クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 19 March, 2015  (追記2015年5月8日、2016年6月25日、2018年11月9日,2019年12月12日、2021年11月5日)
32-(9)    再びトゥヴァ(トゥバ)紀行 2014年 (9)
    国境に沿って西へ
           2014年7月11日から8月13日(のうちの8月2日)

Путешествие по Тыве 2014 года (11.07.2014−13.08.2014)

年月日   目次
1)7/11-7/15 トウヴァ地図、クラスノヤルスク着 アバカン経由 クィズィール市へ 国境警備管理部窓口
2)7/15-7/17 古儀式派のカー・ヘム岸(地図) ペンション『エルジェイ』 古儀式派宅訪問 ボートで遡る 裏の岩山
3)7/18-7/20 クィズィール市の携帯事情 シベリアの死海ドス・ホリ 秘境トッジャ 中佐 アザス湖の水連
4)7/21-7/24 ヤマロ・ネネツ自治管区(地図) 自治管区の議長夫妻と 図書館 バルタンさん アヤス君
5)7/25-7/27 トゥヴァ鉄道建設計画(地図) エールベック谷の古墳発掘 国際ボランティア団 考古学キャンプ場 北オセチア共和国(地図)からの詩人 ペルミから来た青年
6)7/28-7/30 ウユーク山脈越え鉄道敷設ルート オフロード・レーサー達と カティルィグ遺跡 事故調査官 鉄道建設基地
7)7/31 南部地図、タンヌ・オラ山脈越 古都サマガルタイ 『1000キロ』の道標 バイ・ダッグ村 エルジン川 国境の湖トレ・ホリ
8)8/1 エルジン寺院 半砂漠の国境 タンヌ・オラ南麓の農道に入る オー・シナ村 モンゴル最大の湖ウブス
9)8/2 ウブス湖北岸 国境の迂回路 国境の村ハンダガイトィ ロシアとモンゴルの国境 国境警備隊ジープ 考古学の首都サグルィ 2つの山脈越え
10)8/3 南西部地図、ムグール・アクスィ村へ チンチ宅 カルグィ川遺跡群 アク湖青少年の家 『カルグィ4』古墳群
11)8/4 民家の石像 高山の家畜ヤク、ユルタ訪問 カルグィ川を遡る ヒンディクティク湖
12)8/5 湖畔の朝 モングーン・タイガ山麓 険路 最果てのクィズィール・ハヤ村 ハイチン・ザム道
13)8/6-8/7 解体ユルタを運ぶ ユルタを建てる 湧水 村のネット事情 アク・バシュティグ山 ディアーナ宅へ
14)8/8-8/11 西部地図、ベル鉱泉 新旧の寺院 バイ・タル村 チャンギス・テイ岩画 黒碧玉の岩画 テエリ村のナーディム 2体の石像草原
Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、トゥヴァ語からロシア語へ転記された地名をロシア語の発音に近い形で表記した。ハカシア共和国は住民はハカス人(男性単数)、言語はハカス語、地名はハカス盆地など。
 ウヴス・ヌール北岸 (地図は前々ページ)
 8月2日(土) 6時には起きて出発の準備をする。もうすっかり明るくなっているから、誰にも見られないうちに道に出た方がいい。昨日はどこを通ってここまで来たのかよくわからない。タイヤのかすかな跡が見える地面だったが。
 山が見えるほうへ進めばウヴス・ヌールから離れて主要道にぶつかれるだろう。湖面との標高差が出てくると、遠くに細く横たわる水面が見える。このウヴス・ヌール北岸の主要道に出るまでの半砂漠(湖からやや離れるともう半沼地ではない)の、わずかなトゥヴァ領内(ウヴス・ヌール湖は0.3%がロシア領で、北岸の10キロ%のみがロシア領)にも立派な古墳がいくつもあった。前スキタイ時代のような石積みの古墳だった。3千年ほど前は、豊かな牧草地だったのだろうか。トゥヴァのあらゆるところに、あらゆる時代の古墳がまき散らされている。
ウヴス・ヌール湖北岸の古墳、遠くに湖面が見える
北岸の峠から見下ろしたウヴス・ヌール
遊牧の国の道の駅 シュルク・ホヴ・バジ
木立のある川筋にできたチャー・スール村
ドゥス・ダッグ村の中心
川の水を飲みに来た馬達、後ろに牧童

 主要道(と言っても東西に走るアスファルト非舗装道)に出るとすぐ『ここは国境から5キロ内なので進入は許可証が必要』の標識とチャー・スール村のランドマークがあった。(私たちがテント泊をしたところは、では、もっと国境に近かったのか,つまり1キロ以内とか)。道は低地を抜け、ウヴス・ヌール北岸の山地を上っているようだった。ここにも石積みの古墳が多い。
 やがて、ウヴス・ヌール北岸に陣取る山にさしかかり、峠らしいところに出ると、オヴァーがあり、チャラマも張ってある。眼下にはウヴス・ヌールの湖面と低地が見晴らせる。低地には枯れ川が何本も流れている(いた)ようで、草原色ではなく沼地色をしていた。
 下ると、カドゥィとかいう名の枯れ川谷があって、谷間だから草が生え、ウローチッシャ・カドゥィ・バジと言う地名になっているらしい。ウローチッシャだから遊牧基地かもしれないが、遊牧の国らしい『道の駅』で、道端にあずまやとトイレ、『シュルク・ホヴ・バジШолук-Хову-Бажы』と大きく書いたランドマークと、もちろん、馬の手綱を繋ぐ杭、オヴァーとチャラマもあった。ここは切れ切れ道の始点から28キロ(どこが始点になっているのか不明、28という標識があった)、終点のハンダガイトィまで100キロの地点らしい。『シュルク(小さな)・ホヴ(草原の)・バジ(始め)』と言う名がふさわしい穏やかな小さな谷間だった。
 もともと地上には道はなくて、人や動物がよく歩くところが自然に道になり、やがて、道筋にパーキング・エリアやサーヴィス・エリア、つまり旅の休憩所ができるものだ。サマガルタイを出発して以来、集落もまばらで通行量も少ない道の、初めてのあずまやだった。車は、あの顔に血痕のある酔っぱらいの車を含めて、2,3台以上は見かけなかった。
  シュルク・ホヴ・バジを過ぎると、谷間はだんだん広くなって、前方に集落が見えだした。チャー・スール村だ(600人、旧アルィグ・バジ。70年代はフルガン・シベルと言った)。見晴らしの良い草原に家々が固まって見える。遠くからでも木立乗れるが見えると言うことは川筋があると言うことだ。久しぶりの集落だった。店があるに違いない。甘いおやつでも買いたい。小さな村では主要道が一本突き抜けていて、そこの中ほどに村役場や店が並んでいるものだ。 
 店は見つかった、が閉まっていた。小さな村の店はいつも閉まっている。店に用事のあるのは村人に決まっているから、時間通り開店している必要はない。店の看板の横に木戸があったので覗いてみると、犬にほえられた。そのほえ声を聞いて出て来る女の子がいる。
「店はお休みなの?」と私。「何がいるの?」と店の人。「甘いもの、お菓子でも」と私。「菓子類はないわ」と店の人。それでも、「何かおいしそうなもの」と言うと、その女の子はいったん中に入って行って、店のドアを開けてくれた。
 確かに、店内は品薄だった。それを言うと、明後日、(問屋から)配達があるから、その時ならチョコレート菓子もあると言う。小さな村の店に品物を常時並べておく必要もないのだろう。パック詰めの飲みきりジュースを買った。法外な値段だったので、2パックのみ。スラーヴァさんによると、遠くの工場でつくり(もしかして、モスクワ近くの)、いったんはクィズィールのような都市に下ろされ、それからここまで持ってくるのだから、そんな値段になるという。村人が都市でしか見かけないようなこんなパック・ジュースを飲むとは思えない。ずっと棚に並べてあったものだろうが、長期保存のきくものなので、甘い物の欲しかった私には他の選択はない。
 村を出てしばらく行くと『チャー・スール・スムズ』と書いたランドマークがあった(スムスはたぶん村の意)。私たちは西から進んだが、普通はハンダガイトィのある東から来るので、そちらの方に村の入り口のランドマークがあるのだろう

 すぐに木立の列が見え、次の村が見えた。ドゥス・ダッグ(旧トルガルィグ)と言う。タンヌ・オラ山脈南麓では、たぶん最も古い集落と思う。
 東から西にほぼまっすぐ流れるテス・ヘム下流の北岸に、ほぼまっすぐに敷かれたモンゴルとトゥヴァとの国境線は、ウヴス・ヌール北岸をかすめると大きく蛇行する。ドゥス・ダッグと言う岩塩の産地(標高1809mのドゥス・ダッグ山の南西斜面)をトゥヴァ領に入れるためだったり、(肥沃な牧草地の)テエリ川谷をモンゴル領に入れるためだったりするためだ(と思う)。ドゥス・ダッグ岩塩は13,14世紀から中国商人が採掘していたそうだ。1946年、中国人岩塩業者の死体が見つかった。塩の雪崩に埋まり、塩漬けになっていたため死体がよく保存されていたとか。19,20世紀初めはロシア人商人が採掘するようになった。現在はこの長さ900mで、深さ320m、埋蔵量122百万トン、年間露天掘りで25トン採掘するという『ドゥス塩・ダッグ山』をカー・ヘム炭鉱社が所有している。
 ドゥス・ダッグ (トルガルィグ)村は荒涼とした塩山から14キロほど北にある。オビュール・コジューンには村が6個あるが行政中心地ハンダガイトィについでドゥス・ダッグは人口が多い。村にはチベット仏教のマニ車もあった。
 村の西側に、タンヌ・オラ山脈奥深くからのトルガルィグ川が幾筋もの側流に分かれて流れている。この延長66キロで北から南へながれ、ウヴス・ヌールに注ぎこむトルガルィグ川の谷で、タンヌ・オラ山脈は西と東に分かれている。だから、これから先は西タンヌ・オラ山脈を右に見て進むことになる。トルガルィク川を渡るとき、西と東の切れ目の谷間から山脈の向こう側の盆地が見えないかと目を凝らしてみた。もちろん見えるはずがない。
 村から15分ほど離れたトルガルィグ側流の一つの川岸に降りてランチにした。川上を見ても、もちろん山しか見えなかったが。
 何十匹もの馬を連れた牧童達の一団も、川の水を飲みに降りて来た。飲み終わった馬たちは石ころと流木の崖を上ってまた道に出る。利口そうな犬が最後尾で馬達を追い上げる。
 まだ12時前だった。道沿いにも古墳らしい石塚が点々と見えた。ヘレクスルかもしれない。その後ドゥス・ダッグと書いたランドマークがあった。つまり、ドゥス・ダック村への来訪者は私たちとは反対に西から来るのだろう。オビュール・コジューンの行政中心地のあるハンダガイトィは西だし、私たちの通ってきた東は、荒野のような半砂漠と半沼地しかなかった。
 国境迂回路
 チョザ川(27キロで、トルガルィグ川に合流)を過ぎると国境の鉄条網が見えだした。道路上ではこの辺が最も国境に近づいている。鉄条網はロシア側とモンゴル側の二重に張ってあり、その間の中立地帯は、地形によって広くなったり狭くなったりするようだ。鉄条網がただの鉄条網でないことは時々立っている高い杭でわかる。目立つような白と青の縞々で番号のある太い杭の横に、緑と赤やはり太くて高い杭が立っている。
国境線の鉄条網
迂回路マーク

 やがて、迂回路マークが現れた。この道を直進すると39キロでハンダガイトィ村に行きつけるのだが、直進には通行止めマークがあって、どうしても迂回しなければならないようだ。と言うのも、直進道はモンゴル領を突き抜ける。国境のロシア側をぐるりと、23キロも迂回せざるを得ない。直進道には遮断機が付いていた。が、全く人の気がない。近道してモンゴル領を通ったとしても誰にも気がつかれないのではないか。そんな旅行者の話を時々ブログで読む。気がつかないうちにモンゴル領を走っていて警備隊につかまったという話もある。不法越境のチャンスは多分ここしかないだろうが、不法なことはあきらめて、遠回りの山越えをすることにした。
 迂回路はチョザ川岸をさかのぼってできている。たぶん国境管理が厳しくなってからできた新道だろう。しかし、山麓があって、川があれば遊牧基地に適しているので、途中の道から見下ろせる谷間にはユルタがところどころ張ってあった。道は登る一方だった。周りの霧のかかった山々と同じくらいの高度になった頃、峠のオヴァーとチャラマ、仏塔とあずまやがしつらえてあった(この時の高度はスラーヴァさんの車によると標高2320m、気温2度)。このあとはウラタイ川(62キロ、タンヌ・オラ山脈からウヴス・ヌールに注ぐ)に沿って降りてゆく。眼下の谷にはユルタがところどころ張ってある。迂回路の46キロは(直進なら23キロ)ウラタイ川左岸を下って、右岸へ渡るところで、直進道と合体する。ここにも、無人の遮断機があったかどうか、気がつかなかった。次いで、16キロもハンダガイト川(62キロ、ウヴス・ヌールに注ぐ)谷を西進すると、何しろ見晴らしのいい草原だから、遠くの村が見えだした。何やら高い塔も見える。ここがオビュール・コジューンの行政中心地ハンダガイトィ、国境の村だ。
 国境の村ハンダガイトィ
 まずは、店で菓子類を買おう。1週間分のデザートを買っておけば、この先店を探さなくてもいいし、運転のスラーヴァさんにもおすそ分けできる。順番のできていない店に入る(と言うことは割高かもしれないが)。こぎれいな店で、若い女性の店員さんがいた。感じのいい店員さんだったので、ハンダガイトィに何か考古学的記念物はないかと尋ねてみた。一生懸命考えてくれたが、知らないそうだ。村の文化宮殿の場所なら教えてくれた。彼女はチャヤーナ・オンダールさんと言って、アルタイ地方(ロシア連邦)のバルナウールの大学で勉強している。この店は兄が経営していて、夏休みに手伝っているそうだ。
 村役場や現金自動引出し機など(公的機関)と同居している文化宮殿は閉まっていた。近くで工事していた男性がスラーヴァさんの車に惹かれて寄ってきたので、近くに古墳などはないかと聞いてみる。この辺の発掘調査は、遅くても1980年代だったので、誰も知らない。しかし、考古学資料には多くの古墳のリストや古い写真が載っている。男性は私たちがムグール・アクスィ方面へ行くと知って、途中にカフェがあると言う。(確かにあった、タンヌ・オラ山脈南麓の延長約300キロの道では唯一だろう・後述)
チャヤーナ・オンダールさん
ハンダガイトィの国境検問所

 役場や仏塔のある通りは村の中心だから、何軒かの店がある。携帯電話のプリペイド・カードを売る店もある(少なくとも看板では)。なんでもその種のものは売っていて、路線バスのチケットも売っているらしい。オビュール・コジューンの行政中心地のハンダガイトィは地方道163号線の終点で国境の町、モンゴルへの税関もあるので、行き先はクィズィール、テエリ、チャダン、アバカン、クラスノヤルスクの他、ウラーンゴル(オラーン・ゴム、『赤い谷』の意)となっている(少なくとも看板では)。つまりモンゴルのウラーンゴルまで、ここから、路線バスで行けると言うことか。トゥヴァに最も近いモンゴルの都市(村ではなく)はウヴス・ヌール南西岸のウラーンゴムだ。ウラーンゴムはオブス県の行政中心地で、モンゴルでは人口第5位の2万6千人、トゥヴァ共和国の総領事館がある、ロシア国境までハイウェー(と書いてあった)で120キロ。
  私たちは、もちろん村から5キロのハンダガイトィ検問所へも行ってみた。ツァガン・トルゴイより通行量が多そうで、この時、昼休みでもなく、稼働中だったので、あまり近づいて目立って写真を撮るのは止めた。
 ハンダガイトィでは久しぶりに携帯が通じる。スラーヴァさんはチンチに電話して、今日中に、ムグール・アクスィまで行けるかどうかわからないと言う(この時は午後3時半で、まだ180キロもあったから)。ハンダガイトィからチンチの住むムグール・アクスィまで、集落があるかどうか聞いている。サグルィ村があるだけだと言う。考古学の本ではよく出てくる地名だ。
  ハンダガイトィには道が3本通っている。私たちが来た西からの道(これは裏口のようだ)と、南へあと5キロで検問所に行きつける道と、チャダンへ延びる地方道163号線だ。私たちはひとまず、この163号線に乗る。すぐ、サルチュール(900人、旧称アルィグ・バジ)と言う村に出る。そして小さな峠を越え、のんびり自動車道を歩いている牛の群れを抜けて、10キロも行くと、『直進クィズィール305キロ、チャダン75キロ、左折サグルィ65キロ、ムグール・アクスィ156キロ、クィズィール・ハヤ200キロ』と書いた標識のある分かれ道が見えてくる。舗装されている直進道で北へ向かえば、タンヌ・オラ山脈を越えてトゥヴァの主要地帯へ行く。私たちは舗装のない左の道をとる。国境地帯に沿って西へ行き、ムグール・アクスィ村へと通ずる道だ。
 ロシアとモンゴルの国境
 ロシアとモンゴルの国境線は3482キロもあり、ロシア側ではザバイカル地方、ブリャート共和国、トゥヴァ共和国、アルタイ共和国が接している。常時稼働(休日や昼休みあり)の国境検問所(イミグレーション・ゲート、税関)は、2本の鉄道も含めて12か所(10か所?)で、そのうち3か所がトゥヴァにある。その一つは、連邦道M54号線の終点ツァガン・トルゴイ(モンゴル側ではアルツ・スーリ)で、私たちは、前日エルジンから足を伸ばして訪れ、多めに写真を撮ってきた。ツァガン・トルゴイはクィズィールから269キロと、最も近く、現在、最終点までの道路舗装工事中だ。ここが、トゥヴァからモンゴルへの出入り口として最もメジャーだった。しかし、政府は、ハンダガイトィの方をより重視しようとしているらしい。
 ハンダガイトィ=ボルショーХандагайты-Боршоо国境ゲートは、クィズィールからチャダンまで220キロ行き、チャダンからハンダガイトィまでは最近整備された地方道163号線で90キロ行く。あわせて310キロと、より遠いが、検問所のモンゴル側のボルショーからウラーンゴムへの整備された道路がある。チャダンは地下資源採掘で注目されている。ツァガン・トルゴイ国境検問所はエルジン村から53キロ離れているが、ハンダガイトィ検問所は村から5キロである。何よりもハンダガイトィはモンゴルのウラーンゴムに通じている。ツァガン・トルゴイを出てもその先はモンゴルの都市までは遠い。
 ちなみに12か所のうち第3国人を検問するのは3か所のみ。個人の自動車で通過できるのはアルタイ共和国の連邦道52号線の終点タシャンタからモンゴルのツァガン・ヌル"Ташанта=Цаган-Нур"と、ブリャートのキャフタからモンゴルのアルタンブラグ"Кяхта=Алтанбулаг"。鉄道ではブリャートのナウーシキНаушки駅からモンゴルのスヘ・バートルСухэ-баьлр駅で、それ以外は現在のところは、当事国国民(ロシア人かモンゴル人)しか通過できない。つまり、私はトゥヴァからモンゴルへは抜けられない。
Пересечение границы Монголии на автомобиле (モンゴルへの旅行会社legendtour)のサイト
 国境警備隊のジープ
 こうして、私たちは、タンヌ・オラ山脈南西麓の、モンゴル北西の大湖盆地帯北岸を、現代は人のほとんど住まない、しかし古代遺跡の多く残る道に踏み出したわけだ。すぐサプという峠があり、越えると北に山麓の広い草原に出た。山麓に木立の細い列が見えるから川が流れているのだろう。だから豊かな草原も広がっている。こんなところには遊牧基地がある。生活しているのは現代人だけではない。道路のすぐわきには、古墳の石柱が見える。石積みの古墳も鎖状に続いている。。。豊かな山裾だった。。。立て石で、タムガの描かれたモニュメントは中世のものかもしれない。道路の南側も低い山々が連なっている。その向こうはモンゴルだろう。遺跡は、道路を走っているだけで十分見られるとは、今年エールベック発掘の考古学者たちも言っていた。草原の谷のユルタと古墳、羊の群れ、ひなびた道路。。。
 ハンダガイトィから34キロ、地方道163号線からの分かれ道から21キロのところに、ボラ・シャイと言う集落があるはずだ。古い地図ではアルゥグ・バジ村となっている。この北西にバヤン・チュレーク(バイン・チュレーク、マイン・チェレーク、モンゴル語らしい。現地ではマンチュレークと言う)と言う聖山がある。ある旅行記ではボラ・シャイは店もあるような村だとなっているが、現在では、メスティーチコ(場という訳になり、定住の集落とはいえない)となっている。道路を走っていては、マンチュレーク聖山もボラ・シャイも気がつかなかった。ただ、モールドィ・ヘムと言う川を渡ったことだけが私の写真に残っている。これはボルシーン・ゴル(モンゴル語、ここからトゥヴァのボラ・シャイ村の名ができた)と言うこの辺の山川を集めてウヴス・ヌールに流れ込む114キロの川の右岸支流だ。20キロのモールドィ・ヘムはマンチュレーク聖山をぐるりと囲むように流れている。資料によると、この辺でも、革命後の国内線の時代にトゥヴァ旧勢力と赤軍の戦いがあったらしい。モールドィ・ヘム合流点で反革命勢力は撃破され、双方の死者多数、その後オベリスクが立てられたと言う。旧勢力はモンゴルからやってきた。ボラ・シャイは当時国境警備隊が駐屯していたのだ。
国境警備隊のジープ。
私たちを調べた後、ジープに戻る隊員

 ボラ・シャイの近くには古墳が散らばっている。枯れ川があり、半乾燥草原が続く。低い石積みがあちこちに見えるので、ヘレクスルではないかと、車から降りて写真を撮った。マオウの実もなっている。
 やがて、また峠に向かって登り道があり、『国境5キロ地帯、許可証が必要』の看板が見える。2000m弱のコルチャン峠に出ると、道の両側にオヴァーが立ち、チャラマが結んであり、仏塔まであった。この峠からの眺めは抜群だった。北は雪をかぶったタンヌ・オラ山脈、南はボラ・シャイ川とその右岸支流ハルムヌト・オイ川のつくるここだけ広い谷間が見晴らせる。(スラーヴァさんの車の高度計では1960m、気温は7度)。

 峠を越して、しばらく行ったところで、私たちを追い越した車があった。それはナンバーが黒いジープで(つまり軍用だと、後から教えてもらった)、追い越すと前にピタリと止まる。私たちもやむなく止まったが、これこそ国境警備隊の車だった。軍服を着た2人が降りてくる。一人が近づいてきて、丁寧な口調でパスポートを見せてくださいとスラーヴァさんに言う。若い方は少し離れて銃を構えている。パスポートと許可証を私は喜んでカバンから出して、スラーヴァさんの次に差しだした。ほらね、ちゃんと正式の書類があるよ。よくぞ見せてくれと言ってくれた。
「どこから入国したのですか」と尋ねる。ドキドキしていた私はすぐに「クラスノヤルスクからです」と答える。「あ、あなたはロシア語が分かるのですね」と意外そうに言われたので、私はもっと嬉しくなる。(こんな自分はスパイにはなれない)。
 年長の方のロシア人警備隊員は、軽く後ろの席を見回して、あっさりパスポートと許可証を返してくれた。「道中ご無事で」なんて挨拶まで残して、乗ってきた軍用ジープに戻り、さっさと去って行った。私はその後ろ姿を撮っただけだ。まさか正面からも撮れない。自動小銃を構えている若い方の兵士を撮りたかったが、まさか、ポーズもしてくれない。ちなみにスラーヴァさんの旅行記にも同じ場面が書かれている。彼の旅行記に搭載の写真はすべて私から受け取ったものだ。この場面では、もう車に戻りかけている兵士の後ろ姿しか撮られていないので、『銃を突きつけられた(善良な日本人のおばちゃんの)タカコさんは動転してしまって、やっと後ろ姿を撮っただけだった』と書かれている。
 (後記:その後スラーヴァさんに「動転なんてしてない。遠慮して後姿を撮っただけよ」ときつく訂正しておいた。そのせいか、2015年に同じような機会が訪れた時は、スラーヴァさんはわざわざ警備隊員に写真を撮らせてほしいと頼んでくれた)
 彼らは、軍用ジープで、国境の5キロ内を常にパトロールしているのだろうか。いや、通行量が少なすぎて燃料の無駄遣いだ。すると、どこかで見張っていたのだろうか。そしてクラスノヤルスクのナンバーの車がいたので追ってきたのだろうか。モンゴルからトゥヴァへの第3国人用の国境検問所(つまり日本人でも通れるイミグレーション・ゲート)はないから、私にどこから入国したのか聞いたのだろう。クラスノヤルスクからは入国できないが,クラスノヤルスク経由でここに現われたと言うことは,ロシア側の国境から入国したと言うことだ。
 ヴァレーリー・ディルティ=オーロヴィッチ・オンダールさんに取ってもらった許可証を見せることのできたのはテス川を渡ったトレ・ホリへの入り口(旅行者が多い)と、この時だけだった。
 考古学の首都サグルィ
1950-70年代に行われた調査。サグルィ村から西へ7キロにあったスキタイ時代の遺跡『太陽の寺院』
グラーチ著作{南トゥヴァのクルガン』から
 峠を越えるとサグルィ谷に出る。考古学者グラーチ А.Д.Грачが『標高1600mでほんの40平方キロばかりのサグルィ谷に2万基もの古墳がちりばめられている』と言うサグルィ川沿いも通る。アルタイ共和国南東からモンゴル西北へと続いているツァガン・シベトゥ山脈北麓から流れでて、タンヌ・オラ山脈南麓を西から東へ流れ、ウヴス・ヌールに注ぐ121キロのサグルィ川は考古学の本では必ず出てくる。石器時代の住居跡から、スキタイ時代、中世、近世と遺跡が集中しているので考古学の首都とも呼ばれているくらいだ。しかし、野外博物館もなく、立て看板一つない。何万とある古墳など、トゥヴァでは珍しくもない。それでも私は道路から見える限り写真を撮った。10万分の1の地図にも『古墳』『古墳』と道路の近く遠くに記述がある。1970年代には『太陽の寺院』と考古学者たちが名付けた巨大な遺跡(3700平方m)も発掘された。古墳ではなく儀式を行うためのものだとされている。(当時の発掘の様子は白黒写真でトゥヴァのアルバムに載っている)В.А.Грач "Средневековые впускные погребения из кургана-храма Улуг-Хорум в южной Туве "
左がサグルィ村、右が警備隊駐屯地

 道路からやや入ったところにサグルィ(旧クィズィール・テイ)村が見えてくる。サグルィ遺跡のことが分かるかもしれない(可能性低い)と、村に入ってみた。集落からやや距離を置いて、高い見張り塔のある国境警備隊の駐屯地がある。ヘリの発着場もあるようだ。村は人口700人ほどで、村人に遺跡のことを聞いてはみたが誰も知らなかった。時刻は夕方6時も過ぎていたので、もしあったにしても村の文化センターなどは閉まっている。
 携帯がここでは通じて、スラーヴァさんは一応チンチに、今日中にはムグール・アクスィに着けないと知らせていた。
 この村に知り合いでもいて逗留できたらいいが。だが、まだ100キロも先のムグール・アクスィへ向け、サグルィ川沿いの道を遡って行く。土に埋まったような石積みの古墳が道の山側に多く見かけた。道の山側は裾野までなだらかな草原が広がっている。サグルィ川は山裾と平行に流れているのだ。裾野には一定の距離を置いてユルタが見える。山裾をたどる遊牧道も、この自動車道と平行についているらしい。そして、自動車道から山裾のユルタに進む遊牧道もある。『右折3キロ、アダルガン鉱泉』と書いた新しい立て札も見える。3キロかなたの山裾にはテントや車が小さく見える。
 草原の向こうに見えていた山々がだんだん近づいてきた。道は正面に見える何だか高そうな山に向かって続いている。周りの山にも霧がかかって見える。細い川や、枯れ川を渡る。遠くにまだユルタも見える。雨が降って来て、何も見えなくなった。
 2つの山脈越え (タンヌ・オラ山脈とツァガン・シベトゥ山脈)地図参照
 ウヴス・ヌールに注ぐサグルィ川の支流もなくなると、西タンヌ・オラ山脈の西の端アルザイトィ山(3094m)に近づく。ここにアルザイトィ峠(2222m)があるが、『制限速度90キロ』なんて言う標識を見てスラーヴァさんが憤慨していた。このでこぼこの山道、20キロで登るのもやっとなのに、ユーモアがありすぎる、と言う訳だ。『72キロ』の標識があり、裏側は『84キロ』になっていた。つまり、地方道163号線から分かれて72キロ走ってきたが、ムグール・アクスィまでは84キロあるわけだ。
車から降りてテントの張れそうな草地を
探しているスラーヴァさん(右下)

 アルザイトィ山の南麓を流れるアルザイトィ川(16キロ)に沿って道は走っている。アルザイトィ川は、実は久しぶりのエニセイ川水系に入る。先ほど渡って来たのはサグルィ川の上流支流で、ウヴス・ヌールに流れて終わる(ウヴス・ヌール水系)が、アルザイトィ川は、バルルィク川の106キロ上流に流れ込む右岸支流だ。バルルィク川(134キロ)はヘムチック川(320キロ)に流れ、ヘムチックはエニセイに流れ、エニセイは北極海に流れ世界の大洋の水となる。アルザイトィ峠はサグルィ水系とバルルィク水系、つまり、流出口なしの内陸湖の水系と世界大洋水系との境目峠だったわけだ。
 ちなみに、エニセイ水系の中ではこのバルルィク川だけが、谷間を縫ってタンヌ・オラ山脈の南まで流れるばかりか、さらにその南西のツァガン・シベトゥ山脈をも谷間を縫って流れ越し、ついにモンゴルの国境も少し超える。(だから、ツァガン・シベトゥ山脈を越えてムグール・アクスィ村へ行く道はバルルィク水系を頼ってできている)。バルルィクはツァガン・シベトゥ山脈から流れるので山脈を越え切るわけではない。前記のように、タンヌ・オラ山脈とツァガン・シベトゥ山脈はエニセイ水系とモンゴルの内陸湖水系との分水嶺である。
 アルザイトィ川沿いの道では川を見下ろしながら走る。標高2000mくらいはあるはずだが、時々ユルタを見かける。この高さでは家畜は羊も見かけるが、長い毛のヤクが多くなる。スラーヴァさんによるとチンチの村でもヤクが多いとのこと。
 アルザイトィ川を右岸へ行ったり左岸へ行ったり、何度も渡る。1970年代の詳細地図には、この道はない。車輪が通れない小路がサグルィから続いているだけだ。そういう遊牧道なら、地図上には長めの川があれば、それに沿ってたいてい1本ずつ載っている。山川を遡っていってそこで切れている小路も多いが、峠を越えて、また別の山川の上流に繋がる小路もある。現在自動車道となっているのは、その中でも、アルザイトィ川とバルルィク川に沿った道だけだ。それもそのはず、湖の道では越える峠の数も少なく、峠の高さも比較的低い。
 アルザイトィがバルルィクと合流する辺りには、モングーン・タイガ・コジューンのランドマークが立っている。アルザイトィ川の終わるところで西タンヌ・オラ山脈が切れ、この先のバルルィク川沿いはツァガン・シベトゥ山脈に入ることになる。周りを見れば高い山に囲まれてはいるが、広い河原があり、ここには食堂さえ1軒あった。(これには、どの旅行者も驚いている、ネットのサイトで)。
 時刻はもう8時半で、山奥深くでは薄暗くさえなっていた。すっかり暗くなる前に、夜を明かすところを探さなければならない。食堂に近くてはだめだ。人目がある。バルルィク河原には、こんなところなのにツーリスト・グループがいる。みんなから離れた、道路から見えないところで、地面が乾いていないとテントが張れない。
 私たちは車の窓からきょろきょろしながら、先に進んだ。バルルィク川は谷川となり、もう降りられない。道路の片側は山の斜面で、別の側は谷川だ。たまに小さな草原があっても沼地だったりする。道路脇の窪地には雪がとけきれずに残っている。9時半も過ぎた頃、道から入って山に囲まれた小さな草はらを見つけ、そこで野宿することにして、スラーヴァさんが一人用テントを張ってくれた。遊牧道のひとつだろう、家畜の糞もあった。この先へも続いているだろうが、今日はもう誰も通らないだろう。(スラーヴァさんの車の高度計では2210m、気温は4度)
 古墳の横で寝ているのではないだろうかと思いながら寝袋に入った。もしかして、土に埋まった古墳の上かもしれない。心の中で古代人さんに許しを乞う(実は、古代人の霊でも漂っているような寂しいところだったので)。
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