クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 26 January, 2018  (追記・校正:2018年9月10日、2019年2月14日、12月22日、2022年1月5日)
35 - 2 (5)  2017年 北カフカース(コーカサス)からモスクワ (5)
    チェチェン(1)
        2017年7月9日から7月27日(のうちの7月17日)

Путешествие по Северному Кавказу и москве, 2017 года (9.7.2017−27.7.2017)
   ロシア語のカフカースКавказの力点は第2音節にあるのでカフカ―スとも聞こえる。英語読みはコーカサスCaucasus

  6/25-7/9       モスクワから北ロシアのコミ共和国
1 7/9−7/11 ウラジカフカース(地図) 山岳サニバ村 サニバの社 ギゼリドン峡谷 フェアグドン峡谷
2 7/12-7/13 バトラス ルーテル教会 トランスカム アルホン村 失われたオセチア
7/14 カバルダ・バルカル共和国に向かう アディゲ(チェルケス、カバルダ)人の地(地図) チュゲム峡谷 カルマコフさん
7/15−7/16 ディゴーラ地方へ(地図) ストゥル(大)ディゴーラ カムンタ村 ウアラグコム(上の峡谷)
7/17 グローズヌィ市に向かう 国立図書館 チェチェン(付・グルジア) アルグーン峡谷へ シャトイの戦い ハッコイ氏族
7/17 サッティの塔 ハルセノイ村 ニハロイ滝群 ウシュカロイ塔 チェチェンの心 グローズヌィ・ホテル
7/18 アルグン市をぬけて ヴェデノ村 ハラチョイ村からハラミ峠 カゼノイ湖 ホイ村 ザクリエフさん
7/19-7/21 ゼムフィラさん アナトリア半島のスミュルナ カルツァ滝 ウラジカフカース駅発
7/22-7/27 モスクワ州のアパリーハ団地(地図) モスクワの大モスク トレチャコフ美術館 はとバスとクレムリン壁 ツァリーツィノ公園 プーシキン美術館
 グローズヌイ市に向かう  2016年のチェチェン訪問
 7月17日(月)。今年もカフカース地方オセチアに行こうと思ったのは、もう一度チェチェンへも行きたかったからだ。チェチェンの知り合いと言えば、去年アスランの紹介で会った画家マゴメド・ザクリエフさんだ。かなり前から、マゴメドさんに「今年の夏もチェチェンへ行きたい」と知らせておいた。「どうぞおいでください、ウラジカフカースに着いたら知らせてください」とあったので早速連絡して、17日に会うことにしていた。その日に私たちがグローズヌィに行くから、迎えてほしいと約束できたのだ。去年は半日だけだったグローズヌィ市だったが、今回は2日ほどかけて、グローズヌィ市ばかりでなくチェチェンの山岳地方にも行きたかった。もしかして2泊3日でもいいと思ったくらいだ。しかし、アスランが都合悪かった。アトリエの窓を仕上げなくてはならないからだ。それで、行くときは一緒だが、帰りは翌日(翌々日とは言い出せなかった)に私一人でと言うことになった。信用できるタクシーに乗せてもらえば、一人でウラジカフカースのアスラン宅に帰って来られる。
 行くときは、アスランも同行するのでタクシーではなくバスではどうだろうか。調べてもらうと、朝9時にグローズヌィのバスセンターからウラジカフカースへ。そのバスの復路がウラジカフカースを昼の12時半に出発すると言う1日に1本だけしかなさそうで、あまり便利ではない。タクシーの料金を調べてもらうと2500ルーブルだったので、朝早めの8時に来てもらうことにした。
 この日のタクシーはトヨタ・イプサムだった。運転手の男性が言うには、日本のオークションで直接ネット購入したそうだ。
アルハン・ユルタ村はずれのCM
『われらの名前はアフマット』
南オセチア経由で輸入したというイプサムと運転手
国立博物館
「日本のオークションはすごい。決して嘘はつかない。どんな細かい傷も故障も修理跡もきちんと明記してある。絶対に信用ができる」と感心していた。日本で欠陥を隠して公式オークションに出すと言うことは、最近はあまり聞かない。値段を聞いてみると、あまり高くない。それはなぜか。何か抜け道を通って高額な関税を逃れたのか。彼は南オセチアで購入したと言う。南オセチア共和国はロシア連邦ではなく、グルジアとされているからロシアのように高い関税がかからないのかもしれない。あるいは南オセチアは主権国家を主張しているから自分たちの法律と関税があるのかもしれない。南オセチアからロシアへの輸入は関税がたぶん低いか、まったくなしだ。(南オセチア共和国とロシアとの間の交通は、南オセチア人やロシア人なら、まったく障害がない。事実上、南オセチアはロシア連邦の一部に近い、つまり衛星国。ロシアも直ちに南オセチアを併合しないのは、グルジアや世界からの反発があるからだ。一旦は独立国としてグルジアから放しておくのか。クリミヤと違って非ロシア人が多いことで、やや異なる)。南オセチア経由の回り道を通って車を輸入できれば、日本車は日本での売価に運賃を足した程度の値段で手に入るのかもしれない。車のナンバーは北オセチア共和国の15だった。ロシア連邦に登録してあるわけだが、何かやばいことがあるのだろう。だから、彼は道路警察の検問のない道を選んで進んだようだ。
 特にグローズヌィ市の入り口にある検問は都合悪かったらしい。アルハン・ユルタ村のあたりから、連邦道を出て、普通道の北西からグローズヌィ市郊外に入り、街並みがそろったところで、目印になるような建物の前で車を止めた。グローズヌィに着いたらマゴメドさんに電話すると打合せしてあったので、アスランが現在場所を教える。ところが、グローズヌィ市はチェチェン戦争で町中が廃墟となったので、ほぼ新たに町を作り直したと言えるくらいで、通りの名前も昔と変わったのかもしれない。車が止まった通りの角に書いてある町名と、運転手のナビ画面の町名も異なっている。マゴメドさんが知っている通り名とも違っているかもしれない。
 20分ほど待って、マゴメドさんが去年も乗っていたシボレーで来てくれた。ルスランのシボレーより新しいサロンでシートも壊れていない。彼は私たちが連邦道を通ってくるなら、スンジャ川のダム湖の近くで電話があるだろうと思っていたそうだ。
 イプサムの運転手は別れ際、ごそごそとダッシュボードのボックスを探して、ソ連国旗の付いた携帯用の折り畳みコップをくれた。一気飲みヴォッカ用(ヴォッカはいつでも一気飲みだ)のものだったろうか。ロシアでタクシーなどに乗った時、日本製ボールペンなど渡すことはあるが、お返しをもらったのは初めてだ。
 マゴメドさんは、まず、国立博物館に案内してくれた。去年、来たときはもう閉館していたのだ。グローズヌィには古い建物はない。他の町にあるようなネオ・ゴシックと言うスターリン様式も、安上がりと言うフルシチョフ様式もない。革命前の大商人の館ももちろんない。すべて、第2次チェチェン戦争が終わってからの新築21世紀様式だ。博物館も、外見は中世ヴァイナフ様式の石造りの塔だが、内部は現代的な展示ホールがいくつもありそうだった。しかしこの日は休館日で、玄関ホールまでしか入れなかった。帰国後ネットで見ると、アフマト・カディロフ(初代大統領で現大統領の父。在職2003-2004。現在は民族共和国では『大統領』ではなく『首長』と呼ぶ)、考古学、民俗学、第2次世界大戦、美術などのホールがある。全くここではカディロフなしでは済まされない。
 チェチェン国立図書館
 チェチェン史の本を買いたいから大型書店に行きたいとマゴメドさんに頼んだ。オセチアについてはオセチアの中心にある書店で幾種類も売っているが、オセチアにはチェチェンのものはないし、モスクワにもないだろう。グローズヌィにしかないに違いない。ロシア史には古いチェチェンのことは一言も言及してない。近代のチェチェンの記述はあっても、必ずロシア側の見方でしか述べていない。少し古いが、レフ・トルストイやレールモントフのカフカース物を読んでもそうだ。
町なかの女性
館長室、アフマット・カディロフ肖像写真の前で
児童室にいた中東かららしいグループ
国立図書館の前で、左右の女性は職員
↓マゴメドさんのアトリエのダイニング・キッチン↑

 マゴメドさんは、それなら国立図書館へ行って聞いてみようと、5階建てで正面はガラス張りの立派な新築図書館へ行く。11時半頃だった。町中の女性はみな長いスカートに、頭はスカーフ(ヒジャブ)で覆っている。道行く女性たちはスマートで美人だった。
図書館中央の吹き抜け室

 国立図書館は中央に5階まで吹き抜けのホールがある。各階の廊下がホールを囲んでぐるりと回っていて、柱には中世チェチェンの絵(戦士の像)などがかかっている。各部屋はガラスの閾で区切ってあり、館長室は2階にあって、廊下からガラス越しに見える。内部にはカーテンもあるから視線を遮ることもできる。開放的な館内すべてが明るく整然としていて、感じがよい。
 館長はイスライロヴァ・サツィタ Исраилова Сацитаさんと言う女性で、マゴメドさんと知り合いらしい。
 「チェチェン史の本を手に入れたい、チェチェンの歴史を知りたいが、どこにも本は売ってないし、サイトにも見当たらない」と言うと、後ろの棚から厚さ3,4センチはある重そうな本を数冊出してくれた。1冊は2017年出版の『紀元前1000年紀までのナフ族、民俗文化史の諸問題』、もう1冊は『ヴェノイ Веной』と言う2016年版だ。帰りのスーツケースは軽い方がいいが、頁をめくり、目次も見て、地図も付いている『諸問題』の方を手に入れたいと頼んだ。イスライロヴァさんは、
「これは購入したばかりでここには1冊しかないから売ってあげるわけにはいかない」と言う。マゴメドさんは
「これを今、タカコ・サンに売ってあげて、図書館には後日購入しておけばいいではないか」と言ってくれるが、イスライロヴァ館長は、
「もし書店になかったら困るから、確かめてから決める」と言う。もしあれば800ルーブル(1600円)だそうだ。館長室にはアフマト・カディロフの大きな肖像写真が飾ってあった。その前で3人で写真を撮る。
 館内を案内してあげましょうと言われて、吹き抜けホールの周囲を取り囲んでいる廊下に出る。まず案内されたのは児童室で、ここも整頓され飾り付けられている。私を細身の若い女性に預けて彼女はマゴメドさんと館長室へ戻ったようだ。児童室担当の若い女性も長いスカートで頭にはスカーフをかぶっている。
 案内された隣の児童室には多分、中東の国からの団体が来ていた。子どもたちは思い思いに活動していたが、私が入っていき、案内の女性が日本からの客ですと言うと、指導教官(らしい大人)がスマホでカシャカシャ写真を撮るので、それはまたきまりの悪いものだった。
 『今はなきグローズヌィ市』と言うカラー写真が何枚か貼ってあった。1991年には40万人の立派な都市だったから、カラー写真も豊富だ。(1996年18万人、2017年29万人)。第2次チェチェン戦争で廃墟となり、戦後新しい首都は別のところ、たとえば、比較的被害の少なかったグデルメス市 Гудермесに再建てようという案もあったが、元の場所で復興され、今では北カフカースで最も美しい町となったそうだ。非戦闘員市民と独立派兵士、ロシア連邦軍兵士(徴兵)の血の上に立ったグローズヌィと言えるかもしれないが。
 (クラスノヤルスクのモティギノ村から徴兵され、8か月後グローズヌィで負傷したスラーヴァは、『2010年冬道のクラスノヤルスク地方』を案内してくれたアリョーシャの弟だ)
 (追記:2018年そのスラーヴァとクラスノヤルスクからモティギノに行った。彼はチェチェンのことは語りたがらなかった。しかし、2019年1月、彼と日本で会ったときは、特殊部隊に入っていたというスラーヴァはやや詳しく話してくれた。)
 マゴメドさん宅は奥さんの親せきが来ていて、自宅に私達を泊められないそうだ。彼のアトリエは整頓されてはいないが、そこで泊まってほしいと言う。アスランは日帰りの予定だったが、交通手段がないので翌朝の9時発のバスで帰ることにしていた。アスランと私がそのアトリエで泊まることになる。食料を買って、アトリエへ行ってみると、前庭もある広いスペースで、寝室もバス・トイレも付いている。しかし、明かりのつかないトイレ、ちょろちょろとしか出ない水道、前庭(つまり屋外)にある冷蔵庫、画材やキャンバスで足の踏み場もない仕事部屋。まったくアトリエらしかった。アスランと二人、もちろん宿泊できる。しかし、高くないホテルに1泊ぐらいしてもいい。
 買ってきたものでお昼を食べ、残ったものは冷蔵庫に入れて、2時半過ぎアトリエを出る。今日、マゴメドさんは私たちを近場のチェチェンの名所に案内してくれるそうだ。明日は遠いが美しい湖に行く予定だとか。
 マゴメドさんからチェチェンのどこを見たいのかと聞かれていたのだ。彼の風景画がたびたびフェイス・ブックに投稿されていたが、それはカフカース山をバックにしたヴァイナフ様式の塔だった。そんな塔を見たいと答えたが、それらはたいてい、車で行けないような場所にあるとか。だが、サッティ Сатти村近くにある塔へ行く。

 マゴメドさんが2日間にわたって案内してくれたのは。おおむね観光名所だった。マゴメドさんの風景画にあるような塔のある場所に行きたいと言ったので、初めに案内されサッティの塔は、グローズヌィからは60キロ南のアルグーン川中流にあって通行可能。ウシュカロイ塔にも行った。大概の塔は車輪では通れないようなところにあるそうだ。
 チェチェン人
 ヴァイナッヒ Вайнахиという用語は、現在カフカース学ではナフ語を話すチェチェン人(自称はノフチィ нохчий)とイングーシ人(自称は ガルガイгалгай)などを指す。ナフ民族と言う用語もあって、それは、チェチェン人、イングーシ人や、グルジアのチェチェンとの国境付近の山岳部のバツビイツ人(ツォヴァ・トゥシン цова-тушин)、キスチン人 кистин(後述)たちをも指す。しかし、あいまいで区別なしに使うこともある。実は、チェチェン人の自称ノフチィ(ロシア語の文献ではイチケリ)と言うのは現在チェチェン共和国南東の歴史的地名でもあって、他の地方、例えば、オルストホイ(орстхой、карабулаки。チェチェン西に住む。イングーシ人も多い)やアッキンツィ(平地アッキィ。ダゲスタンの北部、チェチェンとの国境近くに住む)、メルヒスティンツィ(南部山岳地帯に住む)たちは自称ではノフチィとは言わないで、それら歴史的な地名、またはチェチェン人など全体を表すバイナッヒ人だと言うこともあるが、ノフチィがチェチェン人全体を、普通は、指すそうだ。つまり、ノフチィ・トゥクフム(**)は、17,18世紀にに形成されつつあったチェチェンのトゥクフム連合をも指す。
氏族・自由共同体 タイプ・テイプтеип,таип血縁関係があるとされる地域集団、クランClan。現在100-110は山岳タイプ(テイプ)、60-10は平地タイプ。
**部族・共同体 トゥクフムТукхум
、英語では同盟Alliance、一定の地域を占め、共同で軍事、政治、テイプ間の紛争解決などに当たり経済的交流もする、各トゥクフムではヴァイナフ語の各方言で話す。16−17世紀ごろ形成された。チェチェン・イングーシ人のトゥクフムは9ある。タイプの上位集団。19世紀、135のテイプ(タイプ)のうち4分の3はトゥクフムに含まれていた。
 チェチェン語は北カフカース大語族のうちナフ・ダゲスタン語族の一派ナフ派のうちヴァイナフ・グループに属する。グルジアの北東山岳地帯に住むキスチン方言はグルジア語の影響が大きい。2010年チェチェン語の話し手は135万人で、ロシア連邦では、ロシア語、英語、タタール語、ドイツ語に次ぐ5番目の流通言語であるそうだ。
 チェチェンの地理 (付グルジア)
 ロシア連邦内チェチェン共和国はカフカース山脈の北麓で、北オセチア共和国の東にある。北オセチアの東はイングーシだが、イングーシは小さい共和国なので、イングーシの北でチェチェンと北オセチアは接している(*)。チェチェンの(カフカース山脈の)南はグルジア(つまり外国)で、南東と東と東北はダゲスタン共和国(ロシア連邦内の民族共和国)、北西はスタヴォロ―ポリ地方(ロシア連邦内で、民族共和国ではない連邦主体・行政単位)だ。
1.アルハン・ユルタ 2.ウスチ・マルタン市 3.アルグーン市 4.シャリ―市 5.チェチェン・アウル 6.ヤルィシュ・マルディ 7.ゾーヌィ 8.コムソモリスコエ(ゴイ・チュ) 9.ウルス・ケルト 10.シャトイ 11.パーミャトィ 12.サッティ 13.ハルセノイ 14.ニハロイ 15.ウシュカロイ 16.イトゥム・カリ 17.シャティリ 18.ヴェディノ 19.ハラチョイ 20.ハラミ峠 21.ボトリフ 22.カゼノイ 23.マカジョイ 24.ホイ 25.ベノイ 26.ナウルスカヤ 27.シェルコフスカヤ
チェチェン共和国
(*) 1992年まで『チェチェン・イングーシ自治共和国』だったように、チェチェンとイングーシは言語も文化もほぼ同じで、イングーシはチェチェンの9部族、上記トゥクフムの一つとされてきた
 チェチェン共和国内のやや北部に、西から東へとテレク川が流れる。テレクは、古い時代も、ロシア帝国の時代も、カフカース東北麓では重要な川だった。中世東欧で有名なハザール国は6世紀から10世紀までも続いた東欧の大国だが、故地はテレクともいわれている(*)。
(*)そういう歴史からか、独立派首領のシャミール・バサーエフ Шамиль Басаев(1965-2006)はあるインタビューでチェチェンのいくつかの氏族(テイプ、タイプтейп)はハザールの子孫かもしれないとか言ったそうだ。だからこの戦争(第1次と第2次チェチェン戦争)はハザールの失地回復戦、雪辱戦であると言ったそうだ。Это война - реванш за разгром Хазар。
しかし、謎の民族ハザールはテュルク語系といわれている。当時のハザールの政体は民族連合体だったから、チェチェン人の祖先も含まれていたかも知れない。

しかし、カフカース学者によればヴァイナフ民族(チェチェン人、イングーシ人、ツォヴァ・トゥシン人)の祖先はカフカスの原住民で、渡来のテュルク系ではない、とされている。

 テレク川左岸(北側)はテレク・クマ低地 Терско-Кумская низменностьだ。テレク・クマ低地帯はテレク川下流とクマ川(802キロ。テレクの北で同じくカスピ海に注ぐ)下流の間のカスピ海東岸の低地で、標高は130からマイナス28メートルというカスピ海沿岸低地の西部(より内陸側)を占める。ノガイ草原とも言ってテレク川岸の他は集落はあまりない。かつて、ノガイ人(*)の遊牧地だった。
(*)ノガイ人はキプチャック人の末裔。金帳汗国の後継国家で、ヴォルガからテレク川を領土としていたアストラハン国をロシア・ツァーリ国が破って、ノガイ人の住むカスピ北西がロシア領となった。カスピ西岸に住むノガイ人は大ノガイ人、黒海東岸に住むノガイ人は、ロシア帝国時代はクバン・タタールと呼ばれた
 カフカース山脈からイングーシ共和国内を北上して流れ、チェチェン内は西から東に流れてテレク右岸に合流するスンジャ川岸に首都のグローズヌィがある。テレク川右岸(南側)のテレク・スンジェ山地(丘陵)の南からカフカース山脈麓までの東西120キロ、幅50キロをチェチェン平野と言う。現在、人口が最も多く、グローズヌィ市、ウスチ・マルタン市、シャリー市、アルグーン市などがある。

 チェチェンの古い歴史は考古学的発掘結果以外にはあまりわかっていない。チェルケス人やナフ族(チェチェン人、イングーシ人、バイビィツ人 Байбийцы、キスティン人 Кистин)、グルジア人、アルメニア人などが、カフカースの先住民と言われているのは、古代文明メソポタミア北のウラルトウ人やフリット人 хурритの後裔だとされているからだ。死語となっているウラルトウ語やフリット語とヴァイナフ語との比較研究がおこなわれているそうだ。
 中世になって、グルジアやアルメニアの文献によると、11世紀にカフカース北中部にあったジュルジュキ Дзурдзукиがチェチェン人などナフ族の連合体だったそうだ。11世紀のカフカース地方の地図にその名が載っている。しかし、歴史があまりよくわかっていないのは、下記のように、3次にわたるナフ民族絶滅(19世紀のカフカース戦争。1944年の全民族の中央アジアへの強制移住。20-21世紀のチェチェン戦争)のため、書かれた歴史書(文献、各部族誌)も消失したからとか。1944年の民族絶滅ではカフカース北麓にナフ民族が存在していたということをも消そうとしたのだとか。確かに、チェチェン人の生き残りを中央アジアに分散させて、チェチェン人たちの文化を消そうとした。
 ナフ、またはバイナフ族は、カフカース地方の原住民だとは、チェチェン史のどのページにもある。カフカース山脈北麓のその時代によって支配的な勢力、たとえば、アラン王国とかグルジア王国などの(形式的な)勢力下で、山地ばかりでなくテレク川辺の平地にも広くチェチェン人の祖先が氏族ごとに住み、氏族連合体を作っていたらしい。カフカース北麓は古代から多くの遊牧民の通り道だった。スキタイ、サルマトィ、アラン、フン、ハザール、ペチェネグ、パロヴェツ、モンゴル、タタール、カルムィクなどが侵攻していった。モンゴルの侵攻やタメルラン(ティムール)の侵攻の時はヴァイナフ族は山地に退いた。オセチア人もそうだったが、山地は生産力が低く、人口も増えないので、山麓平地の勢力が弱まった時は山麓平地(斜面平野)にも広がった。
 そうした氏族の伝説などは、(前記のように)1944年の強制移住の際にすべて破棄されたそうだ。
 1957年チェチェン人たちの強制移住が解かれ、祖先たちの地に戻ることが許され、チェチェン・イングーシ自治共和国が復活しても、学校での教育はロシア語で行われ、チェチェンの歴史はソヴィエト時代以後しか教えなかった。それ以前は野蛮で暗黒時代だったとされていたそうだ。
 
 1944年の強制移住までのチェチェン自治州(後にチェチェン・イングーシ自治共和国)は、北はテレク川南までだったが、 テレク川北岸のテレク・クム低地が加わったのは1957年のチェチェン・イングーシ自治共和国復活の時以来だ。
 上記のように、1944年、スターリンは同自治共和国にいたチェチェン人とイングーシ人を第2次世界大戦におけるドイツ軍への協力と言う名目上の罪で、民族全員を中央アジアのカザフ共和国などに強制移住させ、それまでのチェチェン・イングーシ自治共和国(1936年に自治州から自治共和国になった)を廃止・解体した。(チェチェン・イングーシ人とパスポートにあれば、ソ連邦内のどこにいようとも、モスクワで高官であっても、ソ連邦英雄であっても強制移住させられた。その方法は極秘で計画され軍隊を使い非常な短期間で効果的に行われた)。旧自治共和国の大部分はスターヴロポリ地方からテレク・クマ低地帯を加えてグローズネンスカヤ州となり、また、南の山岳地帯はグルジア領になりグルジア人が移住、東の山岳地帯はダゲスタン領になった。空白となった旧チェチェン人の所有地にグルジア人やダゲスタン人が移住、西のテレク川右岸(東)は北オセチア領となり、南オセチアなどからオセチア人が移住して住み着いた。つまり、元々のチェチェン・イングーシ自治共和国の山岳部の75%は新グローズネンスカヤ州とはならず、グルジア領やタゲスタン領になり、また北オセチア
領になったわけだ。
 1957年(スターリンの死後)、チェチェン・イングーシ自治共和国は復活されたが、以前のようにはできなかった。ダゲスタンとグルジアは元のチェチェン山岳地帯を戻したが(住民は1944年に移住してきたのに、1957年にはまた元のところに再移住しなければならなかった)、西のテレク右岸を北オセチアが返そうとはしなかったからだ。ソ連政府はそれを認め、復興チェチェン・イングーシ自治共和国にはその代償としてテレク北岸の2地域(テレク・クマ低地帯のナウルスキィ区 Наурскийとシェルコフスキィ区 Шелковский)をスターヴロポリ地方から分けて与えた。
 その2地域は、上記のように、13世紀以後はチュルク系遊牧民のノガイ人などが住む草原荒野で、16世紀、アストラハン国を破ったロシア帝国はテレク要塞を作り、ノガイ草原は南の国境になった。特にテレク川辺はコサック(*)の居住地となった。
(*)コサックはもともとロシア帝国の臣下ではなく武装自由共同体で、ロシアの農奴制からの逃亡民も受け入れていた。テレク川下流のコサックはグレベンスキィ・コサックと言った。ロシア帝国(イヴァン4世)はコサックに保護を与え、次第に帝国膨張の先兵、かつ南のペルシャやトルコに対する国境守備隊に変えていった。18世紀末からテレク下流の国境地帯に住んだコサックは、ロシア軍隊の一部グレベンスキー・コサック連隊となった。テレク岸のグレベンスキー・コサックはレフ・トルストイの中編『大尉の娘』にも登場。
 1957年、スターヴロフスキィ地方からチェチェンへ譲渡当時はテレク北岸のほぼすべての町々にはロシア人のみが住んでいた(コサックの子孫も)。が、住民の意見は全く考慮されず、2地区に住むロシア住民の地はチェチェン・イングーシ自治共和国の管轄下となった。復興チェチェン・イングーシ自治共和国に多くのロシア人を住まわせることにしたのは、いくら民族共和国であっても過半数をロシア人で占めさせようとしたのだ、といわれている。強制移住中には、首都グローズヌィにも多くのロシア人が移住していた。自治共和国復活後グルジア人やダゲスタン人が元々のチェチェンの村を明け渡したのに、ロシア人はその必要なしとされたのだ。(大勢の帰還チェチェン人に対して、ロシア人の割合を増そうとして)。しかし、そのせいで1991年ソ連崩壊後、ここでは民族紛争が多発し、多くのロシア人は退去した(難民となった)。この地方で、1989年ロシア人の割合は36%、2010年は8%。1989年ノガイ人は15%
 
 カフカース山脈北麓はどこでも、同山脈から北上する川が峡谷をつくり、北麓の東を流れるどの川もテレク川に合流し、一方、北麓の西はクバン川に合流する。テレク川は東へとカスピ海に流れ、クバン川は西へと黒海(のアゾフ海)に流れ込む。スンジャ川もチェチェン平野東でテレク川に合流する。さらに、スンジャ川には、カフカース北麓からの多くの支流が流れ込む。それら支流の作る峡谷は中世からチェチェン人の各氏族テイプ(上記)の村があり、いくつかのテイプ(氏族)の集まった部族・共同体・トゥクフム(上記)の住む場所だった。
 上記のように、チェチェンを南の山地から北のテレク川の流れる低地に向かって、多くの支流やその支流が流れる。最も東の山岳地にはアクサイ Аксай川(*)の上流が流れる。アクサイ川はチェチェンとダゲスタンの境界をなすアンディ山脈(カフカースの支脈)から流れ、チェチェンではヴェノイ・ヤッシ Веной-Яссиと呼ばれている
(*)アクサイ川 カスピ海近くの下流テレクは広いデルタを作っており、最下流では標高0メート以下を流れる。川床も歴史的に変化している。アクサイ川は、アクタシ川に合流し、アクタシ川はダゲスタン共和国の地図では、ノーヴィ・テレク(113キロ、新しいテレクの意。20世紀に水利施設を作り新しくテレクの流れとした)に注ぐように記されている。別の地図では運河でスラーク川(ダゲスタン南部のカフカース山地から流れ、テレク川より南のカスピ海岸に流れ込む)に流れる。アクタシ川のスラーク川への合流地点は標高マイナス10メートル。カスピ海沿岸(言及している北西岸)のデルタ地帯はテレク川やスラーク川が低地を蛇行して多くの湖沼を作って流れ、運河も縦横に張り巡らされている。アクサイ川の中・下流はダゲスタン領。
 南北に流れるアクサイ川の西にほぼ並行して流れ、スンジャ川右岸(南岸)に注ぎ込む支流はベルカ川、ベルカ川と下流で合流してスンジャ川に注ぐフンフラウ川 Хунхулау(67キロ。その上流へ翌日行った)、その西はジャルカ川、さらに西が最も長くてカフカース南麓のグルジアから流れてくるアルグーン川(148キロ)(*)。そのアルグーン川には中流でシャーロ・アルグーン川(86キロ)が東から右岸に合流する。(アルグーン川の川上へはこの日、訪れた)、その西はマルタン川ゲヒ川フォルタンカ川アサ川となる。アサやフォルタンカは上流がイングーシだ。
(*)アルグーン川は大カフカース山脈の分水嶺の向こう側、つまり南側・グルジア側から流れてくる。テレク川も大カフカース山脈の南側からダリヤリ峡谷を作って流れてくる。ちなみに、ロシア帝国がウラジカフカースとダリヤリ峡谷を通るグルジア軍道を作り、現代それはは大カフカース山脈を越える主要道になっているが、18,19世紀以前はアルグーン川の上流からグルジアのヘヴスレティ(下記)に出る通路の方がより利用されてきたと言う。

 帰国後ネットで調べてみると、数年前よりはるかに記事の数量が多くなっていて(そのように思える)、チェチェンには歴史的な地名がいくつかあると分かった。イケチリアと言うのは現在チェチェンの南東部の歴史的な地方名。西部でイングーシに近いところはアルストホイ・モフク Орстхой-Мохкと言い、南西部はナシュハ、南部の山岳は チェベルロイ Чеберлой、チャンティ Чантий、シャロイ Шаройなどと言った。(上記、チェチェンの方言)
 チェチェンとカフカース山脈で接しているグルジア
 グルジアはチェルケスやオセチアよりよく知られていて、日本にもファンが多い。グルジア音楽が好きとか、『世界遺産』とかを見に行こうと言う人も多いそうだ。私もオセチアやチェチェンと深いかかわりのあるグルジアに興味があるが、グルジア文字と言語には歯が立たない。
 グルジアとは黒海から大カフカース南麓にかけての歴史的地名の一つであり、現在の国家名でもある。標準的な外名はジョージアで、内名(自称)はサカルトヴェリだが、『グルジア』の方が合衆国の同名の州名より私のイメージに合っている。主な住民はカフカースの原住諸民族の一つのカルトヴェリ族 Картвелы(その言語については下記)であり、文献によるだけでも3500年の歴史を持ち、原グルジア人(現カルトヴェリ人)は紀元前4千‐5千年前からその存在が確認されている。
 ウラルトゥやアッシリアの記録にディアオハ族 Диаоха(現在の西南部グルジアや、トルコ北東つまり歴史的な(元々は、と言う意味)西アルメニアに、紀元前12世紀から8世紀ごろまでいた)、コルハ族 Колха(グルジア西部に紀元前13世紀ごろから1世紀まであったコルキス国。ギリシャ神話で名高い)、 ザバハ族 Забаха(南グルジアにあったカルトヴェリ族の連合か)と言う名が紀元前2000年紀末に記されている。
 コルキス王国と並んで古代グルジヤ史ではイベリア王国がコルキス王国東の内陸部に紀元前3‐4世紀から栄えた。当時イベリアとはカフカース南麓全体を指していた。現在ピレネー山脈南のスペインなどのイベリアと区別してカフカース・イベリアともいうが、カルトリ王国ともいう。首都は東グルジアのムツヘタ、5世紀にはトビリシに遷都。イベリア(カルトリ)王国時代の330年代キリスト教が国教とされた。これは301年のアルメニア王国に次いで古い。4世紀中ごろササン朝ペルシアの支配を受けたが、5世紀末には復興した。7世紀後半からはイスラム教を報じるアラブ人の支配下にあった。
 9‐10世紀にグルジア各地にあった諸国をほぼ統一した中世グルジア王国(1008-1555、首都はクタイシ、後にトビリシ)が興り、中世グルジアの黄金時代が始まった。12世紀後半のタマル女王(1184-1213)時代はカフカース南麓(ザカフカース)全体を支配するようになった。
 しかし、13世紀以後は、一部地方では短期間の独立を果たしたものの、モンゴル、ペルシア、テェルクの支配下にあった。かつての統一グルジア王国はクタイシを首都とするグルジア中西部のイメレチア王国(1490-1811)、トビリシを首都とする中東部のカルトリ王国(1491-1762)、東のテラヴィを首都とするカヘティア王国、さらに黒海沿岸のグリア、サムツヘ、メグレリ、アブハジアや、内陸部山岳部のスヴァンという事実上独立した5公国があり、この3王国5公国時代は、西グルジアはオスマン帝国の勢力下、東グルジアはイラン・サファヴィー朝の勢力下にあった。
 1762年、カルトリとカヘティアが統一され、トビリシを首都とするカルトリ・カヘティア王国(グルジア王国、1762-1801)が建てられた。1768年から1774年にかけて起こった第1次露土戦争ではカルトリ・カヘティア王国もイメレティ王国もロシア側に立ち、イスラム勢力と戦った。1783年カルトリ・カヘティア王国はロシア帝国の保護国となることを認めたゲオルギエフスク条約(グルジアの独立と領土保全を保証)を結ぶ。しかし、1801年、カルトリ・カヘティア王国は廃され、東グルジアはロシア帝国に併合され、トビリシにカフカース総督府がおかれる。つまり、ロシアの郡制長官の支配下(完全に領土化された)に置かれた。1810年には中西グルジアのイメレティ王国もロシアに併合される。
 ロシア帝国はカフカース南麓(ザカフカース、つまり新たに領土となったグルジアなど)の一層強固な支配のため、この頃、カフカース戦線の重要拠点マズドク砦を通りテレク川を遡ってダリヤル峡谷を越え陸路グルジアへ出るグルジア軍道を建設したのだ。グルジア軍道の要所、ダリヤル峡谷の入り口に建設したのがカフカースを征服せよという意味のウラジカフカース砦だ。ロシア帝国とグルジア(ザカフカース)との間にはカフカース北麓に住む難敵、チェルケス人、チェチェン人やレズギン人がいて、帝国のカフカース征服の障害となっていた。そのカフカース北麓民を支配下に置こうとしたカフカース戦争(1816-1861)では、グルジア正教会のグルジアはロシア正教会のロシア側に立って、イスラム山岳民族と戦っている。
 ロシアはペルシャ戦争の結果、1828年にはアルメニア、アゼルバイジャン北部も支配下に置き、1829年には西グルジア黒海沿岸のグリア公国も併合。1877年の露土戦争の結果、オスマン帝国支配下にあった黒海沿岸もロシアに併合され、カフカース全域がロシア帝国領となった。
 ロシア革命後は;
↑現在のカフカース地方のグルジア↑  ↓グルジアの歴史的地方名↓
・1922年 ザカフカース社会主義連邦ソヴィエト共和国の一としてグルジア
・1936年 グルジア社会主義ソヴィエト共和国
・1991年 主権国家ジョージア

グルジアの言語;
カルトヴェリ語派Картвельские языки 
  グルジア語(カルトリ、カヘティア、イメレティを含む18の方言がある)
ザン語派занская группа
  メグレリ語мегрельский
  ラズ語лазский
スヴァン語派сванский

グルジアの歴史的地方;

 グルジア北東部はロシア連邦の北オセチア、イングーシ、チェチェン、ダゲスタンと国境を接する。
 現在、南オセチア共和国の大部分は、公式にはグルジアの12の行政区画の1つのシダ(内)・カルトリ州の北部を占めるが、南オセチアにはグルジアの主権が及んでいない。南オセチア人は、自分たちが追い払ったと言うグルジア人をカルトヴェリ人と言う。(カルトリとは地名、そこに住む人をカルトヴェリと言う)。南オセチアからグルジアへ出るのは難しいが、ロシア連邦内の北オセチアへは容易に往復できる。つまり、南オセチアはロシア連邦の一部になったに近い。現在、南オセチア共和国としてはロシア連邦他3か国以外は未公認の国家。
 《ヘヴィ地方
 南オセチアの東、グルジア軍道が通るダリヤリ峡谷のグルジア側は歴史的ヘヴィ Хеви地方といった。ここにはモヘヴツィ Мохевцыと言うグルジア系サブエトノスが住みグルジア語の方言の一つモヘヴ Мохев語を話す。ヘヴィ地方は現在、グルジア12行政区画の一つムツヘタ・ムティアネティ州の北部を占める。ちなみにグルジア軍道が通るダリヤル峡谷をグルジアではヘヴィスカリ Хевискари(門、峡谷の意)という。
 《へヴスレティ地方
 歴史的ヘヴィ地方の東のヘヴスレティ地方には、カフカース山脈から北のチェチェンに流れ出すアルグーン川(148キロ)の最上流域がある。つまり、カフカース山脈を貫いて流れるアルグーン川でこの地方とチェチェンはつながっている。ヘヴスレティには、グルジア系(グルジア化したチェチェン人といわれている)のヘヴスール人が住みグルジア語の方言の一つへヴスール方言を話す。(その方言を中央グルジア人は理解できない)。ヘヴスレティがロシア帝国領になったのは1813年だ。(1783年カルトリ・カヘテア国がロシア帝国の保護下に入る。1801年から徐々にロシア帝国領の一地方になっていく)。しかし山岳ヘヴスレテゥには1920年代まで、住民だけが知っていると言うような小路しかなく、外部世界から隔離された地方だった。
 ヘブスレティ地方は北部と南部では、北のアルグーン川上流域と南のクラ―川上流域とに分水嶺で別れている。つまり、北部(外ヘヴスレティ)は、前記のようにチェチェン、イングーシと国境を接する。アルグーン川が国境を超える2キロ手前にかつての要塞都市シャテリ Шатили村がある。全長148キロのアルグーン川は最上流24キロはグルジア・ヘヴスレティを流れる。シャテリ付近に右岸支流アンダキ Андаки川(31キロ)が合流し、その流域にへヴスレティ様式の塔や墓地が無人になったかつての集落に残っている
 一方、ヘヴスレティ(内ヘヴスレティ)はクラー川(1364キロ)の左岸支流でへ流れるヘヴスール・アラーグビ Хевсурская Арагви川(16キロ)谷にある。へヴスール・アラーグビ川はプシャヴ・アラーグビ川の源流で、アラーグビ川は西のヘヴィ地方を源流とする白アラーグビ川や黒アラーグビ川、プシャヴ・アラーグビ川などと合流してアラーグビ川(66キロ)となり、南へ流れてクラー川左岸に合流する。
 アルグーン川の西を流れ、同じくスンジャ川の右岸に合流するアッサ川(133キロ)も、実はグルジア内カフカース山脈を20キロ流れイングーシを91キロ、チェチェンを32キロ流れる。そのアッサ川最上流のグルジア側にもヘヴスール人の集落があり、アルホティ Архоти地方と呼ばれていたが、イングーシからは通行不可。シャテリからは西にいくつもの峠を越えて行きつけるかもしれない。
 《プシャヴィヤ地方
 プシャヴ・アラグヴィ川中流地方でプシャヴィ人が住む。プシャヴィの祖先はチェチェン人で、 プシャヴ方言のグルジア語を話すが、ヴァイナフ族の一派とされる。
1.カズベック山(5033メートル) 2.テブロスマ山 3.ディクロスマ山 4.大バルバロ山 5.シャヴィクルデ山 6.パンキス峡谷 7.ダリヤリ峡谷 8.ピリキテリ・アラザニ川 9.トゥシェット・アラザニ川 10.へヴスール・アラグヴィ川 11.アンディ山脈 
黒(黒アラグヴィ) 白(白アラグヴィ)
グルジア北東部カフカース南麓
(ヘヴィ、ヘヴスレティ、トゥシェチア)と
ロシア領の北麓
(北オセチア、イングーシ、チェチェン、ダゲスタン
 《トゥシェチア地方
 上記の地方と同様、チェチェン南部のカフカース山脈のグルジア側にある地方で、ヘヴスレティの東側はトゥシェチア Тушетияと言う。現在グルジア12行政区画の最西端のカヘチア州の最北西部だ。トゥシェチアの北はチェチェンとの国境をなす東西に延びる側カフカース山脈(テブロスマ山 Тебулосма4492メートルやディクロスマ山 Диклосма4285メートル)が横たわり、南のカヘチアとはやはり東西に延びるカフカース山脈(大バルバロ山 Большой Барбало3294メートルやシャヴィクルデ山 Шавиклде3578メートル)にへだてられた隔離地で、ここにはグルジア人(グルジア化したチェチェン人とも)のトゥシンツィТушинцы人(3万人)と、チェチェン人と同じナフ族のバツビイツィ бацбийцы (Цова-тушиныともいう、3千人)が住む。
 ダゲスタン共和国を通りカスピ海に流れ出すスラークСулак川の左岸源流アンディ・コイスー Андийское Койсу川(144q)のさらに最源流は側カフカースと大カフカースの間のグルジア・トゥシェティを西から流れて来る。つまり、トゥシェット・アラザニ川 Тушетская Алазани(右)(地図の9)とピリキテリ・アラザニ川 Пирикительная Алазани(左)(地図の8)が合流してアンディ・コイスー川となり、チェチェンとダゲスタンを分けるアンディ山脈のダゲスタン側(南側)を流れ、南東から流れてくるアヴァール・コイスー Аварское Койсуと合流してスラーク川となりカスピ川に流れ出すのだ。クラ川の左岸支流であるアラザニ川とは全く流域が異なるのに、水源が近くにあるから着いた名前だろうか。トゥシェト・アラザニ川とピリキテリ・アラザニ川は西から東へ、側カフカース山脈と大カフカース山脈の間の高度2000メートル以上の盆地(トゥシェチア)を流れる。
 大カフカース山脈がヨーロッパとアジアを分けるとすれば、現カヘチア州の最北トゥシェチアは大カフカース山脈の北にある(大カフカース山脈はトゥシェット・アラザニ川の南に横たわる)のでヨーロッパ、一方、トゥシェチア以南つまり大カフカース南麓のカヘティア州はアジアと言うことになる。つまり、カヘティア州はヨーロッパとアジアにまたがる。
 パンキス峡谷
 南部トゥシェチアの南というのは大カフカース山脈の南麓のことだが、南に向けてアラザニ川(351キロ)が流れる。アンディ・コイスー川の源流とアラザニ川の源流は同じ大バルバロ山の東麓と南麓と言うことになる。(前記のように水源が近い)。アラザニ川は中流では北西から南東のアラザニ平野(カヘティア平野、旧カヘティ国首都テラヴィがある)を流れるが、上流ではパンキス峡谷を流れる。この長さ28キロほど、幅5キロほどの峡谷には、古くから(16-19世紀)16個ほどの村々にキスティニ кистиныとグルジアでは呼ばれているチェチェン人が住んでいる。(グルジアではかつてチェチェン人をキスチン人と呼んでいた。キスチンの複数がキスチニ)
 キスチン人の多くは19世紀、カフカース戦争のころ、アルグーン峡谷上流のマイスタ Майста地方から、ロシア帝国の支配下にも、北カフカース・イマム国のイスラム・ミューリジズマのシャミールの配下になることも拒んだチェチェン人(マイスタ人と言う)が(有名な、知る人ぞ知る)ジョコーラ Джоколаに導かれて移住してきた。16個の村の一つはジョコーラと言う。(アルグーン峡谷上流のチェチェン人村ではシャミーリに服さなかったグホイ Гухой村もあり、そのリーダーはグバーシュ Губашと言った。(19世紀のカフカス戦争時のこと)。

 パンキス峡谷の最上流のトゥバタニ Тбатани村からチェチェンまでは朝出ると夕方つくような小路があり、自由に往来ができた。パンキス峡谷には1990年代のチェチェン戦争のころから、チェチェンからの避難民が多く住むようになった。第2次チェチェン戦争のころ独立派の指導者のひとりゲラーエフが自分の軍隊と来て、ここにほぼ独立国と言えるような地域を作った。ゲラーエフと同じ指導者のアミール・ハッターブ Хаттавの軍も来ていた。『パンキス国』の首都と言うドゥイシ Дуиси村にはハッターブが自費で建てたモスクもある。パンキス国の『国境』には武装検問所もありグルジアの主権も及ばなかった。しかし、2004年には一掃された。が、2014年頃までカフカース(コーカサス)・イスラム首長国に戦闘員を送っていたとか。日本外務省は今でも危険地域レベル3に指定している。
 アルグーン川峡谷へ
 3時少し前にマゴメドさんの車でアスランと3人で、アトリエを出発した。ヴァイナフ風の塔のある場所に行くためだ。市から出て南へ行くとすぐチェチェン・アウルと言う9千人(ほぼ全員がチェチェン人)の村を通る。チェチェン・アウル村はチェチェン平原の中央、スンジャ川とアルグーン川の間にあって、15−18世紀にはアヴァール侯(*)の屋敷があった。15世紀ごろから、山岳チェチェン人も移住してできた集落だ。このチェチェン・アウル村からチェチェンと言う名前ができたそうだ。
(*) アヴァールаварцы (ナフ・ダゲスタン語族、つまりチェチェンと同じ系統、5−9世紀東欧のハンガリーのアヴァール(モンゴル・テュルク系とは全く別。12-19世紀に北東カフカースにあったアヴァール・ハン国。カフカース戦争時一部半はロシアに協力。現在ダゲスタン中心にアヴァール語の話者は700万人

 チェチェン・アウル村から先は、アルグーン川を遡るように南のカフカース山脈へ向かって、アスファルト舗装道が続いている。上記のように、延長148キロのアルグーン川は南のグルジアとの国境の向こう側から(*)、カフカース山脈を通り抜けて北へ、大規模なアルグーン峡谷(120−100キロ)を作って流れてくる(国境はおおむね分水嶺に沿ってあるのに。アルグーンは最上流はグルジアの川、中と下流はチェチェンの川となる)。上流の峡谷を出たところで右岸支流シャーロ・アルグーン川(86キロ)が合流してくる。合流後はチェチェン平野を流れてスンジャ川に合流する。アルグーン川はチェチェンの中央を流れ、チェチェンの歴史の主要舞台の一つだった。シャーロ・アルグーン川合流地点までの上流アルグーンを歴史的にはチャンティ・アルグン と呼ばれていて、チェチェンでも古くから記録に残っている地方の一つだ。
(*)アルグーン川の最上流 グルジアの北東山岳地帯のヘヴスレティア Хевсуретия地方(上記、グルジアの歴史的地方)からカフカース山脈を越えて流れるアルグーン川の峡谷は古代から、北オセチアのダリヤル峡谷と並んでカフカース越えの通商・軍事道でもあった。一説ではダリヤル峡谷より通行量が多かったそうだ。ロシアからグルジアへの外交路も、18世紀末までここを通ったと言う。
 ちなみに、このルートを通ってキリスト教も入ってきた。現在イングーシ共和国山岳のジェイライフ Джейрах地区には当時の教会トゥハバ・エルズィ Тхаба-Ерды(8世紀)が残っている。
 アルグーン(チャンティ・アルグーン)のグルジア国境近くの山岳地帯は、チェチェン人の住むマイスチ Майсти(アルグーン右岸)、メルヒスチ Мерхисти地方(アルグーン左岸)と呼ばれ、かつては住民も多かった。19世紀、カフカース戦争の時へヴスール地方がロシア帝国軍に敗れ、ロシア帝国グルジアの一地方となった。1927年チェチェン自治州に譲渡されチェチェン自治州のアッラゴ Аллаго区となった。チェチェン語のマイスチ方言やメルヒスチ方言を話す住民が住んでいたからだ。
が、1944年、チェチェン・イングーシ人の中央アジアへの強制移住で同区は廃村となり(中央アジアまでの遠距離移住に適さない住民300人以上は大量殺害されたとか)、1956年チェチェン人の帰還後も山岳地帯のかつての自分たちの村に居住することは禁止され、現在も国境地帯のため許可なく立ち入り禁止。なお、19世紀のカフカース戦争の時も、イスラム・ミューリズム Мюризмのイマーム・シャミーリには従わず、カフカース山脈を超えグルジア側に移住した氏族村もある。
 チェチェン全体では、1944年までは山岳部に144の村があり、12万人が住んでいた。
 
 アルグーン峡谷ではどんな小さな支流の合流点にも、分岐点にも見張り塔・防御塔が建ち、『塔の峡谷』とも呼ばれていた。前世紀末のチェチェン戦争前までは、4000基以上の防御・見張り・住居塔などの歴史建造物があり、180の砦村があった。かつてチェチェン人の人口が最も多かった地方のひとつだった。塔などの歴史的建造物は19世紀のカフカース戦争の時、1944年の強制移住の時、20世紀末のチェチェン戦争の時と、大部分は破壊・爆破された。中流はシャトイ・トゥクフム(部族)、上流はチャンティ・トゥクフム(部族)が住んでいた(歴史的地名が上記のようにチャンティ・アルグン)。
 ちなみに、1944年中央アジアに強制移住させられていたチェチェン・イングーシ人は1956年復興された自治共和国に帰還することは許されたが、山岳地帯のチャンティなどに住むことは禁止された。1999年居住することは許されたが、かつての故郷村には電気もない。 
カディロフの肖像写真のある村の入り口
湧き水がある
例えば、シャーロ・アルグン川の上流山岳地にシャロイ区が2000年復活された。ここにはかつて40の集落があったが、現在は11集落の他は廃墟のままだ。区全体で3000人が住む。シャロイ区の行政中心地はシャーロ・アルグーン川辺のヒモイ Химой村で350人が住み、ほぼ全員がチェチェン人だ。
しかし、そこから17キロ東(ということはダゲスタンとの国境に近く)のケンヒ川(シャーロ・アルグーンの右岸支流)畔のケンヒ村には1500人のアヴァール人(ダゲスタンの構成民族の1)のみの村がある。同じシャロイ区にまだ大部分がアヴァール人の100人程度の村が2個ある。ケンヒ村はもともとダゲスタン領だったが、ソ連時代初めに、交通の便からシャーロ・アルグーン川のチェチェン領になった。1944年のチェチェン人全員の強制移住の時は、チェチェン領内にいたが、彼らはチェチェン人ではなかったので、強制されなかった。チェチェン・イングーシ自治共和国は解体され、山岳地帯はダゲスタン領になり、強制移住で空になったかつてのチェチェン人の村々にダゲスタン人(アヴァール人)が移住してきた。が、1957年チェチェン・イングーシ自治共和国復興で、立ち退くことになった。
しかし、16,17世紀から住んでいたケンヒ村のアヴァール人は当然のことながら新チェチェンにとどまっていた。1999年の新法で山岳シャーロ区にもチェチェン人が住めるようになって、8個のチェチェン人の村が復活されたが、電気はケンヒ村までしか敷かれていないとか。
今、アヴァール人村だからという理由でチェチェン中央政府からの村のインフラ整備が差別されているという不満が、同村住民から出ているそうだ。
 グローズヌィから来た道はシャーロ・アルグーンとの合流点近くで、アルグーン川右岸にわたる。橋の工事をしていた。アルグーン峡谷は、前記のように、19世紀ロシア・カフカース戦争の時も、20-21世紀のチェチェン戦争の時も激戦地の一つだった。カフカース戦争の時は、アルグーン峡谷はロシア軍が1858年になるまで支配下におけなかった征服困難地だった。
 橋を渡ったはじめの村はヤルィシュ・マルディ Ярыш Мардыだ。第1次チェチェン戦争の1996年4月16日ここでロシア連邦軍は待ち伏せしていたアラブ人のアミール・ハッターブ Амир Хаттаб(1969-2002)指揮するチェチェン軍に惨敗した。(『ヤルィシュマルディの戦い Бой у Ярышмарды』。ハッターブはヨルダン国籍またはサウジアラビア。チェチェン東部の野戦指揮官。母はチェルケス人。2002年ロシア諜報部によって暗殺される)。
 カディロフの肖像写真の角柱門が入り口にある村は、そのヤルィシュ・マルディだったか、その次のゾーヌィЗоныと言う村だったかわからない。後でマゴメドさんに聞いても、カディロフの肖像は至る所にあると言う返事。

 アルグーン峡谷はカフカース戦争(1817‐1864)以後、ロシア帝国の砦が立ち、ゾーヌィもその一つだったが、のちに、峡谷のもっと上流から土地が狭くなったヴァシュダロイ Вашдаройという氏族(上記のチェチェン語でタイプтайп)が移ってきたそうだ。
 アルグーン峡谷に沿った道は、R305と言う共和国道らしい。途中に泉があって、流れ出る斜面にチェチェン様式壁画のレリーフがあった。アルグーン川に沿って中流はシャトイ区だ。
 『ヤルィシュ・アルディの戦い』は1996年の第1次チェチェン戦争でチェチェン側が勝利したが、第2次チェチェン戦争の2000年2月22日から29日の『シャトイの戦い』はロシア連邦軍が勝利した。
 シャトイの戦い
 このシャトイの戦いは20世紀末から21世紀初めのチェチェン戦争の、最も激しい戦闘の一つだった。
シャトイ村入り口
シャトイ村のモスクが見える

 第2次チェチェン戦争の2000年2月、ロシア連邦軍にグローズヌィを抑えられて、チェチェン独立派の野戦の指導者たちルスラン・ゲラーエフ Руслан Гелаевやハッターブ、マスハードフ Масхадов、バッサーエフ Басаев達は最後の軍事拠点の山岳地帯アルグーン峡谷に退却した。カフカース山脈を越えてグルジアに抜けることのできるアルグーン峡谷は古い時代からチェチェン人が敵軍を避けたところだ。峡谷奥のイトゥム・カリ Итум-Калиからグルジアのシャティリ Шатилиへ通じる古い道があり(上記通商路)、そこをチェチェン・イチケリア共和国時代(ソ連崩壊後のチェチェン独立派の自称国名)から整備されてきた。独立派軍はこの山岳道を通じて物資を補給し反撃する予定だったと言われている。
 連邦軍はアルグーン峡谷のシャトイ村を包囲し空爆をつづけたが、2月22日から地上戦に入った。14 000人の連邦軍と独立派(アラブ人傭兵を含む)2000人の地上戦で、シャトイ村に連邦軍の旗は立ったが、ルスラン・ゲラーエフとハッターブは包囲を突破することができた。アルグーン峡谷では土地勘の有無がかなり成果に影響すると言うことか。
 ゲラーエフは北西コムソモリスコエ村(自分の出身地だった、1944年まではバチン・コトル村 Бачин-Котрと言い、2007年からはチョイ・チュー村 Чой-Чуと言う、5500人、グローズヌィから35キロ南)方面に進み、ハッターブは北東のウルス・ケルト村方面の山中にのがれ、そこでの戦闘は、それぞれ『コムソモリスコエの戦闘(2000年3月5日‐20日)』『標高776での戦い(2000年2月29日-3月1日)』と呼ばれている。標高776での戦いではロシア連邦軍は惨敗した。
 アンナ・ポリトコフスカヤ Анна Польтковская(*)の邦訳『チェチェン、止められない戦争』に、2000年2月、連邦軍が1ヶ月コムソモリスコエ村を包囲し殲滅したその1年半後、筆者が訪れた記事がある。
 (*)アンナ・ポリトコフスカヤ(1958年8月30日 - 2006年10月7日)はロシア人女性のジャーナリスト。ノーヴァヤ・ガゼータ紙評論員。第二次チェチェン紛争やウラジーミル・プーチンに反対し、批判していたことで知られている。2006年、自宅アパートのエレベーター内で射殺された。




 
 第2次チェチェン戦争は、ロシアでは公式に『北カフカース(チェチェンとその周辺)における反テロ戦線』と呼ばれている。1999年8月7日、チェチェン側からダゲスタン共和国への侵攻から始まり(後述)、1999‐2000年の激戦後、2000年以降はロシア連邦軍がチェチェンを制圧し、2000年アフマト・カディロフをチェチェン共和国臨時政府首長に据え、2003年には大統領にした。2009年4月16日に対テロ戦線モードが解除、と言うことになっている。

 マゴメドさんには問いたいことがたくさんあった。去年、初めてマゴメド・ザクリエフさんにグローズヌィを案内してもらったときは、町中のカディロフの肖像写真の多さに驚いている私の問いに、自分はカディロフを尊敬していると、繰り返し答えたものだ。カディロフと映るプーチンの写真も多かった。ロシア連邦軍がカディロフの後ろ盾となってチェチェン独立派を打ち負かした、と言うカディロフだ。同じく私の問いに、彼はプーチンは嫌いだと答えた。ロシアから独立して主権国家になりたいと考えているだろうか、と聞いてみると、「いつかは、いや、近いうちに必ず独立する」と、答えた。カディロフは『将来必ず主権国家となるはずのチェチェン』を救ったと思っている。しかし、今年、聞いてみると息子のラズマン(第3代チェチェン首長)は、疑問だと言うような答えだった。そうだろう。恐ろしく利権が絡んでいるに違いない。
 マゴメドさんは、「カディロフが暗殺される1ヶ月ほど前、プーチンに会うためにクレムリンへ行った時、護衛の一人にそっと、『今に必ず・・・』とささやいた」と言う。私はマゴメドさんの言葉がよく聞き取れなかった。だが、聞き返すのは遠慮した。
 彼には何から聞いていいかわからないので、20世紀末の独立チェチェンの国名はチェチェン・イケチリアと言ったが、なぜ、イケチリアと付け加えられているのかと聞いてみた(上記)。マゴメドさんは「あなたにはわからないですよ」と答える。チェチェンは島国日本に比べてはるかに過酷な歴史をたどってきたから、日本人の私にはわからないのだと繰り返す。

 シャトイ村のハッコイ氏族、19世紀
 シャトイ区の行政中心地はシャトイ村で1858年創設となっている。それ以前、この地にはハッコイ Хаккой(シュアトイШуотой)氏族が住んでいた。1000年以上前から住んでいるとある。アルグーン峡谷のハッコイ氏族の住む一帯は開けた盆地で、ハッコイ氏族のほか、いくつかの氏族が住み、シャト・トゥクフム(部族)を成していた。アルグーン峡谷はカフカース山中でも最も長く広い峡谷の一つで、元々のチェチェンの中央に位置する。カフカース越えの通商路としても古代から知られていた。
 北カフカースの東部では、1817年に始まったカフカース戦争では、アルグーン峡谷がロシア帝国軍には最も難攻不落だったのだ。ロシア帝国軍の有名なエウドキモフ将軍はそれまでにイマーム国の首都ヴェデノ以外のチェチェンの大部分を占領し、最後に残ったのがアルグーン峡谷だった。頑強な抵抗にあったが、1858年にはまずハッコイの地を攻め落とし、そこに砦を作って、アルグーン峡谷のさらに奥まで進み、チェチェンのアルグーン峡谷の『山匪(*)』を平定することができた。アルグーン峡谷は深い森の中にあるが、森さえあればチェチェン人は侵入者に負けないと言われていたので、帝国軍は木々を伐採したとか。 (トルストイの初期短編にも『森林伐採』というのがある)
(*)山匪 レフ・トルストイのコーカサス(カフカース)を舞台にした小説ではロシア帝国に従わないチェチェン人やダゲスタン人を『山匪賊アブレーク абрек』と表現。しかし、トルストイは彼ら山匪をロシア帝国の敵とだけ貶めた描き方をしていない。『コサック』と言う初期の作品ではテレク川左岸のグレーベンスキィ・コサックたち(**)とモスクワから来た主人公が描かれた中編だが、主人公は野生的なコサックを敬意をもって描いているばかりか、そのコサックが、味方のロシア兵より、敵の山匪を尊敬しているように描かれている。晩年の『ハジ・ムラート Хаджи-Мурат』では、ロシア軍将校のペテルブルク社交界的営みと、それと対比したアヴァール人ハジ・ムラートの屈強で清楚な姿が描かれている。
最も有名な山匪アブレークは、ハラチョイ村のゼリムハン
(**)グレーベンスキィ・コサック Гребенские казаки 16世紀、ドン川から移住してきたコサックの子孫。コサックは19世紀はロシア帝国膨張の最前列で非征服民から帝国領を守備していた。テレク北の丘陵がグレーベニ(櫛、とさか、稜線の意味)と言ったから名付けられた。
1868年までのハッコイの塔(ウィキペディアから)
1858年絶滅させられたハッコイ村の場所に
建てられたロシア要塞(ウィキペディアから)

 アルグーン峡谷での戦闘でハッコイ氏族はロシア軍に性別年齢を問わず虐殺され、空白となったハッコイの地に建てられたロシア帝国軍の砦内にはロシア正教会ができ、帝国軍の2個中隊が駐屯するようになった。ロシア革命までの60年余の間に、駐留軍はチェチェン人(ハッコイ氏族)の文化的、宗教的施設、墓地などを破壊したとロシア帝国公式書類にあるそうだ。同文書には『チェチェン人は絶滅させた方がよい民族』と数回にわたって報告されているとも。
 20世紀初め革命期の国内戦の間にロシア人居住者は去り、チェチェン人が住むようになった。しかし、1944年、チェチェン・イングーシ人の強制移住で同自治州が廃止され、空白になった村には、ロシア人が移住しソヴェト村と改名したが、1956年自治州復活でチェチェン人が帰還し、さらに後の1989年には元のシャトイ村に戻った。
 (自治州廃止中はすべてのチェチェンの村に、ロシア人やダゲスタン人、オセチア人、グルジア人が移住して来て住んだので、たいていのチェチェン語の村名は主にロシア語に改名された。復興後はすべてが元に戻った)
 現在シャトイ村は人口3300人で、その内ロシア人が14%と、比較的高い。それは近郊に連邦軍基地、第291機械化部隊とか、があるからだろう。アルグーン川右岸、シャトイ村から1キロ北西にハッコイ村と言う30人ほどの小さな村がある。これは1978年までツォグノイ Цогуной村と言ったが、ロシア帝国軍によって壊滅させられたハッコイの名を復興して名付けられたそうだ。ハッコイの塔が、アルグーン峡谷を守っていたそうだ。塔の2基のうち1基は1914年に破壊させられた。上記のように、アルグーン峡谷は『塔の峡谷』と言われるほど多くの塔があったが、2000−2001年のチェチェン戦争で、組織的に破壊されたそうだ。

 シャトイ村はチェチェン近代史の象徴のような村だ。2000年2月シャトイの戦いのときも19世紀のカフカース戦争の時も、ロシア軍が川を遡り、村々を焼き払った。
 
 グローズヌィ市が気味の悪いほど見事に復興されたように、地方の自動車道に沿ったかつての戦闘地点も、当時の残存物もなく、見えるものは自然だけだ。ヤルィシュ・アルディ村もすぐ近くを通ったのだが、詳細について知ったのは帰国後のことだし、運転していたマゴメド・ザクリエフさんは、何か思っていたかもしれないが何も話さなかった。後部座席に乗っていたアスランとは話していたが、私は口をはさむのを遠慮した。
 道路に迫っている山々が遠のいたところで、シャトイ村に入る。入り口には門が建っていた。シャトイ村はアルグーン川の作る最も大きな盆地の入り口にある。村の四方には遠く山々が見える。村には新しいイスラム礼拝所モスクが建っている。シャトイ区には32の集落があり全人口は2万人、そのうちシャトイ村が2500人。廃村が7。
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