クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
              Welcome to my homepage

home up date April 01, 2024 (追記:2024年4月16日)
40 - (6) 2023年イルクーツク(バイカル)とクラスノヤルスク (6)
    ハカシアを廻る
        2023年10月13日から11月13日(のうちの10月28日から31日)

Путешествие в иркутске(Баикал)и Красноярске, 2023 года (13.10.2023−13.11.2023)

ロシア連邦地図
 
  バイカルとイルクーツク            
 10/13-
10/14
 2022年頃 ビザ  日程と費用  ウランバートル  イルクーツク着  カラトゥエフさん  アンガラ川入り江   ソ連時代からの劇場 
2 10/15-
10/19
 バイカル湖へ オリホン島 オプショナル・ツアー  メルツ先生   コンサート(1) 森の小川、グルジーニンさん   エレメーエヴィさん  コンサート(2)  
3 10/20-
10/22
 村の学校 バイカルを去る  シェレホフ市  オルガンホール  エルサレムの丘 アルカージー宅  音楽功労者   『軍事』博物館   カトリック教会  アンガルスク市
10/23-
10/26
 ナターシャのお供
音楽高等学校  第19学校  フンボルト学校  外国語大学  七宝焼き   ロジャンスカヤさん.その後     シベリア鉄道
   繁栄するクラスノヤルスク            
 5 10/26-
10/27
 クラスノヤルスク着 リュ−ダさん  繁栄するクラスノヤルスク  軍事高等学校   新興団地 アカデミゴロドク区の学校   避難訓練の掲示板  契約兵募集  ソスノヴォボルスク町
 6  10/28-
 10/31
 ハカシア共和国 プチャーチンさん  アバカン博物館  フルシジョフカ・アパート   ベヤ村 牧場 ベヤ村周辺  ベヤを去る  白イユース川   トゥイム崩落
 7  11/1-
11/4
 中央アジアからの出稼ぎ
 ヴラディスラフ君 タクシー  郷土史博物館  金日成記念碑  エニセイスク市へ  ヴィサコゴルヌィ橋  エニセイスク市博物館  エニセイスク市の記念物  
 8  11/5-
11/13
 リューダさんとの談話 墓参  クドリャーツォヴァさん  ジェレズノゴルスク市方面  パドゴルヌィ町   タマーラさん クラスノヤルスク空港   イルクーツク空港  ウラン・バートル空港 

 ハカシア共和国
 10月28日。朝6時過ぎには車に荷物を詰め7時前には出発した。懐かしい国道М54号線だ。クラスノヤルスクから南へ、エニセイ右岸を通ハカシア共和国首都のアバカン市を通り、トゥヴァ共和国首都のクィジール市を通ってモンゴルとの国境の町ツァガン・トルゴイцаган Толгойまでの1053kmだったが、2008年からは国境の町が(モンゴルから先の道路事情からか)ツァガン・トルゴイからハンダガイトィ Хандагайтыになり、連邦道 R257(別名『エニセイ道』)となった。
 早朝の雪道を、ランクルで南下していった。道の両側は枝に雪を置いた緑の針葉樹、正面には朝日が見える。山道だが道路幅は広くなって、危険はない。針葉樹の山道を2時間も行くと草原に出る。まだハカシアではないが、このようななだらかな丘に囲まれた草原ステップがハカシアまで続く。こうした草原地帯の移り変わりの少ない景色を車窓から眺めるのは、大好きだ。このためにも、不便な旅を押してロシアに来たのだ。今の季節、草原はまだ枯れていない。地平線まで見晴らせる草原に、乾し草のロールが点在している。秋までに草を刈り、運びやすいようにロールにして、その場所にそのまま置いてあるのだ。ロシアだなあ、シベリアだなあ、となつかしさでたまらない。車から降りて写真を撮る。
 クラスノヤルスクとハカシアの国境の国境峠も好きだ。ハカシア『共和国』と言うから、国境と呼ぼう。日本では県境くらいの意味だ。ここでも、私は必ず写真を撮る。
 この峠を過ぎると、ますます草原が広まる。この快適なドライブについては、以前に何度も書いた。アバカン市に入る手前の草原に忽然と現われる数軒の高層アパート群からなるプリゴルスク町についても何度も書いた。ここにはコロニアと呼ばれている施設がある。コロニアには居留地という意味があるが、ここはどこかの国の植民地ではなく、矯正施設、つまり労働によって受刑者を矯正する施設(刑務所)で、その横のアパート群はそこの職員が住んでいるのか。
 アバカン市により近づくと、工場が見える。壁に大きな白文字で『Z』と書かれていた。その横には『Zа Россию  Zа Путина  Zа Наших』とある。この『Z』印は1年前(2022年春、夏)にはネットニュースでよく見かけた。(ちなみに、クラスノヤルスク市内ではあまり見かけなかった)。ロシア語の『з』はラテン文字の『z』に相当する。前置詞заは目的、擁護、賛成を示すから『ロシアのために、プーチンに賛成、我々のために』という意味になるか。
 シベリアなどでは昔はたった1本の道があって、その道は1カ所の入り口から町に入り、1カ所の出口に通じていた。今でも、大都市でないシベリアの市町村には、入り口相当の道、つまり、主要道から市内へ続く道と、出ていく道が、それぞれ1カ所しかない。アバカン市のような都市でも、かつては入り口と出口が1カ所ずつしかなかった。クラスノヤルスクのような大都市でも、町へ入る道がいくつもできたのは、バイパスができ初めたのは20世紀末、21世紀になってからだ。もちろん、工業地帯や農道を通って入る脇道は昔からあったが。
 連邦道を通ってアバカン市に入るときは、昔からの入り口から入る。私たちはまず、リューダさんの両親宅へ行った。出発後5時間経った12時頃だった。そこはアバカン市ではなく南西の郊外チャパエフ村(人口7千人)にある。ソ連時代革命家チャパエフの名をつけたコルホーズのあった村だ。両親宅も田舎の家、平屋一軒屋だった。リューダさん一家の父親のイヴァン・プチャーチンさんは元々、もっと奥(南)のトロイツコエという村に住んでいた(そこのコルホーズの役人だったか)。アバカンにリューダさんの夫のディーマさん経営の自動車部品店を出すことになって、アバカンに移住してきて、この家を買ったのだろう。アバカンといえども町中のマンションは安くないが、田舎屋なら高くなかったのだろう。ちなみに、トロイツク村は廃村になった(コルホーズが閉鎖されたためだろう)。
 プッチャーチニ家(単数プッチャーチン) 
 後部座席にいたマトベイが降りると、祖母が迎えに出てくれた。田舎の家は自分たちで建てるのがソ連時代だったから、床がぶかぶかする。昔、田舎には都会のような便利なものは何もなかったが、今は違う。それなりにリフォームしてあって、トイレは水洗だった(上水道があるのかは知らないが)。台所のテーブルに着くように言われ、マカロニのスープと骨付きチキン、パンと紅茶が供された。いつも、リューダさんと食べるクラスノヤルスクのカフェのメニューとは違ってすごく田舎風だった。強く勧められてすこしいただいた。
 リューダさんの弟のサーシャは、結婚してアバカンにワンルームのアパートを持っている。息子が生まれ、3人で住むのは狭いので、両親の家の近くにやはり田舎の家を買ったらしい。つまり、サーシャは今2軒持っていることになる。町のアパートは息子のエゴールの通学に便利だ。田舎の方は住むのに広々として便利だ。
 プチャーチニ父息子はアバカンの店(ディーマのアバカン支店)を経営している。そしてもちろん、田舎屋には広い菜園がある。そこに山羊を飼っている。黒ヤギさんが数匹に白ヤギさんが1匹だ。黒ヤギさんは人なつこかった。私にすり寄って離れようとしない。鶏さんたちも勝手に歩いていた。田舎の生活もいいものだな。マカロニスープも悪くなかった。
 1時間ほどで退去して、サーシャの田舎家へ行った。ここは菜園もなくちょっと都会風の一軒屋だった。そして、アバカン市内へ戻った。始めてアバカンへ来たのは1990年代半ばの崩壊後の混乱期だった。今は、もちろん大復興を遂げていて、新しい教会も完成している。
  新築のアバカン博物館
  今、アバカンの見どころと言ったら、どこだろう。新装博物館に行くことにした。1929年設立のアバカン博物館へは、昔、アバカンに来る度に行ったものだ。長い間古代史のホールは閉鎖していた。7,8年前に行ったときはオープンしていたが、展示がよくなかった。今、全く新しい場所に、ハカシア人の民族住居ユルタを模した『国立博物館と文化センターХакасский национальный музей имени Л.Р. Кызласова』があって、昔と比べものにならないほど立派だった。博物館の建物の背後に建物より高いレンガの壁がある。ハカシアは古代人の古墳が無数にある考古学の宝庫だ。発掘するとスキタイ時代の黄金の装飾品が見るかることもある。だから、背後のレンガの高い壁(塀)は、この博物館が発掘されて地下にあることを表わしているのか。そして、そこには博物館としてハカシア人の伝統的な移動式住居ユルタ風建築物があるというわけだ。さらに、その多角形のユルタの窓には白く大きな、おなじみの『Z』マークが貼ってあった。
 入り口ドアには契約兵募集のポスター『契約兵として軍務に就くことが君の選択だ、私の仕事だ』とりりしい青年の顔、ロシア軍の星マークと連絡先が印刷してある。ここはクラスノヤルスク地方とは違う自治体なので、契約金額や月収額は書かれていなかった。クラスノヤルスクより安いのではないかと思った。また別のドアには、勇敢に戦って戦死したという『英雄』の写真があった。
 博物館の1階はすべて考古学展示ホールで、実に充実していた。古代のハカシアからロシア帝国への併合までの歴史展示。1日中でもいたかったが、リューダさんと一緒だったので1時間ほどで、2階へ上がった。もちろん第2次世界大戦の勝利の展示(どの博物館でも必須、それぞれの博物館が意匠を凝らして見せ所としている、ロシア政府による国威高揚のシンボルだ)、さらに、ウクライナ戦争の英雄の展示がある。ロシアは田舎ほどモスクワに忠誠心を表わそうとしているのかと思った。ハカシアの自然と民俗展示もある。20世紀初めまでハカシアに住んだロシア人豪商達の美術コレクションの展示、そして、美術館でもあるから絵画の展示コーナーもあった。
  ミヌシンスク博物館、フルシチョフカ・アパート
  2時半ごろ、そこを出たが、次はどこへ行こうか迷う。リューダさんのいくつかの案があって勧めてくれるわけでも、外来者の私に案があるわけでもない。私がハカシア博物館が気に入ったので、なんとなく、ミヌシンスク博物館へ行くことにした。ミヌシンスク市はハカシア共和国ではなく、クラスノヤルスク地方にあるが、エニセイ川の右岸にあって、橋を渡れば1時間ほどで行ける。ミヌシンスク博物館の方が1877年マルチャノフによって創立されたと、歴史はずっと古く、建物も19世紀風。考古学や民俗学の所蔵品も多いはずだ。ここへも数回訪れたこともある。博物館は、どのくらいの頻度で展示替えをするものだろう、またそれと共に内装のリフォームもするだろう。しかし、ミヌシンスク博物館の古代史展示に関しては20年前と全く変わっていなかった。アバカン博物館の充実した古代史展示の後では、つまらない。しかし、19世紀エニセイ県と行ったクラスノヤルスク南部のミヌシンスクの歴史は興味深かった。私の大好きな旧い地図(19世紀末だが)もあった。革命後の国内戦の時、赤軍パルチザンと白軍の進路など地図上に載っていて、私には見つけものだった。レーニン夫妻の流刑地シューシンスエや、建設中のサヤノ・シューシンスカヤ発電所ダムの写真もあった。
 5時半、アバカン市に戻って、数年前にはなかったようなスーパーに寄る。(ソ連時代はスーパーなんてなかった。1990年代や2000年代初めの閉鎖的な食料品店のイメージは一掃され、私たちのスーパーのイメージに合う)。値段はともかく商品はたっぷりあって、スシ・コーナーまであった。海苔巻きや、何々ロールは珍しくなく、今回はじめておにぎりを見た。日本のスーパーにあるような三角おにぎりで、鮭おにぎりが125ルーブル(約200円)だった。
 今夜はリューダさんとマトベイは両親宅に泊まる。私は、アバカン市のワンルームのサーシャ宅に一人で泊まると言うことだった。そのためにサーシャの妻はアパートを掃除しておいてくれたとか。まず、アバカン(郊外)のサーシャの田舎の一軒屋に寄る。サーシャを呼び出してアバカン市のアパートの鍵を受け取るためだ。その木造の家からサーシャと彼の長男のエゴールが、マトベイと出てきた。いとこのエゴールはマトベイより1歳年上、つまり楽しい遊び仲間だ。いとこ二人を乗せてリューダさんの車でアバカン市の中心にあるサーシャのアパートに行く。ワンルームに狭いダイニング・キッチンの、多分『フルシチョフカ』という安上がりで大量生産したフルシチョフ時代のアパートだ。(フルシチョフが、大量に建てた4,5階建て集合住宅のおかげで、それまで共同台所やトイレで部屋住み生活をしていた家族は、順番を着いてではあったが無料で(組合から支給されて)、狭くても自分の独立したアパートが持てたのだ。最近の、新築でエレベーター付き、間取りのゆったりした高層マンションに比べて、今では手頃な値段だろう)。
 なるほど、『フルシチョフカ』アパートでは、台所に電子レンジも洗濯機も置く場所がない。フルシチョフ時代は、この広さでも若夫婦は大満足したかも知れない。室内や、台所、バストイレは綺麗に修理してあり、またサーシャの妻が大掃除しておいてくれたので、私一人暮らしは快適だった。つまり、リューダさんと二人のいとこは私を一人、この狭いが快適で清潔なアパートに残して、両親の家で家族で泊まるために去って行った。去る前に、鍵のかけ方から、ドアフォントの使い方を教え、エゴールは部屋にあった水槽の大きなミドリガメに餌をやっていた。控えめで、人見知りすらしそうなマトベイに比べ、エゴールは積極的でおしゃべり、活動的だった。このミドリガメは自分と同じくらい(11歳)だという。小さなミドリガメを近くの川からパパが拾ってきて、ずっと育てていると、元気いっぱい私に教えてくれた。上手に野生のカメを育てたものだと私は感心した。(実は、後でサーシャにこっそり教えてもらったのだが、ミドリガメは買ったものだ)。
 リューダさんが言うには、ここで一人で住んだ方が田舎屋で寝るより、私に合っているだろうとのこと。何だか、ホテルで泊まるようだなあ。確かにバスとトイレ、台所が独占できて、ポットにお茶を沸かし、クラスノヤルスクを出るときに作ってきたサンドイッチを食べて、寝てしまえば、正統派田舎屋のリューダさんの両親宅よりぐっすり眠れるだろう。それに、田舎屋の方では私に寝てもらうような部屋がなかったのかもしれない。私が、クラスノヤルスク滞在中にハカシアにも行きたいと言った(メールに書いた)ときからこの部屋割りを計画していたのだろう。
 一人でお風呂に入って出してくれていたタオルを使い、カバンから寝間着を取り出して、ゆっくり広いベッドに入った。
 ベヤ村への道、シベリア炭田
 10月30日。ベランダがあるので出てみた。シベリアの家は隙間風が入らないよう窓にはびっちり風よけが貼ってあるし、ベランダに出るドアも開けられないこともある。この家は、分厚い透明ビニールをそっとどかして出られた。4階のベランダから見下ろす広い道路は、アバカン市の入り口のシンボル像からまっすぐ続く中央通りらしい。道路の中央と両側には植え込みもある広い歩道があって、隣の建物も向かいの建物もみんな、フルシチョフカらしい。
 約束通り、9時にリューダさんが現われた。クラスノヤルスクからハカシアへ来た目的はアバカンから100キロも、南のベヤ村に行くことだ。以前、ハカシアに来たときはベヤ村のディーマさんの母親宅に泊まったものだ。そして、ディーマさんの兄のサーシャ・ユリエヴィッチさんがハカシア中の案内をしてくれた。正確には、彼はハカシアを知らない、私が地図と旅行案内書を見て行き先を決め、目的地に着いたときは彼が現地の住民(博物館や、文化会館などの窓口の人)と交渉してくれたものだ。
 ベヤ村のヴァーリャさん宅には、その頃田舎では珍しいシャワー・ボックスと水洗トイレがあった。私は彼女の孫の部屋(留守だった)で寝たものだ。ヴァーリャさんの夫のコーリャは豚も数匹飼っていて、自家製のサーラ(味付け豚の脂身、冷凍してある)がおいしかった。鶏も何匹もいる。乗馬用馬もいる。是非ともそこへもう一度行きたかったのだ。
 リュ−ダさんと私は、後部座席で寝ているマトベイを乗せて、ハカシアの南に通じる国道を走って行った。途中にあるガソリン・スタンドのいくつか(全部ではない)は、町中のスーパー同様、日本から来た旅行者にも違和感がない。コーヒーがおいしいというガソリン・スタンドでリュ−ダさんは車を止めて朝食にする。
 ハカシアの石炭は19世紀から注目され、いくつもの炭田が開発され、今はベヤ炭田を『ロシア石炭社CUEKの一分か』(*)が掘っているらしい。(10年ほど前、ここの炭田採掘前の古墳調査に参加したこともある)。ここは草原しかない。遠くに大型リフトやトラックが見える。
  (*)Сибирская угольная энергетическая компания≫ (СУЭК) シベリアル石炭エネルギー会社(SUEK)はロシア最大の石炭会社であり、世界有数の石炭・電力会社だ。世界の石炭市場への石炭供給国5大企業の1つである。2021年には、フォーブス誌の「ロシアの民間企業200社」にランクインし、4,833億ルーブルの収益で17位にランクインした。

 遠くからも、新しい建物と社名のロゴが見える。広い駐車場の真ん中にはヘリポートもある。駐車場へ入り、車から降りて写真を撮った。巨大なクレーンの横はロシアの国旗『白青赤』の3色が塗ってある。こんなところにもプロパガンダが。
 ハカシア南部にまでアスファルト舗装の国道が何本も走っていて、鉄道もあるのは、資源を運ぶためだ。

 2時間後に、ベヤ村に着く。18世紀末からある旧い村で人口4500人だが、村内の道路は19世紀のように穴だらけだ。産地を結ぶ道路網は整備されているが、産地もない村々の道路は昔のままだ。半凍の水たまりも泥沼のような大きな水たまりもある。どの家の前にも、不燃物ごみか金属ごみ(それは実はごみではなく使用できる何かの部品かもしれない)が並んでいて、田舎らしい。
 ヴァーリャ・ユリエヴィッチさんの家は、ベア村の外れにある。ヴァーリャさんはちょうど子馬に餌をやろうと、ペットボトルにミルクを詰めていた。マトベイと二人で家畜小屋に入ると、ヴァーリャさんはもうかなり大きい子馬にペットボトルから飲ませていた。親馬に捨てられたのか、親馬が死んだのかで、引き取って育てているそうだ。こうやって人間に育てられたのでもう牧場には戻せないかも、といっていた。ヴァーリャさん一家には、後で見せてもらったが、広い牧場があるのだ。リュ−ダさんと、マトベイは、ヴァーリャさんと(嫁と孫だから)堅く抱き合ってから、アバカンに帰って行った。
 ヴァーリャさんには長男のサーシャ・ユリエヴィッチさんに娘のヴァーリャさん(祖母と同名)と次男のディーマ・ユリエヴィッチさんにアリーナ、ヴラディスラフ(ヴラッド)とマトベイの4人の孫がいる。ヴァーリャ(祖母)さんは2度目の夫のコーリャと長男のサーシャ・ユリエヴィッチさんの3人で今は暮らしている。サーシャ・ユリエヴィッチさんは最初の妻マリーナとアバカン市の近くのチェルノゴルスク市で暮らしていた(ディーマさんの支店でサーシャ・プチャーチンさんたちと一緒に部品を売って)。その後、レーナと暮らしていたが、部品店の仕事が不都合だったのか、ベアで彼が必要になったのか、田舎の村へ帰ってきた。それから(田舎がいやだったのかどうか)レーナとは分かれて、今は独身だ。リュ−ダさんが後に話してくれたことによると、夫の兄弟のサーシャは、自分の実弟と父親が手がけている店をやるより、ヴァーリャの夫が経営している牧場の手助けをしなくてはならない。もう年配のコーリャ(ヴァーリャさんの夫)一人ではやっていけないからと言うことだ。
 日本出発の前から見たいと思っていたヴァーリャさんの鶏たちにも会った。庭中を歩き回らないように囲いの中にいて、雄鶏が1匹だけいた。その方が卵を生むのだと言うが、その雄鶏はセックスができないそうだ。20匹位もいて中には緑色の卵を績む鶏もいるそうだ。緑色の卵を私は日本にまで持ってきた。ゆで卵にして。ヴァーリャさんの家には裏庭(ベリー類の果樹園)もあるが、今は何も成ってはいない。
 家に入ってヴァーリャさんとサーシャ・ユリエヴィッチさんで軽食をいただき、トラックに乗って牧場を見に出かけた。サーシャ・ユリエヴィッチさんは今回はすごく無愛想だった。前回や前々回にハカシアを案内したときはよく話し合ってくれて楽しかった。今は、私が横に乗っているのも迷惑そうだった。クラスノヤルスクに来たのはハカシアを回るため、ハカシアではベヤ村に行くためだった。そのことは出発前にディーマさんに言ってあり、ディーマさんが兄のサーシャ・ユリエヴィッチさんに頼んであっただろうと思っていたが、兄弟の仲がいつも、それほど親密とは限らない。昔は、リュ−ダさんが義理の兄のことを良くは言っていなかった。今回も、なぜ私がベヤなどへ行きたがるのか、なぜそんな不便なところで1泊したがるのかと尋ねたものだ。1泊して次の日はサーシャ・ユリエヴィッチさんがアバカンへ送り届けてくれるかも知れないとリュ−ダさんは言っていた。そうでなければ、彼女は私のためにまた100キロも往復しなければならない。後から知ったことだが、無愛想なサーシャは弟嫁の頼みを断った。
 牧場
 ともかく、彼は私と牧場へ行くことは同意してくれた。南のジョイ高地の前まで続くコイバリ草原は、牧畜にしか敵さない乾燥した痩せた土地なのだろう。地下資源の石炭などが埋蔵されているという話は聞かない。そこまで調査がいっていないのか、あるいは採算が取れる状態ではないのか。
 サーシャ・ユリエヴィッチさん運転のトラックで、草原のでこぼこした道をゆっくり30分も走ると、彼らの牧場の管理小屋が見えた。横に繋がれた獰猛そうな犬が馬の死骸を食べているので、私は怯んだ。
 サーシャの後について広い私有の牧場内を歩く。カリーナ(ガマズミ属)の赤い実が残っている木があった。牧場内にはもちろん小川もある。小川は淵にもう氷が張っていた。先にたって歩いていたサーシャが振り返って、この近くでビーバーが巣を作っていると言う。なぜならビーバーに囓られたような枝があちこちに見つかるからだ。本当だ。枝はこんな風には折れない。囓った後の歯形がはっきり残っている。巣を見たいと私は言った。ビーバーが、教科書にあるように北米ではなく、シベリアのコイバリ草原のこんな小川にいるとは!ウィキペディアによれば、アメリカ・ビーバーとユーラシアに住むヨーロッパ・ビーバーがいるそうだ。サーシャは小川に沿ってずんずん歩いて行って、ほらっと、指さしてくれた。おお、木切れを集めた堤防があって、その川上は洪水になっている。ダムでせき止められたダム湖は広く、草原の灌木の間に広がっている。灌木の根元が水没している。ビーバーはその辺に地下道からしか入れない乾いた巣を作って子育てしているのか。サーシャが言うには、これだけ大きなダム湖だから数家族がいるのだろうとのこと。ビーバーは菜食だそうだ
 一度小屋まで戻り、先ほどのトラックに乗って見回りに行くサーシャに同行する。草原というか荒野というか、なだらかに起伏した牧場内には60頭ほどの牛と80頭ほどの馬がいるそうだ。牛は牛で、群れをなし、馬は馬で群れをなしている。それでも、仲間はずれの数頭がやや離れて草を食んでいる。自然に離れていったグループかも知れない。サーシャはトラックから降りて、高見からじっと家畜の群れを見ている。病気の牛がいるか、目視しているのか。トラックでまたしばらく起伏の多い丘陵地を行ったところに、先ほどの小川の上流(下流かも)が流れる低地がある。ここには馬が集まっている。小川の両側にいて、私たちのいる高台にも上ってこようとする馬もいて、サーシャが、下へ追っていた。私たちが乗ってきたサーシャのトラックよりもっとぼろいトラック(らしい)がよたよたと馬の群れに近づいていった。これはコーリャが運転しているのだ。サーシャもコーリャも、いわば牧童で、家畜を集めたり移動したりする。夕方には安全な家畜小屋に追う。車で群れを追って移動させるのだ。コーリャは、スピードはでそうもない(その必要もない)トラックで小川の両岸に広まっている馬を1カ所に集め、林の方に追っている。林の向こうには牛の一団がいる。
 私とサーシャは先回りして先ほどの管理小屋も戻った。牛や馬たちが三々五々、帰ってくる。おいしい餌のあるところだ。そして柵の中に入る。もちろん別々の柵だ。アバカンへの道中で見た乾し草ロールが山積みされている。
 ふと脇を見ると豚が一匹うろついている。サーシャは豚を飼ってはいないそうだ。どこかの牧場から紛れてきた迷子か。細かいことは無視する。
  ベヤ村周辺 
  3時頃、牧場を引き上げて、ヴァーリャさんの家に戻った。孤児の子牛がおいしいものでももらえるのかと善良な馬面を柵越しにのばきた。可愛いものだ。ミルクはヴァーリャさんからもらってね。
 まだ時間が早いので、車で、以前のように廻ってほしいと頼んだ。トラックではない、昔乗っていたトヨタ・イプサムに乗り換えて、どこを廻るかと聞かれた。ここへ来る前に、リュ−ダさんが、ベア村にはクルプスカヤがシューシンスカヤ町に流刑になる前に住んでいた家があるから、行ってみてはどうかと教えてくれた。レーニンとクルプスカヤ夫婦がシューシンスカヤ町で19世紀末過ごしたことは有名だ。そこにはレーニン博物館もあった。私は、かつての革命家の住居跡には興味はなかったが、今はいったいどうなっているのか知るために一応行ってみた。しかし、リュ−ダさんの思い違いらしい、その場所には崩れかけた木造の家があり、1914年頃革命家が住んでいたという掲示板があった。その名を私は知らない。掲示板が朽ちていて、読み取れなかった。クルプスカヤではない。
 4時近かったが、日本からここまで来たのだから、以前に廻ったところを回れないだろうかと頼んでみた。承諾してくれて、最初に寄ったガソリン・スタンドでは、黙って私が支払った。いつもは乗らないイプサムだから燃料はあまり入っていなかったのだろう。ウスチ・ウートィ Усти Уты村へ行きたい、といったが、サーシャは、アスファルト舗装の広い道に車を進める。ウスチ・ウートィ村はベヤ村から近くにあってアスファルト舗装はなかったものだ。しかし、この際ウートィ村にはこだわらないではないか。私はこのあたりをドライブするだけで満足だ。『バンダレンコ直進32』とか『タバット直進16キロ』、『タバット川』、『キンヂレヤ川』とか書いた道標をいくつも通り過ぎた。懐かしい名前だ。
 やがて、昔はよく通ったマトケチクの橋でアバカン川をわたる。するとアンハコハ村ぐらいしか、この時間では行くところがない。ここにはオクネフスカヤ時代(紀元前2000年)の石像『フルトゥヤフ・タス Хуртуях Тас石のばあさんの意』が保存された博物館がある。私は5回上は見ているが、一応ひとけのない地所内へ入ってみた。
 管理ユルタで何か情報が得られるかと、入ってみた。ハカシア人の女性が一人番をしていた。石像のあるユルタは修理中で見られないが、他のユルタのハカシア人の民族道具などが見られます、暗くなるから早めに行ってみたらいいですと言われて、一応見ようと入場料を払う。年金生活者価格で二人分払っておく。確かにたいして見るものがなかった。管理小屋に戻って売店でハカシアの地図を買う。番をしている若いハカシア女性と話してみた。支払いを惜しまないお客だと、その女性が、ハカシア団子を1個だけくれた。サーシャもいるのに1個だけだ。日本人単独観光客の運転手と思われたのかな。そのハカシア団子は、甘みがあっておいしかった。
 帰り道ウスチ・ウートィへ行く分かれ道を見かけたが、もう時間が遅くてそこについた頃は暗くなっている。昔作りかけていた12角形のユルタが完成していたとしても、その野外博物館に着いた頃は真っ暗になっているだろう。パスした。
 ベヤ村のヴァーリャさん託に戻って田舎の夕食を食べる。それはキャベツと肉団子スープとキュウリのピクルス、サワーキャベツで、私の依頼でサーラ(味つけ冷凍の豚の脂身)も切ってくれた。
 ベヤ村のヴァーリャさん宅は、リュ−ダさんが何でそんなところに泊まるのだと心配してくれたところだ。2015年頃何日も泊まったときは、孫娘のヴァーリャさんの部屋で留守中の彼女のベッドで寝た。しかし、今はその部屋は物置になっているそうだ。だから。広めの別の部屋(そこは居間兼物置)の古いソファに寝床がつくってあった。この家にWi−Fiはあるが、部屋のコンセントは窓際にしかなかったので、寒い窓際で充電しながらネットを調べていた。それを見たサーシャが長い延長コードを貸してくれたので、寝床に潜って携帯が使えた。夜中は寒かった。朝、そのことをヴァーリャさんに言うとソファの足下に予備の毛布が置いてあったのにと言われた。私は、物置の一部かと思って触らなかったのだ。
  ベヤ村を去る
  10月31日。6時に目覚めて窓から外を見ると、庭にも道路にも木々にも枯れ草にも浅く雪が積もっていた。朝御飯は、真っ白やうす茶色や薄緑色の卵の固ゆで(私の希望で)と昨日と同じようなものだった。ヴァーリャさんの家にはとても人懐かしい犬がいて、最初に門を入るなり、知らない人の私にくっついてくる。以前にはいなかった。なかなか離れなし、細めに開けたドアから家に入ろうとして、うまくくぐり抜けられてしまう。ドアから入ったところはシベリアの家では台所で、さらにドアを開けた奥が、外気の寒さを2重に防いだ寝室や居間になっている。犬が許されるのは台所までだ。食卓に座って食べていると足下でじっと私を見る。その視線に耐えかねてパン切れを落とすと、必死で食べて、また私の方にハートキュンの視線を向ける。目が合うと私はたまらなくなって、食べ物を与える。食べ物がもらえる人のそばから犬ははなれない。視線を合わさないようにして食事を終えるしかない。
 約束通り、8時にリュ−ダさんが100キロの道のりを飛ばして迎えに来てくれた。これは、サーシャが私をアバカンまで送り届けることを断ったからだ。リューダさんは断られるだろうとは言っていた。私は、以前からの付き合いだから送ってくれると思っていたのだ。サーシャとディーマ兄弟は前ほど仲がよくないのかも知れない。サーシャもアバカンの部品店(ディマさんの店の支店)を止めたこともあるし。それは、前述のように、リュ−ダさんによると、「止めるべきだ、もう歳のコーリャ一人で牧場経営はできないから」ということだったが。
 ディーマとリュ−ダさん夫妻は富裕層だ。部品と修理工場はウクライナ戦争の経済制裁前には繁盛していた。制裁があっても、ディーマさんの努力で何とかやっているらしい。繁盛し始めた頃、アバカンに支店をつくり、兄のサーシャ・ユリエビッチさんと、リュ−ダさんの父のイヴァン・プチャーチンさん、弟のサーシャ・プチャーチンさんの3人で経営を始めたのだ。その時はディーマさんと彼の兄との関係は深かっただろうが、牧場経営では、サーシャ・ユリエヴィッチさんは弟にあまり依存しないだろう(と私は勝手に心の中で思っていた)。
 出発の前にヴァーリャさんと撮った写真には犬君が私の足下にじゃれている。日本に持って帰れるものなら、ヴァーリャさんに頼んでもらい受けたいくらいだ。

 10時前には、アバカンの(今では)プチャーチン父息子さん(だけの)経営のディマさん部品店の支店についた。マトベイとエゴールが待っていた。
 前述のように、日本出発前から私はリュ−ダさんにハカシアに行きたいと言っていた。ハカシアのどこへと聞かれて、どこでもいいと答えておいた。リュ−ダさんはハカシアに住む弟に問い合わせたらしい。弟は、最近白イユース川のキャンプ場へ家族で行って楽しかったので、そこで1泊して、翌日は、そのままリュ−ダさんと私はクラスノヤルスクへ、サーシャさん達はアバカンへ戻ったらどうかと計画してくれていたが、10月末ではキャンプ場も閉鎖していた。それで、日帰りで行って、またアバカンへ戻り、またその日私だけアバカン市のフルシチョフカのアパートに泊まって翌日の11月1日中にはクラスノヤルスクへ戻ろうと決まったのだ 
 2010年代に何度も、ハカシア旅行をしている私は、狭いハカシアの、ほぼ隅々まで、車で行ける範囲なら廻った。だから、サーシャ・プチャーチンさんは、私がイヴァノヴォ湖までも行ったことがあると聞いて驚いた。実は、白イユース川は上流も下流も訪れた。黒イユース川も訪れた。それは何年も前で、観光施設の整わない僻地の寂しい時代だったが。
  白イユース川
  リュ−ダさん運転で、後部にサーシャ.プチャーチンとエゴールとマトベイを乗せて、アバカンからは北西の白イユース川方へ道を取る。クラスノヤルスクは北だから来た道とは少しずれるこの道も懐かしい。ボグダド町 Боградやクルガンの石像の宝庫のようなシラ町 шира やトロシキン村 трошкин(以前来たときは、閉まっていた郷土博物館を、人を探して開けてもらった。もう一度寄ってみたかった。こんなに近くに来たのだから、しかし言い出せなかった。)を通り過ぎて、白イユース川を渡ったところがエフレムキーノ村だ。しかし、目的地はもちろん村にはない。村の近くに『先祖の道』という俗な名前の観光センターがある。名前を聞くだけで私は最近の観光産業を快く思わない。
 エフレムキーノ村から白イユース川をさらに上流にマーラヤ・シーアという村があって、その近くには石器時代人の遺跡のある洞窟が何十とある。何年か前に、村まではいったが、先史時代の岩絵も豊富なそれら洞窟には行けなかった。マーラヤ・シーアやエフレムキーノ村一帯には深い洞窟はいくつもあるのだ。エフレムキーノ村の白イユース川右岸絶壁だけでも9この洞窟があり、だから、このあたりは、ハカシア語で『Тугуз Аз 9個の口』と言われている。
 ツーリスト・センター『先祖達の小径』の雪の中の駐車場に止めた。回りには作業員らしい人の他は誰もいなかった。今頃観光客は来ないだろう。こんな近代的なセンターも以前はなかったものだ。
 センターの入り口は空いていたので入ってみる。インフォーメーションの女性がいた。バンガローは閉まっているが、パンフレットをくれて、遊歩道コースの説明をしてくれる。
 この『先祖達の小径』は全コース4時間で、白イユース川絶壁や岩画のある洞窟石のアーチなどが楽しめると、パンフレットにはあった。私たちはサンドイッチや飲み物を持って出発した。
 道なりに行くと白イユース川岸に出た。川は氷の花びらを浮かせて流れている。何年も前,2002年だったか始めてハカシア(正しくはミニシンスク)に来たとき、カズィール川に氷の大小の花びらを浮かべて流れるカズィール川を見て、胸が締め付けられるほど美しいと思った。何年かぶりに半氷(流氷)の川を見ることができて、ツーリスト・センターがあってもなくても、ここ、白イユース川に来られてよかったと思った。長い間見惚れていた。
 この川岸の上の絶壁にはプロスクリャコヴァ проскуряковаという洞窟がある。『長さ25mで、人類が住んだ跡があって、20種類の動物の骨も見つかっているそうだ。46,000年前の層が最も古く、洞窟の壁には赭土で描かれた絵がある』と説明文があった。洞窟の入り口まで行って、サーシャと写真を撮った。
 ツーリストを喜ばせるためか、宿泊用バンガローの近くには、原始人(つまり4500年前の)の石小屋があり、そこからひげもじゃで腰蓑(蓑ではなく毛皮をもしたもの)をつけ太い棍棒を持った等身大人形が立っていた。『先祖達の小径』の雰囲気を高めるためか。このイミテーションはなんとも言えないほど拙劣だった。
 小径はさらに続く。急斜面には幸い階段があって、そこを上ればコース通り行けるのかと、上っていった。インフォーメーション・センターのコースの地図にも階段マークがあったからだ。観光資本が大幅に入っていると言っても、やはりロシア・ハカシアだ。階段を上っていくと、段が落ちていた。手すりはあっても段がないので、数段ほどは、地面に降りて上っていく、また段が落ちているところがあって、手すりにつかまって、サーシャに引っ張ってもらいながら上る。
 見晴台があった。遙か下に白イユース川が流れている。見晴台と言うよりも少し広くなった山道の一部と行ったところだが、ベンチもあった。ここで家から持ってきたサンドイッチやりんごなど食べる。博物館ばかり廻っているよりいいかもしれない。アルタイ山脈の支脈サヤン山脈の支脈のクズネック山脈の一部に来ることもできた。
 先へ歩くが、雪の山道は急だった。サーシャが腕を取ってくれる。私が最年長だからね。
 「年を取ってるから雪の山道を歩くのは気持ちいいけどたいへんだわ。腕を取ってくれてありがとう。サーシャのお母さん(リュ−ダさんは40そこそこだから、彼女は50過ぎの娘を持つ私より若いだろう)にも、腕をとってあげるの」と聞いてみる。「自分の母親は、第一こんな山道には来ない」とサーシャは(ロシア風には年の割には若いと自負する)私が喜ぶようなことを言ってくれる。
 リューダさんには「今日はたくさん歩いたわ、少し痩せられるかも知れない」。「あなたは痩せる必要はないわよ」。こうしたお世辞の言葉は帰国後もしっかり覚えている。
 10歳のエゴールは活発で、起伏のある雪の丘を歩き回って雪の上に、『ヤポニア(日本)』とか書いて私に見せていた。コース通りか、はずれたのか知らないが降りてきてみると、インフォーメーション・センターの裏手だった。そこには新たに、建設中の建物もあった。ロシア人にとってハカシアはちょっとエキゾチックな観光地で、パスポートなしでも、経済制裁中でも行ける場所だから、これから人気が出るのかな。
 3時前にはエフレムキーノ村洞窟群のある『先祖達の小径』から引き上げた。
  トゥイム崩落
  来るとき通った、トロキシノ村の近くに石柱が立っていたのを覚えていて、帰りには車を止めてもらった。チャラマ(宗教的な布きれ)も結んであった。説明文を読んでも、シャーマンに関するものだと言うほかはよくわからなかった。トロシキン村の小さな博物館に入ってみればわかるかも知れない。同行者がリューダとサーシャ・プチャーチンなので私は遠慮した。そんなところよりも、時間があるなら、トゥイム鉱山崩落を見た方が面白いと彼らは提案してくれて、50キロほど離れたトゥイム村へ向かった。
 トゥイム村はかつて、タングステン、銅、モリブデンの鉱山労働者用の集落だった。1950年代に囚人労働で開発され(ソ連時代の地下資源や新都市建設などはたいてい無料の囚人労働だった)、鉱物はトゥイム非鉄金属工場に送られて、独ソ戦で有名な戦車T−34の装甲板にも使われていた。だから当時は閉鎖地区で、1950年代は人口が1万人もあった。鉱山は1970年代に閉鎖され、施設などが撤去された後、坑内坑道の崩壊により、山頂に直径6mの窪みが形成された。窪み(穴)は絶えず拡大していき、さらにその後坑内坑道の陥没が起きたそうだ。そこに水がたまって深さは200mの人工湖ができた。水面からかつての鉱山の頂上までは127mあって、見晴台から眺める青緑色の水面がハカシア観光の一つになっている。トゥイムは今は寂れた村だが、観光地として、絶壁126mと、深さ200m昔の失敗物を生かしたバンジージャンプやダイビングなどスポーツが盛んだとか。
 私は2009年にに来たことがある。その時も誰が受け取るのか知らないが、入場料を払ったが、今回も、有料で自動改札口から入った。誰もいない雪の眺望台で、寒さに震えながらも、陥没穴にたまっているおとぎ話のような 青緑の水面と、そこを取り囲んで聳える薄茶色の絶壁を眺めた。谷間の上を縄橋がかっていた。前回にはなかった。今、オフ・シーズンで、渡れないようになっていた。渡れても渡りたくはないとリューダさんと話していたものだ。
 トゥイムは2008年からは村になっている、現在人口は3000人余だ。前記のように、鉱山城下町だった頃は1万人近くいて、ソ連時代の新興産業町だったので5階建てフルシチョフカ・アパートが軒(正しくはパネルの壁)を並べている。(今は空室か)。
 6時過ぎて、100キロは離れているアバカン市に戻った。今夜もサーシャ・プチャーチンさんのフルシチョフカ・アパートで一人で寝てほしいと言われた。途中で買ってくれた一人用のスープやサラダを食べて、気軽にお風呂に入って寝た。
HOME  ホーム BACK 前のページ ページのはじめ NEXT 次のページ