クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 18 March, 2015 (追記2015年4月20日, 6月3日、9月22日)
再びトゥヴァ(トゥバ)紀行 2014年 (2)
    カー・ヘム上流の古儀式派エルジェイ村

           2014年7月11日から8月13日(のうちの7月15日から7月17日)

Путешествие по Тыве 2014 года (11.07.2014−13.08.2014)

年月日    目 次
1)7/11-7/15 トゥヴァ地図、クラスノヤルスク着 アバカン経由 クィズィール市へ 国境警備管理部窓口
2)7/15-7/17 古儀式派のカー・ヘム岸(地図) ペンション『エルジェイ』 古儀式派宅訪問 ボートで遡る 裏の岩山
3)7/18-7/20 クィズィール市の携帯事情 シベリアの死海ドス・ホリ 秘境トッジャ 中佐 アザス湖
4)7/21-7/20 北極圏のヤマロ・ネネツ自治管区(地図) 自治管区の議長夫妻と 図書館 バルタンさん アヤス君
5)7/21-7/23 トゥヴァ鉄道建設計画(地図) エールベック谷の古墳発掘 国際ボランティア団 考古学キャンプ場 北オセチア共和国からの研究員 ペルミから来た青年
6)7/28-7/30 ウユーク山脈越え鉄道ルート オフロード・レーサー達と カティルィグ遺跡 事故調査官 鉄道建設基地
7)7/31 南部地図、タンヌ・オラ山脈越 古都サマガルタイ 『1000キロ』の道標 バイ・ダッグ村 エルジン川 国境の湖トレ・ホリ
8)8/1 エルジン寺院 半砂漠の国境 タンヌ・オラ南麓の農道に入る オー・シナ村 モンゴル最大の湖ウブス
9)8/2 ウブス湖北岸 国境の迂回路 国境の村ハンダガイトゥ 国境警備隊ジープ 考古学の首都サグルィ 2つの山脈越え
10)8/3 南西部地図、ムグール・アクスィ村へ チンチ宅 カルグィ川遺跡群 アク湖青少年の家 『カルグィ4』古墳群
11)8/4 民家の石像 高山の家畜ヤクとユルタ訪問 カルグィ川を遡る ヒンディクティク湖
12)8/5 湖畔の朝 モングーン・タイガ山麓 険路 最果てのクィズィール・ハヤ村 ハイチン・ザム道
13)8/6-8/7 解体ユルタを運ぶ ユルタを建てる 湧水 村のネット事情 アク・バシュティグ山 ディアーナ宅へ
14)8/8-8/11 西部地図、ベル鉱泉 新旧の寺院 バイ・タル村 チャンギス・テイ岩画 黒碧玉の岩画 テーリ村のナーディム 2体の石像草原
Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、ソ連時代まで文字のなかったトゥヴァ語からロシア語へ転記された地名をロシア語の発音に近い形で表記した。なお、ハカシア共和国は住民はハカス人(男性単数)、言語はハカス語、地名はハカス盆地など。
トゥヴァ東部 小エニセイ川(カー・ヘム)流域と トゥヴァ盆地南東方面の湖(ドス・ホリなど)
 古儀式派のカー・ヘム(小エニセイ)岸を遡る
 7月15日、13時には何とかエルジェイ村へ出発できた。エルジェイ村へはピーシコヴァさんの息子さんオレークの『女性の友達』(友達でも恋人でも、このように表現する)トーニャも同行すると言うことだった。後記、2015年3月20日に二人の結婚式が挙げられたと、その後のメールで知らせてくれた。また、2015年7月8日、二人に長男ロマンが生まれた)
カー・ヘム右岸の道

 オリガ・ピーシコヴァさんのアパートを出て、東のカー・ヘム村でトーニャを乗せ、カー・ヘム(小エニセイ川)沿いの舗装道を遡って、カー・ヘム唯一の橋を渡り、右岸のハヤ・バジ村に出る。次の村のスグ・バジは、以前はソヴィエツカヤ・トゥヴァ(ソヴィエトのトゥヴァ)と言った。次のブレン・ヘム村はズーボフカ村と言った(下記の**)。
 この、クィズィール市からカー・ヘム区(*)の行政中心地サルィグ・セプ村までの88キロは舗装道が通じている。寒暖の差も激しいのでアスファルトの痛みも激しいのだろうか、何年かごとに部分的に修理を行っている。去年はブレン・ヘム村の辺りが修理中だった。今年は新しいアスファルト道を快適に走る、と思うと突然、穴ぼこ道になった。それも、次の舗装道までのほんの5mほどだ。なぜ、この5mをその時、舗装しなかったのだろう。オリガ・ピーシコヴァさんたちによると、この5m分を官僚が私服したのだとか。この5m分で自分のための別荘が建てられたとか、いやコッテージだとか。ありうることだと、私は黙って聞いていた。
*)区 トゥヴァ共和国には17の区がある。区районはロシア風の行政区分の名称だが、清朝時代17から20世紀初めの古い言い方のコジューンкожуунが復活している。コジューンとはモンゴル語のホショーХошуу(『旗』の意)から来ている。もともとは、清代に支配階層である満洲人が所属した社会組織・軍事組織のことで、また、この制度を指して八旗制と呼ぶ。すべての満洲人は8個のグサ(満州語で旗)のうちいずれかの旗に所属させられたので、八旗は軍事組織であると同時に社会組織・行政組織だった。有事の際に兵士となる成年男子300人をニル(「矢」の意)とし、5ニルをジャラン(1500人)とし、5ジャランをグサ25ニル(7500人)とするものである。各グサは、それぞれ固有の旗を持って識別されたので、グサのことを中国語では『旗』と呼び、モンゴル語では『ホショー』と呼ぶ。後にはモンゴル人や漢人によって編成された八旗も創設される。中華人民共和国の内モンゴル自治区では現在も旗・ホショーが省の下位の県級の行政単位として用いられている。トゥヴァではコジューンと言う。ソ連時代の行政単位の名称は、ロシア語の区Районだったが、現在は、公式サイトなどはコジューンに復活している。参考『2012 年トゥヴァ4』

 道は、カー・ヘムに沿って続いている。カー・ヘムは右岸にあるアカデミカ・オブルチェーヴァ山脈から流れ来る水分も集めて、その山脈のふもとを流れる。カー・ヘムの最下流(*)から15キロのところへは右岸支流オン・ドゥム川(延長19キロ)が合流し、その最下流地点から51キロのところには同じくブレン川(**)が合流している。さらにその上流のバイ・ソート川(延長44キロ)中流の『タルダン・ゴールド』社付近の地質調査には2013年に行った。カー・ヘムの最下流から83キロ上流のバヤロフカ村付近にはコプトゥ川(58キロ)がカー・ヘムに流れ込み、その川筋を遡るとトッジャへ行ける(『バヤロフカ=トーラ・ヘム』道)。これらの川が作る谷間や、カー・ヘム流域には古墳が多い。トゥヴァでは古墳をあらゆるところで見かける。つまり、川さえあれば、その周囲に古代・中世人は生活し、古墳を残した。
*)カー・ヘム最下流 東からのカー・ヘムと北からのビー・ヘムが合流してウルッグ・ヘム、つまりエニセイ川になる地点。そこにクィズィール市がある。
**)ブレン川 延長29キロ、この川の名前から、昔のズーボフカと言うロシア風の名前からトゥヴァ風にブレン・ヘム村と改名された。参考『2012年トゥヴァ4』。

 バヤロフカ村の先は、ここ10年来たことがない。バヤロフカ村のガソリン・スタンドからアカデミカ・オブルチェーヴァ山脈越えの道へ曲がってしまうからだ。コプトゥ川より上流のメルゲン川(43キロ)を渡ると、カー・ヘム区の行政中心地サルィグ・セプ(トゥヴァ語で『黄色い枝流』の意、旧ズナメンカ)村だ。
 このメルゲン川の辺りまで多くの古代遺跡が登録されているが、この先は調査されていないらしい。建築の予定も、道路建設の予定も地下資源採掘の予定も近々はないので。

 現在のカー・ヘム区は19世紀末や20世紀初め頃にはトゥヴァ人のサルチャーク氏族のテリトリーだったが、ロシアからの移民(古儀式派)がここに定住した。村の名前は初めに定住したらしいロシア人の名からズーボフカ村(現ブレン・ヘム)をはじめ、フェードロフカ村(現クンドゥストゥグ)、バヤロフカ村、ズナメンカ村(現サルィグ・セプ)、ダニロフカ村(現デルジグ・アクスィ)、グリャズヌーハ村(現ウスチ・ブレン)などと言った。
 今は、それらの村々にもトゥヴァ人が住む。トゥヴァ人の方が多い村もある。カー・ヘム区は、首都クィズィールをのぞいて、今でもロシア人の割合が高い地区だ。
 2012年や2013年に通った時はトゥヴァ晴れの青空だったが、この日は朝から雨がちだった。カー・ヘムに橋は1本しかないが、渡し船が常時運航している岸辺は、6か所ほどはある。左岸支流のブレニ川(*)沿いにも20世紀初めからのロシア人集落があるので、カー・ヘム右岸を走っていた主要道は、サルィグ・セプを過ぎると、ウスチ・ブレン村からカー・ヘムを渡り、左岸支流のブレニ川沿いに移る。渡し船で渡り、その先はアスファルトではないが、通年通行可能な道路が続く。ロシア移民たちが、なぜ、カー・ヘムをさらに遡って開墾地を作らずに、左岸支流のブレニ川岸に渡ったかと言うと、このブレニ川合流点より上流のカー・ヘム本流の方は山川になり川岸も絶壁になり、開墾できる河岸段丘も狭くなるからだ。
*)ブレニ川 ブレン川ともいう。クィズィールより114キロ上流地点に合流する、延長156キロ。ちなみに、51キロ上流で合流する右岸支流もブレン川と言う

 しかし、このウスチ・ブレン村よりカー・ヘム上流の『無人』の地は、古儀式派の人々にとっては、神により近い所とされた。
 19世紀20世紀初め、アンチ・キリストの(悪の)『世界』から逃れてきた古儀式派の人たちは、当時ロシア帝国領でもなかったウリャンハイ地方に自分たちの地を求めて移住してきた。カー・ヘム流域に開墾地を作ったのは20世紀初めだった(1914年以前)。やがて、下流域のウスチ・ブレン村まで、ロシア正教会教徒(*)やソ連時代になるとトゥヴァ人も定住してきたので、それらの村々を捨て、より神に近いところへ、権力に干渉されずに、『文明の利器』も含む『悪』とは隔絶して自給自足できるところを求めて、古儀式派の人々は奥地へ、上流へと去ったそうだ。
*)ロシア正教会 古儀式派の人たちは、いわゆるロシア正教会教徒を『ニコン派』と、17世紀、宗教改革をおこなった当時のモスクワ総主教の名で呼ぶ。なぜなら、自分たちこそ『正』教会教徒であるからだ。国家公認『正教会』は『ニコン派』でしか過ぎない、とする。

  古儀式派の人たちは。国家からの社会保障などは不要で、パスポート(海外渡航用でなく国内の身分証明書)さえ作らない。昔はマッチ以外の文明の利器は受け入れなかったそうだが、シジム村やエルジェイ村のような比較的『世界』から近いところの村では、今は、たいていのものは、たぶんテレビ放送以外は、受けいれているそうだ。自給自足と言っても、モーターボート、冷蔵庫、携帯などは必需品だ。
 迫害を逃れてきた古儀式派たちの隠れ村はシベリアには多くあるが、今ではすべて地方自治体に組み込まれている。カー・ヘム中流域(*)には18か所あり、行政中心地は144キロ地点のシジム村だ。それ以外にも数家族が住むところ、古儀式派の人たちが修道院と言っている所もあるそうだ。
* カー・ヘム中流域 カー・ヘムは古儀式派たちがコンパクトに住むシシム村の手前(古儀式派以外も住んでいるので『アンチ・キリストの世界』)までが下流域で、この先238キロのバルィクトゥィグ・ヘム合流点までが中流域と言う、238キロより上流域は、南から流れてくるバルィグトゥグ・ヘム(285キロ)がカー・ヘム(小エニセイ川)の本流だと言う説と、東から流れてくるクィズィール・ヘム(377キロ)が本流と言う2説がある。クィズィール・ヘムはモンゴル領から流れてくる。モンゴルではシシギド・ゴルと呼ぶ。トゥヴァ領内のクィズィール・ヘムには,(自治体の公式サイトに乗っているような)公認のの集落は全くない。古儀式派の修道院もなさそうだ。参考『クラスノヤルスクからアンガラ川河口へ1
ベリベイ村への渡し船
ペンションへはモーターボートで行く

 『アンチ・キリストの世界』の中にあるウスチ・ブレン村を過ぎると、カー・ヘム右岸には、自然道があるだけとなる。古儀式派村が、古い時代のロシア伝統を守っていると言うので、今ではトゥヴァ観光の名所となった中流域の古儀式派村への道ではあるが、高駆動車でないと通行が難しい。『世界』により近いベリベイ、エルジェイ、シュイなどには、自然環境の良さからペンションも建っている。
 高い河岸段丘の上を通ったり、岩山の絶壁の下を通ったり、川岸近くの林を抜けたりして20キロほど右岸を進むと、ベリベイ村の渡し場が見える。4トンまでの車を1台運べると書いてある。渡し守のひげの男性(だから古儀式派)が少年(たぶん息子)と座っていた。緑の濃い低い山々が迫り、穏やかに流れるカー・ヘムを、ロープを伝った渡し船で渡ると、広い『ワシリエフカ』ペンションの敷地横に出る。このペンションに2004年に来たことがある。今は、その時なかった教会が建っている。
 その先は、いっそう自然道になって、ヤナギランが満開の草原を通ったり、鶴の番いが休む森林中の小草地を抜けたりして、さらに20キロほど進むと、左岸支流シジム川を渡ってシジム村へ出るが、私たちはその前のウスチ・シジム小村の小屋を訪れる。予約客のオリガ・ピーシコヴァさんからの連絡があったので、小屋で待っていた夫婦は門を開けて、オレーク運転のフォードを駐車させ、徒歩の私たちをカー・ヘム川岸へ案内する。そこにはモーターボートが泊まっていて、対岸のエルジェイ・ペンションまで、私たちはまたカー・ヘムを渡る。ロープを伝った自然力運行の渡し船設備は、エルジェイ村の別の岸にあるそうだが。
 ペンション『エルジェイ』

サイトの広告のページに載っていたペンション『エルジェイ』(裏山から撮ったのだろう)
 ペンション『エルジェイ』の船着き場に着き、雨でぬれた草地を登ると、開けた野原に出る。そこに7軒の丸太小屋、厨房・食堂小屋、蒸風呂小屋が真ん中の広場を囲むように川岸に向かって建っていた。『スポーツと健康』ペンションとも言う。クィズィールから147キロだそうだ。
 「周りが『純粋な』自然ですから、散歩もいいですよ、裏の岩山(カー・ヘムとその岩山の間の河岸段丘にペンションがある)に上ってもいいですよ、乗馬もできます。ここから1キロ半のエルジェイ村を訪問するのもいいです。カー・ヘムをモーターボートで遡るのは2時間コースで1500ルーブルです。薬草蒸し風呂は600ルーブルです」と言う訳だ。
 この日は、5時半ごろ到着して、まだまだ明るかったが、周りを散歩するだけにした。トーニャとオリガ・ピーシコヴァさんは、「ここには、ほら、野イチゴがいっぱい」とはしゃいでいた。専門は化学・生物の中学校の先生だったと言うオリガ・ピーシコヴァさんは植物の名前をよく知っている。
中央には草地がある
厨房で、ゾーヤさんと

 オリガ・ピーシコヴァさんは快適なところに宿を取ったつもりだったが、サイトに載っていた写真と実際はかなり違うとがっかりしていた。丸太小屋の中には板を渡しただけのダブルベットが2台、寝具が4人分あり、椅子が2脚とテーブル、小さなストーブ、水のない手洗い台、壁には服をかける釘が何本か、と言うオリガ・ピーシコヴァさんが期待したほどは快適ではなさそうだ。何より、トイレが柵の外に全員用に2ボックス(排泄物が落ちる穴が男女各1穴)というのには、オリガ・ピーシコヴァさんも困っていたが、私はこんなものだと思っていた。
 厨房で食事の世話をしてくれたのはゾーヤさんと言うぷっくりした古儀式派の女性だった。若そうに見えるが上の息子はもう成人している。古儀式派の家族は早婚で子沢山なのだ。それなりにメニューを工夫して私たちに(有料泊り客は私たちだけだったらしい)3食の食事を準備してくれた。材料は、ペンションから1キロ半のエルジェイ村でつくったものだと思う。ペンションのオーナーはさすが古儀式派ではないらしいが、村の人たちは彼に仕事をもらい、産物を買い上げてもらっているようだ。古儀式派の人たちは世間との接触を絶っていることで有名だが、バランスを保って絶っている村もあるのだ。全く絶ちたい教徒は、もっと奥地へ移る。
 ゾーヤは愛想がよく話好きで、オリガ・ピーシコヴァさんは、インフラの悪さを彼女でカヴァーできると繰り返し言っていた。
 この日夕食の後、蒸し風呂に入った。蒸し風呂を焚くのはゾーヤさんの息子さんらしい。煙突から煙が出てきてしばらく経ってから、私たちの丸太小屋と広場を挟んで反対側にある蒸し風呂小屋に行った。広場にはふかふかの草が生えている。よく足元を見て歩かなければ、放し飼いの牛の糞を踏んでしまう。馬は親馬だけ長いロープでつないであった。彼らは広場で思いっきり大きな水音をたてて尿もする。
 エルジェイ村古儀式派家族訪問
 
馬たちにのぞかれる
村への道、野イチゴ摘みをする村の子供たち
7月16日(水)、朝起きてみると私たちの小屋の周りは数頭の馬の一家に囲まれていた。ここの馬たちは、この小屋が気に入っているのだろう。窓をのぞきこんでいる仔馬や、寝そべっている馬もいる。
 11時頃私たち4人はイヴェントのひとつ、1.5キロ離れたエルジェイ古儀式派村訪問に出かけた。途中の野原にはかごを持ってイチゴ摘みをしている村の子供たちも見かける。トーニャが帰りに必ず摘みましょうと言う。古儀式派の人たちはトゥヴァの中でも、最もいい場所を選んで開墾したと言うのは本当だ。
 全員がロシア人古儀式派教徒のエルジェイ村だが、有料で観光客を受け入れてくれるのは1軒だけらしい。エカテリーナ・コジェブニコーヴァと言うおばあさんの家を訪ねる。古儀式派の人たちの家は大家族も住めるほど大きく、勤勉な彼らは立派な菜園を持つ。だから、家の周りは物置小屋や、物置小屋に入りきらない粗大物でにぎやかだが、中に入ると、内装も都会風でこぎれいだった。部屋の一角の南東に古儀式派教徒の祭壇が占め、多くの古い聖画イコンが並べてあった。部屋の反対側には手回しミシンもあった。
 オリガ・ピーシコヴァさんは古儀式派について聞き、エカチェリーナさんは自信ありげに、自分たちの慣例など説明していた。トーニャとオレークはおとなしく耳を傾けているだけだった。私も聞いていたが、やがて、この家の嫁さんと言う若い女性が小さな息子を連れて入ってきた。その女性の方と話そうと私は台所へ移る。
 カー・ヘム畔にはエルジェイやシジム、ウジェップと言った地図に載っている村の他に、古儀式派の人たちはどんなところに住んでいるのだろう。それが聞きたかったのだ。彼らは、世の中からできるだけ離れたところ、通行の困難なところに住むようにしていた。権力に干渉されないためだ。アンチ・キリストの世界から逃れるため、奥地へと開墾して行った。もはや通行困難地ともいえず、世の中との接点の多いエルジェイ村よりずっと上流の地名を、その嫁さんがあげてくれた。聞くだけでは分からない。ノートを出してカー・ヘムの輪郭を描き、記入してもらう。彼女のロシア語の筆記体を読み解くのは難しいが、帰国後10万分の1の地図と、サイトで照らし合わせてみると、少なくとも19個の古儀式派集落、または開墾地、修道院(つまりシェアハウス、少人数で自給自足。世間との接触を絶っている)がある。古儀式派には宗教儀式からも、流れのある水場(つまり湖などではなく川)が必要で、その畔の、狭くても平野、つまり河岸段丘を開墾して、家族と住む家と菜園をつくった。カー・ヘム川岸には点々と彼らの開墾地がある。
エカチェリーナさん宅の菜園
手回しミシン
 彼女の地図の書き込みでは、カー・ヘムの本流はバルィグトゥグ・ヘムであり、クィズィール・ヘムは右岸支流となっている。合流点からバルィグトゥグ・ヘムつまり、彼女が言うところのカー・ヘム上流)の方へ20キロも行ったところがカタズィと言う最も遠くにある古儀式派集落だそうだ。

 ちなみに、エルジェイ村ができたのは1950年代からという比較的新しい時代だ。カー・ヘム下流域の、例えば、ズーボフカ(今ではブレン・ヘム)村から移ってきた古儀式派教徒の人たちでできた村だ。また配偶者も、カー・ヘム下・中流域のロシア人古儀式派の人たちが多い。
 帰ろうとすると、赤鹿の燻製肉はいらないかと言われる。オリガ・ピーシコヴァさんは買っていた。こんなところだから、野生の赤鹿だろうか。パンタクリン(鹿の若角・パンタを浸したヴォッカ・栄養ドリンク)があるなら買いたいと言うと、それもあると言う。1リットルも買うのは多いので半リットルをオリガ・ピーシコヴァさんと分けて買う。500ルーブルだった。彼らは、昔風の自然農法で乳製品などを作り、クィズィールへ売りに行くこともあると言う。それを聞いてオリガ・ピーシコヴァさんは彼らの携帯電話番号を書きとめていた。
 2時間ほどの訪問は1000ルーブルだった。4分の1を後からオリガ・ピーシコヴァさんに払った。

 帰り道でもあの野原を通る。野イチゴばかりか、ここには自然の恵みにあふれている。薬草も多いそうだ。植物に詳しいオリガ・ピーシコヴァさんが鼻かぜに効くと言うゾープニック(シソ科)を摘んでくれたので、帰って厨房のゾーヤにゾープニック・ティーを入れてもらった。ソウル・仁川からウラジヴォストックの飛行機で鼻かぜをひいてしまったのだ。
 ボートでカー・ヘムを遡る
 この日、3時からボートに乗ることになっていた。ボートの持ち主はぴったり3時に食堂に現れ、私たちがゆっくり食事をすませるのを待っていてくれた。ペンション『スポーツと健康・エルジェイ』の船着き場に降りて、橙色の救命具を付け、モーターボートに乗りこむ。『エルジェイ』ペンションはエルジェイ村より川下にあるので、上流に向かう私たちは村を川中から眺めることになった。村はかなり高い段丘にあって、川岸に降りる坂や木製階段もある。川岸には何艘かのボートがつないであり、子どもたちが水浴びをしている。少し離れたところでは家畜も水を飲んでいた。自ら足りている村だなあ。
カー・ヘムからのエルジェイ村
教父フォードルとピーシコヴァさん、トーニャ
水しぶきをあげて通る『エルジェイ』浅瀬
オレーグ
ハーブ蒸し風呂、樽に浸かる

 エルジェイ村を過ぎるとすぐ両岸は岩山になる。つまり、ここは川底の浅い難所で、流れが岩にぶつかって泡ができているのが遠くからも見える。そしてこんなところこそ、モーターボートを操る腕の見せ所だ。後でボート運転の教父フョードル(*)から、「ここはエルジェイ浅瀬と言う、この先は、モスクヴァ浅瀬、ヴァトキノ浅瀬、ウリゲルヘム浅瀬とある」と聞いた。
 (*)教父フョードル ボートの持ち主は、ひげを伸ばした年配男性だった。それで、『教父』、つまり宗教的な意味で『アティーツОтец・父さん』と、私たちは呼んだ。『フョードルさん』と言うより、『アティーツ・フョードル』と言った方がぴったりの風貌だった。
 カー・ヘムはかなりの難度のラフティング・コースでもある。浅瀬を乗り越えるのが難しいと言うだけでなく、ラフティング・コースの出発点の上流へ行く方のも難しいだろう。出発点までは陸路で行く。ラフティングでは動力なしのボートで川の流れで下るだけだからだ。2011年モスクワのラフティング・グループの報告書によると、バルィグトゥグ・ヘムはどこからがカー・ヘムとなるのか、地図によって異なる、とある(*)。この場合のカー・ヘムは源流を、クィズィール・ヘムではなく、バルィグトゥグ・ヘムとしている。
(*)バルィグトゥグ・ヘムはどこからがカー・ヘムか クィズィール・ヘムとの合流点(カー・ヘムの終点から238キロ上流)からか、サルィグ・エールの合流点(同369キロ)からか、バルィグトゥグ・ヘムはカー・ヘムと同じとすれば、最上流の563キロからか。(ページの先頭の地図参照)
 そのグループは、テレ・ホリ(湖)に近いバルィグトゥグ・ヘムから出発し、300キロ以上を10日間ほどで航行した。その報告書によると、エルジェイ浅瀬はモスクワ浅瀬に引き続いてある。その上流の浅瀬はチェレパッハ(亀)浅瀬、その上流はインテグラル浅瀬、さらに、ウリゲルヘム浅瀬とある。私たちのモーターボートは、川上に向かうが、彼らのラフトは、動力なしで流れに沿って下ってきた。ウリンゲム浅瀬から、エス字形のインテグラル浅瀬には2分、そこからチェレパッハ浅瀬までは300m、その3浅瀬だけの通過では合計10分、チェレパッハからモスクワ浅瀬までは15分、モスクワ浅瀬は2キロにわたるとある
 ラフティングは、川岸の眺めの美しさを満喫し、ぶくぶくと泡立つ急流浅瀬を岩にぶつからずに通り抜けるスリルにある。しかし、動力を使わないラフティングは一方通行、下るだけだから、交通には適さない。陸上の道のない奥地の村の人たちは、モーターボートを持っている。
 教父フョードルが操るモーターボートは岩場に泡立つ浅瀬の急流を遡って、両岸に迫る濃い緑の林を眺めながら、航行する。大小の中洲は岩が突き出ているだけで、大きな流木も引っ掛かっている。時々、人家が見えた。川岸までの足場があって、ボートも1槽繋いであった。
 30分も行ったところの、川岸の砂地に停泊。岩が迫って、小さな湾のようにもなっていて、川の水は暖かいと、トーニャたちが喜んでいた。水浴びより、浅瀬のことに興味のあった私はフョードル父さんと話していた。バルィグトゥグ・ヘムを遡るとテレ・ホリ盆地だが、右岸支流と古儀式派の人たちがみなすクィズィール・ヘムのほうを遡るとモンゴルとの国境に出られる。このモーターボートではどれくらいで遡れるのだろう。「2日で行けるさ」と、フョードル父さんは言う。
 もっと上流へ行きたかった私は、みんなを呼んで来て、また救命具をつけてボートに乗ってもらう。もう1か所浅瀬を、水しぶきをあげて通り過ぎて10分も行ったところの砂地に止める。この砂地は歩くと自棄に足が沈む。深い足跡をつけながら歩いて浅い岩場に行く。ここは水が冷たいので泳げないとトーニャたちが言っている。足だけ水につかって岩場を歩くのも面白いではないか。オレークがひざまで水につかりながら川の中ほどにある岩場まで行こうとしていた。流れが急で行きつけないらしい。半分まで行って戻ってきた。途中で深みがあるかもしれない。
 30分ほどでこの場所からも引き上げて帰途に着く。帰りは流れを下るのだからスピードが出る。フョードル父さんは急流の岩場のすぐ近くまでボートを近づけ、私たちに悲鳴を上げさせる。スリルを楽しませてくれたようだ。岩にぶつかる高い波の中を、水しぶきを浴びながら通り過ぎた。そして出発から2時間後には元のエルジェイ・ペンション船着き場に戻る。料金は、初めに言われたように2時間コースで1500ルーブル、4500円)だった。一人375ルーブルになる。

 この日の夕方に入った10分間のハーブ蒸し風呂と10分間の軽いマッサージの方は、合わせて600ルーブルだった。ハーブ蒸し風呂にスイッチを入れたりマッサージしたりするのは、村からバイクでやってくる若い古儀式派の女性だ。小屋には様々なハーブも売っていた。ペンション・オーナーは古儀式派教徒ではないようだが、ここにペンションが建ったおかげで、古儀式派たちは現金収入を得ている。エルジェイのように、もはや奥地でも通行困難地でもなくなったところで、『アンチ・キリストの世界』と接触を絶って生きるのは難しい
 裏の岩山
 7月17日(木)、朝起きてみるとこの日もよい天気で、小屋の周りに馬たちが集っていた。彼らの邪魔をしないようにトイレへ行く。ゾーヤさんの作った魚のスープにポテト・パンケーキ、イチゴのジャムやサワークリームといった、ここではなじみの朝食を食べると、11時頃には私以外の3人は裏の岩山に登って行った。この岩山登りも、『スポーツと健康』エルジェイ・ペンションのメニューの一つとなっている。頂上から眺める景色はすばらしいだろうが、私はパスした。
ヤナギランと野イチゴの草むら
ベリベイ渡し場近くの川岸

 ペンションには旅行者だけではなく、かなり長期に在留しているらしい一家もいた。小屋に泊まらず、テントを張って宿泊しているグループもいる。彼らは自炊しているのだろうか。3人が岩山に上っている間、私は孫を連れて滞在している隣のおばあさんと話してみる。
 オリガ・ピーシコヴァさんたちは1時間半ほどで、戻ってきてくれた。一気に登って、一気に下りてきたそうだ。後で、ペンションのオーナーから、岩山に上ったという証明書を手渡されていた。ペンション唯一のホールである食堂で授与された、という形式だ。私へは『登ろうとした』と言う証明書だった。

 岩山から戻ってきたオリガ・ピーシコヴァさんたちと近くのカー・ヘム畔にもう一度降りた。水着に着替えていたトーニャは水が冷たくて泳げないと言っていたが。
 そして3時過ぎには、ここを引き上げたのだ。また、ボートに乗って対岸ウスチ・シジム村(家1軒しかないが)まで行き、そこで3日前に置いたオリガ・ピーシコヴァさんの車を出して、また、ヤナギランが咲き乱れ、野イチゴがそこかしこに実っている野原や、鶴の集う牧草地の自然道を通る。
 来た時のように、ベリベイまで行き、そこで渡し船に乗り、右岸にわたる。ベリベイの川岸があまりにも美しいので、みんなで写真を撮り合う。タイヤの跡でできた自然道をさらに20キロも行くと『世界』の入り口、ウスチ・ブレン村に入る。
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