クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 01 April, 2017 (追記・校正:2017年5月5日、5月30日、2019年12月16日、2021年11月23日)
34−1    2016年 トゥヴァ(トゥバ)からペテルブルク (2)
    トゥヴァ遺跡を訪れる
           2016年8月2日から8月10日(のうちの8月4日から8月5日)

Путешествие по Тыве 2016 года (2.8.2016−10.8.2016)

1) 8月2日から8月10日  トゥヴァからサンクト・ペテルブルク
  8/2-8/4 ハバロフスク経由(地図) クラスノヤルスク クラスノヤルスクからトゥヴァ(地図) 考古学キャンプ場
  8/4-8/5 匈奴のカティルィク遺跡 スグルク・ヘムの岩画(地図) 影のない半砂漠草原で『遭難』 『救助』される
  8/6-8/10 巨大古墳チンゲ・テイ遺跡 ダム湖から現れた遺跡 トゥヴァからクラスノヤルスク サンクト・ペテルブルク
2) 8月11日から8月20日  コミ共和国の北ウラルからサンクト・ペテルブルク
3) 8月20日から9月6日   北カフカスのオセチア・アラニア共和国からサンクト・ペテルブルク
Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、トゥヴァ語からロシア語へ転記された地名をロシア語の発音に近い形で表記した。
 匈奴のカティルィク遺跡
 8月4日(木)、テント内の地面にマットを敷いてそのうえで寝袋に入って寝るより、細くてもベッドがあるのはありがたい。すでに寝袋が敷いてあったので、その上にディーマさんから借りてきた寝袋を広げて寝た。快適のはずだが、寝袋同士が滑って、明け方ベッドから落ちて目が覚めた。もともと、このテントは予備用で、客用テントは別にあり、今はシャッピーロさんが使っているのだが、彼は、この日からキルノフスカヤさんたちと一緒にモンゴルに行く。荷物は置いてあるが、よければ、こちらの方を留守中お使いくださいと言われている。
 6時前だった。ぶらぶら歩き廻る。キャンプ場は去年よりやや川上に場所が移動されているだけで、いつもの食堂、いつものエールベック川の岸辺(2013年のキャンプ場はウユーク川岸だった。2015年はエニセイ川岸)、いつものユルタ、いつものテント、いつものトイレ小屋、いつもの蒸し風呂小屋だった。セミョーノフさんとキルノフスカヤさん夫婦の大きなテントや、ラザレフスカヤさんとタチヤーナ・エルショヴァさんの大きなテントは煙突付きだ。長期に滞在するうえ、4人とも年配だから暖房があった方がいい。知り合いにはみんなにあいさつ。みんな以前より愛想がいい。キルノフスカヤさんたちが私の招待で来日したことがあったので、より親しみを感じてくれているのだと思う。
 8時過ぎには、モンゴルへ行く一行(カメラマンのシャッピーロさん、キルノフスカヤさんたちの一人息子の若い考古学者のトーリャも)がジープに乗って出発した。まずクィズィールへ行き、手続きをして、モンゴルの考古学者を一人乗せて、この日の夜には国境のハンダガイトゥ村だそうだ。国境付近には遺跡が多い。ぎりぎりトゥヴァ領内の遺跡調査の後、国境を超えモンゴルのウブス・ヌール周辺を調査、さらにウブス・ヌール南東のウランゴム市(モンゴル語ではオラーンゴム、人口2万人余)へ行く。いいなあ。私も本当にこのコースを回りたい。
 シャッピーロさんが使っていた客用テントの方が、ベッドも広く、ベッドルーム(?)と入口の間(?)との間に仕切りがあるので、より暖かそうだ。シャッピーロさんから良かったら留守中使ってくださいと言われたので引っ越してきたのだ。トゥヴァは1日の寒暖の差が激しく、昼間は半そででも暑いくらい、日が沈むと急に寒くなり、セーターやカーディガン、ジャンパーなどを重ね着し、寒いのでそのまま寝袋に入り込む。朝は、6時過ぎ太陽が周りの高い山から顔をのぞかせると、少しずつ暖かくなってくる。
サウスケン遺跡
カティルィク遺跡

 仕事は9時前から始める。調査隊長のキルノフスカヤさんがいなくなっても、みんな自分の持ち場で仕事をしている。発掘しているサウスケン遺跡に近いところにキャンプ場を設営しているので、みんな歩いて持ち場に行く。今年は小規模で、サウスケン古墳群の4基か5基ぐらいしか発掘しないらしい。
 ナターリア・ラザレフスカヤさんが案内してくれた。発掘していたのは、サンクト・ペテルブルクからの考古学関係者のほか、地元の考古学者とその二人の息子、なぜかチェコから来た青年、セミョーノフさんの甥。経理担当アレクセイさんの奥さんたち。
 2014年(鉄道建設予定地発掘調査の第4年目、前ページの地図)に掘り残した古墳なのか。その時はこの近くに国際ボランティアの大きなキャンプ場があったが、今はただの草原の河岸段丘。その当時は、エールベック川の対岸には、ボランティア青年たちが楽しむ広場や、舞台がしつらえてあった。対岸へ渡るための立派な木の橋もその時に特別に作った。今見るとその木はまだ新しい。サウスケン農場の牛が渡っている。

 一通りサウスケンを見ると、ドイツからのパーヴェル・レウスさんも一緒に、コク・エリ時代(紀元前2世紀から紀元後5世紀のグン(匈奴)・サルマート時代の一部)の珍しいカティルィク遺跡へ出かける(地図は前ページ)。住居跡は周りに2重の堀がある。ここは製鉄所でもあったらしい。2014年にも掘っていた。2015年はスポンサーの都合でエニセイ左岸のクラースナヤ・ゴルカ遺跡に移ったが、キルノフスカヤさんのグループのサディコフが調査を続けていた。
 カティルィク遺跡は、サウスケンから山手の方(ウユーク山地)へ、かなりの悪路を行かなくてはならない。2年前はピーシコフさんのウアス(ロシア製ジープ)で苦労して行ったものだ。パーシャの車で今年は、普通のぬかるみ道だった。
 カティルィク住居跡の近くの草原にはコク・エリ人の墓地があるという。古墳のような盛り土ではなく、反対に凹んでいた。これは遺骨(遺体)用の郭(地下の空間)が長年の間に埋まって表面の地上が凹んだからだという。確かに、草原の中、凹まなくていいところが不自然に凹み、その凹みが点々と鎖状にある。凹みの真ん中には高い木も生えている。水がたまるからだ。古墳のような盛り土があっても、その下の郭が2千年の間につぶれて上空から見るとドーナツのように見えるものだ。雨が降ってくぼみに水が溜まって木が生える。
 パーシャ運転のピックアップにもどる。途中で、突然Uターンしてエールベック川岸へ寄るので何事かと思ったが、それは、水を飲みに来ている羊群の写真をパーシャが撮るためだった。パーシャのカメラの対物レンズの調子が悪くて、撮ったり外したりしながら、パーシャはなかなか出発しようとしなかった。私もナターリアもパーヴェル・レウスにも、羊群の写真に、今更興味がなかったが、黙って、撮り終わるのを待っていた。
 午後1時近くにサウスケン・キャンプ場に戻ると、パーシャはその後オリガ・カラムィシェヴァさんから対物レンズを借りたらしい。
 スグルィグ・ヘム遺跡 岩画 『3人の兄弟ウシュ・コジェ』石柱
 キャンプ場の食堂で昼食後、4人でバヤン・コル方面の遺跡を見に行った。ここにはウラジーミル・セミョ−ノフさんとキルノフスカヤさんが調査した古墳や岩画があるという。レウスさんが提案してくれて、私も是非と賛同。サヤノ・シューシェンスカヤ・ダム湖(トゥヴァ海)完成後の1984年から93年頃まで、新ダム湖周辺の道路などが整備された(つまり車輪が通れるような固い表面の道、普通は砂利道ができた。)その工事前の考古学調査は ИИМК(有形文化財歴史研究所、本部はサンクト・ペテルブルク)が行った(研究所のトゥヴァ担当はセミョーノフさんがトップだった。今もそうだが事実上は妻のキルノフスカヤさんが取り仕切る)。
ヘルビス山の岩画(2003年に再版された冊子から)

 バヤン・コル村(クィズィールから約50キロ)までの道路の途中に、1993年までに対岸のハイゥイラカン遺跡とともに調査されたスグルク・ヘム Суглуг-Хем古墳群(クィズィールから32キロ)があり、その背後にあるヘルビス Хербис山南斜面には、キルノフスカヤさんが調査した岩画がある。
 2時過ぎ、私たちはピックアップに乗り込み、サウスケン・キャンプ場を出てエールベック川岸(左岸)を下り、エールベック村方面へ行く。おおむねこの道に並行して、対岸(右岸)を新鉄道が走ることになっている。2年前、通った時は対岸の重機が見えたし、エールベック貨物駅の予定地近くには作業員のコンテナ住居やジープが並んで、草原の中の人口村のようだった。今、ひっそりとして、重機やジープは2,3台しかみえなかった。稼働している様子はなかった(鉄道は果たして開通するのだろうか、いったいいつのことか。ここまで資金をかけて来たのに)。
   (後記;2021年3月26日ロシア政府は2026年まで5年間建設を延期すると発表した)
 ウルッグ・ヘム(エニセイ川)まで出ると、川岸を通って川下に向かう。途中から山の中に入るが、バヤン・コル川に沿って下り、再びウルッグ・ヘム(エニセイ川)岸にまで出たところに、バヤン・コル村がある。この道の造成前の考古学調査をセミョーノフが行い、その報告書が冊子となって “スグルク・ヘムとハイゥイラカン トゥヴァ盆地中央のスキタイ時代の古墳 2003年”というのがある(と後で知った。上記挿絵も)。Суглук-Хем и Хайыракан, Могильники скифского времена в центральн-тувинской котловине  
 遺跡は、道が山に入ったとことにある(クィズィールから35キロ)。パーヴェル・レウスさんは多分発掘に参加していたのだろうし、ラザレフスカヤさんもそうだ。この辺というところで、パーヴェル・レウスさんは車から降りると、小高いところに上って見つけてくれた。調査跡の穴が開いている、石棺も残っていた。この古墳群の背後のヘルビス山に岩画がある。岩画というのは、知っている人でないと見つけられない。近くへ寄らないと薄い打刻画が見えないからだ。トゥヴァの低い山はたいてい岩山で、その間に灌木や草がまばらに生えている。ところどころの岩肌に今では薄くなった打刻画があり、見つけるのは難しい。
ヘルビス山の岩画のある斜面
6番岩画
立石の周囲には大麻
『3人の兄弟』左奥には休憩小屋

 ヘルビス山は道路より15mほどの高さの切り立った壁が続く岩山だ。高さが1mか2mの垂直の壁が積み重なって、山はだんだん高く細くなっていく。垂直の壁の前にはテラスのような通路があることもある。このような岩山はトゥヴァには多く、注意深く見ていくと岩壁に岩画が見つかることがよくある。しかし、それは、そこにあるはずと知っている場合のみ。
 後にコピーさせてもらった前記冊子“スグルク・ヘムとハイゥイラカン トゥヴァ盆地中央のスキタイ時代の古墳 2003年”によると、ヘルビス山の岩画は、当時キルノフスカヤさんが丹念に調査した。全部で25場面の磐があり、それぞれに白のペンキで番号が振ってあって、今でも消えていないはずだ。
 9番はすぐ見つかった。向かって右の岩壁を探すと7番も見つかった。8番や、6番より先が見つからない。10番より後は1段高い岩場にあるらしくラザレフスカヤさんが昇って行って探している。6番より先は6番の右にあるはずだが、レウスさんがいくら探しても見つからない。彼は、今頃は国境近くにいるはずのキルノフスカヤさんに携帯をかける。
 岩場のテラスはとても歩きにくい。それでもレウスさんが携帯で知った6番と5番の場面にたどり着いて写真を撮った。番号のない岩画、またはここ数年の間に消えてしまった(はがれてしまった)岩画も2枚あった。先ほどの冊子に出ているイラストと、帰国後照らし合わせてみると、それは4b番の画面と2番の場面と分かった。冊子が、その時あればよかった。場面ごと、シカなどの動物の描写の詳しい説明が書いてあるからだ。

 1時間ほどヘルビス山麓にいて、車に戻る。
 そこから山手の方に10分も車で進むと、ちょっと広い草原に出る。その真ん中に立派な立石が立っているのが遠くから見えた。キルギス時代の立石だそうだ。周りに広く円形にごろごろした石が並んでいて、立石はその円周近くに、円の中心を向いて立っている。その横にも石で囲った同じくらいの大きさの円があるが高い立石はない。
 気持ちの良い草原だ。ウユーク山脈の麓までまっすぐ続いている。この山の南斜面を流れているエールベック川の中ほどにサウスケン・キャンプ場がある。今見ると山には黒雲がかかっている。キャンプ場は雨が降っているかもしれない。立石のある草原は蒼穹の下にあるが。
 石の間から背の高い見慣れた草が生えていた。大麻だ。

 5時ごろ、帰途に就く。もと来た道を戻って、川岸から丘陵地に入り、エールベックの貯水池が見えるところで右に曲がると『3人の兄弟』があるというので、行ってみる。ウシュ・コジェーУш-Кожээという(地図は前頁)。トゥヴァ語でウシュУшは『3』、コジェーКожээは『石像』という意味だ。ちなみに人間はキジкижиと言う。緩やかな丘陵草原の中3柱の石像が遠くから見えた。パーヴェル・レウスさんが教えてくれたことだが、これは鹿石という紀元前9世紀から3世紀の青銅器時代から鉄器時代初期の墓または供養の記念物だという。鹿石と言っても鹿が彫ってあるとは限らない。このタイプのものは鹿石と考古学上は名づけられている。『3人の兄弟』とは近世のトゥヴァ人がそれらしく名付けたものだ。2メートルはある3柱の細長い直方体の立石が3メートルくらいの等間隔で南北に並んでいる。顔は東を向いているそうだ。3柱は胴のあたりにベルトのような横線が彫ってある。また3本の斜め線もある(これはよく見かける。香炉だと聞いたことがある)。ウシュ・コジェーの背後にある立て看板には、「3柱のうちの1つには、耳のあたりには輪が、首のあたりには鎖が、腰のあたりには剣を彫ったような模様がついている」とロシア語で書かれている(ということはここに訪れるのはトゥヴァ人だけではないということだ)。
 帰国後、トゥヴァの詳細地図(100万分の1、ロシア語)には記念物マークがありウシュ・コジェー Уш-Кожэと記入されている。そこに至る丘陵草原は「ウローチッシャ(場・界)・ウシュ・コジェーурочище Уш-Кожэとあった。古くから有名で、トゥヴァ人の信仰の対象にもなっていたらしい。
 陰のない半砂漠草原で『遭難』 
 8月5日(金)、6時ごろ起きてテントの外に出てみる。向こうの山の頂に金色の太陽の光が当たっているが、キャンプ場は寒かった。7時を過ぎると反対の山の端からまぶしい太陽が見え、斜めの光がテントまで届くと、だんだん暖かくなっていく。厨房では7時過ぎに朝ご飯が少しずつでき始める。コックさんはアルジャン村出身の女性でもう3年前から知り合いだ。とても親切で、私の茶碗においしそうなところをよそってくれたり、あとからできた料理をわざわざ私の食べているテーブルまで持ってきてくれたりする。
 コックさんばかりか、みんながとても親切だ。テーブルに紙ナプキンがないかと探していると、一人の青年が、それは食器などが載っている台にあると教えてくれた。いくら探しても紙ナプキンは見つからない。食器台の付近でうろうろしている私のところに、自分の食事を中断して先ほどの青年が、置いてある場所を教えてきてくれた。ここで紙ナプキンというのは鼠色のトイレットペーパーだった。
 また、ダイエット6か月で20キロやせたというオリガ・カラムィシェヴァさんも、私が食器をエールベック川で洗おうとしてポケットの中の手帳を落とした時も、親切に乾かしてくれた。
 毎年のことだが、食器は自分で洗う。そのためにエールベック川に降りる足場がある。足場の横には洗剤とスポンジが置いてある。川で洗った後は、食器台近くに置いてあるマンガン水の希釈液につけ、そのあと軽く食器を洗面器のため水でゆすいで、お盆に伏せ、ガーゼをかけておくのだ。
食器を洗う足場。洗面器のある台

 朝食の後、30分ほど ИИМК発行のビューレティン(会報)の2014年エールベック発掘調査報告をコピーしていた。
 パーシャは車の横にテントを張ってもらって、寝ている。前日、8時半に出発するからと、知らせておいた。この日はサヤノ・シューシェンスカヤ・ダム湖へ行く予定だった。遠いので早めに出発したい。
 1970年代から稼働の発電所のエニセイ川にできたサヤノ・シューシェンスカヤ・ダム湖はクラスノヤルスク地方のチェリョームシキ村近くから、トゥヴァのシャガナール市まで続いていて、トゥヴァ海ともいわれている。トゥヴァではただ『海море』という。ダム湖の長さは312キロ、そのうち235キロがクラスノヤルスク地方(ハカシア共和国とクラスノヤルスク地方との間のサヤン峡谷)にあり、77キロがトゥヴァにある。トゥヴァにある77キロのうち52キロがトゥヴァ盆地に溜まっている。だからダム湖の表面積の43%がトゥヴァにある。(峡谷にあるダム湖は深いが狭い)
 ダム湖には、特にトゥヴァ盆地では沈んだ遺跡が多い(サヤン峡谷には遺跡は多くなかった)。また、季節によって著しく水位を変えるダム湖の周辺は今でも調査が行われている。パーヴェル・レウスさんは、その調査のため水位の低い時期には毎年来ている。もとのウルッグ・ヘム(エニセイ川)の左岸にも右岸にも石器時代から中世、モンゴル時代にかけての実の多くの遺跡があった。つまり、完全に水没したもの、季節によっては現れるもの。水没をまぬかれたものだ。旧チャー・ホリは、今ではダム湖の真ん中あたりにあって、いくら水位が低い時期でも調査できない。

 ピックアップのそばで、パーシャの準備ができるのを30分待って、やっと出発。昨日のパーシャの乱暴な運転が嫌で私はラザレフスカヤさんの隣の後部座席に座り、パーヴェル・レウスさんが助手席に座った。レウスさんはトゥヴァでの運転はこんなものだと盛んにパーシャを弁護するが、私はパーシャの態度がとても不快だった。今朝も私たちを30分も待たせたし。
 キャンプ場からアスファルトの幹線道路に出るまでは1時間ほど、エールベック川岸の水たまりの中や、からからの草原の道を行かなくてはならない。水たまりやでこぼこ道もスピードを緩めず、迂回もしないで進むパーシャがとても傲慢に見えた。いくら高駆動車でも、この運転はあんまりだ。
事故車とパーシャ

 40分も進んで、10時過ぎのことだった。パーシャは半砂漠のような草原のわだちの跡が深い道でも、スピードを落とさない。ひどく揺れる。そのうち大きな音がして、激しく揺れると、車は傾いたまま止まった。左前車輪が単独で転がっていくではないか。4人のうちで私が一番大声で「あっ」と言ったのではないかと思う。
 降りてみると、左前車輪のあったところは軸があるだけで、それも草原の砂の中に埋まっている。運転手のパーシャまでもこの車の写真を撮った。彼の最初の言葉は、自分の運転のせいではない、だった。車輪の取り付け方が緩かったのだ、と繰り返す。どこで車輪を取り付けて出発前の車の整備をしたのかと聞くと、自分の会社だという。つまりディーマさんの会社だ。すると、そこの整備員は技術が浅いとでもいうのか。
 パーヴェル・レウスさんが砂の中に埋まっている車輪受けを持ち上げてみようという。ジャッキで上げてみると、太い止めネジがU字に曲がっていた。これでは、転がっていった車輪を拾ってきて、元のところにはめ込むこともできない。
影もない草原
車の影で
 800キロ離れたクラスノヤルスクの会社に電話したところで、助けには来てくれない。キャンプ場まで歩いて戻るほかないのか。せっかくチャー・ホリの遺跡を見に行こうと思っていたのに。そこで、パーヴェル・レウスさんがピーシコフさんに電話してくれた。トゥヴァはもちろんどこでも携帯が通じるということは決してない。たとえばキャンプ場は電波が届かない。エールベック川貯水池あたりまで出てくるとつながることもある。今は人家のない草原と言っても、クィズィールに比較的近いのか、つながってくれたのだ。ピーシコフさんは元、自分の車で調査隊の運転手をしていた。今は、息子さんと修理工場をやっているらしい。パーヴェル・レウスさんによると、修理できるかもしれないとのこと。しかし、ピーシコフさんはクィズィール市に住んでいるし、私たちは半砂漠だか草原だかの真ん中、3個の車輪の車の横で暑さにうだっている。(前頁地図のだいたいA地点)

 周りを見回すと、こんなところにも、もちろん古墳はある。クンドゥストゥクКундустуг古墳群の一部かもしれないし、この辺はウローチッシャ(場・界)・クンドゥクトゥクУрочище Кундустукと呼ばれているから、その名の古墳群の一部かもしれない。2基ほど見えた。ラザレフスカヤさんと行ってみる(100メートルほど歩いたか)。普通の未発掘の古墳だった。眠っているかもしれない古代人には悪いが、こんな時に、興味はわかなかった。
 草原には、木は一本もなく、だから影もない。古墳から見ると、影のあるのは車のそばだけだった。だから、また車のそばに戻る。ラザレフスカヤさんとパーヴェル・レウスさんは転がしてきたタイヤの上に座り、私はピックアップが作ってくれた短い影の中に入って、助けを待った。パーヴェル・レウスさんはあまり車に近づくと、危ないと注意してくれた。砂地に3輪とジャッキで立っている車はいつ倒れるかわからないとのこと。
 車輪が、こんな無人の草原で外れてくれたのは、安全上からはよかった。主要道などでは通行中の車に転がっていったかもしれないし、外れた車輪の車に乗っていた私たちも危なかったかもしれない。
 『救助』される
 こうして、私は車を眺めたり、暑い中、古墳のそばまでうろうろ歩いてみたり、車の陰で「これからどうなるのだろう」と悩んだりして2時間半ほど待った。草原は遠くまで見える。クィズィールの方角から車が2台来るのが見えた。事故後私たちが見た2番目の車の影だ。草原の道を車が通ることはめったにないからだ。
 パーヴェル・レウスさんがピーシコフだという。本当にそうだった。ピーシコフさんは乗用車に乗り、そのあとにジープを運転する青年がついてきた。
 ピーシコフさんは私に再会できたと喜んでくれて、それはうれしいが、それよりも車。それどころか、ピーシコフさんは「なんでこんな暑いところにいるのだ?」と、エアコンのきいた自分の車に入るようにと私たちに勧め、エアコンを強にして、自分は助手の青年とピックアップの車輪と軸を調べている。二人はピックアップの左前車輪軸と、曲がった止めネジを見て、すぐ、ジープから予備の車輪を運び出した。それを見届けると、ピーシコフさんは
「車は二人に任せて、我が家へいきましょう。ご馳走しましょう」と言って、涼しい快適な車を運転してクィズィールの、2年前にも滞在したことのあるアパートに向かった。ピックアップのほうは助手が持ってきた予備の車輪をつけて、ピーシコフさん親子の修理工場へ運び、部品があるから修理できるだろうとのこと。

 アパートに上がると、私たちが「助かりましたわ」とか「まあ、お構いなく」とか、「いきなりお邪魔することになって、本当にすみません」とかいう暇もなく、ピーシコフさんはペリメニ(シベリア餃子)をゆでたり、チーズやソーセージを切ったり、トマトを洗ったりして、私たち(少なくとも私はとても恐縮していた)が遠慮する間もなくテーブルにご馳走を並べ、私以外はヴォッカとワインで乾杯していた。午後1時ぐらいでちょうどランチの時間だった。テーブルの上の料理がまだ足りないかと、冷凍シカ肉もさばいてくれた。
 こうして私たちは、チャー・ホリへ行く代わりにピーシコフさん宅でごちそうになって時を過ごしていた。奥さんのオリガ・ピーシーコヴァさんは出張だとか。(後でわかったことだが、モスクワで手術を受けていた。帰国後長いメールを出すと、やはり長いメールの返事がきた。しかし、新年のあいさつは、代筆されたようなメールだった)。
ピーシコフ宅で
発掘されたばかりの古墳の床

 4時過ぎにパーシャが入ってきた。彼は何も言わず、テーブルに座ると食べ始め、食べ終わると何も言わずに、奥の部屋へ行ってタバコを喫い始める。修理の結果については、パーヴェル・レウスさんの質問にぼそっと答えたようだ。車輪が外れたのは自分のせいではないと繰り返している。
 5時半にはピーシコフさんのアパートを後にした。ピックアップは修理されていた。パーシャは燃料を入れるといって、ガソリン・スタンドに止める。燃料を入れるのかと思ったが、後部座席の私に向かい、修理代が8000ルーブルだったと、要求する。ガソリン代がもうないという。いったい、会社から出張費用としていくらもらってきたのだ?ラザレフスカヤさんとパーヴェル・レウスさんの手前、4000ルーブルを渡す。パーシャはとても不機嫌そうで傲慢だった。ロシアでは運転手ってこんなものだろうか。(後でわかったのだが、パーシャは会社から2万ルーブル以上預かってきている。ホテル代にも食費にも使ってないから、修理代を払っても十分の金額だった。ちなみに、この時の燃料代は2000ルーブル。4000ルーブルは、ついにパーシャは私に返さなかった。)
 燃料を入れ終わると、車をガソリン・スタンドの空き地に止め、携帯をかけ始めた。そのうち、携帯をもって車から出て、長々と話している。車内は暑く、この日はチャー・ホリへは行けなかったので、もうキャンプ場に戻りたかった。いい加減に切り上げてほしいと頼んだが無視された。私は個人的に長電話は嫌いだ。ガソリン・スタンドの空き地に止められた車の中は暑く、眺めるものもすることもない。パーヴェル・レウスさんに、長電話を切り上げてほしいと頼みに行ってもらうと、パーシャはしぶしぶ戻ってきた。運転席に戻ってきたパーシャはひどく不機嫌だった。父親に電話をかけていたのだとか、彼は入院しているのだとか。パーシャから「タカコさん、あなたにはパパはいないのですか」と『叱責』された。「いません」と答える。私の母は何十年も前に、父は数年前に亡くなっている。それに、入院中の人はきっと退屈しているから長電話するのだ、と思った。キャンプ場では、確かに電話は通じないが、今ここで、私たちを車に残して長電話とは、パーシャの嫌味にしか思えなかった。運転の仕方と言い、ガソリン代の要求の仕方と言い、私はパーシャにすごく腹が立った。パーシャを私につけてくれたディーマさんにこの先、かなり苦言した。一方、パーシャは私が彼に満足していると社長のディーマさんたちに思ってもらいたがっている。それは絶対に無理だ。先のことだが、クラスノヤルスクに帰る頃になると、盛んに、ディーマにどう報告するのかと私に聞いてきたものだ。「ありのままよ」と答えておいた。(パーシャはディーマの会社の社員なので、自分の持ち場のタイヤ売り場で、上手にタイヤを売っていれば、勤務成績に変わりない)

 主要道(つまり、状態の良い道。砂利道のことも多いが、最近はアスファルト舗装されつつある)からキャンプ場への1時間ほどの草原の道には、とてもぬかるんでいたり急坂だったりする場所では、少しはましな迂回路があることが多い。しかし、パーシャは遠回りしないであえて悪路を通る。高駆動車を操っていることがうれしそうだ(4年前、私とセーヴェロ・エニセイスキィへ行ったとき、やはり、ピックアップをレンタルした。その時からピックアップにあこがれていたそうだ。橋があっても、わざわざ浅瀬を通る)。
 キャンプ場に戻ってみると、私たちの留守中に発掘していた人たちから、人骨がたくさん出てきたと報告があった。夕食後、サウスケン古墳に行ってみる。古墳の郭の天井部分は取り去り、地下深くの、2メートル四方より少し広い木製の床のような上に人骨や遺物が表れていた。人骨、遺物、石(死者の枕のような)に付いた最後の土を払っていた。
 物差しと方位を示した矢印を置いて、はしごに上り上方から写真を撮っている。たいていの古墳は造営と同時代の古代にすでに盗掘されているので、人骨や獣骨以外にはあまり遺物かない。盗掘者が見逃した土器や、青銅の小さな槍先、金箔の細工物が見つかることもある。
 周りの古墳の発掘具合も、昨日よりは進んでいる。
 パーシャがピックアップを運転して近づいてくる。キャンプ場はサウスケン古墳群に近いところに設営してあるので、私たちは歩いてくる。車だと遠回りで浅瀬も渡らなくてはならない。浅瀬好きのパーシャはわざわざ車で現れたのか。写真を撮っているパーシャを残して、私は歩いてキャンプ場に戻った。あとで聞いたことだが、パーシャが車で来てくれて助かったとのこと。はしごや大物の物差しなどの機材を車で運んでもらったからだ。みんなも、あ、ちょうどいい時に車が来たと思ったらしい。
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