ロシアはダーチャ人の国だ。現在(2009年)、3000万人の国民がダーチャを持っているそうだ。(2011年夏の統計では都市の住民の48%がダーチャを持つ、ロシア全体では60%がダーチャ地所を持っている、とある)。ただ郊外に土地を持っているというだけでなく、44%のダーチャ人は5月連休(メーデーや戦勝記念日)のダーチャ・シーズンの幕が開くと、9月10月ごろまでの4,5ヶ月間、熱心に週末ごと自分の土地へ行き農作業に従事、『日曜日の夜は疲れきって、しかし、満足して都会の家に帰る』のだそうだ。このように休日はダーチャで過ごすという習慣が、年齢職業にかかわりなく人々に定着しているから、ダーチャの国ロシアといってもいい。さらに、10%のダーチャ人は夏中自分のダーチャで過ごし(寝泊まりし)、また、通年住んでいるというダーチャ人も年金生活者の中にはいる。(2010年統計によると、73.7%が都市人口)
一方、農村の本格的農家は、元コルホーズ(集団農業)員、元ソフォーズ(国営農業)員で、都会に住んで休日にダーチャで農業を営むダーチャ人とは異なる。
ソ連時代のコルホーズ員やソフォーズ員は、コルホーズやソフォーズで働く傍ら、個人で経営できる土地(自留地と言われる)が与えられていた。そこで個人農業を副業的に営み、剰余分は町のコルホーズ市場で売ることができた。規模では、西シベリア地方では『個人副業経営』は、一家で耕地は1ヘクタール以下、ヨーロッパ・ロシア部の『個人副業経営』規模は0.25ヘクタール程度で、家畜は、乳牛は1頭、子牛は2頭、母豚1頭、羊、山羊は10頭がもてる、と決められていた。コルホーズ員は広い集団(国営)農場では年金が支給されるまでの勤務期間をこなしたり、配給切符を受け取るため(切符は企業・組合ごとに支給)に適当に働いても、狭い自分の自留地では熱心に『副業経営』したので、国の農業生産量が増えたと言える。
ともかく、これが本格農家で、もちろん、農村に常住している。一方、ダーチャ人は都会に常住しているが近郊にも菜園のできる6アール程度の土地を持っている。
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クラスノヤルスク地方フォーキナ村
農村の風景 |
サイトによると、ソ連崩壊後、個人副業経営とダーチャでの菜園経営はさらに発展し、1996年にはジャガイモの96%、野菜の77%、果実の79%、肉類の51%、卵の31%を生産し、牛の34.8%、豚の42.99%、羊とヤギの59.7%を有する、とある。
つまり、これは旧コルホーズ員や旧ソフォーズ員は専業農家で、一方、ダーチャ人は週日には都市の企業などで働いていて休日だけ農業をする兼業農家と見てもいいかもしれない。規模が小さいので売るほどの剰余分は少ないだろうが、どうやらロシアで農産物(小麦などの穀物をのぞいて)を生産するのは大規模農業のできる旧コルホーズや旧ソフォーズというより、零細『個人副業経営』とダーチャらしい。前述のように『個人副業経営』産とダーチャ産の占める割合が多い。ダーチャは農作物を自家用に栽培するが、余れば市場で売る。統計によると、ダーチャ産で市場に出回っているのは産物の3%でしかないそうだが。
ダーチャというのは、都会人が郊外に持つ土地建物のことだ。
もともと革命前の地主や貴族たちは、夏は自分の領地へ行って過ごしていた。ダーチャ生活を描いたロシア文学(主人公は地主や貴族)も多い。19後半、20世紀初期には、裕福な町人たちも夏は農村、またはその頃もうできていた別荘村で別荘を借りて過ごしていたそうだ。
一方、農村からの移住者も含めて一般の都市住民(庶民)は、郊外の無所有地(原野、荒野)を食糧自給用に開墾していた。つまり上層も下層も、目的は違っても独特の『田舎生活』を送っていたのだ。これはロシア特有の習慣だった、とある。
革命後も、夏は田舎へ移るという『伝統』は引き継がれ、1ヘクタールかそれ以上もある立派な国営別荘には、ソ連への『貢献報酬』としてエリート、つまり、政府高官や国家功労者など有名な人たちが住んでいた。これらエリート用国営ダーチャは、郊外の風光明媚な自然の中や、名高いリゾート地などの瀟洒なセカンドハウスとして、『別荘』のイメージがぴったりだ。
一方、一般の都市住民には、近郊の(風光明媚とは限らない)原野を個人使用の畑地として分け与えられるようになった。それで、『ジャガイモや野菜などの自家用食料栽培の可能性が現れた』と同上のロシア語サイトなどにはある。さらに、50年代に入ると、都市近郊の原野(つまり、荒野、耕作に向くとは限らない)は次々と企業に貸し出され、その企業組合は組合人(労働者)に6アールごと分譲していった。
はじめの頃は、その土地に木を植えることも、建物を建てることも禁止されていたそうだ。農業用地としか政府は考えていなかったから当然のことだ。慢性的食糧難のソ連時代、ダーチャのおかげで生き残れた都市住民も多かったのは事実だ。
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1992年ゼレノゴルスク市近郊の組合員用畑地 |
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ゼレノゴルスク市の近郊の
ダーチャ地区のようす(1990年代) |
やがて、その土地に建物を建てることが許可されると、『処女地征服計画にもかかわらず、慢性的食糧難にあえぐ都市住民のためのダーチャはますます発展した』とサイトにはある。しかし、屋内にペチカを作ることも、地所の周りを塀で囲むことも、2階建て家を建てることも、チルドの貯蔵用地下室を作ることも、家畜を飼うことも禁止だった。しかし、80年代にはそれら制限事項はすべて撤廃されて、現在のように、塀に囲まれた6アールくらいの地所に、夏用住宅(つまり本格的防寒されない仮の家)が立ち、まわりに野菜用の畝や、灌漑用ドラム缶、苗床用温室などがあるようなダーチャ風景が出来上がった。
そして、ソ連崩壊後の経済混乱期には都市生活者のダーチャは、生活防衛手段としてますます発展していった。今でも、ダーチャと言うのは第一に農作物を栽培するところで、休息の場所ではなく働くところなのだと、多くのロシア人は思っているらしい。ダーチャは大都会ばかりではなく、小さな都市にももちろんある。ソ連時代に、ある目的(工場建設、地下資源産採掘、軍事基地など)のために人工的な都市タイプの集落(*)が多くできた。その住民も、週日は工場(または、採掘場、基地など)で働き、休日にはダーチャ菜園で家族の需要を満たしている。それら都市タイプの集落(町)ではダーチャは住居の近くにあり、家族によっては何箇所も持っているくらいだ。 (*)都市タイプの集落 パショーロク посёлок タウンと訳せるか。パショーロクと呼ばれるのは基本的に人口3000人以上となっている。市は12,000人以上。農村タイプのパショーロクもあるが、こちらは農村に含まれる。村は大村(セロ)と普通の村(ヂェレーヴニャ)があって、大村は2000人程度。革命前には大村ごとに教会があった
狭い土地で個人栽培するのは、もちろん経済的に有効ではない、とは誰でも考える。が、『国民経済のひとつの特徴』として続けられているそうだ。『長い間、りんごからジャガイモまで可能な限りの作物を栽培したダーチャは多くの人々にとって、生き残りの方法だった。国の生産システムは変わった。しかし82%のダーチャでは今でも食べ物を植えている。63%は自家製のものを、3%は売り物を植えている』とある。
2008年のアンケートでも、60%のダーチャ人は『農作物を作るために』ダーチャはある、と答えている。『自然の中で休息するために』は20%、『社会は不安定だから万一のときのために』とか、『ここで友達と交流するために』という回答の他に『ダーチャは不要』というのもある。
確かに、ソ連時代や1990年代の混乱期には、商店には物は少なかったが、今では何でも買える。『つらい肉体労働』をしてジャガイモや野菜を収穫しなくてもいい、と考える都会人が増えてきたのももっともだ。以前は、効率は良くなくても自分のものを確保できるダーチャ菜園は、生活の手段として選択の余地はなかった。だが、今は選択できる。農作業をしたくない人もいる。だから、放置ダーチャが増えている。
町から23キロ離れたところにある荒野だった地所を、ダーチャとして与えられたヴィクトルという私の文通相手によると、長い間かかって家族総出で耕し、客土し、肥料を入れ、自力で小さな家も建てたそうだ。バスは不定期にしか運行していなかったので自転車でせっせと通って働いた。40メートルも掘って井戸もつけた。しかし、ジャガイモは家族消費の3か月分、キャベツは4か月分しか収穫できない。土地が悪くて(もともと使い道のなかった土地だったから)いくら労力をかけても収穫は増えなかった。今、店や市場で何でも売っているようになり、ダーチャは放置されている。あれだけ労力をつぎ込んだのに残念でたまらない、と書いてあった。
ダーチャをする人がいなければ、やはり放置される。特に不便な場所や土地のやせたダーチャ、設備のあまり整っていないダーチャは放置されているか、捨て値で売り出されている場合が多い。水浴びできる川があるとか、魚釣りできる湖や池があるとか、キノコ狩りのできる森があるとか、都市に近い便利なところにあるとかでなければ、良い値段でも売れない。しかし、ロシア語サイトの『ダーチャを売ります』には地区ごと、実に多くの件数が載っている(前ページ『ダーチャ恩赦法』参照)。
建造物は私有化でき、建物の建っているだけ(よりやや広め)の土地も建物に付随したものとみなされるから、最近は、ダーチャは不動産資本の対象にもなっている。(土地は長期に国家から借りているものだ)
革命前から都会の裕福層ダーチャと、そうでない階層のダーチャ(こちらは畑)があった。ソ連時代にも、都会の周辺にはエリート・ダーチャ地区と非エリート地区があった。特に首都モスクワのエリート地区(たとえばメドベージェフ大統領やプーチン首相、ルシコフ市長(当時)などの別荘があるルブリョーフカ・ダーチャ村など)には豪華で高価なダーチャが多いことで有名だ。そんな既存のダーチャはめったに売りに出されないとかで、新たにダーチャ地区が造成されている。ソ連時代のように企業が組合員用にほぼ無料で造成するのではなく、今や、不動産会社が事業としてやっている。これは夏だけの仮住まい用の家が建つダーチャと言うより、通年住める菜園付き本格的個別住宅『コッテージ』と言わなくてはならない。だから都心へ通勤可能な近郊にコッテージ団地はできる。
この別荘ブーム、コッテージ・ブームはロシアの都市郊外、特にモスクワなどの自然を変えたといわれている。それはもう自然破壊とも言えるくらいだ、という意見もある。
クラスノヤルスク郊外にも、ソ連時代に企業組合が開拓したたくさんのダーチャ地区がある。エリート地区と非エリート地区もある。西風が吹くここでは工場群は市の東に多い。特に、市の北東にアルミ工場などがあって、ここより東(風下)には別荘地も住宅地も少ない。市内では西から東に流れるエニセイ川の川上はちょうど市の西部に当たるので、右岸も左岸もダーチャ地区として値段が高い。左岸のソースヌィ地区には知事の別荘などもあって、1998年、橋本とエリツィンの『ノーネクタイ』クラスノヤルスク会談はそこで行われた。
今は、ダーチャ地区などは、企業の組合ではなく、不動産会社が造成、住宅を建築して売り出している。ロシア人にコッテージについて聞くと、それは必ず2階建て以上で、郊外に建つ庭付き1戸建て本格住宅(つまり冬の厳寒に耐えられるような分厚い壁と暖房装置もあって通年住める豪邸)だと答える。もはや古典的庶民の『ダーチャ』ではない。
ロシアの一般の都会人は集合住宅に住んでいて、一戸分は『クヴァルチーラквартира』という。アパートと訳すか。(台所、バス・トイレつきのクヴァルチーラに住めない家族は共同の台所・バス・トイレしかない『コムナルカ』のクヴァルチーラに住んでいた。80年代まではコムナルカが多かったらしい。今でも、住宅難のロシアにはこれが少なくない)。ソ連時代は住宅も土地も国有だったが、ここ数年住宅の私有化が進んでいる。たいていの国民は今住んでいるクヴァルチーラの私有化登録(2010年まで無料)を済ませたらしい。その建物が建っている土地のほうは(今のところは)国有だが。
都会に住むには、一般に、この上下水道の整った集合住宅のクヴァルチーラしかない。この人たちが自分用食料栽培のため下賜された原野を、長い間かかって自力で畑地として環境を整えてきたのが『ダーチャ』で、そこには、普通、夏だけの仮住まいができる簡単な家が建っている。一般の人は資力がないので豪華な仮住まい住宅は建てられない、というより常住していない家屋は荒らされ盗まれるので、あまり資金をつぎ込まない。
農村では、かつて国有だった2階建てまでの木造集合住宅(だから、クヴァルチーラ)に住むか、自分で建てた平屋一軒家に住む。小さな村では集合住宅はなくて、みんな自分で建てた平屋に住む。インフラはどちらも不整備で、上下水道はない。
これが1990年代までの都市と農村の一般の人たちの住宅事情だった。
住宅が国有だったときは、国は一般人のために一戸建て住宅などは建てなかった。集合住宅のほうが経済的だ。都市の集合住宅のみ、電気と上下水道などのインフラが整っていた。都会の空地か近郊に一戸建て住宅を自分で建てた場合は、インフラは自力で整備する。都心でも上下水道を引き込む距離は短くない。だから、家は瀟洒でも、水回りはとても不便だったりする。(バイオ・トイレットや専用井戸などを取り付けた)
最近、農村で簡易水道と湯沸施設(ボイラー)や下水浄化槽を設置するお金持ちの個人も現れた。一方、庶民のダーチャのほうは、あくまで仮住まいなので、一般人はボイラーや下水浄化槽などはつけない。しかし、不動産会社が造成して富裕層向けに売り出すコッテージにはあらゆるインフラが整っている。
コッテージ団地宣伝用写真
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たとえば、今(2009年)、クラスノヤルスクで大きく広告しているものに、『シベリア投資』社が郊外5箇所につくるコッテージ村がある。最近は、都市近郊のコッテージに住むことが、ニュー・リッチに流行っている。コッテージ団地は、都心に通勤可能な場所にあるから、ダーチャ地区や農村地区に隣接していることも多いが、混ざり合うことはないそうだ。
『シベリア投資』会社が作るコッテージ団地というのはクラス別に5箇所あって、エコノミー・クラスのコッテージ団地が1箇所、ミドルアップ・クラスが2箇所、エリート・クラスのコッテージ団地が2箇所と、宣伝文にある。計171ヘクタールの未開墾地(または利用されていないか放置地区)を造成区画整理し、全部で、2500軒のコッテージを立てて売る計画だそうだ。
エコノミー・クラス『白い露』コッテージ村は市の東部(環境はあまり良くない)にあり、1軒の家は100平方メートル程度、学校と幼稚園が近くにあると謳ってある。
ミドルアップ・クラスもエリート・クラスも市の西部のエメリヤーノヴォ地区にあり、『明るい野原』エリート向けコッテージ団地には、ヘリポートもあり、もうひとつ『北ルブリョーフカ(この名称はモスクワ郊外の超高級地にあやかって名付けられた)』には400メートルのリフト付きスキー場や射撃場、ビーチ付き湖があって、コッテージ1軒の広さは300から1000平方メートルとある。
ミドルアップ・クラスの『小都会』コッテージ村は1戸立てもあるが、5階建て集合住宅(タウンハウス)もある。『快適』村は『典型的なダーチャ形式』で園芸用品店や食料店が近くにある、と出ている。このクラスノ分け方が、飛行機のチケットや、清酒やお寿司のように等級に分かれていてわかりやすい。
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今からダーチャの環境を整えていこうとする
未開墾地 |
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ダーチャの準備をする4月はまだ雪が
積もっている。薪を運ぶ少年 |
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菜園と、自分で建てた家や温室 |
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早朝、郊外のダーチャ行きバス、
ゼレノゴルスク市役所前広場1993年 |
1992年はじめてロシアに住んだところがクラスノヤルスク地方ゼレノゴルスク市だった。ロシア人と知り合いになると、やがてダーチャに招待された。
ゼレノゴルスク市は、1950年代に小さな村がぽつんぽつんと2つほどあった原野の中、エニセイ川右岸のカン川畔にウラン精製工場を作り、同時にそこで働く技術者や労働者のための住宅を作り、その人たちが生活するために店、学校、病院、コルホーズなどを作り、周りを鉄条網で囲み(全部ではない、通行不可の森林に囲まれているから)、入り口を一つだけつけて、出入りを制限したという旧ソ連冷戦時代に多く作られた閉鎖都市(地区)のひとつだ。
つまり人工的にできたコンパクトな工場城下町なので、ダーチャ地区も町から近い一等地や湖のある人気地は、ウラン精製工場組合員用で、カン川近い丘陵地でコルホーズ農場近くの土地は、町で2番目に大きい繊維工場の組合員用、さらに元からあった農村近くの未開墾地は、町の電力を作っている火力電力会社組合員用など、わかりやすかった。1992年頃は完成しているダーチャもあったが建設中、分譲中のダーチャもあった。
ダーチャは普通『別荘』と訳されているので、1992年始めてロシアに住んだ頃は、ダーチャが実は畑だと言うことは私には当時なかなか理解できなかった。なぜ集団農業の国で、こんな小規模農業を、教員や医師や弁護士やエンジニアといった農家でない専門職の人たちが一生懸命やっているのかも理解できなかった。トマトやきゅうりを集団農場ではまったく作っていないのも不思議だった。
夏場、土曜日の早朝には郊外のダーチャ行き特別バスが市役所前広場から出発する。月曜から金曜まで国営組織で(国のために)働いて、土曜と日曜はダーチャで自分のために働くというパターンが夏中続いていた。休日は街中には誰もいなくなる。(私と遊んでくれる人もいない)。夏働かなければ、冬生き残れないと言って、みんなダーチャで働いている。だから、くたくたになって月曜日に仕事場へ行く。月曜日は仕事の能率が悪いのだ。それはお互い様とみなされていた。月曜日午前中は閉まっている窓口さえあった。夏の間ダーチャで働かなければ、冬に家族が飢えるというのは全市民の共通理解なので、夏場は本職の方のテンポが鈍るのも当然とみなされていて、日本から来たばかりの私には驚きだった。
ここに1994年まで2年間住んだ。その後再び1996年から1年余住むことができた。しかし、ゼレノゴルスク市は閉鎖都市なのでモスクワの原子力省の許可がないと外部のものは入れない。許可は1ヶ月以上かかり、よほどの理由がないと不許可。
また、滞在中もいったん出ると入るのに許可が要る。これは抜け道を通るとか、特別許可を持っている人と一緒に検問所を通過すると言う方法があってクリアできる。抜け道を通った場合見つかるとやばい。特別許可を持っている人と一緒なら堂々と検問所を通れる。
1997年以降、もうここに住まなくなってからも、2004年や、2006年に2回、2007年にも許可なしで入った。手引きをしてくれたゼレノゴルスク人が居てくれたからだ。
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クラスノヤルスク、
リョーバの家の前でバーベキュー |
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この日のリョーバのお客は10人以上だった |
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ワジムの地所。建物は未完、
蒸し風呂にも使う水はこの赤いドラム缶に |
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蒸し風呂から上がって
ビールとつまみをとる部屋はできている、
2007年夏 |
リョーバはゼレノゴルスク時代の知人オレーグの弟だ。リョーバは兵役から戻った後、両親の住むゼレノゴルスクには住まずクラスノヤルスクの銀行のガードマンになった。
リョーバにはクラスノヤルスクに住居がない。都市のアパート(クヴァルチーラ)はとても高価で手が出ない。リョーバはクラスノヤルスクのヴェトルジャンカ・ダーチャ地区(西部にあるから環境はいい)の地所を買って、リョーバの父親が長い間かけて家を建てた。長い間かかったのは資材の調達用資金を貯めるのも長い間かかったためでもある。リョーバたちの家族は貧しくはないが豊かではないからだ。夏場だけの仮小屋ではなく、見てくれは良くないが通年用本格住宅だから、建てるにも、そのための資金を稼ぐにも長い間かかったらしい。
初めは不便でも、住みながら働いて資金を貯め、調達できた資材で、こつこつと建てていった。もちろん一家が協力した。
初めて訪れた頃は台所しかなかったが、その後台所の横に部屋ができ、数年後には2階に寝室を作り、入り口横には簡易トイレとシャワー室を作った。それで冬の夜、屋外のぼっとんトイレへ行かなくてもよくなった。常住者にはとても快適な設備だ。リョーバの家を何度も訪れているが、行く度に設備が整ってきて、快適な住まいになってきている。間に合わせだったインテリアも、だんだん好みのものに代えているらしい。
その後、町にアパートを買ったそうだ。だからこのダーチャは文字通り夏場のセカンド・ハウスとして利用している。時々知人たちを招いてバーベキュー大会をするのだ。
この夏、クラスノヤルスクに行った時も招かれた。リョーバはあまり高年式ではない日本の中古車に乗っていて、ガードマンの傍らこの車でもビジネスをやっているらしい。さらにルーフキャリーの中古を日本からたくさん買ってそのレンタル業も計画しているとか。
一方、ディ−マの知り合いのワジムのダーチャはウダーチニィ地区にある。
ウダーチニィはクラスノヤルスク市からも近く、エニセイ川右岸にあって自然環境もよく、インフラも一部整っていて、町からの舗装道路もあると言うので高級ダーチャ地区だ。舗装道路が通じているといっても、町からの主要道だけで、ダーチャ地区内に入り、個々のダーチャへ分かれる道は、車体が低くてかっこいいスポーツカーなんかは絶対に通れない。悪路は短い距離だが、目的のダーチャに行き着くのも、大きな水溜りの水を跳ねを渡り、ぬかるみで車体を泥だらけにし、曲がりくねっている道を路傍のぬれた雑草を踏み、大きく揺れながらゆっくり進まなくてはならない。
最近手を入れ始めたそうで、地所には高い塀と、頑丈な門はあるが、家は完成していない。蒸し風呂小屋と、蒸し風呂から上がって一杯飲む休憩室は使用可能だ。訪れたのは2006年だが、その後、電話のついでにダーチャのことを聞いてみたが、まだまだ家のほうは建ってないという。ワジムは建設会社に勤めていて、ミドル・クラスだがミドル・アップと言うほどでもない。だから、ニュー・リッチほどお金は余っていないのだろう。
ダーチャを持たないクラスノヤルスク人も多いが、その人たちにも両親にはダーチャがあるか、両親が田舎に住んでいる場合が多い。
知り合いのディーマさんも両親はクラスノヤルスクから500キロも離れたハカシアの田舎に住んでいる。ジャガイモや野菜をもらいに里帰りがてら田舎に行く。ついでに、小学生の娘も夏中、田舎の祖父母宅に預ける。
普通、子供たちは3ヶ月もある夏休み中、昼間は両親が仕事で留守になる都会の狭いアパートに一人ぼっちでいないで、田舎の祖父母宅か、田舎がない場合でも祖父母が夏中住んでいるようなダーチャに行くのだ。ソ連時代、夏休み中の生徒たちは、学校毎か、または親の企業組合毎にあるビオネールキャンプ場で、数週間過ごした。
フェージャはニーナさんの妹ヴァーリャの次男だ。妻がクラスノヤルスクから20キロほどしか離れていないドロキノ村の学校教師で、村の教師には村定着のためか、村はずれに地所が与えられる。ドロキノ村は農村だが、クラスノヤルスク市に近いのでダーチャ地区も隣接している。地所としては悪くはないので、フェージャは自分で家を建てることにした。妻が働いているのでフェージャは建築に専念し、長い間かって(やはり資材調達のために)住めるスペースを作った。こうなれば、住みながら家の内部外部の建築を進めていけばいい。電気を引くのは電線を伸ばすだけでいいが、水は井戸を掘るか、村の共通井戸を利用する。下水設備はない。
実はニーナさんから建設資金の借金を申し込まれたこともある。
ロシアの不動産で高価なのは土地ではなく家屋だ。土地は、市の中心でなければ、無料か無料に近いと言う概念があるらしい。だからたとえば、日本で道路などを作る場合、既存の家を買収して用地を確保していくのだが、その家の持ち主が納得するような金額を支払わなければならないので、なかなか道路が開通しないこともあると言うと、どのロシア人も「ロシアでは、そんな家は夜のうちに燃やされてしまう」と答える。
つまり家の建っていない土地は価値がないのか。
『ダーチャは生活維持のためか、ぜいたく品か。ロシア人にとって、なぜ尊いか』とロシア語サイトでは繰り返している。
『ロシアの普通の家族にとって、ベリーからジャガイモまで栽培したダーチャは、長い間生き残りの方法だった。国の生産システムは変わったが、今でも土地には食べ物を植えている。家計の足しになるためより新鮮な自家製野菜を取るためにというダーチャ人が増えてきている。』
しかし、『実用の目的だけとは説明できない。ダーチャは哲学だ。自分の土地だ。自分の家だ。自分の世界だ』なのだそうだ。
若者はダーチャで働く暇はないといっている。彼らが小さかった頃はダーチャの役割が大きく、ダーチャで手伝いをさせられたのだ。だからダーチャ不用論者だ。だが、そのうち年をとったらダーチャで農作業でもするかもしれないと言っている。
都会人の約25%以上の所帯がダーチャを持っている、とヴィキペディアに載っている。ダーチャが廃れてきているわけではないのだ。ロシア人には相変わらず、年齢職業に関係なく、休日はダーチャで過ごすという伝統があるのだ。ダーチャには、実用菜園とリフレッシュという二つの内容があって、以前は一般人には零に近かったリフレッシュの割合がぐっと増えているのだ。
一方、クラスノヤルスク市の人口(2009年1月は94万人)は近郊のベリョーゾフカ村とエメリヤーノヴォ村などを入れて約百万だが(2009年)、70万人がダーチャまたは郊外の畑を持っているそうだ。ダーチャの数は30万戸(未登録18万)、ダーチャ組合の数は1042と、組合議長のグラドチュク氏のインタビュー記事に書いてある。http://kprifkrask.ru/content/view/1166/2
同氏によると、クラスノヤルスクでは実験的ダーチャから初めて収穫があったのは、1938年だそうだ。その後、ダーチャ組合も増え、ダーチャ人口も増えた。ダーチャを取得するのはやさしくはなかったが、希望者は最終的にはどこかの土地を手に入れることができたそうだ。もちろん、当時は放棄ダーチャはなかった。経営の悪いダーチャがあれば、取り上げられたわけだ。しかし、今、27%のダーチャは放置されるままで、雑草が隣のダーチャに侵入したり、浮浪者が住んで放火したりと、無用心なのだそうだ。組合費も払わないと同氏は言っている。
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