クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 19 March, 2015(追記2015年5月7日、6月12日、11月28日、2016年10月20日)
再びトゥヴァ(トゥバ)紀行 2014年 (8)
    モンゴル最大塩湖ウブス・ヌール北岸
           2014年7月11日から8月13日(のうちの8月1日)
 

Путешествие по Тыве 2014 года (11.07.2014−13.08.2014)

年月日   目次
1)7/11-7/15 トゥヴァ地図、クラスノヤルスク着 アバカン経由 クィズィール市へ 国境警備管理部窓口
2)7/15-7/17 古儀式派のカー・ヘム岸(地図) ペンション『エルジェイ』 古儀式派宅訪問 ボートで遡る 裏の岩山
3)7/18-7/20 クィズィール市の携帯事情 シベリアの死海ドス・ホリ 秘境トッジャ 中佐 アザス湖の水連
4)7/21-7/24 ヤマロ・ネネツ自治管区(地図) 自治管区の議長夫妻と 図書館 バルタンさん アヤス君
5)7/25-7/27 トゥヴァ鉄道建設計画(地図) エールベック谷の古墳発掘 国際ボランティア団 考古学キャンプ場 北オセチア共和国(地図)からの兄妹 ペルミから来た青年
6)7/28-7/30 ウユーク山脈越え鉄道敷設ルート オフロード・レーサー達と カティルィグ遺跡 事故調査官 鉄道建設基地
7)7/31 南部地図、タンヌ・オラ山脈越 古都サマガルタイ 『1000キロ』の道標 バイ・ダッグ村 エルジン川 国境の湖トレ・ホリ
8)8/1 エルジン寺院 半砂漠の国境 タンヌ・オラ南麓の農道に入る オー・シナ村 モンゴル最大の湖ウブス
9)8/2 ウブス湖北岸 国境の迂回路 国境の村ハンダガイトゥ ロシアとモンゴルの国境 国境警備隊ジープ 考古学の首都サグルィ 2つの山脈越え
10)8/3 南西部地図、ムグール・アクスィ村へ チンチ宅 カルグィ川遺跡群 アク湖青少年の家 『カルグィ4』古墳群
11)8/4 民家の石像 高山の家畜ヤク、ユルタ訪問 カルグィ川を遡る ヒンディクティク湖
12)8/5 湖畔の朝 モングーン・タイガ山麓 険路 最果てのクィズィール・ハヤ村 ハイチン・ザム道
13)8/6-8/7 解体ユルタを運ぶ ユルタを建てる 湧水 村のネット事情 アク・バシュティグ山 ディアーナ宅へ
14)8/8-8/11 西部地図、ベル鉱泉 新旧の寺院 バイ・タル村 チャンギス・テイ岩画 黒碧玉の岩画 テーリ村のナーディム 2体の石像草原
Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、トゥヴァ語からロシア語へ転記された地名をロシア語の発音に近い形で表記した。ハカシア共和国は住民はハカス人(男性単数)、言語はハカス語、地名はハカス盆地など。
 エルジン村の寺院
ペンション『トレ・ホリ』上を舞う鳥達
テス・ヘムの検問所裏にある警備員用テント
樹木が生えているのはここにテス川が流れているため
広い敷地内のエルジン寺院
ブリヤート共和国
 8月1日(金) 6時過ぎに起きてみると、朝日はもう昨夜沈んだ山とは反対側の丘から登っていた。緯度が高いので沈むのも登るのも時間がかかり、ゆっくり鑑賞できる。バンガロー群の上を何羽ものカラス(またはトビ)が舞っている。硬くなったパンをちぎって砂浜にまいておくと、食べにくる。空中キャッチはしないかと投げてみたが、それほどは人に慣れていないようだった。昨夜、凧を上げて騒いでいたグループも朝食の準備をしている。話しかけてみると、彼らはノヴォシビリスクやケーメロフから数家族でやってきて、バンガローばかりか、あずまやも付いたユルタで、数日も宿泊しているとわかった。
 9時前には私たちはトレ・ホレから去り、元来た砂道を通り、残丘カラ・ハヤをもう一度よく見て写真も撮り、テス・ヘム(川)の検問所を通り過ぎる。来る時は気がつかなかったが、遮断機の側にある小屋の背後には大きなテントが張ってある。警備隊員たちが寝泊まりするのだろう。観光客の多い夏場だけ設営されているのか。

 エルジン村近くなると、ただ見晴らしの良いばかりの半砂漠になり、遠くからチベット仏教寺院が見えてきた。トゥヴァの仏教伝来は突厥時代の6世紀だそうだ。ヘムチック川畔のビジクティック・ハヤには、モンゴル時代13世紀ごろの墨で描いた仏像と漢字が残されているが、トゥヴァに仏教が普及したのは18世紀の清朝支配以来。清朝時代の1753年にシャマニズムと並んで国家宗教とされたそうだ。初めに寺院(移動式ユルタ)ができたのは18世紀後半(1772年)の、今のエルジン村(当時は『ウリャンハイ地方』に含まれてはいなかったようだ、つまりモンゴル地方だったのか)より上流の、モレン村近くだった。川の名前からエルジン寺院、または周辺に住んでいた氏族のクィルグィスの名からクィルグィス寺院と呼ばれたそうだ。金色の屋根をしていたので『黄金の寺院』と呼ばれていたとか。そのすぐ後の1773年にサマガルタイに寺院ができ、こちらが、トゥヴァ全体の本山になったそうだ。1878年にはニジネチャダン(下チャダン)寺院が、1911年にはもっとも大規模なヴェルフネチャダン(上チャダン)寺院がチャダン市郊外にできた。
 1929年には、トゥヴァ全土に25寺院もあり、ラマ(チベット仏教僧侶)も4000人以上いたが、ソ連の影響の強かった1937年には、5寺院でラマも67人になり、1940年には宗教は禁止、寺院も破壊され、ラマも正式にはいなくなったそうだ。
 エルジン村にも、昔は寺院があったが、土台から破壊された。今、村はずれの草地に広く塀で囲った敷地があり、エルジン寺院(大規模な寺院はトゥヴァではフレーХурээと言う)は復活しつつある。掲示板を見ると、敷地内には礼拝所、伽藍、仏塔などフレーには常にある建物や、ラマの住居や施薬院、学校などが建てられる予定らしい。今は礼拝所のみが建っている。仏教徒でないスラーヴァさんは車に残っていたが、私は入ってみることにした。
 門は開いていたし、礼拝所のドアも開いていた。中には若い男性がいたので、入ってもいいですかと聞く。愛想よく、どうぞと言ってくれる。チャダンにあるトゥヴァで一番大きい寺院ウストゥ・フレーもここも、敷地はとても広いが、建物はそれほど大きくない。若い男性は、まだラマにはなっていない修道僧だという。ブリヤート共和国(*)から来たブリヤート人だそうだ。トゥヴァの僧侶はブリヤートやザバイカリエ地方(もとチタ州でアギンスキィ・ブリヤート自治区もあった)や、できれば、モンゴルに留学する。ブリヤートはロシアではチベット仏教の先進地のようだ。
(*)ブリヤート共和国 バイカル湖東岸と東サヤン山脈北麓のブリヤート共和国にはロシア人65%、ブリヤート人30%が住む。総人口58万人のブリヤート人のうち2分の1がブリヤート共和国に住む。ブリヤート語の話し手は、中国、モンゴル、ロシアにいて、総数は28万人。
バイカル湖の南東、東サヤン山脈北の
プリヤート共和国のザカメンスク

 チベット仏教僧侶と話せたのは3回目だが、今回のユーリー・チベノフさんはとても好感が持てた。彼は、ブリヤートのザカメンスク(*)の出身だそうだ。トゥヴァ語は会話ができるが、ここでは母語で誰とも話せないので寂しいとか。ユーリーさんはこの先の私の旅の無事を祈ってくれ、お守りをくれた。(私はかばんを車に置いてきたのでお賽銭すら入れなかったのに。だが、急いでかばんをとって戻り、日本からの手土産を渡した)。彼はメール・アドレスも書いてくれた。クィズィールとエルジンを往復しているそうだ。ネット環境もいつでもよいわけではないが、機会あるごとにつなげていると言う。後の事になるが、2014年11月の御嶽山噴火の時は安否を確かめるメールをくれた。その後、エルジン寺院にブリヤートから僧侶が来たので、寂しくなくなったと、メールにあった。
(*) ザカメンスク区は、モンゴルとの国境近くの東サヤン山中にある。行政中心地ザカメンスク市は人口1万人余。鉄マンガン重石の鉱山が1930年代から開発され、 1944年までジダストロイ Джидастрой町、 1959年までガラドク Городок市と呼ばれた。現在、環境汚染でも有名。しかし、1959年まではツァキル村が中心のブリヤートの僻地だった。ツァキル(サヒュウルのロシア風発音。ブリヤート語でケイ素の石と言う意味)村は、1768年にできたと言う国境警備のコザック兵の駐屯地からで来た。
 半砂漠のケジェゲ聖山とツァガン・トロゴイ国境
 エルジン村を廻ってみた。サマガルタイ村でのように文化宮殿を探し当て、そこの職員さんと話すことができた。が、古代遺跡については知らないと言う。しつこく聞くと、ケジェゲКежегеと言う聖山があると教えてくれる。
「ここから20キロほど南よ、そのへんは道路工事してるから工事の人に聞いてみて」と言う。
側溝の工事中
ケジェゲ岩山か。岩山のそばを通ってきた
舗装道はまだ少し続くがここで迂回路に入る

 ケジェゲと言うのは男性の髷のことで、ある猟師がこの岩山では、猟も採集もしてはならないことを知らずに狐を射止めたところ、その瞬間、髷が落ちたそうだ。この岩山の精(神)の怒りにふれたせいだ(とは、道中、運転助手席に座りながら読んだ旅行案内書に書いてあった)。この岩山は、近辺に住むトゥヴァ人のサヤン氏族の守り神だ。岩と岩の間にやっと人が通れるような隙間があったり、小川が流れていたりするそうだ。岩山にはたいてい貫通する穴があいているものだが。
 エルジン村から連邦道に入ったところに『左ツァガン・トロゴイ53キロ、右クィズィール216キロ』と道標があった。ツァガン・トロゴイはモンゴルとの国境にある税関だ。モンゴル語で『白い丘』と訳せる。国境に向かう。ケジェゲ山があろうとなかろうと、陸上の国境と言うものをぜひ見たいとは、前々から思っていたのだ。

 30分ばかり、半砂漠の中、遠く地平線の岩山を眺めながら、舗装されたばかりのような快適な一本道を走って行った。この地方は乾燥地帯で半砂漠になるくらいだから、たぶん毎日晴天だ。エルジン村の文化宮殿の職員さんが教えてくれた通り、道路工事をやっている。エルジン村から国境までは、以前は全く舗装されていなかったのだ。工事現場を過ぎると、舗装はだんだんなくなる。私たちが通った時の工事は側溝の整備だった。ケジェゲのあるところを工事の人に聞こうにも、この時間はちょうどお昼休みだったらしく誰も見かけなかった。
 ケジェゲらしい岩山が草原丘陵の中に見えたが、近づく道があるかどうかわからない。スラーヴァさんもケジェゲより陸上の国境の方が興味深い、と言うことで、道がある国境の方へ行くことにした。道路工事は完成はしていない。未完の道より手前からは、迂回路を行かなければならない。タイヤの跡がたくさんついた砂地の迂回路道を進んで行くと、駐留隊基地のような立派な2階建ての建物があり、その横の空地には安全保障関係の設備には必ずある見張り塔が建っている。砂道はそこで終わらず、『税関11キロ左』と言う標識の先まで続いている。さらに左に11キロ進むことにした。 
左が税関ゲートへの案内道標、建物は税関事務所か。
見張り塔も見える
ツァガン・トロゴイのイミグレーション・ゲート

 『注意! 国境から5キロ帯。侵入は許可書が必要』と書いた標識も立っていたので、わくわくして、標識の文字が読めるように自分を撮ってもらう。その時の写真を見ると、砂漠の風で私はみだれ髪だ。そこから、たぶん5キロも進まない所でロシア領は終わり、見張り塔やライトのある税関にぶつかった(イミグレーション・ゲート、この先は中立地帯で、モンゴルの国境はその先)。税関は月曜日から土曜日まで、朝9時から夕方6時まで受け付けているが、12時から2時までは昼休みで、私たちが着いたのはその昼休み中だった。昼休みにゲートへ到着して、国境を越えようとした場合は、順番待ちがなくても、2時間も待てばよいが、夜着いた時はゲートの前で1泊しなければならない。例えば、長い間、旅をして土曜日夕方7時についたときは、旅がさらに2日延びるわけだ。
 ゲートの横の掲示板には『法律による規則』というのが書いてある。入口の柵は閉まっていて、税関の敷地内には人の姿はなかった。5分ぐらいはうろうろと歩きまわって写真を撮っていた。昔なら撮影禁止だったかもしれない。今でも、『好ましくない』だろう。それで、誰か出てくる前に引き上げることにした。
 元来た方を見ると0キロの標識が立っている。連邦道54号線の出発点でもあるからだ。同時に『クィズィール269キロ、アバカン664キロ、クラスノヤルスク1079キロ』の標識が見える。この連邦道の930キロ地点(正の出発点はクラスノヤルスクだから、そこから930キロの地点)から1079キロ地点(終点、つまり反対側からの出発点)までを有限会社『トゥヴァ共和国道路』社が整備している、と書いた看板もあった。タンヌ・オラを越えて国境までの149キロほどだ。

 少し戻ったところに、国境職員の住居らしい建物も見える。マイクロバスやジープが止まっていて人の気配もあった。職員は税関の建物では昼休みを過ごさず、ここまで来ているのかもしれない。
 タンヌ・オラ南麓の農道・遊牧道に入る(ひとつながりの道が通じているだけでもありがたい)
 3キロほど戻ったところに『エルジン50キロ、サマガルタイ103キロ、クィズィール266キロ』と地元用の標識が出ていた。その103キロ進んで昨日のサマガルタイのガソリン・スタンドで給油し、連邦道54号線も出てウブス・ヌール(湖)の方へ曲がると、もう舗装はなかった。
フジャルルィグ・ヘムの橋の下の河原で
車の修理をするスラーヴァさん
モンゴルへと続く半砂漠

 すぐにウジャルルィグ・ヘムУжарлыг-Хем(川)の橋がかかっている。ウジャルルィグ・ヘムはタンヌ・オラ山脈南麓から流れ、テス・ヘムの右岸に注ぎこむことになっている長さ41キロの川で、上流は山川でも、この先は半砂漠の平原の中を幾筋もの川に別れ、いくつかは途中で消えてしまう。季節によっては全く枯れてしまうかもしれない。テス・ヘム(757キロ)はこの辺ではウジャルルィグ・ヘムなどの川からタンヌ・オラ山脈の水をもらって、さらに255キロ流れてウブス・ヌール(湖)に合流することになっている。タンヌ・オラ山脈南麓から流れる川の幾つかはテス・ヘム本流や側流に流れ込んだり、直接ウブス・ヌールに流れたりするのだが、それら川筋は、年月によって一定ではない。
 そのウジャルルィグ・ヘムの橋の下の河原で私たちはランチにした。半砂漠の丘陵の片隅でもで、ランチにしたかったところだが、そんなところは水がない。今日の目的地のハンダガイト村まで、食器を洗ったり、車の修理で汚れた手を洗ったりできるような水場が、この先あるかどうかわからない。と言うのも、ここで、スラーヴァさんは小規模だが車の修理が必要だと決めたからだ。音楽学校の先生のピアニストのスラーヴァさんが修理するのは、長くかかると思って、実はげんなりして川岸を歩きまわっていた。しかし、彼は、素早く車の下に毛布を敷くと、上着を脱ぎ、あおむけにもぐり込んで仕事をはじめ、30分ぐらいで終わらせて、4時過ぎには、また出発できた。顔には表さなかったがげんなりして、悪かった。彼はピアニストと言うより技術者なのだ。

 サマガルタイから、タンヌ・オラ山脈南のウブス・ヌール盆地を通ってハンダガイトィへ行く旅行者はまずいない。ハンダガイトィへ行くなら、クィズィールからだと、タンヌ・オラ山脈北のトゥヴァ盆地を通る舗装された地方道162号線を西に走り、チャダンから163号線を南下する。クィズィールからハンダガイトィまでその自動車道では309キロだ(北回りルート)。一方、クィズィールからサマガルタイ経由でタン・オラ山脈南麓のウブス・ヌール盆地を通ってハンダガイトィへ行くルートでは414キロとなる(南周りルート)。クィズィールを始点とすれば、北周りの方が近いし、道もよい。南周りルートの方は、1970年代作成の10万分の1の地図では、道路が続いていない。サマガルタイから70キロのところで道路は切れ、ついで90キロほどは遊牧道か小路の様な線が何本かあり、トルガリッグ(ドゥス・ダッグ)村の前後でまた自動車用砂利道となっているが、その後はどんな道路もなく、ハンダガイトィの近くで砂利自動車道が現れる。今、サマガルタイからハンダガイトゥまで、何とかひとつながりの道路(251キロ)があるだけでもありがたい。
地図

 クィズィールからチャダンまで220キロ(共和国道162号線、舗装道)
 チャダンからハンダガイトまで89キロ(共和国同163号線、新舗装道)
 クィズィールからサマガルタイまで163キロ(連邦同54号線、舗装道)
 サマガルタイからハンダガイトゥまで251キロ(農道を繋いだような砂利道、利用者少ない)
 そして、ハンダガイトゥから目的地のムグール・アクスィまで山道を166キロ

 その新しい地図では、サマガルタイからハンダガイトゥ迄の全251キロの行程は、ベルト・ダッグ村を抜けると35キロで、ホリ・オージュ村へ曲がる道に出て(その道を9キロ行くとホリ・オージュだが、曲がらずにまっすぐ行く)、さらに45キロひたすら行くとオー・シナー村、また37キロ進むとアク・チラー村の近くを通り、その先40キロで600人のチャー・スール(アルィグ・バジ)村、8キロ進んで900人のトルガルィグ(ドゥス・ダッグ)村、さらに8キロ進むとモンゴル領内直進を避けるバイパスの分かれ道に出る。直進では23キロのところを、廻り道で46キロも行くと、直進して来た道と合流し、あと16キロで3000人のハンダガイトィに出る。
 一方、古い地図ではベルト・ダッグを過ぎると、幾本もの枯れ川を渡り、ソフォーズ(ソ連時代の国営農場)『テス・ヘム』の基地を幾つか通り、ホリ・オージュ(旧名ウー・シナー)村に入り、山麓と低地・湿地との間の農道を古墳群を見ながら通り過ぎ、オー・シナー村を通り、山麓から湿地帯に流れてきたが、夏は枯れてしまう川を何本も渡り、アク・チラー村などと記載の全くない野原を通り、古墳と記載のある農道を抜け、ウブス・ヌール(湖)に一番近いサルィグ・ホリ村を通り、フルガン・シベル(チャー・スールの旧名アルィグ・バジのさらに旧名、何しろ古い地図だから)にたどり着き、トルガルィグ村を抜け、唯一川筋が通年残っているトルガルィグ川を渡り、モンゴル領内を20キロほど西進して、再びトゥヴァ領に入ると川を2本渡ったところがハンダガイトィ村だ。古い地図では道が切れ切れで、行程がたどりにくい。しかし、地図の書き込みが詳細だ。『古墳』と言う記載も多くある。古い地名や今は廃村になった集落名、植物相なども載っている。

 この未知の道を通ることにしたのは、オリガ・ピーシコヴァさんの予定が変わったので、スラーヴァさんとトレ・ホリに行くことになり、そこからクィズィールに戻らないでムグール・アクスィ村に行くことにしたからだ。日本出発前から決めてあったルートではないのでこの地域の詳細地図は持ってきていなかった。(100万分の1と言う大まかな地図ならあったが)。ただ、タンヌ・オラ山脈南、ウブス・ヌール盆地北を西に向けて走っているというしか私にはわからなかった。ナビももちろんないので。

 橋の下で小修理の終わった車で、4時過ぎのトゥヴァ晴れのまだまだ真昼時、右手にタンヌ・オラ山脈の裾野を見、左手には地平線の向こうのモンゴルへと続く半砂漠を見て進むのはとても快適だった。サマガルタイから10キロほどのベルト・ダック村も通り過ぎる。寂れた村だった。スラーヴァさんの言うには
「ソ連時代にソ連政府がつくった施設が半ば廃墟となって残っている。トゥヴァは、今でもロシア連邦政府の援助で生きている共和国だ。つまり、トゥヴァがロシア連邦に入っているだけで、連邦側は赤字だ。それなのに独立したいと言っている。しかし、独立させると、トゥヴァは弱い国だから、例えば、アメリカ側に援助されるだろう。米軍基地ができたりする。だから、やむなく自分たち(スラーヴァさんの住むクラスノヤルスク地方は連邦経済では大黒字)が補助をしている(養っている)」と。たいていのロシア人は、トゥヴァに限らず、ロシア連邦の少数民族の自治体に対してはこのように言う(産油地を持たない自治体)。
 今回、スラーヴァさんとは12日間、旅をした。二人だけで車に乗っていた時間も多かった。だから、話もよくしたわけだが、旅行中は相手国の『愛国的』感情をあまり話題にしない方がよい。ロシア人は『愛国』教育を受けて育ち、『愛国的』雰囲気の中にある。外から見ていると、その『愛国』の内容を別の角度で説明したくなるのだが。
 一方、スラーヴァさんは今、純粋なロシア人はいないと言う。そうだと思う。彼自身ドイツ系だし、私の知り合いの多くは、ポーランド系だとか(だからカトリック)、フィン系、ベロルシア系で、中でも、ウクライナ系が最も多い。自分の両親または祖父母がウクライナ人で、いとこたち親せきがウクライナにいると言うシベリア人は多い。民族はタタールだと言うロシア風の人もいた。ユダヤ人も多い。ロシア人とはロシア語を話すフィン・ペルム人だともいう。
 オー・シナー村
 ベルト・ダック村を過ぎると、遠くの山と乾いた野原の他は地平線しか見えなくなった。春の雪解け時期には流れると言う川床も見かけなかった。『ウー・シナー』と書いた色あせた標識が立っている。ウー・シナー村がホリ・オージュ(人口400人)と改名したのも古いことではないようだ。(ホリ・オージュ川がタンヌ・オラ山脈から平地に流れ出たところにできた旧ウー・シナー村が、同名の川の名前に改名)
 すれ違う車も追い越す車もなかった。黄緑色の大海原のような草原地帯を走る。中に入って写真も撮る。そしてまたひたすら走る。と、前方に止まっている車が見え、周りに数人のトゥヴァ人が立っている。一人のトゥヴァ人が道路の真ん中に出て、私たちの車を止める。顔に血痕がある。他のトゥヴァ人も酔っているようだった。
「車が故障して動かなくなったから、オー・シナー村までけん引していってほしい」と言っているようだった。顔に大きく血痕があったり、酔っ払っていたりしなかったら、何もない半砂漠で人に会えたことが、私はうれしいし、スラーヴァさんは、車もめったに通らないところだから、たぶん30キロ以上はまだあるオー・シナ―村までけん引してあげただろう。だが、血だらけで酔っていると言うのが私には怖かった。スラーヴァさんは、自分の車は小型で弱いから、けん引はできないと穏やかに言い続けている。いつもは高駆動車であることを自慢しているのに、この時は反対のことを言ってくれているので、聞いている私も安心。急発進して逃げだすことはできないだろうかとも考えていた。
 そこへ、ランクルが通りかかる。こんなマイナーな地にランクルとは珍しい。ほっとする、どこから見ても高駆動のランクルにけん引してもらえばいい。しかし、せっかく止まってくれたランクルは、トゥヴァ人にちょっと話しかけられた後、去って行った。酔っ払ったトゥヴァ人もランクルに絡むことは遠慮したのだろうか。スラーヴァさんは穏やかに断り続けている。第一けん引しようにもロープがないではないか、と言っている。私は身を硬くして、なるべく目を合わせないように、助手席に座っていた。窓からトゥヴァ人がのぞきこむ。ロシア人とこんなところを通りかかっている私を何者かと決めかねているようだった。
 一人のトゥヴァ人(若い方)が半砂漠の中から電線の切れ端を引っ張ってくる。ソ連時代、全国津々浦々を電化することが計画経済に入っていた(と思う)。だから、遠くの集落へも電柱を建てて電線を伸ばしていった。ソ連崩壊後、そうした電柱の一部は朽ちてしまった(遠隔地の集落は自家発電になったりした)。この半砂漠にも電柱のための杭が残っていて、遠くから見て古墳の立て石ではないかと思ってしまう。電線はそのまま落ちて地面に延びていることもある。若いトゥヴァ人が野原に入って引いてきたのは、そんな電線の断片らしい。ロープを見つけてきたと言う以上けん引しないわけにはいかない。スラーヴァさんの車でひきながら故障したと言う車を始動させると、意外なことにエンジンがかかった。
道路沿いに無数にある古墳の一つ
『自然保護区』と書いてある看板
 これで、流血の酔っぱらいから解放され、先に進むことができた。数十キロにわたって、ここは無人の地だから、誰も助けてくれない。自分が彼らを助けることができてよかった、とスラーヴァさんは思っている。私は彼らが絡んできて何か起きた時は誰も助けてくれないと思っている。

 道路沿いには古墳がたくさんあった。前スキタイ時代のものだろうか。古墳が時々見えるほかは何の変化もないこの草原に立て札が立っていたので、車を止めて読む。『自然保護区』とあった。12の保護区から成るユネスコの世界遺産『ウブス・ヌール盆地』群の一つ、『オルク・シナー区』に入ったのだ。道路は保護区内を通らない。道路に沿って、つまり道路の南側が保護区だ。オルク・シナー川左岸とテス・ヘム川右岸の間にある低地のうち287平方キロが保護区になっている。道はオルク・シナー川右岸を平行に走っているはずだが、この季節のせいか、川は見えなかった。半砂漠の地平線と遠くのタンヌ・オラ山脈の他は何も見えなかった。
 ベルト・ダッグ村から1時間も走った頃、7時近くなってオー・シナー村(人口800人)が見えてきた。オー・シナー村は国境から10キロほどにあるので国境警備基地があるらしい。つまり、道路脇にはかつて遮断機を伸ばしていたような小屋、見張り塔、レーダーの様なもの、鉄条網が張りめぐられた道路などが見えた。スラーヴァさんのナビではここに、確かに基地があり、私たちは許可証を調べられるはずだった。しかし、見張り塔にも遮断機小屋にも、村内にすら人の気配はなかった。村外れにホースが1本だけのガソリン・スタンドがあったが、営業している気配もなかった。補助金が潤沢だったソ連時代のものか。もっとも、ガソリン・スタンドへ行けばガソリンが買えると言うのは、今でも大都市に限っていて、昔は複雑な手続き、今はコネが必要だが。
 ちなみに、国境警備基地については、この先、ほぼ目的地まで、国境から10キロ内に沿った道路を通ったのだが、かつての遮断機は幾つかあったが、無人で開けっぱなしだった。遮断機を下ろしていれば、24時間警備員が付いていなければならない。警備員なしで遮断機を下ろしていると、この道路は寸断されてしまう。または、遮断機を破るか、道路外を通らなければならない。国境の出入り口ではないのだし、許可証を持っていない怪しいものが通らないかチェックするだけだから、常設のゲートは必要ない。(ロシア内には、国境地帯でなくとも、こうしたかつての遮断機が何箇所もある。大都市の出入り口や、道の要所などだ。今は、遮断機はないが、警察官が立つ。オー・シナーなどの国境地帯の遮断機は、モンゴルと緊張関係が高まって、再び必要になるときのために設備を残しておいた方がいい)
 ンゴル最大の湖ウブス・ヌール
 7時半ごろ、枯れ川をわたった。125キロの標識が出ていた。いったいどこから測って125キロなのかわからない。(この切れ切れの道の始点が不明)。枯川は地図で見るとホール川らしい。ホール川は延長74キロで、盆地北を東西に流れるオロヒン・ゴル(121キロ)があと9キロでウブス・ヌールに注ぎこむ地点の右岸に、合流するとされているが、詳細地図上では、どちらの川もウブス・ヌール北岸の沼地に幾筋もの側流を残して消えてしまっている。オロヒン・ゴルは上流も下流も途切れている。粗い100万分の1の地図では、ホール川は直接ウブス・ヌールに流れ込み、オロヒン・ゴルの名はない。
遠くに細く見えるウブス・ヌールにどうしても近づけない


 ウブス・ヌールはモンゴルの湖だ。しかし、表面積(湖上の面積)35.7平方キロの0.3%の12平方キロがロシア(トゥヴァ)領で、沿岸では10キロある。有名なその湖を近くで眺めることはできないだろうか。というわけで、たぶんアク・チラー村の手前でウブス・ヌールの方向へ半沼地(今は半砂漠)の中へ入った(のだと思う)。古い地図には載っていないアク・チラー村が1982年の地図には載っている。ウブス・ヌールに最も近いサルィグ・ホリ村は1982年の地図ではトルガルゥグ・コルホーズの第2農場の近くにあるようだ。現在の地図では、そこはトルガルィク放牧基地となっている。それより小規模なサルィグ・ホリ農場も載っている。公式サイトによるとアク・チラー村とサルィグ・ホリ村は同じで人口479人だそうだ。主要道を出て20分ほど半砂漠の道を進んでいるうち、仏塔もある小さな村の横を通ったが、ここが、アク・チラーでなければ、サルィグ・ホリだろう。さらに20分もためらいながら進むと、遠くに水面が見えた。遮るもののない平原(低地)だから、遠くまで見えるが、湖面もこの陸地もほとんど同じ標高なので地平線のかなた細く横たわって見える。見えた以上は、近づこう。どれが道なのかわからない。前に踏んだ跡のありそうな草の上を進んでいっても、途中から湖に背を向けて、元来た道へ戻ってしまう。またやり直して水面の方へ進もうととった道も、崩れた家畜小屋で終わってしまう。道だと思ったのは枯れ川で、進むうちに砂利が深くなってくる。こうして私たちは、30分も湖面を望みながら、文字通り右往左往していた。車から降りるとたちまち蚊の大群に襲われた。ウブス・ヌール湖に近いほど地面が沼っているからだろう。
安全そうなところで宿泊

 まだ明るかったが9時半も過ぎている。今日はハンダガイトィのホテルに泊まる予定で、万一のために、オリガ・ピーシコヴァさんの知り合いの電話番号をもらってきていた。が、まだそこまで100キロ以上はある。ここで一夜を過ごすことにした。蚊のいない、やや上手に戻り、タンヌ・オラ山麓と半砂漠の地平線の他は何も見えないところで、スラーヴァさんはテントを張ることにした。見晴らしが良すぎて、遠くからでも、私たちのテントと車が見えるではないか。先ほどのように酔っぱらいが来たら避けようがないではないか。追いはぎが来るかもしれない。山麓の木の陰の誰からも見えないところの方がいいと私は言ったが、その場所を今から探すのも難しい。
 スラーヴァさんは四方を双眼鏡で見て、人気(ひとけ)はない、と言う、しばらくすると日は落ちて暗くなり、自分たちも誰からも見えなくなるから安全だと言う
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