クラスノヤルスク滞在記と滞在後記
  
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up date 2003年2月1日(校正06年6月5日、08年6月24日, 11年7月8日,12年12月30日)
モスクワからプラハへ、 『おまけ付き』チェコ旅行

          2003年1月18日から1月27日
 私の働いているクラスノヤルスク国立大学は、1月後半が冬休みです。ロシアに滞在中に、日本からは遠いがロシアからは近いという国に旅をして、見聞を広めたいものです。それで、『1月18日夜、プラハ行き国際列車でモスクワ発、20日早朝にプラハに到着し、プラハに5泊後、同じルートでモスクワに戻る』という、モスクワの旅行会社の組んだ団体ツアーに参加することにしました。鉄道を利用すれば、安いし、それに車窓から、モスクワからチェコまでの国々、町々、村々、東欧の自然が眺められて、一石二鳥だと考えました。 これが実は、一石三鳥で、その三鳥目と言うのが『おまけ』でした。
プラハ旧市街広場、ヤン・フス記念像
 国際列車はモスクワからベラルーシ(ロシア語ではベロルシア、首都ミンスク)を通り、ポーランドを抜けて、チェコのプラハに着きます。しかし、日本人は、ポーランドとチェコはビザ無しで入れるのですが、ベラルーシは、ビザがいるということには思い付きませんでした。
 ちなみに、ベラルーシは旧ソ連邦なのでロシア人はビザ無し入国ができます。私は、自分がロシア人のようなつもりで、深くは調べませんでした。でも、ロシア人は、チェコも含めて、たいていのヨーロッパの国へはビザは必要ですが、日本人には不要です。自分が日本人だと喜んでいました。
 私のような、ロシア在住外国人は、ロシアの国境を出て、また、戻ってくるためのビザがいります。そのロシア出国及び再入国ビザは、ちゃんと前もって、入手しておきました。ですから、私としては、チェコへ行くには、チェコ入出国ビザはいらないが、ロシアの出入国ビザはもう取ったから、これで準備完了と思ったものです。旅行代金も払ったし、クラスノヤルスクからモスクワまでの飛行機のチケットも買ったし、これで、モスクワの集合場所に定刻までに着けば、もう後は添乗員さんが連れて行ってくれる、と思ったものでした。

 ところが、ロシアを出てベラルーシへ入るのは(その逆も)無検査なので、結局、そのロシア出国及び再入国ビザは使わないままでした。ポーランドへ入るためにベラルーシの国境を出る時に検査されるのです。
 ベラルーシとポーランドとの国境の町ブレスト市で、列車は2時間半も停車します。その間に、国境警備員が列車の中に入ってきて、ひとりひとりのパスポートを調べます。
 その制服の係官に
「自分の荷物を全部持って、一緒に来て下さい」と言われた時は、何のことかわかりませんでした。ホールに案内されて長い間何のことかわからないまま待たされたすえ、
「トランジット・ビザがない以上絶対に通してやるわけには行かない」と言われても、なぜ、自分にそれがないのか、なぜ自分にそれが必要なのかもすぐには納得できませんでした。
 ブレスト駅の税関ホールで一人ぽつんと、
「留まったらいいのか、戻った方が簡単なのか、なんとか進んだ方がいいのか」考えていました。進むにしても、その「トランジット・ビザ」をどうやって、この知らない町で手に入れたらいいのでしょう。
 見のがしてもらうために、その国境警備隊員に100ドルぐらいそっと払ってもいいと本気で思いましたが、やはり、私には切り出し方が分かりません。そのうち列車は発車してしまうし、ブレスト駅構内の税関で、いつまでも座っているわけにもいきませんし、とにかく、スタンプを一つ押したパスポートを受け取って外へ出ました。そのスタンプはベラルーシにブレストから入国したという証明です。なぜ、ビザもないのに入国したことになったのか不明ですが、制服の若い国境警備員が私の荷物を持ってくれて、出口に案内してくれました。そして、彼が教えてくれた駅前のホテルにいき、1泊20ドルくらいの部屋を取りました。
ブレスト城の壁,1985年版の英雄都市ブレスト市のPR写真

 その日は日曜日で、国境警備員がトランジット・ビザを発行してもらえるかも知れないと教えてくれた警察署も休みですし、どうせ、次の列車は24時間後でないと来ませんから、町の見物でもしようと思いました。ブレスト見物と言うおまけ付きになったので、それも悪くないと自分で思いました。
 プレストは、1918年にトロツキーがドイツと単独に講和した町で、その時の写真が、高校の歴史の教科書に載っていたのを覚えています。だからといって特に見るところも無さそうです。ソ連時代の多くの町と同様、味気ない町の作りで、同じように寂れています。ベロルーシは経済状態の悪いロシアよりさらに悪く、ロシア人に言わせると、「酔狂でも観光しようと思わない」町でしょうが、記念に1ドル半くらいの市街地図を買いました。また来る機会も無さそうなので、町の写真も記念にとっておきました。ビザ用顔写真も、町の写真屋でとってもらいました。
 しかし、ブレスト市を歩いていても、なぜ、自分がここにいるのか、ここにいるのは合法的なのかどうか、もしかして、不必要に滞在しているのではないだろうかと、思ったものです。国境警備員に、もっと粘れば良かったのか。いや、列車から降ろされてからでは遅すぎる、降ろされる前に、交渉するべきだったのではないか、と思いました。ちなみに、クラスノヤルスクに帰ってから、このことを話すと、ロシア人の知り合いから
「どうして、もっと上手に国境警備員と交渉しなかったの?私がついていれば、ちゃんと交渉して、無事通過できたのに。交渉の仕方はね、、、、」と言われたものです。でも、外国人の私には、やはり「裏取引」は無理でしょう。

 でも、ビザもないのに、ブレスト市を歩き回るというのは、合法的なのでしょうか。トランジット・ビザもないのに、ロシアとベラルーシの国境を越えて、ベラルーシに入国し、ベラルーシ国内をずっと550キロ以上も横切って、ベラルーシ国境からポーランド国境へ出るという時、ストップされて、そこで、こんなふうに自由に動き回れるなんて、良く分からない国です。では、日本人の私が全くビザなしで、ロシアからベラルーシ国内の、たとえば、首都のミンスクへ行って観光をしてまたロシアに戻ったとしても、全くチェックされないのでしょうか。(モスクワからブレスト中央駅までは1095キロ。途中のロシア連邦とベラルーシの国境の町(ベラルーシ側)の町からブレスト中央駅までは557キロとなる)

 どうも、ベラルーシからポーランド(と、バルト諸国)へ抜ける国境だけが問題のようです。ちなみに、クラスノヤルスクに戻ってから、ロシア出国と再入国ビザを作った地方庁外国人登録課へ行って、理由を説明してビザを返した時、係官が苦笑していました。ロシア人の中にはベロルーシのことを制度の悪い国、担当者の恣意で物事が決まる国と思っている人もいます。私から見ると、ロシアだってそんなところがあるのですが。

 ブレスト駅前のホテルに、たぶん違法で宿泊して(なぜなら、ホテルに宿泊するには身分証明書、つまりパスポートが必要です。外国人はビザも必要ですから)、次の日、朝1番にビザを発行するという警察へ行きました。別室で、私服の警察官(と言っても、単に制服を着ていなかっただけかもしれない)が口述する申請書を、渡された普通のA4紙に手書きしてサインしました。別室と言っても、廊下で書くわけにも行かないので、別室なのだと思います。口述文の内容は、「私にトランジット・ビザを交付して下さい」と言う単純なものですが、長々と書いて紙面いっぱいになりました。なぜ、事務の迅速化のために印刷しておかないかと思ったくらいです。そうすれば、下にサインするだけですむのに。それから、近くの銀行に手数料10ドル分のベラルーシ・ルーブルを払いに行きました。その受け取りを持って、またもとの警察署の別室に戻り、さらにその場で現金で34ドル分ほどのベラルーシ・ルーブリを直接係官に支払いました。つまり、44ドルが当日発行ビザの値段のようです。ビザを、『買った』ような感じでした。そして、ブレストからプラハまでのチケットを買い直して、24時間遅れで、ブレストを出発しました。
列車内に掲示してある
時刻表

ロシア
 モスクワ発22時15分
 ヴァジマ
 スモレンスク
ベロルシア
 ミンスク
 ブレスト着11時23分
     発13時53分
ポーランド
 テレスポリ
 ルコフなど
チェコ
 オストロヴァなど
 プラハ着6時3分
(時刻はすべて
現地時間)


 その日のブレストの国境警備員と税関員は別のおじさんで、
「おや、日本人が、こんなところに来るとは珍しいこと、何の用だったのかね」と聞いてきます。説明すると長くなります。「ルーブルはもっているかね」と聞かれます。これは、ベラルーシ・ルーブル(インフレで、数字が大きすぎて実感が湧かない)のことではなく、ロシア・ルーブルのことだと後で分かりました。こうやって、トランジットのロシア人旅行者を調べて関税をとって儲けているのだと、後で、ロシア人が説明していました。こういう「通行税」の取り方は、中間地点にある国の、古代からの特権です。私は、どちらのルーブルもドルも円も、申告書に書くのが恥ずかしいくらい、わずかしか持っていませんでした。
 その他、珍しいと言うだけで、なんだかんだと引き止めました。こんなところでなければ悪い気はしないのですが。
 前日押してもらった「ベラルーシ、ブレスト、1月19日」というスタンプの上に無効印を押して、「ベラルーシ、ブレスト1月20日」というスタンプを新たに押しもらいて、プラハ行き国際列車に乗りました。
列車内を回って
パスポート検査をする
チェコの国境警備員

 やっと、プラハにつきました。ブレストの郵便局からプラハの旅行会社に国際電話をかけておいたので、プラットホームに迎えの人が来ていました。駅からホテルまでの出迎え代、プラハのホテル代や観光代などは支払済ですから、一人、自力で遅れて到着したとしても、やはり迎えてもらわなくてはなりません。とは言っても、プラットホームに迎えの人がいると言う確信はあまりなかったのです。見つけた時は、本当に、これで救われたと思いました。迎えの運転手さんは、プラハに来て5年になるというグルジア人でした。

 実は、もう、あまりチェコ見物の気分ではありませんでした。でも、そのために来たのですから、団体(つまり、途中で別れたけれど、やっと合流できたモスクワ発のロシア人グループ)で、ぞろぞろ見物しました。

 ヒットラーも、チェコに残る中世の古城や、プラハの古い町並みが好きで、第二次大戦中(も、その前も)、破壊しなかったそうです。ヒトラー帝国ができたら、首都をベルリンからプラハへ移そうと考えていたくらいだと、ガイドが言っていました。確かに、中世、プラハはヨーロッパの首都同然だった時期があります。

 プラハは美しい町です。ついロシアと比べてしまいます。同じスラブ人ですし、戦後は、ソ連と同じような政治機構でしたし、「ソ連東欧」とひとまとめに言われていた時期もありましたから。
旅行会社のマイクロバスとグルジア人の運転手
憧れのプラハ
カルロフ・ヴァールの鉱泉を飲む
この頃にはもう親しくなった他の団体客と
 『ビロード』革命前は巨大なレーニン像が町の高台に立ち、通りの名前も、レーニン通りや、マルクス通りがあり、革命広場もあったそうですが、今は、そのころの体制や、モスクワを思い起こさせるものは、全くありません。
 クラスノヤルスクはもちろん、モスクワを堂々と走っているような潰れかけてどろだらけの古い車は一台も見かけません。超スピードを出して歩行者のすぐ側を泥水を跳ねかけて走り抜けていくようなマナーの悪い車もなく、おおむね歩行者(観光客)優先です。
 角のところが欠けていたり、はがれていたり、泥がかぶっていたりというような建物は、一軒も見かけませんでした。プラハの中心の観光名所だけでなく、町のどこへ行っても、郊外の田舎へ行ってもそうです。クラスノヤルスクのようなシベリアの田舎に長く住んでいて、来る途中に、ロシアでは例外的に美化の進んだとさえ言われているモスクワ中心地も見てきた日本人の私には、プラハとチェコは、モスクワはもちろん、日本より美しいかもしれないと思いました。
 もちろん、それはロシア正教の教会や日本の美しさとは別で、中世騎士物語の続編のようです。古くは13世紀に建てられ、その後様式を保って修復され化粧直しされた町並みの美しさです。中欧のプラハの美しさは、日本にいる時に、映画やテレビを見たり、小説を読んだりして想像していた世界でした。

 プラハから80キロ程離れたカルロフ.ヴァールにも行きました。そこは、ヨーロッパでも有名な保養地で、歴史上の多くの著名人も保養しました。カルロフ・ヴァールのホテル群は、ロシアのどことも比べようがありません。一時期は、没収されて国営となった最も由緒あるホテルは、「モスクワ・ホテル」と言ったそうですが、今では、元の名前「グランドホテル・プップ」にもどったそうです。

 オプショナル・ツアーで、50ドル程払って、郊外にある中世からの城をいくつか見物しました。城主の名前はドイツ風で、城の外観も、インテリアも調度品も、キエフやモスクワの歴史博物館にあるものより、きっと、ドイツやオーストリア、もしかして、フランスの城にずっと似ているに違いありません。
 これまでは、漫然と、チェコはスラブ人、チェコ語はウクライナ語と似ている、だからチェコはロシア的と考えていたのです。でも、実際、チェコは少しもモスクワ側ではありません。ロシアで発行されたロシア語の『スラブ人の歴史』を読んできたので、みんなスラブ系と、ひとまとめに考えていましたが。
 プラハに着いた1日目に買った日本語版ガイドブック『プラハ案内』と言う本には「プラハを造ったのはチェコ人とドイツ人とユダヤ人である」と書いてありました。なるほど。これを機会に、チェコの歴史を勉強することにします。

 自由行動の日はロシア語ガイドを頼んで、私の行きたいところへ行ってもらいました。と言っても、どこでもよかったのですが、第2次世界大戦前は、プラハの人口の25%もいたと言うユダヤ人が、中世に住んでいたと言うゲットーへも行ってみました。近くの教会(シナゴーグでもカトリックでもなく、ロシア正教、なぜなら、団体客はロシア人だし、現地ガイドもロシア人なので)の売店で『プラハのゲットー、物語と伝説』という本も買いました。

 『旧』市街にあるカフカ記念館にも寄りました。カフカはチェコ人ではなく、チェコ語でも書かなかったのですが、やはり、『チェコのカフカ』のようです。中世からのプラハ城塞の中に『黄金通り』と言う短く狭い通りがあり、そこに、カフカの姉妹が住んでいたとガイドが言う家に入ってみると、本やカードが売っていました。『フランツ・カフカとプラハ』と言うロシア語の本が売っていたので買いました。まだ、読みはじめていませんが「プラハを知らずにカフカは理解できないぞ」と書いてありそうです。
ロシア語ガイドと

 シーズンオフなので、日本語ガイドを頼むこともできましたが、半日6千円以上するそうですし、もしかして、そのチェコ人日本語ガイドの日本語が、必ずしも分かりやすい日本語とは限りませんし、上手なガイドは日当ももっと高いそうですから、ロシア語ガイドで済ませました。(日本語版ガイドブック『プラハ案内』も買ってあることですし)。そのガイドは1日4千円ぐらいで、とても良心的でした。途中で入った喫茶店では、紅茶やケーキをおごってくれたりしました。ガイドにおごってもらうなんて初めてです。
 もちろん、一人で歩いた時は、いくつか覚えてきたチェコ語を試してみましたが、あまり役に立ちませんでした。道で見かける表示などは、ゆっくり読んでみると、ロシア語から類推できるものもありますが、会話は駄目です。
 本屋に入り、ロシア語で書かれている音声付きチェコ語学習書はないかと尋ねました。尋ねた店員がロシア語の分かるチェコ人でした。カセット付き教材で700クローン(約3千円)のがありましたが、出発の前日で手持ちのクローンが500しかありません。店員は、私の顔をじっと見て
「あんたどうしてもチェコ語をしゃべれるようにならないといけないのね」と言いました。きっと、モンゴル系ロシア人がチェコに働きに来て、チェコ語ができないと居住権もとれないので、必死に勉強しようとしているのだと、感心されたのかも知れません。
「ドルなら、持っているわ」と言うと、後、いくら両替すれば、この教科書が買えるか、一生懸命、紙と鉛筆で計算してくれました。そんなに親切にしてもらったので、急いで近くの両替所で両替して、買いに戻りました。

 もちろん、入った店によっては、ロシア語の分からない店員もいます。でも、ロシアと違って親切なプラハの店員さんたちは、一生懸命外国語で説明する私のことを、分かろうとしてくれました。
 そんなふうに、団体旅行しながら、一人歩きできて満足でした。

 帰りも、ベラルーシを通るので、観光している間に、旅行会社の人に在プラハのベラルーシ領事館で帰りのトランジット・ビザを作ってもらいました。有効期間は2日間で50ドルもしました。もちろん、始めから分かっていれば、モスクワで往復のトランジット・ビザをきっとこれより安く用意できたと思います。
 でも、こんな「おまけ」体験ができたのですから、ブレスト市途中下車の全費用(行きと帰りのトランジット・ビザが約94ドル、ブレストからプラハまでの列車代買い直しで85ドル、ブレストでのホテル代20ドルの合計約200ドル)も、それほど無駄だったとは思っていないのです。
 もし、ブレストで、「もう、何にも分からないわ」と言って留まっていたら、どう言う処置をされたでしょうか。そこまでやる勇気はありませんでしたが。
プラハ発モスクワ行きの国際列車
帰りのブレスト駅、今回は外へは出なかった
隣に停車中の普通列車

 ところで、行きの道中で、私が、ベラルーシ駅構内の税関ホールで2時間もぽつんと取り残されて、待っている間、私と同室のコンパートメントだったロシア人夫婦は、荷物を徹底的に調べられたそうです。怪し気な日本人と同室だったので、どういう関係なのか、余計なものは持ってないかと、絞られたそうです。同じグループの旅行者ですが、参加者は、モスクワから一緒になっただけで、お互い知らない人達だとは、国境警備員も知っているはずなのに。
 ロシア人によると、そうやってベラルーシの税関は何かとロシア人旅行者に因縁をつけて『通行料』を取ろうとしているのだそうです。

 帰りの列車でも、その夫婦と同じクペーになりましたが、彼等は追加料金を払って、別のクペーに移っていきました。それは、また検査されるからではなく、チェコでどっさり買い物をして、荷物が一杯で寝るところもなかったからです。

 実際、帰りのべレスト通過は、何ごとなく過ぎました。
 ただ、ヨーロッパ狭軌鉄道用車輪を、ロシア広軌鉄道用車輪に変えるために、3時間近くかかりました。何せ、特別の、レールが4本ある引き込み線へ入り、一車両毎持ち上げて、狭軌鉄道用車輪をはずし、広軌鉄道用車輪を取りつけるのですから。
 陸続きの国境の国なら、みんな同じ幅のレールにしておけばよかったのに。

 さらにもう一つおまけですが、クラスノヤルスクに戻ってから、私が直接料金を払ったクラスノヤルスクの旅行会社に賠償請求をすることにしました。国際列車でモスクワからプラハまで行く場合、日本人にはどんな書類が必要か、それを旅行会社が知っているべきです。旅行代金にはビザ関係費用も含まれると旅行引き受け書に書いてあります。それを、指摘すると、クラスノヤルスクの旅行会社は、責任は自分達にはないと言うのですが、私は納得できません。
 知り合いの弁護士に相談すると、裁判するしかないと言うので、地域の調停裁判所へ告訴状を出しました。ベラルーシで一人列車から降ろされてショックを受けたので精神的損害賠償もしたらいいと言われて、500ドル追加しました。弁護士と言うのは私の教え子のお母さんで、ただでやってあげると言われました。

 ちなみに、「別の旅行会社に、同じようなチェコ旅行の申し込みをすると、ビザ代込みの費用は幾らになるだろうか」参考までに知りたいと、弁護士が言うものですから、いくつかの旅行会社をあたって調べてみました。もちろん、何にも知らないふりをして、聞いてみました。
 ある旅行会社からは、「日本人のあなたには、チェコへのビザも、ベラルーシのトランジット・ビザもいりません」という解答でした。「本当にトランジット・ビザもいらないのですか」と念を押すと、「団体旅行なのでいらない」と言うことです。
 別の旅行会社の解答は、「モスクワのベラルーシ領事館で、あなたが自分でトランジット・ビザを手に入れて下さい。当社は、日本人のベラルーシ・トランジットビザは扱っていません。ですから、国際列車ではなく、飛行機でモスクワから直接プラハへ行くことをお勧めします」と言うものでした。
 クラスノヤルスクには、たくさんの旅行会社があります。前者の解答の方が多かったです。

 4月22日が、第1回目の調停です。弁護士によると、勝利の可能性は、半々だそうですが、裁判費用はかからないので、やる価値はあるとのことです。弁護士に委任するという委任状を、公証人の所で作ってきました。
 ロシアでは、何をするのも、当初の予定よりは、膨れてしまいます。

 後記:クラスノヤルスク市中央区民事裁判所では、女性裁判官の産休のため延期などがあり、かなり遅れて判決が下りました。原告勝訴で、トランジットビザがないためにかかった実費200ドルなどは旅行会社が弁償、精神的損害賠償として2千ルーブル払うというものでした。弁護士によると、被告が自分からその金額は払わないだろうから、取立て請求をしなければならないというものですから、その申請書を受け付けるという窓口も探し当てていってきました。その頃にはこの『おまけ』もちょっと重荷になってきました。
 旅行会社は案の定、支払わないだけでなく判決が不服として、「ブレストで下車したのは原告(私)がそう希望したもの」としてひとつ上級の市裁判所に上告しました。弁護士は受けて立つ他ないといいます。ますます面白くなってきた後日談です。この話を日本人にすると、一応感心されます。本当は『呆れた!』というところでしょうが。
 市裁判所の判決は、私が帰国する2004年9月の少し前に下りました。被告は全額弁償する必要はないが、一部弁償しなければならない、精神的損害賠償はしなくてよいというものでした。でも一応私の勝訴だそうで、裁判費用の200ルーブルは被告の旅行会社の支払いです。
 その一部弁償金を旅行会社が私に支払うとき、
「これ以上は上告しないという条件ですよ」と念を押しました。しかし、それは不法です。弁護士はこの判決は不服だから今度は地方庁の裁判所に訴えよう、と言います。私がいなくても委任状で続けられるから、と言うことです。それで300ルーブル払って公証人のところで正式委任状を作ってもらいました。

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