クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
        В Красноярске      Welcome to my homepage

home up date 18 July, 2012 (12年7月26日、8月13日)
2011年黄金の秋、クラスノヤルスク(3)
新しいクラスノヤルスク
           2011年9月28日から10月20日)のうちの10月1日から2日)

В 2011 году в Красноярске(с 28.09.2011 по 20.10.2011)

1 北京経由クラスノヤルスク リューダさんのダーチャ ダーチャとコッテージ 大都市の中の旧『ニコラエフカ自由村』
2 エニセイ右岸新旧の名所を行く スリズニェーヴォ絶壁 オフシャンカ村 『もの思わしげな』マナ川 『ビーバーの谷』スポーツ総合パーク
3 『プーチン』橋からソスノヴォボルスク町 旧・閉鎖町パドゴルヌィ ニンジン畑 『レッド・リング』レース場
4 アフォントヴァ・ガラ遺跡 ユージン図書館 クルトフスキー果樹園方面 旧ミサイル基地町ケドローヴィ 『13戦士記念』村
5 再度アフォントヴァ・ガラ遺跡 エニセイ左岸名所『ビック』と ウスペンスキー修道院 崖の上のアカデムガラドク
新シベリア街道の旅(クラスノヤルスク・ノヴォシビリスク・オムスク) ハカシア・ミヌシンスク盆地への旅 アンガラ河口のウスチ・トウングースカ
 『プーチン』橋からソスノヴォボルスク町
 10月1日(土)は試合の前日の走行があるとかで、レース場に12時ごろ行く。この時間に試走するそうだ。ドラッグレースもサーキットもおもしろいかもしれないが、実は私にはやや退屈。
 ディーマさんが出場するサーキットの本試合は明日だから、本格的な応援は明日になる。この日は午後2時前にレース場を出て、数年前にできた大回りバイパス大橋を渡ってみることにした。
クラスノヤルスク市北東部、大回りバイパス(新M53号線) 
赤い長丸は旧クラスノヤルスク市(19世紀末頃まで)で長さ約3キロ
オレンジの長丸はほぼ現在のクラスノヤルスク市
緑の長丸はグレミャーチャ・グリーヴァ(丘)
A.アルミニウム工場 1.アカデムガラドク 2.レース場 
3.プーチン橋 4.ソスノヴォボルスク市 5.パドゴルヌィ町 
6.ジェレズノゴルスク市 K.検問所 7.エサウロヴォ村 
8.タルタット村 9.トゥヴォロヴォ村 10.ロゴヴォィ村 
11.アタマーノヴォ村

 シベリア横断の東西への国道(連邦道M53号線)はクラスノヤルスク市の中心を通っているが、今ではそれは旧道で、市を迂回するバイパス(今では小バイパスと呼ばれている)が10年以上前にでき、そちらの方が国道になっていた。その後、市街地は膨らみ、車も増えて迂回路も渋滞になったので、数年前、もっと大遠回りする立体交差の大バイパスができた。そこを、高速道路並みのスピードで走ると気持ちいいらしい。
 大きく迂回して走るので、クラスノヤルスク市が草原丘陵地帯にできていることがよくわかる。旧クラスノヤルスク市はエニセイ左岸とカーチャ川河口の間の低い河岸段丘にあったが、現在は四方八方に何倍にも膨張している。その外側も草原丘陵地帯だ。
 膨張した市の中央をエニセイ川が流れ、クラスノヤルスク市を、旧中心街や鉄道駅のある左岸と、工場地帯から発展した右岸に分けている。
 ちなみに、エニセイ川はクラスノヤルスク市を2分することになったばかりか、西シベリアと東シベリアの境目にもなっている。ウラル山脈の東から続く西シベリア平原が、エニセイ川西岸で終わり、東岸から中央シベリア高地がサハ(ヤクーチア)まで続くのだ。クラスノヤルスク市は歴史的には東シベリアに入るが、地理的にはどちらにも入ると言っていい。
 どちらにしても、東西への往来には必ずエニセイ川を渡らなくてはならない。18世紀にできたシベリア街道もクラスノヤルスクでエニセイを渡ったし、19世紀末のシベリア幹線鉄道も、クラスノヤルスクで鉄橋を作ってからイルクーツクまで開通した。1961年には、それまでエニセイを渡る船橋だったところに、初めて歩行者自動車用の橋ができた。ここを渡って東西へ伸びているのが旧国道53号線だ。
 大回りのバイパスは、もちろんこの市内の渋滞激しい橋は通らず、2008年に開通したずっと下流にある『大回りバイパス橋(通称プーチン橋)』を通って右岸に出られる。エニセイを渡って東西に行き来するには、市内の旧国道を通るより距離も短いくらいだ。橋を渡って道なりに行くと、プーチン橋開通に間に合うようにできた立体交差点があって、ここを直進すると元々の国道53号線に合流できる。直進しないでエニセイ川を遡るように曲がると、ベリョーゾフカ村の旧国道53号線を通ってクラスノヤルスク市街に戻れる。また、エニセイ川に沿って川下(つまり北)へ行く道もある。
 リューダさん(に限らない)は、
「どこへ行こうか」とよく聞くが、クラスノヤルスクに10年住み、その後もたびたび訪れている私は
「ジェレズノゴルスク(旧クラスノヤルスク26市)以外は、市内や郊外はだいたい訪れたことがある」と、答える。ジェレズノゴルスク市だけは閉鎖都市で、許可がないと入れない。つまり、普通に訪れることができる場所で、まだ見てない所は『ない』と言う意味だが、
「ジェレズノゴルスク市へは、許可は取れるかどうかわからない」と、私の答えに、リューダさんはまじめに対応する。もちろん、取れない。
 そんな会話があったので、もちろん取れないのだが、一応ジェレズノゴルスク方面、つまりエニセイ川下(北)に沿った道の方へ曲がった。道路標識には『ソスノヴォボルスク20』とある。ソスノヴォボルスク町から5キロほどのジェレズノゴルスク市(への検問所前)で、この道は行き止まりになっている。ひとまず、ソスノヴォボルスクに行くことにした。それはリューダさんからの提案だが、私はどこと言われても、相手側から言われた場所は、それなりのわけがあるだろうから(つまり、言った人が行ってみたいという訳)、承知する。

 この方面は、ソ連時代からの戦略都市ジェレズノゴルスクに通じるのだから、昔からよい舗装道ができている。 この道に平行して、ジェレズノゴルスクへ鉄道支線も走っている。途中にエサウロヴォとか、テレンチエヴォといった村への標識が見える。エサウルと言うのはコサック隊の副隊長で、アタマン(エニセイ川の対岸にその名の村がある)の副官。
ソスノヴォボルスク市

 やがて、道路からもよく見えるように、町の一番外側の大きな建物の屋上にソスノヴォボルスクと大きな文字が見える。クラスノヤルスクに住んでいた頃は、市から近くて、舗装もされているソスノヴォボルスク方面は私のドライブ・コースの一つで、町の中へも入ったものだ。当時、ペレストロイカ後、建設途中で放置された鉄骨だけの高層住宅も多かった。市の南に立つ10軒ほどの建物がそうだった。もっとも、このような不気味な建造物は、当時はソスノヴォゴルスクに限らなかったが。
 今、ソスノヴォボルスク市に入ると、そんな建造物も減っていったようだった。車がかなり普及して、クラスノヤルスク市から30キロのソスノヴォボルスクは手頃の値段のベットタウンになったのか。アンガラ川中流のバグチャンスカヤ水力発電所に沈む村々の住民用に住居が与えられたとか、ネットで読んだこともある。
 旧閉鎖町パドゴルヌィПодгорный
 ソスノヴォボルスク市の奥にパドゴルヌィという町があって、これはクラスノヤルスク35という暗号名で呼ばれていた閉鎖地区だった。
 ソ連時代は存在しないことになっていて、地図にも載っていなかった閉鎖都市(地区)ЗАТОは、今でもロシア連邦内に45か所ある。以前は『クラスノヤルスク45』市とか『トムスク7』市とかいうように暗号名で呼ばれていたが、1990年代前半には普通の地名になり地図にも乗るようになった。たとえば、『チェリャビンスク65』市は、1994年からはオジェルスク市と改名した。ちなみに、”ЗАТО”の45区域中、オジェルスク市の人口はたぶん4位、1位は10万を超えるセーヴェル市(旧トムスク7)で、2位はジェレズノゴルスク市。ソ連崩壊後現在までに、閉鎖が解かれた都市(町)も40以上あるが、クラスノヤルスク地方ではジェレズノゴルスク市とゼレノゴルスク市(旧クラスノヤルスク45)、ソルニチヌィ町(旧ウジュール4)が”ЗАТО”となっている。
 ジェレズノゴルスク市は1950年という早い時期から、核兵器用プルトニウム関係の『化学鉱山コンビナート』の町として、シベリア幹線鉄道からエニセイ右岸の沼地まで、50キロの支線を敷いて建築が始まったと、サイトにある。1958年には地下200-300メートルのコンビナートが稼働したそうだ。現在も、戦略的重要都市のひとつで、クラスノヤルスク地方でも人口で5番目の85千人。また、『レシェトニェフ情報衛星システムズ』社もあって、現在は民需スプートニク(人工衛星)の70%を生産しているそうだ(1959年に国防技術産業の一環として建設が始まり、2008年までは『レシェトニェフ応用技術科学生産公団』と呼ばれ、衛星打ち上げロケットなどを研究製造していた) 
ポドゴルヌィ町入り口、今は遮断機もない
『ポドゴルヌィ1954-2009,55周年』
と書かれた石碑とシカの像
建設中の教会、その横に仮の教会
タルタット人口池
ポドゴルヌィ『化学工場』入り口
ジェレズノゴルスク市方面への検問所

 その『クラスノヤルスク26(現ジェレズノゴルスク)』市の衛星都市として、5キロ南の沼地荒野の第4区に、投下爆弾や諸設備の格納庫として1953年から建設の始まったのが、クラスノヤルスク35だ(だから『第4区』とも呼ばれた)とサイトにある。1955年からは第4区の周囲には鉄条網が張られ、矯正労働用囚人の検疫基地だったそうだ。(スターリン時代、荒野に新都市を建設したり、鉄道運河道路を敷設したりするためには、囚人労働が利用された)。ちなみに、1950年代閉鎖地区ができた沼地荒野には『第4区』のポドゴルヌィの他、『第9区』の後のジェレズノゴルスク市街地もあった。だから、現ジェレズノゴルスクの市街地はソ連時代『クラスノヤルスク29』とも『第9区』とも呼ばれていた。
 60年代初めには『第4区』のバラックにコムソモール隊も移住して、『26』市の化学鉱山コンビナートの支社として、ロケットエンジン用試験台や衛星ロケット技術、超低温製品や軍事ロケット関係の廃棄などの部門をもつ『化学工場』ができ、町のインフラも整ってきたそうだ。(コムソモール・共産青年同盟の労働力は、矯正施設の囚人労働と平行して用いられていた。こちらは一応、自由意思。将来自分たちが建設した町の住民になることが多かった。このようにしてソ連時代『処女地』開拓が進んだそうだ)。

 ソ連時代に工場城下町として荒野の中に作った町は、生活に必要な施設や文化施設も計画的にできている。近くにある湖を整備して保養施設ができている所もある。湖がなければ、川をせき止めて大池を作った。ポドゴルニィ町には、町自慢の人口湖があって、かなり有名らしく、リューダさんは、その湖の話を聞いて、来てみたかったそうだ。

 ジェレズノゴルスクは今でも厳重な閉鎖都市だが、パドゴルヌィは2008年、閉鎖が解かれて、出入り自由になった。ソスノヴォボルスクから数キロ奥の町の入り口には、無人の検問所付きゲートが開いたままになっている。そんなゲートを写真にとりながら過ぎると、町のオベリスクが見える。2009年に、町創立55年周期記念に建てたもので、町のシンボルなのかアカジカの像もあった。検問所から、市の入り口のオベリスクまでの近さといい、ひっそりと立つオベリスクといい控えめな町だ。面積7平方キロで、街中をぐるりと回ってもすぐ町外れに出てしまう。人口は6千人余だが、高齢化で平均年齢が47歳と言う。人口の30%は『化学工場』に勤めているが、新規採用幅が少ないので、若者は町を出るのだろうか。
 6千人の町と言えば、立派な教会を建てるようだ。町の高台に外観はかなり完成した金色の丸屋根の立派なキリスト復活教会が建っていた。2000年10月21日にクラスノヤルスクとエニセイスクの大主教アントニィによって基礎が置かれたと書いた標識が立っていた。スターリン時代に破壊されて、現今、復興した教会ではないと言うことだ。革命前にはなかった町だから、元々教会もなかった。こうした20世紀後半にできた多くの工場城下町にも次々に、その町の財政に応じて、新築教会が建て始められている。
 財政状態が不透明なのか、完成は、いつとは書いてない。横に仮の教会小屋が立っていたので、ドアを押してみると開いた。ロシア正教の教会へは女性は頭にかぶり物をしなければならない。仮の教会なので狭いが、イコンや祭壇もあって日直のおばあさんもいる。お勤めする時は、神父さんが出張してくると言っていた。
 ロシア人は信心深い民族だ。日本では修理はされるが、こんなに寺院が新築されないし、こんなに復興もされない。信心深いリューダさんはろうそくを買って火をともしている。私も、お付き合いする。聖人のイコンがかけてあって、その前に蝋燭立がある。聖人の中にはロシア(帝国)を守ってくれる聖人もいる。残念ながらロシアだけを守護するそうだ。リューダさんがお参りしているうちにも、生まれた児の洗礼をするための家族が入ってきた。
 元々閉鎖都市なので町の出入り口は一つだが、その反対方向に出口のような道が一本通じていた。これは出口ではなくて町自慢のタルタット貯水池(人口湖)で行き止まりになる。近くに『タヨージヌィ(針葉樹林の)』という保養者、つまりホテルもある
 人口湖は、沿エニセイ山地Енисейский кряжから流れてきたタルタット川をせき止めてできたものだ。タルタット川はエニセイ川の小さな左岸支流で、河口にあるのがタルタット村で人口は88人とあって、行政的にはジェレズノゴルスク市に属するが、検問所ゲートの2キロ半手前にあるので、出入り自由なのは、同じジェレズノゴルスクに属してもドドノヴォ村(415人)のように検問所の向こう側にある村と違う点だ。
 タルタット貯水池は200メートル四方くらいの小さな湖で、もう葉が落ちて白い幹だけになった白樺や、まだ黄金色の白樺や、濃い緑の針葉樹の生えている低い山に囲まれてひっそりとたたずんでいた。湖底の白樺の落ち葉が透けて見える。水際にはイルカなどの像もあって愛想らしい。
 サイトによれば、『化学工場』社員のボランティアで、1968年に完成したそうだ。リューダさんによると、砂浜も人工のもの、つまり、砂も運んできたものだそうだ。計画経済で工場ができれば、そこに働く人の住居、商店や娯楽施設も人口に応じて作ってきた。屋内施設ばかりではなく、屋外と言えば、水辺が最もロシア人の好きなものだ。魚釣りもできれば、船遊びも、水浴も、日光浴もできるし、水源地にもなる。
 町外れには、この町を作った目的の『化学』工場もある。ここは入口に制服の男性が建っている。後で知ったことだが、この町には有名な考古学博物館がある。
 ソスノヴォボルスクからは5キロでジェレズノゴルスクへの検問所だ。検問所の前まで行って写真を撮って来た。この道はエニセイの右岸近くを走っているので、少し道を入って松林の丘に上がると川が見える。クラスノヤルスク滞在中の2004年までの間に何度か来たことがあるので、寄ってみる。
 にんじん畑
ニンジン畑、大きな網に詰めた人参
ビニールハウスの骨
 また大迂回バイパスを走って帰途に着く。行く時には気がつかなかったが、橋の手前の荒野のように見えたのは人参畑だった。リューダさんによると、『荒れ地』を中国人の農業経営者に賃貸ししているそうだ。遠くから赤い点々にみえたのは、収穫した人参を詰めた大きな網の袋だった。それが、畑の中に一定距離ごと置いてあるのだ。立っているネットもあれば倒れているネットもある。作業している人もいる。ニンジン袋を集めるらしいトラックも止まっている。
 リューダさんによるとロシア人はこんな仕事はしないそうだ。彼ら中国人の出稼ぎ労働者は、バラックのようなところに仮住まいしているという。実は、最近クラスノヤルスク郊外の荒れ地にはこうした『農場』が多くつくられ、おかげで、市内の商店も潤っているようだが、リューダさんによると、収穫をあげるために彼らはどんな強い農薬、どんな肥料を使っているか、知れたものではないとか。でも、使用農薬などの基準があるでしょう、と言っても、必ずしも守っているかどうかわからないとか、住民の健康のための監視というのは形ばかりのこともあるとか。
 橋を渡った荒野ではビニールハウスの骨が見えてくる。見晴らす限り、地平線まで続いていて、さすがシベリアと思ってしまう。リューダさんは、何せ、この辺は荒れ地で、コルホーズもなかったと言う。確かに、市の東は別荘団地もない。アルミ工場があるうえ、西風が吹いて、こちらは環境が悪いのだ。
 ロシアでは中国人の農業従事者たちの他に、建設業では、タジキスタンやキルギスなどの中央アジア旧ソ連圏からの出稼ぎ者を多く見かける。煉瓦を運んでいるタジク人を車の助手席から素早く写真に撮ってしまったことがあるが、その時リューダさんは、
「ロシア人ならこんな低賃金悪条件ではだれも働かない」と言っていた。中央アジアは失業者が多く生活が苦しいそうだ。ロシア人によるとそのまま不法滞在、またはぎりぎりの合法滞在をする人も少なくないとか。事実、グレミャーチャ・ロッグ高層住宅を建てている建設従事者のタジック人の何人かは不法滞在とかで新聞に載っていた。
 農場は『プーチン』橋の前後、大バイパスの左右に広がっているが、バイパスの上り線側では市の上流にニャーシャと言う小さな村があり、その近くに6,7千前の新石器時代遺跡が発見されている。ニャーシャ遺跡はまた、中世(特に4世紀から9世紀)までの住居跡が調査されている。
 『レッド・リング』レース場
 10月2日(日) 、ディーマさんはレースに出場し、私たちには応援の日だった。
 2006年初めてオート・スポーツを観戦したが、イベントも盛りだくさん、会場に簡単には近づけないくらいの大変な盛況ぶりで、もちろん、超満員。A席入場料はびっくりするほど高価だった。当時、会場は飛行場の滑走路を使うという大胆なものだった。
 ちなみに、クラスノヤルスクには、シベリアで最も規模が大きい飛行場の一つと言うエミリヤーノヴォ空港の他に、主に、クラスノヤルスク地方内の、例えば、1330キロ北のイガルカ便や、735キロ東北のコーディンスク便などが発着するチェレムシャンカ空港もある。チェレムシャンカ発着は週に15便程度で週末はなし。だから、2006年私が観戦したドラッグレースはチェレムシャンカ飛行場であった。
試合の前、壇上からの遠景が素晴らしい

 クラスノヤルスクには、そのほかにも、クズネツキー飛行場のような第4カテゴリーの飛行場が3ヶ所ある。
 2008年ごろ、国際自動車連盟FIAの規格にも合致していると言う本格的なカーレース場『レッド・リンク』が、クラスノヤルスク郊外国道53号線沿いにできた。ロシアで最初にできたと言う正規のレース場だそうだ。
 チェレムシャンカ飛行場時代から出場していたワジムさんが、ドラッグレースにスカイラインで出場するだけでなく、数年前からディーマさんもサーキットにインプレッサで出るようになった。台湾製フェデラル・タイヤの代理店もしているからだ。
 観客席は以前ほど満席ではないが、相変わらず高価な入場料なのにかなりの入りだ。私たちには出場者用のテントがあり、特別観戦席があった。出場車のメンテナンスをする『技術者』と言うカードをぶら下げているので出入り自由だった。出場車用テント近くには仮設だがトイレがあって、ほとんど順番なしで使えた。
 『レッド・リング』は市街地から北西15キロの、草原丘陵地帯をぬって走る国道53号線沿いにある。壇上の観戦席に座ると、レース場の外側に広がる草原地帯が見渡せる。平地の終わるところに低い丘があり、麓にはトゥヴォロヴォ村やロゴヴォィ村と言った500人ほどの村々がかすんで見える。
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