クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
       В Красноярске       Welcome to my homepage

home up date 2009年12月27日(校正と追記 10年1月10日、12年1月19日、6月14日、14年2月26日)
南シベリア古代文明の中心ハカシア・ミヌシンスク盆地
(2)ハカシア北部
           2009年6月22日から7月14日(のうちの6月25日
Древная культура в Хакасско-Минусинской котловине( 22.06.2009-14.07.2009 )
ロシアへの招請状を都合してビザを入手し航空券を手配する 『古代ハカシア』旅予定表 ハバロフスク経由クラスノヤルスク はじめからアバカンへ飛べばよかった ハカシア共和国首都アバカン 石炭の町チェルノゴルスク
ロシア製小型ジープ『ニーヴァ』 ハカシア北部へ 古代人をも魅せたシーラ湖群 ガイドのスラーヴァ コサック前哨隊村 シベリア鉄道南支線の町コピヨーヴォ
旧サラーラ郡、昔の金鉱町 厳かなイワノフ湖 村おこし スレーク岩画 ハカシアのメソポタミア (ハカシア盆地古代史略年表)
トゥイム崩落 『トゥイム・リング』、シーラ湖畔泊 淡水と塩湖のベリョ湖 チャルパン残丘の遺跡 クルガン草原を歩く 淡水湖イトクリ湖
タルペック山麓クルガン 古代天文観測所スンドーク 白イユース川山地の洞窟地帯 『9個の口』洞窟 小『贈り物』村の旧石器時代遺跡 シュネット湖とマタラック湖
2千年前の生活画バヤルスキー岩画 コペンスキー・チャータース 『アナグマ』荒野の大クルガン 大サルビック・クルガン 沈みきれなかったクルガン 自然保護区オグラフティ山
ウイバット川中流の香炉石 エニセイ文字発見記念 ウイバット・チャータース サヤン・リング民俗音楽祭の評判 レーニンもいた南シベリアの町 サヤン・リング会場
アバカン郷土博物館 ハカシア伝統民族祭『乳祭』 カムィシカ川 ビストラヤ山岩画 アバカン見物
ハカシア炭田 『チャルパン露天掘り』発掘 サヤノゴルスク市と巨大発電所 『旧アズナチェノエ渡し場』発掘 聖なるスハニハ山 新リゾート地パトラシーロフ林
10 『チャルパン露天掘り』その後の発掘 岩画公園のポルタコフ村 サフロノーフ村のクルガン丘 鉄道分岐駅アスキース町 遺跡・自然保護区『カザノフカ』 旅の終わり
ハカシア北部
@プリゴルスク町 Aトロイツコエ村 Bボグラット村 Cヴラシエヴォ村 Dボレーツ村 Eシーラ町 Fツェリンノエ村 Gソレノオジョルノエ村 Hコピヨーヴォ町 Iサラーラ村 Jオルジョニキーゼスコエ村 Kプリイスコーヴォエ村 Lトゥイム町 Mエフレムキーノ村 Nマーラヤ・シーヤ村 Oコムナール町 P>ウジュール市 Qミヌシンスク市 Rウスチ・ビュール村 Sウイバット村 (21)モスコーフスコエ村 (22ノヴォトロイツコエ村

@スレーク岩画 Aトゥイム・リング Bチャルパン残丘 Cマーラヤ・シーヤ旧石器住居跡 Dタルペック要塞 Eオンロ残丘スンドーク Fバヤルスキー岩画 Gコペンスキー・チャータース Hバルスーチー・ロック・大クルガン Iサルビック大クルガン Jクーニャ山 Kアグラフティー山 Lオクニョーフ時代クルガン Mウイバット・チャータース Nドゥヴグラスカ洞窟 Oビストラヤ岩画 Pスハニハ山 Qテプセィ山
 ロシア製小型ジープ『ニーヴァ』
 マリーナはチェルノゴルスク市の市立図書館に8時までに着かなければならないが、図書館は市の中心、家は第9炭坑区という遠隔地にあって、バスの便も悪いので、毎朝サーシャが送っていく。サーシャの店はアバカンにあって9時に開店だが、7時40分に家を出て8時前にマリーナをチェルノゴルスク市立図書館前で降ろすと、8時半にはアバカンの店に着く。
 というわけで、ガイドのスラーヴァとは8時半アバカンの店で会うことにした。スラーヴァはアバカンに住んでいるし、2008年トゥヴァをディーマの高年式ランクルで回ったときも、スラーヴァやアルカージーと店の前から出発したのだ。
 そのとき、スラーヴァは
「デリカ(超高年式、多分1988年頃)を買った、いい車だ」と自慢していたが、今は残念ながら故障中で、前から使っていたニーヴァで回るそうだ。ロシアではいつも、ディーマか彼の知り合いの日本車(たとえ高年式でも)にばかり乗っていたが、スラーヴァのロシア車ラーダ・ニーヴァという小型ジープ年代ものはエキゾチックだった。これに乗っていなかったら、今回のハカシア旅行は面白さ半分といってもいいくらいだ。ニーヴァでなければ、つまり、スラーヴァが20年以上前(もっと前かもしれない)の味のあるニーヴァをもっていなかったら、古い『ロシアの車』体験ができないところだった。
スラーヴァとロシア製小型ジープのニーヴァ

 しかし、まずは『スラーヴァの車ニーヴァ』と聞いただけで、何だかまともに動かないような気がしてしまった。何しろロシア車は新車でも故障する、車は故障と一緒に買うようなものだ、とよく聞いていた。新車でも直しながらでないと走らない(「だが日本車は中古車でも故障しない」と続くのだが)。ロシア車は年式に関係なく故障するらしい。ただ、古いのはサロンがぼろぼろになっている。
 「古いニーヴァで回るらしい、ちゃんと走るかなあ」とサーシャに言うと、
「それは持ち主次第だ」という経験者の答えだ。つまり、持ち主が絶えず車の世話をし、こまめに部品を変えていれば、動きたいときに動くのだそうだ。ロシアの男性は車を持つと妻を顧みない、と一昔前には言われていた。
 スラーヴァにアバカンへのバスの中で電話したとき、
「今、車の点検修理をしている」と言っていた。23日まで古墳の発掘現場でバイトをしていて、私と出発する前日は修理をしていたわけだ。少し安心した。

 やっと、6月25日(予定では24日だが、その日は移動でつぶれた)8時半、スラーヴァのニーヴァに乗ってアバカンから国道54号線を北に向かって進む。快適には走らないが、走ってくれるだけでもありがたい。破れて中からあんこがはみ出した内装だが、助手席のシートがあるだけでもいい。窓も開く(途中で取手が壊れたが、新しいのをつけるとすぐ開くようになった)とは状態の良い車だ。平地なら速度も80キロも出るではないか。しかし、最近のロシアの国道は日本車がびゅんびゅん走っているので、みんなから追い越された。それはいいが、たまに遅い車があっても、どうしても抜けないのだ。50キロ、60キロで走る車でも抜けない。片側1車線ずつの国道では、抜くためには素早く対向車線に出て、追い抜いて、素早くもとの車線に戻らなくてはならないが、ニーヴァが抜き終わる長い間、対向車線が空いているということはないからだ。
 プリゴルスク町を通り過ぎてハカシア北部へ
草原の中にぽつんとある町プリゴルスク
 アバカン市を出て54号線を北に向かい、丘をひとつ越えて30キロほど行ったところに、数軒だけの集合住宅が草原の中にぽつんと建ち並ぶプリゴルスク町(人口1800人)が見える。2008年夏、ロシア旅行から帰って、この謎のプリゴルスクをネットで調べつくし、ゴーグル地図でも確かめた。ディーマは何も知らないようだが、スラーヴァに聞くと、さすが学校の歴史の教師だけあって、刑務所関係とその奥に未完の原子力関係施設がある町だ、とネットに出ていることぐらいは知っていた。
 アバカン市から65キロも国道を行くとトロイツコエ村がある。ここを右折すると有名なバヤルスキー岩画遺跡(紀元前2−1世紀)に出るのだが、そんな近場はスラーヴァの予定表によればプログラム後半の日に行くことになっていて、第1日目は最も遠い400キロも離れたイヴァノフ湖群に行くので左折する。イヴァノフ湖群はケーメロフ州との『国』境に近いクズネック・アラタウ(山地)にあるのだ。ちなみに、ハカシア滞在の前半7日間はアバカン市より北を回ったので、5回この道を通った(遠すぎてアバカンに戻れなかった日もあったので)。
 トロイツコエ村から草原の中を18キロもいくと、古くからのロシア人の村ボグラットに出る。ハカシアには8つの行政区があるがボグラッド区(ボグラッド町が中心)はエニセイ川にも面している比較的小さな区で、もちろん遺跡も多い。バヤルスキー岩画遺跡のほかにも、ドゥヴグラスカ洞窟は4万年前の中期旧石器時代(ムスティエ文化)の遺跡(生活跡)で有名だ。この洞窟で玄武岩で作った狩や動物解体のための幾揃いもの石器や加工された骨、さらに洞窟の住民が狩をした動物の骨などが見つかった(発掘調査は1970年代)。ハカシア盆地の旧石器遺跡で必ず残っているのはケブカサイ(毛サイ)の骨だ。ケブカサイのレプリカ、または実物の骨の一部は、たいていの博物館に展示してあって、180万年前から1万年前(地質年代の新生代第4紀更新世)にシベリアなどに生息していたと説明がある。マンモス、オオツノシカとともに氷河期を代表する動物だ。ドゥヴグラスカ洞窟にも、このケブカサイの骨や馬、ロバの骨が大量に残っていた。
 古代人はエニセイ川沿いにも多くの遺跡を残したが、クラスノヤルスク市からアバカン市までの間の約400キロのエニセイ川が、1967年からクラスノヤルスク・ダム湖(発電所は56年に着工、71年完成)となってしまったので、水没した遺跡が無数にある。水没し切れなくて頭だけ出しているクルガンも多いに違いない。そんな遺跡もぜひ見たいとスラーヴァに頼んだ。予定を都合して数日後行くことになった。ドゥヴグラスカ洞窟旧石器時代遺跡へは行かないと言う。道が悪いうえに、行っても何もないからだ。
ゆるい上り坂に入る
 ボグラッドを過ぎると長い上り坂になって、ニーヴァには大きな負担だった。苦しいのはニーヴァばかりか、ロシアの田舎で走るような車には傾斜はゆるくてもこの長さがこたえるようで、途中に休憩所があった。スラーヴァに
「オーヴァーヒートにならないよう、ここでエンジンを少し冷やすんだ」と言われて、なるほど、気を使ってやらなくてはならないのだと改めて感心した。休憩所は第一に車のためだが、ついでに人も一休みするのかトイレもあった。ロシアの公衆トイレについては、もう言及しない。
 ちなみに、ボグラッドというのは1919年クラスノヤルスクで白軍に銃殺された革命家の名前を記念してつけられたので、それ以前は村を流れていたテシ川からテシ村と呼ばれていた。町のそばを通ると異臭がする。ごみ捨て場が煙っている。ごみが醗酵して熱を出し燃えているのだろう。周りにカラスや野良犬がうろうろしている。これも、ロシアの田舎では珍しくない風景だ。浮浪者もいたかもしれない。
 この近辺の低い山々で20世紀はじめ、銅が採掘されていたそうだ。ハカシア盆地の丘陵帯には鉱物資源採掘が容易な鉱山が多くあるらしい。それも、古代青銅器文明が栄えたことの原因のひとつにちがいない。

 さらに40キロも行くと、ヴラシエヴォ村ボレーツ村が続いてある。これはソ連時代、ソホーズ・ヴラシエヴォとソホーズ・ボレーツがあったのだ。かつて、ボレーツは優秀ソホーズで、ソホーズ長はソ連邦英雄として表彰されたとか。ヴラシエヴォ村と比べて整然とした秩序を保つボレーツ村にはドイツ人が住んでいて、だから勤勉なのだとか(もちろんこれはロシア人が言っていることだ)。
 古代人をも魅せたシラ湖も通り過ぎる
 それらの村々を過ぎて、一山越えるとエニセイ地方一番のリゾート地シラ湖群に出る。シラ湖は長さ9.5キロ、幅5キロで最深は22メートルの塩湖だ。150から250メートルの乾燥したステップの山に囲まれた底地にあるので流れ出る川はなく、ソン川が唯一流れ込む。だからかなり塩度が高く、健康によい無機質が多いそうで、夏場の保養地としてにぎわう。ソ連時代から大きなサナトリウム(もちろん、国立が一軒のみ)があった。サーシャの次女のナースチャもここで関節の不調を治したと、マリーナが言っていた。
道路の両側にクルガンが見える

 シラ湖のほかにイトクリ湖(クリというのはハカシア語ですでに湖と言う意味)、ベリョ湖シュネット湖マタラク湖などあるが、スラーヴァの予定表ではスレーク岩画やトゥイム村見物の後に訪れることになっている。つまり別の日に出直して、ゆっくり観光するわけだから今回は通り過ぎただけだが、リゾート客相手の商売が盛んになってきているのは遠くからでも見えた。
 道端にトラックが止まっていて、何か売っているらしい。キャンピング・ツーリストにバーベキュー用の薪を売っているのだと、スラーヴァが教えてくれた。トラックには薪のようなものがいっぱい、その横の草原にも山積みされている。ロシアでもこんなビジネスが現れるようになったのか。
 それよりも、目が奪われたのは緩やかな丘が連なるこの草原の中に舗装道路が1本遠くまで走っていること、その両側にタガール時代(紀元前8世紀から3世紀頃)のクルガンが無数に散らばっていることだ。古代人も、シラ湖やイトクリやベリョ湖のあるこの豊かな盆地で生活していたのだ。この草原の草も家畜に美味しいに違いない。
「タガール人たちも、シラ湖で水浴びを楽しんだに違いないわ」とスラーヴァに言うと、否定的な答だった。
 舗装道路は、シラ湖を過ぎ、シラ町を出ると三方に分かれて伸びる。私たちのニーヴァは北のカピヨーヴォに向かって進む。道の両側には相変わらずクルガンの群れが点々と続く。ニーヴァの車窓から写真を撮ろうとすると、
「ハカシアではクルガン撮影に困ることはないからね」と言われる。
 トラクターの模型の横にツェリンニィ・ソホーズと看板の出ているツェリンノエ村を通り過ぎる時、スラーヴァが
「ここには侍が住んでいたのだ」と言う。なぜなら刀を持っていたからだそうだ。シベリア抑留者の非帰国組の一人だったらしい。スラーヴァの知り合いの知り合いがその『侍』と話したことがあるとか。
 ガイドのスラーヴァ
 スラーヴァのロシア語は外国人の私にはわかりづらい。前回のトゥヴァ旅行でも前々回の日帰りクルガン見物にしても、スラーヴァのロシア語が一度では理解できないことが多かった。前回は、同行のディーマにスラーヴァのロシア語からディーマのロシア語に通訳してもらったくらいだ。早口と言うより、きっと、言葉の選び方と文の構造が自分流なのだ。状況が理解できないと母国語でも理解できないことがあるではないか。母国語を話す相手にでも、わかりやすく話すことが必要なのだ。ましては、外国人に対しては、わかりやすく話せるロシア人と、話せないロシア人がいる、と思う。スラーヴァは私がロシア人のようにはロシア語がわからないこともあるということをいつも忘れて話すし、私も「わからない。わからない」と繰り返してスラーヴァを悩ませるのも遠慮したので、理解しないまま会話が進んで終わることも時々あった。私が理解したかどうかということに気が回らない。そのくせ、私がよくわかった時に限って、私の知らない単語を使ったのかと、聞き返す。いや、専門用語というのは単語としてわかりやすいのだ。私がわかりにくいのは個々の単語ではない。文の構造なのだ。ロシア人の中にはいくら早口でも、とてもわかりやすく話せる人もいるのに。
 結局18日間の付き合いの間に私はスラーヴァのロシア語に慣れ、彼も私のロシア語に慣れて、お互いに理解できやすくなったが、それをスラーヴァは私が短期間でロシア語を上達させたからからだと言う。いくつかの単語を新たに覚えたかもしれないが、上達したわけではなく、スラーヴァのしゃべり口に慣れただけなのだ。言語と言うのはダイナミックだなあ。
 ツェリンニィ村の『侍』に関しても、シーラ湖近くの薪売りに関しても、水浴びする古代人に関してもスラーヴァのロシア語を一発で理解できたわけではなかった。スラーヴァによると、
「タカコさんは僕から無料のロシア語の授業も受けていることになる」のだって? 
「じゃ、無料の授業はしてくれなくてもいいから、日本語でガイドしてちょうだい」。こういうロシア語の会話は一発でわかるのだが。
 コサック前哨隊村
 次の集落はソレノオジョルノエ村(ソリは塩、オーゼロは湖)といって、近くにトゥス湖がある。紀元前後のタシュティク文明の岩画もこの湖の南西岩場に残っている。とんがり帽子をかぶり、戦闘斧を持った人物、タンバリンと矢を持ったシャーマン、馬に乗ってノロジカの狩の場面などの打刻画が多いと旅行案内書にはある。また、ネットで買った10万分の1の地図には、トゥス湖の周囲に『古代遺跡』マークがたくさんついている。
トゥス湖群のひとつの小さい水溜り
今のソレノオジョルノエ村

 トゥスはハカシア語で塩という意味だ。つまり、湖名トゥスはハカシア語で、村名ソレノオジョルノエはロシア語で2カ国語で同じ意味を言っているのだ。トゥス湖の塩分は、その年の降水量によるが、最も濃いときで(1927年)、1リットルあたり297グラムという高濃度だと、資料にある。
 だか、村名までも塩の湖(サレノオジョルノエ)と呼ばれるようになったのは革命後で、以前はただフォルポストといった。フォルポストとはコサック(ロシア帝政時代のロシア人半農武装集団)の前哨隊のいる村(駐屯地)のことだ。ピョートル1世時代、国有財産のトゥス湖での塩採取業の護衛のために、このコサック前哨隊村(フォルポストoutpost)が作られた。19世紀までハカシア盆地の人口の大部分はハカシア人だったので、このフォルポストのコサック兵たちもハカシア化していったそうだ(1926年でも45%はハカシア人。ところが2002年はたった12%)。
 さて、皇帝への忠誠を誓った(と、たいていの歴史の教科書に書かれている)コサック兵たちは、ロシア10月革命後の内戦のときには反革命側の強大な軍事勢力を形成し(と歴史の教科書に)、各地で赤軍と大規模な戦闘を繰り広げたそうだ。このコサック村出身の頭目ソロビヨーフも内戦の1920年から24年に、地元のコサック反革命軍を率いて、赤軍と戦ったのだ。頭目ソロビヨーフの隊は多くて650人くらいで半分以上がハカシア人だったというが、当時は地元の赤軍を悩ますには十分だったらしい。

(備考)ちなみに、ソロビヨーフはロシア人だがハカシアの隠れた民族英雄でもあるらしい。コザック・ハカシア(連合)一揆軍頭目のソロビヨーフと戦った赤軍には、後に児童文学作家として有名になったガイダールがいる。1978年、赤軍軍事委員コミッサール(政治将校)ガイダールを主人公とした『革命』映画が作られた時、多くのハカシア人がエキストラとして雇われた。そのうちの年配のハカシア人は映画の筋書きには不満だったそうだ。彼らにとっては敵役のソロビ゙ヨーフこそが英雄だった。
 ロシアの政治家で経済学者で、エリツィン時代前期に首相代行、第一副首相などを歴任したエゴール・チムロヴィッチ・ガイダールは、その政治将校で児童文学作家ガイダールの孫。

 しかし、サレノオジョルノエ村を通っている時、スラーヴァのロシア語から私が理解したのは「これはコザックの村だ、トゥス湖は高濃度塩湖だ」というだけで、あとは、帰国後調べたロシア語版ウイキペデアなどによる。
 ネットのそのページには出ていなかったが、一揆軍ソロビヨーフと赤軍との戦場跡地というのはスレーク岩画遺跡の近くにもあって、後日そこへ行ったとき、ソロビヨーフの名を挙げて説明していたのはスラーヴァではなく、たまたま同時に来ていた別の団体のガイドだった(それを横から聞いておいて記憶にとどめておいたのだ)。
 シベリア鉄道南支線の町コピヨーヴォ
 シーラ湖やツェリンノエ村やサレノオジョールニィ村も通り過ぎて、アバカンからは242キロも来たところが、オビ川の右岸支流チュリム川(1800キロ)に面している人口5千人のコピヨーヴォ町で、シベリア幹線鉄道アーチンスク駅から分かれて南シベリアのアバカン駅を結ぶ460キロの支線が通る中間駅の村として1920年できた。ちなみに、シベリア幹線鉄道の方は西から、つまりウラル方面から(ひいてはモスクワから)、順番にでき、アーチンスク駅もでき、クラスノヤルスク駅までは1898年、その先のイルクーツク方面へは翌年開通した。一方、アバカン駅までの支線が開通したのは1926年で、コピヨーヴォ駅は1927年にできた。コピヨーヴォ町の近くに有名なスレーク岩山の岩石画がある(上記)。スラーヴァの予定表では別の日に行くことになっているから、ひとえに通り過ぎた。
ガソリンスタンドから見たコピヨーヴォ

 岩石画があると言うことは、ここにも古代人が何世代にもわたって住んでいたということで、道の両脇や、遠くにもクルガンが点在している。だいたい、ハカシアで古代人が住んでいたという跡がないところはないらしい。クルガンの立石が時とともに埋もれてしまったり、ソ連時代にソホーズの牧草地を作るためトラクターで均されてしまったりして、今、跡が見えないようなところでも、大小の川の河岸段丘や、牧草地の近くや、何よりも特に景色のきれいなところには必ずあるのだ。
 コピヨーヴォ村で給油した。これから先、片道110キロはあるが燃料補給施設はないらしい。輸入日本製中古車(昔はステータス・シンボル)だと信頼のおけるガソリン・スタンドで、どこにでも必ずあるとは限らないオクタン価の高い『96』とかの燃料を入れなければならないが、そこはニーヴァ。この車に合うガソリンはどこにでも売っている。たいていのガソリン・スタンドはオクタン価92(値段は1リットル22ルーブル前後)、オクタン価80(17ルーブル前後)、ディーゼル(18ルーブル前後)は売っているのだ。ニーヴァはこの80という一番安いのでいいから、ガソリン代を受け持つ私としては助かる。燃費はどうか知らない。無鉛でもない。
 コピヨーヴォ村を過ぎて鉄道に沿ってさらに北へ行くと、すぐクラスノヤルスク地方のウジュール村にでる。ちなみに、この近くに昔『ウジュール4』という暗号名で呼ばれ、今は『ソールネチヌィ(太陽の)という明るい名前の軍事ロケット基地がある。
沼地に群生するジャルキ(キンバイソウ)
 しかし、私たちは西のケーメロヴォ州との境のクズネック・アラタウ(クズネックまだら山脈)のほうに向かう。だから、道は登っていき、山々が迫り、舗装もなくなり、人気もなくなり、景色はますます美しくなっていった。スラーヴァによると、この辺はいつでも雨がちだそうだ。確かにコピヨーヴォを過ぎる頃から低い黒雲が目立ってきた。道端には湿地に群生するジャルキのお花畑が見える。車を止めて写真を撮らずにおられない。
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