クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home   up date 06 May, 2018  (追記:5月24日)
極寒のクラスノヤルスクとバイカル(8)
        2018年1月28日から2月13日(のうちの2月11日から2月13日)

Путешествие в Красноярске и на Байкале эимой 2018 года (28.01.2018−13.02.2018)

 極寒のクラスノヤルスクとモティギノ
1 1/28-1/29 クラスノヤルスク着 アリョーシャ エニセイ街道 モティギノ着
2 1/30-1/31 飛行場。学校 パルチザン金鉱 南エニセイスク。ラズドリンスク モティギノ博物館
3 2/1-2/2 病院 ドラマ劇場、ルィブノエ村 カンスク経由 バライ村村長、クラスノヤルスク市へ
4 2/3-2/4 見張り塔(礼拝堂) ファン・パーク ダーチャ イルクーツクへ
 氷のバイカル   (参考:2008年のバイカル
5 2/5 ヤクーチア郵便街道を バイカルの娘たち 『バイカルのさすらい人』 『ニキータの館』
6 2/6-2/7 フジール村再会 オリホン島南観光 氷上バレー ドイツ人メルツ校長
7 2/8-2/10 学校 ハランツィ湾の氷 北コース観光 氷上の長い割れ目
8 2/11-2/13 イルクーツクへ戻る ポーランド・カトリック教会 コルチャーク像 ハバロフスクのタクシー
 イルクーツク市へ戻る
 2月11日(日)。12時に、ニキータの妻ナターシャ、次男チーホンと3人でイルクーツクに向けて出発する予定だ。(チーホンはイルクーツクでの教育のためたびたび往復している、とは知っている)。
2階ベランダから食堂前広場のツーリストを撮る
出発前、コースチャとアントニーナさん
オリホン島側のフェリー乗り場
ナターシャと

 出発までマッサージを受ける時間があると言われたので、オリガの部屋へ行く。オリガは日本で個人的に(つまり私の伝で、私が知り合いに声をかけて)25ドルで60分マッサージすると言っている。20ドルなら見つけやすいかもしれないと私が言うと承知。オリガは、日本でマッサージをして稼ぎ、観光をしたいと思っているそうだ。(後記:4月半ば、実際に日本にやってきた。彼女は私宅に滞在して毎日私にマッサージをすると言ってくれた。が、そうはいかなかった…)
受付に行くと、ベランダから見た民族衣装の女性がいたので、一緒に撮らせてもらう

 12時に、ニキータ、アントニーナさん、セルゲイ・グルジーニンさんやコースチャに送られて『館』を出発。コースチャは2年前ナターシャと一緒に私宅へ来たピアニスト。その時、できたら小さくてもコンサートを開きたい、音楽家と知り合いになりたいというので、希望をかなえてあげた。それ以後数回日本に来て、その知り合いになった音楽家とコンサートを開いたり、その音楽家の伝でピアノ・レッスンしたりしている。私はかかわっていない。ナターシャとコースチャが親しく、彼は時々『館』に来ているそうだ。イルクーツクからの気分転換か。
 車は、新しそうなジグリで、運転手はブリヤート男性。ニキータやナターシャは自分では運転しないが、『館』専属のワンボックス・カーの他、必要な時にはいつでも車を見つけられる。知り合いだったり、ちょうどイルクーツクへ行く車だったりする。
 ブリヤート人の運転手はブリヤートの伝統に忠実で、日本風に言えば道祖神を祭ってあるところ(こちらでも神聖な場所だったり、峠だったりする場所に何らかの設備がある。それは、馬をつなぐ棒・セルゲなどが建っていることが多い)を通るとき、スピードを緩めて煙草の葉を供えていた。昔は、乗ってきた馬をつなぎ、自分の服からちぎった布切れをセルゲに結び(自分が通ったということがわかる)、コインを置き、食物などお供えしてきた。煙草をお供えすることもある。紙巻きたばこもあればほぐしておくこともあり、一つまみのほぐした葉だったりすることもある。南シベリアの草原地帯の伝統だ。
 道沿いに何軒もあるなかなかこぎれいなゲスト・ハウスも見ながら通り過ぎる。ナターシャの言うには、宿泊費も高価だとか。40分ぐらいで島の南端に出て氷上に降りる。オリホン島と大陸をつなぐフェリーやホーバークラフトが運行しているルートは最も近道だが、公式氷上路は数キロ離れている。今回通ったコースは、公式氷上路なのかその近くなのかよくわからないが、透明な氷の上を走った。止めてもらう。氷の中に閉じ込められた水草も美しい。氷の下で水が流れる音がする。海の近くで聞く波の音のようにリズムはないが、低くうなって聞こえる。
 湖底からメタンガス(と、ナターシャが教えてくれる)が湧き出て、そのまま凍った泡が見える。20分ぐらいも写真を取り合っていた。岸の近くの浅場では、底の石も見える。
 陸地に上がって、7日前に来た道を戻る。バヤンダイでは休憩。お茶を飲む。バヤンダイからイルクーツクまでは、かつてのヤクーチア郵便道、現在は連邦道R418の草原の中の一本道を120キロほど行くだけだ。ところが、まだ100キロもあるというところで、ひとりでに後部席の窓が開いた。このロシア車ジグリは3年前くらいの物なので、もちろん窓は電動だ。手動だったらよかったのだ。ナターシャがいくらスウィッチを押しても閉まらない。運転手は道端に車を止めて、自分でスウィッチを押したり、窓ガラスを引っ張り上げようとしたり、エンジンを止めたりかけたり、ほかのスウィッチを試したりしても、窓ガラスは知らん顔。運転手もあわてたが、どうしようもない。草原の中で修理場ももちろんない、近くの村にあってもタイヤのパンクぐらいなら間に合うかもしれないが、電気系統の故障では無理だ。エンジンは稼働するからオープンカーだと思って出発するほかない。というわけで、後部座席の窓は大きく開けたままスピードを落として走行。零下20度の時期のオープンカーは厳しい。後部席に座っていたナターシャもチーホンも脱いでいた外套を着こむ。ナターシャたちはスポーツ用品もトランクに入れていた。その中にヨガ・マットのようなものがあって、それで窓を塞ぐと、風はあまり吹きこんでこなくなった。
 私は、やはりロシア製の車はダメだと思った。ロシア製だけではなく、新しいプジョーのエアコンの効きが悪かったとか、古いボルボのネジが緩んでいたとか、突然鍵が開かなくなったという話は聞いたことはあるが、日本車で3年物で突然故障したという話は聞かない。やはり、買うなら隣近所と同じでも、中古の軽でも、友達に自慢できなくても日本車がいいと思った。
 イルクーツクに近くなって運転手は(たぶんディーラーか誰かに)車の故障のことを電話で聞いている。電話の相手は、直し方を教えていたようだが、そんなことは初めからみんな試した。もっと専門的な修理工場に持って行くしかないだろう。5時頃イルクーツクに入る。途中に交通警察が立っていたが、後部座席窓にヨガ・マットを張り付けた私たちの車は止められることなく、無事通過。
 
 モンゴルの英雄通りにあるポーランド・カトリック教会
 着いたのはスヘ・バートルСухэ-Батор通り1番地のローマ・カトリック・カスチョール寺院Римско-католический костёл聖母昇天祭教会だった。(カスチョールと言うのはポーランドのカトリック教会のことなので『カスチョール寺院』とは冗語)。ここにはオルガン・ホールがあり、少年合唱団員が、6時から合唱練習をする。チーホンも団員だ。通用口から入っていくと少年たちが廊下や外套置き場にざわざわいる。ナターシャから、自分は用事があって少し抜けるが、私はホールで練習風景を見物して行ったらどうかと言われる。2階のホールに上がる。そこはカトリック教会のようでもあり、コンサートホールのようでもあり、椅子が正面に向かって並んでいる。(ロシア教会には椅子がない)。正面の舞台上には高い天井まで届くオルガンがあり、その前に少年たちが並んでいる。指導者は女性で、オルガン奏者も女性、途中で少年たちと一緒にソプラノで歌う女性もいる。ホールの椅子には、少しずつ人数が増え埋まっていった。少年たちの保護者達だろう。送ってきたか迎えに来たのだ。団員は7,8歳の少年から20歳近い青年までいる。
ポーランド教会で合唱練習
少年たちとチーホン

 指導者は団員を長い間かけて並び終え、位置について、指揮棒を振る。左2列目に立っているチーホンは「チーホン、あなたはなぜ歌わない」と言われている。よい返事ができなかったチーホンは列から出され、下に下された。14歳のチーホン、ちょっと反抗気味なのか。
 休憩の後、再び練習が始まるとチーホンは自分の場所で歌っているようだった。その頃ナターシャが戻ってきて、椅子に腰かけて練習風景を見守っている。私は、ぶらぶらとカスチョール内を歩いた。横の壁にはマリア像が掛かっている。オルガンのある舞台とは反対側の入り口の横には金のプレートが貼ってある。ロシア語と多分ポーランド語で『1768年から1956年の間、粛清され、流刑になったポーランド人への永遠の記念に。亡くなった人達には安息を、生きている人達には、和睦と希望を。ポーランド同国人より。ワルシャワ・イルクーツク1996年』と書かれてあった。
 1768年はロシア帝国(エカチェリーナ2世の時代)とポーランド(ポーランド王国とリトヴァ大侯国との連合)の間にワルシャワ条約が結ばれた。それが1772年の第1回ポーランド分割へと進む始まりだった。分割は1772年、1793年、1795年、1815年と行われているが第3回でポーランドは滅亡した。
聖母(聖神女)昇天祭教会
(ポーランド教会)
ウィキペディアから
聖母(聖神女)の無垢な心教会
(ポーランド教会)
ウィキペディアから

 『1830年の11月蜂起』または『カデット・レボリューション(The Cadet Revolution、士官学校の革命、1830年 - 1831年)』は、ポーランドおよびリトアニアで発生したロシア帝国の支配に対する武装反乱で、ロシア帝国軍に制圧されたのち、多くのポーランド人がシベリアへ流刑にされた。イルクーツクにもポーランド人が流され、共同体もできた。ポーランド人共同体はイルクーツクに初めは木造教会を建てたが、焼失。1884年、現在の石造りネオゴシック様式の教会が建てられた。1938年、スターリン時代にはポーランド人共同体も解散させられ、教会の建物は荒廃するままだったが、1970年代イルクーツク・フィルハーモニーのオルガン・ホールとして修復された。ポーランド共同体はソ連崩壊後復活したが、カスチョールは返還されることはなかった。その代わり、2000年に別な場所に『聖母の無垢な心教会Собор Непорочного Сердца Божией Матери』が建てられた。現在、カスチョールはイルクーツク・フィルハーモニーに属しているそうだが、コンサートの後、毎日カトリックの祈祷は行われているそうだ。
 合唱練習は2時間もあって、カスチョールは隅々まで見たし、1階の椅子の座り心地も試したし、保護者の様子も見た。やっと終わって、ナターシャとチーホンと外へ出る。カスチョールのあるのは、スヘ・バートル通り1番地だし、ナターシャのマンションは14番地だ。スヘ・バートル通りは、アンガラ下川岸通りとの交差点から始まってレーニン通り(旧アムール通り)とプロレタリア通り(旧イヴァノフ通り)の間を平行に走り、カール・マルクス通り(旧ボリシャヤ通り)との交差点で終わっているような、歴史的なイルクーツク中心地にある通りだ。カスチョールの他、救世主キリスト教会(1706年から)や、大学や、企業のヘッド・オフィスがある。
 スヘ・バートル通りと言うのはイルクーツクばかりか、ロシアだけでもアルタイ共和国のバルナウールにも、クルガン州のクルガン市にも、キャフタ市にも、ウラン・ウデ市、カルムィク共和国のエリスタ市などにあり、キルギスタンやカザフスタンにもある。モンゴルにはスヘ・バートル市もあり、スヘ・バートル村もありスヘ・バートル区もある。ダムディン・スフバートル(1894‐1923)はモンゴルでは革命の英雄だ。紙幣にも像が描かれている。
 その日はスヘ・バートル通り14のチーホンの部屋で寝る。
 白衛軍コルチャーク像
 2月12日(月)。11時半にカラトゥ―エフ夫妻が車で迎えに来てくれる。彼らも2017年秋ニキータと一緒に金沢に来ている。2、3日私が観光案内をした。私がイルクーツクに来た時は案内するからと約束してくれた。私は彼らに直接はイルクーツクに来ているとは連絡しなかったが、ニキータが連絡してくれた。初めは繋がらなかったという。ヴィクトル・カラトゥ―エフは
「昨夜のうちに、我が家に来てくれたらよかったのに」と言う。昼間は彼らには仕事がある。ヴィクトルはかつて理科系大学の教員で退職して(または、平行して、兼業に)自分の専門を生かしたビジネスをやっているとか。それも今27歳の息子アナトーリィに渡して、まだ、大学の学部長とかになっているとか。お昼過ぎまで時間をとって会いに来てくれたそうだ。妻のニーナも会社経営している。が、少し遅めのお昼過ぎまで、付き合えるという。
 車で、イルクーツクの町を案内してくれた。アンガラ川の右岸から左岸へ、また右岸へと車内から説明しながら回ってくれた。
 カラトゥーエフさんが車を止めったところはウシャコフカ(**)Ушаковка川、もともとはイダ(*)Ида川と言ったがアンガラ川右岸に合流するところだ。
(*)ブリヤート人やエヴァンキ人の旧テリトリーにはウダと言う川が多い。モティギノ町へ行った時、氷上を渡ったタセーエヴァ川の源流(イルクーツク州から流れてくる)もウダ川、別名チュナ川(1203キロ)だ。その川の名からニジネウディンスク(下ウデの意)市が河岸にあり、セレンガ川に東から合流するウダ川(467キロ)もあってその合流点にはヴェルフネウディンスク(上ウデの意)市がある。(ヴェルフネウディンスク市は1934年ウラン・ウデと改名,ブリヤート共和国の首都)、さらに極東のオホーツク海に流れるウダ川(457キロ)もある。
(**)1693年イヴァン・ウシャコフと言う商人が合流点近くに水車小屋を建てた。そこからこの名前ができた。ちなみに1928から1953年まで、シベリア水上飛行場があったそうだ。

 合流点付近には、シベリアでも最も古い修道院の一つだという『聖母マリアの聖画ズナメニエ修道院Монастырь в честь иноны Божьей Материб именуемой ≪Знамение≫ (ズナメンスカヤ修道院)』がある。17世紀創立で、現在の石造りの建物は18世紀に建てられたそうだ。ここで車を止める。
ズナメンスカヤ修道院と
その前に建つコルチャーク像
コルチャーク像
『トラペズニコフ』のメニューの
初めにあるトラペズニコフ家の説明
ニーナ・カラトゥーエヴァさん
ガレージの地下室(チルド)から
根菜を運び出すジェーニャ
マステルスキッフ家

 ズナメンスカヤ女子修道院の敷地内にはイルクーツク主教座本山のズナメンスカヤ寺院や探検家シェレホフГригорий Шелихов(その名をつけたシェレホフ市がイルクーツク近くにある)やトゥルベツカヤ侯爵夫人(デカブリストの乱でシベリア流刑になったトゥルベツキーの妻)たちの眠る墓がある。最近では作家のラスプーチンも葬られている。もっと有名なのは、修道院前の広場には2004年に没130年を記念してアレクサンドル・コルチャークの像が建てられた。
 アレクサンドル・コルチャークは1873年サンクト・ペテルブルクで生まれ、ロシア帝国の軍人・政治家、白軍(白衛軍)の総司令官だったが、1920年イルクーツクで銃殺された。彼は、実は1900年には、エドゥアールト・トールの北極海探索に参加し、調査船『ザリャー』の指揮を執るような海軍将官であり学者った。1917年ボルシェヴィッキ革命が起きた時、コルチャークは反対派指導者の一人に担ぎ上げられたともいえるそうだ。1918年オムスクを中心として、ウラル以東のほぼ全域を掌握する反ボリシェヴィキ政権の臨時全ロシア政府が樹立され、コルチャークは陸海軍大臣として迎い入れられた。同年、コルチャークは最高執政官に就任し、ウラル以東のほぼ全域に軍事独裁体制を敷き、ボリシェヴィキ政権打倒を宣言した。1919年3月には領域を拡大しヴォルガ川流域に迫るほどだったが、赤軍革命派の勢力に押され、同年末にはコルチャークはオムスクを放棄し、イルクーツクに退くが、捕縛され、1920年2月赤軍軍事革命委員会の裁判が開かれ死刑判決を受けた。そして、ウシャコフ川とアンガラ川の合流点付近のここで銃殺されたのだ。
 白系亡命者の間では追悼が行われた。が、革命軍の最大の敵であったコルチャークの記念碑はソ連時代はもちろん建てられなかった。21世紀になりサンクト・ペテルブルクの海軍省の建物に名盤・プレートが掲げられている。その他、非公式の名盤が打ちつけられたが、反対派によって壊されたのもあるそうだ。
 北極探検のカラ海(北極海の一部でタイムィール半島西)から戻って、タイムィール半島に上陸したことを記念して、タイムィール自治管区(1930年から2007年まで。2008年からはクラスノヤルスク地方の一部となり、タイムィール区と改名)の議会はコルチャークの名を冠する。また、1901年コルチャークが北極探検の講演・報告をしたイルクーツクの旧ロシア地理学協会の建物にも当時はプレートが掲げられた(しかし、革命後は取り去られて、別のシベリア探検家の名盤に取り換えられたが)
 イルクーツクのズナメンスカヤ修道院付近にある台座を含めて高さ4メートルのコルチャークの像も、個人のイニシアティブで建てられたものだ。台座には赤軍兵士と白軍兵士が武器を交わせているレリーフが彫られている。
 1時ごろ、出発したスヘ・バートル通り14に戻る。夫のヴィクトル・カラトゥーエフさんは、止めてあった自分の車に乗り、仕事場へ去っていった。代って運転席に座った妻のニーナさんが、レストラン『トラペズニコフТрапезников』まで運転してくれる。トラペズニコフと言うのは18世紀からのイルクーツクの大商人の家系の名から来ている。トラペズニコフ家やシビリャコフ家、バスニン家は18から20世紀のイルクーツクを牛耳っていた大商人の家系だ。トラペズニコフ家の邸宅は旧ボリショイ・トラペズニコフスカヤ通(現ジェリャーボヴァ通り)にあって、現在州裁判所になっている。このレストランが、その大商人一家とどんな関係にあるのかは不明。味付けが伝統ロシア料理風のトラペズニコフ家流なのだろうか。入り口のドアを入ると、外套を受け取ってくれる男性がいて、丁寧に接してくれる。30席ばかりのあまり広くないレストランだが、インテリアは、立派。革命前シベリア大商人風なのだろうか。トラペズと言うのは『食堂』を表す古い単語だ。
 食事中話題になったのは子供や孫のこと。長男アナトーリー(これは母方祖父の名から、つまりニーナさんの父アナトーリーは婿への援助が大であったということが、話から分かった)は父親のビジネスを継いでいて、ロマと言う子供がいる。ニーナさんは日本へ来た時、その孫のために電車のおもちゃを買っていった。娘マリア22歳は、ニーナさんが買っていった化粧品が気に入ったそうだ。
 ここのデザートのケーキは絶品だった。後から聞いたことだが、このレストランはケーキ用ベリー類を自家で栽培加工しているそうだ。(後記:2018年4月にイルクーツクから金沢に来た同業者(ライバル)のブロンシュテイン氏から聞いたこと。)

 3時ごろ、ナターシャ・ベンチャーロヴァが講義をしていたという博物館前で降ろしてもらい、ナターシャとイルクーツクの町を歩く。と言っても、『金沢通り』と彼女が勧めてくれた画廊を覗き、あとは日本へのお土産店を回っただけだ。『日露友好の懸け橋、日本の偉大な政治家森茂喜』広場も通り道にあった。
 翌日早朝0時50分発(つまり、前日の深夜と言ってもいい)の飛行機でイルクーツクからハバロフスクへ移るので23時過ぎには飛行場に移動しなければならないが、イルクーツク到着の時駅まで迎えてくれたジェーニャ・マステルスキッフが、車で送ってくれる。その前に彼宅でお茶をごちそうになる約束だ。彼は郊外で働いているので、イルクーツクに入るのに道路が込んでいて8時ごろにスヘ・バートル通り14のナターシャ・ベンチャーロフ宅に迎えに来てくれる。
 ジェーニャの妻はイルクーツクの本屋で店員として働いている。仕事の終わりが9時だというので、私を自分のマンションにおいて、妻を迎えに行く。妻のイリーナさんはぽっちゃりとして大きな愛想の良い目をした女性で、先祖はベロルシア出身だそうだ。彼らのアパートは広いワンルームで、内装が新しかった。大工さんのジェーニャが自分でやったそうだ。ロシア人の男性は本職でなくても男性がやるような仕事はたいていできるので、頼もしい。ジャーニャは本職だが。
 イルクーツクの空港は町から近く、ジェーニャ・マステルスキッフさんのアパートからすぐ近くだった。
 ハバロフスクのタクシー
 2月13日(火)。イルクーツクからハバロフスクのアエロフロートの機内は空席が多かった。私がいつも予約する後部座席(最後部ではない)は一人で3シート独占できた。夜中の飛行なので眠りたかったが、眠れなかった。飛行時間3時間後の朝6時にハバロフスクに到着。
 国内空港から、隣の国際空港まで移動しなければならない。歩いて15分ばかりで、来るときはその15分が寒さで参ったものだ。タクシーの運転手が飛行機から降りた客に群がる。タクシーでもいいかと思って、いくらだと聞いてみる『600ルーブル』という答え。隣の飛行場まで100ルーブルくらいなら乗ってもいいかと思っていたが、600ルーブルでは。地方の町では100ルーブルで市内はどこでも行ける。私はその悪徳運転手に返事もせずに背中を向けた。「400でどうか」としつこく言う。日本円では800円くらいにもなるが、まあ、この際いいかと思って承知。
「どうせ日本へ帰るのだからもうルーブルは要らないでしょうが。」(大きなお世話よ)
「ああ、スーツケースを持って歩いているツーリストがいる。こんなに寒い中歩くと大変ですよ。」
「隣の建物のように見えても、ほら、塀があるから遠回りしなくてはならないんですよ」とか、自分の車に乗った長所をあげつらっている暇もなく、国際空港の玄関まで到着。私はぶすっとした顔で返事もしなかった。400ルーブルを渡すと、その運転手の言うこと、
「数えてみると4枚しかありませんよ、500と言ったはずですか」。
「何だって!400でしょうが」ときつい口調で言い返す。運転手はあきらめてそれ以上は言わなかった。
 400ルーブルでも、ハバロフスクに寄付したようなものだ。あの運転手に小さい子供でもあって、臨時収入でおいしいものでも買ってやっただろうと思うことにしよう。
 タクシーに乗って国内空港から国際空港へ来る必要は全くなかった。6時半に着いたのだが、成田行きの便は11時45分発だし、空港内にはゆったりと座れる椅子もない。
 ハバロフスク成田のS7便は、来る時もそうだったが、10キロ以内の手荷物便しか料金に入っていない。それ以上は別料金だ。私のスーツケースは9キロだが、持ち歩くのは疲れたので預けようと思ったが、持ち込みができますよと搭乗口で言われたので、転がしていくことにした。ハバロフスクから成田の便と成田からハバロフスクの便では超過運賃の値段が後者の方が高い(前記のように)。
 ハバロフスク成田便も満席ではなく、後部座席では3人シートが独占できた。が、時間が短いので眠れなかった。
 やっと温水洗浄機付きの清潔なトイレの日本へ戻った。東京から金沢までの新幹線は運航していたが、金沢駅から自宅までのつもりで乗ったタクシーからは、目的地の前で降ろされた、雪が深かったからだ。
 ロシア旅行は、本当はカフカスへもう一度行きたいと思う。しかし、今回のクラスノヤルスクとバイカル旅行で、一旦は休止しようと思う。
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