クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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March 30, 2024 (追記:2024年4月21日)
40 - (8) 2023年イルクーツク(バイカル)とクラスノヤルスク (8)
    クラスノヤルスクを去る
        2023年10月13日から11月13日(のうちの11月5日から13日)

Путешествие в Иркутске(Баикал)и Красноярске, 2023 года (13.10.2023−13.11.2023)

ロシア連邦地図
 
  バイカルとイルクーツク            
 10/13-
10/14
 2022年頃 ビザ  日程と費用  ウランバートル  イルクーツク着  カラトゥエフさん     アンガラ川入り江  劇場
2 10/15-
10/19
 バイカル湖へ オリホン島 オプショナル・ツアー  メルツ先生   コンサート(1) 森の小川、グルジーニンさん   エレメーエヴィさん  コンサート(2)  
3 10/20-
10/22
 村の学校 バイカルを去る  シェレホフ市  オルガンホール  エルサレムの丘 アルカージー宅  音楽功労者   『軍事』博物館   カトリック教会  アンガルスク市
10/23-
10/26
 ナターシャのお供
音楽高等学校  第19学校  フンボルト学校  外国語大学  七宝焼き   ロジャンスカヤさん     シベリア鉄道 
   繁栄するクラスノヤルスク            
 5 10/26-
10/27
 クラスノヤルスク着 リュ−ダさん  繁栄するクラスノヤルスク  軍事高等学校   新興団地 アカデミゴロドク区の学校   避難訓練の掲示板  契約兵募集  ソスノヴォボルスク町
 6 10/28-
10/31
 ハカシア共和国 プチャーチンさん アバカン博物館   フルシチョフカ・アパート  ベヤ村 牧場 ベヤ村周辺   白イユース川   トゥイム崩落
 7 11/1-
11/4
 中央アジアからの出稼ぎ
 ヴラディスラフ君 タクシー  郷土史博物館  金日成記念碑  エニセイスク市へ  ヴィサコゴルヌィ橋  エニセイスク博物館  エニセイスク市の記念物  
 8  11/5-
11/13
 リューダさんとの談話 墓参  クドリャーツォヴァさん  ジェレズノゴルスク市方面  パドゴルヌィ町   タマーラさん クラスノヤルスク空港   イルクーツク空港  ウラン・バートル空港 

 リューダさんとの談話
 11月5日。リュ−ダさんとはマトベイともよく外食したが、できあがりのサラダなど買ってきて家のダイニング・キッチンでも食べた。朝食はもちろん、家で食べる。ヴラディスラフが帰ってきてからは4人で食べる。男の子達が食べ終わって居間のソファでスマホゲームなどしているとき、私とリュ−ダさんはよくウクライナ戦争について話した。今回私が話したロシア人と同様彼女も熱烈なプーチン支持者、つまり、ロシアの戦争は正しい、必ず勝利するというものだった。ウクライナ、それはネオナチズム(*)である。生き残りバンデーラ主義者の政権であるというものだ。ヒトラーをのぞいてバンデーラほど残酷な指導者はいない。ユダヤ人ポーランド人、ロマ人、そしてソ連派のウクライナ人を虐殺したのだ。今、ロシア人が西ウクライナ人を軽蔑して呼ぶときは、バンデーラ主義者という。ウクライナ語とは西ウクライナ人のロシア方言を国家語としたものだ。
(ウクライナの古代中世近世史*)
 ウクライナもそうだが、西ウクライナは歴史的に微妙な地域だ。中世はポーランとリトアニア連合国の領土だったし、近世はオーストリア・ハンガリー帝国の領土だった。第1次大戦で帝国が崩壊した後は、西ウクライナ人民共和国が形成されたが、ポーランド・ウクライナ戦争に敗れ、1920年からは大部分がポーランド領、独ソ戦の1941−1944はナチスドイツが占領したが、第2次大戦のソ連の勝利により、ソ連領となった。その間ウクライナ蜂起軍を中心として、1950年頃まではソ連と戦ったが敗れた。ロシア政府にとって西ウクライナは反露勢力が強いとうつる。チェコスロバキア領(現ウクライナのザカルパチア州、その後ハンガリー領)、ハンガリー領、ルーマニア領と、代わり、第2次大戦後はウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国領
 独ソ戦中とその後の蜂起軍の指導者の一人がバンデーラだった。
 ソ連崩壊後の1992年から,私はロシア人と、当時の私の語学力の許す限り,政治のことも話した。ロシアの歴史は隣国への侵略、膨張主義に満ちている。日本側の報道はもちろん、ロシアの社会を実際に見ても、ロシアに住むのは難しい。自由と民主主義がないと言われている。政府に反対すれば、抹殺される。それは、西側のマスコミを騒がせている。反政府のミーティングなどすれば、逮捕される。『悪の帝国』などと感情的に言われてさえいる。西側の情報統制が半分あるだろう。ロシア側のプロパガンダもそれに劣らない。しかし、私はロシア人には、ロシアの膨張主義、いわゆる『民主的』ではない社会に対して、批判ばかりしてきた。しかし、今回は、ひとえにロシアの主張について聞き役だった。、そのためにロシアへ行ったのだから。観光地見学はおまけで、目的はできるだけ多くの人に会って聞けないことを質問してみることだ。
  墓参.クラスノヤルスク右岸
  クラスノヤルスクを訪れたもう一つの理由はニーナ・フョードロフ・イヴァノヴォさんの墓参だった。1931年生まれの彼女と始めてあったのは1992年、ゼレノゴルスク市(古い暗号名ではクラスノヤルスク45市)だった。私が、1997年からクラスノヤルスク市に住むようになっても、度々会った。2003年、私が旧パートナーと同じアパートに住めなくなったとき、1ヶ月ほど自分のアパートに泊めてくれた。日本帰国後、クラスノヤルスクに来たときは宿を貸してくれた。例年年賀の挨拶を国際航空便で送ってくれた。しかし、2019年10月21日に亡くなった。ニーナ・フョードロフさんに最後に会ったのは2018年2月2日だ。
 彼女の死亡は、彼女の甥のアンドレイが知らせてくれた。後に墓も建てたと知らせてくれた。私は、次回クラスノヤルスクに行ったときは必ず墓参すると彼に書いた。その時は必ず前もって知らせてほしいという返事。新型コロナ感染やウクライナ戦争があって、ロシアへはしばらく行かなかったが、やっと訪れることができた。約束通り前もって知らせた。彼の都合と私の都合が合ったのがこの日だった。
 12時前に右岸の彼のアパートに来てほしいと言うことだった。テーブルにごちそうを並べて遅めの法要をしようと言うらしい。彼のアパートまではまたリュ−ダさんに送ってもらった。昔の私なら、いくらでもバスに乗って目的地の住所に行き、番号を探せたものだが。
 子供がなかったニーナ・フョードロヴナさんの妹の二人の息子アンドレイとフェージャと彼らの妻達が、迎えてくれた。アンドレイとは、昔、ニーナさんの別荘へ行ったこともある、そこで妻のオーリャさんと二人の息子(ニーナさんの甥孫のサーシャとアリョーシャ)がいた。アンドレイと、ニーナ・フョードロヴナの妹のヴァレンチーさんの別荘へ行ったこともある。ドロキナ Дрокино村にフェージャが家を建ていた時、ニーナ・フョードロヴナさんと行ったこともある。その時フェージャの妻は学校の先生だったが、今は別の女性ガリーナ・チャルキナ Галина Чалкинаと言う愛想のいいピチピチした女性が妻として紹介された。今まで私の知っていた3人は、もちろんその年数だけ年を取り、頭も白くなり、脂肪が付いていた。
 私は来る途中で花屋により、白菊を買っておいた。日本で墓前というと白い菊で黄色も混ぜて花束にしたのを売っているが、ロシアでは生の花を墓前には飾らないが、色のあせない派手な色の造花を墓前に置くとは知っている。だが、白と黄色のほんものの菊を2本だけ買った。大きな花束にするには資金が足りない。日本流の墓参にした。造花の花束は、寿司屋の開店祝いぐらいにしか飾らないかと思ったから。
 ごちそうを食べる前に(酔っ払う前に)墓参を、ということで、フェージャさん運転の古い日本車で着いたクラスノヤルスク市民共同墓地の一つは、アンドレイさんやニーナ・フョードロヴナさん達が住んでいた右岸にある。ヨーロッパの墓地は見たことはないが、多分、ロシアの墓地はヨーロッパ風なのだろう。1枚の石板に肖像と名前と年月日が彫ってある。火葬はしないから、棺を埋めて、その頭のあたりに記念碑として墓石が立っている。石板は長方形とは限らない。多くはソ連時代に生きていた人の墓地だから、十字架はあまり見かけない。石版にロシア正教の十字架が刻んである墓もある。
 ニーナ・フョードロヴナさんの墓は、甥のアンドレイさん達が建てた。その横には、姉より4ヶ月前に亡くなったアンドレイさん達の実母ヴァレンチーナ・カリーニナさんの墓がある。さらにその横には二人の姉妹の父親である『フェードロ・パンクラートフ Федор Панкратов 1913年4月4日ー1994年12月31日』と彫られた墓石が並んでいる。この3人を柵で囲ってあった。その横の地所には 『ヴァレーリィ・フェードロヴィッチ・パンクラオトフ Панкратов Валерий Федорович 1941.5.27-2005.12.23』 と彫られた姉妹の弟の墓がある。夫婦が一緒に葬られてはいない。姉妹の墓はおそらく同時に建てたものだろう。軍人の父親(ニーナ姉妹とその弟の父)はソ連各地を廻っていただろうが、亡くなったのはクラスノヤルスクだろうか。母親は別の地に墓標があるのか。姉妹とその弟がクラスノヤルスクでなくなったとして、彼らの配偶者もクラスノヤルスクか。ニーナ・フョードロヴナさんは3度結婚して3度夫を亡くしている。その夫の墓地を生前のニーナ・フョードロヴナと訪れたことがあるので、アンドレイに聞いてみた。しかし義理の伯父なんて彼には他人だ。では実の父親は?早くにヴァレンチーナさんと離婚して、アンドレイとフェージャの兄弟は母親のヴァレンチーナさんと伯母のニーナ・フョードロヴナが育てたのか。ニーナ・フォードロブさんは甥を自分の息子のようにかわいがっていたし、その息子達も本当の孫のようにかわいがっていた。だが、死の数年前、姉妹は仲違いをして、そのまま、仲直りすることなく死んでしまった。墓は、仲良く並んでいるが。
 墓前には枯れない造花の花がたくさん飾ってあった。2本の菊はちょっと寂しかったが、その横に捧げた。
 フェージャ運転の車で、戻ってきた。右岸には工場が多い、その光景は、私が滞在した1990年代終わりや2000年初めと変わりなかった。道路状態も悪かった。たまに、建設中の高層住宅が現われる。ソ連風でないデザインの高層住宅が数軒見られた。新築の教会もある。クラスノヤルスク好景気の都市開発の波が、まだ右岸にまで及んでいないようだ。
 アンドレイの家に戻ると、もうテーブルにはごちそうが並んでいた。留守番の妻達が準備してくれたのだ。法事だからと肉類を食べていけないわけではない。アルコール類もたっぷりあって、私以外の大人達は盃をあけていた。前もって私の訪問に日時を知らせ、帰りは送ってほしいと言ったことに返事がなかったのも頷ける。アンドレイ達はすっかりいい気分のようだった。ウクライナ戦争についても話した。ロシアは負けないと断言された。もう私は、それが本当だと思うようになっていた。
 4時頃、電話してリュ−ダさんに迎えに来てもらった。タクシー代わりに使ってしまって本当に申し訳ない。お礼も十分にできなかった。
  クドリャーツォヴァさん 
  この日は、アンドレイさん訪問の後、5時ごろ、ナタリア・クドリャツィーヴァさん宅に行くと約束してあった。彼女はクラスノヤルスク大学時代の教え子で、結婚して子供もいるが、実家はリュ−ダさん宅の隣だった。母親は弁護士で、2003年1月のチェコ旅行の返金事件の折、家庭裁判所で私の弁護士になってくれた。
 ナタリア・クドリャフツェーヴァさんの息子は、マトベイと同年で、彼女が実家に息子をつれて来たときは、二人の少年は公園で遊んでいたり、どちらかの家で食事したりしている。だから、今回、クラスノヤルスクにゆっくり滞在した機会に、訪問することにしたのだ。隣だから車での送り迎えも必要ない。
 ナタリア・クドリャフツェーヴァさんは遅めに、退役軍人の男性と結婚した。職業軍人だったが、年配であるし、戦地に送られることはないそうだ。年配と行っても、ナタリア(40代前半)とほぼ同年だそうだ。
 母親のエレーナ・アレクサンドロヴィッチ Елена Александровнаさんはさすが(元)弁護士だけあって、ウクライナ戦争については詳しかった。ウクライナ軍の総司令官ザルイジニが『もう戦うことはできない』と言った。戦えないと断言したと、エレーナさんは言う。ザルィジニという名もその時始めて聞いた。帰国後、ネットを調べてみようと思った。(帰国後のことだが、ザルィジニの名はもうメディアでは有名だった。日本では、そのように直接的に言ったとは、報道していない。しかし、ゼレンスキーとの不和については報道している、その後解任された)。ウクライナがいかに汚職の国かとも言っていた。それは昔のソ連をうけ付いた国だからそうだろうと密かに思った。(ロシアやウクライナだけが汚職の蔓延している国というわけではないが)。ゼレンスキーはロンドンにもイタリアにもイスラエルにも豪華なマンションを持っている。モスクワにもクリミアにも持っていた。ゼレンスキーの妻はアメリカで高級品の爆買いをしているとか。
  閉鎖都市ジェレズノゴルスク市方面
  11月6日。滞在最後の日だから、近場へ行くことにしてあった。そこはジェレズノゴルスク方面だ。9時過ぎに嫌がるマトベイを乗せて出発した。クラスノヤルスクの北東25キロにあるジェレズノゴルスク(旧・暗号名クラスノヤルスク26)は今でも原子力関係の閉鎖都市だ。私の滞在中にもクラスノヤルスク市からジェレズノゴルスク市の検問所までの舗装道があって、気持ちのよいドライブができた。その検問所で、道路はピタリと終わっていて、横からも後ろからも市内へは入れないようだった。
 クラスノヤルスク市からベリョーゾフカ町を通るごみごみした穴だらけの道を抜けていった。その道は昔の国道だった。今でもベリョーゾフカズカ町の中心を抜けて通っている。クラスノヤルスクに入るにも大廻りするにも立派な連邦道R225号線(別名『シベリア』ノヴォシビルスクからイルクーツクまでの1860km)のバイパスが、最近はできている。しかし、この昔からの伝統的な道路は、帝政時代、徒刑囚がこの道を東へ向けて運ばれていったという歴史的なリアルな彫像があって、過酷な帝政時代を現わしていた。旧道『シベリア』と地図には載っている。
 クラスノヤルスクからその道路(旧道シベリア)をジェレズノゴルスク市の方向へ行くと、連邦道R 255号線のバイパスとの立体交差に出る。直進すると相変わらず左はエニセイ川で、ソスノヴォボルスク町が右に見えてくる。ここまでは数日前に来て、ベットタウンとして大発展した町に驚いたものだ。今回は通り過ぎて、右折する。パドゴルヌィ Подгорный町が今日の目的地の一つだ(リューダさんと13年前に行ったことがある)
ソスノヴォボルスクは道路に沿ってあるが、その奥に行ってもパドゴルヌィ町に出られる。ソスノヴォボルスクは、閉鎖都市ジェレズノゴルスクへの、無許可でも通行可能のギリギリの町で、この先は、アトム閉鎖都市ジェレズノゴルスク市の衛星村が5こある。それは、許可証なしでは入れなかったドドノヴォ Додоново村、ノーヴィ・プーチ Новый путь村、パドゴルヌィ Подгорный町、タルタット Тартае村、シヴェラ Шивера村だ。ソスノヴォボルスクは、その先の衛星村と比べて最も大きく、ジェレズノゴルスク市とも5キロしか離れていない。
 ソスノボボルスクに最も近いのは人口5400人のパドゴヌィ町だ。ジェレズノゴルスク市の衛星都市だったから、閉鎖都市のはずだが、アトム関係の工場があるわけではなく、ジェレズノゴルスク市の住民のための暖房施設などがあるだけなのか、昔でも町の裏側から入ることができた。クラスノヤルスクから20キロ北東にある。13年前、リューダさんと来たときは正面から入ったものだ、検問所跡の遮断バーの取り外し跡がその頃はあったが、今は全くない。
     (*)パドゴルニィはジェレズノゴルスク建設の3年後の1953年にできた町で旧称は暗号名『クラスノヤルスク35』,または『4番』と言った。1955には全地区が有刺鉄線で囲まれていて、工業化学コンビナート(つまり原子力関係)の町だった。その主な目的は、ロケットエンジンのテストベンチだったそうだ。軍事建設業者とコムソモールのメンバーは、道路、エネルギー、ロケット燃料部品の倉庫、処理施設、窒素、酸素、アルゴンを生産するための空気分離施設、その他多くの施設など、無人の針葉樹林地帯に新しいインフラを建設したわけだ。
 1988年、工場は冷蔵庫用ブロックの製造に使用されるようになった。1990年、計画された転換の一環として、SLBMと計器室の処分施設が設置された。1998年からは、米国との契約に基づき、ロケット燃料の接触水素化の建設が進められた。2001年、化学工場は改革され、それに基づいていくつかの組織が設立されました。2008年7月1日、村への立ち入り制限が解除された。化学プラントの周りを残して、町への立ち入り制限が解除された(ウィキペディアより)。
 パドゴルヌィ町。ノーヴィ・プーチ村
 前回来たときより、パドゴルヌィ町が繁栄しているようにも見えなかった。ソスノヴォボルスクと比べて、近い距離だが、かつては閉鎖都市だったからか。教会は建っていた。以前は建設中だった。しかし、今でも完成はしていないようだ。お勤めもないようだった。考古学や岩画に興味があったので、パドゴルヌィ博物館には岩画のコレクションがあると聞いて、訪れようと思ったことがある。電話をかけて開館日について聞いてみたのだ。町の閉鎖は修了していたにもかかわらず、電話に出た職員から、外国人は受け入れることができませんと言われた。その後、日本人知人がクラスノヤルスクを訪れる機会があって、見所を聞かれたとき、パドゴルヌィの博物館には岩画のコレクションがあるが、入館できるかどうかわからないと答えておいた。その知人は、予約なしで行ったところ、すんなり入館できて(現地に現われることが肝心なのか)ガイドもしてもらったそうだ。その話を、リュ−ダさんにして二人で笑っていた。そして、この機会に行きたがっている私の気持ちを察してくれた。
 博物館というものはなかった。町の学校附属の博物館ならあって、行ってみると休館だった。岩画のコレクションがそこに今でもあるのかどうかわからない。
 憩いの場所をつくろうと、化学コンビナートの労働者自らが、1968年タルタット川をせき止めて貯水池をつくったとヴィキペディアに書いてある。水遊びができるよう、砂場もつくった。以前に来たときにも行ったことがある。また行ってみようと、町民に道順を聞いて訪れてみた。工事中のトラックも止まっていた。タルタット水浴場の整備でもやっているのか、道でも整備しているのか。この人工の貯水池には以前に人魚の像があって、コペンハーゲンを気取ってると思ったが、今回は人魚ばかりかイルカやオットセイやカバの像もあった。貯水池は完全に凍っていたようだが、岸から遠くへは行かなかった。
 ジェレズノゴルスク市の入り口は3個ほどあって、クラスノヤルスクからまっすぐに来る道が突き当たるのは正面入り口だ。そのほかに横道があって、パドゴルヌィから田舎道を通って入る検問所もある。試しに行ってみた。遮断機の下りた入り口には女性兵士が立っていた。リュ−ダさんは入ってもいいですかと聞いてみた。許可証がないとだめですという当然の答えで、私達は引き返した。たいして怪しまれなかったと思う。
 ジェレズノゴルスクにもっと近づくとノーヴイ・プーチという現在は人口700人余の町があって、前記のように、かつて、ジェレズノゴルスク閉鎖地域のなかの7個の市町村の中の一つだった。ここにノーヴィ・プーチ池という大きな自然の水場があって、今はクラスノヤルスク都市住民達のキャンプ場になっているそうだ。この池はタルタット貯水池とつながっている。クラスノヤルスクの下流40キロほどのタルタット村近くでエニセイ川右岸に流れ込む延長30キロの支流タルタット川の一部だ。(自然に)せき止められた川の一部にしてはずいぶん広い池だ。対岸が遠くにやっと見晴らせるくらいだ。底から湧き水が出ているのかも知れないが、キャンプ場としては評判が悪い。クラスノヤルスクから手近なところにはあるが、キャンプ料金が高く、不衛生で、マナーが悪い。騒音がひどい。自然も破壊されている。池は泥水で泳ぐ気もしない。とネットのレビューには書いてある。
 行ってみると、自然の中のキャンプと言うにはほど遠い。しかし、凍った水上に、無数の魚釣り客がいた。氷に穴を開けて魚を釣るのだ。氷上は凍えるので小屋やテントを張ってその中で魚釣りを楽しむ。マトベイと3人で眺めていると、車が1台やってくる。釣り道具を下ろして、男女が氷上へ降りていく。
 ディーマさんもここへ氷上穴釣りに来たこともあるとか。
 帰り、ソスノヴォゴルスクを通り過ぎ、ベリョーゾフカ町のでこぼこみちを通り、契約兵募集の屋外看板をいくつもみながらクラスノヤルスクに戻った。クラスノヤルスクの大型ショップで日本へのお土産を買うためだ。お土産品は空港か駅か観光地でないと売っていないようだった。大型ショッピング・センターにはファミリー・レストランもある。大きなファミリで、ガラス壁で区切った保育コーナーまであった。おもちゃがいっぱいのそこではちゃんとマスクをした保母(たぶん)さんが幼児のお相手をしていた。
 マトベイは私達と朝から一緒だが、ヴラディスラフはスキー関係の友達のところへ行っていて、迎えに行くようだった。彼はまだ15歳で、兵役にまだ早いが、その時になって招聘通知がちゃんと届くように、住所を明らかにしておかねばならないらしい。学校に学んでいるから、その在学証明も取っておかなくてはならないらしい。スポーツに専念するから兵役免除の手続きも、そのうちするのかどうか知らないが、兵役関係の手続きで、ヴラディスラフやリュ−ダさんは忙しいらしい。
 ランチの帰りには、ヴラディスラフを拾って、町を廻った。15歳のヴラディスラフは途中下車して友達の家に行った。母親と散々口げんかした上で降りていったのだ。もうほとんど少年とも言えない彼には自分の交友関係があって、幼い弟や母親とは時間を過ごさないのだろう。
 途中で入ったガソリン・スタンドにも大きな屋外看板があって、地元クラスノヤルスク出身の兵士が勇敢な働きをしたと書いてあった。名前と勲章名があった。『同郷人マケエフ・ボリス・アンドレイヴィッチМакеев Ворис Андреевич、英雄的な行いをありがとう』と国旗をバックにした当人の写真があった。
 タマーラ・コンスタンチーノヴナ・バヒンスカヤさん宅
  この日、4時にはタマーラ・コンスタンチーノヴナ・バキンスカヤさんと会うことになっていた。彼女とは私がクラスノヤルスク大学に勤めていたときからの知り合いだ。露日友好協会(とは特になかったが、そういう関係の団体か)に関係していたらしく、彼女の方から近づいてきた。目立つことの好きそうなタイプで、そのうち会うこともなくなった。一方彼女の一人娘はクラスノヤルスクの日本語科の学生だった。私が講師として勤め始めたときはタマーラさんの娘ヤーナ・バキンスカヤは2年生だった。日本語科の学生達は一部の学生をのぞいては、みんな中の下か下の中だった。つまり彼女も留学するほども、大学に残って日本語教師になるほども語学力はなかった。卒業後何をしていたのかは知らないが。日本へ車ビジネスに来ている青年と知り合って結婚した。その青年アルチョーマのビジネスは、今も続いている。息子も生まれ、家族で日本に住んでいるとか。10年以上にはなる。日本で車ビジネスをしているディーマさんともアルチョームは親しいらしい。と言うわけで、タマーラさんはリュ−ダさんとも親しい。
 そのタマーラさんと20年ぶりで、会うことにしたのだ。初めは、体の調子が悪くて会えないかもと言われていた。リューダさんも一緒にと言われていたが、リューダさんには用事があった(と断っていた)。結局、彼女が指定した日時は、今日11月6日の16時だったので、リューダさんと訪問用の手土産を途中の店で買って、アパートまで送ってもらった。先日訪れたアナスタシア・ザステペンコさんの母ガリーナさんが今では一人で住むクラスノヤルスク中心にある古い大きな集合住宅と同じだ。ガリーナさんは3つ目の入り口から入って3階に上ったところだが、タマーラさんのアパートは第7入り口から入って2階に上ったところだ。間取りはほぼ同じで、リフォームして多少は違う。
 ドアを開けてくれたタマーラさんに
 「まあ、道で会ってもあなたとはわからないわ」と挨拶された。彼女は元から厚化粧のマダムっぽい太めの女性だ。。私はいつものようにすっぴんめがねの着の身着のままだ。
 20年前に彼女のアパートに行ったことはあるが、今とは違う場所で、最近(数年前)引っ越してきてリフォームしたらしい。安物ではない家具(実用一点張りのフルシチョフカ・アパート用の家具でない、私に言わせれば余計な装飾が付いて場所取りの)が並ぶ部屋に案内された。タマーラさんは娘婿からの補助があるのか。ここの女主人好みの家具だ。この部屋の位置は、ガリーナさん宅と同じで、多分広さも同じだろう。棚には日本のお土産品が並んでいた。娘夫婦は日本で大きい郊外の家を安く買って、ロシア風にリフォームして住んでいるという。田舎の築何十年かの家は、広い土地付きで安く売られているかも知れない。ロシア風の家?では鶏の足のババヤガの小屋か、とは言わなかった(ロシアのおとぎ話に出てくるババヤガが住む家は鶏の足があって向きを変えられる)。日本の木造古民家を『ロシア風』にリフォームと聞けば、「ロシア風」がほかとちがうところを考えると、どうしてもババヤガだ。
 招き入れられて、女主人ご自慢らしい椅子に座ると、私のすることはインテリアを褒めることで、タマーラさんのほうは日本で成功裏に住んでいる一人娘の自慢話だ。(私はロシアなんぞをうろうろしているから、成功裏に住んでいないことになるのかも)。棚には日本土産がぎっしり飾ってあって、娘から送られたものだという。タマーラさんも2、3回日本へ行った。しかし、今は制裁のため小包も送れないし、旅行もできないという。経済制裁中、娘のヤナはモスクワ経由の遠回りでクラスノヤルスクに来たことがあるという。
 タマーラさんは体の調子が悪いので初めは会えないと行っていた位だから、もう歳なのかと思っていたが、目の前にいる彼女は、念入りに化粧し、ネックレスや、イヤリングもつけ、室内用の新品のサンダルを履いている。タマーラさんには、インテリアや家具が立派なこと、娘一家が日本で生活していること、タマーラさんも日本訪問できたことなど、お世辞を言っておいた。招かれた家を賛美するのは礼儀というものだ。
 お茶にしようと続きの台所に行った。ここもリフォームされている。トイレを借りると、洗面所兼トイレで、シャワーボックスが置いてあった。位置はガリーナさん宅と同じだが、トイレとバスの壁が取り払われてバスタブがなくなってシャワ−・ボックスになっているのだ。
 今回訪問したどの家も、暗くて一律なソ連風住宅が一新され明るく便利になっているが、日本の普通の生活に近づいたと言うだけかも知れない。(日本もロシアも貧富の差は大きいが、私の個人的な経験として知る限りは)。ロシアの集合住宅は一歩室内に入ると整備されているが、入り口や階段、エレベーターは憂鬱なものだった。玄関に至る通りはもっと憂鬱だった。遠くから見るとデザインのよい新築の高層集合住宅の中は今回、入る機会はなかったが、多分玄関や階段は清潔だろうが、建物までの道は悪い。
 ロシアやクラスノヤルスクが繁栄していること、これはクラスノヤルスクに着いてすぐからの実感だった。どうして、ウクライナで戦争で、戦費をつぎ込み、西側から経済制裁を受けているというのに市民生活はこんなに繁栄しているのか。戦争に絶対負けないとタマーラさんも含めみんなが言っているが、それはなぜか。近代的な橋や立体道路、新築校舎など社会インフラが普及しているように見えるのはなぜか。かつてはごみごみしていたクラスノヤルスクの旧場末と言うところには高層集合住宅が建ち並んでいる、いったいこの繁栄の源はどこからか、と私はタマーラさんにしつこく聞いてみた。どこからこんな資金が出てきたのかと聞いてみた。高層住宅を建ててそれを売っているからだという答え。その高層住宅を建てる資金はどこからか、購入する資金はどこからかと、当たり前のことを聞いても、タマーラさんは答えられない。考えたこともないそうだ。
 シベリアは地下資源の宝庫だ。富はモスクワに持って行かれるとしても、おこぼれだけでも大きいのだと、私は思っている。戦費にどれだけ使おうと、ロシアの資源を買ってくれる国からの収入は大きい。経済制裁で損をしているのは日本や韓国を含むヨーロッパだとは、広く言われていることだ。つまり、繁栄の源は広大なロシアの資源を経済的にうまく活用しているからか。西側諸国は、それら資源を狙っている。しかし、プーチンは。..
 ソ連崩壊後(その前からも)、国有財産だった多くの地下資源はオリガルハ(個人経営、つまり新興財閥)のものにうつったが、プーチンはそれらを『人民のもの』(国有化をのこと、みんなのものという幻想を込めて)にしてくれたのだと、リューダさん達たちは言っている。
 2時間ほどで、リューダさんに電話して、迎えに来てもらった。今回はタクシーでなく、彼女が迎えに来てくれることになっていた。タマーラさんの夫が、車の止まっている大通りまで送りましょうと行ってくれた。この時始めてタマーラさんの夫を見た。親切な老人で、ちゃんと私の手を取ってくれた。厚化粧のマダムの夫らしくない素朴な老人だった。
(後記 2024年3月23日モスクワ郊外のクラスノゴルスク市の商業施設で銃撃事件のテロが起きた。実行犯4人はタジク人で、イスラム系のISKPから犯行声明が出たが、疑問が多い。私は知り合いのロシア人の多くに、実行犯の背後にいたのがだけと思うか、闇バイトのような4人にお金(前金)を払ったのは誰か、SNSで聞いてみた。それなりに長短の返事を受け取ったが、タマーラさんからは『それがあんたに何なのさ』という返事だった。『答えたくないなら、それもいい』と返事を出しておいた。
 この日の夕食は4人で食べた。スメタナが好きだと言ったので、リュ−ダさんが買ってきてくれた。ブリヌイ(薄いパンケーキ)に、黒パン、クランベリーなど、私が食べたいといったものが並んでいた。親切なリュ−ダさんだ。
  クラスノヤルスク空港
 11月7日。 この日の朝食でも、私はスメタナをたっぷり食べた。お昼前には空港へ行かなければならない。その前に、足りないような気がしたお土産を買い足すことにした。チョコレートのセットがいいだろう。ロシア人もチェコレート好きで各地に『ご当地チョコ工場』がある。そのチョコは(国内に限るが)絶好のお土産品になる。日本のへお土産品だが、いくつか買っていくことにした。家から空港までの道のりに、その直売店があるというので、そこへ寄って3箱ほど購入。ご当地チョコなのでクラスノヤルスクの名所が箱に印刷してある。
 10時頃にはエメリヤーノフ空港(テルミナ−ルは2017年建)に着いた。購入した格安航空機Utairは11時35分発なので、搭乗手続きを済ませて入ったが、90分遅れだと知った。初めは45分遅れだと行っていた。家を出発前に知っていたらもっとゆっくりしたのにと思ったが、空港内免税ショップをぶらついて時間を潰すことにした。途中にチョコ直売店で買った一箱320ルーブルのチョコがここでは1850ルーブルだった。写真を撮って、リューダさんに送ると『ほらね』という返事。
 イルクーツクのカリフマンさんから、到着時間を電話で聞かれた。つまり到着地のイルクーツクでも延着が放送されていたのか。格安航空だから後回しにされて遅れているのではないかと疑ったくらいだが、この日の遅れはクラスアビア航空のイガルカ・ディクソン行きも遅れている。クラスノヤルスク北の北極圏空港行きは気候のため度々遅れたり中止になったりする。しかし、同じ北極圏で同じ航空会社でも、時刻表にノリリスク行きの延着のお知らせはないから、別の原因だろう。90分くらいの遅れは、日本でもあるかも知れない。
 免税店を廻っても、カードも使えないし、ルーブルも大して持ち合わせなかったので、見て回るだけだ。リュ−ダさんが別れる時、何か買って食べられるようにとルーブルをくれようとしたが、受け取っておけばよかった。だが、あるだけの小銭で、ポストカードやキーホルダーを買った。
  イルクーツク空港
  同日7日の午後3時過ぎ、イルクーツクに着くとカリフマンさんが娘さん運転の車で迎えてくれた。チーホンのマンションまで送ってくれて、そこでそのまま別れた。イルクーツクの空港は市郊外の市街地から比較的近いところにある。クラスノヤルスクの場合は30キロ離れた別の市町村にある。クラスノヤルスク空港は新築されているがイルクーツクはずっと郊外移転計画があっても実行されていないのか、古いままだ。大きい空港から順次新築していくようで、ノヴォシビリスクのトルマチョーヴォ Толмачёво空港は乗客用新ターミナルビルが2023年開館した。イルクーツクのほうは頓挫しているとか。(イルクーツク州のインフラが悪いのは、モスクワとの関係の悪い知事がいたせいだとか)
 クラスノヤルスクから再度来てみるとイルクーツクは、町並みを見る限りでは、それほど繁盛はしていない。クラスノヤルスク地方はロシア有数の地下資源がいくつもあるが、イルクーツク州にだって、金や石油、ガスが採れる。
 預定ではイルクーツクに9時間も滞在できるはずだったが、そうではなくなったため急がなくてはならない。ナースチャ・シュメリョーヴァ Настя Шмелеваさんが頼んでおいた新版ロシア史教科書を手に入れてくれたそうだ。チーホンのところに持ってきてくれるはずだったが、彼女は感冒にかかったとかで動けない、小包で送ってくれているはずだ。到着早々、チーホンに教科書のことを聞くと、それは郵便局(または、配達集積所)に留め置かれたままだという。私の到着する前に、ついでの時にそこまで行って受け取ってきておいたら、時間もタクシー代も節約できたのに、と内心では憤慨していた。チーホンは私とタクシーでナビにあるその場所へ行った。往復で1時間以上はかかった。
 7時半ごろ、チーホンとマーシャ、ナタリア・ベンチャーロヴォさんとカフェで夕食をとった。その帰り、もう一度、本屋へ寄った。スーツケースにもう1冊ぐらい本を入れる余裕がありそうだったからだ。知り合いの店員のエレーナ・マステルスキッフさんが勧めてくれた最も新しい版のロシア史を購入。
 チーホンがタクシーでイルクーツク空港まで送ってくれた。空港の待合ホールは、クラスノヤルスクと大違いで、ごみごみして、座る椅子もなく、狭い。出稼ぎアジア人の厳しい表情の男性も多い。
 ここで出国なのでパスポートを出して出国手続きをしなければならない。入国の時は手間取ったが、出国はスムーズだろうと思ったが、そうでもなかった。窓口の内側で待たされた。しかし別室に案内されることもなく、まもなく、パスポートを戻され、搭乗者待合ホームに進めた。ここも大勢の旅客がいて混雑していた。私は喉が渇いて水を飲みたいと思ったが、財布には10ルーブルしか残っていない。水は15ルーブルだった。小銭のコペイカを全部たすと15ルーブルになるが、恥ずかしくて出せなかった。チーホンから少しもらってくればよかった。
 待合ホールに大勢いた旅客はほとんど黒海沿岸の保養地ソチ行きの飛行機に乗っくれたので、ホール内は少し静かになった。
 私が乗ったウラン・バートル行きのイルアエロ航空もサービスの悪い機内で、値段だけは高いのに格安航空機以下だった。つまり、機内サービスは有料だった。それもカードのみの支払いと言われる。後から水だけは支給された。隣に座っていた女性はブリヤート人だという。ノヴォシビルスクに住んでいて、モンゴルに遊びに行くそうだ。ウクライナ戦争のため、2022年秋の30万人動員では、ブリヤート人が多く徴収され、だから、ブリヤート人の戦死者も多かっただろう。隣の女性に「大勢戦死した?」と聞いてみた。「大勢死んだわ」と言う答えだった。それ以上は聞けなかった
(ウクライナのルガンスカヤ州セーヴェロドネツク市から避難してきている女性と、以前話したことがある。彼女はもちろんロシアを『憎んで』いる。いまは、自分の別荘にブリヤート人が住んでいると、憎々しげに言っていた。スラブ系の自分の持ち家をアジア系のブリヤート人なんかに占領されて悔しいという風だった。彼女の避難を受け入れたところもアジアではないか。
  復路ウランバートル空港、帰国
  11月8日。早朝の2時にウランバートルの空港に着いた。来るときに確かめておいたラウンジにまっすぐ向かった。値段を聞くと90,000トゥグルグと言う。それは何ドルか、窓口嬢が苦労して教えてくれた。4千円程度なので、カードで支払った。やっとカードが使える国にきた。ラウンジには客は一人もいなかった。長椅子に案内してくれ、毛布(機内毛布と同じもの)もくれて、軽食や飲み物は自由ですと、言われた。冷蔵庫にあったサンドイッチとオレンジジュースを取ってくる。サンドイッチは葉っぱが多くて食べきれなかった。すぐ横になって、ぐっすり3時間ほどは眠った。起きたとき、離れた長椅子に、もう一人が寝ていた。セルフサービスの紅茶を飲み、パンを食べて、まだ1時間もラウンジ使用時間が残っていたのに、搭乗口ホールに行った。
 空港は草原の中にあるので、広いガラス窓から日の出が眺められる。モンゴルにあこがれる人の気持ちもわかるが、シベリア帰りの私にはありふれた光景だと、内心では思いながら3時間もあちこちと席を変えながら眺めていた。
 ミヤット航空の機内はほぼ満席で、日本人観光客が多く、隣の席もそうだった。彼らは、4日間の日程でウランバートルに泊まり市内や郊外を見物して、今朝早くホテルを出て空港に着いたのだとか。市内から空港まで50キロもあるそうだから、往復がたいへんだ。6時間4,000円余のラウンジがよい。
 次回はチェチェンやサンクト・ペテルブルクまで足を伸ばしたいものだ。
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