり居間でもある。3つ目の部屋には家具はなく段ボール箱とトヨタ・ミシン(ポータブル)がある。妻のヤミーリャさんは専業主婦、裁縫が趣味と言う。彼女が希望した日本からのお土産も、洋裁の本、特に手作り帽子の型紙などの載っている本だった。(出発前、アマゾンで購入、しかし、彼女の希望する実物大の型紙はついてなかったが) パヴレンコさんはウクライナ人。両親はウクライナのニコポリ市に住んでいて、モスクワ市内にもアパートがあるそうだが、そこは狭く設備もよくないので、郊外だが、元は別荘地で空気もいいアパリハ村にマンションを購入したそうだ。両親が一人息子のためか、自分たちの老後のためにか購入したのかもしれない。なぜなら来年にも「住みにくい」ウクライナから、ロシアのモスクワに移住してくる予定だそうだから。父親はロシア・ウラル地方のチェリャービンスク生まれで、5歳の時に両親(つまりパヴレンコさんの祖父母)とウクライナに戻ったウクライナ人。母親はウクライナ国籍のロシア人だとか。(つまりパヴレンコさんは民族的にも国籍的にもほぼウクライナ人) 現在、ウクライナ国籍人は比較的自由にロシアに入国できるが、ロシア国籍人がウクライナに入ることは制限されるそうだ。4年に1回しか許可されない?とヤミーリャさんは曖昧に言っていたが、帰国後ネットで調べたところ、ウクライナ国籍人からの招待状があればビザが下りるということだった。実際は、かなり難しいらしい。事実、一時は16歳から60歳までのロシア国籍人男性は、許可されないとされていたが、のちに、クリミヤとセヴァストーポリの住民票を持つものだけが不許可となった。クリミヤとセヴァストーポリをロシア領と認めているのはほぼロシアのみで、ウクライナ政府は断固反対で、クリミヤは自領としている。しかし、ロシアが『実効支配』している状態で、ロシア人はだれでも自由にクリミヤへ保養に行ける。というより、ロシア国籍人がクリミヤへ行くことをロシア政府が(運賃も安くして)推奨しているのではないかと思うくらいだ。(どこの国でも後ろめたい領土には既成事実を作ろうとするのかな) パヴレンコさんはロシアに刃向かったウクライナ政府に大反対だ。ウクライナ人とロシア人を分けることにも反対。同じロシア人だと言う(ウクライナ人はロシア人の一つ?!)。彼の意見によると、クレムリンは正義、ウクライナを支持しているアメリカは悪だ。ロシアで政府を批判する運動はすべて裏でアメリカに操られていると彼は言う。驚いたな。では、逆はどうなんだ、と言いたくなる。冷戦時代の教育が生きてる。今では両国は敵対しているのか同調しているのか見えづらいと言うのに。たぶん利益も交雑しているだろうに。つまり、資本は同じ。 パヴレンコさん(41歳)はIT関係部品の販売設置会社に勤めている。だから日本のNEC とも関係があると言う。モスクワ観光はどこがいいかと問われて、観光地はおおむね回った私としては、むしろ彼の職場に行きたいくらいだったが、それはやはり不都合だ。では、モスクワのNECを訪れたいなら、聞いてみるとパヴレンコさんに言われたが、なぜモスクワまで来てNECを。。。 モスクワへ初めて訪れたのは1982年、通過のみを含めないで最後に回ったのは2005年だったから、変貌を見てみるのもいいと思って、翌日はВДНХ(ベーデンハー、旧・ソ連国民経済達成博覧会)に行くことに決めた。その日は月曜日でエヴゲーニー・パヴレンコさんは仕事なので妻のヤミーリャさんと行くことになる。 ヤミーリャさんはバシュコルトスタン共和国生まれのバシュキール人で、45歳。二人とも初婚。4,5年前に付き合いを始めたそうだ。出会い系サイトで知り合ったと言う。8年程前、私がパヴレンコさんとはじめて文通を始めたのもそんなサイトで、当時、私はロシア語練習のため多数の相手(男女、子供とも)と文通していた。大概の相手は短期間で終わったが何人かとはとても親しくなった。パヴレンコさんも、丁寧な返答を書いてくれたので長く続き、こちらからの質問にもすべてそれなりに答えてくれた。彼は当時独身で花嫁募集中だった。日本人女性を紹介してと言われても、仲人役は超困難。30代後半ロシア男性、日本女性好みではなさそうな外見、英語はわずか、日本語は全く話さないのでは・・・。2010年頃には文通が途絶えがちになった。その後思い出したようにスカイプやファイスブックのメッセンジャーがおくられてきたが、あまり返事は出さなかった。短い返事を出したこともあった。 2016年ウラジカフカスからの私のフェイスブックの写真の投稿を見たパヴレンコさんがメッセージをくれ、モスクワにも寄ってほしいと懇ろに書かれていた。私を通じて日本女性と知り合うことは不発に終わったが、バシュキール共和国からモスクワに出てきていたヤミーリャさんとは、お互いの文通後、すぐに会うこともでき、同棲から結婚までたどり着けたらしい。バシュキールとは未知のところで興味深い。両親はソ連時代、それなりの役職についていたらしい。と言うことは『ソ連時代の方がよかった』系だ。 ロシアで『民主主義』と言う言葉は、かなり多くの人にとって、エリツィン時代の経済大混乱、不正蓄財をする元党幹部、多くの市民が稼働停止の企業と給料遅配でどん底に落ちた時期、マフィアの内部争いなどを連想する。だからデモクラシーと言う言葉は否定的だ。むしろ悪だ。しかし、この言葉がはやったエリツィン時代前期は人々の間でコミュニストとは罵倒の言葉でもあった。つまり悪だった。(何型でもいいがいわゆる『民主主義』を曲がりなりにも発達させることはできなかったロシアなのかな。今ではロシアの民主主義は西欧のとは違うと言われているとか) ソ連は、かつて社会主義の成功事例とされていたが、実態は官僚の腐敗(隠蔽)と技術革新の遅れで、労働生産性も低下し、市民の生活が貧困になって崩壊に向かっていったと、おおざっぱに言えると思う。しかし、西側に操られていた(スパイだった)ゴルバチョフが(それまで『停滞』など決してしていなかった)ソ連を崩壊に導いた、と主張するパヴレンコさんたちと、あまり政治の話はしない方がいい。彼はウクライナとその背後のアメリカを非難するが、何で私がアメリカの擁護をしなければならないのか。パヴレンコさんは、日本はアメリカ陣営だろうと言うが、私は親アメリカ派でも日本の現政権支持者でもないし、そんな日本人はとても多い。私に向かってロシアの正義を説かないでほしい。 さらに、福島の原発を設計したのはアメリカだ、とウィキペディアのロシア語版まで見せてくれた。プラント施工工事は日本の建設会社だが、たしかにアメリカのゼネラル・エレクトリック社によって設計されたものを基本としている。パヴレンコさんは、アメリカが造った発電所で日本が苦しんでいる、と言いたいらしい。(しかし、今ではある国の技術が世界中で使われている。中国の技術だってそうだ)。ソ連時代の教科書のようなパヴレンコさんの考えに賛成するわけにもいかないし、ここで反論するのも気まずいのであいまいに留めておく。ヤミーリャさんが政治の話をするのはやめてほしいと言う。全くだ、私は誰かの考えを変えようとモスクワに来たわけではないから。その逆でもない。 |
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バシュキール人ヤミーリャさん | ||||||||||
ヤミーリャさんが時間をかけて作ってくれたのが羊肉だった。バシュキール風料理なのかな。
このマンションが素晴らしいのはビデがあったことだ。日本のような温水洗浄機能付き便座(ウィッシュレット)ではもちろんないが、トイレ内の水道の蛇口からホースが引いてあり、先にはシャワー口がついている。つまりハンドシャワー。だから手に持って洗うこともできるが、慣れないとなかなか命中させられない。シャワー口から出た水はあまり広がらないが、ウォッシュレットのような細く水勢の調節できる流れではない。イスラム圏のトイレではペーパーの代わりに細口の壺(水差し)が置いてある。これは細口から水を流しておしりを洗うのだと思う。私は使ったことはないが、もし壺や水が清潔ならペーパーよりもいい。手桶が置いてあって、左手で水をすくって洗うと言うこともあるそうだが。 そういえば、バシュキール人のヤミーリャさんはイスラム教徒だ。 バシュキール(バシュコルトスタン共和国)とタタール(タタルスタン共和国)はほぼ同じかと思っていたが、もちろん差異がある。南ウラルの歴史的なバシュキールの地は、元々フィン・ウゴル人が住んでいた。マジャール人もいた。13世紀はモンゴル帝国のキプチャック・ハン国の領土となったが、同ハン国の後継国家カザン・ハン国やシビル・ハン国の一部、またノガイ・オルダ(部族連合)の範囲にも入っていたが、16世紀から徐々にモスクワ・ツァーリ国に取り入れられ、数回の大きな蜂起の後、つまり、18世紀後半のプガチョーフの乱(ロシア史では『1773‐1775の農民戦争』と呼ぶ、エカチェリーナ2世の農奴制の強化に反対)平定後は、ほぼ完全にロシア帝国に組み込まれた。(タタール人のカザン・ハン国の方はすでに16世紀にイワン雷帝に絶滅させられていた。)
バシュキールについては知識のなかった私は、ヤミーリャさんに質問する。バシュキールで民族的英雄とされているのはだれだろうか。彼女はすぐサラヴァット・ユラエフ(Салават Юлаев 1754‐1800)と私の手帳に書いてくれた。帰国後調べてみると、詩人で、プガチョーフの乱に参加、エストニアで徒刑囚として死。南バシュコルトスタンに1949年から英雄の名をつけたサラヴァット市がある。ヤミーリャさんに著名なバシュコール人ををさらに私の手帳に書いてもらった。ザギール・イスマギーロフ(Загир Исмагилов1916‐2003)は、オペラ『サラヴァット・ユラエフ』の作曲者。ラーミ・ガリーポフは詩人(Рами Гарипов1932-1977)、ガータ・スレイマノフは演奏者(Гата Сулейманов1912-1989б、クライкрайと言うバシュキールやタタールの民族管弦楽器奏者)と教えてくれた。『ウラル・バティル叙事詩 Урал Батыр эпос』と言う民族叙事詩もある。 ユーラシアの遊牧民だったバシュキールには伝統的な氏族があるにちがいない。モスクワに住むヤミーリャさんにはなじみが薄い知識だったかもしれないが、思い出して、7個ほど氏族名を書いてくれた。これらはたぶん、大きな氏族なのだろう。先住民のフィン・ウゴル・サモディ系(ウラル語族)が出身だと言う氏族もある。そこからは、また氏族が分かれ、それぞれからまた分かれ出ている。古バシュキール系グループのブルジャン Бурзян氏族系のタミヤン Тамьянと言う名をヤミーリャさんは最初に書いた。氏族グループは、また、ブルガル系であったり、キプチャック系であったり、ノガイ系であったり、ヴォルガ・ウラルと中央アジアの混合であったりして、それぞれの元氏族から多くの氏族が分かれ、またそこから分かれている。氏族の系図がたどれるのは、集団で行動してきたからなのだろうか。在地バシュキール系は渡来のチュルク系に言語などが同化したのか。 バシュキールについてはそれまで場所しか知らなかった。ヤミーリャさんが私の手帳に書いてくれたおかげで、これだけ知ることができた。 パヴレンコさんはバシュキールにいる妻の実家一族に肉料理用ミンチ機を送ったそうだ。大喜びされたとか。バシコルトスタン共和国のどこに実家があるのかは、なぜか決して答えない。ウファ市だと思ってほしいそうだ。 |
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モスクワ国民経済達成博覧会ヴェー・デン・ハー | ||||||||||
ヴェー・デン・ハ―としては1959年に開会し、戦後ソ連経済発展を誇示する場だった。ソ連内の地方に住む人々にとっては、ベー・デン・ハー見物はあこがれだったのか。1992年『全ロシア博覧センター』と名称変更したが、2014年、ロシア人が親しんできたヴェー・デン・ハーの名に復活した。パビリオンの修復が続いているそうだ。 30年近く前、初めて団体ツアーでソ連に行った時、訪れたことがあって、当時は先端宇宙技術の国ソ連の象徴のようなロケットの模型があったかもしれない。今もあるかもしれない。正面入り口の凱旋門も、ソ連芸術として有名だった。門から入って広い噴水池の向こうに聳える中央パビリオンは、サンクト・ペテルブルクの海軍省をまねたものだとか。噴水池は、やはりサンクト・ペテルブルクの夏の宮殿の噴水と彫刻に似ている。スターリン時代の疑似ゴシック建築のパビリオンも多い。ヴェー・デン・ハーは30年前見てガイドに説明されるまま、それなりに立派だと思ったものだ。今訪れてみると、ここは当初の偉大なソ連イメージ(の残骸)に、市民(お上りさん)の憩いの場を強調したテーマ不明のものになっているように思えた。 かつてのソ連構成社会主義共和国の15棟のパビリオンの他に自治共和国など様々な民俗的なテーマで、全部で82棟は建設されたそうだ。今は、大部分が修理中なのか閉鎖中のパビリオンも多い。またはショッピング・センター、カフェなどになっているパビリオンもある。アルメニア、キルギスタン、カザフスタン、ベロルシア、アブハジア、アゼルバイジャンが開いているそうだ。しかし、それらの国の経済達成を展示するものはない。パビリオンのインテリアがその国らしいのか。ウクライナ・パビリオンは一部開いていたが、中に入っても、そこはウクライナの展示ではなく片隅に売店が開いていた。商品は特にウクライナ製品でもないようだった。 ヤミーリャさんがアルメニア・パビリオンでランチにしようと言う。バシュキールからの親せきと入ったことがあるそうだ。アルメニア風インテリアなのか、アルメニア料理なのか、あまりわからなかった。デザートのスウィーツに添えられていたのはフィザリクфизалисと言う。これは辞書で調べるとほうずき。昔、種をじょずに引き抜いて、小さな風船にして膨らませて遊んだことがあるが、食べられるとは知らなかった。デザートとして食べてみるととてもまずかった。 3時ごろ、そこを出て、赤の広場に行き、歴史博物館に入る。ここは、数年前から再訪したいと思っていたところだが、建物の外装や内装は立派だと思うが、この時の展示品は私にはあまり興味がなかった。 |