クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
        В Красноярске      Welcome to my homepage

home up date 18 July, 2012  (校正・追記; 12年7月26日、8月24日、2019年12月3日、2021年9月18日、2022年9月19日)
29-1(4)  2011年黄金の秋、クラスノヤルスク(4)
遺跡のクラスノヤルスク
           2011年9月28日から10月20日(のうちの10月3日)

В 2011 году в Красноярске(с 28.09.2011 по 20.10.2011)

北京経由クラスノヤルスク リューダさんのダーチャ ダーチャとコッテージ 大都市の中の旧『ニコラエフカ自由村』
エニセイ右岸新旧の名所を行く スリズニェーヴォ絶壁 オフシャンカ村 『もの思わしげな』マナ川 『ビーバーの谷』パーク
『プーチン』橋からソスノヴォボルスク町 旧・閉鎖町パドゴルヌィ ニンジン畑 『レッド・リング』レース場
アフォントヴァ・ガラ遺跡 ユージン図書館 クルトフスキー植物園方面 旧ミサイル基地町ケドローヴィ 『13戦士記念』村
再度アフォントヴァ・ガラ遺跡 エニセイ左岸名所『ビック』と ウスペンスキー修道院 崖の上のアカデムガラドク
新シベリア街道の旅(クラスノヤルスク・ノヴォシビリスク・オムスク) ハカシア・ミヌシンスク盆地への旅 アンガラ河口のウスチ・トウングースカ
 アフォントヴァ・ガラ遺跡 
 ディーマさんとオムスク市へ車で行くのは、2日(日)のサーキット試合翌日からではなく、準備のため1日おいて翌々日の4日(火)からとなる。だから3日(月)の予定は自分で決めなくてはならない。と言ってもリューダさんが車を出してくれる。
 この日は、2002年のエニセイ川クルーズで知り合いになったクラスノヤルスクの郷土史家で、2010年クラスノヤルスク観光の時、偶然にもガイドをしてくれたネルリさんに再々会することにする。前回の再会の時、クラスノヤルスクにまた来ることがあったら、ぜひ会おうと約束していたのだ。
 ネルリさん宅前で彼女を拾って、私が見て確かめたいと思っていた連邦指定考古学遺跡アフォントヴァ・ガラ後期旧石器時代遺跡を探しに出かける。アフォントヴァ・ガラ(『アフォントの山』の意)と言う地名は私の知る限り、どの地図にも載っていない。エニセイ川左岸の鉄道橋の川上、つまり駅の後ろの高い河岸段丘の斜面を指すらしい。ニコラエフスカ・スロボダが鉄道駅後ろの斜面にあるので、ひとまず、そこへ向かう。ここは、リューダさんが市中心部へ出るときに使う迂回路だ。

 17世紀にカーチャ川河口にできたのがクラスノヤルスク砦だが、19世紀後半まで、エニセイ県県庁所在地クラスノヤルスク市の範囲は『南と南東はエニセイ川に、西はグレミャーチャ丘に、北と北東はカーチャ川の間の開墾地』だった。市の西にあるグレミャーチャ丘のエニセイ川への河岸段丘と崖だけを、特にアフォントヴァ・ガラと呼んだらしい。グレミャーチャ丘のエニセイ川河岸段丘でも、東半分、つまり、旧市街地からグレミャーチャ小川(ロック窪地またはクリューチ泉)までの斜面を指し、グレミャーチャ小川の辺りはグレミャーチャ・ロック遺跡と別名になっている。(グレミャーチャ・ロック遺跡は1919年に発見。年代はアフォントヴァ・ガラ2や同4遺跡と同時代の後期旧石器時代。
オレンジ半丸はクラスノヤルスク市
カーチャ川とエニセイに挟まれた赤マルは旧市街
A.アフォントヴァ・ガラ遺跡  1.アカデムガラドク 
G.グレミャーチャ丘  K.カラウリノエ高地 
2.旧軍駐屯地、現娯楽センター『イユーニ』
3.リストヴェンカ川 4.ジヴノゴルスク 5.オフシャンカ
7.クルトフスキィ果樹園 8.ザレディエヴォ駅 
9.ケドローヴィ  10.『13戦士記念』村
 19世紀末、市街地から近い『開墾地』のアフォントヴァ・ガラにはタラカノフカと言うスロボダができていた、とクラスノヤルスク史にある。そこにそれまであった小さな村がタラカノフカと呼ばれていたからだそうだ。一方、1884年、アフォントヴァ・ガラの崖上のエニセイ川を見下ろせる絶景の地にゲンナージィ・ユージンと言う豪商が別荘と書庫を建てた。ユージンが収集した膨大な書籍を整理していた文書学者サヴィンコフが、別荘建設中の崖でアフォントヴァ・ガラ・1遺跡を発見したのだ。1892年のモスクワの考古学学会で発表し、今ではイルクーツクのマリタ遺跡(1万5千年前、または2万年から2万5千年前)と並んでシベリアの後期旧石器遺跡として有名だ。
 タラカノフカ・スロボダは、20世紀初めには市街地に含まれるようになったが、その外側の鉄道労働者のスロボダ・ニコラエフスカは今でも残っている。両スロボダは、前述のようにソ連時代に都市計画から取り残されてしまったような地区で、鉄道駅後ろの比較的都心にありながら都会風インフラはなく、道は細く曲がりくねり、田舎家のような木造平屋1軒屋が無秩序に建ち並んでいる。
 市内には、エニセイに架かる橋が3本しかないため、慢性的渋滞が続いているが、少しでも緩和するために、鉄道橋の少し上流に自動車用としては4番目の橋を架ける計画がある。そうすると、ニコラエフスカ・スロボダには立体交差の道路もできる。だから、この地区は最近の都市計画の渦中にあるのだ。そのため、不動産資本も狙っていて、富裕層向け高層マンションの建設も始まっている。
 世界的に有名なアフォントヴァ・ガラ遺跡も、第4の橋と新都市計画の渦中にあるため、1760万ルーブル(4千万円余)とか言う『かなりの予算』がおりて、特別緊急調査をしているようだ。アフォントヴァ・ガラ周辺は発見された19世紀末から100年以上も調査をしているが、まだ範囲が分かっていない。1980年代には、3万年前とされるアフォントヴァ・ガラ・5遺跡が、サヴィンコフ発見のアフォントヴァ・ガラ1遺跡より北東のかなり離れたところの、現在のエニセイ川面より76mの高さのところで、地下駐車場の工事中に発見された。1から4遺跡までは、エニセイ川面より15mから30mの河岸段丘ところで発見されている。
 だから、都市計画が実行される前に調査しなくてはならない。まだ発見されていない遺跡があると言われているのだ。
クラスノヤルスク近郊の遺跡(教育大学博物館に掲示してあった地図)
1.アフォントヴァ・ガラ 4.ヴォエンヌィ・ガラドク 10.ドロキノ 11、グレミャーチャ・クリューチ 
12、カラウーリヌィ・ビック 14.リストヴェンカ 15、ウスチ・マン 27.シャルニン・ビック

 事実、クラスノヤルスク市と近郊には40か所の旧石器時代遺跡があるそうだが、現在、そのいくつかは詳しく調査もされずに、その場所に大きな建造物などができてしまっているそうだ。その一つがアフォントヴァ・ガラ遺跡より数キロ下流で、同じく左岸の軍駐屯地跡にすぐ(2004年)巨大ショッピング・アミューズメント・センター『イユーニ』が建ってしまったヴォエンヌィ・ガラドク区などがある。ヴォエンヌィ・ガラドク遺跡は1920年代に発見され、アフォントヴァ・ガラ遺跡と同時代とされたが、軍駐屯地になってしまって詳しく調査はされなかった。今となっては、遺跡はあとかたもない。一方、エニセイ右岸のリストヴェンカ遺跡やマン川河口のウスチ・マン遺跡(『ウスチ・マン・1』は1万3千年前から紀元後1世紀、『ウスチ・マン・3』は1万5千年前から紀元前4世紀)、北部郊外のバダルィク墓地の近く、東郊外のバルハトヴォ村などの遺跡はまだ調査可能だ。(エニセイ中流は旧石器後期にはすでに人口密度が高かった地域の一つか)。新石器や青銅器時代に入ると、クラスノヤルスク近郊には、実に多くの遺跡がある。
 また、ドロキノ山麓のカーチャ川畔に1988年発見された紀元前10世紀末の古代人の墓は高度な技術でつくられたものだそうだ。その北のトヴォロゴヴォ村では紀元前7世紀から5世紀の精巧な青銅製斧も発見されている。タガール文化人のものとされ、南のハカス・ミヌシンスク盆地のタガール文化人がここにも住んでいたということだ(つまりタガール文化圏は広かった)。事実、ハカシアに数万基もあると言うクルガン(古墳)も、クラスノヤルスク市周辺のエニセイ右岸に約60基、左岸に数十基あった。http://emelyanovo.ru/rion/history.html)   
  
アフォントヴァ・ガラの崖上
すでに高層マンションも建ち始めている
 アフォントヴァ・ガラ遺跡調査については、テレビでも報道しているが、具体的にどの場所かはリューダさんもネルリさんもわからない。崖下から崖上まで車でぐるぐる回って探してみたが、わからない。高層マンションの建設作業員に発掘現場を知らないかと聞いてみるが、誰一人知らない。地元の人らしい歩行者に聞いてみるがわからない。報道によると、発掘調査しているのはクラスノヤルスク教育大学歴史学部のようだ。
 ネルリさんが知り合いを伝って電話してみると言ってくれた。9日後の10月12日、連絡が取れた歴史学部長のアルテミエフ教授に会うことができ、現場も案内してもらえた。
 ネルリさんは郷土史家で、クラスノヤルスクの郷土史と言えば、普通は、ロシア人が進出してきた17世紀以降のことなので、(遺跡調査史は19世紀末からにはなるが)石器時代のアフォントヴァ・ガラ遺跡の詳しいことは知らない。が、ユージン図書館なら知っている、そのあたりが『アフォントヴァ・ガラ2』遺跡だと言う。
 ユージン図書館
 遺跡はあきらめて、ユージン図書館を見る。前記ゲンナージィ・ユージン(1840-1912)は商人、事業家として成功し、当時クラスノヤルスク市から4キロにあった鉄道橋近くのタラカノフカ・スロボダに別荘と特別な書庫を建て、膨大な量の書籍を収集した。18世紀発刊のロモノーソヴォや『イーゴリ戦記』の初版本、レザノフの手記などの稀有本も多かった。タラカノフカ・スロボダにあるユージン邸宅の場所は当時の資料で『市街地の西、エニセイ川の北、グレミャーチィ丘の東、カーチャ川の南』とある。グレミャーチィ丘の東でエニセイ側の斜面は当時アフォントヴァ・ガラとも呼ばれていた。この斜面の上、エニセイ川が見晴らせる高台にユージンは邸宅と付属書庫を建て、書籍がかりだったサヴィンコフが、後に『アフォントヴァ・ガラ・1』と『同2』と呼ばれる後期旧石器時代遺跡を発見したのだ。
ユージン別荘
別荘のベランダからアフォントヴァ・
ガラ崖下へ下りる階段。崖下は駅構内

 ゲンナージィ・ユージンは、事情があって(息子二人の死がきっかけだとも言う)8万巻以上に上る収集書籍を手放そうとした。ペテルブルク公共図書館が購入しようとしたが予算がなくてできず、結局1906年に合衆国国会図書館が安く買い上げ、現在同図書館のスラヴ部の基礎となっているそうだ。その後、ユージンはまた書籍の収集を行った。第2の蔵書は、現在クラスノヤルスク地方立図書館にあるそうだ。
 旧タラカノフカ・スロボダも、坂道の多い道路は舗装されていなくて曲がりくねり、古い木造平屋建てが無秩序に建っている。ユージン屋敷地は革命後軍宿舎や孤児院、学校などになったが、火事になったり建て直されたりしたので、1981年クラスノヤルスク地方立郷土博物館の管理下に置かれた頃は、著しく破損されていたそうだ。
 ネルリさんの案内でたどり着いてみると、辺りはやはり荒廃していた。今、『アフォントヴァ・ガラ』複合博物館建設が進んでいるようで、残存の建物の修理がおこなわれていた。ユージン宅や図書館などを19世紀末20世紀初頭風に復元したユージン記念館やユージン庭園、アフォントヴァ・ガラ遺跡オープン・ミュージアム、それにカフェとホテルなどが複合された施設になるそうだ。
 ユージン宅はエニセイ川が見下ろせるアフォントヴァ・ガラの上に立っているのでヴェランダからのながめがすばらしい。修理中でヴェランダへは入れなかったが、ヴェランダから斜面を下りるジグザグになった長い階段に立つことができた。エニセイにかかる鉄道橋が見下ろせる。橋に通じる線路も修理中の車両も見下ろせる。
 クルトフスキィ果樹園方面、ジヴノゴルスク市
 ネルリさんとのクラスノヤルスク観光はネルリさんの好きなところに行きたい。そこは右岸のクラスノヤルスク・ストルブィ自然公園の麓で、エニセイ川沿いのクルトフスキィ果樹園だった。ちなみに、郷土史家のネルリさんは、フセヴォロド・クルトフスキィ(1865-1945)について論文を書いている。クラスノヤルスクの大商人出身のクルトフスキィは、1904年ごろから自分の荘園『ラレンチナ』で果樹試験場を始め、シベリアの気候に適した大粒リンゴの品種も作ったそうだ(大粒と言っても、サクランボくらいのシベリア・リンゴの実よりは大きいという程度だが)。クルトフスキィはリンゴの品種を多く作った。その一つはヴェトルジャンカという響きのいい名前を持っている。今、クラスノヤルスク郊外にヴェトルジャンカ団地があるが、ここからリンゴが名付けられたそうだ。
 リューダさんも私も、こんな優雅な果樹園があるとは知らなかった。管理人がネルリの知り合いとかで、好きなだけ食べてもいいと言われる。
 園内は庭園風になっていて、あずまやもある。リンゴ樹やモモ樹の並木道もある。ブドウやアンズ、コケモモ、木イチゴの植え込みもある。甘酸っぱいリンゴをかじりながら、木々の間からエニセイの流れを眺め、リューダさんやネルリさんと長い間歩き回った。食べきれない大粒リンゴは、かばんにぎっしり詰め込んだものだ。
植物園内、リンゴの一種
リストヴァンカで。これは発掘後の一つか

 旧クルトフスキィの所有地ラレンチナ荘園はその後クルトフスキィ記念果樹園と改名され、林業コルホーズなどが管理していたが、今はシベリア総合技術大学クルトフスキィ記念植物園となっている。Ботанический сад им. Крутовского Сибирского технологического университета

 昨日も通った右岸のスヴェルドロフスカヤ通り(国道54号線)をエニセイ上流の方(南)へ行くと、オフシャンカ村の横を通る。オフシャンカ村は昨日入ったので通過。ネルリさんがアスターエフのお墓をお参りしようと言う。村があれば、村はずれには必ず村人の墓地がある。
 ネルリさんの2番目の夫は作家だった。ロシア作家同盟の会員で、雑誌などへも投稿しているが、自費出版で自分の詩集や小説を出しているそうだ。クラスノヤルスク地方在住の文学者なので、同じアスターフィエフとも会う機会が多かった。だから、ネルリさんも、アスターフィエフの知人だった。もちろん、ヴィクトル・アスターフィエフは世界的な文学者で、日本語訳も出ているが、ネルリさんの夫、ニコライ・ガイジュークを知っている人は多くない。
 アスターフィエフのお墓は先に亡くなった娘のイリーナの横にある。墓地では、遺言で沈黙を守ることになっているそうだ。

 この先、M54号線を走り、マナ川を渡ると間もなくクラスノヤルスク発電所町ジヴノゴルスク Дивногорск市だが、その前に1888年創立と言う旧ズナメンスキィ僧院(男子修道院) Знаменский мужской монастырьがある。当時は周囲一帯が僧院村(Скитスキット)で種々の工房もあった。革命後、1920年に僧院は閉鎖され、孤児院として使われたり、林業コルホーズで使われたりしていたが、今は半壊で、残ったところはジヴィノゴルスクの芸術家たちのアトリエになっているそうだ。その芸術家に会いに1999年に、オフシャンカ村図書館の司書の女性と一緒に訪れたことがある。
 ネルリさんによると、ジヴノゴルスクの文化課は予算がないなどと言って、修道院を復興しようとしないのだそうだ。今回、中には入らなかったが、車から降りて写真を撮っておいた。

 ジヴノゴルスク市のエニセイ川岸から眺める対岸の絶壁の眺めは、確かにこの町の名前『ジヴヌィдивный驚くべき』に値すると、私も長い間思っていたが、実は、1950年代後半クラスノヤルスク発電所建設従事者集落が、かつての僧院村(スキット)にでき、当初はその集落をスキットと呼んでいた。が、1957年時ジヴノゴルスクと改名したのは、対岸の絶壁がジヴニエ山 Дивные горыと言う名前だったからだ。
 ジヴノゴルスク市内の食堂でリューダさんとネルリさんで昼食をとる。食堂(столоваяテーブルのある部屋の意)はたいていセルフサービスだ。レストランやカフェよりも、こんなところの方が面白そうだし、お味も悪くない料理もある。分厚いガラスのコップや、アルミのスプーン・フォークは懐かしいではないか。

 アフォントヴァ・ガラ遺跡が見つからなければ、リストヴェンカ遺跡を見たいと、ネルリに頼んであったので、1983年から1997年に発掘調査され、今は何も残っていないリストヴェンカ遺跡に行く。文化層が20あって、1万6千年前から1万年前の層が調査されたそうだが、今は、発掘したらしい跡が残っている程度だ。2004年までの滞在中にも訪れたことがあった。変わっていない。
 ケドローヴィ町
 ここまで来たのだから、ケドローヴィ町へ行ってみようと言うことになった。ネルリさんが、ぜひ見たいと言う。発電所近くの橋を渡ってエニセイ左岸に出て、ダム湖の北側をまわる国道54号線を40キロほど行くと、ザレディエヴォ経由の迂回路に出る。この迂回路で国道53号線に出てクラスノヤルスクに戻る途中にケドローヴィ町がある。ネルリさんたちが行ってみたいと思ったのは、うち捨てられた悲劇の町として、数年前テレビなどで報道されていたからだそうだ。 
 ケドローヴィ町は私の知っている限り軍事基地の閉鎖地区だった。2004年ごろわざわざその入り口の検問所前まで路線タクシーで行ってみたことがある。暗号名で呼ばれていたころは『クラスノヤルスク・66』と言った。その後ケドローヴィと改名したのは、シベリアマツの一種で松ぼっくりの実がおいしいケードル(кедрシベリアベニマツ)が茂っていたからかもしれない。シベリアの針葉樹林帯には、マツ(сосна)、トウヒ、モミ、カラマツなどが多いが、ケードルの松ぼっくりの実はシベリア人が大好きだ。保存もきき、栄養もあるし、口寂しい時などに1個ずつ前歯で割って中身を食べるのだが、みんな子供時代からやっていると見えて上手だ。殻の割り方、中身の取り出し方にコツがあって、それは教えてもらったが、私はどうしても上達しなかった。この名前からきた地名はロシアに多い。
 ここには第36戦略的ロケット(ミサイル)師団ウィーンがおかれていた(なぜウィーンなのか、ちなみに、イルクーツクのロケット基地は『オルロフカ・ベルリン師団』とか呼ばれていたそうだ)。2002年、ロシア連邦全体のウラン弾保管基地が再整備された時に、このミサイル師団の方は解体され、その後、基地も閉鎖され、閉鎖地区・ЗАТОも2007年に解かれた。
検問所の建物(リューダさんの車の
フロント・ガラスに止めてあるのは
速度監視器発見器アンチラダール)
レーニン像の前のレーニン広場
今はカデットスキィ・コルプスに使われている
『1967年8月5日任務遂行中に死亡』と
碑にある

 2004年はまだ、許可なしで行けるのは検問所前までだった。そこがクラスノヤルスクからの路線バス(タクシー)の終点で、ここで降りて、運転手から笑われたが同じ路線タクシーに乗って帰ってきたものだ。
 リューダさん運転のフォレスターで、ネルリさんの提案もあって行ってみたこの日も、検問所前には路線バスが止まっていたが、ゲートには遮断機はもうなく、検問所小屋の窓ガラスは割れていた。(クラスノヤルスク・ケドローヴィ間の路線バスは1日20本以上出ていて、運賃は72ルーブル)
 遮断機のないゲートを通り過ぎると、町の中心レーニン広場に通じる真っ直ぐな道があり、レーニン広場の突き当たりには、文化宮殿(ソ連版公民館)を背後にレーニン像が建っている。祭日にはここで愛国的な式典をやっていたのだろうか。町は全体に寂れた感じで、ゴーストタウンめいていた。この広場を中心に放射状に集合住宅が建ち、浴場や食堂、郵便局、幼稚園、学校、店などの公共建築が整然と建てられ、かつてはそれなりに活気があったのだろう。今、手入れの跡もなく、ひっそりとたたずんでいる。ここは軍事基地以外には企業はないので、再就職できなかった基地関係職員は、転居もできず困窮しているそうだ。職を見つけ、転出するほかない住民の町だ。2010年人口はまだ4500人もいた。だから、通行人は見かけた。青空市場のようなものまである。そのうち建物は崩壊してしまうのかもしれないが、今のところ、旧基地の建物を再利用してカデットスキィ・コルプス(陸軍幼年寄宿学校)ができているとのようだ。
 陸軍幼年学校は、帝政ロシアの18世紀からあって貴族の子弟が学んでいたことで有名。ソ連時代は別名だった(廃止された)が、ソ連崩壊後、その名で復活。例えば、クラスノヤルスク市に、当時知事だったレーベジ少将の主導で1999年創立された。その後、ノリリスク市(しかし、コルプスの建物自体はジェレズノゴルスクに置いた)やアーチンスク市、カンスク市(海軍)などにも設立され、マリインスカヤ・ギムナジアと言う女生徒用もクラスノヤルスク地方に2校ある。カデットスキィ・コルプスは完全寄宿舎制だからか、恵まれない家庭からの児童も多い(革命前は貴族の子弟のみ入学できたから、響きがいいのかも)。ケドローヴィ・カデットは、2002年に第1期生の入学があったが、大部分の生徒は『社会的に不幸な家庭出身』、孤児院、養育院出身だったそうだ。ここで、愛国教育と宗教教育を受け、将来に成功した人生を期待することができる、とサイトにある。
 町の中心のだだっ広いレーニン広場には人気がなかったが、集合住宅群や青空市場近くでは生活の雰囲気があった。ネルリさんが通行人に、記念墓地はどこかと聞く。行ってみると『1967年8月5日職務遂行中に没したロケット(ミサイル)軍人たちの記念碑』と言うのが建っていて、その前の13人の墓には造花の花輪が飾ってあった(墓地は造花が普通)。
 冷戦時代からソ連でさかんに開発されたのはユニヴァーサル・ロケットで、今でもそのモデルチェンジ型が現役だとか。ユニヴァーサル・ロケット100(UR100)と言うのが大陸間弾道ミサイルの初期型で、1966年から生産され、1967年7月から配備されたそうだ。しかし、8月にはクラスノヤルスク・66のミサイル・サイロで始動中に爆発事故が起き、13人が死亡した、とウィキペディアにある。それに先立つ7月にペルム基地でも事故があり、クラスノヤルスク事故での死亡13人のうち4人はロケット軍事赤軍ペルム高等技術学校からの研修生だった、と言う。ミサイル・サイロは40個あった。今もその廃墟がウィキマップなどに示されている。
 しかし、ネルリさんが見たかったのは、この記念碑だったのか、2003年の事件を詳しく知りたかったのかは知らない。2003年の事件と言うのは、元戦略ロケット(ミサイル)師団のケドローヴィ町に組織されていた軍事基地で、突然発砲事件があり5人が死亡という悲劇のことだそうだ。発砲した兵士もその場で自殺した。原因は人間関係か、麻薬吸引の結果か、過度のアルコール摂取かと言われている。1967年の記念碑はあったが、2003年の記念碑はない。
 ケドローヴィ町の悲劇は発砲事件に終わらず、2006年には町長が町への補助金(住民への転居資金か)を横領したことで告発されたり、基地廃止に関する数回のハン・ストがあったり、アメリカ大統領へあてた集団署名の嘆願書が出されたりと、『スキャンダル』が多かったそうだ。
 『13戦士記念』村
 ケドローヴィ町は、『13戦士記念』村(パーミャチ・トリナッチャチ・ボルツォフ村)の背後にある。『13戦士記念』村は国道53号線に面した普通の村だから、ここまでは2004年までのクラスノヤルスク滞在中もドライブ・コースの一つだった。(当時、私は時間があると日帰りドライブをしていた。
『縛られたプロメテウス』のような像と、
その奥の教会
偵察していたわけではないが)。
 この長い村名は、1919年のロシア革命内戦時、コルチャック白軍によって処刑されたと言う13人のパルチザン戦士を記念して、それまでズナメンスキィ村と呼ばれていたのを革命的に改名したそうだ。1968年には、村とカーチャ川が見晴らせる高台に縛られたプロメテウスのような4メートルもの像が建てられ、見上げるものを驚かす(プロメテウスとは革命的プロレタリアをダブらせたギリシャ神話の英雄)。
 ズナメンスキィ村とよばれていたのは、19世紀前半、ここにガラス工場が建てられ、村が発展し、工場主がレンガ造りの聖母(ロシア正教会では『聖神女』が正しい)出現イコン教会 Церковь иконы Божией Матери "Знамение"を建てたからだ。(ズナメニエは出現・示現の意)。革命後、教会は破壊され、その高台には前述のプロメテウスのような戦士像が立ったのだが、その近くに、21世紀になって木造教会が復興された。確かに、戦士像よりやや高いところに教会が建っている。ちなみに、ガラス工場はソ連時代も生産を続けていたが、今は半廃墟となっているそうだ。
 この日も気持ちの良い秋晴れだった。足元は落ち葉でふかふかで、縛られたプロメテウスと聖母出現イコン(聖画)教会前に立つと、遠く低い山々の緑の木立が見える。しかし、落ち葉の間にはゴミが見え、ペットボトルがあちこちにころがっている。草はらの上に瓶や缶詰、ポリ袋などの貯め場もある。こんなところでみんなランチを取るのだろうか。それとも村のゴミ捨て場か。

 10月4日(火)から10日(日)までは連邦道『バイカル』を西へ、ノヴォシビリスク経由オムスクへ『新シベリア街道の旅』に出かけた(その時は、もちろん『13戦士記念』村も通り過ぎた)。クラスノヤルスク『帰宅』の翌日11日(月)には、ネルリさんのアパートを訪問し、彼女の蔵書や著作など見せてもらったり、ネルリさんの日本訪問の手順について説明したり、アフォントヴァ・ガラ遺跡を発掘している教育大歴史学部長を電話で探したり、2004年までの私の日本語科講師時代の教え子ポリーナ・ヴォロビヨーワさんのおばさんがネルリさんの知り合いだったので電話したりしていた。
 夜は、旧友のナースチャ宅を訪れると、彼女のパソコンに日本のホメイ(喉歌)歌手で、アルタイでコンサートをした時の写真があった。実はそのコンサートに、歌手本人からの案内もあったので、都合がつけばバルナウル(アルタイ地方庁所在地)の会場まで行こうと思っていたのだ。全く、世界は狭い。
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