クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 19 March, 2015 (追記2015年5月6日、6月10日、9月29日)
再びトゥヴァ(トゥバ)紀行 2014年  (7)
    タンヌ・オラ山脈南の古都サマガルタイ
           2014年7月11日から8月13日(のうちの7月31日)

Путешествие по Тыве 2014 года (11.07.2014−13.08.2014)

年月日   目 次
1)7/11-7/15 トゥヴァ地図、クラスノヤルスク着 アバカン経由 クィズィール市へ 国境警備管理部窓口
2)7/15-7/17 古儀式派のカー・ヘム岸(地図) ペンション『エルジェイ』 古儀式派宅訪問 ボートで遡る 裏の岩山
3)7/18-7/20 クィズィール市の携帯事情 シベリアの死海ドス・ホリ 秘境トッジャ 中佐 アザス湖の水連
4)7/21-7/24 ヤマロ・ネネツ自治管区(地図) 自治管区の議長夫妻と 図書館 バルタンさん アヤス君
5)7/25-7/27 トゥヴァ鉄道建設計画(地図) エールベック谷の古墳発掘 国際ボランティア団 考古学キャンプ場 北オセチア共和国からの兄妹 ペルミから来た青年
6)7/28-7/30 ウユーク山脈越え鉄道敷設ルート オフロード・レーサー達と カティルィグ遺跡 事故調査官 鉄道建設基地
7)7/31 南部地図、タンヌ・オラ山脈越 古都サマガルタイ 『1000キロ』の道標 バイ・ダッグ村 エルジン川 国境の湖トレ・ホリ
8)8/1 エルジン寺院 半砂漠の国境 タンヌ・オラ南麓の農道に入る オー・シナ村 モンゴル最大の湖ウブス
9)8/2 ウブス湖北岸 国境の迂回路 国境の村ハンダガイトゥ 国境警備隊ジープ 考古学の首都サグルィ 2つの山脈越え
10)8/3 南西部地図、ムグール・アクスィ村へ チンチ宅 カルグィ川遺跡群 アク湖青少年の家 『カルグィ4』古墳群
11)8/4 民家の石像 高山の家畜ヤク、ユルタ訪問 カルグィ川を遡る ヒンディクティク湖
12)8/5 湖畔の朝 モングーン・タイガ山麓 険路 最果てのクィズィール・ハヤ村 ハイチン・ザム道
13)8/6-8/7 解体ユルタを運ぶ ユルタを建てる 湧水 村のネット事情 アク・バシュティグ山 ディアーナ宅へ
14)8/8-8/11 西部地図、ベル鉱泉 新旧の寺院 バイ・タル村 チャンギス・テイ岩画 黒碧玉の岩画 テーリ村のナーディム 2体の石像草原
Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、(ソ連時代以前には文字のなかった)トゥヴァ語からロシア語へ転記された地名を、ロシア語の発音に近い形で表記した。
↓ トゥヴァ南部、ツァガン・トロゴイからムグール・アクスィ村。ウブス・ヌール盆地北を行く (紫の文字は保護区名を示す)
 タンヌ・オラ山脈を越える
タンヌ・オラ山脈へと向かう連邦道54号線
 前日の午後クラスノヤルスクを出発し、ウユーク盆地の目立たない林の中で一泊したスラーヴァさんは、約束通り、7月31日(木)の朝9時に、私の宿泊先のオリガ・ピーシコヴァさんのアパートに来てくれた。去年のように、シャワーを浴び、軽く朝食を取ってもらって、10時前には出発できた。この先はワイファイもないので 手持ちのアイフォンに何か連絡が入ってきていないか、市の中心にある『牧夫広場』に行って確かめておいた。ワイファイは、クィズィールではホテルやこの『牧夫広場』などでは通じる。
 アイフォンでの連絡がつく(たぶん)最後の地点クィズィールを出て、連邦道54号線をモンゴルとの国境に向けて南進する。
 トゥヴァ盆地の中、地平線の彼方に見える山々に、真っ直ぐ延びて地平線に消える快適なアスファルト道を、トゥヴァ晴れの下、浮き浮きと進んで行った。この道をたった270キロ進むと、モンゴルとの国境の検問所(イミグレーション・ゲート)に出る。ちなみに、国境地帯(10キロ内、もしかして5キロ以内)に入るには、もちろん許可がいる。(国境に沿っても道路あるが、時には10キロ内を走り、時にはその範囲外を走るが、許可なしでは一律禁止)。
 クィズィールから100キロも行き、バルガジン村を過ぎるとトゥヴァ盆地を南から囲むタンヌ・オラ山脈にさしかかる。シュールマク峠を越えると、タンヌ・オラ山脈の向こう側(南側)に出るのだが、シュールマク峠はタンヌ・オラ山中にあると言うよりタンヌ・オラとその東のホルムヌト・タイガ山脈との間(切れ目)にある。エニセイの源流カー・ヘムの左岸支流ブレン川(156キロ)のまたその左岸支流ソヤ川(125キロ)の上流もここを流れるので、シュルマック峠までがエニセイの流域と言うことができる。タンヌ・オラやホルムヌト・タイガの南はテス・ヘム(*)の流域となる。つまり、シュールマク峠は、エニセイ流域とテス・ヘム流域との分水嶺だ。テス・ヘムはモンゴルから(モンゴル領内ではテシイン・ゴールと言う名で)流れてきて、ウブス・ヌール(湖)に注ぎ、そこで終わる。大洋には流れ出ない。この地方は『大湖盆地』(**)と言う。
(*)テス・ヘム 『ヘム』は川・水の意。だから『テス・ヘム川』は『テス川川』になる。テス・ヘムは上記のようにエニセイ流域(世界大洋に注ぐ)ではなく内陸湖ウブス・ヌール流域になる。ウブス・ヌール流域は、下記、大湖盆地の一部。
青丸は大湖盆地の位置(モンゴル北西からトゥヴァ南) 1.ウブス湖 2.ハル・ウス湖 3.ヒャルガス湖↑
(*)大湖盆地котловина Больших озёр(北西モンゴル台地 Ubsunur Hollow、Great Lakes Depression)トゥヴァの南、モンゴルの北西にある(地図)。西はアルタイ山脈、南西と南はモンゴル・アルタイ山脈、東はハンガイ山脈、北はタンヌ・オラ山脈に囲まれた盆地で、南北に500キロ、東西に400キロにわたり、高度は最も低いウブス・ヌール(湖)の水面が758m、周囲の山脈の麓は1500-2000m。モンゴル第2の淡水湖ハル・ウス・ヌールや、最大の塩湖ウブス・ヌールなど6大湖と無数の塩湖や淡水湖からなり、河川は盆地外に流れ出さないで、湖に注ぎ、そこで蒸発する。
 大湖盆地では北部を占めるウブス・ヌール盆地に東から流れてくるのがテス・ヘム(757キロ)。テス川の上流部山地と下流部デルタ地帯はモンゴル領内、中流部はトゥヴァ内を流れる。2003年ウブスヌール盆地を含む12の自然保護区がユネスコ世界遺産に指定されている。自然遺産ではあるが、先史時代から人類の移動拠点だったこの地方には旧石器時代からの遺跡が多い。古墳も数万基あり、未調査。ユネスコ自然遺産『ウブス・ヌール盆地グループ』にはロシア領(トゥヴァ領)の7か所のほか、同じく盆地内にあるモンゴル領の5か所の自然保護区も含むので、国境をまたいで指定された全ユネスコ自然遺産の29か所(2014年現在)のうちの1。自然遺産登録面積のうち約5分の1がロシア領。
 大湖盆地の南部のハル・ウス湖(水面標高1157m、面積1486平方キロ)へは、西のモンゴル・アルタイ山脈からのホブド川(516キロ)が流れ込み、さらに、東のハンガイ山脈から流れてくるザフハン川(808キロ)を通じてヒャルガス湖(水面標高1028m、面積1468平方キロ)へ最終的に流れる。ヒャルガス湖はウブス・ヌール水域以外の大湖盆地のすべての水分の最終到達地である。流出口のないヒャルガス湖は約7.58%の塩湖。
シュールマクの記念碑
サマガルタイの祭日用写真
(後に文化宮殿主任からメールで送られてきた)

 だから、シュールマクを過ぎると、モンゴルへと続く『大湖盆地』に入ったことになる。そのシュールマク峠には1938年と記された記念碑が建っている。トゥヴァ中から労働者が集まって、この(当時は)通行困難地に峠道を作った記念碑だそうだ(トゥヴァ語で書いてある)。当時、ソ連邦の衛星国(だから、世界中からは認められていなかったが独立国家)だったトゥヴァ人民共和国も、緩い支配機構の遊牧の封建的な国から抜け出て、中央集権の『社会主義国家』を築かなければならない。そのためには車輪の通れる道路が必要だ。それが1938年完成したのだ。つまり、それまでは、車輪が通年通れるような道路は、ロシアのミヌシンスクからトゥヴァのウユーク盆地(後に首都クィズィールまで)へのウス街道ぐらいしかなく、トゥヴァ内の各地をつなぐ道はなかったらしい。古くから遊牧道としては、タンヌ・オラを越えてモンゴル側へ出るのに、地の利の良さからシュールマク峠を通っていた。このシュールマク峠に、当時は近代的だった道路を、国をあげて作ったのだ。
 さらにこの峠には歴史があったようだ。旅行案内書によると、辛亥革命で清朝中国が倒れ(1911年)、トゥヴァがロシア帝国の保護領(1914年)となった後の1916年、帝国から任命されたウリャンハイ(当時のトゥヴァ)のトゥヴァ人統治者(ウリャンハイ侯・大ノイオン)が、反ロシア帝国派(つまり、モンゴル派)に殺害された場所だそうだ。ちなみに帝国側は殺害者一派と和解し、モンゴル派の指導者をオビュール地方(ウリャンハイにある南部の地方)のノイオンにした。と言う歴史もあるそうだ。
 古都サマガルタイ
 シュールマク峠を過ぎると、連邦道は下り、テス・ヘム谷のサマガルタイ村の入り口に近づく。人口3500人で1921年まではウリャンハイの首都(*)だったと言う、遊牧のトゥヴァでも古い集落だ。1773年にできたとされ、2013年には240年祭が行われた。だから歴史的遺跡も多い『古都サマガルタイ』に違いないと、ずっと思っていた。しかし、サマガルタイに来るのは2度目だったが、首都だったことは、ここに古いチベット仏教の寺院がある以外は、何も残っていないらしい、と再度わかった。(新石器時代からこの地に住んでいた古代の民族、またスキタイ人、ウイグル人たちは立派な建造物を残したのに。)
(*)ウリャンハイの首都 北京政府のモンゴル統治の拠点ウヤスタイ(モンゴル西部にある)への窓口、つまり、トゥヴァは清朝に支配されていたモンゴルに支配されていた。

 今回、唯一のその寺院はすぐ見つかったが閉まっていた。あきらめきれなくて、道行くトゥヴァ人に、何か遺跡はないだろうかと聞いてみた。この方法で何か教えてもらえることはめったにない。もっと可能性のあるのは、村の『文化宮殿』(ソ連時代から地域の文化振興を担ってきている公民館のような組織)に行って、そこで郷土文化担当者を見つけることだ。
文化宮殿で
やっと見つけたラクダ岩(山の手前)
途中の道のユルタ
鹿石

 文化宮殿はすぐ見つかった。入ってみると、今日は撮影会があるとかで準備中だったが、スラーヴァさんが、自分も文化関係者(音楽専門学校の先生)だし、私は日本から来たと言うと、話を聞いてくれた。撮影会の準備にお化粧をしていた女性が、鹿石Оленный камень(下記)のあるところを教えてくれる。文化主任の女性Айыраш Мажааさんは、サマガルタイのシンボルともなっているラクダ岩がある場所を教えてくれたばかりか、大写しのカラー写真までくれた。こんな時には必ず、裏にサインしてもらい、一緒に写真をとり、メール・アドレスも聞くことにしている。(たいていは帰国後、その写真を挨拶文とともに送る。こうして文通が続くこともある)。
 そのラクダ岩(Теве Хая)はサマガルタイ南東の、たった9キロのところにあると言うので、行ってみることにした。主任の女性が教えてくれた道順は
「村はずれのガソリン・スタンドを曲がり、川を一度渡ったら、次の小川に沿って山の方へ行く」と言う簡単で私には不思議なものだ。遠くまでみはらせる草原地帯のトゥヴァらしい教え方だ。スラーヴァさんとガソリン・スタンドを曲がって橋のない川を渡ったが、『次の小川に沿って山の方へ行く道』がわからない。道らしいものは1本ではない。野原の道と言っても分かれ道がある。見当で進んでみると、行っても、行っても草原の丘しかない。結局、スラーヴァさんと2度まで元のガソリン・スタンドに戻って行き直した。3度目に、もし見つからなければあきらめて、先へ進もうと思っていたが、問題の分かれ道でまた別の道をとってみると、小川に沿って山手に向かっているようだ。川(水分)のあることは見晴らしの良い草原にそこだけ樹木の列があることでわかる。水辺にはちゃんとユルタが張ってある。
 スラーヴァさんが、
「ほらあった」と叫ぶ。テス川の支流のそのまた支流のような小川ホリ・オジューХоль-Ожуの対岸にフタコブラクダのような形の岩が見えた。トゥヴァにはラクダ岩と民間で呼ばれている残丘は多いが、中でもサマガルタイのラクダ岩は最も写実的なのだそうだ。高さ9m、長さ25m、幅1.5から3mだそうだ。足がないので首を持ち上げた亀のようにも見えるから、もし、日本にこのような残丘岩があれば長寿の亀岩と呼ばれるかもしれない。
 スラーヴァさんはここでランチにしようと、場所を探して小川を渡ったり戻ったり、河原の崖上に上ったり下りたりする。車で水中を走れると言うのがシベリアの高駆動車の必須条件だ。(私の知る限り、ロシア人運転手はこれが大好き。数日後は、もっと深く、もっと流れのはやい川を何度も渡ったものだ。迂回路があるにもかかわらず)
 ラクダ岩の前にはチャラマ(布切れを結び付けた棒、木、ロープ)が建っていた。自然の匠は神聖なものなのだ。私が岩に登って、見えるものと言ったら草原丘陵しかない景色を楽しんでいる間に、スラーヴァさんは火を起こしてカップ・ラーメンとお茶を準備してくれた。これから、ずっと、このメニューが野営の時の定番だった。スラーヴァさんはカップ・ラーメンの中に缶詰の蒸し牛肉をどっさり入れる。私はその蒸し牛肉は苦手なので、グリンピースの缶詰でも開ける。
 トゥヴァはどこへ行っても本当にひと気がない。

 4時頃にはラクダ岩を去り、小川の畔に張ってあるユルタやその周りに集められている家畜の群れを見ながら、サマガルタイのガソリン・スタンドまで戻り、連邦道に入った。サマガルタイから数キロのところに、鹿石Оленный каменьのある古墳があると言われている。こちらは連邦道54号線に沿ったところなので遠くからでもすぐ見つかった。
 鹿石というのは、青銅器時代から初期鉄器時代にかけて、打刻、または赭土で鹿などが描かれた石柱のことで、トゥヴァには珍しく、モンゴルやアルタイに多いそうだ。鹿は、東へ向かって飛んでいるようなスタイルで描かれていることが多い。鹿の他に馬などの動物や、幾何学模様、タムガ(刻印)、武器、太陽などが見られる。古代巨石記念物の一つだと言う。
 しかし、サマガルタイの鹿石は、(現在は)巨石と言うほどではなく人の背ほどだった。ヘレクスルХерексурыと言う石を積み上げた塚が、鹿石の周りにある。積石塚といっても、積み上げた石も崩れてほとんど平坦になっているが、土にめり込んだ石や、立石の囲いだけは残っている。ヘレクスル(積石塚)とクルガン(墳丘、古墳)は、私はあまり区別がつかない。クルガンにはたいてい古代人が埋葬されているが、ヘレクスルには、埋葬されていなくて記念碑だけの場合もあり、時代がより古く、規模が小さいものなのか。
 連邦道のこんなに近くにあるので、トゥヴァ南部観光には必ず寄るのだろう。2004年の『トゥヴァの真珠』パック旅行の時も寄ったものだ。
 『1000キロ』の道標
テス・ヘム、流れの外側には河原
1000キロの道標
 私たちは今日の目的地トレ・ホレ(湖)へと連邦道54号線を南下する。周りは次第に乾燥地帯らしくなってくる。まだ、草原砂漠(半砂漠)地帯と呼ばれるところで、テス・ヘムの緑色の流れが見え隠れする。この辺のテス・ヘムは平地を流れるせいか激しく蛇行する。だから、何本もの側流が流れる幅広の草原もある。半砂漠の中、そこだけが緑の樹木が生えている。増水期には周りも沼地になるのか、そんなところは、道路も迂回して走っている。低くても岩山の迫って来るところでは、テス・ヘムもきりっとして山麓を流れ、道路も川と岩山の狭い地帯を通る。

 途中で赤地に白文字で『1000』と書いた道票が見えた。公道には必ず1キロごとに始発点からの距離が書いてある。青地に白文字の数字だ。何の目印もないシベリアの道では、これが頼りだ。10キロ毎に青地が赤地になる。1000キロと言うのは連邦道54号線の始発のクラスノヤルスクから1000キロの地点と言うことで、いくら渺渺(ビョウビョウ)たるシベリアでも珍しい数字だろう。わざわざ車から降りて写真をとった。
 この先にタルラシクィンТарлашкынとい小さな支流がテス・ヘムに合流するのだが、ここに1921年と記した赤軍勝利の記念碑があるはずだ。ロシア革命期とその後の内戦時のトゥヴァ史は、今読むと、ことさら興味深い。革命後の内戦時に、ソ連指導のトゥヴァ赤軍(牧夫のパルチザン隊)は、旧勢力の白軍やそれと結びついた中国軍閥と戦い、1921年初め頃には、それら白軍にほぼ勝利していた。当時、白軍のウンゲルン男爵は日本軍などの援助(*)で、モンゴルのウランバートル(当時はウルガと呼ばれた)やホブト地方、北西モンゴルの国境地帯を占領して、トゥヴァにも白軍勢力を復興しようとしていた。しかし、1921年、モンゴルとの国境地帯からトゥヴァのテス・ヘム地方に侵攻して来ていた白軍を、ソ連指導のトゥヴァ赤軍パルチザン(**)が破り、トゥヴァ人民共和国を守ったわけだ。その時、白軍の最後の残党すらもが完全に粉砕された戦場がタルラシクィン川畔だったそうだ。 
(*)日本軍の援助 当時日本軍の干渉はウランゲルン男爵の敗退後も続いていた。1930年代後半からのスターリンの大粛清は全ソ連邦に及んだが、まだソ連邦に正式加入していないトゥヴァでも、大粛清があった。トゥヴァの反ソ連陰謀『人民の敵』の罪状として、『日本のスパイ罪』が適用されたのは、日本軍の動きと関係がある。この大粛清ではトゥヴァ議会議長をはじめ多くのトゥヴァ人が『日本軍のスパイ』として粛清された。
(**)トゥヴァ赤軍パルチザン 赤軍指導者はカチェトフという。現在タンディ・コジューンのカチェトヴォ村は、赤軍英雄カチェトフの名をとって、それまでの、ロシア移民村アタマノフカが1940年に改名されたもの。1918年アタマノフカ村でカチェトフが赤軍パルチザンを組織した。また、アタマノフカ村は1921年には全トゥヴァ会議で、『タンヌ・トゥヴァ人民共和国』(1926年以降の正式名称は『トゥヴァ人民共和国』)の成立が宣言され、初めの憲法が採択されたと言う、革命的な集落だった。

 もちろん、その場所に、後に赤軍勝利の記念碑が建った。2004年に『トゥヴァの真珠』ツァーで来た時は寄った。ソ連時代からのツァーコースに入っていたので寄ったのだろうが、ガイドも、もうその頃は、照れくさそうに案内したものだ。今では、普通の旅行者は知らないだろう。スラーヴァさんや私たちのように『1000キロ』の道標の方を注目する。
 私は、川を渡るとき、記念碑が見当たらないかと走る車の窓から探してはみたが、わからなかった。スラーヴァさんに車を止めてまで探す、とは言いだせなかった。しかし、帰国後、写真を見ると、タルラシクィン川の少し手前の草原に記念碑らしいものとトゥヴァ風のあずまやが映っている。(走る車の窓から、ちょっとでも、何かあったり、景色が違たっりするとシャッターを下ろしていたのだ)。記念碑らしいものの文字はその写真からは全く読めないが、たぶん、これがそれだろう。石造りの立派な記念碑を、政治イデオロギーが変わったからと言って、いちいち撤去するのは、サンクト・ペテルブルクやモスクワのような敏感な大都市だけだ。(追記、2015年にポル・バジン遺跡へ行く途中も、この道を通ったので、タルラシクィンの革命記念碑を見つけ、写真に撮った)
 バイ・ダッグ村
 テス・ヘム区(コジューン)のサマガルタイ村の次にはエルジン・コジューンのエルジン村があるのだが、その少し手前にバイ・ダッグ村がある。クィズィールの博物館のオーリャ・モングーシさんは、トレ・ホレ(湖)へ行くならバイ・ダッグ遺跡に寄るといいと勧めてくれたものだ。事実、帰国後に調べた『トゥヴァ考古学的遺跡一覧表』にはエルジン・コジューン内の遺跡として30か所ほど載っているうち、『バイ・ダッグ 1』から『バイ・ダッグ 7』まであり、どれも村から3キロから14キロのところだ。
遠くからも見える村の記念碑
内戦の戦没者記念碑
民家の庭の石柱
迷い込んだゴミ捨て場

 連邦道54号線を走っていると、見晴らしのよい草原の向こうに集落が現われ、『バイ・ダッグ』の標識が見えてきたので、スラーヴァさんに頼んで村に入ってもらう。2012年の人口は1340人(男648、女692)で300家庭あるそうだ。そのうち、労働年齢以下の男児233人、女児222人で、労働年齢の男性364人、女性368人、労働年齢以上の男性47人、女性107人とある。さらに、就業人口は287人、失業者は236人。年金受給者164人のうち39人は就労。身体障害者67名のうち幼時からが11名。3人以上の子供のいる家庭が55戸。片親家庭が57戸。最貧家庭が17戸。貧困家庭が14戸。3歳以下の子のいる母親は88人。ロシア軍兵役についている青年は6名。トゥヴァ共和国内の教育機関で学ぶ学生は32名、トゥヴァ以外で学ぶ学生は42名。服役中の村民は7名。平均寿命は男が43歳、女が53歳。郵便物は週に3回村へ届けられる。中央テレビ局から3チャンネルが視聴可能だが電力低下のため中断が多い。ロシア連邦の『先住少数民族の伝統的生活と産業の保護法』によると、適用されているのは、トゥヴァ共和国内では11の集落で、バイ・ダッグ村が含まれている。
 これらの統計は帰国後ネットで調べたものだ。

 草原の中、沼地を除けてできたらしい村は、それほど活気があるようにも見えないが、失業率がそんなに高いとも見えない。統計的に就労していなくても、村では自給自足の生活ができる。補助金もある。
村の学校の
サイトから

 村の中央に立派な白塗りの塔があり、かなり高いので連邦道54号線の遠くからでも、まずこの塔が見える。近づいてみると、これはやはり内戦の戦没者碑だった。近くのタルラシクィン川畔の戦闘で没した村民もいただろう。碑には『1921年社会主義の祖国防衛線において倒れた6名のために永遠の栄光を』と、6名の名が刻んであった。この白い塔が遠くから見ても、周りの緑や茶色の中でくっきりしているのは、今でも手入れされているからだと、帰国後わかった。村の学校のサイトを見ると、生徒たちの活動の写真が載っていたが、その中に『赤軍パルチザン記念碑の掃除と白塗り』と言う1枚もある。女の子が塔に登り石灰を塗っている写真だ。
 村の中を一通り回って、遺跡らしいものがないか探してみた。『革命戦士』の碑とは別の広場には新しい仏塔が建っていた。道行く人に遺跡はないかと、スラーヴァさんが聞いてくれた。意外と、
「あの塀の中にひとつある」と、教えてくれる。塀の隙間から覗いてみると、立派な石柱があった。彫刻はないが、人の肩ほどもある石柱は、古代人が立てたものに違いない。今は民家の庭になっているが、この場所は、オクネフ時代(紀元前2千年紀中ごろ)の聖所だったのかもしれない。こうした石柱が土中からみつかることがたびたびあるが、ハカス人やトゥヴァ人は古代からの石柱を敬い、発見場所に安置させたがる。ソ連時代には、耕作に邪魔だとトラクターにひっかけて移動させたこともある。(言い伝えでは、そんなトラクター運転手には直後に不幸が起きることになっている)。トゥヴァでもハカシアでも、ソ連時代の例外を除いて、古代からの遺物は自分たちの祖先が作ったものとして(考古学的には必ずしもそうでないこともあるが)、畏敬を持って扱われている。だから、科学的目的であれ古墳発掘調査には協力したがらない。
 トゥヴァやハカシアでは自分の家の敷地内に、たまたま古代の石柱があっても不思議ではない。ソ連時代になってできた集落は、あまり考古学を配慮しないで場所が選ばれたし、遺物はトゥヴァ中の至る所にある。家の住民はその石柱を大切に扱い、手を加えない。物置などは石柱を除けて作る。私が塀の隙間から覗いた石柱の周りには、付属品らしい大石も見えた。ひと気がなかったので、塀を廻って開いていた門から中へ入ってみる。
 こうした石柱が草原にあると、チャラマ(しめ縄)が張ってあり、お供え物が置いてあるものだ。
 1970年の地図を見ると、そこは現在の名のバイ(『豊かな』の意のトゥヴァ語)・ダッグ(『山』の意のトゥヴァ語)ではなくフフ(『青い』の意のモンゴル語)・ダッシ(『岩』の意のトゥヴァ語)となっている。中国の内モンゴル自治区の首都フフホトと同じ『フフ』だ。トゥヴァ中に『バイ・ダッグ』と言う地名ならやたら多いのに、なぜ、『青い岩』と言う昔からの名前を変えたのだろう。

 先ほどの通行人によると、遺跡は村外れの沼地の前にもあると言う。そこが、オリガ・モングーシさんの言う『バイ・ダッグ』遺跡かもしれない。スラーヴァさんと草原の中、車を進ませた。樹木のある方角はテス・ヘム川で、近くは沼地になっているようだ。15分ほど、草原の丘を上ったり下ったりして探してみた。この辺はどうもゴミ捨て場らしい。トラックに出会ったので運転手に聞いてみたが、知らないそうだ。石原ならあると言う。丘の斜面に幾つもの大石が草の間から見られたが、どうしても自然にあったものとしか思えない。
 むしろ、ここは不燃物の露天式捨て場だった。ダンプカーの荷台から、ざあっと下したようなゴミの小山がいくつもあった。骸骨のような車もある。遠くに青い山波や、テス・ヘム川畔の緑の林が見える見晴らしの良い美しい場所に捨てられた不燃物も喜んでいるかもしれない。
 エルジン川
 私たちが、また連邦道に戻ったのは、夕方6時過ぎで、まだまだ明るい。バイ・ダッグを過ぎると連邦道はテス・ヘムの右岸支流エルジン川(139キロ)に沿って走っている。新連邦道はエルジン村を迂回し(*)、エルジン川を新橋で渡るのだが、その橋の手前で、警察に止められた。私のイメージでは国境から10キロとかの一定の地点、または、エルジン・コジューンが国境地帯にあるのなら、そのコジューンの入り口に見張り小屋が建っていて遮断機があり、許可証を調べられる、というものだった。しかし、ここへ来るまで、それらしいものはなく、ちょっとがっかりしていたのだ。それで、ここエルジン新橋の手前で止められた時は、いよいよと思い、かばんからパスポートを出して準備したのだ。しかし、ただの交通警察だった。スラーヴァさんは車の書類を見せ、私はパスポートをまたかばんにしまった。だいたい、この道を通る地元外のナンバーの車はトレ・ホレ(湖)へ行く観光客が多い。許可証の検査は、この先の、テス・ヘムを渡る橋の手前だと言われる。
(*)エルジン村を迂回 2004年に来た時は、連邦道はエルジン村内を通っていた。と言うより、エルジン村の手前で終わり、反対側の村はずれからまた始まっていた。旧連邦道54号線は、市町村を直接に繋ぐので、道は糸、集落は玉で、糸の長いネックレスのようでもある、輪になって閉じられてはいないことのほうが多い。新連邦道54号線は、迂回路で集落を除けるので、玉無しの糸だけになってしまう。(もちろん主要道から集落へ入る道はあるが)。

 スラーヴァさんは長々と交通警察官としゃべっている。自分の改造車の自慢話をしている。これはよくあることだ。相手が相手なので、スラーヴァさんは愛想よく、すらすらと受け応えをしている。相手がただの車マニアの通行人だったら素早く切り上げるところだ。私も黙って待っていた。やがて、後ろについたランクル・ピックアップから、怖い顔のトゥヴァ人も降りて、スラーヴァさんの車をのぞきこむ。一度見たら忘れないような顔つきで、やくざの大ボスも人相だけで務まると思うくらいの凄味があった。後で、スラーヴァさんから知ったのだが、彼はトレ・ホレ湖畔にできたバンガロー・ヴィレッジのオーナーだった。確かにこれくらいの顔でないと、治安の悪いここではできない事業だ。彼もスラーヴァさんの改造車には関心を持って、どんな部品を使ったのか聞いていたらしい。
交通警察に止められる
検問所の前に並んだ列

 『ボス顔』オーナーさんが自分のバンガローに今晩は泊まるといいと勧めてくれたそうだ。自然の中に野営すると危険な地域だという悪評が流れている。野営テントを襲うという強盗団も、彼とグルになっているのではないかと、思ってしまった。安全にトレ・ホレに滞在するには彼のバンガローに泊まらなくてはならない。私たちは、もちろん彼の提案をありがたく受ける。スラーヴァさんは、バンガロー横に止まっている自分の改造車の写真を広告用に使ってもいいですよ、と冗談を言っている。
 ランクルに乗ったオーナーさんは、自分の後ろについてくるように言う。もしかして宿泊代を少し割り引いてくれるかもしれないと期待してついて行く。エルジン村のはずれには立派なチベット仏教の寺院が見えた(帰りに寄った)。
 トレ・ホリへ行くには、エルジン村を過ぎると、仏教寺院の手前で連邦道を出て、半砂漠に生えるような低い灌木がところどころ見える砂地の道を行く。と言うより、特に道はなく、どこを通ってもいい。10分も行くとテス・ヘム(川)を渡る。半砂漠のどこを通っても、この橋を渡らないと、トレ・ホリへは行けない。そんなところに検問所がある。検問所の前には車の長い列があって、私は、また苦手な順番か、と思ってしまったが、前の車のランクルから降りたオーナーさんが私たちのパスポートと許可証を持って、検問所まで行ってくれた。やがて、
「こっち、こっち」と手を振るので、車の順番抜かし(3,4台だが)をして前に進み、検問所の前で待っているオーナーさんに、
「ここにサインして」と言われて、その通りにする。オーナーさんはもちろんフリーパス、と言うより検問所の主のようにふるまっている。私にパスポートを戻しながら、
「日本から来たのか」と尋ねる。そして、
「コンニチハ」と聞こえなくもない日本語も発音したようなので、
「まあ、お上手。日本語も知っているの?」と、私は精いっぱい感心してあげる。現地へ行けば、現地の人とできるだけ仲良くなりたい。
 さらに10分程行くとまた形の良い残丘に出会う。『カラ(黒い)・ハヤ(岩)』と言って、自然の匠が作った造形物なので聖なる場所、チャラマも張ってある。この残丘のあった場所には、何千年も前には高い山があったのだろうか。
 国境の湖トレ・ホリ
 前記のように、1993年には、ウブス・ヌールを含むトゥヴァ南部と西部の9か所がロシアの自然保護区(クラスター)に指定されたのだが、そのうちウブス・ヌール盆地やその周辺にある7か所と、モンゴルの5か所の自然保護区も含めて、『ウブス・ヌール盆地群(ロシア・モンゴル)』(12のクラスター、つまり保護区から成るグループ)として2003年ユネスコの世界自然遺産に登録されている。
保護区であることを示す表示板
トレ・ホリ、向こうに宿泊施設
トレ・ホリを廻る道
持参のガスボンベで料理してくれるスラーヴァさん

 トレ・ホリの東にはその7か所の一つの自然保護区(同遺産のクラスターの1つ)ツゲール・エルスЦугээр-Элсがある。北緯50度と最も北にある砂漠(半砂漠・砂丘)で、49平方キロの登録面積(クラスターの1つ)と、その周囲470平方キロの緩衝地帯があり、トレ・ホリはその緩衝地帯に入っていて、採集禁止地域・自然留保区とされている。国境地帯検問所のあるテス・ヘムの橋を渡った左岸から緩衝地帯に入り、トレ・ホリとその(ロシア領の)全沿岸を含む。

 『カラ・ハヤ(黒い岩)』で私たちは、先導するオーナーのランクルを見失った。しかし、ここからは湖が見えるので道なりに砂丘や灌木の間を近づいて行くと、湖岸に広く塀で囲ったバンガロー・ヴィレッジ『トレ・ホリ』が見えてくる。バンガローやユルタが整然と並んでいる。入口から入ってみると職員用の大きめのバンガロー(というより木造建物)があって、宿泊客の受け付けもしているのかと、スラーヴァさんが入って行く。私は一人で前で待っていたが、トゥヴァ人女性が二人乗った車が奥から出てきて、
「日本人なの?」と聞く。彼女たちはオーナーから日本人が来たから案内してと言われた客室係りらしくて、「ついてきて」と言う。でも、スラーヴァさんはいないし、オーナーと交渉して宿泊料金もまけてもらわなくてはならないし、とためらっているうち、案内人の車は、バンガローの並んでいる方に行ってしまう。面積が広いので、徒歩ではなく、何でも車らしい。先ほどの車が戻ってきて、
「10号棟よ、もう鍵は開いているから。一泊3000ルーブル」と言う。
 バンガロー1軒には4人泊まれるから、4人分で3000ルーブル(約9000円)と、まあまあの料金だが、スラーヴァさんはいつも車で寝るので、宿泊客は私一人。素泊まりで9000円とは高いなあ。その客室係の女性に明日は朝早く出発するからと2500ルーブルにまけてもらった。
 バンガロー内はこぎれいで、マットレスもある清潔なベッドが4台、壁には御当地らしい絵がかかっていて、コンセントもあった。もちろん、電気が使えるのは暗くなってからだ。
 観光客用小屋に泊まるのは気が進まなかったが、安全に夜を過ごすのはここしかない。この施設にいる観光客もあまり多くはなさそうだし、本当に夜だけ過ごすことにして、スラーヴァさんと湖の周りをドライブしようと出かけた。
 トレ・ホリは海抜1148m、平均深さ7m、長さ16キロ、幅4キロほどで、面積42平方キロ。そのうち北東の35平方キロがロシア領で、南西7平方キロがモンゴル領と言う国境のある湖だ。トゥヴァ語で『トレ』と言うのは鐙(あぶみ)のこと。元テス・ヘムの支流の一つだったが移動する砂丘・半砂漠のため淡水湖になったそうだ。
 20世紀前半のトゥヴァの国境はわかりにくい。特に、トゥヴァ(当時はウリャンハイと言った)とモンゴルの国境はモンゴル側とトゥヴァ側の資料ではやや異なる。トゥヴァがロシア帝国の保護領となった1914年のロシア側の地図では、現トゥヴァ南部は、ウブス・ヌール盆地北のトレ・ホレやテス・ヘム、ウブス・ヌール、モングーン・タイガなどはモンゴル領だが、現モンゴル領のフブスゴル(*)はトゥヴァ領となっている。1953年には、ウブス・ヌール盆地北部はトゥヴァ領、フブスゴルはモンゴル領と言う現在の国境線となり、1976年には両国間で正式に決定したそうだ。
(*)フブスゴル(湖) バイカル湖の南西にある。水量はモンゴルで最も多い淡水湖フブスゴル(ロシアでの旧名はカサゴル。モンゴル語ではフブスゲル・ゴール)の西岸は南北100キロ、東西50キロのダルハト盆地Дархадская котловинаがあり、モンゴル化したトゥヴァ人が住んでいる。1912年までは清朝中国領、1914年からはウリャンハイ地方の一部としてロシア帝国領に、1921年からは独立タンヌ・オラ共和国の一部に、1925年に、トゥヴァ人民共和国からモンゴル人民共和国に譲渡された。一方、トゥヴァには、モンゴルからウブス・ヌール北部の盆地が譲渡された(この取り決めはソ連の圧力も大きかったとか)。

 古くは、遊牧民には勢力範囲はあっても国境はなかったし、清朝中国時代は、上記のように、トゥヴァはモンゴルの一部とみなされていた。つまり、清の外蒙古統治下で、ウランバートル(旧名ウルガ)より1115キロ西のウリヤスタイにおかれた総督府の管轄地の一部だった。清による外蒙古統治の総督府はウリヤスタイの他に3か所あり、総督府より小規模な機関が、各地に置かれた。そのうち前記『大湖盆地』南部の、コブド市にも国境警備の特別機関が置かれた。ウリヤスタイが管轄するウリャンハイには、南部にテシンゴリТесингольский(またはオユナル Оюннарский), 東北のトッジャТоджинурский , ヘムゴリХемгольский (またはサルジャクСалджакский)、東部のフブスゴリХубсугольский という 4つの封建領地コジューン(*)がおかれ、現地の4人のノイオンнойон(コジューンの統治者・侯)が治めていて、その境界はあまり明確ではなかった。だから、現代になって決定したトゥヴァとモンゴルの国境も遊牧民は無視していたが、家畜をさらったり、さらわれたり、肉の密輸出入が問題だと、やがて鉄条網が張られたのだ。
(*)コジューン 清朝時代の行政区分。ソ連時代は区районとなったが、今、コジューンと言うロシア語ではない語が復活して、トゥヴァ政府に公式に使われている。コジューンについては『2012年トゥヴァ紀行(4)』参照

 トレ・ホリ(湖)の周りは砂丘と低い灌木(種類は少ない)、枯れたような草が生えているばかりだ。砂地の道はあった。所々に自然遺産であること、保護区の説明、禁止事項などを書いた掲示板が立っている。禁漁、採集の他、湖上をモーターボートで走ることは厳禁、車での通行は道路外禁止。ロシア領の湖岸は4つのゾーンに分かれていて、普通のツーリストが入れるのは北東の4分の1ほど。そこにはバンガロー・ヴィレッジもある。あとは特別許可書がないと立ち入れない鳥類保護区、科学研究特別区、漁獲量高制限のある漁業区だ。
 立ち入りのできる北東の湖岸を廻ってみたが、ツーリストの姿はあまり見掛けなかった。キャンプしている車は見かけたが、彼らは強盗団に襲われないようグループで来ているようだ。あるいは暗くなる前に去るのかもしれない。
 夕方のせいか、波が立っていた。透明な貝殻が砂浜にたくさん打ち上げられていたので拾って持ち帰る。1時間半ほど、湖岸を廻り、まだ、蒼穹(ソウキュウ)の下、9時ごろ、私たちの10号棟バンガローに帰ってきた。スラーヴァさんがガス・ボンベでお湯を沸かしてカップ・ラーメンとお茶の夕食を作ってくれる。9時半ごろ、湖の対岸の低い山に日が沈んで行った。黄昏はさらに1時間も続いた。暗くなると、隣のバンガローに泊まっているロシア人グループが明かりのついた凧を揚げて騒いでいた。
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