クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 26 January, 2018(追記 18年2月17日)
2016年 北カフカス(コーカサス)からモスクワ (5)
    チェチェン(1)
        2017年7月9日から7月27日(のうちの7月17日)

Путешествие по Северному Кавказу и москве, 2017 года (9.7.2017−27.7.2017)
   ロシア語のカフカスКавказの力点は第2音節にあるのでカフカ―スとも聞こえる。英語読みはコーカサスCaucasus

  6/25-7/9       モスクワから北ロシアのコミ共和国
1 7/9−7/11 ウラジカフカス(地図) 山岳サニバ村 サニバの社 ギゼリドン峡谷 フェアグドン峡谷
2 7/12-7/13 バトラス ルーテル教会 トランスカム アルホン村 失われたオセチア
7/14 カバルド・バルカル共和国に向かう アディゲ(チェルケス、カバルダ)人の地(地図) チュゲム峡谷 カルマコフさん
7/15−7/16 ディゴーラ地方へ(地図) ストゥル(大)ディゴーラ カムンタ村 ウアラグコム(上の峡谷)
7/17 グローズヌィ市に向かう 国立図書館 チェチェンの地理 アングーン峡谷へ シャトイの戦い ハッコイ氏族
7/17 サッティの塔 ハルセノイ村 ニハロイ滝群 ウシュカロイ塔 チェチェンの心 グローズヌィ・ホテル
7/18 アルグン市をぬけて ヴェデノ村 ハラチョイ村からハラミ峠 カゼノイ湖 ホイ村 ザクリエフさん
7/19-7/21 ゼムフィラさん アナトリア半島のスミュルナ カルツァ滝 ウラジカフカス駅発
7/22-7/27 モスクワ州のアパリーハ団地(地図) モスクワの大モスク トレチャコフ美術館 はとバスとクレムリン壁 ツァリーツィノ公園 プーシキン美術館
 グローズヌイ市に向かう
 7月17日(月)。今年もカフカス地方オセチアに行こうと思ったのは、もう一度チェチェンへも行きたかったからだ。チェチェンの知り合いと言えば、去年アスランの紹介で会った画家マゴメド・ザクリエフさんだ。かなり前から、マゴメドさんに「今年の夏もチェチェンへ行きたい」と知らせておいた。「どうぞおいでください、ウラジカフカスに着いたら知らせてください」とあったので早速連絡して、17日に会うことにしていた。その日に私たちがグローズヌィに行くから、迎えてほしいと約束できたのだ。去年は半日だけだったグローズヌィ市だったが、今回は2日ほどかけて、グローズヌィ市ばかりでなくチェチェンの山岳地方にも行きたかった。もしかして2泊3日でもいいと思ったくらいだ。しかし、アスランが都合悪かった。アトリエの窓を仕上げなくてはならないからだ。それで、行くときは一緒だが、帰りは翌日(翌々日とは言い出せなかった)に私一人でと言うことになった。信用できるタクシーに乗せてもらえば、一人でウラジカフカスのアスラン宅に帰って来られる。
 行くときは、アスランも同行するのでタクシーではなくバスではどうだろうか。調べてもらうと、朝9時にグローズヌィのバスセンターからウラジカフカスへ。そのバスの復路がウラジカフカスを昼の12時半に出発すると言う1日に1本だけしかなさそうで、あまり便利ではない。タクシーの料金を調べてもらうと2500ルーブルだったので、朝早めの8時に来てもらうことにした。
 この日のタクシーはトヨタ・イプサムだった。運転手の男性が言うには、日本のオークションで直接ネット購入したそうだ。
「日本のオークションはすごい。決して嘘はつかない。どんな細かい傷も故障も修理跡もきちんと明記してある。絶対に信用ができる」と感心していた。日本で欠陥を隠して公式オークションに出すと言うことは、最近はあまり聞かない。値段を聞いてみると、あまり高くない。それはなぜか。何か抜け道を通って高額な関税を逃れたのか。彼は南オセチアで購入したと言う。南オセチア共和国はロシア連邦ではなく、グルジアとされているからロシアのように高い関税がかからないのかもしれない。あるいは南オセチアは主権国家を主張しているから自分たちの法律と関税があるのかもしれない。南オセチアからロシアへの輸入は関税がたぶん低いか、まったくなしだ(南オセチア共和国とロシアとの間の交通は、ロシア人や南オセチア人なら、まったく障害がない。事実上、南オセチアはロシア連邦の一部に近い、つまり衛星国。ロシアも直ちに南オセチアを併合しないのは、グルジアの反発があるからだ。一旦は独立国としてグルジアから放しておく)。そうした回り道を通って車を輸入できれば、日本車は日本での売価に運賃を足した程度の値段で手に入るのかもしれない。車のナンバーは北オセチア共和国の15だった。ロシア連邦に登録してあるわけだが、何かやばいことがあるのだろう。だから、彼は道路警察の検問のない道を選んで進んだようだ。
国立博物館

 特にグローズヌィ市の入り口にある検問は都合悪かったらしい。アルハン・ユルタ村のあたりから、連邦道を出て、普通道の北西からグローズヌィ市郊外に入り、街並みがそろったところで、目印になるような建物の前で車を止めた。グローズヌィに着いたらマゴメドさんに電話すると打合せしてあったので、アスランが現在場所を教える。ところが、グローズヌィ市はチェチェン戦争で町中が廃墟となったので、ほぼ新たに町を作り直したため、通りの名前も昔と変わったのかもしれない。車が止まった通りの角に書いてある町名と、運転手のナビ画面の町名も異なっている。マゴメドさんが知っている通り名とも違っているかもしれない。
 20分ほど待って、マゴメドさんが去年も乗っていたシボレーで来てくれた。ルスランのシボレーより新しいサロンでシートも壊れていない。彼は私たちが連邦道を通ってくるなら、ダム湖の近くで電話があるだろうと思っていたそうだ。
 イプサムの運転手は別れ際、ごそごそとダッシュボードのボックスを探して、ソ連国旗の付いた携帯用の折り畳みコップをくれた。一気飲みヴォッカ用(ヴォッカはいつでも一気飲みだ)のものだったろうか。ロシアでタクシーなどに乗った時、日本製ボールペンなど渡すことはあるが、お返しをもらったのは初めてだ。
 マゴメドさんは、まず、国立博物館に案内してくれた。去年、来たときはもう閉館だったのだ。グローズヌィには古い建物はない。他の町にあるようなスターリン様式も、フルシチョフ様式もない。革命前の大商人の館ももちろんない。すべて、第2次チェチェン戦争が終わってからの新築21世紀様式だ。博物館も、外見は中世ヴァイナフ様式の石造りの塔だが、内部は現代的な展示ホールがいくつもありそうだった。しかしこの日は休館で、玄関ホールまでしか入れなかった。帰国後ネットで見ると、アフマト・カディロフ、考古学、民俗学、第2次世界大戦、美術などのホールがある。全くここではカディロフなしでは済まされない。
 チェチェン国立図書館
 チェチェン史の本を買いたいから大型書店に行きたいとマゴメドさんに頼んだ。オセチアについてはオセチアの中心にある書店で幾種類も売っているが、オセチアにはチェチェンのものはないし、モスクワにもないだろう。グローズヌィにしかないに違いない。ロシア史には古いチェチェンのことは一言も言及してない。近代のチェチェンの記述はあっても、必ずロシア側の見方でしか述べていない。少し古いが、レフ・トルストイのカフカス物を読んでもそうだ。
町なかの女性
館長室で
児童室にいた中東かららしいグループ
国立図書館の前で、左右の女性は職員
アトリエのダイニングキッチン

 マゴメドさんは、それなら国立図書館へ行って聞いてみようと、5階建て正面はガラス張りの立派な新築図書館へ行く。11時半頃だった。町中の女性はみな長いスカートに、頭はスカーフで覆っている。道行く女性たちはスマートで美人だった。
図書館中央の吹き抜け室

 国立図書館は中央に5階まで吹き抜けのホールがある。各階の廊下がホールを囲んでぐるりと回っていて、柱には中世チェチェンの絵(戦士の像)などがかかっている。各部屋はガラスの閾で区切ってあり、館長室は2階にあって、廊下からガラス越しに見える。内部にはカーテンもあるから視線を遮ることもできる。開放的な館内すべてが明るく整然としていて、感じがよい。
 館長はイスライロヴァ・サツィタИсраилова Сацитаさんと言う女性で、マゴメドさんと知り合いらしい。
 「チェチェン史の本を手に入れたい、チェチェンの歴史を知りたいが、どこにも本は売ってないし、サイトにも見当たらない」と言うと、後ろの棚から厚さ3,4センチはある重そうな本を数冊出してくれた。1冊は2017年出版の『紀元前1000年紀までのナフ族、民俗文化史の諸問題』、もう1冊は『ヴェノイВеной』と言う2016年版だ。帰りのスーツケースは軽い方がいいが、頁をめくり、目次も見て、地図も付いている『諸問題』の方を手に入れたいと頼んだ。イスライロヴァさんは、
「これは購入したばかりでここには1冊しかないから売ってあげるわけにはいかない」と言う。マゴメドさんは
「これを今、タカコ・サンに売ってあげて、図書館には後日購入しておけばいいではないか」と言ってくれるが、イスライロヴァ館長は、
「もし書店になかったら困るから、確かめてから決める」と言う。もしあれば800ルーブル(1500円)だそうだ。館長室にはアフマト・カディロフの大きな肖像写真が飾ってあった。その前で3人で写真を撮る。
 館内を案内してあげましょうと言われて、吹き抜けホールの周囲を取り囲んでいる廊下に出る。まず案内されたのは児童室で、ここも整頓され飾り付けられている。私を細身の若い女性に預けて彼女はマゴメドさんと館長室へ戻ったようだ。児童室担当の若い女性も長いスカートで頭にはスカーフをかぶっている。
 案内されたとなりの児童室には多分、中東の国からの団体が来ていた。子どもたちは思い思いに活動していたが、私が入っていき、案内の女性が日本からの客ですと言うと、指導教官(らしい大人)がスマホでカシャカシャ写真を撮るので、それはまたきまりの悪いものだった。
 今はなきグローズヌィ市と言うカラー写真が何枚か貼ってあった。1991年には40万人の立派な都市だったから、カラー写真も豊富だ。(1996年18万人、2017年29万人)。第2次チェチェン戦争で廃墟となり、戦後新しい首都は別のところ、たとえば、比較的被害の少なかったグデルメスГудермесに再建てようという案もあったが、元の場所で復興され、今では北カフカスで最も美しい町となったそうだ。非戦闘員市民と独立派兵士、徴兵連邦軍兵士の血の上に立ったグローズヌィと言えるかもしれないが。(クラスノヤルスクのモティギノ村から徴兵され、8か月後グローズヌィで負傷したスラーヴァは、『2010年冬道のクラスノヤルスク地方』を案内してくれたアリョーシャの弟だ)
 マゴメドさん宅は奥さんの親せきが来ていて、自宅に私達を泊められないそうだ。彼のアトリエは整頓されてはいないが、そこで泊まってほしいと言う。アスランは日帰りの予定だったが、交通手段がないので翌日の9時発のバスで帰ることにしていた。アスランと私がそのアトリエで泊まることになる。食料を買って、アトリエへ行ってみると、前庭もある広いスペースで、寝室もバス・トイレも付いている。しかし、明かりの付かないトイレ、ちょろちょろとしか出ない水道、前庭(つまり屋外)にある冷蔵庫、画材やキャンバスで足の踏み場もない仕事部屋。まったくアトリエらしかった。アスランと二人、もちろん宿泊できる。しかし、高くないホテルに1泊ぐらいしてもいい。
 買ってきたものでお昼を食べ、残ったものは冷蔵庫に入れて、2時半過ぎアトリエを出る。今日、マゴメドさんは私たちを近場のチェチェンの名所に案内してくれるそうだ。明日は遠いが美しい湖に行く予定だとか。
 マゴメドさんからチェチェンのどこを見たいのかと聞かれていたのだ。彼の風景画がたびたびフェイス・ブックに投稿されていたが、それはカフカス山をバックにしたヴァイナフ様式の塔だった。そんな塔を見たいと答えたが、それらはたいてい、車で行けないような場所にあるとか。だが、サッティСатти村近くにある塔へ行く。

 マゴメドさんが2日間にわたって案内してくれたのは。おおむね観光名所だった。マゴメドさんの風景画にあるような塔のある場所に行きたいと言ったので、初めに案内されサッティの塔は、グローズヌィからは60キロ南のアルグーン川中流にある。
 チェチェンの地理
 チェチェンはカフカス山脈の北麓で、北オセチア共和国の東にある。北オセチアの東はイングーシだが、イングーシは小さい共和国なので、イングーシの北でチェチェンと北オセチアは接している。(1992年までチェチェン・イングーシ自治州だったように、チェチェンとイングーシは言語も文化もほぼ同じで、イングーシはチェチェンの9部族(下記)の一つとされてきた)。カフカス山脈の南はグルジア(つまり外国)で、南東と東と東北はダゲスタン共和国(ロシア連邦内の民族共和国)、北西はスタヴォロ―ポリ地方(ロシア連邦内で、民族共和国ではない行政単位)だ。チェチェン共和国内のやや北に、西から東へとテレク川が流れ、テレク川左岸(北側)はテレク・クマ低地だ、テレク・クマ低地帯はテレク川下流とクマ川(テレクの北でカスピに注ぐ、802キロ)下流の間のカスピ海東岸の低地に続くノガイ草原の一部で集落はほとんどない。
 カフカス山脈からイングーシを北上して流れ、チェチェン内は西から東に流れてテレク右岸に合流するスンジャ川岸に首都のグローズヌィがある。テレク川右岸(南側)のテレク・スンジェ山地(丘陵)の南からカフカス山脈麓までの東西120キロ、幅50キロをチェチェン平野と言う。現在、人口が最も多く、グローズヌィ市、ウスチ・マルタン市、シャーリ市、アルグーン市などがある。歴史的にチェチェン人はチェチェン平野やスンジャ川右岸(南側)の山岳地帯に住んでいた。北のテレク川北岸のテレク・クム低地がチェチェン共和国に加わったのは1957年のチェチェン・イングーシ自治共和国復活の時以来だ。
 1944年のスターリンは同自治共和国にいたチェチェン人とイングーシ人を第2次世界大戦におけるドイツ軍協力と言う罪で、民族全員を中央アジアのカザフ共和国などに強制移住させ、それまでのチェチェン・イングーシ自治共和を廃止した。旧自治共和国の大部分はスタヴローポリ地方からテレク・クマ低地帯を加えてグローズネンキィ州となり、南の山岳地帯はグルジアに、東の山岳地帯はダゲスタンに、西のテレク川右岸(東)は北オセチア領となった。1957年、チェチェン・イングーシ自治共和国は復活されたが、以前のようにはできなかった。西のテレク右岸を北オセチアが返そうとはしなかったからだ。ソ連政府はそれを認め、復興チェチェン・イングーシ自治共和国にはその代償としてテレク北岸の2地域(テレク・クマ低地帯のナウルスキィ区Наурскийとシェルコフスキィ区Шелковский)をスタヴポリ地方から分けて与えた。その2地域は19世紀以前からコサックの居住地で、歴史的にはチュルク系遊牧民が住む荒野だった。譲渡当時はほぼロシア人が住んでいたが、住民の意見は全く考慮されず、2地区に住むロシア人はチェチェン・イングーシ自治州の管轄下となった。ソ連崩壊後、個々では民族紛争が多発し、多くのロシア人は退去した。1989年ロシア人の割合は36%、2010年は8%。

 カフカス山脈北麓はどこでも、同山脈から北上する川が峡谷をつくり、北麓の東を流れる川はテレク川、西はクバン川に合流する。スンジャ川もチェチェン平野東でテレク川に合流する。一方、スンジャ川には、カフカス北麓からの多くの支流が流れ込む。それら支流の作る峡谷は中世からチェチェン人の各氏族(テイプтеип,таип血縁関係があるとされる集団、クランClan、100以上ある)の村があり、いくつかのテイプ(氏族)の集まった部族・共同体(*)の住む場所だった。
 (*トゥクフムТукхум、英語では同盟Alliance、一定の地域を占め、共同で軍事、政治、テイプ間の紛争解決などに当たり経済的交流もする、各トゥクフムにはヴァイナフ語の各方言がある。16−17世紀ごろ形成された。チェチェン・イングーシ人のトゥクフムは9ある(上記)。トゥクフムに含まれないタイプもある)
 最も東の山岳地にはアクサイАксай川の上流が流れる
(*カスピ海合流近くのテレクは広いデルタを作っており、最下流では標高0メート以下を流れる。川床も歴史的に変化している。アクサイ川は、アクタシ川に合流し、アクタシ川はダゲスタン共和国の地図では、ノヴィー・テレク(113キロ、新しいテレクの意。20世紀に水利施設を作り新しくテレクの流れとした)に注ぐように記されているが、実際は運河でスラーク川に流れる。アクタシ川のスラーク川への合流地点は標高マイナス10メートル。カスピ海沿岸(言及している北西岸)のデルタ地帯はテレク川やスラーク川が低地を蛇行して多くの湖沼を作って流れ、運河も縦横に張り巡らされている。
 アクサイ川はチェチェンとダゲスタンの境界をなすアンディ山脈から流れ、チェチェンではヴェノイ・ヤッシВеной-Яссиと呼ばれている
 南北に流れるアクサイ川の西に並行して流れる川は、スンジャ川の右岸(南岸)支流ベルカ川、ベルカ川と下流で合流してスンジャ川に注ぐフンフラウХунхулау川(67キロ)その上流へ翌日いった)、その西はジャルカ川、さらに西が最も長くてカフカス南麓のグルジアから流れてくるアルグーン川(148キロ)。そのアルグーン川には中流でシャーロ・アルグーン川(86キロ)が東から右岸に合流する。(アルグーン川上流へはこの日、訪れた)、その西はマルタン川、ゲヒ川、フォルタンカ川、アサ川となる。アサやフォルタンカは上流がイングーシだ。
  帰国後ネットで調べてみると、数年前よりはるかに記事の数量が多くなって(いるように思える)いて、チェチェンには歴史的な地名がいくつかあると分かった。イケチリアと言うのは現在チェチェンの南東部、西部でイングーシに近いところはアルストホイ・モフクОрстхой-Мохк、南西部はナシュハ、南部の山岳には チェベルロイЧеберлой、チャンティЧантий、シャロイШаройなどがある
 アルグーン川峡谷上流へ
 3時少し前にマゴメドさんの車でアスランと3人で、アトリエを出発した。ヴァイナフ風の塔のある場所に行くためだ。市から出て南へ行くとすぐチェチェン・アウルと言う9千人(ほぼ全員がチェチェン人)の村を通る。チェチェン・アウル村はチェチェン平原の中央、スンジャ川とアルグーン川の間にあって、15−18世紀にはアヴァール侯(*5−9世紀東欧のハンガリーのアバール(モンゴル・テュルク系)とは別の北東カフカス・アヴァール・ハン国12−19世紀)の屋敷があった。15世紀ごろから、山岳チェチェン人も移住してできた集落だ。このチェチェン・アウル村からチェチェンと言う名前ができたそうだ。
 チェチェン・アウル村から先は、アルグーン川を遡るように南のカフカス山脈へ向かって、アスファルト舗装道が続いている。延長148キロのアルグーン川は南のグルジアとの国境付近から、カフカス山脈を通り抜けて北へ、大規模なアルグーン峡谷(120−100キロ)を作って流れてくる。峡谷を出たところで右岸支流シャーロ・アルグーン川(86キロ)が合流してくる。合流後はチェチェン平野を流れてスンジャ川に合流する。アルグーン川はチェチェンの中央を流れ、チェチェンの歴史の主要舞台の一つだった。シャーロ・アルグーン川合流までの上流アルグーンを歴史的にはチャンティ・アルグンЧанты-Аргунと呼ばれていて、チェチェンでも古くから記録に残っている地方の一つだ。(*)。グルジアの北東山岳地帯のヘヴスレティアХевсуретия地方からカフカス山脈を越えて流れるアルグーン川の峡谷は古代から、ダリヤル峡谷と並んでカフカス越えの通商・軍事道でもあった。一説ではダリヤル峡谷より通行量が多かったそうだ。ロシアからグルジアへの外交路も、18世紀末までここを通った。
 アルグーン峡谷ではどんな小さな支流の合流点にも分岐点にも見張り塔・防御塔が建ち、『塔の峡谷』とも呼ばれた。前世紀末のチェチェン戦争前までは、4000基以上の防御・見張り・住居塔などの歴史建造物があり、180の砦村があった。かつてチェチェン人の人口が最も多かった地方のひとつだった。中流はシャトイ・トゥクフム(部族)、上流はチャンティ・トゥクフム(部族)が住んでいた。*1944年中央アジアに強制移住させられていたチェチェン・イングーシ人は1956年復興された自治共和国に帰還することは許されたが、山岳地帯のチャンティなどに住むことは禁止された。
 グローズヌィから来た道はシャーロ・アルグーンとの合流点近くで、アルグーン川右岸にわたる。橋の工事をしていた。アルグーン峡谷は、前記のように19世紀も20世紀も激戦地の一つだった。19世紀半ばのロシア・カフカス戦争の時、アルグーン峡谷はロシア軍が1858年までに支配下におけなかった征服困難地だった。
 橋を渡ったはじめの村はヤリシュ・アルディЯрыш Ардыだ。第1次チェチェン戦争の1996年4月16日ここでロシア連邦軍は待ち伏せしていたアラブ人のアミール・ハッターブАмир Хаттаба指揮するチェチェン軍に惨敗した。(Хаттабаはヨルダン国籍、チェチェン東部の野戦指揮官。母はチェルケス人。1902年ロシア諜報部によって暗殺される)。カディロフの肖像写真の角柱が入り口にある村は、そのヤルィシュ・アルディだったか、その次のゾーヌィЗоныと言う村だったかわからない。後でマゴメドさんに聞いても、カディロフの肖像は至る所にあると言う返事。
 アルグーン峡谷はカフカス戦争(1817‐1864)以後、ロシア帝国の砦が立ち、ゾーヌィもその一つだったが、のちに、峡谷のもっと上流から土地が狭くなったヴァシュダロイВашдаройという氏族тайпが移ってきたそうだ。
 アルグーン峡谷に沿った道は、R305と言う共和国道らしい。途中に泉があって、流れ出る斜面にチェチェン風壁画のレリーフがあった。アルグーン川に沿って中流はシャトイ区だ。『ヤルィシュアルディの戦い』は1996年の第1次チェチェン戦争でチェチェン側が勝利したが、第2次チェチェン戦争で2000年2月の『シャトイの戦い』はロシア連邦軍が勝利した。
 シャトイの戦い
 このシャトイの戦いはチェチェン戦争の、最も激しい戦場の一つだった。
 第2次チェチェン戦争の2000年2月、ロシア連邦軍にグローズヌィを抑えられて、チェチェン独立派のルスラン・ゲラーエフРуслан Гелаевやハッターブ達は最後の軍事拠点の山岳地帯アルグーン峡谷に退却した。カフカス山脈を越えてグルジアに抜けることのできるアルグーン峡谷は古い時代からチェチェン人が敵軍を避けたところだ。峡谷奥のイトゥム・カリИтум-КалиからグルジアのシャティリШатилиへ通じる古い道があり(上記通商路)、チェチェン・イチケリア共和国時代から整備されてきた。独立派軍はこの山岳道を通じて物資を補給し反撃する予定だったと言われている。
 14 000人の連邦軍と独立派(アラブ人傭兵を含む)2000人の地上戦で、シャトイ村に連邦軍の旗は立ったが、ルスラン・ゲラーエフとハッターブは包囲を突破することができた。ゲラーエフは北西コムソモリスコエ村(自分の出身地だった)方面に進み、ハッターブは北東のウルス・ケルト村方面の山中にのがれ、そこでの戦闘は、それぞれ『コムソモリスコエの戦闘』、『標高776での戦い』と呼ばれている。(*)アンナ・ポリトコフスカヤの邦訳『チェチェン、止められない戦争』に、2000年2月、連邦軍が1ヶ月コムソモリスコエ村を包囲し殲滅したその1年半後、筆者は訪れた記事がある
(*)
 第2次チェチェン戦争は、ロシアでは公式に北カフカス(チェチェンとその周辺)における反テロ戦線と呼ばれている。1999年8月7日ダゲスタン共和国への侵攻から始まり(後述)、1999‐2000年の激戦後、2000年以降はロシア連邦軍がチェチェンを制圧し、2000年アフマト・カディロフをチェチェン共和国臨時政府首長に据え、2003年には大統領にした。2009年4月16日に対テロ戦線モードが解除、と言うことになっている。
 マゴメドさんには問いたいことがたくさんあった。去年、初めてマゴメド・ザクリエフさんにグローズヌィを案内してもらったときは、町中のカディロフの肖像写真の多さに驚いている私の問いに、自分はカディロフを尊敬していると答えたものだ。カディロフと映るプーチンの写真も多かった。ロシアがカディロフの後ろ盾となってチェチェン独立派に勝利した、と言うカディロフだ(後ろ盾どころではないが)。同じく私の問いに、彼はプーチンは嫌いだと答えた。ロシアから独立して主権国家になりたいと考えているだろうか、と聞いてみると、「いつかは、いや、近いうちに」独立すると、答えた。カディロフはチェチェンを救ったと思っている。しかし、今年、聞いてみると息子のラズマンは、疑問だと言うような答えだった。そうだろう。恐ろしく利権が絡んでいるに違いない。
 マゴメドさんは、「カディロフが暗殺される1ヶ月ほど前、プーチンに会うためにクレムリンへ行った時、護衛の一人にそっと、今に必ず・・・とささやいた」と言う。私はマゴメドさんの言葉がよく聞き取れなかった。だが、聞き返すのは遠慮した。
 彼には何から聞いていいかわからないので、20世紀末の独立チェチェンの国名はチェチェン・イケチリアと言ったが、なぜ、イケチリアと付け加えられているのかと聞いてみた。マゴメドさんは「あなたにはわからないですよ」と答える。チェチェンは島国日本に比べてはるかに過酷な歴史をたどってきたから、日本人の私にはわからないのだと繰り返す。
 ハッコイ氏族
 シャトイ区の行政中心地はシャトイ村で1858年創設となっている。それ以前、この地にはハッコイХаккой氏族(シュアトイ)が住んでいた。アルグーン峡谷のハッコイ氏族の住む一帯は開けた盆地で、ハッコイ氏族のほか、いくつかの氏族が住み、シャト・トゥクフム(部族)を成していた。
 東カフカスでは1817年に始まったカフカス戦争では、アルグーン峡谷がロシア軍には最も難攻不落だったのだ。ロシア軍の有名なエウドキモフ将軍はそれまでにイマーム国の首都ヴェデノ以外のチェチェンの大部分を占領し、最後に残ったのがアルグーン峡谷だった。頑強な抵抗にあったが、1858年にはまずハッコイの地を攻め落とし、そこに砦を作って、アルグーン峡谷のさらに奥まで進み、チェチェンのアルグーン峡谷の『山匪(*)』を平定することができた。
(*)レフ・トルストイのコーカサス(カフカス)を舞台にした小説ではチェチェン人やダゲスタン人を『山匪賊』と表現。しかし、トルストイは彼ら山匪をロシア帝国の敵と貶めた描き方をしていない。『コサック』と言う初期の作品ではテレク川左岸のグレーベンスキィ・コサック(*)とモスクワから来た主人公の中編だが、主人公は野生的なコサックを敬意をもって描いているばかりか、そのコサックが、味方のロシア兵より、敵の山匪を尊敬しているように描かれている。晩年の『ハジ・ムラートХаджи-Мурат』では、ロシア軍将校のペテルブルク社交界的営みと、アヴァール人ハジ・ムラートの屈強で清楚な姿が描かれている。

 アルグーン峡谷での戦闘でハッコイ氏族はロシア軍に虐殺され、ハッコイの地に建てられたロシア帝国軍の砦内にはロシア正教会ができ、シャトイ村(旧ハッコイ村)には帝国軍の2個中隊が駐屯していた。ロシア革命までの60年余の間に、駐留軍はチェチェン人(ハッコイ氏族)の文化的、宗教的施設、墓地などを破壊したとロシア帝国公式書類にあるそうだ。同文書には『チェチェン人は絶滅させた方がよい民族』と数回にわたって報告されている。
 革命期の国内線の間にロシア人居住者は去り、チェチェン人が住むようになった。しかし、1944年、チェチェン・イングーシ人の強制移住で同自治州が廃止され、空白になった村には、ロシア人が移住しソヴェト村と改名した)が、1956年自治州復活のさらに後の1989年元のシャトイ村に戻った。
 現在シャトイ村は人口3300人で、内ロシア人が14%と、比較的高い。右岸にハッコイ村と言う30人ほどの小さな村がある。これは1978年までツォグノイЦогуной村と言ったが、ロシア帝国軍によって壊滅させられたハッコイの名を復興して名付けられたそうだ。

 シャトイ村はチェチェン近代史の象徴のような村だ。2000年2月シャトイの戦いのときも19世紀のカフカス戦争の時も、ロシア軍が川を遡り、村々を焼き払った。
 (自治州廃止中はすべてのチェチェンの村に、ロシア人やダゲスタン人、オセチア人、グルジア人が移住して来て住んだので、村名は主にロシア語に改名された。復興後はすべてが元に戻った)

 グローズヌィ市が気味の悪いほど見事に復興されたように、地方の自動車道に沿った場所も、当時の残存物もなく、見えるものは自然だけだ。すぐ近くを通ったのだが、詳細について知ったのは帰国後のことだし、運転していたマゴメド・ザクリエフさんは、何か思っていたかもしれないが何も話さなかった。後部座席に乗っていたアスランとは話していたが、私は口をはさむのを遠慮した。
 道路に迫っている山々が遠のいたところで、シャトイ村に入る。入り口には門が建っていた。シャトイ村はアルグーン川の作る最も大きな盆地の入り口にある。村の四方には遠く山々が見える。村には新しいイスラム礼拝所モスクが建っている。
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