クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 2009年12月27日  (校正・追記: 2010年1月14日、2010年2月14日、2012年1月20日、2014年11月12日、2018年10月4日、2011年11月29日、2021年8月3日、2022年7月14日)
26-6  南シベリア古代文明の中心ハカシア・ミヌシンスク盆地
(6)エニセイ左岸遺跡
           2009年6月22日から7月14日(のうちの6月30日から7月1日

Древная культура в Хакасско-Минусинской котловине( 22.06.2009-14.07.2009 )

ロシアへの招請状を都合してビザを入手し航空券を手配する 『古代ハカシア』旅予定表 ハバロフスク経由クラスノヤルスク はじめからアバカンへ飛べばよかった ハカシア共和国首都アバカン 石炭の町チェルノゴルスク
ロシア製小型ジープ『ニーヴァ』 ハカシア北部へ 古代人をも魅せたシーラ湖群 ガイドのスラーヴァ コサック前哨隊村 シベリア鉄道南支線の町コピヨーヴォ
旧サラーラ郡、昔の金鉱町 厳かなイワノフ湖 村おこし スレーク岩画 ハカシアのメソポタミア (ハカシア盆地古代史略年表)
トゥイム崩落 『トゥイム・リング』シーラ湖畔泊 淡水と塩湖のベリョ湖 チャルパン残丘の遺跡 クルガン草原を歩く 淡水湖イトクリ湖
タルペック山麓クルガン 古代天文観測所スンドーク 白イユース川山地の洞窟地帯 『9個の口』洞窟 小さな『贈り物』村の旧石器時代遺跡 シュネット湖とマタラック湖
2千年前の生活画バヤルスキー岩画 コペンスキー・チャータース 『アナグマ』荒野の大クルガン 大サルビック・クルガン 沈みきれなかったクルガン 自然保護区アグラフティ山
ウイバット川中流の香炉石 エニセイ文字発見記念 ウイバット・チャータース サヤン・リング民俗音楽祭の評判 レーニンもいた南シベリアの町 サヤン・リング会場
アバカン郷土博物館 ハカシア伝統民族祭『乳祭』 カムィシカ川 ビストラヤ山岩画 アバカン見物
ハカシア炭田 『チャルパン露天掘り』発掘 サヤノゴルスク市と巨大発電所 『旧アズナチェノエ渡し場』発掘 聖なるスハニハ山 新リゾート地パトラシーロフ林
10 『チャルパン露天掘り』その後の発掘 岩画公園のポルタコフ村 サフロノーフ村のクルガン丘 鉄道分岐駅アスキース町 遺跡・自然保護区『カザノフカ』 旅の終わり

 2000年前の生活画バヤルスキー岩画
エニセイ川(クラスノヤルスク・ダム)岸
サルビック草原とウイバット草原の遺跡
 6月30日、この日、サーシャは手に入れたばかりで、まだ臨時ナンバーで(日本からコンテナでウラジオストックで陸揚げした後、ユーザーの居住地まで公道を自走してくるため)乗っていたイプスンを土地の交通課に正式に登録に行かなくてはならなかった。
 ロシアでは役所とかかわるのは市民にとって一苦労だと思う。特に車の登録事務は大変だ。代行してくれる会社はない(大都会ではあるかも)。窓口が開く時間の1時間以上前に行っても、もう駐車場には車の順番ができている。ちなみに、今でも順番と言うのは恐ろしい。順番をついている人はみんな険しい顔つきだ。順番につくと私もこんな顔つきになるのかもしれないが、彼らのようにはロシア語で悪態はつけない。
 交通課の窓口が開くような時間に行ったのでは、もうその日のうちに登録はできない。だからこの日は、いつもよりずっと早めにサーシャが出るので、私たちも一緒に早く家を出て、チェルノゴルスク市の交通警察課の駐車場で、8時にスラーヴァと待ち合わせたのだ。
 
 8時、スラーヴァはちゃんと駐車場の近くの草むらで待っていてくれた。サーシャのイプスンから降りて、ニーヴァに乗って、さあ出発と言ったところで、エンジンがかからない。バッテリー切れだ。もう順番についているサーシャの車を呼んで、繋いで充電してもらおうとしたが、うまくいかない。どうやら、ニーヴァのバッテリーは寿命なので新しいのに入れ替えなければならないらしい。と言うわけで、自動車部品店までサーシャの車で行き、新しいバッテリー(1800ルーブル、7000円、私が支払ったことにサーシャは驚いていた。ガイドの好意は得ておいた方がいいから)を買ってきて、ニーヴァに取り付けたころは、もう、交通課窓口の順番はずっと長くなって、サーシャはこの日の登録をあきらめた。
 一方、新しいバーテリーで調子のよくなったはずのニーヴァだが、いつものプリゴルスクのガソリン・スタンドで給油した後、エンジンをかけようとすると、またもや空回りの音しかしないではないか。ボンネットを開けて調べてもわからない。大きめの車に牽引してもらって、チェルノゴルスクの修理工場に持っていくほかないという。古代遺跡ツアーだけでなく修理工場ツアーまでできるとは『幸運』だ。
バヤルスキー山
テラスのようになった中腹の
垂直に迫る岩に打刻されている
バヤルスキー岩画、大釜と家と人

 プリゴルスクからチェルノゴルスクまで20キロだが、国道54号線にロープを持って立っているスラーヴァがいくら手を上げても誰も止まってくれない。まあ、私が運転者でも止まらないだろう。目的地のアバカンはもうすぐで、先を急いでいるし、イワノヴィ湖群のような辺鄙なところでは、助けてあげなくてはならないが、こんな都会に近いところでは、見殺しにしたということもないだろうから。
 スラーヴァは長い間、ロープを持って立っていて、大型車が通るたびに手を上げていた。その様子を私はニーヴァの中で長い間眺めていた。1時間半も眺めていた。車の窓から近くを見ると醜い建物(といっても旧式で美観を全く考えないガソリンスタンドと食堂ぐらいだが)とごみが目に入るが、遠景は果てしない草原だ。いくら草原の好きな私でも、1時間半も同じ角度の草原を見ているのでは疲れる。全く、スラーヴァはいつまで立っているのだろう、誰も止まってくれないのに。それで、スラーヴァに車の中で少し休憩したら、と言いに行った。そして、もう一度、『だめもと』でニーヴァのエンジンをかけてもらった。一度ならず二度までも、不思議な車だ、エンジンがかかるではないか。
 それで、この不可思議な車に乗って、チェルノゴルスクの修理場へ行き、修理工に一応見てもらった。なんだか部品がひとつ古くなっているとかで、スラーヴァが隣の部品店から買ってきたものを取り付けてくれた。

 結局この日は8時に家を出たのに、国道54号線を予定のバヤルスキー岩画へ向けて出発できたのは2時過ぎだった。もう何度も通ったトロイツコエ村(アバカンから65キロ)まで行って、今度はエニセイ川の方向に曲がると、この先には集落がほとんどない。草原の中に車が通って自然にできたような道しかない。エニセイに注ぐテシ川とその小さな支流が季節によって流れたり流れなかったりする草原に丘や谷が続く。ここを8キロも進むとバヤル連丘があって、そこに有名なバヤルスキー岩画があるのだ。何も目印がないこんなだだっぴろい草むらで、スラーヴァはどうやって岩画のある一角を見つけ出せるのだろう。周りには誰もいない。
 そこへ、自転車に乗った子供が通りかかった。エニセイ川で釣りでもするのか。スラーヴァが車を止めて聞いてみたが、知らないと言う。
「土地の子供ですら知らないと言うことは、つまり岩画に落書きもされていないと言うことだ」とスラーヴァ。(いや、土地の子供も知らないと言うことは遺跡を大切にしようという教育すら行われていないのだ)
 また、知り合いに電話をかけて場所を教えてもらう。こんな目印のないところなのに、どうやってその知り合いは行き方を教えたのだろう。丘の形だろうか。
 やがて、スラーヴァがあまり高くない丘のふもとに車を止めた。上っていくとテラスのようになったところがあってそこに高さ2.3メートルほどの垂直の岩が迫っている。露天の壁画のようだ。紀元前後頃のタガール時代からタシュティック時代の生活画だった。ユルタ(組み立て住居)のような家々が連なり、庭には料理中らしい大釜や子釜があって、馬に乗って狩をしている人や無数の動物の群れ、弓矢を持っている人、ただ立っている人、そしてスラーヴァによると犬まで打刻されている。輪郭だけ打刻された動物や塗りつぶされた男性像などを、私は大感激してせっせと写真を撮っていった。この日は薄日で、時々しかくっきりとした日光が当たらない。スラーヴァはその時をめがけてしか撮らない。なるほど、薄日では、この打刻画ははっきりとは映らない。打刻画は溝の陰ができると見やすい。
 このあたり、このような岩画が多かったらしいが、脆い砂岩は風化され、残っているのは、130個の像がある大バヤルスキー岩画とそこから400mほど離れた小バヤルスキー岩画(40個の像)だけだそうだ。これ以上風化が進んで剥がれ落ちる先に、両岩画はコペリコ(*)という画家が模写した。そのコピーがハカシア史の中学生用教科書にも載っているばかりか、クラスノヤルスクやハカシアの博物館にあるので、その模写や写真は何度も見たが、実物が見られたのは、スラーヴァと謎のニーヴァのおかげだ。
 (*)後記:2010年、コペリコの夫人に会った

 そればかりか、この辺は花咲く草原だった。草原にはイネ科の草が多いが、所々に真っ赤な野ゆりや、名前の知らない紫や黄色の花が咲いている。イネ科のカヴィリковыль(ハネガヤと辞書にはある)と言うススキに似た草が白い長い穂を揺らせている。ヤナギランかもしれない背の高い草もあった。こんなところを歩き回りたかった。草原の花には古代人もきっと魅せられたに違いない。(ちなみに花を打刻した岩画も、カザノフカ野外博物館にはある)。
 岩画のあるテラスから降りて、私は思う存分草原の中を歩き回り、寝そべり、花のにおいをかぎ、蝶を追い、どっさり写真を撮った。スラーヴァは草笛で遊んでいる。こんな素晴らしいハカシアらしい最高の草原だが、プリゴルスクのガソリンスタンドにいた時間(90分)ほどもいなかったのは、残念だった。
 バヤルスキー連丘やそのふもとから少し離れたところでは、窪地を作って流れたり流れなくなったり、あるいはコースを変えたりするテシ川と(たぶん)そこへ流れ込む小川があって、たどっていくとエニセイに出るのだ。クラスノヤルスク・ダムができたせいで水没した古い村がいくつもある。この辺ではコペニ村がダム湖の下になった。ダム湖に沈んだのはもちろん村だけではなく、数限りない貴重な遺跡も沈んだ。
 コペンスキー・チャータース
エニセイ川を見晴らす旧コペニ村(水没)の背後の高台にあるチャータース
 コベンスキー(コペニの)・チャアタースはコペニ村の丘の上にあったので沈まなかった。チャータースというのは6世紀から9世紀頃のキルギス族の墓地のことで、タガール人のクルガンと違って狭く、石も細長い。だから石の森に来たようだ。
 コペンスキー・チャアタース群には、眼下にエニセイが見渡せる高台のイネ科のハネガヤの間に背の高い石がいくつも立っていて、中にはかなり傾いたものもあるが、それでも倒れず立っている。背の高い石は4隅に立っていることが多く、その間には低く扁平な石が並んでいる。各チャータースの中ほどには盗掘された穴がでこぼこと開いていた。しかし、オルホン・エニセイ文字が打刻された黄金の杯や、トラに弓を引く乗馬の騎士の青銅製の像など、盗掘を免れた貴重なものも多く発掘された、と資料に載っている。

 スラーヴァは、いつもそうだが石に打刻画がないかひとつひとつ調べていた。私は携帯用蚊取り線香に火をつけ、電気蚊取りのスイッチも入れて(乾電池で動く)、ハネガヤの間を石に触ったり、盗掘跡の穴に入ったりしながら歩き回ったのだ。それもまたハカシアらしいひと時だった。ハカシア(だけではない)は主要道を出ると道路の状態は劣悪だ。わだち跡と言える程度だ。だから、このコペンスキー・チャアタースへも陸路ではなく、エニセイ川沿いに観光客は来るらしい。エニセイ川古代遺跡めぐりクルーズと言うのがあるくらいだ。
 『アナグマ荒野』の大クルガン
バルスーチー・ロック・クルガン(見晴台から)
前時代の打刻画のある石を横にしておいた
クルガンの東門
クルガンの西側
 7月1日、アバカンから出発して、いつものプリゴルスクをエニセイ川とは逆の方向に曲がると、その名もコヴィリКовыльная『ハネガヤ』と言う村があり、さらに10キロも行くと『モスコーフスコエ』と言う村がある。この村の背後に低いバルスーチー(アナグマと言う意味)があり、その向こうに丘陵にはさまれた低地『バルスーチー・ロック(ロックは谷、または荒野、横たわったものと訳せる)』がある。ここに1辺が55mのハカシアで2番目に大きいクルガンがあるのだ。と、スラーヴァがクルガンの前で車を止めて説明してくれた。
 1辺が70mの最も大きい大サルビック・クルガンは2年前、スラーヴァの案内でディーマと一緒に見た。1950年代モスクワ大学が発掘した大サルビック・クルガンはたいていの旅行案内書に載っているし、日本で出版されている『古代王権の誕生V』(角川書店)にも言及されている。だが、バルスーチー・ロックのクルガンの方は、2004から2006年にかけてハカシア大学やノヴォシビリスクとドイツの考古学者によって発掘されたばかりだ。ネットにもあまり載ってない。
 まわりは見渡す限り草原(もしかして荒野)と草原の丘陵。その中に、2mほどの高さに積まれた石で囲まれた方形のバルスーチー・ロック・クルガンがある。発掘したばかりだから、このあたりだけ草が生えていない。周囲には多くのクルガンがあるが、発掘されていないので緑の小山とコケの生えた石が地面の中から突き出している。一方、バルスーチー・ロックの方は空から見ると、一面の緑の中にぽつんと茶色の地肌が見えるだろう。人気のないクルガンの上を大きな野禽が飛びまわっていた。
バルスーチー・ロック・クルガンのそばにあった未調査の大クルガンのひとつ
 ハカシア(盆地)はどこにでもクルガンがあり、大きなクルガンも珍しくない。だが、大サルビック・クルガンやバルスーチー・ロック・クルガンをはじめ50個以上も大きなクルガンのあるこの草原の数十キロ平方は遺跡保護区となっているらしい。土盛りが現在でも6m以上の巨大クルガンも15個以上あるそうだ。
 ニーヴァから出てみると、ハカシア第2規模のバルスーチー・ロック・クルガンのそばに、『サルビック草原古代クルガン群』野外博物館と書かれた大きな看板が立っていた。モスコーフスコエ村のある辺りもサルビック草原といわれているのだ。
 発掘前は土盛りの高さが9mあったそうだ。紀元前4-3世紀のタガール時代の王の墓で、5人がカラマツを白樺の皮で包んだ棺に葬られていたが、前1−2世紀に盗掘済み。それでも金製品がかなり発掘され、博物館に保管されているそうだ。棺のあった地下納骨堂の西には6mほどの石とカラマツでできた地下通路があり、そのうえは白樺の皮で覆われていた。白樺の皮は水分を通さず、殺菌作用があるので、クルガンの墓にはいつも用いられている。
 方形のむき出しの地面を2mほどの高さの石が囲んでいて、ほぼ中央部の墓穴のあった場所にも方形に石が積んである。クルガンの石の大きさはさまざまで扁平な石を並べて積んであったり、一枚の大きな岩で囲まれたりしたところもある。大きな岩の26枚には打刻画がある。その打刻画はタガール時代とは限らない。そのずっと前のオクネフ時代の立岩を持ってきて横にして置いたものもある。
 スラーヴァによるとクルガンにはたいてい東側に入り口があるそうだ。バルスーチー・ロック・クルガンにも東側に立派な門があり、3mもある門柱やそれに連なる岩が立っていて、鹿の打刻画が見られた。

 ハカシアの古代遺跡を見て感動しなかったことはない。門に立ち、門柱を触り、打刻画を探して歩き回り、方形に囲むクルガンの石の上によじ登り、四方の角ではスラーヴァに写真を撮ってもらい、中央の墓穴跡の石に座ったり立ったり、地面に落ちていた無数の白樺の皮を拾ったりした。2400年前の白樺の皮に違いない。タガール人の王の墓を守っていたのだ。発掘の後、まだ間もないので白樺の皮はあちらこちらに土に半分埋まるように落ちていいるが、もう何年かしたら草に隠れて、見えなくなるに違いない。土が少しはついていてもなるべく完全な形で残っている白樺の皮を集めて袋に入れ、日本に持って帰った。

 クルガンを2,3週したところで、横にある見晴台に上ってみた。クルガンを発掘したとき退かした土を盛った小山が見晴台だ(トゥヴァの『アルジャン2』遺跡と同じ)。ハカシア国立の野外博物館だから、その看板のほかに、ちゃんと野外トイレまであった。観光グループが訪れることもあるのだろう。さすが駐車場はこの草原にない。好きなところに止めればいい。
 発掘者の一人ハカシア大学のゴトリフ準教授の論文
http://www.archaeology-russia.org/journal/journal-0901.pdf
 大サルビック古墳
サルビック大クルガンには観光客も多い。
古墳の横にできたお土産店のユルタ
 2年前に見た大サルビック古墳だが、また見たくなったので、行くことにした。道は悪いが50分どで行ける。途中通った草原にも花が咲いていた。
 2年前の大サルビック古墳は草原にあっただけで、周りには未発掘の大古墳もあったが、どれも見物無料だった。スラーヴァによるとその後、大サルビック古墳に向かう草原の車の通れる道に遮断機がついたそうだ。つまりここで入場料を取るわけだ。だから管理人のユルタ小屋もでき、『サルビック草原古代クルガン群』野外博物館館長が居るそうだ。しかし、その後、料金所は撤廃されたが遮断機の跡は残っているそうだ。(もちろん有料であっても、遮断機を迂回して草原の中を走れば、どこへでもいけるのだが)。
 未発掘の大古墳でも、上ってみると必ず盗掘跡の大きな穴が開いている。途中、そうした古墳にいくつか上ってみた。(するとたいてい接続状態が良くなるのか日本から仕事の電話がかかってきたりして、せっかくの気分をぶち壊されるのだが)。
 草原の道は最悪のようで、ニーヴァは(元クルガンの)石に躓いて轍(わだち)跡でできた道路から飛び出たりした。(このときの痛手が後でニーヴァに祟ったのだが。)
 大サルビック古墳に近づくと、バルスーチー・ロック古墳にあったような看板が立っていて、こちらの方は観光客が何人かいた。18世紀からロシア人探険家に知られていた土盛りの高さその当時で11mもの大ダルビック古墳は、1954年にモスクワ大学の考古学者キセリョーフ(ハカシア人)が発掘調査した。古代人が数十トンもある巨大岩を少なくとも50キロは離れたところから運んできたと博物館資料に載っている。
 ハカシア古代遺跡ツアーに来た旅行者は、ここには必ず寄る。やがて、隣の管理人ユルタからスラーヴァと知り合いというハカシア人館長が出てきて、私が日本人と知ると、
「ついこの間も4人の日本人観光客が訪れたよ」とその日本人が残した名刺を見せてくれた。名刺の肩書きでは、考古学専門家らしい。後で知ったことだが(本人から)、アルタイの古墳を調査に行く途中、ハカシアの大サルビック古墳にも寄ったそうだ。
 2年前にはなかった管理人ユルタの中に入ってみると、お土産が売っていた。現代芸術家製のシャーマンのタンブリンなんかも売っていたし、お守りのようなものもあったが、売り物の半分は写真集や書籍だった。観光地の土産店だからといって本がより高いわけではない。こうした本が博物館の売店などを除いて町の本屋には売ってないことのほうが多いので、たくさん買った。館長はスラーヴァがよいお客さんを連れてきてくれたと満足げだった。
 ダム湖に沈みきれなかったクルガン
エニセイ川辺のモーホフ村のほうへ
水没クルガンの石のようだ
 ここを出発して、また、プリゴルスクに向かった。プリゴルスクから国道54号線を折れてエニセイ川のほうに進む。エニセイ川をせき止めてつくったクラスノヤルスク・ダムに沈みきれないで頭だけ見えているクルガンを見たいと言ったからだ。その年の季節によるダムの水位にもよって、見える場合と見えないがあるそうだが。
 アバカンからクラスノヤルスクへ行く国道54号線のこのあたりは何十キロにわたって、クルガンの溜まり場に違いない。国道54号線もクルガンを踏んでいる部分があるに違いない。左右の草原の近くや遠くにいくつものクルガンの立石が見える。
 プリゴルスクから右折して、エニセイ川岸のモーホフ村への道をとった。モーホフ村はプリゴルスクの裏のエニセイ河岸近くにある。プリゴルスクを裏から見るのははじめてだ。ちゃんと女性用収容所(刑務所)や、現在稼動していない何か怪しげな工場群などが見えた。その先はモーホフ村まで草原とクルガンだった。クルガンがあると車から降りて見て触って歩き回って、遠くからも近くからも写真を撮らずにはいられないが、スラーヴァはなかなか車を止めてくれない。打刻画があるとか、何か特徴がないとスラーヴァは車から降りない。
エニセイ川右岸の『エニセイ門』の
スハニハ山とテプセィ山が見渡せる
『エニセイ門』とクルガン、自然公園を示す杭(右)
 クラスノヤルスク・ダム湖に沈んだため新たに作られた(新)モーホフ村の入り口を通り過ぎると、もう車ではいけない。歩いてダム湖に近づくと、草原のように見えた地面はもう水が張っていた。これ以上は進めないが確かに水面から出ている石がいくつか見える。その先はダム湖で、遠くに向こう岸が見える。

 クラスノヤルスク・ダムでエニセイ川をせき止めたため、クラスノヤルスク市付近からアバカン市まで388キロの長いクラスノヤルスク・ダム湖ができた。最も広いところで15キロの幅がある。元のエニセイ川に直接注いでいた支流の川も河口に広い入り江をつくり、水没面積はますます大きくなった。ダム湖の面積は2000平方キロ(琵琶湖が673平方キロ)と広い(面積はロシア第9位だが、水量では2位)。モーホフ村の対岸には延長507キロのトゥバ川 Туба(トゥヴァ共和国のトゥヴァ Тываではないが、明らかに関係がある)が流れてきて、河口に広い湾を作っているが出口は狭い。なぜなら、この辺のエニセイ川には両岸から岩山が迫っているからだ。ダム湖ができてエニセイが広がっても、その岩山は『エニセイ門』と言われて両岸に門のようにそびえている。モーホフ村の南がクーニャ山、その北アグラフティー(Оглахты)山で、対岸にあるスハニハ山テプセィ山がトゥバ湾の出口を狭めている(上の地図参照)。エニセイの右岸はハカシア共和国ではなくクラスノヤルスク地方のミヌシンスク地区で、現在発見されている古代遺跡は左岸に偏っているらしいのだが、東岸のテプセィ山とスハニハ山一帯には紀元前3千年紀のアファナーシエヴォ時代から中世キルギス人の遺跡まで、豊富に残っているそうだ(水没した遺跡の方が多いに違いない)。
 モーホフ村近くの川岸に立つと、水が滲みてきている草原の向こうにあるダム湖の周りにそびえる『エニセイ門』が見える。水浸しの草原だってきれいな草原の花が満開だ。よい天気の『ハカシア晴れ』の日だった。どちらを向いても素晴らしい景色で、心が癒されるではないか。この地から動きたくない気持ちだったが、ここまで来たので、近くの(私たちのいる左岸の)クーニャ山やアグラフティー山を見なくてはならない。岩画もあるだろう。スベ(古代の石の要塞)もあるだろう。
 この風景をダム湖クルーズで水面から眺めるツアーもある。クルーズではエニセイ門に入ったり出たりして、雄大な景色や川岸に見えるクルガン群を楽しむばかりでなく、めぼしいところでは上陸して遺跡見物をするそうだ。いいなあ。
 アグラフティー山
アグラフティー山
車の横にしかない日陰で昼食、スラーヴァ
自然の要塞のようなアグラフティ山
へたばった私が眺めていた下界
 ダム湖に沿ってアグラフティー山のほうへ進んだ。(対岸のスハニハ山へ行くには、エニセイ川には、アバカンからクラスノヤルスクまで388キロの間は全く橋がないので別の日にミヌシンスク市経由で行った。)クーニャではなくアグラフティーに向かったのはスラーヴァがそうしたかったからだ。
 アグラフティーは自然公園になっていて、看板が立っていたし、境界を示す杭も打ってあった。この山の森林地帯やふもとの草原に、固有の植物や鳥類が生息していてロシア博物誌にも載っているそうだ。しかし、まったく誰もいない。モーホフ村を過ぎて、アグラフティーに上りまた帰ってくるまで、誰とも、1台の車とも出会わなかった。つまりハカシアは人が少ないのだ。観光名所が多い割には観光客が少ないのだ。
 目に入るのは青いダム湖にそびえる遠く対岸の岩山エニセイ門と、こちら岸の岩山エニセイ門、そして門のふもとの草原に散らばるクルガンだった。古代人も、もちろんこの神聖な美しさには魅せられたに違いない。
 アグラフティー山のどこを探せば遺跡が見つかるのか、スラーヴァにもわからない。4時近かったので、昼食をとることにした。草原には日陰がない。もうそのころは散々日焼けしていたが、これ以上はシミを増やさないために、せめて車の陰にマットを敷いた。スラーヴァはイワノヴィ湖群でも活躍した中国製ガスボンベつきコンロでまたカップラーメン用のお湯を沸かしてくれた。それから、私がいつも旅行案内書と一緒にリュックに入れている大型のロシア地学協会発行の20万分の1の地図を広げて距離と方向を図って、出発したのだ。
 見えるものは草と岩と遠くのダム湖とハカシアの空だけだった。
 確かに要塞のようにも見えるアグラフティー岩山のふもとに車を止め、岩山へ上るのだと言う。難しそうと言う顔の私に、
「途中まで、ゆっくり登る」のだ、と言う。
「では、あのへんまでね」と私が目で示したのは要塞(絶壁)の下までだ。
 この辺の地形は地質時代に隆起したのか沈下したのか褶曲したのか、古い断層が浸食されてなだらかになり、草も生えている。所々、硬い岩だけが侵食されず岩のまま残って大きな階段のようになっている。
 大体そんなところを登っていった。スラーヴァは平気で先に進むが、私はそうはいかない。スラーヴァよりもっと身軽だっただろう若い古代人のことを考えながら、またもや手をついて息を切らしながら上っていった。もう動けないわと、何度もへたばって、いすのような岩があると座り込んでしまった。それでも、少しずつ登っていき、眼下の草原は少しずつ小さくなっていった。対岸のエニセイ門やダム湖が空の青さに消えていくようだった。この山は763mで、その絶壁の下まで登ったとしてせいぜい海抜500m。ダム湖の水面は240mくらいだから、周囲より260mくらいの高度から見下ろしていたのか。
 打刻画
 へたばっている私を残してスラーヴァは岩画を探しに行った。こうしていつも残される私は景色を堪能できる。足元に生えているおなじみの『ウサギのキャベツ』と呼ばれてる野草や、遥か下に見えるたった今登ってきた褶曲して隆起した後侵食されたと私が勝手に思う地層や、青い山々が連なる向こう岸の写真を何枚も撮った。ゆっくり休んだところでスラーヴァが消えた方向に動き出した。岩場のテラスのようなところを『かに歩き』していくと、スラーヴァの声が聞こえる。中世キルギス人が打刻したらしい岩画があった。この岩山にはこうしたテラスのようになったところに迫る絶壁の広い岩面には、多くの岩画やエニセイ文字が残っているそうだ。また新石器時代人の生活跡も1960年代に調査されているそうだ。
 新石器時代遺跡の方は、『アグラフティ-I』遺跡『アグラフティ-II』遺跡で、水源から9キロも離れたアグラフテイ山にお互いに800m離れてある。新石器時代人が長期滞在したのではなく、ノロシカや狐、ウサギなどを追って移動していた仮住居跡だと『ハカシア史』(責任編集L.R.Kyzilakov)にある。割り取った残り破片などが残っていたので、この場所で石器を製造したらしい。また、土器の破片も見つかっている。
 中世(主に9世紀から10世紀)のキルギス人の壁や堀の要塞跡もこのアグラフティー山にあるそうだ。
(後記) ここには匈奴の墓も残っているそうだ。匈奴は紀元前後ごろ、ミヌシンスク盆地からトゥヴァにかけて征服した。別の説によると、それは鮮卑族の墓だと言う。
 
 しかし、私は1枚の岩画を見るだけで満足した。この先、この場所から降りなければならない。登るよりやさしいとは言えない。アグラフティー山やその南のクーニャ山には新石器時代から中世までの遺跡がどっさりあって、古くから調査されているらしいが、ここで私が見たものは、侵食されずに残った岩が要塞のように立ち並ぶ自然だ。
 スラーヴァはアグラフティーから降りて、さらに遺跡を見つけようとニーヴァを運転して、山を迂回するような方向へ進んで行ったり、くぼ地を超えられなくて戻ったりしていた。でも、やはり見つからなかったのだ。
 アグラフティー山はタシュティック時代の遺跡が多いことでも特に有名で、ネットで見るタシュティック時代の論文ではたびたびアグラフティー山が言及されている。
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