クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 01 September, 2019   (追記・校正:2019年10月26日,11月8日、2020年1月1日,6月10日、2022年1月31日、2024年10月11日)
37 - (10)  2019年 コミ共和国とチェチェン共和国 (10)
   チェチェン史の一つ
        2019年2月18日から3月6日(のうちの3月3日から3月6日)

Путешествие по республике Коми и Чечне, 2019 года (18.02.2019−06.03.2019)
   ロシア語のカフカス Кавказの力点は第2音節にあるのでカフカ―スと聞こえる。英語読みはコーカサス Caucasus

  コミ共和国スィクティフカル市へ (地図)
1 2/18-2/19 旅行計画 (地図) 長い1日 ガリーナさん宅へ 複線型中等教育ギムナジウム
2 2/20 アンジェリカさんの祖先のコサック コミ文化会館 コミ・ペルム方言 歴史的地名インゲルマンディア
3 2/21-2/22 博物館。蕎麦スプラウト・サラダ 図書館、連邦会議議員 ウードル地方ィヨルトム村へ ィヨルトム着 水洗トイレ付き住宅
4 2/23-2/26 クィトシヤス祭 ザハロフ家 橇で滑る プロシャーク記者 コミからチェチェンへ
 チェチェン共和国グローズヌィ市へ 2月26日から3月5日   (地図、チェチェン略史) 
5 2/26-2/27 グローズヌィ着 マディーナ宅 マディーナと夕べ カディロフ博物館 トゥルパルとテレク川へ アーダムと夕食
6 2/28-3/1 グローズヌィ市内見物 野外民俗博ドンディ・ユルト(地図)チェチェン略史 マディーナのオセチア観 アルグーン峡谷へ ヤルディ・マルディの戦い ニハロイ大滝
7 3/1 歴史的なイトゥム・カリ区、今は国境地帯(地図) イトゥム・カリ村 タズビチ・ゲスト・ハウス ハンカラ基地(地図) 妹ハーヴァ
8 3/2 ジャルカ村の2 グデリメスとクムィク人 カスピ海のダゲスタン(地図) ハサヴユルト市 水資源の宝庫スラーク川 デュマも通ったスレーク峡谷
9 3/2-3/3 チルケイスカヤ・ダム湖 新道を通って帰宅(地図) ジェイラフ区には行けない 大氏族ベノイ 山奥のベノイ村 チェチェン女性と英雄、主権国家
10 3/3-3/6 地表から消された村 英雄エルモロフ像 国立図書館 いとこのマリーカ トルストイ・ユルタ村 グローズヌィ飛行場
 カフカース戦争。地表から消されたダディ・ユルタ村
 アブレキー(山匪)とソヴィェト軍英雄称号授与者をのぞけば、チェチェンにはいわゆる歴史好きの人が言う『英雄』がいないかもしれない。が、かつてのダディ・ユルトДади-Юрт村の女性たちは、カフカース戦争の英雄とされている。記念碑が建ったはずだし、この(ベノイ村)近くだから見に行こうと言うことになった。
 ベノイ村はチェチェン東でも山奥にあるが、かつてのダディ・ユルト村は東でも平野、つまりテレク川右岸(南)にある。私達は山を下り、東西に走る鉄道を越え、グデリメス区の平原を北に突っ切ってテレク右岸近くへ出た。30分ほどの道のりで行きつく。チェチェンは田舎でも道路状態が良い。
ダディ・ユルタの戦いを描いた絵
(ヴェブサイトから)
ロシア兵を道連れにテレク川に
身を投げる女性たちの絵(ヴェブサイトから)
2013年、碑の完成式のラムザン・カディロフ
(ヴェブサイトから)
私達が訪れた日のダディ・ユルトの記念碑
記念碑の碑文を読むトゥルパル

 カフカース戦争とは、ロシア帝国による長期にわたる北カフカース侵略併合のための一連の戦争だが、1817年から1864年が最も激しかった(*)。1816年、特別グルジア軍司令官(1820年特別カフカース軍事司令官 Отдельный Кавказский корпусと改名)アレクセイ・エルモーロフ Ермоловがアレクサンドル1世の命令で平定作戦を開始したのだ。『エルモーロフが皇帝アレクサンドル1世に北カフカースを武力で平定できると確信させた』と歴史書にはある。
 当時、北西カフカースのチェルケス人(アディゲ人と同じ)たちは内部派閥闘争で弱体化しており、北中部カフカースのカバルダ人(アディゲ人と同じ)の間にはペストが流行して無人の地になっていた。最も手ごわいのが北東のチェチェン人だと、エルモーロフはみなし、スンジャ川、テレク川岸に砦群を作ったり(下記)、森林を伐採して(*)道路を作ったりしていた。 森林のあるところでは、防御するチェチェン人は有利に立てた。道路があれば侵略のロシア軍には有利だ。
(*)1860年シャミールの投降でチェチェン・ダゲスタンの東北カフカース併合は完了とされているが、北西カフカースではアディゲ人やチェルケス人の追放あるいは殺害で1864年平定完了となっている。
 カバルダの歴史では、カフカース戦争は、1763年ロシア帝国がカバルダ侯の領地のマズドクに砦を作ったことに地元民が反対したことからはじまり、101年間続いたと、見なされている。
(*)ロシア帝国軍による森林伐採 レフ・トルストイに『森林伐採(1士官候補生の話という副題)』という初期短編(1855年)がある。
 ダディ・ユルトが1819年、カフカース戦争の初期、エルモーロフ将軍の命により住民もろとも全滅させられたことを、チェチェン人は忘れない。歴史家、ハジァエフ Далхан Хажаев(1961-2000)が『カフカース戦争のチェチェン人 Чеченцы в Русско-Кавказской война 1998刊』で襲撃されたダディ・ユルトのことを詳細に述べてもいる。出典は年代記からだそうだ。
 エルモーロフ将軍がダディ・ユルトを全滅対象にした直接の理由は、彼らがロシア軍のカフカース前線上の部隊から、多くの馬を略奪したからというものだった。エルモーロフ将軍の言い分によると、懲罰のため全滅される村としてダディ・ユルトを選んだのは、その村人がほかのチェチェン人と比べて、より大胆で略奪の腕前が優れていたからだ、そうだ。ダディ・ユルトの住民はアブレキー(匪賊、前述)を生業として、テレク川にあったコサック村を絶えず襲っていたと言うのだ。匪賊の巣窟だったからだ。当時、テレク岸には主に左岸(北)にコサック村(グレーベン・コサック、つまりロシア帝国の屯田兵のようなもの)だから帝国側の砦がぎっしり並び、右岸(南)にチェチェン人村(ダディ・ユルトを含む)が点在していた。
 ダディ・ユルト村が抵抗するチェチェンの村々への見せしめに選ばれたのは、上記理由の他に、ちょうどエルモーロフ軍のカフカース前線の右方面の邪魔なところに位置していたからだ。1818―1819年にスンジャ川辺のナズラニ砦(現イングーシ国内)の強化、そのやや下流(東)にプレグラドニィ・スタン Преградный Стан(防御陣地の意、現セルノヴォツコエ村 Серноводское)、さらに下流(東)に1818年グローズヌィ砦、さらに東のアクタシュ川ほとりに1819年にはフネザプヌィ砦(Внезапный『不意の』の意、現ダゲスタンのエンディ Эндирей 村)が築かれていた。こうして完成しつつあったスンジャ戦線上にあったのがダディ・ユルトで、地上からこの村を消してしまわないと、カフカース前線は構築できないと言うわけだった。1819年9月14日、エルモーロフ将軍下の6中隊によって、ダディ・ユルトの200軒ほどの家は全焼し、住民は皆殺しにされた。エルモーロフのメモによると、襲撃の時、多くの女性が短剣を手に戦ったそうだ。アブレキー家業のせいで豊な村だったとか。
 ここで有名なエピソードがある。100人以上の女性と子供が捕虜になった。しかし、46名の女性がロシア軍に連行される途中、テレク川に架かる橋の上まで来た時、連行のロシア軍兵士一人ずつを道連れに奔流のテレク川に身を投げたそうだ。
 その場所はチェチェン語で"мехкарий белла гечо"と言う地名になっている。その訳語は「娘たちが亡くなった渡し場」だ。そのダディ・ユルトの46人の女性はチェチェン人には英雄とされている。ソ連崩壊食前の1990年、かつてその村があった場所に、小さな墳丘と粗末な墓石が建てられた。全く目立たないような記念碑だった。しかし、2013年9月(下記)ラムザン・カディロフがもっと立派な記念碑をアフマト・カディロフの名の下に建てなおしたそうだ。それを見にいった。
 冬なのか何も植えていない平原の中を突っ切るアスファルト舗装道を進んだところに、その記念碑はある。ダディ・ユルタは地表から消されたが、その村があったのは現代のハンガシュ・ユルト村 Хангаш-Юртの入り口近くだったそうだ。当時の川床(たぶん身を投げたと言うテレク川だと、マディーナは推測)だったらしい窪地に立派な歩道橋が架かっていて、タイル張りの橋を渡るとチェチェン風の塔の門があり、タイル張りの道の向こうに緑の墳丘がある。墳丘の斜面には白い文字のチェチェン語で、たぶん献辞が描かれていた。アフマト・カディロフと言う文字と、アラビア語(イスラムの祈りの言葉か、それらは書道のように美しく流れるよう文字列だ)、『アラー』の文字、チェチェンの自称ナフチィ нохчий が読み取れる。墳丘の上には石碑があり、その中央の石にもチェチェン語が刻まれている。横に長い石碑の前には先端に三日月の付いた3本のポールがある。
 周囲は茫々とした草原で、私たちの車の他にもう1台が止まっていて、男性が一人歩いているだけだった。
 私は小さな子供まで皆殺しにしたダディ・ユルトの戦いは、人類史上繰り返されてきた残酷さによる悲劇一つだと思う。46人の女性を悼む(チェチェン人は称えると言う)記念碑を建てたいなら、建ててあげればいいと思う。2013年チェチェンで新祭日『女性の日*』に合わせて完成式が行われた。ラムザン・カディロフは、「このような悲劇的な事件から、正しい教訓を引き出すべきだ」とその時言ったそうだ。それは、アフマト・カディロフの『戦争はこれで終わりにしよう、今後2度と戦争をしないでおこう』と言う教訓のことだ。 
(*)『女性の日』2009年ラムザン・カディロフがダディ・ユルト襲撃110年の年に、『英雄的な女性』を称え、9月第3日曜日を『チェチェン女性の日』と決めた。
 しかし、ヴェブサイトでは実に多くの、主にロシア側の投稿が載っている。ロシア人側から見れば、記念碑設立には否定的で、よく見ても民族主義の鼓吹と思われる。ダディ・ユルトを全滅させたロシアに対する仕返しと思っているロシア人もいる。なぜ(我々)ロシア人をも道連れに殺害した女性たちをチェチェンの『女性の日』に称えるのか、というわけだ。カフカース戦争でエルモーロフがダディ・ユルトを通ったのは、それ相応のことであったし、ロシア兵はロシア帝国に忠実に行動したのだ。その兵士達を殺害した女性達はロシアの敵だ。このような記念碑を立てたラムザン・カディロフは、共和国(ロシア連邦の1主体・自治体)の首長、かつロシア連邦英雄として果たして適格だろうか。というものだ。ちなみに、2004年12月にラムザン・カディロフにロシア連邦英雄の称号が授与された。他に62以上の勲章が授与されている。
 チェチェンの歴史家たちは、自分たちの村が襲われれば誰でも戦う、と言う。ロシア革命後、革命政府はロシア帝国の行った侵略戦争を否定して、民族自決権を(表向き)認めたのに、ソ連政府は変貌(と言えるそうだ)した。ソ連邦の後身のロシア連邦も、と言う。

 ラムザン・カディロフが「これは反ロシアの記念碑ではなく、反戦を願っているのだ」と一応は言っているのに、このダディ・ユルトの記念碑完成、(1990年建立の旧記念碑の大改築で、2013年9月15日開幕)はロシア中枢部に問題を醸し出した。前記のようにヴェブサイトにマスコミからのニュースも多い。その一つによると、連邦国会の15階エレベーター前で、『唯一ロシア』党のボロネジ州選出のジュラヴリョーフ議員 Алексей Журавлев と、ラムザン・カディロフの腰巾着ゼリムハン Адам Делимханов議員(前述、ジャルカ村の壮麗なモスクに自分の家族の名前をつけた)が、取っ組み合いのけんかをしたそうだ。おつきの者たちも加わったので、救急車を呼ぶほどだったとか。発端は、ジュラヴリョーフがゼリムハンにダディ・ユルトのチェチェン女性記念碑を建てる合法性(記念碑は反政府的なものであってはいけない)、を問いただしたことから始まったのだとか。
 英雄エルモーロフ像
 アレクセイ・エルモ―ロフ将軍はロシアの英雄だ。カフカース戦争ではチェチェン人達の敵かも知れないが、一方の敵は他方の英雄、その逆もだ。エルモーロフは侵略戦争で帝国の領土を広めてくれた。ロシア史のプレアデス(その時代その領域の傑出した一群、大文字ならプレアデス星団。和名スバル)の一人だ。帝政時代だけではなく、革命後のソ連邦と現代のロシア連邦の英雄でもあるらしい(私にはロシアで『英雄』がごまんといるのにうんざりだ)。ロシア各地に銅像があり、彼の名前を付けた軍事施設も各地にある。とりわけ北カフカースの中心スターヴロポリ地方や、モスクワに大掛かりなものがある。スターヴロポリ地方の南部は、歴史的にもカフカース地方の一部であって、現在カバルダ・バルカル共和国やチェチェン共和国のすぐ北だが、民族共和国ではない。そのスターヴロポリ地方の南部のピチゴルスク市 Пятигорскで、2010年、騎乗の英雄エルモーロフ将軍の実物大ブロンズ像の完成式が行われた。台座が2mの堂々とした像は、ピチゴルスクの中心レールモントフ公園内の広い敷地に立てられた。ピチゴルスク市は19世紀カフカース戦争の大本営的な基地でもあった(レフ・トルストイの『コサック』でも主人公のロシア人青年はモスクワから、まずピチゴルスクに到着している)。そのブロンズ像をカフカース人は快くは思っていない。
2010年完成ピチゴルスク市の騎乗の
エルモーロフ像(ヴェブサイトから)
2008年完成ミネラリヌイ・ヴォドィ市の
エルモーロフ公園のエルモーロフ像
青色はコサックの制服の色らしい
(ヴェブサイトから)

 ロシアのマスコミでは、ラムザン・カディロフがそれに応える形でダディ・ユルトに記念碑を立てたのか、とも言っている。カフカース歴史学者も呼んで討論会もしている(ヴェブサイトによる)。ロシア人歴史学者は、カフカースが近世では、常にオスマン・トルコか、またはガージャール朝ペルシャの勢力下にあり、19世紀にそれがロシア帝国に代っただけだ、(何が文句あるか)とも言っている。

 また、近くのミネラリヌエ・ヴァドィ市 Минеральные воды(*)長いので略して『ミンヴォッド』にも、2008年(**)市の130年記念に市中心部ナジェージダ (希望の意) 広場に3メートルの台座に建つ2.35メートルのエルモーロフ立像の完成式が行われ、公園名も、ナジェージダ公園からエルモーロフ公園と改名した。全費用は4百万ルーブルで、完成式には多くの賓客が招待された。その中のテレク・コサックの隊長(***)は、この像は全国民のものだと言ったそうだ。しかし、2011年何者かによって全身が黄色のペンキで塗りつぶされた。
(*)カフカース鉱泉・療養諸都市は『カフカース・ミネラリヌィ・ヴァディ諸都市』と言って、7万5千人のミネラリヌイ・ヴァドィ市や、ピチゴルスク、ジェレズノヴォドスク、キスロヴォドスク、エッセントゥキーなど7都市、合計120万人。療養観光客が多い。ピチゴルスクは日本語ではピャチゴルスクともいう。5個の山の意。ピチゴルスクに北カフカース連邦管区の本部が置かれている。
(**)2008年と言えば、同年8月7日から16日まで南オセチア紛争があった。ロシア・グルジア戦争とも呼ばれている。南オセチアのツヒンヴァリ市で大規模な戦闘があった。1991年までグルジア社会主義ソヴィエト共和国の自治地区だった南オセチア(オセチア人が過半数、グルジア人20%)は、ロシア連邦軍も介入した1991‐1992年の紛争と、2008年の紛争の結果グルジア政府の主権が及ばなくなった。『南オセチア共和国アラニア』と自称しているが国際的には主権国家と認められていない。
 記念碑除幕式ではある議員が「我々の領土の一部(南オセチアのことか。歴史的には南北オセチアは長い間、グルジアの保護国だった)をとろうとする考えを胸に抱いたすべての人々(グルジアのことらしい)に、この銅像を思い起こしてほしい。我々はそれを(今では自分たちの)領土の一部をとることを許さない。コサック隊とロシア正教がロシアの国境を守った。国境こそが愛国心のシンボルの一つである。愛国心こそが、世界でかつてロシアがそうであり、将来そうであるべき偉大なる国であるために大切である」などとぞっとするような演説している。
 ロシア内のあらゆるところでは、他の国ではカビが生えているような古い意味の『愛国(心)』というのが最高の徳の一つらしい。と言うか、ロシアの政治家はそれを助長させ利用している
(***)コサック カフカース戦争では大きな戦力だった。しかし、コサックは、反革命勢力としてソ連時代ほぼ絶滅されたが、赤軍コサックは存続。それとは別に、自称コサックはソ連崩壊後復活し、現在は象徴的な軍団としてあるらしい。コサックについてはここ
 実はエルモ―エフの記念碑はグローズヌィ市にもあった。かつてグローズヌィ砦のあったところに1888年建てられていたが、革命後の1921年撤去された。しかし、ソヴィェト政府により、1951年新たな銅像が建てられた。1944年から1957年まで、かつてのチェチェン・イングーシ自治共和国のグローズヌィにはチェチェン人は、強制移住により不在だったが、帰還後(チェチェン・イングーシ自治共和国再建後)、その記念碑は何者かによって爆破された。しかも1度ではなく12度も爆破され、その都度、新たに建てられていた。1991年、独立宣言をしたドゥダーエフДжохар Дудаев(1991-1996大統領)によって、最終的に取り払われたのだ。
1888年グローズヌィ市に
建てられたエルモーロフ像
(ヴェブサイトから)
ザハーロフ・チェチェーネツ
自画像(1833年)ヴェブサイトから
ザハーロフ・チェチェーネツ作
1842年『チェルケス人』
自画像と誤って伝えられてきた
(ヴェブサイトから)
 ダディ・ユルトについては、今回チェチェンに来る前から前記のドルハン・ハジャエフの『ロシア・カフカース戦争のチェチェン人』と言うダウンロード版をヴェブサイトで読んで知っていた。だから、マディーナがベノイ村の帰り道チェチェンの女性が尊敬されていると言う話の後、その記念碑を見に行こうと言ってくれた時は喜んで同意したのだ。
 ダディ・ユルトは、1819年以後は地表から姿を消したが、当村出身の著名なチェチェン人が何人かいる。たとえば、コンスタンチン・アイブラート Айбулат, Константин Михайловичはダディ・ユルタで2歳の時、両親を殺害されたが、ロシア人兵士に拾われた。後に、ロシアの男爵に引き取られて、養育された。ポーランド戦にも出征したが、文学に傾倒、その分野で活躍したそうだ。
 最も有名なのはピョートル・ザハーロフ(1816-1846)Пётр Захаров-Чеченец だ。ダディ・ユルトが全滅した時、死んだ母親の胸に抱かれているまだ生きている乳児が見つかり、ザハーロフと言うコサックに引き取られて養育された。だからピョートルと言う名前もロシア風で、苗字は養育したザハーロフから来ている。後に、ピョートル・エルモーロフ将軍(エルモーロフ家の一人でカフカース征服のアレクセイ・エルモーロフ将軍のいとこ。ナポレオン戦争の英雄だが、ピョートル・ザハーロフの養父としての方が有名)に引き取られ、モスクワで教育を受けた。芸術的才能に恵まれ、著名な画家になった。彼の作品は100点以上あり、トレチャコフスキー美術館やエルミタージュ、ロシア国立博物館、プーシキン美術館などに展示・保管されている。ピョートル・ザハーロフは、『ピョートル・ザハーロフ=チェチェーネッツ(チェチェン人)』と自称して、カンバスには、そう署名している。
 マディーナによれば、両親を殺したロシア人に、自分が成長したら、復讐すべきだと言う。たとえ養育されたにしても。

 6時過ぎ、グローズヌィに戻った。途中、マディーナが日本の病院で心臓手術したらいくらぐらいかかるか、調べてほしいと頼むことがあるかもしれないと言う。ファーティマさんはモスクワで手術したが術後が思わしくない。日本ならどうだろうか、というわけだ。確かに日本は医療水準は悪くはないだろうし、海外から医療目的で来日する旅行者もいると言う。保険なしでの診療はいくらぐらいになるのか、問い合わせがあったら調べてみよう。と返事しておいた。医療滞在ビザで入国するのだろうか。

 この日の夕食は、カフェでアーダムと、マディーナの3人で取る。カフカースらしく大きな肉が出てきた。チェチェンでは豚肉は食べない。牛肉はやたら固い。アーダムは力があるから上手に切って食べている。日本には霜降り肉という高価だが柔らかくておいしい牛肉があると説明する。日本へ来た時はぜひ召し上がってくださいと付け加える。おいしいのは、牛にビールを飲ませて育てているからだそうですよ、と私は言ってしまった。昔、そのことをロシア人に言った時は、ぜいたくな牛だと感心されたものだ。しかし、マディーナは、それなら私達は食べられない、アルコール類は禁止されているから、という。ビールを飲んだ牛の肉を食べることはビールを飲むことになると言っても、ではその牛の堆肥で育ったトマトはどうなんだ?
マディーナとアーダム

 さらに、日本では家畜はどう屠殺しているのかと聞く。電気ショックで屠殺しているのか、それなら私達は食べられない。なぜなら血を食べてはいけないことになっているから。ここでは首(静脈)を切り、血をすべて流し出した肉しか食べない、と言う。日本へ行った時は魚を食べるから心配しないでくれ、魚ならば何の禁止もないからと言う。マディーナとアーダムは3月末に結婚するが、その後、日本へ二人で行こうと言う予定だ(結局、式は6月13日になり、旅行はイタリアになったとか、だが、彼らは、『近々』日本へも来ると言う。『近々』とは実現の可能性の範囲に入ったという意味?)
 国立図書館
ザクリエフさんと館長さん
 3月4日(月)。3年前の時も2年前の時もマゴメド・ザクリエフさんにチェチェンを案内してもらった。今回も、前もってチェチェンへ行くが、会えないだろうかと尋ねてあった。マディーナの招待で、彼女の家に滞在しているので、彼に会う日を決めるのは難しかった。彼の都合もある。結局この日の午前10時に国立図書館で、と言うことになった。初日のグローズヌィ見物の時もガイドと寄ったとき一言だけ言葉を交わした館長のイスライロヴァ・サツィタ Исраилова Социта Магомедовнаさんにもメールで知らせておいた。
チェチェン語の掲示
面陳列となっているカディロフの本
 マディーナにも国立図書館で知り合いに会うからと伝えておいた。図書館までトゥルパルに送らせると言ってくれたが、マディーナの家も図書館も市の中央にある。自分で歩いていくことにして、マディーナと2回ほど行き方の練習をした。
 その日、約束の時間きっかりに図書館についてみるとロビーには誰もいなかったので、受付の女の子に館長さんと会えるだろうかと聞いてみた。月曜日10時からはミーティングと決まっているから会えないとのこと。しかし、待つまでもなくザクリエフさんが現れた。彼は、2年前にも私たちを歓迎してくれた児童図書館のサイドゥモヴァ Сайдумова Зулай Мадаевна館長に電話する。彼女が承知したので、会いに行く。児童図書館は同じ建物内にあって、一応出入り口は別々だが、建物内に多分職員用の通路がある。
 サイドゥモヴァさんは私をよく覚えていて、ザクリエフさんと一緒に現れた私を喜んで迎えてくれた。別室にお茶が用意されるまで、サイドゥモヴァさんとザクリエフさんは館内を案内してくれた。チェチェン語の部屋があって、野菜や果物などの絵にチェチェン語の名前が書いてある掲示があった。チェチェン語はキリル文字で表すから私でも発音ができるが、チェチェン語特有の音価にはキリル語にない文字が使われる。その文字の発音を二人は教えてくれた。二人はソ連時代に教育を受けたのだ、だから学校はすべてロシア語で、チェチェン語を学べる機関はなかった、などとお互いに話し合っていた。
 壁が全面ガラスになった明るい閲覧室もある。児童図書館だが『ベノイ』などのカディロフ関係の本が「平積み」ではないが、「面陳列」となっている。ほかの本は「棚差し(背差し)」だが。
 壁に昔の服装のチェチェン人らしい男性の肖像画が掛かっていた。これはザクリエフさんが卒業作品として書いたザハーロフの肖像画(そう言われていたが、実はザハーロフが書いたカフカース人の肖像画)の模写だと言う。ダディ・ユルトで死んだ母親の胸に抱かれていた孤児のピョートル・ザハーロフ=チェチェーネッツだ。絵の前でザクリエフさんと写真を撮る。ダディ・ユルタ事件を知らなければ「ふうん」と通り過ぎるところだった。
 廊下には大きめのパネルに数十枚の写真が貼ってあった。そのパネルは3段に分かれていて、一番下が14枚のカラー写真で、今はなきかつてのグローズヌィ市。真ん中の10枚の白黒写真は戦争で廃墟になったグローズヌィ市(1994―2000年とある)、上の広いスペースには12枚の現在の復興グローズヌィ市の写真が、ラズマン親子の写真の両脇に貼ってあるのだ。
 50分ほど、お茶を飲んで話して、サイドゥモヴァさんグループと別れた。ザクリエフさんと本館の方へも寄ってみる。と言うのは4階にザクリエフさんの絵が展示してあるからだ。これは売却用だ。しかし、図書館は画廊ではないからビジネスはできない。一応展示してあるだけで値段札はついていないが、問い合わせはある。ザクリエフさんは友達の館長の好意で、絵の売却場所が増やせている。  
図書館に掲示されていたあったグローズヌィ―の戦前・戦中・戦後の写真とカディロフ親子

 いとこのマリーカ
 12時ごろ図書館前でザクリエフさんと別れて、歩いて家に戻ると、しばらくして、2日前にも会ったマリーカが来る。(彼女の本名、つまりパスポートに記された名前は、ロザン・タズルカエヴァ Тазуркаева Розан と言うと、後からロシアSNSで知った)。彼女はグローズヌィ市を案内するためにこの日の午後来ると約束してあったのだ。2日前、私がトゥルパルと本屋を廻ってチェチェンの地図とチェチェン史の本を探していると言ったところ、彼女は絵ハガキなど安く手に入るところを知っている。そこは倉庫だ、一緒に行こうと言ってくれたのだ。地図はともかくチェチェン史の本はお土産店にはないだろうが、彼女は私が格安のお土産を探していると思ったらしい。
 マリーカとファーティマの母親たちは実の姉妹だが、いとこ同士の二人はあまり似ていない。おそらくファーティマは一族の中でもトップだ。(つまり、一族はみな彼女を頼っている。どこからトップになるような財力と権威を手に入れたのか不明。後のマリーカの説明によると親からだとか)。ファーティマさん達から、マリーカとのグローズヌィ市観光と買い物を、強く勧められたので、なんとなく賛成した。
2017年完成ザハーロフ小公園
スタル・カフェでマリーカ
モスク前のアフマト・カディロフ広場のごみ箱
後ろ姿はマリーカ
マリーカの背後には『チェチェンの心』モスク
とグローズヌィ・シティ
グローズニィ・シティのビル屋上の
ヘリコプター発着場

 私達は連れ立って歩き始めて、私は彼女の身近にあった戦争の悲惨さについて聞いた。誰にでも、私はこの質問をするのだ。彼女の兄弟が第2次チェチェン戦争中、自宅から拉致されて行方不明になったと言う。彼は背が高く当時は40歳だったそうだ。目撃者によると拉致したグループはロシア語を話していた。
 チェチェン戦争中、連邦軍も独立派軍も暴徒化し、家族と在宅中の男性を拉致し、それが敵側の人間かどうか拷問し、または、家族に身代金を請求すると言う事件が多発していたとは、アンナ・ボリトコフスカヤの記事だけでなく、多く報じられている。それら記事によると身代金は生きている場合は500ドル程度、死体はそれより安いそうだ。マリーカの兄弟もそうした犠牲者の一人だったのだ。しかし、マリーカの兄弟は拉致されたまま消息がどうしても分からなかった。その後、国際人権機関や、あらゆる可能な機関を通じて探したが、どうしてもわからなかった、と暗い顔をして話す。私も、心が傷んだ。こんなに身近な人の親族も残酷な犠牲者の一人だったのだ。
 マリーカは50歳後半、長い間銀行員を務め、現在は年金生活者。独身。一人暮らし。お土産品業者の一人と親しいのか、その「倉庫」に案内すると言う。そこはグローズヌィの中心地近くにある。立派に復興したらしいグローズヌィ市でも、ちょっと道を外すと、道路には大きな水たまりがある。「倉庫」とは小さな店で、私はおみやげ物にはあまり興味がなく、すぐにその店を出た。どうやら、もっと高価なお土産が欲しいのかと思われて、表通りの豪華そうな店内に案内される。そこは、高価なバッグや香水を売っているが、先ほどの倉庫以上に興味はない。マリーカは私が買いものをしたがっていると思って案内してくれたのか、グローズヌィにはこんな『高級品』も売っていると見せたかったのか。興味はないが、一応見ておいた。ロシアの大都市中心部にある高級百貨店ふうの超小規模な店も、ぼちぼち開業し始めていると言うことだ。グローズヌィの富裕層は高級品はヨーロッパで購入してくるだろうが。
 1時間ばかり歩いた。町角にはザハーロフのレリーフのある小公園もあった。
 きっと彼女が最も行きたかったらしい、プーチン通り、つまり中心街にあって、最近開店した(グローズヌィはどれも最近開店だが、その中でも特に最近)スタル・カフェ star coffeeと言うファーストフード店に入る。マリーカはここはすごくおいしかったと繰り返す。アイスもおいしい、ぜひ食べてみて、と言う。
 マリーカさんの若いころはなかったようなマクドナルドか、ケンタッキー・フライドチキンのような店で、カウンターで注文を聞く女の子も愛想が良い。しかし、グローズヌィにしては値段の高い店だった。私はチェチェンにまで来てケンタッキーやマックは食べたくないので、出ようと言ったが、マリーカは、ここは絶対においしいと言う。仕方なく、ジャムを挟んだパンケーキのようなものを注文。マリーカはアイスも注文していた。私は強く勧められたが、断る。アイスフロート(フラッペ、シェイク)は苦手だ。
 マディーナはいつも私が費用を払うことは拒否したが、マリーカなら承知するかもしれない。代金を払おうとすると、カウンターで猛反対。そんなことをすると警察を呼ぶと言うので、店員の女の子も微笑んでしまう。私に払わせたら、ファーティマに怒られると言う。月曜日で仕事のあるマディーナに代って、私のお相手をしてくれるマリーカに、その費用としてなにがしか渡したらしい。
 『チェチェンの心』モスク前広場に行く。以前(と言っても戦後。戦後とは第2次世界大戦後のことではない)は市場だったと言う広場で、その後は車も止められる広場だったが、今は歩行者のみの石畳の美しいモスク前広場となっている。片隅には色違い4個連結の全く新しい分別ごみ箱があった。入れそこなって周りに落ちているごみもなく、ごみ箱は空のようだった(だから、ロシアのゴミ箱らしからね美しさだった)。飾りのゴミ箱か、それとも清掃したばかりか、誰もこの広場でごみを出そうとしないのか、だった。と言うより、わざわざ外国人観光客に見せるためのものか。
 マリーカが広場から見える『グローズヌィ・シティ』の一番高いビルの屋上にあるヘリコプター発着場へ上ってみようと提案する。そこは一日目にガイドと行ったことがあると言ったが「私と一緒には行きたくないのか」と言うので、賛同。『グローズヌィ・シティ』の入り口へ進むと、出てくる一行とすれ違う。10人ほどが白髪の男性を先頭に歩いている。最後尾の迷彩服の男性は自動小銃持って、引き金に指をかけているように私には見えた。マリーカが写真を撮るのは止めるように、と言う。だが、彼らが通り過ぎてから、遠くの後姿を撮った。その時の写真を見ると一行が歩いているのは歩道だが、車道にはパトカーがついてきている。
 ビルの1階で100ルーブルの入場料を2枚買って(今度は私が素早く購入)、エレベーターで昇って、屋上に出る。ラムザン・カディロフ首長官邸の方角は撮影禁止と、前回と同様、ごついガードマンが目を光らせている。だから写真は撮らなかったが、よく見て、しっかりとその配置を覚えておいた。道路からガードの厳しい門を通って入ったとしても、官邸は見えない。塀の内側に沿って一回りすると、官邸の入り口に通ずる道に出る。中世の城の迷路のようだ。ラムザン・カディロフ首長の官邸の隣にはやや小型のラムザン・カディロフの兄の息子の豪宅がある。ラムザンは次男なのに父親の跡を継いだから、病弱だったが長男の系統にも敬意を払わなくてはならない。(官邸ではなく迎賓館と記している地図もある)
 屋上には、前回はダゲスタンからの観光客がいたが、今回は、ロシア語でマイクをもって説明しているガイド付きのグループがいた。その時は何の違和感もおぼえなかったが、チェチェンへ観光に行こうと言うロシア人グループは、ロシア人に言わせると、ない。彼らは、カフカース地方の観光に来たのだろう。それでも、普通はチェチェンは避けるものだとか。帰りのエレベーターで、その旅行者と一緒になったのでマリーカがどこから来たのかと聞く。トゥーラ市(モスクワの近く)からだそうだ。マリーカが私のことを日本からよ、と宣伝する。「日本から!」と一斉にじろじろ見られた。エレベーターが開いて別れたが、後から思うに、彼らの話も興味深かったかもしれない。チェチェンの印象とかが共有できたかもしれない。
 帰国後のことになるが、ある知人のイルクーツク出身者と旅行の行き先について話したことがある。彼は、日本のどこへ行きたいとか行き先をいろいろ言う。私は日本人だからむしろロシアに行きたいと答えた。チェチェンへもう一度行ってみたいと言うと、そんなところへはロシア人は行かない、という。それで、私は、チェチェンではそのトゥーラ市からのグループをたった1度だけ見たにもかかわらず、「いや、ロシア人旅行者も大勢来てるよ」と言ったものだ。実際にチェチェンに行ったことのある私の言葉に(真実そうに聞こえたので)、そのロシア人知人はとても意外そうだった。それでも自分がチェチェンへは決して行こうとは思ってないだろう。
 あるサンクト・ペテルブルク市に住むロシア人に「グローズヌィ―はサンクト・ペテルブルク以上に美しい町となっていた」と言うと、たいそう不愉快そうだった。市中心のアフマト・カディロフ大通りやアフマト・カディロフ広場やプーチン大通りは、事実サンクト・ペテルブルクの大通り並みだ。だが一応「これは冗談だけど」と付け加えるとそのサンクト・ペテルブルクの知人から「僕もそうだと思っていた」と言われたものだ。(これは、その後も機会があるとロシア人に言うが、みんな当惑した顔つきをする)

 マリーカと歩いて官邸の方へ行く。門番のいる門だけでも写真に撮った。
 この日は滞在最後の日だが、チェチェン史の本をまだ購入できていなかった。チェチェン共和国30万分の1の地図なら道々のキオスクや書店で何枚か買ったが、歴史の本がどこにもない。民族共和国の学校ではその民族の歴史や地理を習うことになっているが、教科書がいるだろう。専門的歴史書より、そんな教科書なら私にも読みやすくていい。どこかに売っていないかと探した。マリーカに連れられて入った何軒目かの本屋には分厚い『チェチェン史』1巻と2巻があった。学術書らしく、私には読破が難しいような分厚さだ。2巻は20世紀以後なので、1巻だけ買うことにした。また、『カフカース戦争』の本が欲しかった。ヴェブサイトには多くの投稿や、ウィキペデァにも詳細には乗っているが、それら大部分はロシア人歴史家が書いたもので、必ずロシア側からの視点で書かれている。カフカース人が書いたものが読みたいと思った。ロシア人歴史家のカフカース史ならロシア中のどこの本屋でも売っているが、カフカース人、例えばチェチェン人の書いたカフカース戦争史は、たぶんここにしかない。本屋の店員が探してくれて、良さそうな本が見つかった。一方、『チェチェン史』の1巻と2巻は別売はできないとレジで言われた。2冊も買うと私のスーツケースは重くなるので、やむなく『カフカース戦争史』の方は手放した。
 さらに、『チェチェンの地理』と言う本はないのだろうか。学校の子供たちは一体どんな教科書で自分たちの住んでいる地域のことを学ぶのだろうか。店員の親切な女性が調べてくれて、取り寄せると言ってくれた。明日は出発してしまう私に代ってマリーカが受け取ってくれると言う。
 親切なマリーカとは、もう1軒カフェに入ってパンケーキを食べ、マディーナ宅近くの遊歩道を散歩した。ここで、マリーカは自分がレオンチエフの大ファンであると打ち明ける。ヴァレーリー・レオンチエフは1980年代から90年代前半に人気があった歌手で、私も、80年代ロシア旅行の時は彼のレコード盤を何枚か購入してきたものだ。歌の歌詞でロシア語を覚えるといいとロシア人知人が勧めてくれたからだ。アーラ・プガチョーヴァなどのポップ歌手が当時、大人気だった。マリーカはレオンチエフのもじゃもじゃな長髪のヘア・スタイルとその甘い歌いぶりがたまらないそうだ。ずっとファンだった。追っかけではないが、コンサートには、モスクワでもいったし、彼がグローズヌィに来た時は、もちろん行った。ああ、またグローズヌィに来てくれないかな、と言っている。レオンチエフは1949年生まれ。1983年 "ミューズMuse"と言うレコードを皮切りに1984年 "ディアローグ Dialogue"などのアルバムを出して、現在も活躍中。レオンチエフは昔、若かった頃大当たりをした自分の歌を歌って各地でコンサートを開いているのかな。昔からのファン(年配女性)がコンサートに来ているのかな。そんな歌手は日本にもいる。
 7時ごろ帰宅した。
 トルストイ・ユルタ村
ファーティマ宅の寝室から居間を見る
ファーティマ宅の居間の二人
レストランで
ブランコもあるアフマト・カディロフ広場
 ファーティマがもう暗くなったが、トルストイ・ユルトの自分たちの家を見に行こうと言う。2日目にトゥルパルの車で近くまで行った。トルストイ・ユルトはグローズヌィから12キロほどで、スンジャ丘陵を越えたところにある。スンジャ丘陵の北はテレク川が丘陵に平行に西から東へ流れている。トルストイ・ユルタ村までの舗装道をファーティマ運転のベンツで行く。グローズヌイの北の出口にも軍事施設、射撃場とか特別任務部隊基地とかがある。グローズヌィは軍事施設に囲まれているのだ。夜なので、塀の向こうに明かりが整然と並んでいるのがみえる。
 トルストイ・ユルタは18世紀初めにロシア人(テレク・コサック)が作った村で、現在の住民はチェチェン人のみで8000人だ。ここはファーティマの一族の出身地だ。暗いのでよくわからないが、村のやや郊外に行ったところの高い門の前で車が止まり、電動で開いた門を入ると、1階建ての邸宅がある。この玄関は手動で開けた。ファーティマのトルストイ・ユルトの邸宅は広い部屋が4つと広いバス・トイレ・ルームがある。家具は、グローズヌィのマンションにもある重厚なヨーロッパ宮殿式。奥の一部屋にはベッドの横に天蓋付きベビーベッドがあって、これは、次女のアミーナが子供と一緒に泊まりに来ることもあるからとのこと。なぜ彼らはこんなに裕福なのだろうか。
 30分ぐらいで豪宅見物は終わり、また電動の門を閉めて去る。普段はだれもいないのだから空き巣に狙われることはないのかと聞くと、カメラがついているから大丈夫とのこと。先だって、地元のある女性が入ろうとして、モスクワのアミーナがカメラで見つけ、すぐ知らせてくれた。ファーティマはトルストィ・ユルタの警察に通報し、泥棒(未遂)は捕まったそうだ。
 帰り道、ファーティマは、「この家は私の伯父の家」、「この家はいとこの家」と豪宅の門を指して言うのだった。何人ほど親戚がいるのか、15軒ほどだと言う。中には未完の家もある。ファーティマの長兄がこの村を牛耳っているのか。
 トルストイ・ユルタ村はハズブラ―トフ Руслан Хасбулатов(エリツィン時代にロシア最高会議議長1991−1993年)の生まれた村であり、マスハードフ Аслан Масхадов(チェチェン・イチケリア共和国第3代大統領)が暗殺された村でもある。
 ファーティマの言うには、第2次戦争の時は激戦地から離れていたので、負傷者が多く運ばれてきたそうだ。彼女は医師だ。けが人治療で表彰されたらしい。長兄も医師らしい。彼は連邦政府の医療機関のトップにいるそうだ。しかし、これだけの富をどこから手に入れたのだろう。トルストイ・ユルタは石油産地に近いが、石油だろうか。見たところ貧弱な産地だったから、関係者で分けると一人分は少額になりそう。ソ連崩壊のどさくさで巨万の富を得た「新ロシア人」がモスクワに多かった。まさか、彼ら一家もそうした新興成金・マフィア系に連なるとは思えないが。
 グローズヌィまで戻ってくると、ファーティマは私とマディーナを大通りのレストラン前で降ろして去っていった。レストランにはアーダムが待っていた。大きなお皿に大きな肉がのって出された。親切なアーダムは、その固い肉の筋のない柔らかそうなところだけを一口大に切り、お皿に乗せて私に差し出してくれた。ハーラムの肉もなかなかおいしい。
 マディーナのマンションは、モスク前広場の近く、最近できた長い遊歩道の近くにある。私たち3人は夜道を少し散歩して帰った。遊歩道には散歩者は少なく、警官が3人組で歩いていた。自動小銃を持っている。マディーナは、近い将来、警備のための自動小銃はなくなって電気ショック銃になるだろうとのこと。
 マディーナは日本の学校では成績を貼り出さないことに驚いた。ロシアでは成績は5段階評価だが、必ず1や2の『不良』から3の『普通・満足』、4の『良』、5の『優』の生徒の名前をすべて張り出すそうだ。4点や5点はいいだろうが、1,2点の子供がそのために成績を上げようという動機になるかどうか疑問だ、張り出してほしくはないだろう。張り出す教育的な意味は全くない。だから日本の学校では誰の成績をも貼り出さない、と私は簡単に説明した。
 ファーティマさんと。グローズヌィ空港 その後
 3月5日(火)。帰りのグローズヌィ発の飛行機は12時55分発なので、11時頃飛行場に着けばいいだろう。マディーナは仕事に行くが、その時間には帰ってきて私を見送ってくれるそうだ。マリーカも見送りに飛行場へ行くと言ってくれた。
 昨日購入の重い本も、マリーカがプレゼントしてくれたグローズヌィのお土産品も8時過ぎにはスーツケースに入れ、いつでも出発できるようになった。気になるのは、モスクワから成田までのアエロフロート航空のインターネット搭乗手続きができないことだ。グローズヌィからモスクワまでのアエロフロート航空の座席はネットから私好みの座席を確保できたが。かなり重いスーツケースをもってシェレメチエフ空港の異なるターミナルを歩くのも苦手だ。モスクワから成田までの10時間もの飛行で都合の悪い席になるのも困る。実はマディ―ナ宅は豪宅だがワイファイがあまり通じなかった。ほとんど通じなくて、マディーナが自分のアイフォンからブルートゥース(テザリングだったか)で接続してくれたのだ。ブルートゥースはすぐ切れる。
 ファーティマさんと朝食をとった。彼女は言う。
「マディーナのような若い子はチェチェン主権国家と言うが、それは無理よ。不可能な点ばかりがある」。じゃ、チェチェン戦争とは何だったのか?誰が得をしたのか?
 チェチェン・イチケリア共和国初代大統領になった(自称と断り書き付)ジョハール・ドゥダーエフは1944年強制移住地のカザフスタン生まれ。1966年、タンボフ高等軍事航空学校を優秀な成績で卒業し(タンボフ市は中部ロシアのタンボフ州の中心)、ソ連軍のパイロットとして勤務、ソ連共産党入党、1971年には空軍アカデーミアに入学。卒業後は空軍エリートとして政治活動もした。1987からエストニアのタルトゥの空軍部隊の司令官(師団長・空軍少将)だった。ちなみに、この時、エストニア共和国の独立に協力して、ソ連軍の侵攻を空軍は押しとどめると宣言した。1997年エストニアのタルトゥ市にドゥダーエフの記念碑が立てられた。日本からは意外なことだが、東欧にはドゥダーエフ名称の通り、広場が多い。
 1990年チェチェン国民大会が開かれ、ドゥダーエフは議長に選ばれた。1991年にはチェチェン・イングーシ共和国の大統領に選出され、ソ連・ロシア連邦からの独立を宣言した。1996衛星電話で通話中連邦軍に探知されミサイル攻撃を受けて死亡。
 そのドゥダーエフとはそもそも何者か。ファーティマさんによると、モスクワが送り込んできた人物ではないか。
 第3代のアスラン・マスハードフは1951年、強制移住地のカザフスタンに生まれ、1997選出され2005年トルストイ・ユルタで連邦軍の特別任務部隊によって殺害されるまで大統領だった。マスハードフもトビリシ高等砲兵学校を卒業し、極東などで勤務、1981年レニングラード軍事砲兵アカデーミアを優秀な成績で卒業し、ハンガリーなどで勤務、リトアニアの砲兵師団司令官。1992年ソ連軍・ロシア連邦軍での最終階級は大佐。
 チェチェン強硬派から批判されていた(だから平和解決派の穏健派だった)その第3代大統領マスハードフとは、そもそも何者か。ファーティマさんによると、マスハードフもモスクワが送り込んできた人物だ。だいたい、チェチェンにロシア相手に戦争ができるような力があっただろうか。連邦軍も独立派軍も同じ武器を使っていたではないか、出所は同じ、と言うことだ。
スローガンの空港。私のスーツケースを
運んでくれるトゥルパルも背後に見える
空港のファーティマの知り合い(黒いコート)

 マディーナも帰宅して、私たちはベンツで空港に向かった。トゥルパルも自分の車に私のスーツケースをのせてついてきてくれる。グローズヌィ空港はチェチェン・イチケリア共和国時代は『シェイフ・マンスル』空港とか『セーヴェルヌィ』空港と呼ばれていた(*)。だから私は2度も空港の名前をファーティマさんに確かめた。ちなみにグローズヌィ市の通りは改名が激しい。だいたいグローズヌィ市自体が1997年から2000年までジョハール・ドゥダーエフ初代大統領からジョハール市となっていたくらいだ。地名や施設名の変更が激しいのはロシア全体にいえることだが。
(*)空港 シェイフ・マンスルは18世紀チェチェンの英雄。セーヴェルは「北」の意。今は普通に『チェチェン空港』と言う。
 現代の空港の正面入り口の右には『真実こそが私の武器だ。この武器の前にはどんな軍隊も力がない。アフマト・カディロフ』、左には『愛国主義の唯一の証は行動である。ラムザン・カディロフ』というスローガンが遠くからも読めるほど大きく掲げられていた。このスローガンの前に立つ私をマディーナに撮ってもらう。
 重要地点には必ず便宜を図れるようにいるらしいファーティマさんの知り合いに、搭乗手続き窓口でスーツケースをモスクワで受け出すことなく日本までそのまま運べないか、航空会社は同じアエロフロートだからと聞いてみたが、やはりだめ。搭乗までの短い間2階のカフェでコーヒーを飲んでいる間に、私のアイフォンをマディーナのアイフォンで繋ぐことができ、アエロフロートのウェブサイトが開けた。おかげで、モスクワから成田までの便の搭乗手続きも座席指定もできた。

 モスクワのシェレメチエフ空港では、国内便から国際便に乗り換える乗客は私の他に1組だけ。スーツケースをゴロゴロ運ばなくても国内便から出てすぐのところに、乗継便の搭乗窓口があり、そこでスーツケースを渡し、身軽にターミナルを渡り歩いて国際便ターミナルに着いた。こちらは古くて不便、両替窓口もやたら不利。搭乗の少し前になるとヨーロッパからの乗り継ぎ日本人団体客、個人客が増えた。
 この帰りの便は、乗ってみると、ビデオのリモコンが押しやすかったほかは、往きの便と同じ。私が取った席も行きの便とほぼ同じで後ろから4列目の通路側。機内は日本人で満席。隣には優しそうな青年が座り、やはり、ヨーロッパ帰りだと言う、団体の個人参加なので、4人席の真ん中に割り当てられたのか。彼の隣はルーマニア人男性だった。
 夕食を食べたら、眠剤を飲んで到着まで眠ります、と言うと、その前にトイレに行かせてくださいと言うもっともな依頼。飛行機で通路側ではない席だと、手荷物の置き場も足の伸ばし場にも困ってしまう。
アミーナ、ファーティマ、マディーナ、ハーヴァ

 日本帰国後、マリーカから、注文した『チェチェンの地理』の本が届いたと知らせがあった。当初は、マディーナが日本へ来る時持ってくると言うことだったが、ひとまず、目次のページや初めの数ページを写真に撮って送ってもらうことにした。こういうことに慣れていないマリーカの写真は、隅でぼけていて読みづらかったが、大感謝。いつも昼間マディーナ宅にファーティマのお相手に来ていると言うズーラは、毎日のように「おはよう」の写真やビデオ(ネットからとったもの)を送ってくれる。しかし、自分の言葉はない。こちらから質問した時の答えは録音して送ってくる。スマホに文字を打ち込むのは面倒なのかな。
 マディーナの結婚式は6月13日に行われた。ラーダムの期間のせいで、延び延びになっていたのだ。ラーダムの期間は日中は飲食ができない。ズーラによると夜明け前に起きて食事する。だから、日中、昼寝をするそうだ。
 結婚式の後、ズーラから約束通り写真や動画が送られてきた。結婚後夫婦はアーダムの祖母宅に住むのだとか。彼女が日本に来ると言う近々の計画はないらしい。私は、ぜひとももう一度チェチェンに行きたい。見落としたところが多かったような気がする。マディーナは以前もそうだったが、時々思い出したように短いSNSが送られてくる。それにやや長い返事を出しても折り返しの返事はない。きっと私と連絡ができる状態かどうか時々確認しているのだろう。SNSはそのためにもある。その後マーディナ直々からのSNSは少なくなった。ズーラやマリーカが代わりに短信を送るようになったからか。

 <後記、2020年4月5日。マディーナは度々モスクワに行っている。転居するのだろう。2020年の短信ではモスクワにはマスクがない(品不足だ)と書いてあった。マディーナが引っ越す前にチェチェンに行けるかどうか、コロナウィルスの感染状況ではわからない。2020年夏と計画しているが、無理そうだ)。
 <さらに後記、2022年になってもコロナは収まらない。実は、クリミア半島からクラスノダール地方のタマン半島を結ぶクリミア大橋・ケルト海峡大橋(鉄道橋は全長18.1キロで2019年開通、道路橋は16.9キロ2018年開通の道路鉄道併用橋)を渡ってカフカースに出て、チェチェンへ行こうかという夢のようなコースを考えていた。が、その後ウクライナとロシアの関係が険悪になって、国際ニュースから目がはなせない。オミクロン株の新型コロナの上に戦争危機なんて。
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