クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 06 May, 2018   (追記・校正: 2018年5月19日、9月21日、2019年12月27日、2022年1月13日)
36- (6)  2018年極寒のクラスノヤルスクとバイカル(6)
オリホン島
                  2018年1月28日から2月13日(のうちの2月6日から2月7日)

Путешествие в Красноярске и на Байкале эимой 2018 года (28.01.2018−13.02.2018)

 極寒のクラスノヤルスクとモティギノ(地図)
1 1/28-1/29 クラスノヤルスク着 スラーヴァ・ルィヒン エニセイ街道 モティギノ着(地図)
2 1/30-1/31 飛行場。学校 パルチザン金鉱 南エニセイスク。ラズドリンスク モティギノ博物館
3 2/1-2/2 モティギノの病院 ドラマ劇場、ルィブノエ村 遠回りのカンスク経由 バライ村村長、クラスノヤルスク市へ
4 2/3-2/4 見張り塔跡(地図) ファン・パーク ダーチャ イルクーツクへ
 氷のバイカル(2008年のバイカル
5 2/5 ヤクーチア郵便街道を(地図) バイカルの娘たち 『バイカルのさすらい人』 『ニキータの館』
6 2/6-2/7 (地図)フジール村再会 オリホン島南部観光 氷上バレー、クリカンの城壁 ドイツ人メルツ校長
7 2/8-2/10 フジールの学校 ハランツィ湾の氷 北コース観光 氷上の長い割れ目
8 2/11-2/13 イルクーツクへ戻る ポーランド・カトリック教会 コルチャーク像 ハバロフスクのタクシー
上・イルクーツク州南部
右・バイカル湖のオリホン島
 フジール村再会
1989年、フジール村の子供たちと
前列右端はヴォ―ヴァ・メルツ、その横パーシャ
後列右端はニキータ、その横セルゲイ
メガネの女性がリョーシャと腕を組むナターシャ
1989年、湖岸でキャンプ、
パーシャ、ナターシャ、セルゲイ、リョーシャ
2018年現代。セルゲイ、パーシャ、ダーシャ
セルゲイのゲストハウスの棟の一つ
『ヴォスクレセニエ』の正面。
北斎の波の絵も見える
セルゲイの車で湖上に出る
シェンヤンから一時帰国のユリヤと
シャーマン岩とユリヤ
アントニーナさん、杖は体操用
 2月6日(火)。この日の予定はセルゲイ・グルジーニン Сергей Грудининと再会することだった。セルゲイとは1989年に初めてオリホン島へ行った時からの知り合いだ。彼も卓球の選手で、ニキータといつも一緒だったらしい。その時もオリホン島の学校で卓球のコーチをしていたようだ。当時、ニキータは独身だったが、セルゲイにはもう家族があった。妻のナターシャと連れ子のリョーシャ。二人の間の子のパーシャだった。1989年の時も1990年の時も、みんなでバーベキューを楽しんだり、島内小旅行をしたりしたものだ。その後、ナターシャはバイカル湖で溺死したと言う。2人の男の子を抱えたセルゲイはイリーナИринаと再婚してマーシャと言う女の子が生まれたが、イリーナは娘を連れてオムスクに去ってしまった(噂話によると、彼女はただ自分の子供が欲しかったからだけだったとか。ちなみに、ニキータはイルクーツク州出身だが、セルゲイはオムスク出身)。セルゲイはアクサーナと再再婚、ディーマと言う男の子ができたが別れた。ディーマは今15歳。イルクーツクに一人で住む。母親の再婚の相手を嫌っているそうだから。セルゲイは1993年から1999年までフジール村の村長にもなった。長い間、『館』で副支配人でもあったそうだ。今、自前のゲスト・ハウスを持ち、ダーシャと言う20歳も年下の何人目かの妻と住んでいる。
 10時ごろ、ニキータに案内されてセルゲイのゲスト・ハウスに行く。セルゲイは2017年、自分の子供のディーマやニキータと彼の次男チーホンたち4人で日本に来たことがある。その時はもちろん私が案内をした。
 昔、幼かったパーシャ(セルゲイと溺死したナターシャとの子)は、もう中年の太めの男性になっているが、28年前の私を覚えていると言う。セルゲイのゲスト・ハウスも流行っているそうだ。ブッキング・コムに登録してあって、宿泊客が絶えることはない。部屋数は、もちろん『館』ほどではないが、設備は都会のホテルと変わりないかもしれない。宿泊客用の部屋は2、3棟あり、食堂や台所の棟もある。1泊3000ルーブルくらいか。今は中国人のグループが泊まっている。帰国後、ネットで彼のゲスト・ハウス『ヴォスクレセニエ Воскресение(復活の意)』を開いてみると、1か月先まで予約で満室とあった。どのレヴューにもオーナーをほめちぎって書いてある。
 実際、泊り客に対してとても愛想がよく、私がごちそうになった食事もおいしいので、絶賛されているのだろう。コックはユーリャ・ミチスカ Юля Митискаと言ってブリヤート出身だそうだ。ほかにナースチャと言う掃除をする女の子も雇われている。外回り仕事をする男性もいる。ニキータと比べ、こじんまりした所帯だ。
 セルゲイの車で、パーシャの建設中の新居や、バイカル湖上、現在操業停止中の水産製品工場(元コルホーズ)など見て回り、2時過ぎには『ニキータの館』に戻った。
 ちなみに、フジール村はブリヤート語ではフジャール(Хужар ? それは 塩沢の意)と言って、1938年マーロエ・モーレでの漁業と魚加工工場の村としてできた。1960年代は、3000人近くの住民はすべて漁業に関係していた。今は操業を停止している。が、島は観光業のみで大繁栄している。しかし、人口1350人と、定住人口は多くはない。ホテルなどに働いている人たちは、イルクーツクや、他所から来て一時的に住んでいるだけだからだ。

 夕方、イルクーツク出身だが、シェンヤン(瀋陽)に留学して中国語を学んでいると言うユリヤ・ズフコヴァ Юлия Звковаが付き合ってくれた。中国と中国語が好きで、大学の中国語科に進んだそうだ。今、休暇中でバイカルにスタッフとして滞在。食堂で客にヴァイキングのスープなどをよそっている。中国人の客が多いから意思の疎通ができる。その他に、ニキータに頼まれて長男のチモフェイの中国語の家庭教師もしている。チモフェイはサンクト・ペテルブルクのスモールヌィ大学(前記)で中国語を学んでいて、今休暇でガール・フレンド(チタ市出身)といっしょに帰ってきている。
(*)瀋陽 ムクデンとも呼ばれ、後金の首都になったこともあるシェンヤンは人口700万人以上の大都市。中国生活が気に入っていると言っているユーリャ(ユリア)も空気は悪いと認めている。
 ユリヤと、シャマーン岩の下のバイカル湖上に降りる。波が打ちつけてできたのか、氷が美しい。親切な中国人男性が私たちの写真を撮ってくれた。

 夕食後、ニキータの母のアントニーナ・イヴァーノヴナさんの部屋に行く。『館』敷地内は絶えず新しい棟が建っているが、オーナーの家族の住む棟は2004年に来た時のままだ。棟の手前のドアを開けると、アントニーナさんの住居ブロック、棟の奥のドアを開けるとニキータ一家の住むブロックだ。アントニーナさんは、イルクーツクから北西に70キロの(だから連邦道R255沿いの)ウソーリエ・シビリスク市(75,000人)に長男一家と暮らしているが、次男のニキータのところへもたびたび訪れる。ニキータの次男チーホンは彼女が育てたと言ってもいいそうだ。ちなみにニキータの妻ナターシャとの嫁姑仲はかなり悪い。ナターシャは姑が自分たちの生活に干渉しすぎると、数年前、私へのメールによく書いてきていた。アントニーナさんも80を超えた今では、嫁姑の力関係はすっかり逆転。ナターシャは自分の英語力と事務処理能力、モスクワのマンションを売った資金で『ニキータの館』の設備を改良し、おかげで『館』がこれだけ繁盛するようになったと、本人は思っているだろう。事実だ。最近では、ナターシャは『館』経営からも手を引いて、国際文化交流のプロモーターとして華々しい。
 ナターシャの母親のアザ(アザはあまりにも珍しい名前なのか、通称はアンナ)さんが、それまでモスクワで一人暮らしだったが、数年前、老後を過ごしに娘のところに来ていた。モスクワで一人暮らしがもうできなくなったので、田舎のイルクーツクの、もっと田舎のオリホン島へやむなく引き取られることになったのだ。ナターシャの母親は特異な性格で、付き合うのは容易ではない。かつては大学の教員だった。オリホン島に来た頃は多少認知機能が落ちていたとか。しかし、宿泊客を捕まえ、政治や文化について議論するのが大好きだったとか。(実に様々な客が来るし、バイカル好きの『ニキータの館』のスタッフ・学生バイトも、議論の相手になる)。アントニーナさん、ニキータ一家、アンナさんは、もし狭い一軒家なら、とても一緒に住めないメンバーだ。ナターシャの母親のアンナさんは婿のニキータがこの世で一番気に入っていたとか。
 アントニーナさんの部屋のテーブルにオムロンの血圧計があったので測らせてもらう。160もあってびっくり。アントニーナさんに降圧剤をあげると勧められたが、勝手に飲んではいけない。これは帰国後調べてもらわなくては。
 オリホン島南部観光
『バイカル・ヴュー』(ブッキングコムから)
サルマが吹きすさぶ丘
氷に閉じ込められた泡をカメラに撮る女の子たち
私もこんなポーズで撮った
『逆つらら』も見える
洞窟の中に入る中国人女子たち
オゴイ島の頂上にある仏塔
仏塔に上ってくるツーリストたち
 2月7日(水)。『ニキータの館』の食堂は朝6時から始まる。メニューはほぼ同じだが、クレープをその場で焼いてほしいとか、ゆで卵が欲しいとか注文ができる。飲み物やデザート、サラダは日替わりもある。しかし、1週間以上では朝食、夕食は飽きる。昼食は宿代に含まれないらしい。
 ニキータは私のために、この日はオリホン島南部観光を計画してくれた。『館』専属のワンボックス・カー(マイクロバスと現地では言う、8‐10人用、オリホン島では、どれも『ウアズУАЗ452В』か『ガゼル』)が、何台か毎朝10時にレセプション前を出発する。『館』専属車は今、3台あるそうだ。10人弱のツーリストで、いつも満員になる。私は助手席に座らせてほしいとニキータに言ってあった。フロントガラス越しに走行中でも写真が撮れるし、ロシア人の運転手と話もできる。私の好みも言える。私と運転手の他は、後部座席はロシア語を解さない中国人だ。
 この日、私が乗ったワンボックス・カー(バンタイプ)の運転手はゲーナと言って、ニキータの『お友達』の私にも、後ろの席の若い女の子の中国人グループにもとても親切だった。
 私の乗る助手席だけが空いていて(私のために空けられていて)、私が乗ると出発した。行程を聞いてみると午後3時前には戻らないとのこと。「では、お昼はどうするの」。車の中でお弁当を食べるとのこと。
 まずは、フジール村の観光・情報事務所らしいところへ行く。(В Хужире организован информационно-туристический центр, являющейся местным туроператором というからつまり、観光案内所)。オリホン島は国立公園なので観光は有料らしい。後部席の中国人グループから一人100ルーブルずつ受け取って、運転手のゲーナは事務所に入っていく。周りには数台のワンボックス・カー(つまり、ほかのゲスト・ハウスなどからの観光用『マイクロバス』)が止まっていた。だから、事務所の窓口では順番があったのか、ゲーナはすぐには出てこなかった。ちなみに、私は100ルーブル支払わなかった。だって、何人車に乗っているか誰も調べに来ない。ゲーナからも請求されなかった。運転手は、観光が終わると『館』の会計から車代をもらうのだ。つまり、国立公園入場料は各自がその場で支払い(運転手がまとめて持って行くが)国の収入となり、観光小旅行乗車料が運転手と乗客を組織した『ニキータの館』の収入となる。車は運転手の所有物だ。(ロシアでは大概、車を持っていれば大なり小なり稼ぐことができる)
 フジール村から南へ行くとマールィ・フジール(小フジール)村がある。この近くにカラフルなバンガロー(ゲスト・ハウス)がいくつも整然と立ち並んだ『バイカル・ヴュー』と言う宿泊施設がある。ヤクーチアのミールヌィ市にあるダイヤモンド採掘企業(大金持ちの)『アブロース社』がオーナーとか。つまり、モスクワ資本だ。オリホン島全体は国立公園なので高層のホテルは建てられない。『バイカル・ヴュー』は確かに施設もよさそう、料金も高そうだが、ヴューと言っても、バイカルの観光スポット『シャマーン岩』は見えない。『バイカル・ヴュー』のほか、この道沿いには何軒もの新築らしい宿泊施設が建っている。

 バイカルが見渡せる小高い丘の上に出る。頂上にはあずまやが建っていた。セルゲ(前記:道祖神の宿る聖なる場所に建つ。馬をつないだり、自分が来たことを表す布切れを巻き付けたりする柱のこと)もある。観光ワンボックス・カーはもちろん『ニキータの館』からばかりでなく、観光スポットにはほかのベンションやゲスト・ハウスからの観光ワンボックスも数台止まっている。たいていの宿泊施設は車のオーナー運転手と契約しているだろうから、島中の観光スポットには、何台もの車が集中する。次々と車が止まり、観光が終わった車から次々と去っていく。どの車もだいたい10時に出発し、コースは決まっているから、一定の時間には一定の場所に集中するわけだ。つまり時間を外せば、一台もいなくなる。
 今日の観光の最初に訪れた丘からの眺めはいいが、サルマ(*前記)だろうか、風が強かった。吹き飛ばされそうなくらいで、カメラを構えようと車から出てきた中国人観光客たちも、早々に車に戻っている。
 次は、マーロエ・モーレにできた湾内に降りる。風がなくて、湖面も平らで、ところどころ透明な氷も見える。ゲーナは気が利いた運転手で、ほかのワンボックス・カーとはちょっと離れたところで、ちゃんと透明な湖面の湖中が見えるところを探して車を止めてくれる。覗いてみると、泡がそのまま凍っている。中国人の女の子グループも大喜び。私は彼女らに写真を撮ってと頼まれたくらいだ。
 マーロエ・モーレを島岸に沿って進む。岸に打ちつけた波がそのまま凍ったような『逆つらら』(*) が見える。波の浸食で洞窟がいくつもある。マーロエ・モーレには多くの小さな島が浮かんでいるが、そのうちでも長さ2.9キロ、幅0.6キロで、オリホン島近くのオゴイ Огой島が最も大きく、ここには仏塔がある。オゴイ島は無人島で、全体が岩山、植物も少ない。湖面より60メートルほど高い頂上に2005年に建ったと言うチベット仏教の伝統にのっとったと言う仏塔がある。プロスヴェロレニエ просветление 悟りと訳せるか」と言ってダキニ(**)を祀っているそうだ。 
(*)『逆つらら』サスーイ Сосуиと言う下からのつららがあがっている。これはバイカルがまだ完全に凍る前、波が岩にぶつかってそのまま凍ったものだ。バイカルの風は強く、サスーイの高さは20‐30メートルにもなると言う。
(**)
荼枳尼天(だきにてん)は、仏教の神(天)。夜叉の一種とされる。
「荼枳尼」という名は梵語のダーキニーを音訳したものである。また、荼吉尼天、枳尼天とも漢字表記し、だてんとも呼ばれる。荼枳尼“天”とは日本特有の呼び方であり、中国の仏典では“天”が付くことはなく荼枳尼とのみ記される。ダーキニーはもともと集団や種族を指す名であるが、日本の荼枳尼天は一個の尊格を表すようになった。日本では稲荷信仰と混同されて習合し、一般に白狐に乗る天女の姿で表される。剣、宝珠、稲束、鎌などを持物とする。(ウィキペディアから)
 運転手のゲーナは、下の車の横で待つ。この時、駐車中のワンボックス・カーは4、5台だった。だから4、5台の車に乗ってきた観光客たちが登っていく。先に着いた車は、乗客の観光が終わって先に去る。この島はなにしろ荒野だし、頂上まで登っても、みんなそれほど関心がある様子もなく、写真を撮ってすぐ降りて行く。
 氷上バレー、クリカンの城壁
 コースはオリホン島のマーロエ・モーレ(小さい海)側、つまり西岸を南端にむかう。東岸は、ボリショエ・モーレ(大きい海)でブリヤート共和国のセレンガ川河口まで幅広い湖面が続く。オリホン島東岸はバイカル湖でも最も深い部分で、どこも深度1000メートル以上あって、最深の1642メートルもオリホン島北部の東岸にある。オリホン島の東岸は絶壁で湾も集落も道もない。観光は大概西岸のマーロエ・モーレの範囲だ。
運転手ゲーナの右背後にはバレリーナ(赤)、
左背後には飛んでいったパラソル(緑)
氷上バレー
氷上でたき火を起こし
スープを準備する別のグループ
クリカンの城壁

 西岸にいくつもある湾に入ると比較的穏やかで、波もそれほどなかったのか、平らな湖面が続き、ところどころ透明でもある。透明なところは格好のスケート場だ。中国人グループの一人が真っ赤なスカートをはき、パラソル傘をもってフィギア・スケートを踊っていたのには驚いた。そういえば、『ニキータの館』の食堂でバレー用のスカートをはいた女性がいた。零下20度に、いくら分厚いタイツをはいていると言っても、透けるスカートは珍奇だと思ってみていたものだ。これで納得。『館』で見かけたスカートは半透明の白、今のは赤だが、同じグループだろう。
 この時、この子供もいるグループは、バレリーナのような赤いスカートの女性が踊り、みんなが写真を撮っていた。手を放したすきに、パラソルが風に吹き飛ばされて転がっていく。走っても追いつかない。親切なゲーナは別の車の乗客のパラソルにもかかわらず、車で追いかけて取り戻してあげていた。
 1時過ぎ、車の中で、『館』のコックが作ったお弁当を食べる。一人ずつ配られたアルミホイルの包みを開けてみると、ご飯の中にバイカル産の焼いたオームリ(マスの1種)が入っていて、なかなかおいしかった。運転手のゲーナは、ほかの車の止まっていないような場所を選んでくれたが、後から来た車が私たちの近くに止まった。そのグループは、昼食の準備は大掛かりで、氷上でたき火を起こし、スープを暖めている。横には折りたたみテーブルと椅子も準備している。氷上のキッチン付きダイニングもいいかもしれない。たき火で氷が多少溶けたとしても。
 また、別の湾内では4輪車バギーが猛スピード(のように見えた)で氷上を走ったりスリップしたりしていた。停車すると、好奇心旺盛で車好きな中国人グループが駆け寄って取り囲んでいた。
 氷のバイカルと氷に閉じ込められた泡を何枚も写真に撮った。氷の下を覗き音でいる中国人の女の子たちの写真も撮った。ちなみにバイカルでは今の時期、観光客と言えば大概中国人グループか中国人カップルだが、みんな最新の服装で持ち物も新品で上等そうだった。何年も前に買った暖かいと言うだけのダウン・コートの私はみすぼらしく見えただろう。2時半ごろ陸に上がる。
 オリホン島の観光名所の一つ、ホルゴイ Хоргой峠にある『クリカンの城壁 Курыканская стена на мысе』に訪れるためだ。
 クリカンは7,8世紀から13世紀にシベリアにいた集団で、突厥碑文や中国側の資料にもあるチュルク系の民族だそうだ。元々エニセイ中上流(ミヌシンスク・ハカシア盆地)に住み、一部はバイカルに移り、さらに北東に移住してヤクーチア(サハ)人の祖先になったとされている。(前記
 1.5‐2メートルの堀や石垣、土盛り、祭壇跡など遺跡があるそうだが、私たちが案内されたのは、たぶん遺跡そのものではないだろうが、あったような場所だろう。それは岬に聳える岩山だった。浸食に残された残丘だと思う。この岩山は自然の城壁だ。5個以上の頂点があり、ハカシアにあるスベ(城壁)と似ていた。考古学に詳しくないのはわかるが、名所旧跡の説明も全くしない観光運転手が、ロシアでは普通だ。『クリカンの城壁』については、中世突厥やその部族の遺跡としかわからなかった。オリホン島に観光客が急増したので、観光スポットも開発しなければならない、というわけだ。
 (後記:カリフマン Калихман教授の著した本(500部印刷)によると、オリホン島には古代から近世の墓地、洞窟、宗教儀式用施設(岩)、岩画、城壁、住居跡などの遺跡が40カ所以上あるそうだ。城壁は南西部に3カ所ある。北部や東海岸に敵が上陸することは地理上難しいから南西部のみ防御すればいい。5-10世紀とある。住居跡や墓地が付属していることもある)(2023年後記:教授とはその後3回も会った。2回は日本で、3回目はイルクーツクで)
 麓には数台のワンボックス・カーが止まっている。運転手のゲーナは、私や中国人の女の子を案内して岩山に上ってくれた。岩山登りは、ハカシアでさんざんやったが、あまり好きではない。オセチアではパスしたものだ。ゲーナさんは手を貸してくれて、全員を頂上の一つに上らせてくれた。何と風が強いのだろう。この岬から、凍ったバイカルがよく見晴らせた。岩山から落ちるくらい強い風もサルマかもしれない。
 3時半ごろフジール村に着いたが、村で1軒のスーパーに寄ることにした。どこへ行っても店をのぞくのは楽しい。 
 ドイツ人メルツ校長
 夕食後の7時半ごろニキータに連れられて、旧友の校長夫妻宅を訪れる。ちなみに他家に訪問するのに、私は日本から何もお土産を持ってきていなかった。(前記スーツケースの機内持ち込み重量の問題)。それを言うと、ニキータは途中の店に寄ってフルーツを買っていた。私が買ったと言って彼らへの手土産にするためだ。彼が日本に来た時も彼がおごってくれ、私がロシアに行った時も彼が費用を出してくれ、こんなにお金を使わせて申し訳ないと言うと、「いやいや、なんの、なんの。自分には今ではお金がある。以前、自分にお金もなく、外貨も持ち出せなかった頃、日本へ行った時(1990年)、私にスニーカーを買っくれたではないか」と言う。そんなことがあったっけ。当時、スニーカーなどはソ連では売ってなかったか超貴重品だった。ロシア語タイプライターもあげたことがあった。私はパソコンのワープロを使うようになったので不要になったのだ。こんな風に恩返しをしてもらえるのなら、スポーツ用品をもっとたくさん買ってあげればよかった、などと腹黒なことを思ったりする。(不思議な気持ちだ。ロシア人にお恩返しをしてもらったことなどないから、期待もしてないし…。)
メルツ校長とヴァーリャさん(現在)
1990年のメルツ家の家の前
ナターシャ、校長、ヴァ―リャさん、アンドレイ
私のトランクの上にまたがっているヴォ―ヴァ
イルクーツクに住む最近のヴォ―ヴァの一家

 1989年に校長夫妻の家に泊めてもらって以来、その家は変わっていない。当時、上水道はなかった。今でも公共の上水道はなく、自力で井戸を掘るか、水を配達してもらう(か、自分で汲みに行く)。29年前、私を悩ませたぼっとんトイレも使っているかどうか知らない。ビオトイレがあるようにも見えない。乳牛は多分もう飼っていないだろう(夫妻の子供はもう大きくなった)。
 校長はイヴァン・メルツ Иван Иванович Мерцと言い、歴史の先生。妻のヴァーリャ・ルミャンツェヴァ Варвара Румянцеваは地理の先生。1989年にはアンドレイと言うちょっとふてくれ気味の年長の少年と、細身のナターシャと言う女の子、ボーヴァと言う小さなぷくぷくした男の子がいた。今ではみんな成長して、結婚し、イルクーツクなどに住み、子供(孫になるが)も数人いる。彼らと久しぶりで会うと、成長した子供たちの話になる。1989年、3人の子供が全員は夫妻の子ではないとニキータから教えられていた。だが、誰が誰の子か聞けないでいた。
 校長のメルツは苗字が示すようにドイツ人。18世紀にエカチェリーナ2世の政策の一環で、当時荒野だったヴォルガ中流域に移住してきたドイツ人の子孫で、ヴァルガ・ドイツ人と言う。彼らはロシア帝国の中で、ドイツ人社会(共同体)を作り、ドイツ語で話し、ドイツ風に生活してきたそうだ。革命後の1924年にはソ連邦内のヴォルガ・ドイツ人自治ソヴィエト社会主義共和国もできたが、第2次世界大戦中1941年「ヴォルガ・ドイツ人追放宣言」が公布されたのだ。ヴォルガ・ドイツ人自治共和国の解体と、全てのヴォルガ・ドイツ人をカザフ・ソビエト社会主義共和国やシベリアに強制移住することを決定したスターリンによって、ヴァルガ川流域のドイツ人は全員シベリアに強制移住させられた。メルツさんの両親は、ヴォルガのパクロフスク Пакровск 市(*)からアルタイ地方クィトマノフ区 Кытмановский районウルス・タラバ Улус-Тараба村、スターリィ・タラバ старая Тараба(古いタラバ)に移住させられた。
(*)パクロフスク市 1747年にできたとされる。当初はパクロフスカヤ・スロヴァダと言った。1914年からパクロフスク市。(スロヴァダは元々は納税義務を免除された大村のこと)。1931年からエンゲルス Эигельс市となる。パクロフとは聖母祭の意、革命後は宗教的な地名は革命的な地名に改名されることが多かった。
 スターリンの死後追放令は撤回された。が、メルツさん一家は留まり、イヴァン・メルツさんはアルタイ地方の田舎で教員として働き、結婚し男の子も生まれた。同じ学校でルミャンツェヴァさんが働いていた、彼女も結婚していて男の子がいたが夫とは別居中だった。ルミャンツェヴァさんによると、メルツさんの結婚もうまくいってなくて、(不倫の)二人は(正式に)結婚することになった。メルツさんの男の子は母親が引き取り、メルツさんは養育料を払うことになった。ルミャンツェヴァさんの男の子アンドレイは母親の彼女が引き取り、元の夫から養育料を受け取ることになった。二人は養育料プラス・マイナス・ゼロと言うことで、メルツさんの長男も、ルミャンツェヴァさんの長男もそれぞれの母親の場所で成長。成人前も後も父親に会いたがらなかったそうだ。ナターシャとヴォーヴァ(ウラジーミル)は共通の子だ。
 メルツさんは生粋のドイツ人だ。ソ連崩壊後、多くのヴォルガ・ドイツ人は帰国権を楯に、ドイツに出国した。彼の母親のリディア・メルツ Лидия Давыдовна Мерцさんもドイツに移住した。その頃、ヴォルガ・ドイツ人のドイツへの帰還者はドイツ政府から優遇されたそうだ。(1990年代後半からはそうでない)。チェチェ・イングーシ自治共和国やカバルダ・バルカル自治共和国、カルムィク自治共和国など、スターリンによって全員強制移住させられ、自治共和国が消滅したところは、スターリンの死後、自治共和国は復活している。しかし、ヴォルガ・ドイツ人自治共和国だけは復活していない。メルツさんはそのことに憤慨している。
 メルツさんの母親も兄弟も今は、ドイツのヘッセン州のコルバッハ Корбах市に住んでいる。メルツさんやメルツさん家族は何度も訪れているそうだ。写真も見せてくれた。
 歴史の先生メルツさんに聞いたところでは、教科書ではスターリンによる民族丸ごとの強制移住の件はわずか数行しか教えない。時間も数分だ。ロシアの教科書ではそうだろう。(しかし、カフカースではそれは今でも続いている問題だ)。
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