クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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40 - (5) 2023年イルクーツク(バイカル)とクラスノヤルスク (5)
    クラスノヤルスク着
        2023年10月13日から11月13日(のうちの10月26日から27日)

Путешествие в иркутске(Баикал)и Красноярске, 2023 года (13.10.2023−13.11.2023)

ロシア連邦地図,イルクーツクとクラスノヤルスク
 
  バイカルとイルクーツク            
 10/13-
10/14
 2022年頃 ビザ  日程と費用  ウランバートル  イルクーツク着  カラトゥエフさん  アンガラ川入り江   ソ連時代からの劇場 
2 10/15-
10/19
 バイカル湖へ オリホン島 オプショナル・ツアー  メルツ先生   コンサート(1) 森の小川、グルジーニンさん   エレメーエヴィさん  コンサート(2)  
3 10/20-
10/22
 村の学校 バイカルを去る  シェレホフ市  オルガンホール  エルサレムの丘 アルカージー宅  音楽功労者   『軍事』博物館   カトリック教会  アンガルスク市
10/23-
10/26
 ナターシャのお供
音楽高等学校  第19学校  フンボルト学校  外国語大学  七宝焼き   ロジャンスカヤさん     シベリア鉄道
   繁栄するクラスノヤルスク            
 5  10/26-
 10/27
 クラスノヤルスク着 リュ−ダさん  クラスノヤルスク新観光 軍事高等学校   新興団地 アカデミゴロドク区の学校   避難訓練の掲示板  契約兵募集  ソスノヴォボルスク町
 6 10/28-
10/31
 ハカシア共和国 プチャーチンさん アバカン博物館   フルシチョフカ・アパート  ベヤ村 牧場  ベヤ村周辺   白イユース川   トゥイム崩落
 7  11/1-
11/4
 中央アジアからの出稼ぎ
 ヴラディスラフ君 タクシー  郷土史博物館  金日成記念碑  エニセイスク市へ  ヴィサコゴルヌィ橋  エニセイスク市博物館  エニセイスク市の記念物  
 8  11/5-
11/13
 リューダさんとの談話 墓参  クドリャーツォヴァさん  ジェレズノゴルスク市方面  パドゴルヌィ町   タマーラさん クラスノヤルスク空港   イルクーツク空港  ウラン・バートル空港 

 クラスノヤルスク着
 10月26日。数年前のシベリア鉄道とは比べものにならないような(しかし、割高の)列車での18時間半の間、何も面白いことはなかった。朝9時半にクラスノヤルスク駅につて、私のロシア滞在後半が始まった。ロシアの駅には改札口はなくて、プラットホームに止まっている列車の目当ての車両の入り口まで行って、その前に立っている車掌さんにチケットとパスポートを見せて、乗車する。降りるときも出口はそこだから、車両番号をあらかじめ教えてもらっている送迎者は、その番号が止まりそうなところに立っている。しかし、プラットフォームに車両番号なんて決して書いてないし、そんな札も下がっていない。すくなくとも私の知っている駅はそうだ。だから、送迎者は列車が入ってくると列車番号を探して走る。
 列車から降りて、リュ−ダさんの姿を見かけるとほっとする。リューダさんも、私の姿が現われてほっとしたようだ。イルクーツクから列車でクラスノヤルスクに着いたことは過去何度もあるが、いつもリューダさんの夫のディーマさんか、この二人に迎えてもらっている。
 クラスノヤルスク駅前、出迎えてくれたリュ−ダさん
 2022年12月、ディーマさん親子が我が家を訪問

 ロシアへ行こうかと思ったのは、ディーマさんが8月末から日本に来ていて10月にタシケント経由で帰国すると聞いて、同行しようと思いついたのだ。連絡すると、ディーマさんは私の同行には反対しなかった。しかし、ビザの手続きを始めようとした頃、ディーマさんの帰国は未定と言われた。それで、イルクーツクのニキータを頼りに、まずイルクーツクに行ったのだ。ディーマさんがいないなら、誰が私をクラスノヤルスクで迎えてくれるのだろう。聞いてみると、ディーマさんの共同経営者のヴァジムが迎えてくれるという返事。「ふうん、ヴァジムがね」と思っていたが、すぐ、妻のリューダが迎えるから、リューダ宅、つまり留守中のディーマのマンションに住んだらいいと言われたのだ。それでリューダさんに、いつからいつまでどのくらいの期間お邪魔できますかと聞いた「いつでも、好きなだけ」という返事。ロシア人ならみんなこう言う。
 列車が遅れてリューダさんを待たせると言うことがなくてよかった。リューダさの言うには、定刻より早く着いたそうだ。なるほど、到着後、駅前でアイフォンで撮った大時計の時刻は9時33分となっている。列車を降りてからそこまでは10分はかかるだろうに。
 リューダさんは自分のランクルを駅から少し離れたに止めておいたので、私たちはそこまで歩いた。綺麗に舗装されている駅前広場を離れるとすぐ水たまりや段差があるのは、まだ昔のままだ。
 ディーマさんが始めて日本へ来たのは19年前で、私がクラスノヤルスクでリューダさんに会ったのは16年ほど前か。その頃、リューダさんは車の運転の初心者で、もちろんもっと小さい車を運転していた。
 ディーマさんは長女のアリーナを、15年ほど前に日本へ連れてきた。5年ほど前、長男のヴラジスラフ(愛称ヴラット)君を連れてきて、2022年12月には妻のリューダさんと次男のマトベイを日本へ連れてきた。帰国時、リューダさんはスーツケースに入りきらないほど買い物をしたらしい。その頃にはディーマさんには日本に車があったので、家族を連れて日本各地を廻ったらしい。私の家にも来てくれた。その時、私は以前からの反ロシアだったので、ロシアは侵略はしたが、テレビの報道によると、ロシアの戦車などは西側の先進武器を使ったウクライナ軍に破壊され、敗北は確実だ。いくらソ連時代から武器をため込んでいても、世界中を相手には戦えないだろう、と言うようなこと、つまり、テレビで言っているようなことを彼らに言ったものだ。ディーマさんはロシア軍の武器は底を突いていないと控えめに反論していた。いったいなぜ、プーチンはキエフに攻め込んだのか、なぜウクライナに侵略したのか、ともリューダさんに言ったことがある。「やむを得なかったのだ」とリューダさんは応えて、なぜかという説明もしてくれたが、その時は、ロシアの勝手なプロパガンダを彼女も繰り返していると思った(事実ロシアはやむを得ないかった理由をいくつもあげていた)。その頃私は、日本の報道番組の視線、つまり、ウクライナと一緒に戦っているような見方、つまり『有利に』とはウクライナ側にとってであり、『不利な』とはロシア側の優位ではない、と、そのまま受け取っていたのだ。今ではそれら報道と解説番組は大いに疑問だと思っているが。
  リューダさんの自宅と別荘
 ランクルで、リューダさんの3LDKのマンションに着く。昔、アリーナの部屋だったところには長男ヴラディスラフ君(15歳)の部屋になっていて、彼は、今はオーストリアにスキーに行って留守で、私の部屋となる。マトベイとリュ−ダさんはダイニングキッチン横の居間に寝ている。だから、空き部屋が一つある。また広い玄関の間にも、ソファベットが置いてある。
 本当はヴラディスラフ君の部屋
 マヤーク団地のリューダさん達の別荘
 屋内
 地下室のスポーツルーム
 グレミャーチャ・グリーヴァ

 クラスノヤルスク市はモンゴルから北極海まで4000キロ以上のエニセイ川の中上流の両岸にできた町だ。初めは左岸が町中だった。右岸は田舎だったが、第2次大戦のはじめ、右岸に工場が増えた。戦時中ウラルの西から疎開してきた工場もある。今、左岸中心部には古くて立派な家や、県庁や市役所などがあり、左岸エニセイ上流の大学棟周辺は高級住宅地(高官の別荘もある)になっている。(シベリア全体地図では源流エニセイも含めてエニセイ川上流はモンゴルに近いが、ここで言う上流とは、クラスノヤルスク市内を流れる部分のエニセイ川に限って言及している。エニセイ川は、ほぼ南北に流れるが、クラスノヤルスク市内地に限れば、西から東に流れる)。
 リューダさんのマンションは、左岸エニセイ上流の一等地、大学棟地区周辺、つまり、地価も高いとこにある。だから、ここにあるマンションなら単位平米あたりの値も高い。左岸でもエニセイ下流には、アルミ工場もあり、中央アジアからの移民が住んでいるところもあって、不人気だ。下流でも新たに住宅ゾーンが醸成されて、高層アパートが建ち並んでいる区もある。右岸の、昔は田舎だったエニセイ上流方面にはデザインのよい高層住宅の建ち並ぶ団地がぼつぼつとできている。

 一休みして、リュ−ダさんと、駅に私を迎えに来てくれた間留守番していたマトベイを乗せて、彼女の別荘のあるマヤーク(別荘団地の地名)に行く。クラスノヤルスクに来た時にはたいてい別荘も見せてもらったものだ。1回目は、先住者から買ったままの古い別荘、次は、建設中で、今回はリュ−ダさん1家好みに完成したロシアのおとぎ話に出てくるような丸太仕立ての2階建てだった。家具も同じ質の木製だった。これらの木材は、アンガラ川右岸のグレムーチィ村 Гремучийで材木伐採行をしているディーマ・キースティンから購入したそうだ。(キースティンは財をなし、寒いシベリアを去ってクリミヤへ移住したと聞いていて、ディーマさんとキースティンのクリミヤへ行こうと思っていたが、戦争で行けなくなった、とは前述。キースティンは、もう40歳も過ぎているが軍隊に入ったとか)
 アンガラ川下流の北方樹で造った家は、リューダさんが自慢するだけあって森の中の別荘のイメージ通りだ。夏場から秋の初めまで、つまり私が到着するすこし前まで、町中のマンションではなく、ここに住んでいたそうだ。マヤーク別荘地区は、市街地にも近いし、アカデミゴロドクの自宅まで、まずまずの道路もある。車があるから買い物にも行けるし、子供達を学校に送り迎えもできる。(マトベイ君達の通う学校は、マンションの近くだ)。だが、家具も食器もおもちゃも2そろえ必要だ。お金があればそろえるのが楽しいかも知れない。秋も終わりから春の終わり頃までは、本宅で生活する。しかし、度々別荘へ行って、様子を見たり、寒さで装置が壊れてしまわないよう、室内温度12度程度には暖めておいたりしなくてはならない(後述)。別荘の半地下室(昔は穴倉と言った、チルドの温度を保つ)には夏の間につくった瓶詰もたくさん保管されているから、取りに行かなくてはならない。
 リュ−ダさんの別荘の半地下室は、ソ連時代や、その頃建った別荘の穴倉とは、もう言えない。半地下室にはダンベルが転がっていたり、ボクシングのパンニングバッグがぶら下がっていたりするトレーニング・ルームや、ボイラーとタンク、セントラルヒーティング(?)の装置がある。燃料は石油でも石炭でもガスでもないらしい。特別に圧縮した木質ペレットだそうだ。ゆっくり長く熱を出し続けるのだろう。一度入れておけば自動的に燃えてくれる。
 マヤーク別荘団地は、エニセイ左岸の高台にある。散歩するにはいいところだ。寒かったが私たち3人は歩き回った。崖上からは、広いエニセイ川の河岸の集落が見渡せる。崖下の集落も新築の家が多く、近郊の別荘団地の一つになっているようだ。
 クラスノヤルスクでは、前回来たときも、市民の憩いの場(有料のファンパークもある)ができてたる。マヤーク別荘団地の近くにも グレミャーチィ・グリーバ Гремячая грива(轟き渡る長い丘と訳せるか)という丘陵公園ができている。寄ってみた。入り口には『当地区内の造園は2018年に始まりました。歩行者専用道路やスポーツ用道路、フォトゾーン、遊び場や展望台、ハイキングコース、さらには野外地質博物館までもがここにつくられました。これらはすべて生態学的に自然のままのところにつくられています。喫茶部のあるビジターセンターや池もあります』とあった。
 私たちは 『Моховой утёс苔の断崖』と書いてある方へ上っていった。私にはなかなか厳しい道のりで、後400mと書いてあるところまでで、一休みしている間に、マトベイが上っていって降りてきた。それで、このハイキングは引き上げることにして、池畔のビジターセンターにある喫茶部でお茶を飲んで、このエコパークを後にした。
  クラスノヤルスク観光
  繁栄する新しいクラスノヤルスクだった。
 ニコラエフスク橋
 ニコラエフスクの新興団地
 右岸の団地「静かな朝焼け」(ネットから)
 ニコラエフスク丘見晴台
ネットの写真から。 ニコラエフスクの旗竿 
 リューダさんはクラスノヤルスクの新しいところを車で廻ってくれた。クラスノヤルスク市内を、前記のように西から東へ横断しながら流れるエニセイ川に架かる橋といえば、長い間、自動車の通れる橋は3本しかなかったが、2018(2015)年4本目の橋、ニコラエフスク橋が開通した。この橋を架けるための両岸、特に左岸は古く寂れてインフラも悪そうな木造小屋と穴だらけの道のニコラエフスカ村だったが、今では一変している。立体道路が橋に入る道と左岸市街地に続く道を分け、旧い木造の一軒屋はすべて一掃され、その場所には直方体ではあるが外観は見た目も美しいカラーの高層マンションが建ち並んでニコラエフカ団地と名付けられている。売り出し中のもあるらしい。右岸の方も、立体道路が交差していて、慣れないと上手に橋を渡る道路に入れない。その右岸も以前はごみごみした町だったが、今では『静かな朝焼けТихие зори団地』とネオンも綺麗な数軒の真っ白い高層マンションが建ち並んでいる。古いクラスノヤルスクしか知らない私にはロシア繁栄の最も派手な部分を見ているようだった。
 リューダさんは、慣れているのに、立体道路では、私と話していて橋を渡らない方の道を見落としていたのか、渡ってしまい、大回りして左岸に戻った。
 旧クラスノヤルスク国立総合大学はシベリア連邦大学と名前が変わり、建物も新築で。気が引けるくらい(外観は)立派だ。大学はニコラエフスク丘というところに建っている。左岸上流方面にあって、かつてニコラエフスク・スロボダが、市の旧い中心から西(エニセイ上流方面の左岸)にあったので、橋も丘もその名が付いている。スロボダ слобода(*)というところはロシアの各地にある。時代につれてその内容は変わるが、都市近郊の納税を免除された農民の部落で、自由大村とも訳す。時代によって納税免除の割合は異なる。帝政時代にあった行政単位の一つで、名前だけが残ったのだ。

 (*)現代のウクライナ北東部とその地と隣接する現ロシア領の歴史的地名はスロボジャンシナ Слобожанщинаといった。ボグダン・へメリニツキーの乱から逃れてきたザポロージェ・コサックがモスクワ・ツァーリから許可を得て住みつき、南方の国境をタタールやクリミア・ハンからの襲撃から守ることで税などが免除された。スロボダ・ウクライナとも言う)

 つまり、このあたりは、かつてはクラスノヤルスク市ではなかった訳だ。クラスノヤルスク市に入ってからも、今回のような都市整備がなされるまでは。曲がりくねった泥だらけの道路沿いに、傾いたような木造の小屋が建つ非衛生的な地区だった。前述のように、今ではそこには高層マンションが建ち、都心に近く、有害な工場から離れているので、高級地の一つとなっている。
 旧ニコラエフスク自由大村は広く、左岸上流いったい、つまり、新興団地のある橋のあたりから、丘を登った大学の敷地から、さらにその奥にあるニコラエフスク・バイアスロン場まで、その名が付いている。
 100mの旗竿
 バイアスロン競技業にはウラルより東では最も高いという旗竿を建てたらしい。この旗竿にはロシアの巨大な国旗が翻り、クラスノヤルスク中から国旗が見えるというわけだ。この場所はクラスノヤルスク市でも最も高く500mもあり、その旗竿の高さは100mだそうだ。だから。旗も横33m、縦22m、重さ80キロの巨大なものだ。
 競技場が先にでき、そこに続いた見晴台は最近できたものだ。説明書きによると、当時の知事アレクサンドル・ウスの主導で、クラスノヤルスク市ではこの最も高台(500m)にできた。3層に分かれていて、低い層には坂の上に歩道橋、真ん中はひな壇式半円階段、上の層には散歩道となっている。エニセイ川や、その川岸にあるウスペンスキー修道院、対岸の針葉樹林に広がる国立公園『クラスノヤルスク岩山』の有名な岩柱『タク・マク』 や『羽』など、ファン・パーク『バブロヴィ・ロク『Бобровый логビーバーの谷間(そのあたりは昔からそう呼ばれていた)』などを見渡すことができる。
 つまり知事の主導で地方庁の予算を使いクラスノヤルスクの市民が楽しむためにつくったというわけだが、500mのニコラエフスか丘に立った高さ100mの旗竿にその巨大なロシア国旗がはためいて、市内のどこからでもいつでも見えるというわけにはいかなかった。風力で、旗が破ける(そうだ)。ヘリコプターで直そうとしたとか。だから私たちが見たときは、旗竿だけが意味なく立っていた。リューダさんは、ウス(前知事)はこんな税金の無駄使いをするという。
 展望台は、説明書のようにエニセイ川の流れが見晴らせる左岸上流の高台にある。リューダさんのマンションも同じく左岸岩上流にある。見晴台が500mの高さならリューダさんのマンションのあるアカデミガラドク(大学)地区は200mくらいか。アカデミーの町という意味の、ソ連時代からあるこのアカデミガラドク地区には大学関係者の宿舎や、施設がある(あった)。ソ連時代アパートを国家から支給された大学関係者達は、その後、アパートを(ソ連崩壊後の個人所有化で)私有物にできて、ある家族は売却して去って行ったり、資金のある家族が購入したりしているので、今のアカデミゴロドク街には教授は少ないだろう。リュ−ダさん(十数年前に購入、だから大学関係者ではない)のマンションのすぐ横は、30年前学校があった。廃校になった校舎でクラスノヤルスク大学現代外国語学科(英語、日本語、中国語、選択科目として時にはトルコ語、朝鮮語)の授業があった。ここで、私は1998年から2004年までロシア人学生に、ロシア人の日本語講師といっしょに日本語を教えていたのだ。クラスノヤルスク国立総合大学は、その後シベリア連邦大学となり、現代外国語学部という不明瞭な学部はなくなったらしい。日本文化センター(大学附属か)というところで日本語が学べるらしい。シベリア連邦大学のネットには『言語学と言語コミュニケーション学部』に東洋言語学科というのがある。
 2006年までは、私の去った後も、その古い校舎で現代外国語学部が授業していたらしい。 
  軍事学校(軍事教育センターВоеный учебный центр)
 校舎の壁にある戦死者の記念碑
 同センターの中庭、英雄バフマニン大佐の壁画
 軍事技術博物館
  今、その古い校舎(かつては学校であり、その後外国語科が使っていた)の建物のあったところは、軍事教育センター(軍事技術高等専門学校のようなもの)と言う新しい校舎が建っていて、その校庭は(昔の)戦車や戦闘機などの展示場、つまり、軍事技術博物館となっている。マトベイは、戦車によじ登ったりして、うれしそうだ。家の隣だから、友達との遊び場になっているのかもしれない。
 軍事教育センターとは職業軍人の養成所だ。もちろん連邦大学の軍事関係の学部の一つだ。この敷地一帯は、元々大学所有だったからだ。
 校舎の壁には、2022年からのウクライナ特別軍事作戦で戦死した卒業生を悼む記念碑が並んでいる。死後授与された勲章と、肖像写真が碑の上半分に彫られ、名前と生年月日、所属、軍歴、埋葬場所、在学年などが彫ってある。ロシア軍にとって勇敢な行為をした青年達だ。これを見るとロシアだと思う。

 夕方にはリュ−ダさん宅でクラスノヤルスク1日目の食事をした。早めに帰りのチケットの準備をした方がいい。シベリア鉄道もいいが18時間半は長い。ネットでチケットを調べてみると、最も安いATエアー(格安航空らしい)では20キロまでの荷物と座席指定料(449ルーブル)をつけても5685ルーブル(約9000円)で購入できる。列車は3875ルーブルだった。9000円なら、飛行機にしよう、と決めた。帰りのイルクーツクからウランバートル便は11月8日午前0時5分発(つまり7日深夜)なので、遅くとも7日の午後にはイルクーツクに着いていなければならない。それより前でもかまわない、クラスノヤルスクで長居がつらければ。
 11月7日11時35分クラスノヤルスク発15時40分イルクーツク着という便がある。これだと、到着の10月26日から12日間もリューダさんのお世話になる。「もっと早くにイルクーツクに戻ってもいいですが」、と言い出すと、「どうぞ7日までいてください」とのこと。もっと早くに帰ってくださいとも言えないだろう。遠慮せずお世話になることにしようと思って、そのUTエアーのチケットを買った。日本製のカードでは支払いができないので、リューダさんのカードで支払って、5685ルーブル相当の約9000円と、日本から持ってきた残りのたったの4万円を、お食事代として受け取ってもらった。イルクーツクでは現金の円を使わなかったので、これで、東京に着いたとき用の少額の他はなくなったが、モンゴルから向こうはカードが使える。
 クラスノヤルスクの新興団地
 透明な手すりと対岸の新興団地『静かな朝焼け』
 アカデミガラドク区の高台に立つ
 その横の新築の教会
 10月27日。リューダさんの家には、ディーマが日本で買って持ち帰ったウォッシュレットがあるはずだ。初めは温水が出なかった。リューダさんが日本のディーマに電話して、押すべきボタンは押したようだ。座り方も教わって、これが使えるようになったのは本当にありがたい。リューダさんは前々から日本人のトイレに対する贅沢さ(これだけは譲れない)を、ディーマさんから聞かされていたのかも知れない。ずっと、気をつけてくれた。
 前日、もし可能なら学校見物したいと言っておいた。この時期 (戦争があってテロ警戒中)難しいが、マトベイの受け持ちの先生に電話してみるということだった。今日が学校の秋休み前の最後の日で、この後は1週間は休みだ。電話で話が付いたらしい。授業で世界の様子を学ぶから10時半ごろ来てほしいと言うことだった。
 それまで、リューダさんとアカデミガラドク区の新興団地を散歩した。昔、高台のここは荒野だった。今は、『ロシアの新しい殉教者と懺悔者の教会 Храм Новомучеников и исповедников Российских в Академгородоке』と、両手を広げた大きなキリスト像が建っている。リオデジャネイロにもこんなキリスト像があるかも知れない
 2013年この場所の土地が市当局から正教教区に譲渡され、2015年建立、2017年から運営だと、サイトで調べてわかった。こうした寺院建設費用は誰が持つのだろう。サイトにはロシア鉄道会社(この高台の下にクラスノヤルスク駅がある)、聖アンドリュー財団、ウラジーミル・ヤクーニン氏(官僚、企業家、プーチンの側近の一人)というのがスポンサーと出ていた。
 寺院はエニセイ川岸の絶壁の上に建っているから、川岸近くはこれもガラス張りの手すり(柵)付いた見晴台だった。エニセイの見晴台はどこも風は強い。

 こんなところにマンションを購入するといくらぐらいだろう。内装によって異なるそうだ。一区画のコンクリートの直方体を買って、自分でデザインして間取りを決め、床や天井や壁も好みのデザインで張り、トイレやバス、台所の装備も自分の趣味で決めることができる。そういう場合はコンクリートの直方体の値はあまり高くないが、装備の完成までには、ここロシアでは何年もかかり、費用は直方体の倍以上になるだろう。つまり、キッチン、バストイレ、内装など装備がすでにあって、日本のように自分たちの家具類を入れるだけのマンションは、高価なのだ。
 アカデムガラドク区の学校、ウスペンスキー修道院
 3年生の授業
 スクリーンには日本の子供達の通学の写真
 秋休み前の最終日なので欠席者も多いとか
 学内には必ずある『私達の故郷ロシア』のプレート
 学校参観。10時半ごろ、マトベイの通う学校に着いた。(改築はしているかも知れないが、ここに、私はクラスノヤルスク大学に務める前の1年間、5年生と6年生に日本語を教えていたことがある)。学校に珍しい人が来ると上級生は礼儀正しく歓迎してくれ、下級生はめちゃめちゃに歓迎してくれる。玄関にはちゃんとガードマンがいて、前もって知らせがあったのかパスポートは調べられなかった。玄関から入るなり、マトベイの級友達に囲まれた。最初はマトベイの友達の男の子だった。教室に入ると女の子も寄ってきた。すぐ受け持ちの先生が入ってきて授業が始まった。世界の子供達といった感じのテーマか。フランスやアメリカ、中国の子供達の写真が映し出され日本となったところで、前に出てきて説明したり、質問に答えたりしてほしいと言われた。質問はいかにも学童らしい。休みのこと授業時間のこと、何よりも、宿題のことだった。日本で言う通知表の付け方も何度も聞かれた。
 授業が終わってから、集合写真を撮った。その後も、男の子達が寄ってきて私と写真を撮りたがった。私は廊下の掲示板をしっかり写真に撮ってきた。どこの学校でも必ずある『我らが祖国、ロシア』の大きな写真が、祭壇調の飾りはなく、さりげなく壁に掛かっていたところが、インテリの町の学校らしい。『祖国の英雄』という掲示板には9人の肖像画があった。歴史的な英雄ばかりで、ソ連時代の英雄といえば、独ソ戦のジューコフ将軍の写真だけだった。

 アカデミゴロドクの学校の近くから川岸に降りると、ウスベンスキー男子修道院がある。ここへはサンクト・ペテルブルクから日本へ陸路帰国した明治初期の公使榎本武陽も宿泊したそうだ。1873年頃建立とあるから、榎本はできたばかりの修道院に宿泊したのか。1920年には閉鎖された。そして1992年には復活された。私はクラスノヤルスク滞在中にも、その後のクラスノヤルスク訪問にも訪れたことがあるが、その頃は宗教施設としてやっと立っているという、ソ連崩壊後の多くの寺院と同様だった。修道士の個室棟、祈りの教会などの幾棟もあるはずだが、跡地があるだけで、かろうじて主な建物が、寂れた感じで建っていた。
 今、リューダさんに案内されていって見ると、最近の寺院と同様、立派な石造りの寺院が寺院広場の周囲に幾棟も建ち並んでいた。修道院には、修道士が祈る建物が大小幾棟もある。民間の寄付によって復興され、2015年聖別されたと、帰国後調べたサイトには載っていた。
 ウスペンスキー修道院の教会

 クラスノヤルスクでは、道も建物も橋も、見るものすべてソ連時代の不便さ(使う人の立場に立っていない)をどことなく感じさせながら新しく立派だ。
  避難訓練の掲示板
  リューダさんは、今は専業主婦だが、夫が出張中でも、なかなか忙しい。毎日のように、子供を習い事に送り迎えしなければならない。それもそれほど近場ではない。近場とは言え学校へ送り迎えすることだってある。今は次男が一人だが、スキーのトレーニングにオーストリアに行っている長男(15歳)が帰ってくると。彼の送り迎えもしなくてはならない。
 『もしテロリストに襲われたら』
 この日、私は、絵画教室に通うマトベイの迎えに行くリューダさんについて言った。スポーツクラブや文化関係の教室はいくつもある。マトベイが終わるまで暇だったので、玄関でうろうろしていた。もちろん掲示板もある。一つは『もしテロリストに襲われたら』というイラスト入りのがあった。日本では、もし地震が起こったらとか、津波が襲ってきたら、に相当するか。日本に生活するなら地震や津波の避難は知るべきだし、ここではテロリストらしい。
 まずは起きている場所から急いで逃げること、他の人にも知らせること、特別警備隊に知らせること、パニックにならず、落ち着くこと。隠れて携帯の音を消すこと。警官に駆け寄らないこと。手のひらを開き、手を上に上げてゆっくり動くこと。建物が爆破されそうなときはエレベーターを使わないこと。爆破や打ち合いが始まったときは地面に身を伏せて手で頭を覆う。窓に近づかない、見つからないよう陰に隠れる、などとあった。日本人でも知っておいて悪いことはない。
 また『もし群衆にはまり込まれたら』というのもあって、群衆が動く反対方向に行かない。壁や塀には近づかない。何かものを取ろうとはしない。ものを落としても拾わない。胸の前に両手を置く。もし転んだら足を伸ばし跳躍準備の姿勢をして起き上がろうとする。
 さらに『家などが倒れて生き埋めになったら』。注意深く周囲を見回して、倒れていない柱に近寄って、パイプなどを叩いて音を出す。手足をマサージする。これから長期間の飢えと渇きに備える。エネルギーをむだにしない。火を燃やしたりなどして酸素の無駄遣いをしない、など。木造の家を考えてはいない。 
 『人質になったときには』パニックにならず、落ち着く。静かな声で話して、その場所の状況に我慢する。彼ら(テロリストなど)の目を直接見ない。彼らの言うことに従い、目立った行動をしたり、抵抗したりしない。絶対成功の自信がなかったら逃げようとはしない。家屋内の空気が悪くて気分が悪くなったら、できるだけ動かない。できるだけテロリストの情報を覚えておく、例えば、人数、武器。外見の特徴、話し言葉、行動の仕方。自分のいるところをできたら知る。食物を断らない。力と健康を維持するために『精神的にも肉体的にも活動的な状態を保ちましょう。すべてはあなたを救うために行われています』とある。
 『建物が襲撃された時、テロリストの狙撃兵に狙われたとき』、窓やドア、そしてテロリストそのものからも離れる。床に伏せ、後頭部を手で押さえて床に伏せる。保安部隊に協力する。
 日本の避難訓練のようなことをやっているのかどうか知らない。
  街角のプレート、看板『契約兵士募集』、私の旧住所
 音楽会や演劇のポスターの横の
契約兵士募集の張り紙
 昔、2年間住んだ集合住宅
 中心街の壁にあったポスター
 ファミレなので子供が喜ぶ塗り絵や
クイズも用意されている
  もう一枚掲示板があり、こちらは音楽会や演劇のポスターの他に、契約兵士募集の張り紙があった。デザインは、微笑む若い武装青年。イルクーツクからクラスノヤルスクへの列車内でも見たが、それには契約金は書いてなかったが、クラスノヤルスク地方の募集張り紙には契約金額も載っていた。契約時に595、000ルーブル(98万円)、月収200、000ルーブル(33万円)だ。クラスノヤルスク地方で契約した場合と他の地方では金額が違うのか。『契約兵として軍務に付くこと、それこそが男子の仕事、今すぐ117に電話せよ』
 ポスターのデザインは、地方によって何種類かあるのかも知れない、この晴れ晴れと微笑した青年の顔は、町中至る所、バス停、ガソリンスタンド、道路の立て看板などで見かけた。
 
 絵画教室からマトベイを迎えて、町の中心へ向かった。途中、エニセイ沿いの、私が1997年に初めて住んだアパートの近くも過ぎた。ドブロビンスカヤ Дбробинская106という長く大きな建物の中程の4階だった。賃貸しと言うビジネスは当時一般的ではなく、持ち主のおばあさんの荷物がたくさん置いたままで、私が立ち退いたらまた使うつもりだった。彼女は別のもっと小さなアパートに住んで、差額の家賃で生活していたのか。もちろんゴキブリの巣窟だった。水道の蛇口と小さな流し台があるだけの台所だった。当時日本円で2万円ぐらいかけて、浴室にペンキを塗ってもらい、キッチン台もそろえた。掃除もした。住んでしまえばそれなりに快適だった。おばあさんの言うには1年間だけだった。当時は、田舎へ行ってくるから2ヶ月だけ貸すという物件も多かったのだ。ここの大家さんは、孫息子が兵役から帰ったら住むからと1年だけだったが、説得してもう1年いた。孫が帰っても家賃収入が当てにされたのかも知れない。この建物の、1階には結婚登録所があった。つまり民事婚ができる役所があり、教会婚でなければ、ここで、結婚のセレモニーをして籍を入れるサインもできる。実は、私も2度利用した。1度目はクラスノヤルスクからイギリスへ行って、日本女性と結婚したロシア人の結婚式に日本側の通訳として立ち会った。2度目は自分のだった。
 私のクラスノヤルスク滞在中の2度目の住居は ディクタトゥーラ・プロレタリアート Диктатуры Пролетальат42番地で、このすぐ近くだが、部屋の窓からはエニセイが見晴らせなかった。3度目は、エニセイ河川駅向かいだった。

 レーニン大通りとかマルクス通りとか言う名前の通りは必ずやどこの市でも中心なのだ。今、リュ−ダさんの運転でレーニン通りを通ってみると、その角の建物の壁に大きく、異様な壁画があった。リューダさんに聞いてみるとそれは、『ソ連の旗を持ったおばあちゃん』という。ロシア軍の特別軍事作戦中、ロシア女性(おばあちゃん)が、ハリコフに侵攻してきたウクライナ軍に向かって、それがロシア軍が『平和をもたらしてくれた』かと勘違いして、歓迎のソ連の旗を持って出てきた。しかし、その旗はウクライナ軍に踏み潰されて悲しんでいるという有名な場面だそうだ。ウィキペディアによると、これはウクライナのネオナチ反対のシンボルとして、ロシア中あらゆるところでプロパガンダとして利用されている(いた)そうだ。
 マトベイの次の習い事はウシューだった。また、練習場の入り口とホールで待っていた。中国製品が展示してある。水墨画、香炉、絵はがきなどの商品も並んでいた。
 16時、3人でカフェへ行く。中心街のこんなところは外観は洗練されたヨーロッパ風と変わりない。ソ連の雰囲気は全くない。しかし、メニューはロシア的だ。カフェはやはりプチ富裕層のものだ。ロシア滞在中、多くのカフェへ行ったが、もちろんランクがある。庶民的なものもある。家族連れで入れる店もある。このカフェは、同伴の子供のための塗り絵や色鉛筆が用意されていて、メニューにもお子様向けがある。客はプチ富裕層と思われた。
  ベッドタウンになったソスノヴォボルスク町,Сосновоборск
 ソスノヴォボルスク市
 同市の新築の教会
 スーパーの鮮魚コーナー
 スーバーの肉類ケース
  10月28日。ククラスノヤルスクに来たのはハカシアへも行こうと思ったからだ。2019年代はハカシア共和国やトゥヴァ共和国を隅々まで廻った。今回トゥヴァまで行くのは難しいだろう。しかし、リューダさんやディーマの両親のいるハカシアへは行くことに同意してくれるに違いない。日本出発前、リューダさんからハカシアのどこへ行きたいかと尋ねられた。ハカシアで行けそうなところで、いってないところはない。ディーマさんの実家のあるベヤ村には是非行って、あの田舎屋に泊まりたい。アバカンにはリューダさんの両親と弟家族がいる。リューダさんはその弟のサーシャ・プチャーチンに今頃日本人の旅行者を連れてどこへ行ったらいいだろうかと問い合わせたらしい。ベーラヤ・イユース川方面によいところがあるから、みんなでそこのバンガローに泊まろうという提案だった(後述)。
 クラスノヤルスクからアバカンまでは400キロはあるから、当初は往復の日数も入れて4泊の予定だったが、リュ−ダさんの日程の都合で3泊になった。11月2日には長男のヴラディックがオーストリアから帰ってくるので迎えに行かなくてはならない。10月28日、29日、30日、11月1日と4日あるが、28日は、長距離を走るため車の調子をサービスに行ってみてもらわなくてはならないし、別荘へ行って、ストーブを焚いてこなければならない。28日、用事を全部済ませてから出かけて、遅くに現地に到着するより、29日早朝から出かけた方がいい、と言われたので3泊になった。
 また10月末のこの時期はベーリイ・イユース川上流はもう雪も深く、観光客受け入れは終わって、バンガローは閉鎖しているというので、宿泊はしないで、アバカンにまた戻ることになった。つまり、3泊のうち、始めと終わりはアバカンに、中の1泊はベヤ村にと言うことだ(後述)。

 だから10月28日は、クラスノヤルスクに滞在していた。まず別荘へ行って、ペレットを地下の暖房(ボイラー)に入れた。大量のペレットを購入済みだが、数袋は地下に運んであるから、ストーブに投げ入れるだけで、後は屋内が12度になるまで待てばいいとのこと。ボイラー内でペレットが自動的に燃えて、私たちの留守中の数日間は12度に保ってくれる。零下の温度になると、機械が壊れてしまうそうだ。
 次に、サービスに行った。ヴォストーチヌィ・テルミナール Восточный терминалと言う修理と部品販売の店で、ディーマさんがオーナーだ。私は何度も来たことがある。今の場所にまだ引っ越す前のマエルチカ街の倉庫の時代から知っている。今ではすっきりした2階建てのオフィスが建っていて、回りに部品倉庫や駐車場がある。店に入ってみたが、知らない店員から、何がお望みなのでしょうかと言われた。連れと一緒に来ていただけで、ちょっと入ってみただけだと言ってすぐ出た。後で、リューダさんの話によると、門番の男性が私を覚えていたそうだ。
 ここでリューダさんは修理と言うより、アバカン市の父親に持っていく部品を、調達したようだ。
 まだ1時前だった。どこへ行こうか。今までエニセイの上流方面(西)を廻ったから今度は下流方面(北)へ行こうと、ソスノヴォボルスク市へ行ってみた。ここへは昔よくドライブがてらで訪れたものだ。その時は寂れた幽霊のような町だと思った。1970年にトラックの牽引車両を製造する工場城下町として、人工的に、クラスノヤルスクから20キロのところにできた町だ。トラックそのものはКамАзと言って別のところで製造している(何せ、当時は計画経済だったから)。クラスノヤルスク滞在中の私があちこちドライブしていた1990年代末から2000年代初めは、建設中だったアパートも最後まで仕上がらなくて、ぽっかり空いた窓がある鉄筋だけの建物が幽霊屋敷のように建っている町だった。道路もボロボロだった。しかし、今行ってみると、クラスノヤルスク郊外の新興ベッドタウンとして、見事に、こぎれいな町として復活していた。クラスノヤルスクまで距離は20キロだし、道路は整備されているし、多分地価(アパート)はそれほど高くないだろうし、ベッドタウンとして格好だ。ここへは、私の知る限り、アンガラ下流右岸のパルチザンスク金坑採掘のため立ち退きした家族に、新居が与えられたり、ハカシアや田舎から大都市クラスノヤルスクでの職を求めて出てくる人たちの住居となって、こんなに発展したのだろう。人口4万人で、高層アパートが建ち並び、以前にはなかったロシア教会も建っている。信心深いロシア人にとって教会なしの町や村はあり得ない。
 市民の憩いの整備された公園もある。
 ソスノヴォボルスクを去った頃は薄暗くなっていた。帰りにスーパーへ寄って明日の食料などを買ってきた。
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