クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 02 June, 2011  (追記・校正:2011年6月23日、2013年5月13日、2018年10月20日、2019年12月2日、2021年9月7日、2022年8月13日)
晩秋の南シベリア、ハカシア・ミヌシンスク盆地再訪
(4)ハカシア南 アルバトィ村の岩画
           2010年10月22日から11月19日(のうちの10月29日

Поздно осенью снова в Хакасско-Минусинской котловине( 22.10.2010-19.11.2010 )

1 ウラジオストック経由クラスノヤルスク シーズンオフだがクラスノヤルスクのダーチャ クラスノヤルスクからハカシアのベヤ村へ ベヤ村のヴァーリャさん宅
2 ベヤ区立図書館 サモエード語起源のウーティ村 コイバリ草原ドライブ
3 『無人』のボゴスロフカ村 バービカ谷 サヤノ・シューシェンスカヤ水力発電所 ミヌシンスク博物館
4 ハカシア南アルバトィ村への遠回り道 3つのアルバトィ村 マロ・アルバトィ岩画 革命後の内戦時、ハカシアの村
5 アスキース川中流のカザノフカ野外博物館へ 『ハカシア』の命名者マイナガシェフの氏族(骨)岩 カザノフカ野外博物館をさまよう
6 トルストイ主義者村を通って、大モナック村へ パパリチーハ山のタムガ ウスチ・ソース野外博物館の石柱 タス・ハザ・クルガン群のエニセイ文字 スナジグミ林 ヒズィル・ハーヤ岩画
7 アバカン市 チェルノゴルスク歴史博物館 シラ草原 オンロ

8 別のハカシア史 チョールノェ・オーゼロ(黒い湖) チェバキ ズメイナヤ・ゴルカ(蛇の小山) チェルガトィ・スベ
9 キルベ・スベ 黄金の湖のエニセイ文字碑文、英雄『モナス』の原型 袋小路の先端 乳製品工場跡のY字形のクルガンとカリーナ ウスチ・ソース村の3つ穴クルガン、民家 ハン・オバーズィ山・ハカシア人捕囚
10 タシュティップ村 自然派共同体の新興村 ペチェゴルの奇跡 レーニンのシューシェンスコエ町 カザンツォーヴォ村のレンコヴァ岩画
11 ハカシア人の心、アスキース村 アバカン山中へ、トミ川上流洞窟地帯 アバカン山中のビスカムジャ町 ナンフチュル・トンネル
12 ショル人会 アスキース博物館 アンハーコフの『刀自』 クラスヌィ・クリューチ(赤い井戸)、桜の谷の小モナック村
13 ベヤ村出発、水没クルガンのサラガッシュ クラスノヤルスク観光(レザノフ像、シベリア街道、ロシア人以前のクラスノヤルスク、、エニセイ川に架かる橋) アーチンスク市、スホ・ブジムスコエのスーリコフ

 ハカシア南アルバトィ村への遠回り道
 10月29日(金)、出発したのは9時半を過ぎていた。サマータイムの終わる直前のこの時期は朝の8時半でも、もう明るくなるから、それに合わせて出発したかったのだが、車を出すサーシャの都合もある。
 少し前までチェルノゴルスクの図書館に勤めていたので、文化的なことに詳しいはずのサーシャの奥さんのマリーナの情報によると、ウスチ・ソース村に新しい野外博物館ができているそうだ。そこも、もちろんコースに入れるが、アルバトィ岩画へも行く予定だ。そこは、2009年、東ベヤ炭田の遺跡発掘現場で知り合った学生が、
「最近で興味深いのはマラ(小)アルバトィ岩画だ」と、教えてくれたところだ。その時のガイドのスラーヴァに頼んだが、道が悪くて駄目、と断られた。
青の番号は川 1.ベヤ川 2.ウーティ川 3.タバット川 4.ソース川 5.大モナック川(支流が小モナック川) 6.大アルバトィ川  7.小アルバトィ川 8.ジェバッシュ川 9.タシュティップ川 10.アスキース川  
ジョイ山脈の長さ55‐60キロ、最高峰ゥイズィッフ山1440m
1.共和国道161号線 2.3.アバカン・ノヴォクズネック鉄道線4.アバザ・アスキース鉄道線
ハカシア南部

 ベヤ区のコイバリ草原を、南東の西サヤン山脈ジョイ支脈から、北東のアバカン川の右岸へ、北(川下)から順に、ベヤ川、ウーティ川、タバット川、ソース川、大モナック川(18キロ、支流小モナック川は10キロ)、アルバトィ川と流れ込んでいるのだが、モナック川はコイバリ草原とジョイ山脈の境目を流れていて、アルバトィ川の方はもう草原ではなく山中を流れ、アバカン川への合流口近くまで険しい山が迫っている。一方、アルバトィ川より南で、西サヤン山脈からアバカン川に流れ込む右岸支流は、ジェバッシュ川(Джабаш84キロ)やオナ川(157キロ)など大きな川があるが、地図で見ると流域も合流口もほとんど無人で、アバカンからトゥヴァへ抜ける国道161号線が、タイガの中、ジェバッシュ川の支流やオナ川などを伝って延びているだけだ。
ハカシア共和国行政区分
1.アルタイ区
2.アスキース区
3.ベヤ区
4.ボグラッド区
5.オルジョニキーゼ区
6.タシュティップ区
7.ウスチ・アバカン区
8.シラ区
 アルバトィ川以南はタシュティプ区だ。ハカシア共和国には8つの区があるが、タシュティップ区は一番南、つまりほとんどサヤン山地の中にあり、人口は少ないが面積は一番大きい。
 ウスチ・ソース村は、ソース川の合流口(ウスチとは河口の意)近くにあり、アルバトィ村はアルバトィ川畔にある。

 この日、出発してから、サーシャが言うには、まず遠いところから回ろう、そして時間があったら近場のウスチ・ソース村へ寄ろう、ということだった。アルバトィ村は地図では、タバット川とソース川とモナック川を越えると行きつけそうだが、モナック川の向こうは、もう道がないはずだとサーシャが言う。なぜなら、以前、アバカン市からアルバトィ村に住む知り合いを送って行ったことがあったが、アバカン川の左岸をアバザ市まで行き、そこから橋を渡ってアバカン川右岸を下り、アルバトィ川を伝ってアルバトィ村までいったからだ。その知り合いはアルバトィの店で店員をしているターニャという女性だが、バスに乗り遅れたのだと言う。その当時、モナック川の向こうには車の通れる道はなかったそうだ。
 今日の目的地は、まずアルバトィ岩画と決めると、サーシャは念のためそのアルバトィ村の店員ターニャに携帯をかけた。やはり、アバカン右岸のモナック川から先に道はなく、左岸の共和国道161を上って行って、アバザ経由でないとアルバトィ村には行きつけないと教えてもらう。すると道のりは200キロ以上になって、嬉しいことにかなりの遠出になる。と、このような今日の予定を、家を出発して50キロのボンダレヴォ村を通る辺りで、やっと決めた。ここから道はアバカン川へ直接向かい、最近、改修済みらしい橋を渡る。

 アバカン川(514キロ)には4本しか橋はない。河口のアバカン市を通る国道54号線に新旧の2本の橋、アバカン市からそのまま左岸を179キロも上ってからアバザ市付近で右岸にわたる国道161号線の橋、そして、4つ目の橋はアバカン市とアバザ市の中間マトケチック村(2004年の人口246人)近にある。マトケチックというのは渡し船の船頭の名前だったそうだ(別説では、アバカン川の早渡りという意味だとか)。確かに、いくつもの側流・分流に別れ湿地や中州を作って蛇行するアバカン川もこの辺は1本になっている。ここに1975年に橋ができたので、右岸のサヤノゴルスク市やベヤ村から左岸へ渡るとき、アバカン市まで遠回りしなくてもよくなったのだろう(遠回りしないときは渡し船に乗ったか、冬なら氷上路を通っていた)。 
アバカン川、マトケチック村近くに架かる橋
ベリティリスコエ村クルガン群
未完の用水路か
坑夫のクマの紋章のあるアバザ市の入り口
 この日ばかりか、ベヤ村からアバカン左岸のサガイ草原へ出るときはいつもこの橋を渡った。連邦道54号線でも国道161号線でもないが、長さ500メートルもある立派な橋だ。ここを渡るのは車ばかりではない。牛の群れも向こう岸に渡るときに利用している。みんなに渡ってもらって、橋だって満足げだ。
 牛と一緒に橋を渡り左岸のベリティリスコエ村に出ると、国道161号線に入り、クルガンの多いサガイ草原を走る。ここアスキース区は、ハカシア人のハートと言われているくらいで(ハカシア再訪(11)『ハカシア人の心、アスキース村』参照)、ハカシア人の割合が高い。全ハカシア人6万人余の3分の1が住む。ここでは、サガイ方言や、ベリテリ方言が話されているそうだ。

 サガイ草原を走ると、遠く地平線にはアバカン山地(か、またはクズネック・アラタウ山地)の峰々が見え、道の両側に絶え間なくクルガンの石が見える。ベリティリスコエ・クルガン群と言われていて、30キロの長さに連続してあるそうだ。しかし、クルガンのすぐ横にゴミ捨て場があったり、現代人の墓地があったりして、何だかはらはらする。
 こうしたクルガンの立ち石が少しずつ目立たなくなってくると、思いっきり広い草原が広がる。(ここにもクルガンがあったかもしれないが、今は見えない)。若草色や濃い緑の中に色とりどりの花が咲いている草原もいいだろうが、一面の枯れ葉色も、それなりに侘びと寂が効いている。(冬期のことになるが)うっすらと雪の積もった草原なんかはもっといい。ちなみに、降水量が少ないので深雪にはならない。
 この、一面枯れ葉色の中で写真を撮ろうと、車から出て入っていくと、コンクートで作った深さ2メートルくらいの溝が見えてくる。一部未完成なのか、まだ水は流れていないが、用水路だ(あるいは設計ミスで永久未完成なのか)。
 ミヌシンスク・ハカシア盆地は紀元前から灌漑農業が盛んだったところで、今でもその当時の用水路が使われている耕地もあるそうだ。ちなみに、ここは全シベリアで最も用水路の発達している地域だそうだ。河川網の3倍も用水網があると言う。確かに、ベヤ区では、ベヤ川のコイバリ草原北には65キロのコイバリ用水網が早くからできている。アバカンから水を引いているコイバリ用水網はいくつもの用水池を作り、最後にはエニセイに水を流している。サガイ草原にも、28キロの旧アスキース用水網、18キロのサガイ用水網、32キロのアバカン用水網があり、北のイユース川系にも用水網が多い。
http://zhivayavoda.info/?Iskusstvennye_vodoemy。

 国道161号線でアスキース区からタシュティップ区に入る峠には、道祖神のようなコノヴャース(馬を繋いでおく柱)が律儀に立っている。ここは国道だから、交通量も多く、立派で太いコノヴャースが立っているが、アスキースからタシュティップへ行く昔の馬道のときにも立っていた場所なのかもしれない(だいたい、このあたりの峠を昔も超していっただろうから)。ハカシアの僻地を回ると、むしろ誰も通らないような道の峠にも、比較的新しいコノヴャースが立っている。馬道だった旧道から引っ越してきてリフォームしたのかもしれないし、昔の馬道を自動車道に広げたので、新築したのかもしれない。
 タシュティップ区はハカシア共和国全体の32%もの面積はあるが、人口は6%しかなく、鉄の産地としてだけ有名なアバザ市(1万8千人、ハカシア人の割合小)と行政中心地のタシュティップ村(2380人、うち4分の1がハカシア人、今回11月6日に訪れる)を除けば、住民の大部分がハカシア人の小さな村が点在する。
 タシュティップ区に入ると山が近くに見えてくる。タシュティップ村を過ぎると、西サヤン山脈に向かって道は上り坂になる。草原は終わり、周りに木々が見えだし、進むにつれて深くなってくる。山岳針葉樹林帯と言われるところを20キロも行くと、鉄鉱石採掘のアバザ市が煙の中に見えてくる。すぐに大きな選鉱屑のボタ山が見え、市の入り口らしい通りには、坑夫の作業服を着て長靴をはき坑夫の道具を持った黒いクマがハカシアのシンボルの緑の自然と黄金をバックに立っていると言うアバザ市の大きな紋章の看板もある。
 ここで1856年から1926年まで鉄鉱石を採掘し、鋳物工場や製鉄工場があったが、その後閉鎖、1957年再開され、採掘した鉄鉱石は、そのために敷設した鉄道でケーメロヴォ州のノヴォクズネック炭田地方に運ばれている。アバザというのも『アバ』カン・『ザ』ボッド(工場の意)の省略したものだ。アバザ市へは2004年3月に寄ったことがある。

 今回、アバザ市は通り過ぎて、アバカン川を渡り右岸に出て、途中の通行人に道を教えてもらったとおり川岸を進んだ。必ず持参しているハカシアの10万分の1の地図では、この方向にはまず、アルバトィ村があり、その先にマーリィ(小)アルバトィ村、一番奥にはボリショイ(大)アルバトィ村があるが、サーシャの知り合いのターニャさんってどのアルバトィ村に住んでいるのだろう。ナビのない車なので、いつも私が10万分の1程度の精度で、ナビの代わりをしていたのだ。
 よく覚えていないサーシャは、一応、大アルバトィ村へ行く。3つの中では一番大きそうではないか(答えは後述)。

 西サヤン山脈ジョイ支脈の山中だが、アルバトィ川がアバカン川に注ぐ河口のここには広めの谷間があって、1768年からというコサック前哨隊が作った集落から始まったアルバトィ村がある。
http://cossac-awards.narod.ru/Eniseysk_KV/EniseyskKV_Story2.html
 クラスノヤルスク地方がロシア帝国の範囲に入り始めたのは17世紀からなので、古い村も原住民起源(原住民は遊牧していたので特に集落と言ったものはなかったが、遊牧基地があっただろう)でないところは、コサック前哨隊による17世紀までさかのぼれるが、ハカシア共和国の方は、ロシア帝国に合併されたのは18世紀だから、最も古いコサック前哨隊(開墾)村も18世紀以前のものはない。
 正式のハカシア合併は1727年、ロシア帝国と清国の間でサヤン山脈の北はロシア、(現代のトゥヴァ共和国のある)南は清という国境条約が結ばれてからだ、とされている。が、その少し先の1707年にはエニセイ川右岸のミヌシンスク・ハカシア盆地の北部(今のクラスノトゥランスキー村)に、アバカン柵をつくり、1717年には (直線で)その130キロ南の西サヤン山脈北側ふもとにサヤン柵を作っている。当時のハカシア・ミヌシンスク盆地には4つのチュルク語系侯国(1918年それら住民をハカス人と呼ぶことに決めた)があり、中央アジアに広く勢力のあったモンゴル系ジュンガル・ハン国の勢力下にあった。
 事実上の国境線確定と合併は、1758年、ジュンガル・ハン国を清国が合併した頃、清国と直接国境を接することになったロシア帝国側も、サヤン柵のさらに奥(南、つまり清国より)のアルバトィとモノックなどにコサック前哨基地を置いたときからで、チュルク語系原住民(ハカシア人)は、この時からヤサク(毛皮で納める税)はロシア帝国にだけ納めるようになった。その前は、ジュンガル・ハン国や清国やロシアにも納めていた、とある。

 だから、中学生用ハカシア史の教科書にはタシュティップ、アルバトィ、モノック、カラトゥス、オヤ、ベヤ、タバットは、この時代のコサック前哨隊起源の(だから、当時の国境の)村と出ている。(コサックはロシア帝国の国境を守った。現代の平和的な国境警備隊員と違うのは、国境にいた原住民地を侵略して帝国の領土を広げていったことだ。)
 3つのアルバトィ村
 サーシャが向かったのはアルバトィ村を過ぎ、小アルバトィ村も通り過ぎ、大アルバトィ村のあるはずの方向だ。しかし、小アルバトィ村を通り過ぎると舗装のない道になり、山道を登り、道幅はますます狭くなる。初めのアルバトィから13キロほど奥にあるのが大アルバトィ村だった。後でわかったことだが、大アルバトィという43キロの川が西サヤン山脈ジョイ支脈から流れアバカン右岸に注ぐのだが、その南2キロに注ぐのが20キロの小アルバトィ川なので、その大と小のアルバトィ川の畔にある集落には、アルバトィ(1768年コサック前哨隊)村と区別するためそれぞれ大と小がついたのだ。大アルバトィ村の方は古く、ハカシア人だけの200人くらいの小さな村だ。小アルバトィ村はずっと後に材木調達村としてスターリン時代にできた1600人と大きめの村なので、川の大小と村の人口の大小は逆になっているのだ。ちなみに、ただのアルバトィ村は900人。
 ハカシア人だけの小さな村というと、外観は不気味なほど寂れて、カメラを向けるのも遠慮しなくてはならないくらいだと、以前は思っていた(でも、撮った)。確かに荒れた家も多いが、庭に干し草の山がいくつもある古いが、楽しそうな家もある。ここは大アルバトィ川の流れる小さな谷間で、四方が森に囲まれた長閑な土地だ。ターニャが働いている店はあるのだろうか。サーシャが通行人のおばあさんに聞いてみると、店はあるが、ターニャという店員はここではなく、小アルバトィ村の店で働いているのだそうだ。みんなお互いに知り合いなのだろう。
大アルバトィ村
小アルバトィ村の文化会館、
館長が電話して連絡をつけてくれた
小アルバトィ村の学校のミュージアム・ホール
休み時間には生徒たちが入ってくる

 というわけで、また、どこでもそうだが牛も利用する木造の小さな大アルバトィ川に架かる橋を渡り、10キロほどの小アルバトィ村まで戻ってくる。長閑すぎる大アルバトィ村と違ってこちらには、中央広場に村役場や村立文化会館(ドーム・クリトゥーラ)、店(村ができたソ連時代はもちろん国営だった)、アバカン市へのバス停などが揃っている。
 サーシャの知り合いの店員ターニャさんはすぐに私たちを、向かいの文化会館に連れて行ってくれた。ここでアルバトィ岩画などの情報を得ることができるからと館長に頼んで仕事に戻って行った。シベリアはどんな小さな村でも文化会館があって、同好会やイヴェントなどを組織している。つまり、ソ連時代からの伝統で、住民を文化的に導く役割を担っている。
 「なぜ、遥か遠い日本から、大都会や観光地ではなく、こんな奥地の小さな村へやって来たのか」、の答えは「ネットで見たから」が、説得力がある。これで、不信がられることなく歓迎してくれる。で、館長は早速電話をかけ始めた。なかなか繋がらないらしく、20分ほど待ったのだが、その間、文化会館の中を見せてもらったのだ。館長室の正面の壁には、たくさんの賞状を貼った掲示板と、ロシア正教の聖画の写真にはさまれて、おなじみのメドヴェージェフ大統領の写真やロシア国旗と紋章を貼った掲示板があった。
 文化会館のホールには舞台もあって、近々公開の出し物の練習中だった。その出し物というのは、ソ連時代、材木調達の新設村マーリィ(小)・アルバトィに強制移住させられ、厳しい状況でなくなったバルト地方出身者やヴォルガ川中流からのドイツ人(18世紀に移住して第2次大戦前まではヴォルガ川中流に自分たちの自治区もあった)を悼む詩と音楽らしい。『記憶は守られる(長く人々の記憶に残らんことを)』と書かれ、その下にロシア正教会の丸屋根、収容所の象徴の鉄条網を描いた垂れ幕が背後に下がっている。
 1938年から45年に小アルバトィ川右岸にできた小アルバトィ村というのは、もともと強制移住者(バルト沿岸諸国やヴォリガ流域ドイツ人が主)だけでできた村だ。今でも、当人やその子や孫が住んでいるそうだ。また、大・小アルバトィ川上流などのさらに奥地にも、西ウクライナなどからの強制移住者が、原住民の狩猟基地や遊牧基地だったところや、または何もなかったところなどに、『投げ出されて』作らされたと言う小さな材木伐採用の集落がいくつもあった。が、そこの住民は最近になって小アルバトィ村に移住してきた(元の村は廃村になった、例えばチストバイ村など)。だから、今では村の人口構成はロシア人の他にハカシア人(22%、強制移住者とは限らない)、ドイツ人、ウクライナ人、ベラルーシ人、リトアニア人、ショル人、マリー人、フィンランディア人、チュヴァッシ人、モルダィア人、エストニア人など、となっている。
 この時間は昼休み中だったから、電話がつながりにくかったのかもしれない。やがて、村の学校でガイドが待っているからと、言われた。もちろん村で学校は1校だ。

 学校は小アルバトィ川を渡ったところにあり、2階建てで、花壇のある前庭も含めてフェンスで囲んであって、ボガスロフカ村の初等学校より学校らしかった。ガイドのタチヤーナさんが、玄関の外まで出迎えてくれたことが、まずとても気持ち良かった。ミュージアム・ホールは学内にあって、タチヤーナ先生が担当だ。そこには、マラ(小)アルバトィ岩画、ハカシアのユルタ、ロシア農家、郷土史、学校史、ドイツ人(強制移住者)の記念品などいくつかのセクションに分かれていて、
「どれに興味があるの?」と聞かれる。即座に「全部」と答えた。本当は、そのガイドのタチヤーナさんがすぐにも、マラアルバトィ岩画のある場所に案内してくれるかと思っていたのだけれど。
「そこは遠くにあるの? そこまでの道は悪いの?」と聞いたが、近くて道も普通ということなので、まずはその前に、サーシャには退屈だったかもしれないが、この思いがけず立派なミュージアム・ホールを一巡することにした。小アルバトィは、僻地だと思ってしまうが、シベリア人にすれば、車の通れる道もあり、人口2万7千人のアバザ市から40キロ弱というのは、村というより町だ。僻地どころではない。
 起源がコサック前哨隊村アルバトィ村の近くなので、土の中から出てきたという18世紀の鎖状の鉄製鎧も展示してある。ガラス棚から出してサーシャに持たせてくれた。ドイツ人遺品(または贈答品)のセッションでは、彼らの家庭経営が自分たちとはちがっていた、と説明された。例えば、サワーミルクの作り方とか糸の紡ぎ方が、彼らは…とタチヤーナさんは、詳細に説明していく。展示品のハカシアのユルタに入ると、片隅に並べてある臼のハカシア流使い方も実演してくれる。壁に掛けて展示してあるハカシア民族衣装の模様の意味も説明してくれる。
 学校なので休み時間になると、生徒達たちが入ってくる。今はダメだと言って追い出す。そのうちに、本物の日本人が来たと聞いて、高学年の子供たちが入ってきて、記念写真を撮りたいと言う。そのうちの一人のクスーシャは日本語を勉強しているのだと言って2,3の言葉、「こんにちは、おはよう」と発音する。アニメのファンだとか。そればかりか、タチヤーナさんの親戚だと言うので、彼女と親友のマーシャは記念撮影が終わっても、ホールから追い出されない。噂を聞いて教頭も入ってくる。また、写真を撮る。
 マロ(小)アルバトィ岩画
 1時間半も学校にいて、ようやく岩画のある場所に出発できた。タチヤーナさんの親戚のクスーシャとその親友マーシャも同乗した。小アルバトィ川上流に向かって山道を10分も行くと、タチヤーナさんが、ここにはセレーブリャヌィ・イストチニック(銀の泉)があると言う。つまり、効能豊かなミネラル・ウォーターがあるので、ぜひともお味見をしてくださいと勧められる。わき出るところには足場と屋根があり、近くには布切れを結んだ木(チャロマ)が何本かあった。帰国後サイトを調べてみると、南西ハカシア観光コースでは『アバサ市、銀の泉、小アルバトィ岩画』がセットになっている。サーシャは車に常備してある何本かのペットボトルに、水を詰めていた。

銀の泉の湧き出る場所
マラ・アルバトィ岩、下には展示室などのユルタ
岩に赭土で描かれたタムガ
岩の下の展示室
展示室内、岩画の写真とコピー
 さらに10分ほど山道を奥へ進むと、野外博物館『マロアルバトィ岩画』と書いた立て札と派手な色のユルタが見えて、道は行き止まりになっている翌年2011年小アルバドィ村からジェバッシへ行った。小アルバトィ村からたった8キロしか離れていなかった。最近できたばかりで、設備は整っていないとターニャさんは盛んに言っていたが、この日、ガイドもいたし、他の見学の生徒のグループもいたし、ユルタ風売店もあったし、内部は未整備だが展示小屋もあって、博物館らしかった。
 野外博物館というのももっともだ、高さ20メートル幅23メートルという切り立った岩がそびえていて、その岩肌に赭土で書いた岩画が無数にあるのだ。近寄らないと見えないが、4000年前のオクネフ時代(青銅器使用、牧畜に従事)と、中世後期から近世にかけての岩画と、2つの大きく隔たった時代のものがあり、新しいものは古いものの上に重なっていたりするそうだ。

 ターニャさんが、岩の前を流れる小川の水でぬらしたハンカチでこすると、赭度で書いた模様がはっきり浮き出てくる。それはタムガと言われるハカシア人の各氏族の印で、サガイ・グループやベリテリ・グループ、カチンツ・グループなどのそれぞれの氏族のタムガがあるそうだ。ターニャさんはサガイ出身だと言う。
 タムガはここの2種類時代の岩画の中で、新しい方の時代のものだ。古い方のオクネフ時代の岩画はよく見えなかった。
 帰国後サイトで見つけたのだが、タシュティップ郷土博物館学術員投稿の2010年9月7日付け新聞(小アルバトィ野外博物館は9月3日オープン)によると、この高さ20メートルの岩には、82個の岩画が確認されているそうだ。その中で25個は紀元前3千年紀末から2千年紀初めのオクネフ時代の人物画(と言ってもオクネフ時代風の人物画、つまり、たとえば、目が2個とは限らない)で、57個は17世紀から19世紀のタムガと擬動物画だ、と書いてあった。
 記事によると、25個のオクネフ時代の岩画も、そのうち3個は初期オクネフ時代で、ハカシア・ミヌシンスク盆地中央部から見つかっている多くの同時代の岩画と同じ様式のものだが、残りは、ジョイ様式と言われるもので、晩期オクネフ時代(紀元前2千年紀前半)とされている。ジョイ様式の岩画(*)はどれも平地ではなくサヤン山脈に入ったところにあるので、盆地に広く住んでいたオクネフ人のうち、紀元前2000年紀に西から移動してきたアンドロノヴォ人に同化されなかった一部が、(アンドロノヴォ人に追われて)山岳へ駆逐され、さらに数世紀残ったのではないかという仮説もある。また、この地方に土着の狩猟民が、オクネフ文化に影響された独自の岩画かもしれないという別の仮設もある(Есин.Ю.Нの説)。
(*) ジョイ様式の岩画は、エニセイ川右岸のジョイ山地南麓ジョイ川(67キロ)や、小アルバトィ岩画の他、エニセイ右岸支流アムィール川上流の西サヤン山中の右岸支流クンドゥスク川、エニセイ右岸トゥバ川河口の4か所にのみ発見されている。ジョイ川の岩画 Джойская писаница はサヤノ・シューシェンスカヤ・ダムに水没。その前にコピーされた。
 一方、近世の56個のタムガだが、この小アルバトィ川に沿った道が当時は西サヤン山脈を越えてトゥヴァ共和国(からモンゴル)へ抜ける主要な旧道だったから、自分たちのタムガを残したのだろうと言う説がある。タムガは自分たちが通った、と言う印でもあるからだ。1961年にできた国道161号線は、より西側から西サヤン山脈を上ってサヤン峠でトゥヴァに入るが、車で通行しなかった時代は小アルバトィ川をさかのぼり、ジェバッシ川のチスタバイ村からウレテニ川をさかのぼるこの道が主要道だったのだろう。
 また、タムガについての別の仮設では、近世のハカシア人は、(オクネフ時代のような)古代の岩画が残っていて古代人が神事を行っていたような岩を神聖なものとみなし、その岩に自分たちのタムガを残したのだろうと言うものだ。近世には、自分たちのタムガを描くばかりか、オクネブ時代の岩画が彼らによって修復された形跡もある。
 野外博物館『小アルバトィ岩画』には専門のガイドもいて、この先の道を行くと、今は無人のチスタバイ村近くのジェバッシュ川岸にも、同じような18,19世紀のタムガと動物画が残っている(マーリィ岩画、またはジェバッシ岩画。翌年にはそこまで行く)と教えてくれたが、そこは道が悪くて容易にはたどり着けないと言う。帰国後、タチヤーナさんから電話で聞いたことだが、彼女の生まれたチスタバイ村の近くのクイビシェヴォ村(同じく今は無人、戦後、西ウクライナなどからの強制移住者の材木調達用の集落だった)近くに1万2千年前と1万年前の新石器時代の2集落が、2007‐08年に発掘されているそうだ。(アルタイからサヤンにかけて、石器時代人が獲物を追って移動、そこに住みこんでいたのだろうか)

 私たちと一緒に来たクシューシャとマーシャは、この博物館オープン以来何度もここへ来ているそうだ。この岩肌のどこにどんなタムガが見られるか知っていて、タチヤーナさんより先に教えてくれようとした。9月のオープニングには(私のスティック・メモリに写真を入れてくれたので分かったのだが)、アバカン市からも文化部関係者が来たり、近郊のシャーマンが儀式を披露したり、若者の音楽会があったりして盛大だったらしい。
 5年ほど前のハカシアではもっと有名な歴史遺産でも、文字通り青空のもとに放置されていたのだが、近年、管理するようになって、有名な大サルビック・クルガン遺跡を始め、ガイドやガードマンがシーズン中常駐するようになってきている。観光客用の(もちろん非水洗)トイレができたり、たまには料金所までできていたりしている。遺跡を保護するには、やむをえないのだろうが、やはり、料金所や売店はない方がいい。しかし、現在にまで残った遺跡の多くは通行困難な奥地にあるので、普通ではたどり着けない。道がないと行けないから、やはり、料金所や売店ができてもいいか。
 岩の横にあるユルタには、岩画の写真やその説明文を掲示した屋内展示場になっていた。タチヤーナさんの言うには、まだできたばかりで、何もないと言う。ただ、お土産品だけは豊富に並べられていた。
 革命後の内戦時、ハカシアの村
 1時間ほどで、引き揚げ、小アルバトィ村に戻った。途中、ハカシア人のタチヤーナさんが、革命後の内戦時の、逸話を話してくれた。この辺では有名らしい。それは;
 1922年と言うから、1917年にサンクト・ペテルブルクでレーニンの革命がはじまって、1920年の『反』革命軍(白軍)もほぼ一掃された後の頃だが、ハカシアではソロヴィヨーフの『反革命一揆』が続いている。それは、ハカシア・ミヌシンスク盆地に17世紀以降設置されたコサック前哨隊村の一つサレノオーゼロ村出身で、白軍のコルチャーク隊にもいたソロヴィヨーフが率いた反ボリシェヴィキ一揆で、ハカシア人の大半が支持したと言う。
 ソヴィエト体制に反対するソロヴィヨーフ団の支持者(と思われる一般ハカシア人)を多数殺戮したのが、『特別任命部隊ЧОН(*)』として当時のエニセイ県に赴任してきたガイダールだ(後に児童文学作者として有名になる。その孫はエリツィン時代の首相の一人)。タチヤーナさんの話によると、ガイダール部隊の一部のルィプキン隊が1922年、大アルバトィ村に『反乱暴徒』を一掃しようとやって来た。その時、村の大部分の男性たちは、冬場の狩猟に森の中に入っていた。ガイダール部隊はソロヴィヨーフ軍が森に潜んでいるはずだと、村人達を尋問した。ガイダール軍のやり方は一般村人を人質にとり、彼らが(ロシア語が分からなかったからでも、わかっていても)黙秘すると殺すというものだったそうで、次の日、『人質』の女性、老人や子供たち村人34人は井戸に投げ込まれた。何日も、その井戸から半死のうめき声が聞こえたとか。
(*)特別任命部隊とは、反革命運動に対してソヴィエト政権運営を援助するとして1919年モスクワやサンクト・ペテルブルクで活動をはじめ、21年には常備軍4万人、非常備軍34万人になった。24年、赤軍が整備されたことで廃止。
 タチヤーナさんによると、その井戸は埋められて、最近犠牲者の記念碑も建てられたそうだ。記念碑オープンの時はシャーマンが来てそれなりの儀式を行ったとか。
 大アルバトィ村の1922年内戦末期の惨事は、ネットにも載っている。
http://www.khakasia.com/forum/showthread.php?t=416
 ガイダール軍はハカシア中でこのようにソロヴィヨーフ支持者(の可能性のある一般村人)をはじめ、反体制派を残酷に圧制していったらしい(ボリショイ・アルバトィ村だけで前記の非戦闘員の村人を含め100人とか)。だから今でも、村の子供が泣くと、「ほら、ガイダールが来るよ」と泣きやませると言う。あまりに過酷なやり方だった(と言われる)ので、ガイダールはモスクワに呼び戻され罷免された。その時、スターリンでさえ、「自分たちはいいが、ハカシア人はガイダールを許さないだろう」と言ったとか。
http://topsecretz.net/blog/histori/308.html
http://travel.drom.ru/16064/

 小アルバトィ村の学校に戻ると、タチヤーナさんがお茶をごちそうしてくれた。噂を聞いて、別の教頭や、先生たちが集まって来た。その1年生の担任という先生が、今、保護者会をやっているのだが、何か一言だけ言ってくれないかという。何を言えばいいのだろう。
 サーシャに窮地を救いだしてもらい、数分後にはベヤ村への帰途についていた。いつものように、草原に沈む夕日を見ながら。
追記:親切なタチヤーナさんとはその後文通も続いた。翌2011年には再会して、彼女の故郷村へも行った)
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