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March 30, 2024 (追記:2024年6月19日 |
40 - (8) 経済制裁下の2023年イルクーツク(バイカル)とクラスノヤルスク (8) クラスノヤルスクを去る 2023年10月13日から11月13日(のうちの11月5日から13日) |
Путешествие в Иркутске(Баикал)и Красноярске, 2023 года (13.10.2023−13.11.2023)
ロシア連邦地図。イルクーツク、クラスノヤルスク |
バイカルとイルクーツク | |||||||||||
1 | 10/13- 10/14 |
2022年頃 | ビザ | 日程と費用 | ウランバートル | イルクーツク着 | カラトゥエフさん | アンガラ川入り江 | 劇場 | ||
2 | 10/15- 10/19 |
バイカル湖へ | オリホン島 | オプショナル・ツアー | メルツ先生 | コンサート(1) | 森の小川、グルジーニンさん | エレメーエヴィさん | コンサート(2) | ||
3 | 10/20- 10/22 |
村の学校 | バイカルを去る | シェレホフ市 | オルガンホール | エルサレムの丘 | アルカージー宅 | 音楽功労者 | 『軍事』博物館 | カトリック教会 | アンガルスク市 |
4 | 10/23- 10/26 |
ナターシャのお供 |
音楽高等学校 | 第19学校 | フンボルト学校 | 外国語大学 | 七宝焼き | ロジャンスカヤさん | シベリア鉄道 | ||
繁栄するクラスノヤルスク | |||||||||||
5 | 10/26- 10/27 |
クラスノヤルスク着 | リュ−ダさん | 繁栄するクラスノヤルスク | 軍事高等学校 | 新興団地 | アカデミゴロドク区の学校 | 避難訓練の掲示板 | 契約兵募集 | ソスノヴォボルスク町 | |
6 | 10/28- 10/31 |
ハカシア共和国 | プチャーチンさん | アバカン博物館 | フルシチョフカ・アパート | ベヤ村 | 牧場 | ベヤ村周辺 | 白イユース川 | トゥイム崩落 | |
7 | 11/1- 11/4 |
中央アジアからの出稼ぎ |
ヴラディスラフ君 | タクシー | 郷土史博物館 | 金日成記念碑 | エニセイスク市へ | ヴィサコゴルヌィ橋 | エニセイスク博物館 | エニセイスク市の記念物 | |
8 | 11/5- 11/13 |
リューダさんとの談話、ネオナチ | 墓参 | クドリャーツォヴァさん | ジェレズノゴルスク市方面 | パドゴルヌィ町 | タマーラさん | クラスノヤルスク空港 | イルクーツク空港 | ウラン・バートル空港 |
リューダさんとの談話、ウクライナのネオナチ | ||||||||||||||||
(ウクライナの古代中世近世史*) ウクライナもそうだが、西ウクライナは歴史的に微妙な地域だ。中世はポーランとリトアニア連合国の領土だったし、近世はガリツィア・ロドメリアの東部としてオーストリア・ハンガリー帝国の領土だった。第1次大戦でオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊した後は、短期間だが西ウクライナ人民共和国を宣言したが、ポーランド・ウクライナ戦争に敗れ、1920年からは大部分の西ウクライナは第1次大戦後独立したポーランド共和国領となった。独ソ戦の1941−1943(1944)年はナチスドイツが占領した(ウクライーネ国家弁務官区となり、首都はキエフでなくリヴィウ)が、第2次大戦のソ連の勝利により、ソ連領となった。その間(第2次大戦前から戦中戦後にかけて)ウクライナの独立を掲げるウクライナ蜂起軍を中心として、1955年頃まではソ連と戦ったが敗れた。ロシア政府にとって西ウクライナは反露勢力が強いとうつる。ウクライナ西部はチェコスロバキア領(現ウクライナのザカルパチア州、その後ハンガリー領)、ハンガリー領、ルーマニア領と、代わり、第2次大戦後はウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国領となった。現代の国境は第2次大戦後のことだ。 独ソ戦中とその後のウクライナ蜂起軍の指導者の一人がバンデーラだった。ウクライナ蜂起軍は、ナチスドイツと協力した時期があり、排他的で、同時に西ウクライナで親ソ連派とみなした多くのウクライナ人を虐殺した、と歴史の本には延べている。リューダさんのプチャーチン家は西ウクライナの現イヴァノ・フランキー州ストリムバ Стримба村や同スルフキ Сливки村出身の親ソ連派だった。 ドネツクで話題となったアゾフ連隊も、バンデーラのウクライナ蜂起軍の流れをくむと、プーチンの反ネオナチ宣伝の材料となっているとは周知のことだ。 ソ連崩壊後の1992年から、私はロシア人と政治のことも話した。ロシアの歴史は隣国への侵略、膨張主義に満ちているといつも私は言ってきた。日本側の報道はもちろん、ロシアの社会を実際に見ても、ロシアのような国に住むのは難しい。自由と民主主義がないと言われている。政府に反対すれば、抹殺されると西側のマスコミを騒がせている。反政府のミーティングなどすれば、逮捕される。『悪の帝国』などと感情的に言われてさえいる。西側の情報統制が半分あるだろう。ロシア側のプロパガンダもそれに劣らない。私はロシア人には、ロシアの膨張主義、いわゆる『民主的』ではない社会に対して、批判ばかりしてきた。しかし、今回は、ひとえにロシアの主張について聞き役だった。、そのためにロシアへ行ったのだから。観光地見学はおまけで、目的はできるだけ多くの人に会って、メールなどでは聞けないことを質問してみることだ。 リューダさんとの話、後のクドリャーツォヴァさんとの話は、日本の報道ばかり効いていては一方的な見方になる、と言うことだ。 |
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墓参.クラスノヤルスク右岸 | ||||||||||||||||
彼女の死は、彼女の甥のアンドレイが知らせてくれた。後に墓も建てたと知らせてくれた。私は、次回クラスノヤルスクに行ったときは必ず墓参すると彼に書いた。その時は必ず前もって知らせてほしいという返事。新型コロナ感染やウクライナ戦争(特別軍事作戦)があって、ロシアへはしばらく行かなかったが、やっと訪れることができた。約束通り前もって知らせた。彼の都合と私の都合が合ったのがこの日だった。 12時前に右岸の彼のアパートに来てほしいと言うことだった。テーブルにごちそうを並べて遅めの法要をしようと言うらしい。彼のアパートまではまたリュ−ダさんに送ってもらった。昔の私なら、いくらでもバスに乗って目的地の住所に行き、番号を探せたものだが。 子供がなかったニーナ・フョードロヴナさんの妹の二人の息子アンドレイとフェージャ、つまり甥達と彼らの妻達が、迎えてくれた。アンドレイとは、昔、ニーナさんの別荘へ行ったこともある、そこで妻のヴェーラさんと二人の息子(ニーナさんの甥孫のサーシャとアリョーシャ)がいた。アンドレイと、ニーナ・フョードロヴナさんの妹のヴァレンチーさんの別荘へ行ったこともある。ドロキナ Дрокино村にフェージャが家を建ていた時、ニーナ・フョードロヴナさんと行ったこともある。その時フェージャの妻は学校の先生だったが、今は別の女性ガリーナ・チャルキナ Галина Чалкинаと言う愛想のいいピチピチした女性が妻として紹介された。今まで私の知っていた3人は、もちろんその年数だけ年を取り、頭も白くなり、脂肪が付いていた。 私は来る途中で花屋により、白菊を買っておいた。日本で墓前というと白い菊で黄色も混ぜて花束にしたのを売っているが、ロシアでは生の花を墓前には飾らない。色のあせない派手な色の造花を墓前に置くとは知っている。だが、白と黄色のほんものの菊を2本だけ買った。大きな花束にするには資金が足りない。日本流の墓参にした。造花の花束は、寿司屋の開店祝いぐらいにしか飾らないかと思ったから。 ごちそうを食べる前に(酔っ払う前に)墓参を、ということで、フェージャさん運転の古い日本車で着いたクラスノヤルスク市民共同墓地の一つは、アンドレイさんやニーナ・フョードロヴナさん達が住んでいる右岸にある。ヨーロッパの墓地は見たことはないが、多分、ロシアの墓地はヨーロッパ風なのだろう。1枚の石板に肖像と名前と年月日が彫ってある。火葬はしないから、棺を埋めて、その頭のあたりに記念碑として墓石が立っている。石板は長方形とは限らない。多くはソ連時代に生きていた人の墓地だから、十字架はあまり見かけない。石版にロシア正教の十字架が刻んである墓もある。 ニーナ・フョードロヴナさんの墓は、甥のアンドレイさん達が建てた。その横には、姉より4ヶ月前に亡くなったアンドレイさん達の実母ヴァレンチーナ・カリーニナさんの墓がある。さらにその横には二人の姉妹の父親である『フェードル・パンクラートフ Федор Панкратов 1913年4月4日ー1994年12月31日』と彫られた墓石が並んでいる。この3人を柵で囲ってあった。その横の地所には 『ヴァレーリィ・フェードロヴィッチ・パンクラオトフ Панкратов Валерий Федорович 1941.5.27-2005.12.23』 と彫られた姉妹の弟の墓がある。夫婦が一緒に葬られてはいない。姉妹の墓も、その父親の墓も弟の墓もはおそらく同時に建てたものだろう。軍人の父親(ニーナ姉妹とその弟の父)はソ連各地を廻っていただろうが、亡くなったのはクラスノヤルスクだろうか。母親は別の地に墓標があるのか。姉妹とその弟がクラスノヤルスクでなくなったとして、彼らの配偶者もクラスノヤルスクか。ニーナ・フョードロヴナさんは3度結婚して3度夫を亡くしている。その夫の墓地を生前のニーナ・フョードロヴナと訪れたことがあるので、アンドレイに聞いてみた。しかし義理の伯父なんて彼には他人だ。では実の父親は?早くにヴァレンチーナさんと離婚して、アンドレイとフェージャの兄弟は母親のヴァレンチーナさんと伯母のニーナ・フョードロヴナさんが育てたのか。ニーナ・フォードロブさんは甥を自分の息子のようにかわいがっていたし、その息子達も本当の孫のようにかわいがっていた。だが、死の数年前、姉妹は仲違いをして、そのまま、仲直りすることなく死んでしまった。墓は、仲良く並んでいるが。彼女は妹とは仲違いをしたが甥達とはずっと死ぬまで交流があった。死の床を看取ったのもアンドレイとその妻ヴェーラだ。 墓前には枯れない造花の花がたくさん飾ってあった。たった2本の菊はちょっと寂しかったが、その横に捧げた。 フェージャ運転の車で、戻ってきた。右岸には工場が多い。その光景は、私が滞在した1990年代終わりや2000年初めと変わりなかった。道路状態も悪かった。たまに、建設中の高層住宅が現われる。ソ連風でないデザインの高層住宅が数軒見られた。(ソ連風とは、たとえば、直方体の建物の一方の壁に躍動するソ連の若者や労働者の絵が大きく描かれている)。新築の教会もある。だが、クラスノヤルスク好景気の都市開発の波が、まだ右岸にまで及んでいないようだ。 アンドレイの家に戻ると、もうテーブルにはごちそうが並んでいた。留守番の妻達が準備してくれたのだ。法事だからと肉類を食べていけないわけではない。アルコール類もたっぷりあって、私以外の大人達は盃をあけていた。前もって私の訪問に日時を知らせてくれたメールに、帰りは送ってほしいと言ったことに返事がなかったのも頷ける。アンドレイ達はすっかりいい気分のようだった。ウクライナ戦争についても話した。ロシアは負けないと断言された。もう私は、それが本当だと思うようになっていた。 4時頃、電話してリュ−ダさんに迎えに来てもらった。タクシー代わりに彼女を使ってしまって本当に申し訳ない。お礼も十分にできなかった。 |
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クドリャーツォヴァさん | ||||||||||||||||
ナタリア・クドリャフツェーヴァさんの息子は、マトベイと同年で、彼女が実家に息子をつれて来たときは、二人の少年は公園で遊んでいたり、どちらかの家で食事したりしている。だから、今回、クラスノヤルスクにゆっくり滞在した機会に、訪問することにしたのだ。隣だから車での送り迎えも必要ない。 ナタリア・クドリャフツェーヴァさんは、大学卒業後、遅めに退役軍人の男性と結婚した。職業軍人だったが、年配であるし、戦地に送られることはないそうだ。年配と行っても、ナタリア(40代前半)とほぼ同年だそうだ。 母親のエレーナ・アレクサンドロヴナ Елена Александровнаさんはさすが(元)弁護士だけあって、ウクライナ戦争については詳しかった。ウクライナ軍の総司令官ザルイジニが『もう戦うことはできない』と言った。戦えないと断言したと、エレーナさんは言う。ザルィジニという名もその時始めて聞いた。帰国後、ネットを調べてみようと思った。(帰国後のことだが、ザルィジニの名はもうメディアでは有名だった。日本では、そのように直接的に言ったとは、報道していない。しかし、ゼレンスキーとの不和については報道している、その後解任された)。ウクライナがいかに汚職の国か、とも言っていた。それは昔のソ連をうけついた国だからそうだろうと密かに思った。(ウクライナではソ連時代にロシアから伝ったと言っているとか。ロシアやウクライナだけが汚職の蔓延している国というわけではないが)。ゼレンスキーはロンドンにもイタリアにもイスラエルにも豪華なマンションを持っている。モスクワにもクリミアにも持っていた。ゼレンスキーの妻はアメリカで高級品の爆買いをしている、云々。 |
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閉鎖都市ジェレズノゴルスク市方面 | ||||||||||||||||
私達は、まずクラスノヤルスク市からベリョーゾフカ町を通るごみごみした穴だらけの道を抜けていった。その道は昔の国道だった。今でもベリョーゾフカ町の中心を抜けて通っている。クラスノヤルスク市に入るにも大廻りするにも立派な連邦道R225号線(別名『シベリア』ノヴォシビルスクからイルクーツクまでの1860km)のバイパスが、最近はできている。 この昔からの伝統的な道路の入り口には、帝政時代の徒刑囚がこの道を東へ向けて運ばれていったという等身大の彫像(群像)があって、過酷な帝政時代を現わしていた。旧道『シベリア』と地図には載っている。(今はそのソ連風群像はない) クラスノヤルスクからその道路(旧道シベリア)をジェレズノゴルスク市の方向へ行くと、連邦道R255号線のバイパスとの立体交差に出る。直進すると左はずっと並行して走っていたエニセイ川で、ソスノヴォボルスク町が右に見えてくる。ここまでは数日前(10月28日)に来て、ベットタウンとして大発展した町に驚いたものだ。今回は通り過ぎて、右折する。パドゴルヌィ Подгорный町が今日の目的地の一つだ(リューダさんと13年前に行ったことがある) ソスノヴォボルスクは道路に沿ってあるが、その奥に行くとパドゴルヌィ町に出られる。ソスノヴォボルスクは、閉鎖都市ジェレズノゴルスクへの、無許可でも通行可能のギリギリの町で、この先は、アトム閉鎖都市ジェレズノゴルスク市の衛星村が5こある。それは、許可証なしでは入れなかったドドノヴォ Додоново村、ノーヴィ・プーチ Новый путь村、パドゴルヌィ Подгорный町、タルタット Тартае村、シヴェラ Шивера村だ(いつ閉鎖が解かれたのか下に記載)。ソスノヴォボルスクは、その先の衛星村と比べて最も大きく、ジェレズノゴルスク市とも5キロしか離れていない。 ソスノヴォボルスクに最も近いのは人口5400人のパドゴルヌィ町だ。ジェレズノゴルスク市の衛星都市だったから、閉鎖都市のはずだが、アトム関係の工場があるわけではなく、ジェレズノゴルスク市の住民のための暖房施設などがあるだけなのか、昔でも町の裏側から入ることができた。クラスノヤルスクから20キロ北東にある。13年前、リューダさんと来たときは正面から入ったものだ。検問所跡の遮断バーの取り外し跡がその頃はあったが、今は全くない。今も正面から入る (*)パドゴルニィはジェレズノゴルスク建設の3年後の1953年にできた町で旧称は暗号名『クラスノヤルスク35』,または『4番』と言った。1955には全地区が有刺鉄線で囲まれていて、工業化学コンビナート(つまり原子力関係)の町だった。その主な目的は、ロケットエンジンのテストベンチだったそうだ。軍事建設業者とコムソモールのメンバーは、道路、エネルギー、ロケット燃料部品の倉庫、処理施設、窒素、酸素、アルゴンを生産するための空気分離施設、その他多くの施設など、無人の針葉樹林地帯に新しいインフラを建設したわけだ。 1988年、工場は冷蔵庫用ブロックの製造に使用されるようになった。1990年、計画された転換の一環として、SLBMと計器室の処分施設が設置された。1998年からは、米国との契約に基づき、ロケット燃料の接触水素化の建設が進められた。2001年、化学工場は改革され、それに基づいていくつかの組織が設立された。2008年7月1日、化学プラントの敷地周りを残して、町への立ち入り制限が解除された(ウィキペディアより)。 |
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パドゴルヌィ町。ノーヴィ・プーチ村 | ||||||||||||||||
憩いの場所をつくろうと、化学コンビナート(パドゴルヌィ町の基幹工場)の労働者自らが、1968年タルタット川をせき止めて貯水池をつくったとヴィキペディアに書いてある。水遊びができるよう、砂場もつくった。以前に来たときにも行ったことがある。また行ってみようと、町民に道順を聞いて訪れてみた。工事中のトラックも止まっていた。タルタット水浴場の整備でもやっているのか、道でも整備しているのか。この人工の貯水池には以前に人魚の像があって、コペンハーゲンを気取ってると思ったが、今回は人魚ばかりかイルカやオットセイやカバの像もあった。貯水池は完全に凍っていたようだが、岸から遠くへは行かなかった。 ジェレズノゴルスク市の入り口は3個ほどあって、クラスノヤルスクからまっすぐに来る道が突き当たるのは正面入り口だ。そのほかに横道があって、パドゴルヌィから田舎道を通って入る検問所もある。試しに行ってみた。遮断機の下りた入り口には女性兵士が立っていた。リュ−ダさんは入ってもいいですかと聞いてみた。許可証がないとだめですという当然の答えで、私達は引き返した。たいして怪しまれなかったと思う。 ジェレズノゴルスクにもっと近づくとノーヴイ・プーチという現在は人口700人余の町があって、前記のように、かつて、ジェレズノゴルスク閉鎖地域内の7個の市町村の一つだった。ここにノーヴィ・プーチ池という大きな自然の水場があって、今はクラスノヤルスク都市住民達のキャンプ場になっているそうだ。この池はタルタット貯水池とつながっている。クラスノヤルスクの下流40キロほどのタルタット村近くでエニセイ川右岸に流れ込む延長30キロの支流タルタット川の一部だ。(自然に)せき止められた川の一部にしてはずいぶん広い池だ。対岸が遠くにやっと見晴らせるくらいだ。底から湧き水が出ているのかも知れないが、キャンプ場としては評判が悪い。クラスノヤルスクから手近なところにはあるが、キャンプ料金が高く、不衛生で、マナーが悪い。騒音がひどい。自然も破壊されている。池は泥水で泳ぐ気もしない、とネットのレビューには書いてある。 行ってみると、自然の中のキャンプと言うにはほど遠い。しかし、凍った水上に、無数の魚釣り客がいた。氷に穴を開けて魚を釣るのだ。氷上は凍えるので小屋やテントを張ってその中で魚釣りを楽しむ。マトベイと3人で眺めていると、車が1台やってくる。釣り道具を持って、男女が氷上へ降りていく。 リュ−ダさんの夫のディーマさんもここへ氷上穴釣りに来たこともあるとか。 帰り、ソスノヴォゴルスクを通り過ぎ、ベリョーゾフカ町のでこぼこ道を通り、契約兵募集の屋外看板をいくつもみながらクラスノヤルスクに戻った。クラスノヤルスクの大型ショップで日本へのお土産を買うためだ。お土産品は空港か駅か観光地でないと売っていないようだった。 大型ショッピング・センターにはファミリー・レストランもある。大きなファミリで、ガラス壁で区切った保育コーナーまであった。おもちゃがいっぱいのそこではちゃんとマスクをした保母(たぶん)さんが幼児のお相手をしていた。 マトベイは私達と朝から一緒だが、ヴラディスラフはスキー関係の友達のところへ行っていて、リュ−ダさんは時間を決めて迎えに行くようだった。彼はまだ15歳で、兵役にまだ早いが、その時になって招聘通知がちゃんと届くように、住所を明らかにしておかねばならないらしい。学校に学んでいるから、その在学証明も取っておかなくてはならないらしい。スポーツに専念するから兵役免除の手続きも、そのうちするのかどうか知らないが、兵役関係の手続きで、ヴラディスラフやリュ−ダさんは忙しい。 ランチの帰りには、ヴラディスラフを拾って、町を廻った。15歳のヴラディスラフは途中下車して友達の家に行った。母親と散々口げんかした上で降りていったのだ。もうほとんど少年とも言えない彼には自分の交友関係があって、幼い弟や母親とは時間を共に過ごさないのだろう。 途中で入ったガソリン・スタンドにも大きな屋外看板があって、地元クラスノヤルスク出身の兵士が勇敢な働きをしたと書いてあった。名前と勲章名があった。『同郷人マケエフ・ボリス・アンドレイヴィッチМакеев Ворис Андреевич、英雄的な行いをありがとう』と国旗をバックにした当人の写真があった。 |
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タマーラ・コンスタンチーノヴナ・バヒンスカヤさん宅 |
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この日、4時にはタマーラ・コンスタンチーノヴナ・バキンスカヤさんと会うことになっていた。彼女とは私がクラスノヤルスク大学に勤めていたときからの知り合いだ。露日友好協会(というものは特になかったが、そういう関係の団体か)に関係していたらしく、彼女の方から近づいてきた。目立つことの好きそうなタイプで、そのうち会うこともなくなった。一方彼女の一人娘はクラスノヤルスク大学の日本語科の学生だった。私が講師として勤め始めたときはタマーラさんの娘ヤーナ・バキンスカヤは2年生だった。日本語科の学生達は一部の学生をのぞいては、みんな中の下か下の中だった。つまり彼女も公費で留学するほども、大学に残って日本語教師になるほども語学力はなかった。卒業後何をしていたのかは知らないが、日本へ車ビジネスに来ている青年と知り合って結婚した。その青年アルチョームのビジネスは、今も続いている。息子も生まれ、家族で日本に住んでいるとか。10年以上滞在にはなる。日本で車ビジネスをしているディーマさんともアルチョームは親しいらしい。と言うわけで、タマーラさんはリュ−ダさんとも親しい。
そのタマーラさんと20年ぶりで、会うことにしたのだ。初めは、体の調子が悪くて会えないかもと言われていた。リューダさんも一緒にと言われていたが、リューダさんには用事があった(と断っていた)。結局、彼女が指定した日時は、今日11月6日の16時だったので、リューダさんと訪問用の手土産を途中の店で買って、アパートまで送ってもらった。先日訪れたアナスタシア・ザステペンコさんの母ガリーナさんが今では一人で住むクラスノヤルスク中心にある古い大きな集合住宅と同じだ。ガリーナさんは3つ目の入り口から入って3階に上ったところだが、タマーラさんのアパートは第7入り口から入って2階に上ったところだ。間取りはほぼ同じで、リフォームして多少は違う。 ドアを開けてくれたタマーラさんに、 「まあ、道で会ってもあなたとはわからないわ」と挨拶された。彼女は元から厚化粧のマダムっぽい太めの女性だ。私はいつものようにすっぴんめがねの着の身着のままだ。 20年前に彼女のやや場末のアパートに行ったことはあるが、最近(数年前)中心部のここに引っ越してきてリフォームしたらしい。安物ではない家具(実用一点張りのフルシチョフカ・アパート用の家具でない、私に言わせれば余計な装飾が付いて場所取りの)が並ぶ部屋に案内された。タマーラさんは娘婿からの補助があるのかな。ここの女主人好みの家具だ。この部屋の配置は、ガリーナさん宅と同じで、多分広さも同じだろう。娘夫婦は日本で大きい郊外の家を安く買って、ロシア風にリフォームして住んでいるという。日本で田舎の築何十年かの家は、広い土地付きで安く売られているかも知れない。ロシア風の家にリフォームだって?。では鶏の足のババヤガの小屋か、とは言わなかった。ロシアのおとぎ話に出てくる魔法使い(?)のおばあさんババヤガが住む家は鶏の足があって向きを変えられる。日本の木造古民家を『ロシア風』にリフォームと聞けば、「ロシア風」がほかとちがうところを考えると、どうしてもババヤガだ。 招き入れられて、女主人ご自慢らしい椅子に座ると、私のすることはインテリアを褒めることで、タマーラさんのほうは日本で成功裏に住んでいる一人娘の自慢話だ。(私はロシアなんぞをうろうろしているから、成功裏に住んでいないことになるのかも)。棚には日本土産がぎっしり飾ってあって、娘から送られたものだという。タマーラさんも2、3回日本へ行った。しかし、今は経済制裁のため小包も送れないし、旅行もできないという。経済制裁中、娘のヤナはモスクワ経由の遠回りでクラスノヤルスクに来たことがあるという。 タマーラさんは体の調子が悪いので初めは会えないと行っていた位だから、もう歳なのかと思っていたが、目の前にいる彼女は、念入りに化粧し、ネックレスや、イヤリングもつけ、室内用の新品のサンダルを履いている。タマーラさんには、インテリアや家具が立派なこと、娘一家が日本で生活していること(彼らにとっては自慢)、タマーラさんも日本訪問できたことなど、お世辞を言っておいた。招かれた家を賛美するのは礼儀というものだ。 お茶にしようと続きの台所に行った。ここもリフォームされている。トイレを借りると、洗面所兼トイレで、シャワーボックスが置いてあった。位置はガリーナさん宅と同じだが、トイレとバスの壁が取り払われてバスタブがなくなってシャワ−・ボックスになっているのだ。 今回訪問したどの家も、暗くて一律なソ連風住宅が一新され、明るく便利になっているが、日本の普通の生活に近づいたと言うだけかも知れない。(日本もロシアも国内の貧富の差は大きいが、私の個人的な経験として知る限りは)。ロシアの集合住宅は一歩室内に入ると整備されているが、入り口や階段、エレベーターは憂鬱なものだった。玄関に至る通りはもっと憂鬱だった。遠くから見るとデザインのよい新築の高層集合住宅の中は今回、入る機会はなかったが、多分玄関や階段は清潔だろうが、建物までの道は悪い。 ロシアやクラスノヤルスクが繁栄していること、これはクラスノヤルスクに着いてすぐからの実感だった。どうして、ウクライナで戦争で、戦費をつぎ込み、西側から経済制裁を受けているというのに市民生活はこんなに繁栄しているのか。戦争に絶対負けないとタマーラさんも含めみんなが言っているが、それはなぜか。近代的な橋や立体道路、新築校舎など社会インフラが普及しているように見えるのはなぜか。かつてはごみごみしていたクラスノヤルスクの旧場末と言うところには高層集合住宅が建ち並んでいる、いったいこの繁栄の源はどこからか、と私はタマーラさんにしつこく聞いてみた。どこからこんな資金が出てきたのかと聞いてみた。高層住宅を建ててそれを売っているからだという答え。(目の前に見えることだからわかりやすいのか)。建築会社がその高層住宅を建てる資金はどこからか、住民が購入する資金はどこからかと、当たり前のことを聞いても、タマーラさんは答えられない。考えたこともないそうだ。 シベリアは地下資源の宝庫だ。富はモスクワに持って行かれるとしても、おこぼれだけでも大きいのだと、私は思っている。戦費にどれだけ使おうと、ロシアの資源を買ってくれる国からの収入は大きい。経済制裁で損をしているのは日本や韓国も含んでヨーロッパだとは、広く言われていることだ。つまり、繁栄の源は広大なロシアの資源を経済的にうまく活用しているからか。西側諸国は、それら資源を狙っている。そのためにはウクライナを操ってロシアを弱らせることだ。そんなこと誰にでもわかる。20世紀初めから反露的な意識の芽生えたウクライナは、そこを利用され、欧米の利益のために、ロシアの『侵略』と戦って死ぬのか。 ソ連崩壊後(その前からも)、国有財産だった多くの地下資源はオリガルハ(個人経営、つまり新興財閥)のものにうつったが、プーチンはそれらを『人民のもの』(国有化をのこと、みんなのものという幻想を込めて、実はプーチン傘下のオルガルヒのものに)にしてくれたのだと、リューダさん達たちは言っている。資源だけに頼っていたのでは技術が発展しない、教育もだ。シベリア連邦大学にしろ、新装備の学校にしろ、モスクワなどに建てられた学術機関にしろ、ロシアの底力の表れか。 2時間ほどで、リューダさんに電話して、迎えに来てもらった。今回はタクシーでなく、彼女が迎えに来てくれることになっていた。タマーラさんの夫が、車の止まっている大通りまで送りましょうと言ってくれた。この時、始めてタマーラさんの夫を見た。親切な老人で、ちゃんと私の手を取ってくれた。厚化粧のマダムの夫らしくない素朴な老人だった。 (後記) 2024年3月23日モスクワ郊外のクラスノゴルスク市の商業施設で銃撃事件のテロが起きた。実行犯4人はタジク人で、イスラム系のISKPから犯行声明が出たが、疑問が多い。私は知り合いのロシア人の多くに、実行犯の背後にいたのは誰と思うか、闇バイトのような4人にお金(前金)を払ったのは誰か、SNSで聞いてみた。それなりに長短の返事を受け取ったが、タマーラさんからは『それがあんたに何なのさ』という返事だった。『答えたくないなら、それもいい』と返事を出しておいた。 この日の夕食はリューダさんと2人の男の子と4人で食べた。スメタナが好きだと言ったので、リュ−ダさんが買ってきてくれた。ブリヌイ(薄いパンケーキ)に、黒パン、クランベリーなど、私が食べたいといったものが並んでいた。親切なリュ−ダさんだ。 |
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クラスノヤルスク空港 | ||||||||||||||||
10時頃には市から30キロ離れたエメリヤーノフ空港(テルミナ−ルは2017年建)に着いた。購入した格安航空機Utairは11時35分発なので、搭乗手続きを済ませて入ったが、90分遅れだと知った。初めは45分遅れだと放送されたのに、さらに延着だ。家を出発前に知っていたらもっとゆっくりしたのにと思ったが、空港内免税ショップをぶらついて時間を潰すことにした。空港へ来る途中にチョコ直売店で買った一箱320ルーブルのチョコがここでは1850ルーブルだった。写真を撮って、リューダさんに送ると『ほらね』という返事。
イルクーツクのカリフマンさんから、到着時間を電話で聞かれた。つまり到着地のイルクーツクでも延着が放送されていたのか。格安航空だから後回しにされて遅れているのではないかと疑ったくらいだが、この日の遅れはクラスアビア航空のイガルカ・ディクソン行きも遅れている。クラスノヤルスク北の北極圏空港行きは気候のため度々遅れたり中止になったりする。しかし、同じ北極圏で同じ航空会社でも、時刻表にノリリスク行きの延着のお知らせはないから、別の原因だろう。90分くらいの遅れは、日本でもあるかも知れない。 免税店を廻っても、カードも使えないし、ルーブルも大して持ち合わせなかったので、見て回るだけだ。リュ−ダさんが別れる時、何か買って食べられるようにとルーブルをくれようとしたが、受け取っておけばよかった。だが、あるだけの小銭で、ポストカードやキーホルダーを買った。 |
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イルクーツク着、イルクーツク発 | ||||||||||||||||
クラスノヤルスクから再度来てみるとイルクーツクは、町並みを見る限りでは、それほど繁盛はしていない。クラスノヤルスク地方はロシア有数の地下資源がいくつもあるが、イルクーツク州にだって、金や石油、ガスが採れる。 予定ではイルクーツクに9時間も滞在できるはずだったが、そうではなくなったため急がなくてはならない。ナースチャ・シュメリョーヴァ Настя Шмелеваさんが(10月25日、植物園まで送ってくれた女性)頼んでおいた新版ロシア史教科書を手に入れてくれたそうだ。チーホンのところに持ってきてくれるはずだったが、彼女は感冒にかかったとかで動けない、小包で送ってくれているはずだ。到着早々、チーホンに小包で教科書が送られてきているかと聞くと、それは郵便局(または、配達集積所)に留め置かれたままだという。私の到着する前に、ついでの時にそこまで行って受け取ってきておいたら、時間もタクシー代も節約できたのに、と内心では憤慨していた。チーホンは私とタクシーで近くまで行き、後はナビで探し当てた。往復で1時間以上はかかった。 7時半ごろ、チーホンとマーシャ、ナタリア・ベンチャーロヴォさんのいつもの3人でカフェで夕食をとった。その帰り、もう一度、本屋へ寄った。スーツケースにもう1冊ぐらい本を入れる余裕がありそうだったからだ。知り合いの店員のエレーナ・マステルスキッフさんが勧めてくれた最も新しい版のロシア史を購入。 チーホンがタクシーでイルクーツク空港まで送ってくれた。空港の待合ホールは、クラスノヤルスクと大違いで、ごみごみして、座る椅子もなく、狭い。出稼ぎアジア人の厳しい表情の男性も多い。 ここで出国なのでパスポートを出して出国手続きをしなければならない。入国の時は手間取ったが、出国はスムーズだろうと思ったが、そうでもなかった。窓口の内側で待たされた。しかし別室に案内されることもなく、まもなく、パスポートを戻され、搭乗者待合ホームに進むことができた。ここにも大勢の旅客がいて混雑していた。私は喉が渇いて水を飲みたいと思ったが、財布には10ルーブルしか残っていない。水は15ルーブルだった。小銭のコペイカを全部たすと15ルーブルになるが、恥ずかしくて出せなかった。チーホンから少しもらってくればよかった。 待合ホールに大勢いた旅客はほとんど黒海沿岸の保養地ソチ行きの飛行機に乗っくれたので、彼らが出て行った後、ホール内は少し静かになった。 私が乗ったウラン・バートル行きのイルアエロ航空もサービスの悪い機内で、値段だけは高いのに格安航空機以下だった。つまり、機内サービスは有料だった。それもカードのみの支払いと言われる。後から水だけは支給された。隣に座っていた女性はブリヤート人だという。ノヴォシビルスクに住んでいて、モンゴルに遊びに行くそうだ(ノヴォシビルスクからの直通便はないのでイルクーツクで乗り換えるのか)。ウクライナ戦争のため、2022年秋の30万人動員では、ブリヤート人が多く徴集され、だから、ブリヤート人の戦死者も多かっただろう。隣の女性に「大勢戦死した?」と聞いてみた。「大勢死んだわ」と言う答えだった。それ以上は聞けなかった。 (2022年からロシア領の旧ウクライナのルガンスカヤ州セーヴェロドネツク市から避難してきている女性と、以前話したことがある。彼女はもちろんロシアを『憎んで』いる。いまは、自分の別荘にブリヤート人が住んでいると、憎々しげに言っていた。スラブ系の自分の持ち家をアジア系のブリヤート人なんかに占領されて悔しいという風だった。彼女の避難を受け入れたところもアジアの日本ではないか。) |
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復路ウランバートル空港、帰国 | ||||||||||||||||
空港は草原の中にあるので、広いガラス窓から日の出が眺められる。モンゴルにあこがれる人の気持ちもわかるが、シベリア帰りの私にはありふれた光景だと、内心では思いながら3時間もあちこちと席を変えながら眺めていた。 ミヤット航空の機内はほぼ満席で、日本人観光客が多く、隣の席もそうだった。彼らは、4日間の日程でウランバートルに泊まり市内や郊外を見物して、今朝早くホテルを出て空港に着いたのだとか。市内から空港まで50キロもあるそうだから、往復がたいへんだ。一人旅なら、6時間4,000円余のラウンジがよい。 次回はチェチェンやサンクト・ペテルブルクまで足を伸ばしたいものだ。ロシア人の友人は最近ケルチンスキィ(クリミア)橋経由でクリミアへ行ってきたと言っている。通行可能なんだ! |
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