クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
              Welcome to my homepage

home up date 2009年12月27日  (校正,追記: 2010年4月1、2012年1月20日、2018年10月3日,2019年11月28日、2021年8月1日、2022年7月13日)
26- (4)   南シベリア古代文明の中心ハカシア・ミヌシンスク盆地
(4)トゥイム、ベリョ湖
           2009年6月22日から7月14日(のうちの6月26日から27日

Древная культура в Хакасско-Минусинской котловине( 22.06.2009-14.07.2009 )

ロシアへの招請状を都合してビザを入手し航空券を手配する 『古代ハカシア』旅予定表 ハバロフスク経由クラスノヤルスク はじめからアバカンへ飛べばよかった ハカシア共和国首都アバカン 石炭の町チェルノゴルスク
ロシア製小型ジープ『ニーヴァ』 ハカシア北部へ 古代人をも魅せたシーラ湖群 ガイドのスラーヴァ コサック前哨隊村 シベリア鉄道南支線の町コピヨーヴォ
旧サラーラ郡、昔の金鉱町 厳かなイワノフ湖 村おこし スレーク岩画 ハカシアのメソポタミア (ハカシア盆地古代史略年表)
トゥイム崩落 『トゥイム・リング』、シーラ湖畔に泊 淡水と塩湖のベリョ湖 チャルパン残丘の遺跡 クルガン草原を歩く 淡水湖イトクリ湖
タルペック山麓クルガン 古代天文観測所スンドーク 白イユース川山地の洞窟地帯 『9個の口』洞窟 小さな『贈り物』村の旧石器時代遺跡 シュネット湖とマタラック湖
2千年前の生活画バヤルスキー岩画 コペンスキー・チャータース 『アナグマ』荒野の大クルガン 大サルビック・クルガン 沈みきれなかったクルガン 自然保護区オグラフティ山
ウイバット川中流の香炉石 エニセイ文字発見記念 ウイバット・チャータース サヤン・リング民俗音楽祭の評判 レーニンもいた南シベリアの町 サヤン・リング会場
アバカン郷土博物館 ハカシア伝統民族祭『乳祭』 カムィシカ川 ビストラヤ山岩画 アバカン見物
ハカシア炭田 『チャルパン露天掘り』発掘 サヤノゴルスク市と巨大発電所 『旧アズナチェノエ渡し場』発掘 聖なるスハニハ山 新リゾート地パトラシーロフ林
10 『チャルパン露天掘り』その後の発掘 岩画公園のポルタコフ村 サフロノーフ村のクルガン丘 鉄道分岐駅アスキース町 遺跡・自然保護区『カザノフカ』 旅の終わり

 トゥイム崩落
かつての坑道
トゥイム有色金属加工工場
かって建てられたアパート群(今住人はいるのか)
トゥイム町の通り
トゥイム町外れ、鉱山の近く
トゥイム崩落(山影が濃い)
見晴台から安全に水面を見物できる
 シラー村(1957-2008はシラー町だった)の近くの交差点まで来たのは6時半も過ぎていた。左折してシラー湖のほうへは行かず、直進してトゥイム町の幽霊のような工場跡が見えてきたのは7時ごろだった。(地図)町の入り口から見えてくる『トゥイム有色金属加工工場』が稼動しているのかどうかわからない。倒産して資産が押さえられたと新聞に載っていた(ネットで見れる古い新聞)。新しく資本投下されて再建されつつあるのかもしれない。
 工場群を通り過ぎて町の中に入ると、ソ連時代に計画的に作った工場城下町らしく5階建ての集合住宅などがあるが、金山のプリイスコーヴォ村のように寂れている。
 トゥイム町はアバカン市から190キロの道のりで、ハカシア盆地の端の山際にある。ということは鉱山が近くにあるということだ。トゥイム町も、もちろん鉱山のためにつくられた。その鉱山の陥没湖が有名なトゥイム崩落で、町から1キロ半のところにあるそうだ。
 目的地を探して町を通り過ぎると農家の家並みに移る。他のシベリアの地では見かけるそれなりの家構えの農家を、ハカシアではあまり見かけない。スラーヴァが車を止めて、トゥイム崩落へはどう行ったらいいのか、と近くを歩いていた村の男性に聞く。シベリアの辺鄙な村々の住民を見るたびに私は憂鬱になる。スターリン時代は農民はパスポートも支給されず、だから移動の自由もなかった。農村と都市の生活水準の差は極端に大きい。そして、たいがいの農村ではペレストロイカ以来(以前も)、不景気なままだ。
 しかし、彼らは、実は外見はともかく、内部は住みよい家に住み、もしかして、充実した生活を送っているのかもしれない。(「いや」とディーマは言う、「彼らはみんなアル中だ」)。
 有名な観光地といっても行き着くまでの山道はひどいもので、まあ、これがシベリアだが、「車がまた壊れるとやばい、先は長いのだから」と心配しながら元鉱山と言う山へ上って行った。やがて、スラーヴァが着いたというので車から出てみると、売店小屋が1軒建っていて、クラスノヤルスク・ナンバーの車も数台止まっている。できたばかりらしい柵には『領域内入場は有料』と大きく書いた看板が下がっている。
 この地区の官僚が、『エコロジー観光シベリア社』とか言うところにこんな柵をめぐらす許可を出したらしい。『少し前までは、希望者は誰でもトゥイム崩落に行って無料で見物できたのに、なぜ突然有料になったかを説明する書類が、入場料金所小屋に用意されている』そうだ(『クラスノヤルスク・ラボーチー』誌による)。
 入場料の30ルーブルを二人分払って入ると、新しいが粗末で急ごしらえの見晴台があった。スラーヴァによると、その観光会社が見晴台をつくったので、安全にトゥイム崩落を見ることができ、さらに(ぼっとん)トイレ小屋も作ったので有料になったのだとか。確かに、この見晴台に立つと、120mも垂直の壁の下にある緑色の湖水を、さして命の危険なしに見渡せる。これを作る前は転落した観光客もあったとか。しかし、『クラスノヤルスク・ラボーチー』誌の記事のとおり、だからといって誰のものでもない自然物を有料にしなくてもいい。

 この一帯では、19世紀末から銅を採掘していたが、1930年代には『トィイム・タングステン』工場が作られ、銅、鉛、ウォルフラム鉱(タングステン原鉱)、モリブデンなどが採掘された。ここで採れる灰重石ウォルフラム鉱とか言う鉱物を入れた鋼鉄から、防弾外装の当時の最強戦車『T−34』とか言うのがつくられる。だから、この町は1950年代初めから戦略的重要地区として、全体が外部から閉鎖されていた。これは、スラーヴァも説明してくれたし(そのときは半分しかわからなかった)、サイトにも載っている。つまり、ソルジェニーツィンの『収容所群島』にも言及されている悪名高い『トゥイム収容所』というのがここで、当時2万5千人の政治犯たちが働いていた。囚人たちが鉱山の近くに技術者のためのトゥイム町を作り、町のエネルギー源の火力発電所を作り、鉄道の引込み線や、工場を作った。1950年代初め、ほんの2年ばかりの間に、山の斜面いたるところに囚人のラーゲリ小屋が、文字通り散りばめられたようにできた、そうだ。
 そして、鉱山は1953年には爆破で坑道を作りはじめ、数年後には、山は『蜂の巣のように穴だらけ』になった。すでに1954年には直径6mくらいの陥没した穴ができていたが、61年には70mに広がったそうだ。74年には崩落の危険が高まり鉱山は閉鎖された。ついに、91年の『微震』のときには直径が200mも開いてしまった、と資料には書いてある
 今、大きな裂け目の底に、緑色の水をたたえたおとぎ話のような美しい湖ができ、リゾート地シラー湖から15kmと言う近場の観光地のひとつとなっている。しかし、この神秘な色の湖のでき方を知ると、美しいどころか不気味になってくる。蜂の巣のようになった『噛み傷だらけの』山ひとつが、『鉱坑測量士の計算間違い』で崩落したということも。 
 一番高い地点に登るのは
 見晴台に立ったとたん、高さ数十メートルのほぼ垂直に切り立った岩肌に囲まれた谷底にエメラルド色の水面が見え、美しさにはっと息を呑む。正面には高さ120mもの恐ろしい岩肌が見え、はるか下を見るとその岩肌を映し出した緑の湖面が妖しく見える。このときは、晴れた日の夕方だったので明暗くっきりと絶壁の影が映っていた。横のスラーヴァが、
「ほら、絶壁のところどころに青色の筋が見えるだろう。あれはまだ残っている鉱物だ。穴も見えるだろう、あれは坑道痕だ」と説明してくれる。今でも水に浸かった坑道や、トロッコの線路や梁の丸太が残っていて、水面近くまで降りて行くと見えるそうだ。鉱山の入り口は陥没地の外側に残っている。坑道ツアー、つまり洞窟探検ツアーも地元のガイドがやっているそうだ

 湖の深さは50mと言う。ここにアクアラングをつけてもぐり、坑道を探検したり新しくできたかもしれない水中洞窟や水源を探ったりする冒険家グループもいて、ドキュメント映画になっている。断崖の頂上から、向かい側の断崖の頂上へ百メートルもぶらさげたロープを揺すって飛び移るようなことをロシア語で『ターザンする』と言うそうだが、その冒険ドキュメント映画もある。(バンジージャンプは垂直に飛ぶ,ターザンするは水平だ)。これらはDVDになって、入り口の売店で売っている。200ルーブル(700円)と観光地にしてはあまり高くないので買って、家に帰って再生してみたが、品質は驚くほど劣悪だった。再生できただけでもいいか。
 柵をめぐらせて入場料を取れる許可を得た観光会社は売店のほかにも、内職をやっている。柵は観光客が絶壁から落ちないようにもめぐらせてあるが、そこに抜け道があって、特別料金を払うと、柵の外側に出してもらえるのだ。つまり危険を味わうことができる。それだけではなく、見晴台のちょうど向こう側にある断崖絶壁の真上の一番高いところまで案内もしてくれる。そこからは何の障害もなく120mも真下の水面が見渡せる。(ロシア人に言わせると「アドレナリンが出てきて気持ちいい」そうだ)。もっと、面白いこともさせてくれる。そこから大きな石を湖面に投げるのだ。これは痛快だろう。一方、見晴台に立っている私たちには入場料以上は払わず、危険も犯さず、石が湖面にゆっくり(と感じられる)大きな音を谷底に響かせて落ち、広い波紋が広まる様子を動画に撮れると言うものだ。おまけに、何個も石を落としてくれたので一度目は撮るのに失敗しても2度、3度と撮れた。あまり離れているので、石を落とす瞬間は私には見えない。でも視力正常のスラーヴァには見えるようだ。だが、スラーヴァのカメラは1度目で電池切れになってしまった。私は、今回の旅に予備電池を3個、メモリスティックを4枚合計12ギガバイト分持っていったから、普通は3メガ程度の静止画しか撮らない私には万全だ。そのことをスラーヴァに言うと唖然としていたが、ロシアだって大都市ではメモリスティックはかなり安くなっているはずだ。
 『トゥイム・リング』。シラー湖畔のデイ・マンションに宿泊する
リゾート地シーラ湖から近いので観光客もいた
トゥイム・リングの一部
トゥイム・リングにある石棺
 トゥイムの観光は、この測量ミス湖だけではない。トゥイム・リングと言うオクネフ時代の遺跡がある。シラ―村からトゥイムまでは1本道なので、来るときに通り過ぎていた。スラーヴァ流の見物順位法によると、遠いところから見て、帰りに近いところを見るのだ。トゥイム・リングは、トゥイム町からシラーへ8キロ戻ったところの道路のすぐ傍、なだらかな丘陵の、斜面が平たくなった見晴らしのよいところにある。
 『西ヨーロッパやスカンジナヴィアのストーンヘンジから、こんなにも離れているここハカシアに、規模は小さいが類似のものがあるとは! いくつもの巨石が直径84mの円形に並び、その回りを四角に石が囲んでいて、真ん中に石棺があり、女性と二人の子供が葬られていた(1970年代発掘調査)。大きな石が4個立っていて東西南北を示している。石棺から東の石柱に小石でかたどった道ができている』と、これは数種類の旅行案内書や、サイトからまとめ書きしたものだが、実際にはこんな風には見えなかった。石棺はあったし、小石でかたどった象徴的な小道もあったし、大小の石柱が立っていたり寝ていたりはしていたが、ストーンヘンジと言うほどでもなかった。
 これは、実は、戦略的重要工場トゥイムへの道路を作るとき、かなり破壊されてしまったからなのだ。今あるのは、その片隅と道路予定地から移した石なのだ。『しかし、古代の霊気とエネルギーはこの地に残っている』などと、一部旅行案内書には付け加えてある。
 これらすべては、帰国後に調べてわかったことで、スラーヴァと一緒のときは、実はさっぱりわからなかった。スラーヴァは、「これは、オクネフ時代のものだ」と言ったあとは、自分で写真を撮っているだけだった。スラーヴァの『おかげで』私を撮ってもらう事もできた。これは同行人スラーヴァがいてよかったことだ。ほかのツアー客も来ていたが、場所が広いので、そのツアー・グループのガイドが話していることは聞き取れなかった。

 この日、6月26日(金)はリゾート地シラ―湖の近くで宿泊することになった。シラーからアバカンまでは268キロもあって、スラーヴァの車で一度帰ってまた出かけてくるには、かなり遠い。シラー湖の南岸には、夏だけ人口が膨らむジェムチュージニィ(真珠)とかカロデーズニィ(井戸)とかいう宿泊村がある。ここに宿屋、貸しアパート(普通の住居で、シーズン中だけ数部屋または全部を貸し出す)、バンガロー小屋が集まっているのだ。スラーヴァの知っているバンガロー小屋は、行ってみるとすでに閉鎖されていたが、建設中のデイ・マンションを見つけた。1階部分は内装が終わってないが2階はもう宿泊できる。今はシーズンのちょっと前なので一人250ルーブルだとシラー地区にしては超安値を、1階工事を監督しているオーナーに言われて、スラーヴァとそこに決めたのは、日は高かったがもう9時半だった。
ワンブロック1700円のディマンション
 湧き水

 外の階段から上って行くと玄関のようなテラスがあり、屋内に入るとすぐにダイニングキッチン。その周りに部屋が3つ付いていて、一部屋にベッドが2台ずつ置いてある。つまりワン・ブロックに快適に6人住めることになっていて、台所や外のテラスにも予備のベッドがある。シーズン真っ最中でもなく、湖から少し離れているせいか、ほかに泊り客はいなくて、このブロックのダイニングキッチンを独占できた。これで二人500ルーブル(1700円)とは安い。荷物を置くと早速ニーヴァでカロデーズニィ村の店に行き、食料を買ってきて(と言ってもインスタントに食べられるものと、あとはきゅうりとトマト)、昨夜の車中食より豪華に夕食を済ませたのは、もう11時ごろ。食器のほかに、ポットも冷蔵庫も、台所洗剤すらそろったまあまあのデイ・マンションだった。これで、トイレの鍵が壊れなくて、シャワーがついていれば、日本にいるような気分だった。このタイプの2階建ての家が3軒ほど並んでいて、まだ一部工事中だが、出来上がった部分から営業をはじめている。敷地内の3軒ほどの泊り客(2階建て1軒に12人強、フル稼働で40人弱か)のためにひとつの蒸し風呂小屋があり、工事の人が先に入ったのか、夜かなり遅くなってから私の順番が回ってきたので入った。これもまあまあだった。
 このデイ・マンション群の泊り客は1軒の蒸し風呂小屋を利用できるばかりではなく、近くに湧き水もあって、そこからペットボトルに水を汲んでおけば、この先の道中の美味しい飲み水にもできるのだ。湧き水の一部は家々の台所へホースで引いてあるが、引ききれない水はそのまま水溜りを作り、小川になって、低いところへ流れている。そのうち地面に沁みこむのか。スラーヴァは、手持ちのペットボトル全部をその湧き水で満杯にした。
 淡水と塩湖のベリョ湖
シラー区の湖群
 北ハカシアのジリム草原は、『薬効の湖の里』といわれているくらいミネラル豊富な大小の湖が多い。シラ―湖はその中でも古く、110年も前、トムスクの大商人によってはじめの保養センターが作られ、ソ連崩壊後、夏場用貸しマンション、店、カフェも多くなった。つまり、観光インフラが比較的発達しているが、ほかの湖畔は、最近ようやくバンガロー小屋や、テント村ができたばかりなので、まだ、数年は自然が残っているだろう。

 半砂漠のようなジリム草原の低い丘陵や浅い谷を縫ってニーヴァで向かったのは、シラ―湖から20キロのハカシアで一番大きいというべリョ湖だ(78平方キロの支笏湖よりやや小さい)。二つに分かれていて、狭い水道で結ばれているが10年ほど前から、水位の低下のせいか、二つに切れかかっているそうだ。が、完全に分離した訳でもない。水面の高さがやや高い西側のベリョ湖にはトゥイム川が流れ込んでいて、狭い水道を通ってやや水面の低い東側のベリョ湖へ流れ出ているそうだ。だから、トゥイム川の流れ込む西側ベリョ湖はほぼ淡水で、流出口のない東側ベリョ湖は弱塩水だ。10年ほど前から、二つの間の水道の流れが弱くなっているので、西側湖から水道の部分に無機質たっぷりの泥がたまってきているそうだ。ちなみに泥治療はロシアではポピュラーだ。
 西側と東側のベリョ湖の間が泥でふさがれたというその泥の上を通って、近道して向こう岸へ渡ることができる。スラーヴァによると、通行止めか、または通行は有料なのだそうだ。ここまで来て、多分、数百円程度は惜しくないから、先に進もうと促す。
 しかし、柵は開いていて、番人もいなかった。ベリョ湖の向こう岸は自然保護区、つまり、禁猟禁伐採地区、許可なしでは立ち入れないことになっているが、一部湖岸は保護地区に入っていない。貸しアパートも建ちつつある。だから柵が開いていたのか。
 チャルパン残丘の遺跡
残丘中腹のテラスから西側ベリョ湖
チャルパン残丘
東側ベリョ湖からチャルパン残丘を望む
(旅行案内書から)
残丘中腹のテラスから東側ベリョ湖
 ベリョ湖の周りのジリム草原は、起伏はあまり大きくはないが、ベリョ湖の向こう岸にチャルパンЧалпанというハカシアの考古学関係の本によく出てくる小さな岩山(586m)がある。ふもとは岩の間にも草が生えているが、中腹以上になると岩だらけの残丘だ。アスタネーツ(残されたもの)といって、この盆地ばかりでなく私が回った南シベリアのいたるところにある。残丘とは『侵食から取り残されて、準平原の上に孤立する一段高い丘陵。モナドノック』と辞書にある。
 このアスタネーツはふもとからは、あまり高くないように見える。中腹のあたりには垂直のむき出し岩場があって、そこに岩画があるという。もちろん上ってみることにしたが、下から見るほどは容易ではなかった。前日のイワノヴィ湖群は傾斜のゆるい山にあるが、アスタネーツは小さいが急なのだ。目的地の岩場がすぐ上に見えるので、スラーヴァは早足で上って行く。彼にとっては一息の距離なのだろうが、私にとってはそうではない。
 上がるごとに景色が美しくなっていくので、休憩をかねて立ち止まっては写真を撮り、息を継いだ。中腹近くになるといよいよ急になって、手も使って息も切らしながら上っていった。実は、スラーヴァは登山や洞窟探検が趣味と言う。そうでなくとも、(ロシア人の男性は)強健だ。時々立ち止まって、私が追いつくのを待っている。やっと追いついたところで、すたすた先に行ってしまう。こうして、急がされたので20分くらいで、一つ目の垂直のむき出し岩場の前に着いた。この先の垂直の岩場はそのまま上るのが難しいので、スラーヴァに、ここで待っているようにと言われる。脆弱で足手まといな私をひとまずテラスのようになっている岩場で待たせて、身軽に岩場を回り、打刻画のある場所を探し出して、私を案内するというわけだ。岩画は遠くからではわからない。大体の場所を知っている人が岩場の間を探し回らないと見つけられない。スラーヴァも時々わからなくなって、知り合いの考古学者に携帯をかけて聞き出したりしていた。
 ちょうどいいので呼吸を整えながら、はるか下方に西側と東側のベリョ湖が一目で眺められる絶景の場所でスラーヴァを待っていた。やがて戻ってきたスラーヴァは、私でもよじ登れる岩壁の道を見つけて、ハカシアで唯一だという魚の打刻画のところまで案内してくれた。これも、やはり現代人の落書きに覆われてよく見えない。私にはゲンゴロウのように見えた。このチァルパン残丘には、紀元前2千年紀のものから紀元後8世紀のものまで5箇所ほど岩画が残っているそうだ。スラーヴァが見つけたのは1箇所だけだった。あとのは、見つけられたとしても、さらに険しい岩場にあって、私にはよじ登れないだろうというので、これ以上は進まない。古代人はスポーツマンだったのだ。こんな岩壁なんか平気で上ってきて、おまけに、石器だか青銅器だか鉄器だかで岩肌に打刻画まで残している。そして、例外なく美しい景色の場所だから、これら打刻画の周りで古代人も祭祀を行うのは気持ちがよかったに違いない。
 魚の打刻画というが
 ちなみにチャルパン残丘の『スベ(石の要塞のような建造物)』も有名だ。『スベ』は残丘のあるような山や丘に多いのだ。チャルパン山はベリョ湖に面している南と東の方向は険しく、反対側は緩やかで、広く平らな頂上部分全体が、古くから知られている『スベ』だ。ここも、以前は中世キルギス人の要塞とされていた。キルギスの英雄の伝説さえもある。高さ1mくらいの『スベ』の石垣は北側と西側に築かれている。広さは南北が60m、東西が380mだ、とハカシア大学ゴトリプ準教授の論文にある。
 チャルパン山の頂上には上らなかった。ベリョ湖側からは険しくて上れない。
 中腹のテラスまでで十分だ。魚の打刻画のある岩壁前のテラスで、おにぎりでも食べてゆっくりしたいくらいだが、今日の観光予定地は、ベリョ湖ばかりではない。ジリム草原の『薬効のある湖』をさらに見るために、先へ進むことにした。
 岩壁は上るのも大変だが、降りるのはもっと大変だ。ふもとに長く伸びる岩だらけの草原も、登るときは心臓がパクパクするが、降りるときは膝ががくがくする。下りなのに慎重に石をよけて歩いている私を見て、スラーヴァは「こんな坂道、転げ落ちて行って、下についたら、ぱっぱって服に着いた草くずを払えばいいさ」だって。ユーモアがあるなあ。
 クルガンの草原を歩く
丘の上からはベリョ湖も見渡せる。
左の棒は地理協会の三角錐の足の一本
シーラ湖畔のクルガン草原
クルガンには打刻画のある石もある
 ニーヴァに戻り、次の目的地のシラー地区の別の湖、スラーヴァに拠れば、「たとえば、イトクリ湖かシュネット湖かマタラック湖」にむけて出発する。だから、もと来た道を戻って行った。例によってスラーヴァの予定表では遠いところの観光から始まるのだ。
 シラー町周辺は点在するクルガンの草原の中に、舗装道路がくっきりと通じているのだ。舗装道路に面しているカロデーズニィ村では古代遺跡の石柱の隣や、それどころか、クルガンの上に家が建っていることだってある。この道路の下にもクルガンとか石柱があるに違いない、と前日も、前々日も、この辺を通るたびに思った。
 そんな時、ニーヴァを突然道路わきに止めて、スラーヴァが
「ガソリン切れだ」と言う。「予備ガソリンは積んでないの」と、経験者の私。積んでないので、トランクから10リットル用のブリキ缶を取り出すと、
「少し向こうのカロデーズニィ村の交差点にスタンドがあるから、入れてくる」と言う。歩いて行くには遠すぎるので、通行中の車を止めて乗せてもらう。
 それで、スラーヴァが戻ってくるまでの間、私は車から出て、周りのクルガンの写真を撮っていた。今までは、いつも走る車の窓から撮っているばかりだったので、やっと静止してアングルを定めて撮れることになった。
 スラーヴァは帰りの車もすぐ見つかったといって、10分後にはもう戻ってきた。しかし、先へ行こうとするスラーヴァに
「クルガンの群がる草原を心いくまで歩き回りたいというのが、私の念願なの」と言わずにいられなかった。それで、クルガンの比較的かたまっている道路の近くで車を止めて、ハカシア晴れの草原の中を1時間半も歩き回ることができたのだ。この辺はタガール時代のクルガンが多い。
 こうして、やっと、クルガンを入れた遠景や接写写真を撮ることができ、一つ一つの石に触ったり座ったりできたわけだ(この後、クルガンの石にはいやというほど触れたが)。スラーヴァはスラーヴァで打刻画のある石を探していた。タガール時代人が自分たちの墓石に打刻したとは限らなくて、その前時代人が別のところで打刻した石をタガール人が持ってきて、自分たちのクルガン用の石にしたという場合もある。手間を省いたからではなくて、考古学の本に拠ると、前時代人を駆逐して自分たちの時代になったことを示すためだそうだ。
 ハカシア盆地の中でも、ここはクルガン集中地帯のひとつだ。古代人も水浴びしたに違いない(と私が思う)シラ―湖周辺は、現代人にも人気があって、村や道路ができてしまった。『せめて、道路ぐらいは高架橋にすれば、クルガンを壊さずにできたのに』と冗談のように書いてある旅行案内書があるが、橋げたなしの高架橋のつもりだろうか。
 この古代人も好んだ美しい地に、せめてそんなものがないおかげで、遠くの丘まで続くクルガンの草原、丘の向こうまで続くだろう草原が見渡せる。草原だって、それなりに草原らしく草の生えている部分や、岩肌がむき出ていて草も生えられない部分や、勿忘草なんかの咲き乱れている一角などがある。また、全ロシア地理協会が荒野に立てる高さ3mくらいもある粗末だが頑丈そうな三角錐型の目印などもある。この三角錘型は時々見かけた。低地にあったり、丘の上にあったりするのは、きちんと何キロかごとに方向と距離が計られて立っているからなのだろう。集落も鉄道も道路もないところにも地理上の目印が必要だ。
 丘のひとつに登ってみると、向こう側は湖だった。別の丘の向こうはまたクルガンが広がるステップ(草原)だそうだ。
 「念願」をすっかりかなえたと言うわけでもないが、限がないので、車に戻って出発した。時計を見ると3時半だ。
 遠くにシラー村も見えるクルガン草原の一角
 淡水湖イトクリ
イトクリ湖(車が入れないように溝が掘ってある)
シラー湖畔『繁華街』
 十字路が1個だけあるシラー湖畔『繁華街』で食事して出てみると、4時半も過ぎていたが、まだまだ日は高い。道路の南側にあるイトクリ湖のほうへあがってみる。湖はどれもどこかの丘の向こう側にあるのだ。丘で囲まれた低地が湖なのだ。そして、たいていは流出口がないので塩湖だ。だが、イトクリ湖はシラー湖より湖面が100mも高く、3本も川が流れ込み、1本が流れ出ているので、珍しく淡水湖だ。それどころかハカシアで一番きれいだと言うので、この辺の村の生活用水や飲用水にもなっている。だからなのか、西北の一部地域を除いて自然保護区で、キャンピングも車の乗り入れも禁止だ。私たちは丘の上から眺めただけだった。もちろんこんな絶好地を古代人が見逃すはずはなく、周辺に遺跡がたくさんあるのだが(それを後で知った)、スラーヴァは一箇所も寄ってくれなかった。あるとも言ってくれなかった。スラーヴァはシュネット湖かマタラック湖を探して丘陵草原の中、ニーヴァを必死に運転していたのだ。ナビゲーション装置を付ければいいのに、とは思わない。GPSはあってもそれに合う地図を映し出すソフトがないのだろう。『道』を示すナビなら、シベリアの道は1本道なので必要ない。携帯のほうは、最近カヴァー範囲が広くなったので、スラーヴァはいつもこれを使って知り合いに聞いている。
 草原には道はないが、タイヤの跡があって、どの程度草を抑えているかで使われている通路かどうかわかる。タイヤ跡は次第に消えることも多い。丘陵だったのでニーヴァはつらそうだった。通りかかる車もいないこんなところでエンストすると牽引もしてもらえない。結局は別の日に別のルートで行くことにして、この日は引き上げることにした。5時半になっていたし、2晩も家に帰っていなかったのでサーシャやマリーナも心配しているだろう。
 2日前に通ったヴラシエボヴォ村とボレーツ村、それから道路のすぐ横にごみ放棄場のあるボグラッド村を通り過ぎ、チェルノゴルスクの家に送ってもらった。マリーナに勧められてスラーヴァは私と一緒にマリーナの作ってくれた夕食を食べ、この3日間の成果を長々と話して、夜遅くなってから引き上げていった。本当は、早く帰って車の整備でもしてほしいと思ったのだが。
HOME ホーム BACK 前のページ ページのはじめ NEXT 次のページ