up date | 22 July, 2019 | (追記・校正: 2019年10月10日、12月28日、2020年6月20日、2022年1月21日) |
37−(3) 2019年 コミ共和国とチェチェン共和国 (3) スィクティフカル市からウードル地方へ 2019年2月18日から3月6日(のうちの2月21日から22日) |
Путешествие по республике Коми и Чечне, 2019 года (18.02.2019−06.03.2019)
ロシア語のカフカスКавказの力点は第2音節にあるのでカフカ―スとも聞こえる。英語読みはコーカサスCaucasus
コミ共和国スィクティフカル市へ (地図) | ||||||
1 | 2/18-2/19 | 旅行計画(地図) | 長い1日 | ガリーナさん宅へ | 複線型中等教育ギムナジウム | |
2 | 2/20 | アンジェリカの先祖のコサック(地図) | コミ文化会館 | コミ・ペルム方言(地図) | 歴史的地名インゲルマンディア(地図) | |
3 | 2/21-2/22 | 博物館。蕎麦スプラウト・サラダ | 図書館、連邦会議議員 | ウードル地方ィヨルトム村へ(地図) | ィヨルトム着(地図) | 水洗トイレ付住宅 |
4 | 2/23-2/26 | クィトシヤス祭り | ザハロフ家 | そり用滑り台 | プロシェーク記者 | コミからチェチェンへ |
チェチェン共和国グローズヌィ市へ (地図、略史) | |||||||
5 | 2/26-2/27 | グローズヌィ着 | マディーナ宅 | マディーナと夕べ | カディロフ博物館 | トゥルパルとテレク川へ | アダムと夕食 |
6 | 2/28-3/1 | グローズヌィ市内見物 | 野外民俗博ドンディ・ユルト | マディーナのオセチア観 | アルグーン峡谷へ | ヤルディ・マルディの戦い | ニハロイ大滝 |
7 | 3/1 | 歴史的なイトゥム・カリ区、今は国境地帯 | イトゥム・カリ村 | タズビチ・ゲスト・ハウス | ハンカラ基地 | 妹ハーヴァ | |
8 | 3/2 | ジャルカ村のボス | グデリメスとクムィク人 | カスピ海のダゲスタン | ハサヴユルト市 | 水資源の宝庫スラーク川 | ディマも通ったスレーク峡谷 |
9 | 3/2-3/3 | チルケイスカヤ・ダム湖 | 新道を通って帰宅 | ジェイラフ区には行けない | 大氏族ベノイ | 山奥のベノイ村 | チェチェン女性と英雄、主権国家 |
10 | 3/3-3/6 | 地表から消された村 | 英雄エルモロフ像 | 国立図書館 | いとこのマリーカ | トルストイ・ユルタの豪宅 | チェチェン飛行場 |
博物館。出入国カード。蕎麦スプラウト・サラダ | ||||||||
2月21日(木)。10時に家を出る。サイマと3人で博物館を廻る。これで4度目になるか。少しずつ展示物は変わっている。博物館と言うと、私は実は考古学と歴史のホールにしか興味がない。民族文化のホールは、ガイドが説明してくれても、一人で見るにしても、私には退屈だ。(たとえば、『トゥヴァの歴史』や『コミの歴史』、『オセチアの歴史』、『チェチェンの歴史』、などと言う分厚い公式本を読んでも民俗・民芸・家業・生業の道具関係、つまりхозяйство関係のページは飛ばす。)しかし、前回はなかったコミ語アルファベット・コーナーと言うのがあった。ラテン文字ともキリル文字とも違い、同じく音標文字だが形が違うコミ文字で、自分の名前をつづってみた。コミ語のアルファベットは伝道者ステファンがコミ伝道のため考案したが、普及しなかった。(ステファンはスラブ民族に伝導しようとグラゴール文字を作ったキュリロス(キリル)とメトディオス(メフォディ)に倣ったという。グラゴール文字は後にキリル文字となった)。 ロシア連邦の各民族共和国の各民族語は、スラヴ系のベラルシアやウクライナを除いてロシア語とは全く違う語族なので、キリル文字で表すと不自然な語列になる(子音が続く。母音記号の新設が必要など)。コミ文字はロシア化に伴って、キリル文字に吸収された。ロシア連邦内の非ロシア民族各言語は、今はすべてキリル文字だ。かつてはラテン文字だったこともあった。キリル文字やラテン文字は意味がわからなくても読むことはできる。地名などの固有名詞は類推できるから便利だ。が、コミ文字では、文字の音価も知らない私のような旅行者には難しい。コミ文字だけではなく、今はロシアとは別なたとえば、グルジア語やアルメニア語では、私には歯が立たない。グルジア語の地図では川の名前もわからない。(トルコやペルシャやビザンチンの勢力下にあったグルジア文字やアルメニア文字が現在まであるのはその国の文化が強かったからか。)
ガリーナさんとサイマさんは特に民芸品を丁寧に見ている。現物が展示されていると言うことは、それら展示品は彼らが幼かったころのものだ。記名の入った古い大型のベッドや棚の他に、シンガーミシンの広告ポスターもあった(私が高校の頃、その学校は戦前からの女子高等師範学校とかの後身だったからか、90年前と言うシンガーミシンを私たち生徒は使った。家庭科の先生はシンガーの性能をほめたたえていた)。サイマさんとガリーナさんは民芸品が気に入って、ガイドと3人で話しながら熱心に見ている。二人の幼い頃の道具だったのか。 エストニア国籍のサイマさんと私は同じツーリスト・ビザで入国している。身元保証人の会社は、私はイルクーツクの、サイマさんはエストニアの旅行社だ。入国する時、出入国カードを渡されたが、その裏には入国7日以内に滞在の手続きをするように書かれている。昔は、ホテル宿泊の時はホテル側がやってくれた。今でもそうかも。個人宅の時はわざわざ(警察の)外国人課(?)へ行って半日かかって登録した。その後、郵便局で用紙をもらって書き込み、その半券をもらうようになった。半券を出国の時提出していたが、ある時スーツケースの奥にしまって、提出を忘れたことがあった。が、何も言われなかった。それ以来、滞在手続きをわざわざするのは止めた。サイマさんの出入国カードを見せてもらったが、私と様式は全く同じ。彼女は旅行会社から現地に着いたら、必ず滞在手続きを警察へ行ってするようにと言われたそうだ。 それで、サイマさんはガリーナさんに連れられて、私を博物館に残して、近くの警察署に出かけた。私はその必要はない、もしかして次の滞在地グローズヌィでやってもよい、と思って、一人でもう一度、考古学歴史コーナーを回る。やがて彼らは戻ってきて、木曜日午後は警察の外国人課窓口が閉まっていたと言う。相変わらず市民を困らせるロシア官僚だ。 3人で近くのカフェへ行く。メニューを見るとビジネス・ランチとある。最近、このあまり待たなくてもいいランチが普及してきた。蕎麦のスプラウト・サラダ(60ルーブル、約100円)と言うのがあった。成分は蕎麦もやしの他に、チーズやトマト、キュウリ、白菜...醤油と酢とオイルのドレッシングと書かれていた。これとスープとブリヌィ(薄いパンケーキを蜂蜜かジャムか練乳と食べる)を注文。食べると2日前の徹夜の旅の疲れが出て来たのか、時差ボケで毎朝早く目が覚めるせいか、眠くなったので2人に別れてセルゲイさん宅に戻り、4時まで寝た。 |
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国立図書館。連邦会議議員。夫婦喧嘩 | ||||||||
5時から、国立図書館でクセーニャさんの談話会が始まる。彼女の日本語講座の受講生と言う女の子が4,5人来ていた。自由参加の談話会なので、広告を見てやってきたという男女も5,6人いた。まずは、日本語で自己紹介と言うお決まりパターンで、お決まりの自己紹介言辞。一人は大阪に数週間いたとか。日本語はそこまでで、自由トークはロシア語だ。ある中年の男性が発言した。「自分は日本へ旅行に行ったことがある。町を歩いていて不思議だったのは、ごみ箱がなかったことだ」。それはなぜか説明する。次は日本で最も狭いアパートは何平米か、という質問。ロシアはもともと国家規格のアパートで、夫婦と小さな子なら1DKで(昔は何年も順番をついて手に入れていた)、日本の都会の1DKよりやや広いと思う。しかし、ロシアの大都市では共同住宅と言って、一部屋だけが家族使用でキッチンやトイレはフラットで数家族共有という住み方が、今でも多い。日本で最も狭い住宅についてはクセーニャさんが答えていた。彼女は北海道でボランティアの時、宿舎に住んでいたようだからだ。ボランティア・グループだからきっと設備は整っているが狭い部屋に住んでいたのだろう。日本人は自分たち(ロシアかコミか不明)をかわいそうに思っているか、という質問には答えようがない。
最後にみんなで写真を撮って、解散。出たところで、現職政治家とその秘書に呼び止められた。マルコフと言って、コミ共和国選出(任命)の連邦議会議員(*)だ。彼はウードル地方の出身なのでクィトシヤス祭参加の私のことを前もって知っていたのだろうか。秘書と言う女性は感じがよくて、若くて美人で、やはりウードル出身。ウードルと言ってもメゼニ川沿いではなく、今回クィトシヤス祭のあるヴァシカ川沿いのシリャエヴォ Шиляево村出身。マルコフ氏は自分の名刺を渡そうとしたが、今は持っていない。明日、秘書のヤーナ・サージナ Яна Сажинаも行くからその時、彼女からもらってほしいと言われる。彼が誰なのか、なぜ私を呼び止めたのかもその時よくわからなかった。一応、秘書も入れて3人の写真を撮っておく。秘書のヤーナは、目も覚めるような美人だった。まつげが長く、私はつけまつげかと思ったくらいだ。(後に、近くで見ることもあって、本当に自毛が長いと分かった) (*)ロシア連邦議会は、上院にあたる連邦院(Совет Федерации 連邦会議)と下院にあたる国家院(Государственная дума 国家ドゥーマ)の二院制議会である。議員定数は、上院が170名、下院が450名である。ヴァレーリー・マルコフ Валерий Петрович Марков (1947生まれ)はロシア連邦・連邦会議議員。科学・教育・文化委員会 所属。 図書館へ、セルゲイさんが迎えに来てくれていた。アンジェラさんの顔も見えたが、いつの間にかいなくなっていた。 セルゲイさんと遠回りして帰宅。郵便局に入ってみる。かつての暗いソ連の郵便局とは違って、明るくコンピューター化されていて、窓口の順番も並ばなくて、窓口ごとの番号札をとっていくようだ。どの窓口はどんなサービスをしているかも掲示され、やっと21世紀らしくなった(田舎はまだ20世紀中ごろだ)。出入国管理受付(?)の窓口もちゃんとあったが、面倒なので書類を書くのは止めた。(ちなみに、私は今回も、手続き関係は何もしなかったが、無事出国できた) 私が自分の部屋で荷物の整理などしていると、居間で大声の夫婦喧嘩の声。主にアンジェラさんの怒りの声。一人になったセルゲイさんに、「どうしたの?」と聞く。「彼女は時々あんな風に気が狂うのだ」と言う答え。 |
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ウードル地方ィヨルトム村へ | ||||||||
2月22日(金)。この日はウードル地方のヴァシカ川沿いのィヨルトム村へ出発の日だ。3台の車で出発することになっている。私が同乗するセルゲイさんの車のほか、『アルト』誌の編集長のパーヴェルさんや、モスクワからのジャーナリストのリュドミラ・プロシャーク
Людмила Прошакさんも車を出すはずだった。彼らはみな参加者として、ガリーナさんのSMSの『フコンタクトBKontakt』で広告されている。しかし、プラシャークさんはモスクワから車を運転してスィクティフカルに到着後、宿舎の庭で転んで捻挫。歩けないので参加を中止した。だから彼女の車は出ない。モスクワ人(と地方人からは言われる)の車には運転のリュドミラさんのほか彼女の息子と孫が乗っているだけなので、本当は一人分の席があった。だから、ガリーナさん一行は人数を一人減らさなくてはならなくなった。誰が誰の車に乗るか、前日までガリーナさんに聞いてもわからないと言われた。 この日も、朝から昨夜の続きの夫婦げんかだった。アンジェラさんが大声で怒っている。しばらくすると、今度はセルゲイさんの怒り声が聞こえる。そのうちセルゲイさんが大声で何か言ってテーブルをたたいて立ち上がり、マンションから出て行ってしまった。では一体ィヨルトム村への今日の出発はどうなるのだろう。私はセルゲイさんが出て行ってしまった居間に入ってみた。アンジェラさんがテーブルに一人座っている。 「どうしたの?」とそっと尋ねてみた。アンジェラさんがすすり泣きしながら話したところによると、原因は昨日の図書館で起きたのだ。図書館の館員のある女性がセルゲイにぞっこんだという。中年の独身女性らしい。そんな女性は男性を捕まえようと狙っているし、捕まえるともう放そうとしない、という。昨日、セルゲイさんとアンジェラさんは二人で私を迎えに図書館に来たそうだ。すると、その中年独身女性が(私たちはみんな中年かそれ以上だが)セルゲイさんを見つけて寄ってきて抱き着いたそうだ。しかし、近くに妻のアンジェリカさんがいたのに、抱き着く彼女を止めようともせず、またアンジェリカさんを彼女に「私の妻だ」と紹介もしなかった、という。たまらなくなったアンジェリカさんは図書館から出たのだという。昨夜の図書館でのことを思い出した。そうだ、確かにアンジェリカさんを見かけたのに、議員さんと写真を撮った後、帰ろうとするとセルゲイさんだけだった。私を送ってくれたセルゲイさんもなんだか違った雰囲気だった。その時は気が付かなかったが。 たとえ、セルゲイさんが『体の裏切り』をしなかったとしても、これはひどすぎると、アンジェリカさんはすすり泣く。妻としての自分が侮辱された。そして、こんな女は、この図書館員が初めてではない。今まで幾人もの女がいた。しかし、自分はどれほど彼に尽くしてきたことか。彼の母クララさんが寝たきりになった数年間、付き添いさんやその他の費用を出したのは自分ではないか、などと、私にくどく。ガルブノーヴィ家の家計はどうなっているのか私は聞けない。家計を支えているのはアンジェリカさんで、セルゲイさんは一家の表顔ではあるが、収入があるとも思えない。しかし彼は一家の主人の形を維持している。 アンジェリカさんは今日はとても、祭りに行けないという。ガリーナさんには、今日のことは言わないでほしい、風邪をひいたと言っておくから、という。仲のよさそうな夫婦に見えてもいろいろあるんだな。しかし、10時近くになると、アンジェリカさんは準備を始め、服を着た。「やっぱり行くことにしたの?」とは聞かなかった。聞けば、なぜ家に留まることをやめたかを、彼女は説明するかもしれないが、私は、もうあまり聞きたくはなかった。聞けば相槌も打たなくてはならない。やっていることを見ればどうしたいかわかるではないか。 私が助手席に座り、アンジェリカさんは後ろに座る(助手席に座りたいとは前もって頼んであったことだ、この位置からは、走行中でも写真が撮れる)。二人は口を利かない。 10時40分、ガリーナ・ブティレーヴァ宅の前の駐車場に着いて、出発を待っていた。参加者の一人、歌手のリリア・ペトロヴナ Лидия Петровнаさんが徒歩で現れる。編集長パーヴェルさんも奥さんのスヴェトラーナ・ティムシェヴァ Светлана Тимушеваさんを横に乗せて現れて、やがて出発。セルゲイ車の後部席アンジェラさんの横にはサイマが座った。スィクティフカルから目的地のィヨルトムまでは、約350キロ、雪道なので休憩なしでも6,7時間はかかる。スィクティフカル市の出口で寄ったガソリン・スタンドでは5000ルーブルをそっとセルゲイさんに渡す。彼は黙って受け取る。夫婦の経済はどうなっているのか。セルゲイさんに自分のお金が十分あるとは思えない。 道中、車の中ではサイマさんのみがしゃべっていた。アンジェラさんは相槌を打つ人。セルゲイさんは黙々と雪道を運転する人。私はサイマさんのさっぱりわからない話を必死で聞き取ろうとする人だった。飢えと寒さで多くの人が死んだこと。それは、どこで、いつ、どんな状況と説明してくれたかもしれないが、話題は次々と移り、また戻り、別の場面になり、また別のと、私は彼女のロシア語についていけなかった。アンジェラさんに後で聞いてもよくわからなかったとのこと。
ウードル地方はコミ共和国の中でも西に突き出た地方で、1914年までは現在スィクティフカル中心のウスチ・スィソル郡(スィソルはスィクティフのロシア語訛りの旧名、ほぼコミ人が住んでいた)とは別のヤレンスク郡の一部だった。ウスチ・スィソル郡はヴォロゴッド県で、ヤレンスク郡はアルハンゲリスク県だった(革命前は『州』ではなく『県』と言った)。1921年コミ自治州がウスチ・スィソル郡中心に作られた時、ヤレンスク郡から、現在のウードル地方(当時、ほぼコミ人が住んでいた)がコミ自治州に入った。(前記、人口割合などについても前記の繰り返しになるが)1931年、コミ自治州の人口は25万人で93%がコミ人だった。1936年コミ自治ソヴィェト共和国となった頃から、コミ人の割合は、72%から23%に落ちた。それは北方鉄道が敷かれたり(つまり地下資源開発のため)、鉄道建設や地下資源採掘のための(強制移住の)非コミ人が増えたりしたからだ。コミはソルジェニツィンも書いているとおり、『収容所群島』の中心の一つだった。コミを走ると、点々と収容所跡、強制移住者村跡が見え隠れする。 スィクティフカルから4時間ほど走って着いた途中のウソゴルスクが『町』としては最後になる。ウードル地方の村々は16‐17世紀からあるが、人口は減り廃村になったところも多い。が、コスラン村は人口2000人と多い。というのもここから11キロ東にウードル地方で最も人口の多いウソゴルスク町(5000人)があるからかもしれない。しかし、ウードル地方の行政中心地は人口の少ない方のコスランだ。というのは、ウードル地方は前記のように、ほぼコミ人が住んでいたが、1967年ソ連政府はブルガリア社会主義共和国(当時)と、ヴァシカ川沿いの森林伐採に関する協定を結んだ。以後ブルガリア人が移住してきて、まず自分たちの住む家を建て、森林伐採に従事することと平行して自分たちの町を作ったのだ。ウソゴルスクは、その一つで最も大きかった。1970−80年代にはスィクティフカルからソフィア空港への直行便まであった。 ミクニ駅(ミクニはロシア中心地からヴォルクタ石炭産地へ敷かれた北方鉄道の途中駅)からウソゴルスクまでくる北方鉄道の支線は1957年着工。ミクニからスィクティフカルまでの支線は翌年着工で、完成は61年。ウソゴルスク町まで敷かれた鉄道駅は、『ウソゴルスク駅』ではなく『コスラン駅』と名付けられた。行政中心地もコスランにあると言うのは、ブルガリア人の作った町・ウソゴルスクはいくら大きくても行政中心地にはなれないと、中央政府が見なしていたからだろう。ブルガリアとの材木交易が盛んになると、ウソゴルスクの手前から、さらにヴァシカ川下流へも鉄道が敷かれた(現在、客車は運行していない)。
4年前にセルゲイさんやジェーニャと訪れたパトラコーヴァ村のジーナ・イヴァーノヴナさんがウソゴルスク(コスラン)に冬場は住んでいて、私たちに会いたいと、待っているそうだ。パトラコーヴァ村は、メゼニ川辺にある。メゼニ川とヴァシカ川はアルハンゲリスク州まで流れて合流し、白海に流れ出す。 ウソゴルスクはそれなりに食堂も店もあり、ガソリン・スタンドもある。町1軒の空いている食堂を見つけ、みんなで入る。セルゲイさん、アンジェリカ、私は同じテーブルに座ったが二人は口を利かない。 ジーナさんはウードル地方のパンフを持って現れ、テーブルに座る。私はロシア到着以来、睡眠障害、食欲障害で、実は調子が悪く、それを表にあらわさないようにしていたが、この時、一渡りの挨拶とお礼を言ったほかは、黙っていた。いつもは活発に質問する私だが、間を持たせるための質問の内容も思いつかず、あまりうれしそうな顔はしていなかったのだろう。お返しのお土産も特に持参していなかった。セルゲイさんが話し相手になってくれていた。4時ごろだった。 コスラン(ウソゴルスク)からブラゴエヴォ Благоево町までは道なりで50キロだ。ブラゴエヴォもブルガリア人の作った町で現在2千人ほどだが、ブルガリア人はほとんど残っていない。近くに住民が数人の村もある。最近まで使われていたような収容所(監獄)があり、高い塀のところどころにはより高い見張り塔が残っていた。この見張り塔があると、ここは何であったか、誰でもわかる。 |
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ィヨルトム着。祭りの開会式 | ||||||||
5時半頃、目的のィヨルトム村着。私達の同行者はみな難しい顔をしているように思えた。初めての場所で、緊張していたのかな。着いたところは、かつての学校だった。今は児童が少ないので廃校になっているそうだ。なぜ学校に着き、なぜここに留まるのか、ここで何をするのか、私はよくわからなかった。その学校で外套など脱いでくつろぐ。まさかここに宿泊するわけでもないだろう。しばらくすると、学校の机を並べてできたようなテーブルに案内される。大皿に盛った夕食が出た。各自使い捨て小皿にとる。祭りの主催者のスタッフが、学校の調理場で作ったのだろうか。パンやお茶のほか、幾種類かのサラダやピロシキ、ハンバーグなどが順次テーブルの上に並べられた。遠来の客たちに用意された夕食で、私たちのほか、ガリーナさんの知り合いが、と言っても、ヴァシカ川沿いの村々の住民はみんな彼女の知り合いだが、次々と現れて、テーブルは満席に近くなり、みんなガリーナさんと久しぶりと言った感じで挨拶していた。クィトシヤス祭関係者の一部もここでお茶を飲んでいただろう。
後で地図を見て分かったことだが、ヴァシカ川沿いには20‐30村があって、下流(北。アルハンゲリスク州に近い側)の村々と、上流(南。コスランに近い側)の村々に分かれ、その上下の2グループの村同士は離れていて、川沿いに行っても60−80キロの距離にある。上流の村々の中でも、ィヨルトム中心の5村と、より上流のブラゴエヴォ中心の4村(元ブルガリア人村と収容所村)に分かれ、祭りはィヨルトム村中心の5村で行われる。定住者のいなくなった村もあって、夏季だけの居住者(例えば、その村の出身者がスィクティフカルなどに住んでいるが、夏季だけ先祖代々の家で過ごすセカンド・ホームになっている)を合わせても300人もいない。この祭りに、100キロも離れた下流村グループのヴァジゴルト Важгорт村からも客が来ているのだろう。ィヨルトム生まれのガリーナさんは、私たちが夕食を食べているこの学校の初等科で学んだ。中等科は、下流のヴァジゴルト村で学んだ。通学はできないので、寄宿舎に入り、週末にスクールバスで戻ってきていたそうだ。 夕食後、7時から開会式だった(もちろん7時には始まらない)。会場はかつての体育館で、中央に菓子やコップの置かれた丸テーブルが10脚ほど並べられ、後方にはベンチが3列ほど並んでいた。私達はテーブルに座り開始を待つ。議員秘書のヤーナも現れて、マルコフ氏の名刺をくれる。ここではヤーナは、ウードル出身で祭りにも寄付しているマルコフの代理なので忙しい。寄付というよりマルコフ・ルートで予算が下りているのだろう。コミ共和国文化省からも予算は降りている。それがマルコフ・ルートかも。 寄付と言えば、ガリーナさんもしている。競技の優勝者達に渡す賞金の一部にもなっているそうだ。後でわかったことだが優勝者(3位まで)は、参加者の半数でないにしても4分の1は占める。 前のことになるが、19日、スィクティフカル到着の1日目に、ガリーナさんの寄付の話を聞いて、私も寄付することにした。5000ルーブルを寄付したいとガリーナさんに言うと、「タカコ・カナクラ賞」とか作ったらどうかと言われる。とんでもない。そんな恥ずかしいことはできない。封筒に入れて進呈しようと言うことで、私達は文房具屋へ行って、私は普通の白封筒を、ガリーナさんは可愛い封筒を何枚か買った。「なんとか賞」は恥ずかしいが、飾りのない白封筒に私の名前を書き、5000ルーブル紙幣を入れてガリーナさんに預けたのだ。翌日(20日)到着のサイマにも、私たちの寄付のことを話すと、彼女も1000ルーブル寄付すると言った(私たちは彼女に強制したようなものだ)。インゲルマンランディア・フィン人でフィンランドやソ連に移住を余儀なくされ、現在はエストニアでガイド・通訳をしていて、エストニアから列車でスィクティフカルまで来たサイマさんに、寄付金を出させたのは悪かったな。私のほうはルーブルをたんまり持ってきていたのだが。 開会式の司会者は、関係者や遠来の客からの寄付にも感謝の言葉を述べる。来賓(私たちのこと)の紹介もする。20人ほどいたかもしれない。来賓たちはそれぞれ長々と辞を述べる。たとえば、『アルト』誌編集長のパーヴェルは自分の最近の本について解説し、リリアは素晴らしい声で歌を歌うし、また詩を朗誦する来賓もいた。盛大な拍手が続く。90歳を超えているというこの学校のかつての教員も紹介された。ガリーナさんも、若い頃この自分の母校の教員をしていたそうだ。 私もかつては教員だった。何を教えていたかと聞かれたので一応国語(日本語)と答えた。ガリーナさんから、来賓紹介の時、日本の詩を朗誦してほしいと強く提案された。短いのでいいからと。つまり、俳句か短歌でいいのか。しかし、私は頭も体もふわふわしていた開会式の間中、百人一首の和歌一編すら、ぽっかり記憶から抜け落ちてしまっていた。この間、発作なんかが起きないよう椅子に座っていて、ちゃんと拍手するだけで精いっぱいだった。睡眠不足と食欲不振の後遺症がこの時ぶり返したかのようだった。 ロシアの国語の授業では詩をいくつも暗記させる。詩をいくつも暗記していることが教養の表れでもある。ましてや、ロシア文学やロシア語の教師は生徒より多くの詩を朗誦できるはずだ。だから、さきほどできないと断ったのは、ただ恥ずかしいからだったと、ガリーナさんに思ってもらいたい(後になって百人一首や芭蕉ぐらいはいくらでも思い出したのに)。調子の悪かった私は、それに、目立ちたくもなかった。誰からも話しかけられないようにひっそりと座っていたが、ヤーナだけは、親しそうに話しかけてきた。自分の母親を紹介したいと言われ、私はできうる限り愛想よく対応した。(普通、私は目立つこと、目立されることが割と好きで、新しい現地の友達を作ることはもっと好きなのだが) 『冬季スポーツの民族フェスティヴァル・クィトシヤス Кытшьяс Этнографический фестиваль зимних спортивных игр』というのが正しい名称だ。このフェスティヴァルのヴェブサイトはガリーナさんが私の出発前にSMSで送ってくれたのだが、読まなかった。ィヨルトム村に到着してからも、読まなかった。読んだのは帰国後だった。どうせ、あらかじめ読んでもよく理解できなかっただろう。経験した後で読むと、思い出して「あれがそうだったのか」と腑に落ちるものだ。 多分、開会式の司会者も説明していたことかもしれないが、その時のロシア語は疲れ切っていた私には空中に流れて行っただけだった。クィトシヤスというコミ語の意味を言ったかどうかわからないが、これは帰国後調べたことだが『輪、リング』という意味だ。なぜなら、祭りはィヨルトム村中心に5つの村を結んで行われるからだ。結ぶと輪になる。それぞれの村ではこの地方の民族的な出し物があり、スキー競技も長距離はこの5カ所を回る20キロだ(地図)。 |
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村1軒の水洗トイレ付家屋 | ||||||||
9時半ごろやっと終わってくれた。ぞろぞろと学校の玄関へ向かうと私に声をかける女性がいる。ナージャだと自己紹介して、自分と一緒に来るように言う(命令する)。彼女の家が私の宿泊先のようだった。私はそのまま彼女に連れられ、外に出て、一面の星空の下、極寒の夜道を歩いてエミシェヴィ
Емишевы宅に着いた。ガリーナさん達はどこへ行ったのだろう。私はこうして、ナージャ・エミシェヴァというちょっと強引な女性につかまってそのまま連れられて行かれたが、どうしてガリーナさんは、ナージャを前もって紹介してくれなかったのだろう。 出発前のガリーナさんの説明によれば、ィヨルトム村にはもちろんホテルはなく、遠来者は村人の家に泊まる。田舎の家はトイレ小屋は庭の隅にある。これでは私にはつらいだろうから、村で一軒だけ水洗トイレのある家に泊まってほしい。ガリーナさんやサイム、セルゲイさんたちは、水洗トイレなしでも我慢できるから、と。ガリーナさんはもちろんィヨルトム村と話をつけておいてあるので、ナージャ・エミシェヴァさんは、唯一の日本人を連れて帰ろうと、私の行く手で待っていたのだ。
星空は美しかったが、見とれる余裕もなかった。もう一人の若い女性が私の荷物を持ってくれた。夜道で暗く滑るからだ。ナージャさんより優しい声をしていたので、彼女が「では、ここで」と言って一軒の明かりの付いている家の木戸の前で別れて行った時は、心細くなったくらいだ。 ナージャ・エミシェヴァさんの家は、北方の建て方通り、2間の玄関部屋を通り抜け(だんだん暖かくなってゆく)、台所と居間と寝室のある中央部へ入ってゆく。ダイニング・キッチンにはナージャさんの夫のヴァロージャが上半身袖なしで座っていた。一番気になるトイレは、台所から出てやや涼しい部屋に行き、そこからトイレへ通じるドアを開けると洗濯機などのある水場に入れる。そこの突き当りのドアを開けるとトイレだった(だんだん寒くなる)。紙は便器に捨ててもいいかと聞かなければならない。ちょっとためらったようだが、許可された。ナージャさんは、どのドアもきちんと閉めるよう念を押す。暖気が逃げるからだ。村で一つの水洗トイレも、この家もすべてヴァロージャが自力で建てたものだそうだ。親戚の者が手伝ってくれた。材料は町へ行って買ってきた。何年もかかって少しずつ建てた。暖房設備だろうが下水道設備だろうが電線だろうが車の修理だろうが、なんでもできる男性はロシア連邦では珍しくない。ヴァロージャは言葉少なく、背は高くないががっしりしていて、じっと座っていることが好きではないようだった。それでも居間の机にあるパソコンで私のVKontakte(フ コンタクテ)のアドレスを見つけ挨拶メールを送ってくれた。VKontakte(フ コンタクテ)はロシアのソーシャルネットワークらしいので、私が探すより彼らが、ロシアにはない名前を探す方が早い。 彼ら夫婦の住まいは2DKだった。奥に寝室があって、ここには夫婦が休むから私は居間で寝る。居間の長椅子に寝床をしつらえてくれた。主人側と時間を合わせて就寝起床をしなくてもよい個室は、ここでは贅沢と言うもの。自分の荷物をベッドの周りの椅子に広げさせてもらって、主人たちがまだ休まないようだったが、寝ることにした。彼らが仕事(?)をしている明るい居間で、布団にもぐった。入眠剤を飲んでいるから、いくらでも眠れますと言ったが、彼らは遠慮して明かりを消してくれた。やはり寝顔は見られない方がいい。 |
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