クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
В Красноярске             Welcome to my homepage

home up date 22 February, 2012 (校正2012年3月22日,6月19日,13年11月13日)
南シベリア、ハカシア・ミヌシンスク盆地の遺跡を回る
(3)カムィシタ遺跡、トロシュキノ古代鍛冶場遺跡
           2011年10月12日から10月16日(のうちの10月15日と16日

Осенью снова и снова в Хакасско-Минусинской котловине( 12.10.2011-16.10.2011 )

2010年ハカシア盆地 2011年クラスノヤルスク 2011年クラスノヤルスクからノヴォシビリスク経由オムスク、新シベリア街道の旅
1 ウスチ・ソース草原クルガン発掘跡 ウスチ・ソース野外博物館 ウスチ・ソース村(子沢山家庭)から大モナック村を通りマトロス山
2 アルバトィ村からジェバッシ川 クイビシェフ村の新石器時代遺跡 チストバイ村 ジェバッシ岩画 タシュティップ郷土博物館 瓶詰アジカ
3 カムィシュタ谷草原クルガン 大カムィシタ・リング 聖なる湖バランコリ ウイバット寺院都市遺跡 トロシュキノ村古代鍛冶場 トロシュキノ村博物館 水没のサルガッシュ・クルガン
アンガラ河口のウスチ・トゥングースカ村 クラスノヤルスク、アフォントヴォ遺跡
 カムィシュタ谷草原クルガン
 チェルノゴルスク市からこの日、10月15日(土)は、去年チョールノエ・オーゼロ(黒い湖)方面にガイドをしてくれたアバカン大学考古学・民俗・郷土学科の卒業生ヴァロージャと、今度はアスキース区のカムィシタ村に出かけることになっていた。これも、クラスノヤルスクからハカシアへ来る途中の道で打ち合わせておいたのだ。
アバカン市からウスチ・カムィシタ村への
国道161
聖なる山の高台にある馬の繋ぎ柱とチャロマ
カムィシタ谷草原、ため池の一つ
カムィシタ川とため池
発掘クルガン
ヴァロージャと発掘クルガン
カムィシタ谷のクルガンの一つ、
左にヴァロージャ

 サーシャ車でサーシャの恋人レーナ(奥さんのマリーナとは別れていた)やヴァロージャとチェルノゴルスク市から国道161号線を南下する。国道はアバカン川を遡るように敷いてあって、アバカン市からアスキース経由ビスカムジャへ行く鉄道支線とも平行に走っている。そこは、樹木のほとんどない草地や裸の丘陵が続いているウイバット草原で、草はもう枯れていたが、干し草の山が規則正しく並んでいた。木立もない。植樹された灌木なら、国道161号線沿いにの所々1列に並んでいる。国道からもクルガンが見える。
 ハンクリХан-куль(『クリ』,『キョリ』,『コリ』は湖の意)という地下水からはミネラル・ウォーターもとれる湖を通り過ぎると、アバカン左岸支流のカムィシタ川河口にあるウスチ・カムィシタ村への曲がり角が見える。村の方へカムィシタ川に沿うように国道から出ると、いっそう乾燥した風景になる。人口1300人というウスチ・カムィシタ村の横をゆっくり通り過ぎて、すっかり枯れ草色の草原に入る。舗装道も切れて、まわりじゅうが茶緑色だ。からりとしたハカシア晴れで青い空が広く、地平線には木の生えていない低い丘陵が繋がっている。道を家畜の群れが横切る。
 ウイバット草原はアバカン川左岸(と北部エニセイ左岸にも伸びる)とクズネツキー・アラタウ山麓の間の平原一帯を指すが、全長162キロのウイバット川の流れている中下流の辺りが、ちょうど中ほどになるかもしれない。ウイバット川と平行に流れてきてアバカン川の少し上流に注ぎこむのがカムィシタ川だ。カムィシタ川は52キロと短いが、貴重な流れだ。乾燥した草原を少しでも潤してくれる。カムィシタ川の源はニーニャ川の湿地帯で、ニーニャ川はウイバット川の右岸支流だから、ヴォロージャによると、細々と乾燥地を流れているカムィシタ川は古代、または中世のエニセイ・キルギス人の作った人口の川、つまり運河ではないか、少なくとも人手が入っている、と昔から言われてきのだそうだ。事実、この川のおかげで、一帯が潤っているばかりか、川の流れの途中途中をせき止めて池を作り、より多くの水を確保しようとしている。だから、カムィシタ川は幾つもの池を伝ってやっと流れている。
 ハカシア政府の古代遺跡リストによると、現在のカムィシタ川から4,5キロのところに、スンチェガシェフ博士(1929-1996)によって紀元前7世紀から1世紀のタガール時代のものとされる用水路跡が2本調査されたと載っている。1本は1890メートルもあった。
 こうして、昔から灌漑に努力はされていても、ウイバット川とカムィシタ川の両岸一帯は、低い山々が連なる乾いた草原だ。ハカシアのデータによると草原地帯の年間降水量は250から300ミリ。(日本の、例えば北陸地方のたった10%)。この草原は、雨量がさらに少ないようにさえ思える。
 ヴァロージャが盛んにハカシア語の語源や地形の説明をしてくれる。ハカシア語の地名をロシア語風に発音したときのずれ、ロシア文字に転記されたときにできたハカシア語特有の文字など、興味深いことばかりだったが、動く車の中でのレクチャーなので、メモがあまり取れなかったのは残念。
 カムィシタ川に沿っていく草原の道から見える低い山の繋がりの一つはピスタッグ(ピスは5の意、タッグ、タクは山の意)、もう一つはサフサール(サクサール)と言って、こちらは火山起源(古生代デボン紀)、つまり死火山だそうだ。まずは、この草もわずかにしか生えていないようなサフサール山に登る。地元ハカシア人がここで子ヤギを生贄に捧げ、豊かな恵みを天に祈った山だとヴァロージャが言う。赤茶けた土の道を上っていくと、ハカシア風のレリーフ(ハカシアの偶像と言われることも)のある馬の繋ぎ柱、チャロマを結びつける綱、青と緑と黄色に塗ったあずまやがあって、少し離れたところにはオヴァ(石を積みあげた小さな塔)が設置してある。願いを込めて石を積むのだが、見たところ重そうな石ばかりだ。あずまやの近くに、ゴミ箱があったが、ごみの命中率はあまり高くないようだった。
 このようにシャーマンが豊作を祈る小高い場所は各氏族毎にあって祖父伝来の山と言われ、ハカシアに200か所はあるそうだ。伝統的には女性は近づけないとか。山の頂上にあるとは限らない。小高くて、開けていて、眼下の眺めの良いすがすがしい場所でなければならない、と思う。ハカシアに来て、こうしてオヴァの横に立ち、青い空の下に延びる地平線を眺めるのが好きだ。
 ピスタッグ山から降りて、サフサール死火山を見ながら草原の道を行く。道はカムィシタ川に沿って通っているが、秋の終わりの川はやっと流れがわかるくらい細い。だが、途中には満々と水がたまった池もある。干上がりそうな池もあった。カムィシタ谷は古代遺跡が集中している所の一つだ。つまり、現在まで残っている所の一つだ。ハカシアは人口が疎なので、古代遺跡は多くの場所でそのまま残っている。近代都市のアバカン市にも、家の土台工事をすると、遺跡が見つかっている。カムィシタ草原は、耕地にも適さなかったのか。耕していれば古墳は邪魔になってどけることもあるが、牧畜用の草ならクルガンの間にもたくさん生えて、家畜が食べ歩くのに石も邪魔にはならない。
 だから。カムィシタ谷草原にはクルガンの立石が至る所に見えた。丘の斜面に数基かたまってあるのも、池の側にあるのも、半砂漠のような草原の道端にあるものなど、ハカシア共和国文化庁のリストによると100基以上はある。あらゆる時代のクルガンがあるが、大部分は紀元前8世紀からのタガール時代のクルガンだ。いくつかは発掘調査されていて、ヴァロージャが案内してくれたのはその一つ、最近発掘されたものだ。だから、規則正しく掘った断面から地層がはっきり見えた。一番上の草の生えている層から1メートル以上掘って、掘り上げた土は横に積んであった。クルガンを囲む立石も方形に並んでいる。門を作るように2個のひときわ大きい石がクルガンの南の方角に立てられてある。塚穴の側面を囲むような石はなかったが、穴を覆っていたらしい丸太の木片が元の形を保ちきれずにばらけていた。
 その発掘跡を長い間見て、ヴァロージャの説明を聞いて写真も撮った。タガール時代の初期パドゴルノフ期、紀元前8世紀のクルガンだそうだ。
 大カムィシタ・リング
 実はカムィシタ・クルガン群には、ハカシア盆地の至る所にあって目を引くタガール時代の巨大石のクルガンの他に、紀元前3千年頃のアファナーシエヴォ文化時代のクルガンのあることでも有名なのだ。
 西からのアファナーシエヴォ文化がハカシアに金属と牧畜をもたらしたとされている。だから歴史の本では新石器時代の次の、金石併用時代・青銅器時代初期にでてくる。アルタイ・サヤン山麓は銅の産地が多く、今でも露天掘りで容易に金属が手に入り、牧畜にも適していた。カムィシタ谷にも、起源前7世紀だが銅溶解場所が確認されている(前記文化庁のリストによる)。
 ハカシアでは最も古いこのアファナーシエヴォ文化時代のクルガン遺跡が、18か所知られている。そのうち14か所は調査が完成したか途中の段階にあり、全部で200基以上のクルガンが発掘調査されている。(ちなみに西隣のアルタイ地方では9か所知られている中で、発掘調査されたのは3か所)。アファナーシエヴォ時代のクルガンの形は、それ以降のオクネフ時代やカラスクやタガール時代が方形なのに、円形のクルガンで、石も立てて並べてなく、横にして積み上げてあるだけだ。
荷車を引く乗用車に乗って現れる
『リング』の場所をヴァロージャに教えてくれる
カムィシタ村の子供たち
大カムィシタ・リンクらしい

 カムィシタ谷一帯には3基のアファナーシエヴォ時代のクルガンが知られていて、1959年、リプスキーと言う考古学者が調査を始めた
 カムィシタ草原を私たちは低い山を上がったり降りたり、川を渡ったり、途中でお弁当を食べたりして、イプスンで心地良くさまよっていた。大きなクルガンを見つけると近寄って石に触ったり写真を撮ったりした。岩画がないか探してみた。円形なのでアファナーシエヴォ時代のはずのクルガンのグループも見つけて、タガール時代のように大きな立ち石がなく、円形に囲ったらしい大きめの石ころがごろごろしているなか、歩きまわったり、ずっしりした石に触ったりしていた。中央部に石を積み上げて囲った(今は)浅い穴があり、ここに死者を葬ったのだろう。夏に生えた草原の草が枯れかかりながらも、石の間から伸びている写真もたくさん撮った。

 ヴァロージャは『大カムィシタ・リング』と考古学関係者の間で言われているアファナーシエヴォ時代の大クルガンを探していた。が、見つからない。この草原丘陵に目印になるようなものはない。近くのカムィシタ村に入ってみる。ニーニャ川畔の沼地から流れ出てアバカン川に注ぐ短いカムィシタ川畔には、下流から順にウスチ・カムィシタ村、パランコリ村、カムィシタ村の3つしか集落はない。
 住民200人の村に入ると、木の柵で囲って積み上げた干し草の大きな山や、家畜を囲う柵の間にまばらに家が立っていた。自転車に乗った子供たちが数人道路で遊んでいる。ヴァロージャが向かった家には大きなパラボナアンテナがあって、村の行政関係者なのかもしれない。子供たちが私たちの車を止めたところに近寄って、遠まきに自転車を乗り回している。アジア風の顔のハカシア少年に交じって、ヨーロッパ風の顔立ちの子供もいる。ドイツ人かもしれない。(ヴォルガ流域からスターリン時代、強制移住させられたドイツ人の子孫。ハカシアに多い)。やがて荷車を引いた旧式ロシア製乗用車が近づいて来て、ハカシア人の男性が降り、ヴァロージャと挨拶する。大カムィシタ・リングのある場所を教えてもらうのだ。この男性も最近の発掘に参加したそうで、地元だから場所をよく知っている。男性は村から見える何の目印もない草原の方を指さして教えていたが、それではヴァロージャが分からなかったのか、地面に石ころで地図を書いて示している。私は村の子供たちと写真を撮っていた。

 行ってみると、大カムィシタ・リングはほとんど村の隣にあった。タガール時代のクルガンのように巨大な石柱や、ユニークな形をした立ち石もなく、ずっしりとした石ころが無数に転がっているばかりだ。中心が凹んだ円形に並んでいる石原もあった。盗掘や発掘されているのだから4千年や5千年前のアファナーシエヴォ人が置いたようには石は並んでいないだろうが、全体に、大きなリングのようにも見える。
 『ハカシアの歴史』によると、アファナーシエヴォ・クルガンは直径が5メートルから30メートル、高さは1メートルくらいで回りは石を積み重ねて囲ってあり、墓穴の側面も土のままのことが多い。カムィシタ谷草原のもだいたいそんな感じだった。
 聖なる湖バランコリ
バランコリへ登る途中にも多くのクルガン群
バランコリの崖上のオヴァーを積むヴァロージャ
 カムィシタ草原は発掘されたか、されてない無数のクルガンの他は、何もないそうだ。しかし、帰国後に調べた文化遺産リストではスベ(山岳石造り建造物、用途不明、オクネフ時代から中世キルギス時代にかけてのスベがハカシアには50か所以上ある)もあるはずだが。
 まだ時間も早かったので、ウイバット川方面へも行きたかった。チャルコフ村にはエニセイ文字発見280年記念碑もあるそうだし、ウイバット・チャータースも、もう一度見てみたい。だが、ヴァロージャは道を知らないと言うので、カムィシタ草原にある伝説のバランクリ湖を訪れることにした。
 ハカシア語からの転記で、『パラン・コリ』とも、『バランニ・クリ』とも呼ばれ、『ヘラジカの湖』の意。力強く善良なヘラジカが多く住んでいたからだそうだ。オオカミの群れが襲ってきても湖が守ってくれたと言う伝説がある。サフサール山脈やピスタッグ山地に囲まれた長さが2キロ弱の小さな淡水湖だが、ハカシアでは聖なる湖だ。山の精が住んでいるので、近くを通る時は供え物をするそうだ。
 バランクリは針葉樹林が豊かに生い茂る山地と乾いた草原平地との境にあって、『草原のトビは森の大ライチョウを狩り、森の動物ヘラジカは、草原に出て羊の群れについて回る』そうだ。
 カムィシタ村から、乾いた窪地を上っていく。大きな立ち石のクルガンがあちこちに見える。登っていくと痩せた木が見えだした。だんだんと、立派なヤマナラシや白樺、松などが増えてくる。この道は昔からあって、毎夏、暑いカムィシタ草原から涼しい山地へ羊の群れを追っているそうだ。
 急な坂を上がると、突然に眼下に真っ青なバランクリが見えた。バランクリの南岸の絶壁の上に着いたらしい。だから湖全体がよく見晴らせた。対岸は低い岸辺になっていて、ピオネールキャンプ場もある。
 バランクリは聖なる湖なので石の塔オヴァもあった。どこでもそうだが、いくらすがすがしい場所の神秘的なオヴァと言っても、まわりには必ずゴミ(ペットボトルなどの不燃性の)がある。
 シーズン・オフなので湖の周りには人気がなかった。小さいが青く澄んだ湖全体を見下ろす高台に立つと、いつまでも動きたくなかった。だが、いくら美しい景色でも、何時間も凝視できない。
 ウイバット寺院都市遺跡
↑発掘当時の写真("Вокруг Света"誌)↓
国道161号線に分断された一方の発掘跡
 帰りも、国道161号線の元来た道を行く。アバカンにあと35キロほどのトゥタッチコフ村Тутатчиковの近くに『ウイバット寺院都市遺跡』がある。2年前にこの道を通った時に始めて気がついた。  
 1970年代発掘したクィズラソフ教授によると、中世8世紀から13世紀にあった都市の7キロにも及ぶ生レンガの外壁といくつかのマニ教寺院跡だそうだ(マニ教寺院ではないと言う説もある)。
 下記資料によると、ウイバット河口デルタ地帯には丘があったが、その丘を二分して国道161号線が開通した。その丘の発掘によってハカシア人の祖先エニセイ・キルギスの『ウイバット城』が発見されたと言う。生レンガを使った建造物もいくつか発掘され、その一つは2個のホールと多角系の角があり、壁の厚さは3メートル、高さは発掘時で4メートルだった(右コピーの2)。
 まわりにはウイバット川から引いた運河跡もあった。
 ウイバット草原は、第2突厥の没後は中央ユーラシアを支配したウイグル帝国(744-840)の勢力範囲にあったが、9世紀半ばにウイグル帝国を倒した大キルギス帝国の中心の一つがこのウイバット遺跡と言われている。マニ教は当時の世界宗教の一つで、ウイグルの国教だった。キルギスにも広まり、ここがマニ教の北限と言われている。
(参照)
・1984年8月"Вокруг Света"誌
http://www.vokrugsveta.ru/vs/article/3134』
・1999年”Кызласов Л.Р. "Северное манихейство и его рольвкультурном развитии народов сибири и центральном Азии" http://e-lib.gasu.ru/da/archive/2000/05/10.html

 2年前は、まだ廃墟の発掘跡らしかった。土を掘った跡と新しく生えてきた草、遺跡を示す標識が傾いて立っていた。錆びているので文字の断片しか読めなかったが。
 今見ると、発掘の跡も周りの土になじんで、ただ多少の土盛があるだけだった。生レンガも土にかえったのだろう。遺跡は国道161号線で切られていて両側に中世都市があった。その一方に、2年前にはなかった長い巨石が置かれていた。巨石のウエスト部分にチャロマを結びつけられるようにベルトがまわしてある。その足元にはお供え物も置かれていた。近くの平たい石の上にはコインが何個も並んでいた。つまり、この2年の間に、ウイバット都市遺跡は古代の聖なる場所として新たな観光名所になったのだ。事実、ウスチ・アバカンスキー区役所の名所一覧には大サルビック・クルガンやバルスーチー・ロック・クルガン、ウズン・フィール(ゼンヒール)集落遺跡などと並んで、リストに載っている。それによると、この石柱は薬効があるとされている。(中世マニ教都市の療養所と思われるところに建てられたらしい)
 トロシュキノ村古代鍛冶場
 10月16日はクラスノヤルスクに戻る予定だった。だが、早く戻ってもクラスノヤルスクでの予定はなかったので、半日はハカシアを回って、それから400キロの道のりを飛ばすことにした。半日のガイドをヴァロージャに頼んだところ、最近日本から考古学者がやってきて古代の鉄炉跡を発掘したが、それに自分の同級生も加わっていたので、みんなでそこを見に行こうと言うことになった。ヴァロージャの同級生サーシャ・スタロドゥブチェフ君はアバカン市に住んでいる。チェルノゴルスク市のサーシャの家をレーナも乗せて朝早く出発し、途中でヴァロージャを拾い、20キロ南のアバカン市でサーシャ君を乗せ、国道45号線を北にシラ湖を越えてトロシュキノ村Трошкиноへ行く。アバカンからは200キロも離れているので、本当は半日で終わりそうもなかったが。
トロシュキノ村近くのクルガン
古代鉄炉跡を示すサーシャ・スタロドゥブチェフ
教授がかぶせたポリエチレンシートの端
古代鍛冶屋村跡かもしれない(トロシュキノ村裏)

 トロシュキノというのはハカシア語ではチャフチル・アールといって、意味は『話し手の村、おしゃべり村』、住民250人の大部分はハカシア人の小さな村。Чоохчыл аалы — Разговорчивое (говорливое) селение
 トロキシュキノ村近くには大きなクルガンがいくつもある。発掘調査されたのもある。前7世紀から1世紀のタガール時代のものが9群あるそうだ。ここも2年前に通った。それらクルガン跡の一つは聖地とされたのか、チャロマが張ってあった。今回、丘の上に立つ大きな石柱にもチャロマが張ってあった。この道をさらに行くとエフレムキーノ村があり、近くに洞窟群があり、さらに白イユース川に沿った山道を登ると、マーラヤ・シーヤ村があり、ここに大規模な旧石器時代住居跡がラリチェフ教授によって調査されている。(本当は、ここまで来たのだから鉄炉跡を見て、マーラヤ・シーヤ村まで行きたかった。しかし、発掘経験の浅いヴァロージャもサーシャ・スタロドゥブチェフからも場所を知らないと言われた)
 鉄炉跡はトロシュキノ村を通り過ぎて白イユース川の広い河岸段丘の上にあって、サーシャ・スタロドゥブチェフ君によると、鉄炉のための強風が吹いてくる絶好の場所だそうだ。鉄炉は幾つもある。当時は使い捨てだったそうだ。その幾つかを、日本からの考古学者とハカシア大学の研究員が発掘したそうだ。完了はしてないので、ポリエチレンシートをかぶせ、また土で覆ったそうだ。その場所には、シートの端が見えていた。スラグやニップルなど多くの発掘物があり、近くの崖に捨ててあった。サーシャが拾って説明してくれたので、いくつかは記念に持ち帰ることにした。
 鉄炉跡は白イユース川の右岸段丘の上にあるが、川は見えない。白樺林があるからだ。この川向うにベーリィ・バラフチン村があり、チョールノエ・オーゼロ村がある。去年はチョールヌィ・オーゼロ遺跡に行った。その時、ヴァロージャが銅の溶鉱炉跡があると言っていた。スラグだと言って指差した塊も写真に撮ったものだ。つまり、この一帯は鍛冶業が古代から盛んだったのだ。クズネック・アラタウの山麓だから材料は近くにあったのだ。
 サーシャ・スタロドゥブチェフ君はこの場所まで来ると、一生懸命知っている限りのことを説明してくれた。
 この場所に大学院生2人を連れてやってきたムラカミ教授は古代(中世)製鉄マンが捨てたスラグや炉の粘土片を調査し、場所を決めて発掘したそうだ。風が強くて炉がよく燃えるこの丘には、未発掘だが、無数にあるそうだ。教授の発掘したこの狭い場所にも3個の炉があった。すぐ隣にも明らかに数個はあると、サーシャ・スタロドゥブチェフ君が指さして教えてくれた。自分たちのロシア流では、発掘調査の跡は何も残らないが、日本流の発掘調査は、発掘し調査すると、もとのようにして保存するらしいと、盛んに感心していた。

 一方、古代製鉄マン達が住んでいたのはここから少し離れた現在のトロシュキノ村の裏手の方だろうとのこと。製鉄技術は聖なる秘技なので、誰にも知られないよう、住居は別の場所にあったのだ。行ってみると、サーシャ・スタロドゥブチェフ君達が試掘した跡を指してくれた。2メートル四方くらいが掘り返されてあった。その一つはサーシャ君一人でやったそうだ。
 そこは、トロシュキノ村の家が遠くに見える草原だった。地面は枯れ葉色で、北側だけに白樺やヤマナラシなどのまばらに生えた低い丘に三方が囲まれている。この小さな谷間に丘の向こうから小川が流れてきてトロシュキノ村を通り白イユース川に注いでいるが、秋なので流れは見えない。遠くの低い山々は白イユース川の対岸にある。この辺の白イユース川は何本もの支流に別れ周りが沼地になっている。
 この日も、ハカシア晴れで空は高かったが風が強い。レーナもフードを深くかぶりなおし、私もマフラーをもうひと巻きした。
 トロシュキノ村博物館
チャトハンを伴奏に叙事詩をうたうカディシェフ
持たせてもらったチャトハン
 トロシュキノ村にはハイジの博物館があると言う。ハイジと言うのは物語手、ハカシア伝統の叙事詩の喉歌(ホーミー、ホーメィ)の歌い手のことで、この村にカディシェフ(1885-1977)と言う著名なハイジが住んでいたからと言う。ハイジはチャトハンと言うツィター(チタ)のような琴に似た弦楽器を持って物語った。
 博物館はもちろん閉まっていた。特に休館日などは決まっていないのだと思う。道で遊んでいた子供に館長の家を聞く。自然に館員の家が分かることもある。やがて、博物館を開けて案内してくれると言う女性が現れた。小さな博物館で、ハカシア人民俗文学者として初めてソ連邦作家同盟員になったと言うカディシェフの肖像画や写真、カディシェフが知っていたという30篇以上の口承英雄叙事詩、10篇に上る伝説などを活字にした本、英雄物語の場面を描いた絵やレリーフ絵、カディシェフが持っていたチャトハンなどの他は、ハカシアの伝統的な衣服や生活調度品、農具などがあって、案内の女性ヴァレンチーナ・ディルコノーヴォさんがほとんど2時間も説明してくれた。詳しく説明してくれ、私やヴァロージャの質問にも丁寧に答えてくれた。ヴァレンチーナ・ディルコノーヴォさんというガイドの名前がわかったのは、最後に、何かこの博物館に関係した本を買いたいと言ったところ、ハカシアの氏族のことを書いた本をくれ、表紙裏に献辞を書いて署名してくれたからだ。ヴァレンチーナ・ディルコノーヴォさんは特に博物館の館員でも、学校の先生でもない。生まれもここではないが、農業関係で長く働いてきたそうだ。羊牧も大変だと言っていた。聞くと、普通の馬は1頭2万5千ルーブル、羊1頭は4500ルーブルほどだと言う。羊はオタール(群)で飼っていて、1群に500頭はいるから、225万ルーブル(600万円)という財産になるが。
 電子メール・アドレスも持っていないから、その後、挨拶はしていない。
 水没のサルガッシュ・クルガン
 帰途についたのは1時半も過ぎていて、アバカン市までサーシャを送っていったのは3時半、一度チェルノゴルスク市のサーシャの家に戻り、用意をして出発したのは5時を過ぎていたが、まだ明るい。実は、ハカシアの北、クラスノヤルスクとの境界付近のサルガッシュ・クルガン群を是非とももう一度見たいと思っていた。2010年にやはり、ハカシアからクラスノヤルスクへの帰り道で見たクラスノヤルスク・ダム湖に沈みかけているクルガンが印象的だったので、もう一度見たいと思ったのだ。
ダム湖とクルガン
ダム湖畔のテント、手前はディーゼル発電機

 国道54号線をサルガッシュ村の手前で出て、ダム湖の方に降りる。舗装道を出たのはもう7時で、夏時間とは言え薄暗くなっていた。だが、2度目なので、前回の様に探しまわる必要はない。枯れ葉色の草原を車の轍を頼りにダム湖の歩へ進んでいく。轍(わだち)跡は何本もあるが、どの轍跡なのかサーシャが覚ええいる。未発掘クルガンの立石も見えてくる。ダム湖が見えだし、背の高い枯れ草の間に立石で方形に区切ったクルガンがいくつも見えだす。水位が高い時はひたひたと水に漬かってしまい、もう地盤が緩くなっている。だから、クルガンを囲んで垂直に立てられた板石も、墓穴の側面になっていたフレーム石も傾いている。クルガンのあったところは湿地になって、近づけない。地面が凍ってしまえば、これら崩壊のクルガンの中にも入れるかもしれない。
 1960年代にできたクラスノヤルスク・ダム湖の深い入り江の畔にあるこれらクルガン群も、タガール人に作られた時は、エニセイ川からかなり離れた小高い丘の上にあったのだ。黄昏の中、入り江の対岸の枯れ草色の丘陵の影が水面にくっきり浮かんでいた。1年前より崩壊していたが、それだけ幻想的だった。

 驚いたことに、近くに鮮やかな色のテントがあってあり、ディーゼル発電の鈍い音が響き渡っていた。髭の男性が出てくるので、サーシャが挨拶する。入ってお茶でも飲まないかと勧められるので、お邪魔する。息子と漁をしているそうだ。テントには通路を挟んで2部屋あって、1つは寝床でもうひとつは『食堂』だ。テーブルに座って暑いお茶を飲み、太いソーセージを食べた。そうしているうちに周りは真っ暗になっていた。
 クラスノヤルスクに着いたのは夜中の12時だった。途中の道で、次の日に行く予定のウスチ・トゥングースカ村沖アンガラ河口の中洲ピクニックの確認をしておいた。
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