クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 18 December, 2015  (追記 2016年1月4日,7月1日,2017年1月8日,2019年12月14日,2020年3月21日、2021年11月12日)
33-(2)   2015年 もう一度トゥヴァ(トゥバ)  (2)
    古墳発掘、トゥヴァの険道
           2015年7月4日から7月20日(のうちの7月8日から7月9日)

Путешествие по Тыве 2015 года (4.07.2015−20.07.2015)

年月日 目次
1)7/04-7/8 ソウル・インチョン空港 ようやくインチョン発 クィズィール市へ 2通の許可証を調達
2)7/8-7/9 トゥヴァ鉄道建設(地図) 考古学キャンプ場 最南のエルジン区(地図) 砂金のナルィン川 険道の食堂
3)7/9-7/11 テレ・ホリ盆地 沼湖テレ・ホリ ポル・バジン 湖周辺の遺跡 クングルトィグ村
4)7/12-7/14 砂漠と極寒のウヴスヌール盆地 ウヴス湖 国境線に沿って西へ 再び考古学の首都サグルィ アダルガン鉱泉
5)7/14-7/15 カルグィ谷へ カラ・スール鉱泉 ブグズン峠踏破計画 地の臍 ヒンディクティク湖 モレン・ブレン川を渡る
6)7/15-7/20 白湖アク・ホリ ブグズン峠を越える ヘレル君を残す ハイチン・ザム道 クィズール・ハヤ
Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、トゥヴァ語からロシア語へ転記された地名をロシア語の発音に近い形で表記した。
 クラギノ・クィズィール・エレゲスト鉄道建設
シベリア幹線鉄道とその連絡支線
 遊牧の国トゥヴァには20世紀の初めまで、車輪の通れるような道は、エニセイ県(クラスノヤルスク地方の旧名)のミヌシンスクからウリャンハイ地方(トゥヴァの旧名)のウユーク盆地へやっと1本あっただけだったが、21世紀の初め頃には舗装道も何本か通じるようになった。さらに、シベリア幹線鉄道の支線アバカン・タイシェット線の通るクラギノ町からトゥヴァの首都クィズィールまで鉄道を敷く計画が実現しつつある。土木工事前には義務付けられている考古学調査は、ロシア連邦地学協会(会長は、あのセルゲイ・ショイグ)が主導して、2011年から始まり、今年5期目になる。事業のスポンサーはルスラン・バイサーロフ(チェチェン出身)の『トゥヴァ・エネルギー産業コーポレーション』で、ロシア科学アカデミー有形文化財史研究所(Институт истории материальной культуры РАН 1859年創立ロシア帝国考古学委員会の後身、本部はサンクト・ペテルブルク)が協力している。地学協会が呼びかけて国際ボランティア団が結成され、同上のサンクト・ペテルブルクのアカデミー有形文化財歴史研究所からの専門の考古学者たちが指導している。クラスノヤルスク地方内のクラギノ町からクルトゥシビン山脈(*)までの228kmの調査は上記アカデミーの中央アジア・カフカス考古学部指導の『エルマーク』隊が行い、トゥヴァ領内の123.7kmは同セミョーノフとキルノフスカヤ指導の『王家の谷』隊が行っている。発掘の行われるのは夏期のみで、5月末から9月末までの4か月ほどだ。 
(*)クルトゥシビン山脈 西サヤン山脈の支脈の一つ。クラスノヤルスク地方とトゥヴァ共和国との境をなす。南西のエニセイ川谷から北東のウス川水源まで長さ約200キロ、標高2000m、最高峰2492m。
この山脈を越える古くからの道はウス川谷を通る。紀元3000年前の前期青銅器時代からも、エニセイ川中流盆地(ハカス・ミヌシンスク盆地)と、エニセイ川上流盆地(トゥヴァ盆地)を結ぶクルトゥシビン山脈越えの遊牧民の道はウス川谷を通った。ちなみに、19世紀ミヌシンスクの商人たちが当時のトゥヴァに行く時は陸路よりも航路のエニセイ川を利用したが。
1912年、トゥヴァがロシア帝国の保護領となってからできた初めの車輪(荷車)の通れるような道もウス川谷を利用している(1910-1915)。さらに、現在の自動車道(共和国道54号線)もほぼウス川谷を利用している。
トゥヴァ領内の鉄道予定ライン。赤丸は予定駅

 『王家の谷』隊では1年目と3年目にはアルジャーン村などの建設予定地近くのウユーク盆地に調査基地があったが、2年目と4年目にはエールベック谷にあった。新鉄道がウユーク盆地を縦断し、ウユーク山脈をエールベック谷に沿って越えるからだ。5年目の現在は、鉄道敷設予定のウルッグ・ヘム(上流エニセイ川のことをトゥヴァではこう呼ぶ)右岸ではなく、左岸のエレゲスト村付近に考古学キャンプが張られた。直接の敷設予定地の発掘調査は、エールベック谷上手のカティルィグ遺跡を含めてもまだ完了はしていないが、2015年はエレゲスト村付近に大規模な精製工場と古い炭鉱(「クラースナヤ・ゴルカ」と言う)の再整備のために、鉄道より優先して考古学調査が行われることになったのだ。(2016年は、また右岸のエールベックで調査が続行される)。
 また、鉄道を敷く目的はトゥヴァの地下資源をロシアに運ぶことにあるが、(モスクワ資本の狙う)石炭などの地下資源は終点クィズィールのその先、ウルッグ・ヘム左岸のエレゲスト村近くにある。だから、『クラギノ・クィズィール鉄道敷設計画』と言う名も『クラギノ・クィズィール・エレゲスト鉄道敷設計画』と最近は変わっている。

 トゥヴァの炭田はウルッグ・ヘム岸のトゥヴァ盆地にあるので、ウルッグ・ヘム炭田と呼ばれている。1883年に発見され、1925年代から工業的採掘がはじまった。ウルッグ・ヘム炭田は、カー・ヘム炭鉱(露天掘り、1970年から)、エールベック炭鉱(炭坑)、エレゲスト炭鉱(炭坑)、メジェゲン炭鉱、チャダン炭鉱(露天掘り)などからなる。そのうちエレゲスト炭鉱は1950年から工業採掘がはじまったが。1970年に閉鎖。その後採掘権を取得した会社も次々と代わったが、クラギノ・クィズィールの鉄道敷設計画を推し進めたのは、現在の会社の有力な株主だ。もちろん、エレゲストに新たに近代的な選鉱工場を建て(トゥヴァに今まであるものは概して前近代的)、エレゲストまで延長させた鉄道で石炭をトゥヴァから運び出すためだ。
発掘現場の一つ
ウルイマゴフさんと

 鉱床が最も厚いと言うエレゲスト炭鉱では1950年から1970年までクラースナヤ・ゴルカ炭鉱(『赤い丘』の意)で採掘していた。そこでは当時から、13,14世紀の遺跡(中世の炭坑跡)が見つかっていた。この古代中世の冶金場跡からはコークスも見つかっているそうだ。
 エレゲスト炭鉱は近代的な選鉱工場と運搬手段(鉄道)があれば、最も経済的に有利らしい。その選鉱工場用地も事前に考古学調査が必要だ。敷地内に遺跡が多いからだ(地上部に遺跡が見えなくても、建設前には調査が必要。エレゲストの場合は、すでに地上部に大規模な遺跡が認められている)。それらを発掘調査するのが今年の課題で、だから、発掘現場はエレゲスト炭鉱のあるウスチ・エレゲスト村の近くにある。今までのアルジャーン・キャンプ地やエールベック・キャンプ地と違い、クィズィールからも40キロと近く、道路もいい。
 スラーヴァさんに地方道162号線を西へ進んでもらった。確かに、40キロも行くか行かないうちに発掘現場が見えてきた。車を止めると、若い発掘員たちが寄ってくる。地学協会が呼びかけた国際ボランティア団の学生・院生たちかもしれない。
「アレクサンドル・ウルイマゴフというオセチアから来ている人を知らないか」と聞いてみる。彼はこのグループにはいなかった。
 またしばらく行くと別の現場があった。ここにはウルイマゴフさんたちや、去年、一昨年と知り合った何人かの考古学関係者人がいた。こちらの遺跡は、地上部から古墳内室に入るような石の通路があるという特異で超大規模な放射状型の古墳と言う。発掘途中なので全容はわからない。考古学発掘の大センセーションになるかもしれない特異な古墳かもしれない。ここで発掘していたウルイマゴフさんや、去年知り合った人たちが古墳を案内して説明してくれた。大きな石の位置が何だか意味ありげだ。『クラースナヤ・ゴルカ2』古墳群と名付けられている。2015年、ウスチ・エレゲスト村付近で調査された古墳群は、旧炭鉱名のクラースナヤ・ゴルカ(赤い丘)から『クラースナヤ・ゴルカ1』『同2』『同3』と命名されている。遺跡の時代は前期青銅器時代、前期スキタイ時代、スキタイ時代だ。今年度の調査予定は約50基のクルガン、前年度は87基を調査した。(『トゥヴァ・ニュース』による)
 ウルイマゴフさんにはオセチアへ招待されている。実は、次回のロシア旅行の目的地は北オセチア共和国=アラニアにしようと思っている。時期はいつがいいかと聞いておいた。秋がいいと言う。今年の秋は難しいが、来年には。
 エレゲスト考古学キャンプ場
エニセイほとりのキャンプ場
キルノフスカヤさん、セミョーノフさん
孫の誕生を知らせに現れたピーシコフさん
(白いシャツ)
『クラスナヤ・ゴルカ』遺跡で発掘されたつぼ
発掘中の遺跡の近くにまで工場が建ち始めている
 発掘現場の近くに、考古学リーダー(発掘隊隊長)のキルノフスカヤさんたちのロシア・アカデミー・サンクト・ペテルブルク歴史文化財研究所(ИИМК РАН)キャンプ場があった。場所は去年や一昨年と違っても、食堂テントや、備品のそろっている中央テント、パソコンなどが設置されているユルタなど去年と同じものをまた広げていた。カメラマンのシャピーロフさんをまず見かけて、ロシア風に抱きあってあいさつする。発掘を指導しているキルノフスカヤさんたちやセミョーノフさんとも同様。 彼らと会うのも4回目となる。セミョーノフさんはカラー版の"Искусство варварских племен(『野蛮種族の芸術』、ギリシャから見てギリシャ語を解さない民族の『野蛮』の語をあえて持ってきて題名にした)と言う分厚い本を贈呈してくれた。署名入りだった。後でキルノフスカヤさんに聞いたのだが自費出版だ。発行部数は1000部で、作者が贈呈したい機関や個人に分けているらしい。カフカース(コバン文化)やロレスタン(イラン西部)、スキタイ、トラキア、ケルト、ペルムの考古学と発見物がカラー写真とイラスト入りで詳細に述べてある。こういう本を私はほしかった。大喜びで受け取ったのだが、受け取り方がスラーヴァさんの気にいらなかったらしい。後で諭された。こういう場合、私はロシア語がよくわからない(ロシア語なんかで諭さないでほしい)。
 ちょうど昼食時だったので食堂テントへ行ってスラーヴァさんといただいた。食堂のスタッフも私のことを覚えていてくれた。食事に戻ってきた発掘員たちも、何人かは顔見知りだった。その一人、去年カティルィグ遺跡を掘っていたトゥヴァ人男性に呼び止められ、覚えているかどうか聞かれた。もちろん覚えている。彼が土器を見つけた時、写真を一緒に撮った。その写真を送ってほしいと言うので、私の手帳に住所を書いてもらった。実は、その時の写真を私は自分のサイトにも載せているので、アイフォンを開けてそのサイトも見せてあげた。何だかよくわからないようだったが。

 キャンプ場には1時間半ほどいて、スラーヴァさんにせかされて去る。途中でもう一度『クラースナヤ・ゴルカ』遺跡に立ち寄る。テレビ局からのキルノフスカヤさんへのインタビューが現地であるからだ。インタビューが終わると彼女は、『クラースナヤ・ゴルカ』遺跡を案内して、もう一度説明してくれた。すぐ近くにはТЭПК (Тувинская Энергетическая промышленная сорпорацияトゥヴァ・エネルギー産業営団)と屋根に大きく書かれた建物がすでにある。そこにいたのは30分ほどだったが、スラーヴァさんには不満で、ユーリー・バーザンさん(スラーヴァさんの新しい教え子の父)が待っている、人を待たすものではないと、かなり怒っていた。しかし、キルノフスカヤさんたちや、ここ数年で知り合いになった考古学者たちとの交流もトゥヴァ旅行の目的の一つなのだが。
 (後記)2015年7月末のウェブニュースによると、同じくエニセイ川左岸でウスチ・エレゲストから遠くない『クラースナヤ・ゴルカ15』と名付けられた古墳群には、時代の異なる10基の遺跡があるのだが、そのうちのは紀元前3000年期の神殿跡だった。平坦な石で床が敷かれ、また門もある。石のイコノスタシス(元々はギリシャ正教の聖所と至聖所を区切る、イコンで覆われた壁の聖障の意味。そこから類推)や犠牲に捧げた羊などの骨の穴、太陽の模様がある瓶の形の容器(同じようなものがハカス・ミヌシンスクの青銅器前期のオクネフスク文化期や、トゥヴァのチャー・ホリ文化期の遺跡から)など保存状態のよいものが見つかっている。
http://www.interfax.ru/russia/454197
https://www.nkj.ru/news/26695/

 スラーヴァさんは、ヘヤピンカーブの下り坂をまたスピードを上げて走るのだった。
 午後4時前にクィズィール市のたぶん待ち合わせの場所『アジアの中心碑』前に着いたのだが誰もいなかった。
「なぜいないのだ?」と焦ったスラーヴァさんはヴァレーリー・ディルティ=オーロヴィッチ・オンダールさんに電話する。やがて現れたヴァレーリーさんの車の後ろを走って行くと、クィズィール市の商業の中心だが、とてもゴミゴミした卸売市場に着いた。一緒にこれから出発するはずのユーリー・バーザンさんは卸売市場で自分の経営する食堂のために何だか仕入れているらしい。仕入れたものは、傷まないうちにハイゥイラカン村の自分の食堂まで運ばなくてはなるまい。
 スラーヴァさんと、ヴァレーリーさんやユーリーさんはポル・バジン遺跡出発について、いったい、いつと決めていたのだろうか。私は、クラスノヤルスク出発が1日遅れたので当初の予定も1日ずつずれて、9日早朝出発だと思っていたが、当初の予定が半日ずれるだけの8日夕方出発なら、それもいいと思って、急いで集合場所のクィズィールの『アジアの中心碑』前に戻ってきたのに。
 ヴァレーリーさんは、これからハディン湖に行き、そこで、ハイゥイラカン村から戻ってくるユーリーと合流すればいいと言う。ハディン湖ならクィズィールからポル・バジン遺跡への途中にある。ヴァレーリーさんは湖岸でキャンプを張りたがっている。ハディン湖は海水くらいの塩湖で、観光名所ではあるが、私はあまり気が乗らなかった。ロシア人やトゥヴァ人は塩湖で水浴びが大好きだが、海に囲まれた中低緯度国出身の私には、浜辺日光浴は特に必要ない。
 ちょうど、ヴァレーリーさんに家から連絡があり、娘さんの手術があるので、結局参加できないと言うことになった。婦人科の手術で、麻酔なし(手術は無料だが、麻酔代は有料らしい)にしたくないので、数日後になるとか。ロシアで麻酔なしでもしている婦人科の手術と言えば…
 ユーリーさんのハイゥイラカン村は、考古学キャンプ場のエレゲストのさらに西にある。ユーリーさんがハイゥイラカンから出発するなら、ハディン湖のそばも通るが、まずエレゲストを通る。いったん別れてきた考古学キャンプ場に、また戻るのはきまり悪いが、そこでユーリーさんの車を待つのが一番いいと決めて、また共和国道162号線を走る。162号線はウルッグ・ヘム(上流エニセイ川)にほぼ平行に左岸を走っているのだが、川向こうの右岸のウユーク山中で煙が上がっているのが見えた。いつも夏に起きる火災だろう。
 エレゲストのキャンプ場に戻ったのは夕方5時半ぐらいだった。まだまだ明るい。(ちなみに、たとえ8時に出発したとしても暗くなるまでにかなりの道のりを進める。)キャンプ場では、発掘物補修テントで、先ほど見落としていた大きな壺を見る。7時には食堂テントで夕食も食べる。いつ、ユーリー・バーザンさんがハイゥイラカンから出発するのだろう。スラーヴァさんは連絡電話を待っている。
 去年ホームスティしていたユーリー・ピーシコフさんが現れたので、また抱き合ってロシア風のあいさつをする。奥さんのオリガ・ピーシーコヴァさんとは文通している。彼女によると、ユーリー・ビーシコフさんは今年は、考古学キャンプ場のオーナー運転手をしていないそうだ。また、最近結婚した息子さんのオレーグに子どもが生まれるともメールに書いてあった。ユーリー・ピーシコフさんがキャンプ場に来たのは、初孫が生まれたと、旧友たちに知らせるためだ。バケツ一杯のヴォッカをみんなにご馳走して初孫誕生を祝うためだ。本当にバケツ(新しくてきれいなもの)いっぱいになるまでヴォッカを注ぎ、輪切りレモンを添えて、みんなにふるまっていた。このバケツというところがいい。私は飲まないが。
 ユーリー・ピーシコフさんは私たちがこれからポル・バジン遺跡を見にテレ・ホレ(湖)へ行くと聞いて、こんな車では絶対行きつけないと、スラーヴァさんに(馬鹿にしたように)言った(と、スラーヴァさんは腹を立てていた)そうだ。キルノフスカヤさんたち考古学者たちも、もちろん調査のためにテレ・ホリ湖へは行っている。キルノフスカヤさんも、この車で行くのは難しいと思ったかもしれないが、
「今はどんな道になっているか、帰ってきたら教えてね」と、穏やかに言っただけだ。と言うのも、彼女たちが発掘調査に行ったのは、2007年ごろまでのことだからだ。そのときは超ごつい車で行った。
 この日、暗くなりかけた頃、スラーヴァさんの携帯が鳴った。話し終わると
「タカコさん、今夜はここで泊まるほかない」と言う。ユーリー・バーザンさんたちは今日はもう出発しない。明朝5時にエレゲストを通るそうだ(と、言われた、つまり4時頃、ハイゥイラカンの自宅を出発するのか)。スラーヴァさんの車には私用のテントも積んであるが、キャンプ場の備品係の男性(もう3年目の知り合い)が、今年は来客用テントも、もう張ってあって、寝袋もそこに置いてあるからどうぞと言う。
 トゥヴァ最南東のエルジン・コジューンへ
  トゥヴァ南東部地図

 7月9日(木)。出発は5時ではなかったが、6時には共和国道162号線をユーリー・バーザンさんの超古い(とスラーヴァさんは言う)ウアズの後について走っていた。ヴァレーリーさんが行けなくなったので、ユーリーさんの長男さんと奥さんのゾーヤさんだけが乗っていた。クィズィールからは連邦道54号線で南下する。バルガジン村のあたりまでの約100キロはトゥヴァ盆地の草原の中を真っ直ぐに走る。遠く草原の端に低い山々が連なっている。その100キロの間は、ツェリンノエ村(1500人)の他は、集落はない。
 バルガジン村はタンヌ・オラ山脈麓にあるので、村を過ぎると山が近くなる。シュールマク峠でタンヌ・オラ山脈を越え、1911年までの清朝中国支配時代のウリャンハイ地方(トゥヴァの旧名)の首都サマガルタイ村を通り過ぎると、また草原が広がる。サマガルタイから数キロほどの道路のすぐ脇に、トゥヴァでは珍しい鹿石が立っている。私がスラーヴァさんの車から降りると、ユーリー・バーザンさん一家も車から降りて、いっしょに鑑賞してくれた。
"мог"と地図には記載されている石柱
タルラシクィンの記念碑

 タンヌ・オラ山脈は、最後には北極海に流れ出るエニセイ流域とウヴス・ヌールなどの内陸湖流域との分水嶺となっている。タンヌ・オラ山脈北の草原はトゥヴァ盆地、南はウヴス・ヌール盆地(後述)だが、南の草原の方がより乾燥している。南の草原盆地の東を流れるのがテス・ヘム(757キロ、ヘムは川の意)で、自分の周りだけに灌木林をつくって、通り道の岩山は低くても迂回し、大きく蛇行して流れている。連邦道54号線はテス・ヘムを遡るように走っている。やがて、(確か去年はなかった)エルジン・コジューンと書いた立派な門をくぐって、モンゴルと国境を接する最南端の同コジューンに入る。

 クラスノヤルスクからモンゴルとの国境まで1063キロの連邦道54号線のちょうど1000キロ地点がこの草原にある。去年と同様、その1000キロの道標を写真に撮る。
 また、去年は気がつかなかったが、道路から200mか300mほどの見晴らしの良い草原に立派な石柱が立っていた。背の低い貧弱な草しか生えていない草原に車を進めて、石柱のあるところまで行ってみる。地上部が2m以上もある石柱だった。飛んでいる鹿も馬も掘られていない。鹿石ではない。この石柱の周囲には、少なくとも今は何もない。古代人の墓標だったのか、何だったのか、全くわからない。1982年刊行の10万分の1の地図にはこの場所が“мог”と記載されている(могила、つまり古代人の墓地)。ネットをいくら探しても、この立派な石柱についての記述は見つけられなかった。
 ここから数分のところでタルラシクィン Тарлашкын(32キロ)というテス・ヘムの小さな右岸支流が道路を横切るのだが、そこに1921年と記した赤軍勝利の記念碑があるはずだ。去年は見落としたが、今回、走る車の窓から注意深く眺めていたので、ちゃんと見つけた。2004年に見た時より、立派になっていたくらいだ。赤い星も真っ赤に塗られ、白い石灰の台座の上に輝いていた。台座には1920年代に打ちつけたとも思えない新しい文字盤に『1921年5月23日、この場所でカチェトヴォ指揮による赤軍パルチザンの部隊がトゥヴァにおける白軍残党を打ち負かした。23 мая 1921 года на этом месте отряд Красных Партизан под командованием С.К.Кочетова разгромил остатки белогвардейцев в Туве.』とあった。事の歴史的な評価はともかく、この碑を11年ぶりで訪れることができてよかった。同行のユーリー・バーザンさんには、あまり興味はなかったかもしれない。彼の車は道端に止まったままで、中から誰も降りて来なかった。(トゥヴァ人で赤軍の勝利を喜ぶ人はあまり見かけない。今では全く見かけない))
 エルジン村に入ったのは11時頃だった。村に入って食堂でユーリー・バーザンさんたちと食事をとった。彼らには朝食かもしれない。エルジン村を過ぎると、アスファルト舗装の直進の連邦道54号線はモンゴルとの国境の税関のあるツァガン・トルゴイに向かうが、私たちは左折、国境と平行に東に走る道に入る。舗装もなく、地面は砂地だった。ツァガン・トルゴイの辺りは最も北の砂漠地帯と言われている。

 砂道はセンギレン山脈から流れてくるナルィン川(121キロ、なぜかハプスグ小川という別名がある。139キロのエルジン川の左岸支流、下記参照)に沿って走る。エルジン・コジューンは20世紀の半ばまでモンゴル領だった(トゥヴァ人民共和国は1918年成立を宣言)。古くは、遊牧民には勢力範囲はあっても国境はなかったし、1911年までの清朝中国時代は、上記のように、トゥヴァはモンゴルの一部とみなされていた。つまり、トゥヴァは清のモンゴル(外蒙古)統治下で、ウランバートル(現モンゴル国の首都、旧名ウルガ)より1115キロ西のウリヤスタイにおかれた総督府の管轄地の一部だった。
 1932年トゥヴァ人民共和国とモンゴル人民共和国との間に国境に関する条約が結ばれるまでは、タンヌ・オラ山脈が自然国境だった。つまり、タンヌ・オラ山脈南麓で、現在トゥヴァ領(ロシア領)となっているウヴス・ヌール盆地北は、エルジン村をはじめすべてモンゴル領だったのだ。だから、地名にはモンゴル語が多い。しかし、1944年トゥヴァ人民共和国がトゥヴァ自治州としてソ連邦に編入されると、今までモンゴル領だったウヴス・ヌール盆地北はソ連領になった。1954年のソ連邦地図では現在のようになっている。1958年には、より正確な地図(*)がつくられ、国境線もより明確になった。1976年、最終的な、つまり現在の国境線が出来上がったのだ。だから、タンヌ・オラ山脈南・ウヴス・ヌール盆地の住民にはモンゴル語を話す住民も少なくないそうだ。ナルィム村の住人や、さらに南東でモンゴル国境に近いカチュィク村の住民は家ではモンゴル語で話していると言う。テス・ヘム(川)より北の現在のテス・ヘム・コジューンではトゥヴァ語を話すモンゴル人もいる。
(*)より正確な地図 例えば、ウヴス・ヌール盆地にあるトレ・ホリ(湖)は1932年の地図では記載されていず、国境線は直線だった。1958年の地図には、トレ・ホリ(湖)が記載され、国境線は湖上を通ることになり、南部トレ・ホリはモンゴル領となった。つまり、1932年頃はトレ・ホリ湖はロシアの地理学者には発見されていなかったのだ。
 ちなみに、エルジン・コジューンも1941年に形成された(それ以前はテスヘム・コジューンの一部だったのか)。また、1963年行政中心地の村名がサルィグ・ブルンからエルジンに変わった。
 砂金のナルィン川を遡る
 そのエルジン村を過ぎ、私たち2台の車はアスファルトの連邦道を出て、ナルィン川を遡るように通じている砂道を走って行くと、2000人近くの人口の立派な村で、仏教寺院もあるナルィン村に出る。ホンディ川がナルィン川に同流するところにあったホンデイ・アクスィ村も1963年にナルィン村と改名した。 
キルギス(クルグス)共和国にも同名の都市(3万5千人)と川(807キロ)があって、こちらの方が大きい。他にもナルィンと言う地名はウズベキスタンやブリャーチア、カルムィキヤなどにもある。テュルク語由来、またはモンゴル語由来の地名らしい。
 エルジン川の中流にモレンと言う古い集落があり、そこにトゥヴァでは初めての仏教寺院ができた。エルジン寺院ともクィルグィス(クルグス、キルギス)寺院とも呼ばれていた。エルジン川の畔にはクィルグィス Кыргисы氏族が住んでいたからだ。(キルギス、またはクルグスКыргызはソ連邦から分離した独立国家の名前でもあるが、歴史的なキルギス人(崑崙)、キルギス湖、キルギス氏族など中央アジアのテュルク語圏に多い固有名詞、トゥヴァにはキルギスと言う苗字も多い)
 ナルィン川上流では砂金が採掘されているが、現在ナルィン村は砂金業とは関係がなく、かつてのコルホーズ員の集落だ。ソ連時代は優秀な畜産コルホーズ村として表彰されていた。今でも村の郊外には畜舎跡が多い。草はらには牛が寝そべっていた。
 ナルィン村を過ぎて20分も行くと、いよいよ水場が始まった。道はナルィン川の右岸へ行ったり左岸へ行ったりして通じているが、橋はなく浅瀬を渡ることになるのだ。この先は何度も浅瀬を渡ったが、なかなか『深い』浅瀬もあった。どの浅瀬も透明で冷たい水が流れていた。瑠璃色の浅瀬もあって、車から降りて、ため息をついていたものだ。すると、後続のユーリーさんの車が渡ってきた。意外にも波は高く、ゆっくりとではあるが、砂利の川岸で見惚れていた私のところまで、押し寄せてきたので急いで後ずさり、濡れずにすんだりしたこともあった。
センゼレン山中、前方の浅瀬を行く
左がクングルトィグ、右は砂金場
 ナルィン川を遡って行くとセンギレン山脈も険しくなっていく。褶曲の跡がよく見てとれる山肌の下や、山火事の後の林の中も通って3時間も行くと『クングルトゥク左』と手書きで書いた木の標識が見えてきた。帰国後10万分の1の地図で調べてみると、直進ではナルィン川の砂金採掘場中に行く。この辺のナルィン川の河原には小石がたくさんあった。浚渫機で川をさらえた跡かもしれないとスラーヴァさんが言う。
 センギレン山脈では、このナルィン川(121キロ)上流と、バルィグトゥグ・ヘム川(563キロ)の支流エミ川(65キロ)の上流が砂金採集地だ。
 2014年の世界の金採掘量の2位はロシアだが、そのロシアの中でも、クラスノヤルスク地方(47.2トン/年)やチュコト自治管区(32.0トン/年)が1,2位。トゥヴァは13位で1883kg。トゥヴァでは『オイナ』や『トゥヴァ』と言うアルテリ(協同組合)が砂金の採掘を、有限会社『タルダン・ゴールド』や『ヴァスト−ク』が鉱脈からの採掘を行っているそうだ。1960年代までは盛んだったトゥヴァの砂金採掘地だが、その後エミ、ハラルなどが閉鎖されたとサイトには載っている。ナルィンは『オイナ』が採掘しているらしい。2日後の帰りの道では、この曲がり角近くの河岸段丘に大きなトレーラー車が止まっているのが見えた。採掘者がその車中で寝泊まりもできる。
 標識『クングルトゥク左』とある通りに曲がると、ナルィン川本流の谷から出て、小さな右岸支流に沿って、険しい坂道を上って行く。テス・ヘム(ヘムは川・水の意)の右岸支流ナルィン川とバルィグトゥグ・ヘムの分水嶺を越えなくてはならない。30分も行くと立派なオヴァーの建った峠に出た。帰国後10万分の1の地図で調べてわかったことだが、峠(たぶんケスキ・バーリクКески Баалык、2587m)と言うよりも高原にさらに突き出た小山だったようだ。小山の迂回路もあったが、登って降りる。確かに高原のさらに小山の上からの眺めは抜群だった。スラーヴァさんの車は急勾配に強い改造高駆動車なのでぐいぐい登って行った。(今のところは、故障なし、しかし…後述
 この辺でユーリーさんのウアズはオーバー・ヒートをしたらしく、冷えるまでしばらく待った。立派なオヴァーのある峠を越しても、また次の峠があり、控えめなオヴァーも道路わきに立っていた。ここはセンギレン山脈の高原で、木も生えていない山並みが眼下に広がっている。
 センギレン山脈はトゥヴァの南東のモンゴルとの国境と平行に、ほぼ東西に230キロにわたって延びている。幅は最大120キロ。センギレン山脈の南麓にはモンゴル領のテス・ヘム(川)が流れる。センギレン山脈は、前記のように、内陸湖に注ぐテス・ヘム流域(支流はナルィン川、エルジン川など)と、最後には北極海に注ぐエニセイ川流域(バルィグトゥグ・ヘムが注ぎ込むエニセイ川源流のカー・ヘムなど)との分水嶺になっている。最高峰は3276m。
 青空の下、高原を走るのはとても気持ちがよい。眼下の北斜面にはシベリアマツとカラマツの林も見えた。岩肌もむき出しの山並みの中を、上り下りして進んでいくと、石ころの河原が下方に見える。夏場なので水も流れていないのか、白い河原の石の列だけが緑の窪地に見えた。河原に沿ってさらに下ると水面が現れた。バルィグトゥグ・ヘムの源流の一つらしい。道はバルィグトゥグ・ヘムの川岸近くに寄ったり上に上がったりして、川を下るように続いている。
 険道の食堂 シャイラーラク Шайлаарак
 短い坂道を登ったところの急な曲がり角に、木製の大きなフォークとスプーンとナイフが打ちつけられたポールが見えた。この人里離れたところに最近できたらしい食堂だ。クラスノヤルスクのグループが2014年のポル・バジンへの紀行文と写真をサイトに載せているが、それを事前に読んでいたスラーヴァさんが、「ここだ」と言う。
 今まで狭かった上流バルィグトゥグ・ヘムも、もうここでは広くなり、大きく蛇行して流れる外側段丘の上に小屋が立っているのが、曲がり角から見晴らせた。
 ちなみに、数年前から整備されつつあるかつての(今でもそうだが)通行超困難道のトッジャの行政中心地トーラ・ヘム村へ行く陸路200キロの『バヤロフカ=トーラ・ヘム』道にも、新たに食堂ができている(前年に行った)。そちらはトーラ・ヘムを往復する人だけではなく、途中にある中国資本のクィズィール・タシュトィク鉱山も稼働中なので通行する車も多く、食堂は繁盛している。トッジャ・コジューンへの陸路の次に着手されているらしいテレ・ホリ・コジューンの178キロの『ナルィン=クングルトゥグ』道も、ここ1,2年は整備に着手されつつある。トラクターや『ウヤル(ロシアのウラル自動車工場製大型トラック)』でなくとも、天候によっては普通のジープでも通行してみようかと言うまでになった。(数年前にはジープのグループが3分の2ほど行ったところで引き返した、という旅行記もサイトに載っている)。
 クングルトゥグ村はテレ・ホリ・コジューンの行政中心地であるから、空路だけではなく陸路でも連絡ができなくてはならない。有名な、ポル・バジン遺跡があると言うだけではなく、せめて行政中心地とぐらいは、通年通行できる道路は不可欠だ。陸路のないシベリア奥地は『開発』が難しい。テレ・ホリ・コジューンでは、今までのところ、地下資源は砂金の他は手がつけられていないし、牧畜も地域の需要を満たすだけだが、潜在力は大きい、と遠くから狙われている。
 確かに、遊牧の国トゥヴァではどんな奥地でも馬でなら行ける。クィズィールからテレ・ホリまで4日で行けたそうだ。冬はそりを使い、カー・ヘム・コジューンのサルィグ・セプ村経由、つまり、エルジン経由の南周りでなく、北周りでバルィグトゥグ・ヘム川を伝って必需品を運んだそうだ。サルィグ・セプからテレ・ホリまでの200キロを8,9日はかかったと言う。その後トラクターの道ができたが1990年代は首都クィズィールからクングルトゥグ村まで丸1週間かかった。冬はスコップで雪を分けながら進み、夏は沼地にはまって動けなくなった。夏でも、地表から30センチには永久凍土の頭があって、雨水がしみ込んでいかないので沼地ができる。
 トッジャ・コジューンの『バヤロフカ=トーラ・ヘム』道は毎年のように手が入り、状態がよくなり、通行量も増えている。一方、『ナルィン=クングルトゥグ』道も、今回は往復を通じて3、4台くらいの車とすれ違っただけだが、数年後には、鉱山関係の車が増えているだろう。1956年初めに地質地図が作成され、1970年代には2世代目の地図が、2011年には3世代目の地図が作成されているそうだ。経済効果のある地下資源が調査されている。
 『ナルィン=クングルトゥグ』道の中ほどにできたこの食堂も、テレ・ホリ・コジューンの『開発』と通行量の多さを見越して早々と開業したのかもしれない。178キロの道のりの唯一の人里だ。もちろん、私たちはここで一休みする。ゾーヤ・バーサンさんは角砂糖のパッケージを持って入って行く。熱いお茶を注文しても砂糖は別料金だからだ(ないこともある)。
 食堂はトゥヴァの田舎にあるようなインテリアだったがメニューは茶の他は1種類、この時は、ゆでたマカロニに缶詰の肉を混ぜた料理だった。帰りも寄ったのだが、その時はカップ・ラーメンすらなく、湯だけが提供できると言われた。なるほど、近くには澄んだバルィグトゥグ・ヘムが流れているし、ここは草原でもなく中くらいの高さの山地だから薪になる木も生えている。
バルィグトゥグ・ヘムの川岸の食堂(左)を見下ろす。

 食堂には、男性が数人いた。この食堂で働いているのか、経営者の親せきなのはわからない。その一人に、この場所の地名を聞くとシャイラーラクШайлааракと書いてくれたが、これは食堂と言う意味のトゥヴァ語。いや、地名を知りたいのだ、何という名前のメスティチコ(場)なのだと、ゾーヤさんのトゥヴァ語の力もかりで尋ね、私の手帳にその綴りを書いてもらった。別の男性が、いや違うと書きなおしてくれた。地名はトゥヴァ語、さらに南東の方言で、それをロシア文字に転記すると『セレ・ペルディル』となったり『セレ・ベルディル』となったりするのだろう。彼の筆跡もわかりにくい。帰国後、地図やネットで調べて、たぶん、バルィグトゥグ・ヘムクの左岸支流ソルベリディルСольбельдер(別の転記では、セレベリデゥルСелебельдыр)の合流地点近くのメスティーチコ(場)セレ・ベルディルСере-Белдирではないかと思う。トゥヴァ語のロシア文字(キリル文字)転記にはかなり大きな揺れがある。トゥヴァ語には固有の文字がなかったのだから、聞こえたように表記すれば、多くの別表記ができてしまうだろう。(トゥヴァ語は20世紀初めまでは古典モンゴル文字の文書がある。1920年代から、キリル文字を使った表記が試みられた。一時ラテン文字表記も試みられたが、1940年代には現代のようにキリル文字表記になった。)
 食堂を出たのは7時過ぎだった。セレ・ベルディル川(26キロ)に沿って進む、時には川床を直接進むようなことがあった。この川床が道だ。もちろん、水が流れている。地下に浸みこめない雨水や雪解け水は地上を地形に沿って低いところを上手に選んで流れる。そしてまたオヴァーのある峠を越したので、セレ・ベルディル流域とカルグィ川(114キロ)流域の分水嶺を越えたのだろう。両川ともバルィグトゥグ・ヘム(563キロ)の左岸支流だが、セレ・ベルディル川の方がずっと上流の支流だ。(セレ・ベルディル川はバルィグトゥグ・ヘムの終点から534キロ上流で合流。534カルグィ川の方は290キロで合流する。)
 カルグィ川沿いを進んでいる間に、今年からは夏時間に移行しなくなった北緯50度のトゥヴァ南東では薄暗くなってきた。今夜の宿泊場所を決めて、まだすっかり暗くならないうちにテントを張らなくてはならない。先を行くユーリーさんが道路から少しそれたところの水辺のある河原を見つけてくれた。
 9時にはすっかり暗くなっている。その水辺は池なのか、川が膨らんでいるだけなのか、木が茂っていてよくわからない。
 帰国後10万分の1の地図で、ナルィンからテレ・ホリまでの行程を丹念に調べてみた。この部分の地図は1950年代の第1世代目のものしか手に入らないので、新しい道路は全く記入されていない。2012年ツーリズム・センターが刊行した100万分の1の地図とウィキマップではセレ・ベルディル川畔の食堂からカルグィ川岸までの道が異なる。ヤンデックスyandexの地図ではツーリズム・センターと同じルートだ。往きは1時間40分ほど、帰りは1時間50分ほどかかっていて、帰りに、食堂に着いた時スラーヴァさんのナビでは冬営地モン・ダッシを通ったことになっているので、ウィキマップの方を通ったようだ。
 1950年代の古い地図でも馬で通れるような道は幾つか載っている。車輪の通れる道はトゥヴァでは今でも少ないが、馬道をたどって行けば、全国のどこでも行ける。それどころか峠を越え、ブリヤートへもアルタイへも、モンゴルへさえ何本もの馬道が通じている。自然の地形を利用し、川沿いを通り、浅瀬を渡り、越えれそうな峠を伝って、別の流域の川沿いにたどり着き、各地にある夏営地や冬営地を結ぶ通路だ。川の中流まで通じて、そこで終わっている道もある。馬道はたいがい遊牧基地を結んでできているので、道が終わるという事は、遊牧基地がその上流にはないということだ。
 最近の車輪の通れる道路は、それら中世(古代)からの現地人が踏み固めた馬道の幾つかを利用してできている。どの馬道を広げて整備したのか、もしかしたら近道をするために別の馬道へ山を削って新道を作ったのか、1950年代の地図に漏れていたような超マイナーな馬道を利用したのか、と帰国後、10万分の1に地図を丹念に調べたが、確認はできない。
 ユーリーさんが見つけてくれた河原で、焚火をして湯をわかし、カップ・ラーメンを食べて寝る。
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