クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 18 March, 2015  (追記・校正:2015年4月22日、6月4日、9月1日、2018年11月7日,2019年12月11日、2021年10月30日、2023年5月14日)
32-(4)    再びトゥヴァ(トゥバ)紀行 2014年 (4)
    クィズィール市で
           2014年7月11日から8月13日(のうちの7月21日から7月24日)

Путешествие по Тыве 2014 года (11.07.2014−13.08.2014)

年月日  目  次
1)7/11-7/15 トゥヴァ地図、クラスノヤルスク着 アバカン経由 クィズィール市へ 国境警備管理部窓口
2)7/15-7/17 古儀式派のカー・ヘム岸(地図) ペンション『エルジェイ』 古儀式派宅訪問 ボートで遡る 裏の岩山
3)7/18-7/20 クィズィール市の携帯事情 シベリアの死海ドス・ホリ 秘境トッジャ 中佐 アザス湖の水連
4)7/21-7/24 北極圏のヤマロ・ネネツ自治管区(地図)からの客 自治管区の議長夫妻と 図書館 バルタンさん アヤス君
5)7/25-7/27 トゥヴァ鉄道建設計画(地図) エールベック谷の古墳発掘 国際ボランティア団 考古学キャンプ場 北オセチア共和国からの参加者 ペルミから来た青年
6)7/28-7/30 ウユーク山脈越え鉄道ルート オフロード・レーサー達と カティルィグ遺跡 事故調査官 鉄道建設基地
7)7/31 南部地図、タンヌ・オラ山脈越 古都サマガルタイ 『1000キロ』の道標 バイ・ダッグ村 エルジン川 国境の湖トレ・ホリ
8)8/1 エルジン寺院 半砂漠の国境 タンヌ・オラ南麓の農道に入る オー・シナ村 モンゴル最大の湖ウブス
9)8/2 ウブス湖北岸 国境の迂回路 国境の村ハンダガイトゥ ロシアとモンゴルの国境 国境警備隊ジープ 考古学の首都サグルィ 2つの山脈越え
10)8/3 性南部地図、ムグール・アクスィ村へ チンチ宅 カルグィ川遺跡群 アク湖青少年の家 『カルグィ4』古墳群
11)8/4 民家の石像 高山の家畜ヤクとユルタ訪問 カルグィ川を遡る ヒンディクティク湖
12)8/5 湖畔の朝 モングーン・タイガ山麓 険路 最果てのクィズィール・ハヤ村 ハイチン・ザム道
13)8/6-8/7 解体ユルタを運ぶ ユルタを建てる 湧水 村のネット事情 アク・バシュティグ山 ディアーナ宅へ
14)8/8-8/11 西部地図、ベル鉱泉 新旧の寺院 バイ・タル村 チャンギス・テイ岩画 黒碧玉の岩画 テーリ村のナーディム 2体の石像草原
Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、トゥヴァ語からロシア語へ転記された地名をロシア語の発音に近い形で表記した。ハカシア共和国は住民はハカス人(男性単数)、言語はハカス語、地名はハカス盆地など。
 北極圏のヤマロ.・ネネツ自治管区からの客
 7月21日(月)。オレークは朝早く故障個所を調べに愛車フォード・クーガを修理工場に持って行った。すぐ電話があって、部品をクラスノヤルスクから取り寄せなくてはならない、と言う。つまり、数日間は車を使えない。オリガ・ピーシコヴァさんの目の手術もある。この日はフリーになってしまった。もし、車が故障していなければ、この日はオレークがスィイン・チェレーク遺跡に案内してくれるはずだった。彼は行ったことがない。私は2004年に近くまで行った。また2013年地方道162号線を通ってクィズィールからアクスィ・バルリックへ行く途中に案内板を見た。だから、場所を知らないと渋るオレークに、行けば分かるからと説得していたのだ。クィズィール市からはシャガナール市を通り越した100キロ以上のところにある。シャガナールまでの道はいい。
 だが、車は故障中。ここでは、外車の修理はどのくらい時間がかかるのか想像もできない。たぶん私の出発まで使えないだろう。
 だから、予定をたてなおさなければならない。まずは2年前に知り合ったアイ=ベックさんに連絡してみる。何とか通じて1時頃に迎えに行くと言う。しかし、近くに来たと連絡があったのは、4時過ぎだった。
 アイ=ベックさんの車に乗ってみると、すでに年配の夫婦が座っていた。ヤマロ・ネネツ自治管区の立法議会長のハリューチさん夫妻と紹介された。自治管区と言うのはロシア連邦の85の構成主体(*)の一つだ。アイ=ベックさんの『高位の客人』として、休暇でトゥヴァに来ているそうだ。獣医のアイ=ベックさんは、たびたびチュメニ州に行っている。トナカイを届けに行ったこともあったかもしれない。
(*)ロシア連邦の85の構成主体 ロシア連邦の地域区は、46『州』、9『地方』、3『連邦市』から、民族区は、22『共和国』、1『自治州』、4『自治管区』からなり、合わせて85主体ある。ちなみに、4つの自治管区のうちヤマロ・ネネツ自治管区とハンティ・マンシ自治管区はチュメニ州に属する。ネネツ自治管区はアルハンゲリスク州に属するが、4つ目のチュクチ自治管区はどこにも属さない、と言う複雑な分類、系統だ。地域区、民族区はたびたび変更される。ロシア側資料によれば、一番新しいのはセヴァストポリ市(連邦市)と、クリミア共和国だ。セヴァストポリはウクライナの特別市であったが、2014年のロシアによるクリミア・セヴァストポリの編入によってロシアの連邦市となった(ロシア政府にのみよる)。また、2014年にロシアに編入されたクリミア共和国も、係争中だが22の『共和国』に含まれている。
スターリンの北極圏鉄道 (1949−1953)

 ヤマロ・ネネツ自治管区はクラスノヤルスク北部と接している。
 クラスノヤルスク地方を流れるエニセイ川下流のイガルカ市と、オビ川下流のヤマロ・ネネツの行政中心地サレハルド市を結ぶスターリンの北極圏鉄道跡を、2002年と2006年に訪れた。と言っても、イガルカとイガルカから数キロの地点までだが。
 北極圏鉄道と言うのは1940年後半から着手され、スターリンの死の1953年までに1200キロのうち800キロが完成したが、死後は中断、その後放棄された。(今また、建設計画が持ち上がっているそうだ)。
 ヤマロ・ネネツ自治管区はウラル山脈東、西シベリア平原の北西部に位置し、半分以上は北極圏に入っている。オビ川が北極海の一部であるカラ海(のオビ湾)に流れ出すのだが、その河口の300キロ弱手前にあるサレハルドは、1933年まではオブドルスクと呼ばれていた。
 古い時代をたどると、バルト海近くのイリメニ湖畔に、9世紀頃にはできたと言うノヴゴロド国は、中世ロシアで最大の公国(共和国)で、12世紀ごろには、ウラル山中まで商業活動範囲『ノヴゴロドの地』を広げていった。14世紀にはウラルを越えたオビ川の地でも交易(徴税)をするようになっていった。オビ川流域までのユルガの地と言われるウラル北での現地民と交易(徴税)で得た毛皮がノヴゴロド国を繁栄させたのだ。14世紀末、モスクワ大公国がノヴゴロド共和国を滅ぼし、旧『ノヴゴロドの地』はモスクワ大公国の覇権領になった。1595年にロシア・コサック兵によって、ハンティ人の集落ポルノヴァト・ヴォジ(Полноват-вож)のあった場所に、当時モスクワ大公国の最も北の柵(または砦)オブドルスクが建設され、ウゴル系先住民ハンティ人やネネツ人からの徴税(ヤサクと言う毛皮税)基地になった。ちなみに、オブドルスク Обдорскとは『オビ川Обь近くの場所дор』と言う意味だが、コサックとともに砦を建設したコミ人(ウラル西のフィン・ウゴル系。すでに14世紀にモスクワ大公国の支配下に入っていた)の言葉とも言われる。
 フィン・ウゴル系やテュルク系先住民の抵抗はあったが、このようにモスクワ大公国(1547年からはロシア・ツァーリ国、1721年からはロシア帝国)がウラル山脈を越えて拡大して行った。

 ヤマロ・ネネツのことはとても興味があった。初めて会った『高位の客人』に、失礼のない質問を考えていたが、議長の方は昼間に誰かから贈呈されたらしいトゥヴァ人の小さな詩集を読んでいる。妻のガリーナ・パヴロヴナも黙っている。アイ=ベックさんの言うには、私の旅行記のサイトに議長の名も入れたらいいと、私たちを引き合わせてくれたそうだ。これからドス・ホリ(湖)へ行くのだと言う。極北から来た『高位の客人』は自分たちのところにはない塩湖がとても気に入って、夕方仕事が終わると、毎日のように足を伸ばしているそうだ。北極圏のヤマロ・ネネツには湖沼は多いが、半砂漠にある高塩度のドス・ホリ(湖)のような所があるはずもない。
 フランスの1.5倍の面積があると言うヤマロ・ネネツ自治管区は北の北極海(の一部のカラ海)に向かって太い『U』字型をしていて、西がヤマロ半島、東がグィダンスキー半島で、その間に長さ800m、幅30から80キロのオビ湾が、西にくびれて深く入り込んでいる。オビ湾の最も奥に注ぎ込むのがオビ川で、その右岸支流パルイ川の合流点にできたのがサレハルド(旧オブドルスク砦)だ。サレハルドは、ぴったりと北極圏線上(北緯66度33分39秒)にある。
ヤマロ・ネネツ自治管区

 オビ湾の奥の東岸には、さらに、入り口の幅45キロ、長さが330キロのターゾフ湾が開いている。ターゾフ湾にはプール川(源流のピャクプル川やヤングヤグン川を入れて1024キロ)、その東にはタス川(1401キロ、源はクラスノヤルスク地方との境)が注ぎこむ。そのタス川河口近くに先住民との交易所(*)ハリメール・セデ(Хельмер-Седэネネツ語で『故人の丘』)が1883年にでき、1945年にはターゾフスキーと改名。その村にハリューチ議長は生まれたそうだ。ターゾフスキー村はヤマロ半島に向かいあったグィダン(またはグィダンスキー)半島西全体を占めるタゾフ区の行政中心地。(グィダンスキー半島全体が1923年まではエニセイ県の一部だった)。ターゾフスキー区全体の人口が17,000人。40%近くがネネツ人。しかし、南のターゾフスキー村のネネツ人の割合は12%ほどで、ロシア化している。どこでも、遠隔地ほど人口が少なく、先住民の割合が多い。

   (*)先住民との交易所 ファクトーリアと言う。英語でのように軽工場と言う意味はなく、歴史的な用法で『在外商館』の意、平戸のオランダ商館もファクトーリアといった。ファクトーリアは本国から遠い場所や植民地に現地民との交易場所として設けられた。カナダ史では『毛皮交易所』。シベリアには、多くのファクトーリアがあった。そこから、現在の集落ができた場合も多い。寂れたファクトーリアから、古儀式派の集落となったところもある。

 ヤマロ・ネネツ自治管区全体ではネネツ人ばかりか先住民をすべて合わせても自治管区内の全人口の5%にならないと、『ロシア北方、シベリア及び極東少数民族連盟』の議長でもあるセルゲイ・ハリューチさんが教えてくれた。残りは(出稼ぎの)ロシア人など。事実2010年の統計でもネネツ人の割合は2%だ。1959年はまだ22%だった。
 現在(2012年)、チュメニの北の、オビ川中流のハンティ・マンシ自治管区(こちらは歴史的名称のユグラを名乗って、『ハンティ・マンシ自治管区ユグラ』と言う)の石油採集量は全ロシアの51%(2011年)であり、その北のオビ川下流のヤマロ・ネネツ自治管区では36%で第2位で、両自治管区は西シベリア油田・地下資源の宝庫。開発の始まった1950年代から急速にロシア人や、他のソ連人も増えた。先住民のハンティ人(以前はロシア人はオスチャークと呼んでいた。20世紀後半になって自称のハンティと呼ぶようになった)とマンシ人(以前はヴォグーリと呼ばれていた。マンシとは自称で、マンシ語で『人間』の意)。ハンティ人やマンシ人の割合がヤマロ・ネネツより少ない自治管区ユグラでは知事、議長ともロシア人。ヤマロ・ネネツは、知事はロシア人だが、議長がハリューチさんと言うネネツ人だ。
 自治管区の議長夫妻と再びドス湖
 ドス・ホリ湖に着くと、ハリューチさんやガリーナ・パヴロヴナさん、アイ=ベックさんは車の陰で服を着替えて、湖へむかう。アイ=ベックさんはあらかじめ私への電話でドス・ホリへ行くから水着も持ってくるようにと言ったらしいが、私は聞き取れなかった。(だからトゥヴァ人と電話だけで打ち合わせするのは苦手だ)。私はただ、車の陰に立って、あたりを見ていただけだった。3日前オリガ・ピーシコヴァさんと来た時とは違い、水浴客の多いところに車を止めたので、人々を眺めていて退屈しなかった。
 ここにはペンションはあるが、収容人数が少ないせいか、居心地がよくないせいか、多くのトゥヴァ人や旅行者(つまり、主にクラスノヤルスクや周辺の州からのロシア人など)は自分の車の横にテントを張っている。オリガ・ピーシコヴァさんとちがって連泊の客も多いのだろう。
 岸辺近くの砂浜まで車で入りこめるところがいい。子ども連れも、若い男女も多い。白い肌の人が往きかっていることや、顔つきはアジア系の人でも、体格が日本と違って見えるのがおもしろい。スイカを食べている母子もいる。トゥヴァにしては人出の多い観光地なので店も開いている。飲み水を買いに入ってみた。値段は町中とあまり変わらない。ポット・ボトルの飲み水を、店の冷蔵庫の中からわざわざ出してもらって買ったのにぬるかった。
 近くに湧水(ミネラル水)が出て、それがドス・ホリ湖に流れ込むので、湖は塩分濃度が高いばかりか、そのミネラルも底に沈んでいる。その黒い泥を体に塗るといいと言うので、『まだら黒人』のような水浴客が浜辺を歩いている。
 ヤマロ・ネネツや、ましてはターゾフスキー村には水浴できるような湖がない(寒い)ばかりか、ミネラル泥もないので、ハリューチさんたちはせっせと泥を塗り合っている。ガリーナ・パヴロヴナは、夫のように、元先住民との毛皮交易所だったような僻地の村の生まれではなく、『都会』のサレハルド出身だが、北極圏線上のオビ川では水浴できないだろうし、ましてや、北極海の一部のカラ海でも泳いだことはないだろう。湖底の泥を体に塗ったこともないだろう。(短い夏の間水浴ぐらいできる湖はあるだろうが、蚊に餌をやるようなものだ)。
薬効ある泥を塗って乾かしている

 3人は体を黒い泥だらけにして上がってきた。しばらくはそのまま乾かさなくては、泥の効き目がない。乾かしている間、写真など撮らせてもらった。また湖に戻って泥を洗い流し、上がって、体を拭いて車のシートへ。1時間ほど、私はドス・ホリ風俗を楽しんだわけだ。
 彼らは、アイ=ベックさんの個人的な客だが、昼間は会見があり、夕方、泥浴び、その後はマッサージだそうだ。それもアイ=ベックさんのお勧めのマッサージ師のところへ行く。
 クィズィール市の私立の小さなクリニック内にハリューチさんもお気に入りのマッサージ室がある。プライスリストを見ると、高くない。全身マーサージは1500ルーブルだが、部分的(たとえば肩)では300ルーブル。私もやってもらうことにする。その女性マッサージ師は1人しかいないから、順番にもんでもらう。ハリューチさんたちは全身マーサージで1時間以上かかるが、私は肩だけなので30分ぐらいだと言う。
 まず、ガリーナ・パヴロヴナさんが施術室に入っている間に、あとの3人は、彼らの宿泊ホテル『オドゥゲン』で食事を取る。ホテルならWIFIが通じるかとウエイターさんにきいてみたが、彼は意味がわからないようだった。その質問を聞いていたロシア人の他の客が、「通じるよ」と言ってくれる。確かにパスワードなしで繋がる。設定をWIFIにしてしばらく待っていれば自動でつながるのだ。
 私のマーサージ師さんは30分以上やってくれた。このアイドィンさんと言うマッサージ師さんの指の力は女性とも思えないくらいで、後で骨が痛んだくらいだ。施術室から出ると、ハリューチさんが順番を待ちくたびれていた。アイ=ベックさんの横にアイヴァル・バルタンさんと言う中年男性がいて、私を家まで送ってくれた。モスクワ大学卒で、モスクワで働いていて、日本へ2回ほど行ったことがあるとか。そのうち1回は『エリツィン橋本会談』の成果で政府主催のビジネス・コースで留学もしたとか。アイヴァルさんは日本語で話そうとして話しきれず、ロシア語に移る。私は、こんな会話には慣れているので、できるだけ日本語で答えてあげて、わからない様子が見えるとすぐロシア語で言い換えてあげた。
 アイ=ベックさんはハリューチさんのマッサージを待つので、私を送ってくれるようアイヴァルさんに頼んだのだろう。彼は、普段はモスクワにいるが、父親の80歳の誕生日を祝うためにクィズィールに来ているのだとか。
 オリガ・ピーシコヴァさんは、夜遅くに帰ってくる私を心配して待っていてくれた。彼女は午後から目の手術を受けて、まぶたを腫らし、やっと目が見えるくらいガーゼで覆っていた。両まぶたを切って、涙腺の治療をしたという。入院はなし。手術した目はその日のうちに回復するが、数日はサングラスをかけていた方がいいと知り合いの眼科医に言われたそうだ。サングラスをかければ、普通の生活をして、旅行などもできるはずだった。しかし、回復したのはずっと後だった。
 今日知り合った男性のバルタンと言う苗字は、オリガ・ピーシコヴァさんも知っていた。オイドゥプ・バルタンと言う化学の教授がトゥヴァ大学初代の化学講座の主任だったそうだ。その長男がアイヴァルさんだ。オイドゥプ・バルタン教授は1954年モスクワ大学入学と言うエリート。入学時、競争率は高かっただろうと思ったが、当時大学には少数民族のための特別枠があったので無試験で入学したそうだ。それにしても、トゥヴァ共和国から推薦されるとは、学力ばかりかコネも必要だっただろう(と思う)。
 図書館。トゥヴァ大学人文学部
 7月22日(火)は、まだ、オレークさんのクーガの修理部品がクラスノヤルスクから届いたばかりだったし、オリガ・ピーシコヴァさんは血圧が高い、頭痛がすると言って寝ていたので、自力でクィズィールを廻らなくてはならない。
 実は、予定では、トレ・ホリ(湖)へ行くことになっていた。そのために、ピーシコヴァさんたちは15日雨の中、国境警備管理部窓口で国境地帯許可も申請した。トレ・ホリは遠いので1泊の予定だったが、治安が悪くキャンプ泊した知り合いが追いはぎにあい、タイヤまで盗られてしまい、帰れなくなったと言う。クィズィールの親せきからタイヤを持ってきてもらうまで1週間トレ・ホリにいたそうだ。その話を聞いてオリガ・ピーシコヴァさんは日帰りに決めた。しかし、車の故障と目の手術で中止となった。それで、私は別の方法でトレ・ホリへ行くことを考えておいた。(7月31日にスラーヴァと行った)
 結局、この日はフェイス・ブックで連絡していた日本人ホーメー(喉歌)歌手に会うことにした。彼は毎年3カ月間トゥヴァに滞在して歌手活動をやっているそうだ。クィズィールをよく知っている彼に図書館など案内してもらう。実は『トゥヴァ人の起源と広まり』と言う本を手に入れたいと思っていたのだが、2004年発刊なのでどこにも売っていない。図書館ならあるだろう、と向かったのだ。
 図書館での本の閲覧にはパスポートが必要だ。愛想のいい司書の女性に、ページの写真を撮ってもいいよと言われた。1ページ30円でコピーを撮ってもらう日本の市立図書館よりいい。私が全ページ写真に撮っている間、彼はトゥヴァ語の勉強をしていた。
 私がクィズィールで探しているのはトゥヴァの古い地図だ。せめて20世紀初めでもいい。親切な司書は閉架図書欄から何冊も本を運んでくれたが、見つからなかった。市内のもう一つの図書館ならあるかもしれないと、言われたが、そこまでわざわざ行っても、ないと言うことがある。それで、電話で問い合わせてくれた。が、結局なかった。博物館の地図をガラス越しに写真に撮るしかない。

 この日、ホーメーの勉強に来てトゥヴァ人と結婚、家庭も持っている日本人女性とも道でばったり会った。2人目が秋に生まれると言うその女性と3人で、ファスト・フード『ヴォストルグ』で食事した。クィズィール市にはこのように広い面積のセルフサービス、ファスト・フードが4軒あるようだ。それは≪Восторг≫, ≪Чодураа≫, ≪Лето≫, ≪Два перца≫だ。中でもここが一番初めにできたと思う。なぜなら2008年に来た時も、トゥヴァらしくない『モダンな』この店でサンドイッチを買ったからだ。
 トゥヴァでは、もう一人トゥヴァ人と結婚した日本人女性(その後離婚したとか)がいて、彼ら3人はホーメー友達。トゥヴァに日本から来るのは、こうしたホーメー関係者か、考古学関係者で、両者の接点はない、と言っていたが、確かにそうだ。たまにだが、ただの旅行者もやってくるし、考古学以外の、例えば、林業や鉱業などの研究者もやってくる。
 一方、そのもう一人の日本人女性の名は、私もトゥヴァ人のホーメー教師で発掘もやっているアイ=ベック・オンダールさん(*)から聞いたことがある。
(*)オンダールさん トゥヴァでは、ウリャンハイ時代の氏族名から、20世紀30年代から50年代のソ連化の時代、パスポートを作るため姓ができたので、姓の種類は非常に少ない。それまでは江戸時代以前のように平民には苗字(姓)がなかったのかも。あまりに同姓が多いので、父親の名前や父称から新たに苗字(姓)を作ったくらいだ。例えば、セディップさんと言う苗字の女性と知り合って、「珍しいお名前ですね」と言うと、これは祖父の名前が苗字になったので、その前はオンダールでしたと言われた。今、元に戻そうという動きもあるとか。私の知り合いは、大抵オンダールさんかヘルテックさんだ。名前の種類も多くない。アイ=ベックやアヤン、ブヤンと言うのは最もよくある名前。
 
 エリートのアイヴァル・バルタンさんと会う
 7月23日(水)。この日も、予定が立たなかった。オリガ・ピーシコヴァさんの瞼はもっと腫れて痛々しそうだったし、オレークの車は修理中だった。午前中はパソコンを使わせてもらって時間をつぶしたが、ちょうどいい具合に、一昨日のアイヴァルさんから電話があって1時に迎えに行くと言う。
公園前のバルタンさん
ツェチェンリング寺院前

 1時ぴったりにアパートの下から今着いたと携帯がかかってきたので、トゥヴァにしては時間が正確だ、とオリガ・ピーシコヴァさんと感心したものだ。
 アイヴァルさんはタクシーで迎えに来てくれた。オリガ・ピーシコヴァさんならデートと言いそうだ。タクシーから降りたところはエニセイ川岸の公園の前。中に入らないで仏教寺院ツェチェンリングЦеченлингの前を通り、昨日のファスト・フード店へ。アイスクリームをおごってくれたが、3時半から用事があるからと、またタクシーで送ってくれた。
 アイヴァル・バルタンさんは、トゥヴァ人の奥さんと今は別れているそうだ。前記のように父はモスクワ大学出身でトゥヴァ大学の初代化学講座の主任、彼もモスクワ大卒で、息子さんもそのようだった。もらった名刺によると、彼はモスクワで、『ロシア地学ホールディング』の取締役の顧問をしている。石油関係らしい。会社に日本の丸紅関係者が来ることはあるが、日本語でしゃべったことはないと言う。私と少しでも日本語を話せるのがうれしいらしい。
 彼は、私のことはよくわからないが、ロシア語を話す日本人で、年齢が釣り合っているように見えたのかもしれない。気に入ったようで、この日は3時に分かれたが、数日後、また電話があった。しかし、すでに私はクィズィールにいなくて会えなかった。1月には、フェイスブックで私の誕生祝い文が送られてきた。(追記:その後も誕生日などに短い挨拶文が送られてきた。私も送った)
 
 オリガ・ピーシコヴァさんのアパートは市の南西にある。だから、彼とタクシーで市の中心を通った時、博物館が見えた。ここで下してもらってアイヴァルさんと別れ、、もう一度博物館に入る。ガラス越しの古い地図を念のためもう一度写真に撮ることや、見逃していた展示品も写真に撮っておくため。

 オリガ・ピーシコヴァさんと、これ以上出かけることは難しそう。早めに次の予定地、エールベック谷の発掘地へ行きたいと思ったが、定年後発掘隊のオーナー運転手をしている夫のユーリー・ピーシコフさんからは、25日以降に来てほしいと言う発掘責任者のキルノフスカヤさんの伝言をきいている。
 アヤス・ヘルテック君が来宅 トゥヴァの歴史
 7月24日(木)。フォード・クーガも修理済みだが、この日は、もうユーリー・ピーシコフさんがエルガキでのオフロード・フェスティバルに、クーガで出かけることになっている。オリガ・ピーシコヴァさんも夫と一緒に行く予定だったが手術後の回復が遅くて、パス。そんなわけで、午後からユーリー・ピーシコフさんはウアジック(ウリヤノフ自動車工場製のジープの愛称)『セメノチ』を残し、一人でクーガでエルガキへ出かけてしまった。オリガ・ピーシコヴァさん一家も取り込み中なので世話をかけないことにする。と、この日もフリーだ。
 2012年に私たちを案内してくれたトゥヴァ大学歴史学部のアンドレイ・アシャク=オールさんに何度も電話してみたが通じない。大学付属の考古学博物館をもう一度見たかったのだ。 
 だが、2013年に帰国時、成田空港で知り合ったアヤスさんには連絡がつき、どこか散歩でもしようと言う返事が来た。しかし、この暑くて埃っぽく(実はゴミだらけの)クィズィール市内はあまり快適な散歩場所もなく、足のない私にはタクシーも高くつく。それで、オリガ・ピーシコヴァさんの家に来てもらった。
 2時と約束して、ぴったり2時にチャイムが鳴ったのは、気持ちよかった。個装のチョコレートの紙包みを開けると、その人の運命が書かれていると言う気のきいた手土産を持って現れた。彼は、大学受験中だそうだ。だから20歳前くらいの若さだが、トゥヴァ人と訛りのないロシア語でトゥヴァについて、テーブルに座って落ち着いて話せたのはよかった。『トゥヴァ人の起源と広まり』という2日前私が図書館でコピーした本について話した。若いトゥヴァ人がどんなふうに説明してくれるのか聞くのは興味深い。

 トゥヴァに今ロシア人は減っている。1918年(トゥヴァがロシア帝国の保護領だった頃)は20%だったロシア人は1959年(トゥヴァはソ連邦内に併合されていた頃)には40%に増えたが、90年代(ソ連崩壊の頃)の民族紛争以来減り続けて、2010年公式には16%となっている。が、事実上は、10%を切っているとか。トゥヴァのロシア人は、19世紀末から20世紀初めに移住してきた古儀式派、そのあとの開拓農民が古くからいて、彼らはトゥヴァに融け込んでいる。が、1944年トゥヴァがソ連邦に合体してからは地下資源産採掘地(貴金属、コバルト、アスベクト、石炭)にソ連式の人工的な集落ができ、そこへ移住してきたロシア人の割合が急増した。90年代初め、ソ連崩壊前後には、各地でトゥヴァ人とロシア人との紛争が起き、多くの『出稼ぎ』ロシア人は去った。この紛争にモスクワ政府は、国境近くに軍隊を集めておいたとか、無視したとかの説がある。トゥヴァはロシアから独立しなかったし(カフカス地方とは違って独立紛争もなかった)、地下資源の方は、例えば、コバルトのホブ・アクスィは(一応は)採り尽くして閉鎖した。古儀式派や開拓農民ではない、主にソ連時代に移住してきた、つまり、配属されたロシア人(やその子供たち)は現在クィズィールなど都市にしかいない。が、それらロシア人もトゥヴァから去ろうとしている。トゥヴァ生れ(アク・ドヴラック市の生まれ)であるオリガ・ピーシコヴァさんによると治安が悪いからだ。息子のオレーク君も数年前アパートの下で傷害事件にあった。ピーシコヴィさん一家はクラスノヤルスク地方のアルダン村(西サヤン山中の寒村、しかし、新鉄道敷設でアルダン駅ができる)に土地を購入して、コッテージを建てる計画を実現させつつある。オリガ・ピーシコヴァさんによると、トゥヴァ政府はロシア人のこれ以上の流出に歯止めをかけようと、ロシア人が移転のため売却しようとするアパートに条件を付けているとか。つまり売れにくくして、トゥヴァ離れを防いでいるとか。
アヤスさん、イリーナさん、ピーシコヴァさん

 アヤスさんと話していると、オリガ・ピーシコヴァさんの目の手術をしたイリーナ・クィルグィスさんが訪れた。オリガ・ピーシコヴァさんと個人的な知り合いでもある顎骨・顔面外科医Челюстно-лицевая хирургだそうだ。日本語では口腔外科医とされるが、イリーナさんの説明では顔面の整形外科(美容外科)のようだった。オリガ・ピーシコヴァさんによると技量は高く、ロンドンの学会にも参加しているそうだ。彼女はトゥヴァ人である。
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