up date | 26 January, 2018 (追記:2018年7月10日、9月9日、2019年12月26日、2022年1月7日) |
35 - 3 - (8) 2017年 北カフカース(コーカサス)からモスクワ (8) ゼムフィラさん、ソスランたちと 2017年7月9日から7月27日(のうちの7月19日から7月21日) |
Путешествие по Северному Кавказу и москве, 2017 года (9.7.2017−27.7.2017)
ロシア語のカフカスКавказの力点は第2音節にあるのでカフカ―スと聞こえる。英語読みはコーカサスCaucasus
6/25-7/9 | モスクワから北ロシアのコミ共和国 | ||||||
1 | 7/9−7/11 | ウラジカフカース(地図) | 山岳サニバ村 | サニバの社 | ギゼリドン峡谷 | フェアグドン峡谷 | |
2 | 7/12-7/13 | バトラス | ルーテル教会 | トランスカム | アルホン村 | 失われたオセチア | |
3 | 7/14 | カバルド・バルカル共和国に向かう | アディゲ(チェルケス、カバルダ)人の地(地図) | チュゲム峡谷 | カルマコフさん | ||
4 | 7/15−7/16 | ディゴーラ地方へ(地図) | ストゥル(大)ディゴーラ | カムンタ村 | ウアラグコム(上の峡谷) | ||
5 | 7/17 | グローズヌィ市に向かう | 国立図書館 | チェチェン地理(付グルジア) | アルグーン峡谷へ | シャトイの戦い | ハッコイ氏族 |
6 | 7/17 | サッティの塔 | ハルセノイ村 | ニハロイ滝群 | ウシュカロイ塔 | チェチェンの心 | グローズヌィ・ホテル |
7 | 7/18 | アルグン市をぬけて | ヴェデノ村 | ハラチョイ村からハラミ峠 | カゼノイ湖 | ホイ村 | ザクリエフさん |
8 | 7/19-7/21 | ゼムフィラさん | アナトリア半島のスミュルナ | カルツァ滝 | ウラジカフカース駅発 | ||
9 | 7/22-7/27 | モスクワ州のアパリーハ団地(地図) | モスクワの大モスク | トレチャコフ美術館 | はとバスとクレムリン壁 | ツァリーツィノ公園 | プーシキン美術館 |
ゼムフィラさん | ||||||||||||||
7月19日(水)。ゼムフィラさんは、5日前はカバルダ・バルカル共和国のチェゲム峡谷に案内してくれたが、今日はウラジカフカースを案内してくれることになっている。彼女には車がないのでタクシーをよこしてくれた。11時と言う遅めの時間でないと彼女の都合はつかない。彼女は人形作家だ。人形制作教室も開いて主催している。
市内はたいていタクシーで100ルーブル以下で移動することができる。11時過ぎ、私の住んでいるコリブサ通り39番地に入り口を間違えて止まっていたと言うタクシーは、車も運転手も感じが悪かった。まあ、それは些細なこと。11時半ごろゼムフィラさんのアトリエに着く。去年船便で送った日本人形が、確かに破損もなく飾ってあった。この日ゼムフィラさんは私を自分の友達のところへ案内してくれる予定らしい。 以前アスランとも行ったことのある芸術家ハウス(アトリエ専用建物)へ行く。その2階にはバトラス・トゥガエフさんのアトリエ兼事務所もあり、ウラジカフカース到着の翌々日の12日にはアスランと訪れた。1階の広い区画はワジムが使っている。その隣のやはり広いスペースの部屋はボリス・ゾヴァエフ Борис Дзоваевさんと言う年配の画家が使っている。私たちが入っていったゾヴァエフさんの広いアトリエには裸婦の絵が所狭しとおいてあった。仕事中のアトリエはたいてい足の踏み場もないものだ。お茶を飲むためにテーブルと長椅子にだけはスペースがある。ゼムフィラさんが途中の店で買ってきたパイを並べる。このアトリエにはニーナ・フロリア Нина Флорияさんと言うぽちゃりした若い女性もいた。モスクワから戻ってきたと言う。ボリスさんの親友の娘さんだそうだ。彼女の水彩画を見せてもらった。青色系と黄色系を使って不規則に濃淡が塗られたもので、絵具好きの子供が遊んだような絵だったが、私は気に入った。彼女の絵が気に入ったことを言うとうれしそうだった。
3時ごろ、そこを出たのだが、ゼムフィラさんによると「彼女は精神が普通ではない」そうだ。どこにいても自分の場所ではないと悩んでいるが、なぜかボリスさんのアトリエでは落ち着いて1日中過ごさせてもらっているそうだ。ニーナさんの両親もボリスさんを当てにしているとか。 外に出て、ウラジカフカースでどこへ行きたいかと、ゼムフィラさんに問われて、去年アスランに案内してもらった大学の考古学博物館ももう一度見たいものだと言った。去年は館長のミハエル・マミエフ Михаил Мамиевさんがわざわざ鍵を開けて案内してくれた。今年、突然行っても、中には入れないだろうと思ったが、一応行ってみた。博物館横の受付では、マミエフ氏がいなくて、連絡も取れないため、残念ながら開けることはできないと丁寧に断られた。 そこで、ゼムフィラさんは知り合いの洋装店に案内してくれた。中心街にあり、オーダー・メードでオセチア風衣装や刺繍をしている。LIZA GABARATIと言う商標の店で、それはオーナーの若く美人の女性の名前から来ている。布地はすべてイタリアから輸入したものだ。それはセンスの良いワンピースなどになる。ほかにオセチア模様の民族服も注文に応じて縫製している。私たちが店にいる間も一人の男性客が入ってきて寸法をとっていった。店の奥には日本製の刺繍ミシンがあっった。 ”TOKAI INDUSTRIAL SEWING MACHINE CO.,LTD TEMX-C1501 ELECTRONIC MULTI HEAD AUTOMATIC EMBROIDERI MACHINE”とラベルが貼ってあった。多頭式電子刺繍機のシェア世界トップクラスの「TAJIMA」ブランドで100ヵ国以上に輸出実績があるとか。帰国後ネットで調べたことだ。 お茶とケーキをご馳走してくれる。おいしいケーキだったのでお礼に日本から持ってきた絞り染めの帯揚げを渡す。タジマではこんな刺繍はできないと思う。絞りはヨーロッパやカフカースにはたぶんないだろうから、珍しがられ、感謝された。この洋装店のオリジナル・タオルと石鹸がお返しにプレゼントされた。タオルには赤糸でこの店のトレードマークが刺繍されている。石鹸にも、その模様が中から浮き上がるようになっていた。 次に案内してくれたオセチア衣装小物店は、主人がいなくて留守番の女性だけがいた。ヨーロッパ風の家具調度がそろえてあって、なんとなく写真を撮って、外へ出た。 ゼムフィラさんはフェイスブックによく投稿している。彼女の人形教室は生徒が多くなっているようだ。 |
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アナトリア半島のスルミュナ(イズミル) | ||||||||||||||
夕方ゼムフィラさんと別れて、ソスランの車でアスランの新しいアトリエを見に行くことにした。その前に30分ほど寄りたいところがあるとソスランが言って、ウラジカフカース市の南の郊外の別荘地の方へ行く。車のフロントガラスからは、有名なスタローヴォ山や、白いカフカースの山々が見えた。
その別荘には学校の1年生の時からソスランと一緒だったと言うコースチャ、そのいとこピーターと彼らの妻と子供がいた。コースチャはギリシャ人でスミュルナ出身だそうだ。スミュルナ出身と言う時、何か悔しそうに言ったような気がした。歴史的な悲劇があったのか。ソスランも「スミュルナを知っているか」と私に聞く。「トラブゾン(*)と並ぶ、ビザンチィンの後継国家(亡命帝国)のあったところだ」と説明してくれる。つまりギリシャ人の町があった。 (*)トラブゾン 紀元前7世紀にギリシア人によって交易都市として建設された。ポントス地方(黒海南東岸)の中心都市となった。第4回十字軍によるコンスタンティノポリス占領の際、コンスタンティノポリスから逃れたアレクシオス・コムネノスは、グルジア女王タマル(ページの5にグルジア略史)の支援を受けて、1204年、トラブゾンを首都とした亡命政権トレビゾンド帝国を建てた。1461年にトレビゾンド帝国はオスマン帝国よって滅。帰国後調べてみると、ギリシャ・ローマ時代のスミュルナは現在トルコのイズミール市の地内にある。イズミール市はトルコではイスタンブール、アンカラに次ぐ大都市で、アナトリア半島のエーゲ海側にある。 スリュミナには、初期キリスト教における7つの主要教会があった。ヘロドトスによれば、紀元前1000年ごろに古代ギリシャ人によって建設され、文化的・商業的中心地として発展。ホメロスが暮らしていたのもここであったと言われている。歴史的には、スミュルナの地は、リュディアやアケメネス朝ペルシャ、アレクサンドロス3世(大王)、ローマ帝国、東ローマ帝国、ニカイヤ帝国(ビザンチンの亡命帝国、1204年東ローマが第4次十字軍によって滅びると、コンスタンティノーポリにラテン帝国、その西にエピロス専制侯国、東のアナトリア半島にニカイヤ帝国、その東がトレビゾンド帝国)の領とかわり、15世紀初めからはオスマン・トルコの支配下にあったが、ずっとギリシャ人の都市だった。イスラムのトルコ人はキリスト教(ギリシャ正教)のスミュルナを『不信心のスミュルナ』と呼んだ。1912年スミュルナのギリシャ人は24万人以上で市の人口の60%。トルコ人は10万人以下で20%。アルメニア人が8千人ほどいた。
オスマン朝が1922年に滅亡した後はトルコ共和国へ帰属することになったが、その年、スミュルナのキリスト教のギリシャ人やアルメニア人はケマル・アタチュルクの軍によって虐殺された。(『スミュルナの惨殺 резня в Смирне』)。当時アナトリア半島に歴史的に住んでいたギリシャ人は、エーゲ海のスミュルナや黒海南東岸のポントス・ギリシャ人(ポントス方言を話すキリスト正教会信徒のギリシャ人)など含めて35万から120万人と言われる。この時期のアナトリアにおけるトルコ軍による民族虐殺はアルメニア人、ルム人 (ギリシャ本土以外に住むギリシャ系住民のトルコでの呼称)、アッシリア人(古代アッシリア人の子孫かは不明。アラム人ともいう、キリスト教を信仰。アッシリア東方教会、カルディア東方教会、シリア正教会の信徒が多い)と、数百万人に及んだとも記されている。 彼らはトルコ語の『イズミル』とは呼ばないで、同じ地名の元のギリシャ語『スミュルナ』と呼ぶ。
コースチャやピーター達のいる別荘のあずまやにしつらえたテーブルの上には、飲み物や食べ物がぎっしり並んでいた。妻たちは美人で感じがよく子供たちが庭で遊びまわっている。家の中も見せてもらった。家具は少なかったが快適そう。トイレもまとものようだった。 ちなみにウィキペディアによると、2010年ウラジカフカース市の人口330 148人のうち、オセチア人は63.9%、ロシア人は24.5%、アルメニア人3.5%、グルジア人2.2%、イングーシ人1.1%、アゼルバイジャン人0.7%、ウクライナ人0.6%、ギリシャ人1819人で0.5%となっている。 オスマン帝国からトルコ共和国になった領土に代々住んでいたギリシャ人たちは、虐殺されるか、ギリシャ本土に住むムスリム・トルコ人と交換されるか、キリスト教国に移住するかした。 7時過ぎ、アスランのアトリエへ行く。大きな窓が確かにはめ込まれていた。窓の外にベランダがあれば出られるようなドアも付いていた。しかし今のところはドアを開けると狭い庇の下には直接6階の窓下が見える。トイレもシャワールームも整っていた。アスランの自慢する祭壇もある。 アスランは、同じ階の女性画家のアトリエのリフォームも手伝っていた。彼女が自分のパンフレットをくれたので、丁寧に見る。私の好みの絵もあった。中にドストエフスキーの『悪霊』を思わせるような絵もあったので 「『ベースбес悪霊』を連想する」と言うと驚かれた。オリジナルな見方だったかもしれないが、気を悪くされただろうか。後で、アスランを通じて「そんなことを言ったのはタカコが初めてだ」と言われた。 |
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カルツァ滝 | ||||||||||||||
7月20日(木)。夕方の5時にウラジカフカース駅からモスクワに戻る日だ。出発まで時間があるのでソスランがカルツァ村の奥にある滝に案内してくれると言う。カルツァ村は、去年初めてウラジカフカースへ着いてソスランが空港へ迎えに来てくれて、アスラン宅へ行く前に訪れた村だった。
12時過ぎだが、ジャガーの後部席に座ったソスランの次男アラン君(10歳)とアスランで、フィアグドン峡谷に進んだ。 カルツァと言う地名は2カ所ある。峡谷のフィアグドン川を上っていき、左岸に合流するファイナグ川に沿って1キロ半ほど行ったところにあるのが、たぶん元々のカルツァ村(つまり山岳地帯峡谷にある)でオセチア人が60人ほど住んでいる。18世紀半ばにロシア人の旅行者がここの長老の家に泊まったという記録がある。もう一つは、テレク右岸のウラジカフカース郊外にあるカルツァ村(区)で、今はウラジカフカース第1団地区と呼ばれている。イングーシ人が住んでいて、今でも民族的な紛争が頻発する地域だ。もともと峡谷のカルツァ人が平地に移住して、自分たちの出身村名の平地のカルツァ村ができたのかもしれない。1944年のチェチェン・イングーシ人の強制退去までは、テレク右岸のウラジカフカースの東のカルツァ区はチェチェン・イングーシ自治州の領土で、イングーシ人が住んでいた。1956年イングーシ人が中央アジアから戻ってきて住むようになったが、現オクチャブリスコエ村(旧ショルヒ村)などと違い、そこには南オセチアからの移民は少なく、イングーシ人のかつて住んでいた家は空き家のまま残されていた。それは新カルツァだ。 古いカルツァ村は山岳カルツァ村と今では登録されている。 山岳カルツァ村は峡谷によくある山々と川の間の細長い村で、道路を挟んで長く伸びている。ずっと通り過ぎて村最後の家までくると、道路には遮断機が下りている。オセチアではよく見かける。部外者が勝手に入り込まないようにしているのだ、遮断機の先が村所有地と考えて、旅行者などがごみを落とさないように通行止めをしているのか、村人たちの家畜の放牧場になっているので部外者に入ってもらいたくないのか知らない。たまに個人の放牧占有地だったりする。遮断機は、道の先に集落がないか、道の先はいくら行っても主要道に出られないような(車輪の通行では不可の)トピックの道の入り口にある。本当は、オセチアは峡谷と峡谷は何らかの道でつながっているから、行き止まりと言うことはないが、山奥の村が無人となり古い道が使われなくなって何年もたつと、徒歩でも通行できなくなるものだ。 カルツァ村はずれにある遮断機の向こうはまだ車が通れそうだった。村人が乾草などを運ぶために使っているのか。ソスランが村のはずれにある古い家の方へ行く。暫くしてソスランは一人の老人を連れて戻ってきた。老人は私たちを見て(これが、フェイス・コントロールか)、遮断機の錠を外してくれた。帰りには遮断機を閉めて鍵を戻すと約束したのだろう。 遮断機の先の道はかなりの悪路で、ジャガーには気の毒だった。1キロも進まないところでたき火の跡のある広場があった。ここで車を止め、私はカメラだけ持って荷物はすべて鍵のかかった車に残し、体中にたっぷりと虫よけスプレーを振りかけて、崖下へ下りる。すぐに小川があった。地図では、カルツァ村はファイナグ川にカルツァ川が合流するところにあるのだが、道路標識ではカルツァドン(ドンはアラン語で川の意)となっている。私達が500mほどたどっていった川はファイナグなのかカルツァなのかわからない。地図を見る限り、ファイナグのようだが、滝はカルツァ滝と言う。ファイナグより、村の名前と同じ方がなじみがあるのだろう。 私たち4人は川沿いの狭い道を岩を伝って進んでいった。岩は私一人では登れないくらい高くなったり、川岸ぎりぎりに低まったりする。川の中の石を飛んで向こう岸にわたったり、またこちら岸に飛んだりしなければならない。そのうちアスランが川にはまってしまった。浅い川なので、滑りやすい川岸を歩くより時々膝までくるが、川床を歩いたほうがいいと、アスランは裸足になってじゃぶじゃぶとぬれても歩く。
とうとう滝のある場所まで着いた。みごとな滝だ。滝の上は、この川のさらに上流になるのだろうが、水の浸食によって、川床がえぐられ、上流から流れてきた水が勢いよく落ちてきて下流へ流れていく。落ちる途中に巨大な岩があった。水の流れは初めは、その岩を経由して下へ落ちていたのかもしれないが、長い年月の間に、岩に穴をあけてまっすぐ落ちるようになった。だから上からざあっと落ちてくる水は、ドーナツの真ん中を通過してどっと下へ落ち、滝つぼを作って下流に流れていく。そのドーナツ岩の周辺に当たってしぶきを上げ下へ落ちる水もある。ソスランに、アランといっしょの写真を撮ってもらっている間、アスランは服を脱いで、滝つぼに入り冷たい水を浴びている。 帰りも同じ川岸を通る。男の子のアランは身軽だ。私はやっと高い岩を乗り越え、流れを石伝いにわたりながら元来た広場にたどり着いた。ここで4時ごろランチにして、私たちはウラジカフカースに戻った。 途中のズアリカウ Дзуарикау(カウкауは村の意)の近くには戦争で7人の息子を失い悲しむ母の像がある。7人の息子は白い鶴となって飛んでいる。ラスール・ガムザートフРасул Гамзатовと言うダゲスタンの詩人がアヴァール語で『鶴』と言う詩を書き、それがロシア語に訳され、曲がついたのは1960年代。戦場で没した兵士は白い鶴になって空を飛び、愛しい人の名を呼び続ける、3連目は、空飛ぶ白鳥の群れに小さな隙間がある。もしかしてそこは自分が飛ぶために開けられたのだろうか、と言う内容で、曲も詩も心を打つ。このテーマで多くのところで記念碑が建てられたのだ。 |
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ウラジカフカース駅発 | ||||||||||||||
プラットホームに走りこむと、タマーラさんがいた。もう少し早く着きたかったところだ。彼女は『カフカース歴史地図1774‐2004』と言う本とチョコレートの菓子箱をお餞別にくれた。私はあらかじめ日本からの手ぬぐいを用意しておいたので、よかった。アスランにトランクを持ってもらい、コンパートメントに入り、座席をセットすると、もう時間だった。乗車券4588ルーブル+手数料で5093ルーブル(10255円) 飛行機はただ場所を移動するだけだが、列車では窓から地上の景色が見える。同室の人と親しくなれる。今では列車のチケットをネットで購入する時、車両やコンパートメントを選べる。コンパートメントには男性用女性用と区別がある。家族だったら男女用を選べる。私の同室はリュボーヴィと言う年配の女性だった。この列車は『33C号ウラジカフカース・モスクワ』で、私はモスクワまで行くのだが、彼女はさらにミネソタまで行くと言う。そこには娘のディアーナが住んでいる。8年前から現地の娘と結婚している息子も住むようになった。リュボーヴィさんの娘さんのディアーナはバプティストで、ミネソタのインバー・グローブ・ハイツで暮らしている。息子さんのサーシャがそこへ姉妹に会いに行った時、バプティストの娘さんを好きになって結婚して、ミネソタで住むようになった。息子はウラジカフカースでは専門職に就いていたのに、ミネソタでは単純労働で働いているので情けないと、リュボーヴィさんが言う。 7月21日(金)車内。列車はウラジカフカースを夕方出発し、次の日は1日中走って、その次の日の早朝にモスクワに到着する。1940キロを1日と12時間40分で走る。車内では、出発時タマーラさんからもらったチョコレートを食べながら『歴史地図』の説明文を読んでいた。それほど満員ではないので、トイレもたいていは空いている。食堂車へ行ってみた。だれもいなかった。スープを注文したが、高くてまずかった。コンパートメントへ戻ってリュボーヴィさんに言うと、食堂車へ行こうとしていた彼女は思いとどまったようだ。大きな停車駅ではホームに降りて車掌さんと写真を撮る。愛想の良いぷっくらした制服がキチキチの女性だった。ときどき、駅らしくないところに短時間停車する。そんな時には車掌さんがデッキ近くのトイレ前に備え付けてあるごみ箱からゴミ袋を引き出して、線路横にあるごみコンテナに走る。ある時、その様子を通路の窓からながめていた。ゴミ・コンテナの周りはごみの山だった。 外の景色は、ずっと同じだ。 朝の4時半ぐらいに朝日が川の上から上がってきた。広い川だが、時間からしてクバン川でもドン川でもない。エヤ Еяと言う川だったか。 |
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