クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date April 01, 2024 (追記:2024年5月3日)
40 - (3) 2023年イルクーツク(バイカル)とクラスノヤルスク (3)
    イルクーツク市、シェレホフ市、アンガルスク市
        2023年10月13日から11月13日(のうちの10月20日から22日)

Путешествие в иркутске(Баикал)и Красноярске, 2023 года (13.10.2023−13.11.2023)

 
 バイカルとイルクーツク           
 10/13-
10/14
 2022年頃 ビザ  日程と費用  ウランバートル  イルクーツク着  カラトゥエフさん、ウクライナ    アンガラ川入り江   劇場
2 10/15-
10/19
 バイカル湖へ オリホン島 オプショナルツアー  メルツ先生   コンサート1 森の小川、エレメーエヴィ    フジール空港  島の博物館  コンサート2
3 10/20-
10/22
 村の学校 バイカルを去る  シェレホフ市 オルガン・ホール  エルサレムの丘 アルカーシー宅  音楽功労者  軍事『博物館 』 カトリック教会  アンガルスク市 
10/23-
10/26
 ナターリアのお供 音楽カレッジ  第19学校  フンボルト学校  外国語大学  七宝焼き  ロジャンスカヤさん   シベリア鉄道  
 繁栄するクラスノヤルスク           
 5 10/26-
10/27
 クラスノヤルスク着 リューダさん   クラスノヤルスク観光 軍事教育センター  振興団地  アカデムゴロドク区の学校    避難訓練の掲示板 契約兵募集  ソスノヴォボルスク市 
 6 10/28-
10/31
 ハカシア共和国 プチャーチンさん  アバカン博物館  アパート  ベヤ村  牧場  ベヤ村周辺  ベヤ村を去る  白イユース川   トゥイム崩落
 7 11/1-
11/4
 中央アジアからの出稼ぎ ヴラディスラフ君   タクシー 郷土史博物館  金日成記念碑  エニセイスク市へ  ヴィサコゴルヌィ新橋  エニセイスク博物館   エニセイスク市観光 
 8 11/5-
11/13
 リューダさんとの談話  墓参 クドリャーフツォヴァさん  ジェレズノゴルスクし方面  パドゴルヌィ町  タマーラさん宅   クラスノヤルスク空港 イツクーツク空港  ウランバートル空港、帰国  

  村の学校
 10月19日(木)。この日も朝起きて、大きな窓からバイカルを眺めると、対岸の山々に朝日が反射して壮麗だった。この日は、午後からニキータがオリホンを去ってイルクーツクに行く日だ。数日後彼はヴェトナム経由日本に向けて出発する。ニキータと私は入れ替わりのようなことになる。私は、彼のイルクーツクのペンションに好きなだけ滞在してよかった。だが、一応、滞在予定日の半分はクラスノヤルスクで過ごすことにしていたし、ちょうど半分過ぎた日にイルクーツクからクラスノヤルスクまでシベリア鉄道で行こうとチケットも、買ってある。
 窓から眺めたバイカルと対岸の山脈
 この棟だけが営業していた

 イルクーツクには私と会いたがっている人が多いと言うことだったし(それはニキータの宣伝・嬉しがらせだ)、ニキータの車(運転はヴィクトル)に便乗してイルクーツクに行くことにしていたのは午後からだ。午前中はフジール村の学校へ行って、元地理教師だったヴァレンチーナ・ルミャンツェヴァさんのつてで10年生と11年生用の新版メディンスキー編『単一ロシア史教科書』のコピーをしようと計画していた。これは、とっくに新学期が始まっているのに、店頭にも出ていないし、生徒に配られてもいないし、歴史の先生ですら持っていないこともあるという問題の教科書らしい。しかし、田舎の学校では、たまたま手持ちがあると言うこともある。
 学校へ案内してくれたのは昨夜のコンスタンチン・セルヴァトフさんだった。すぐに開いている部屋(音楽室だったか)に案内され、ヴァレンティーナさんが、あっさりと2冊の教科書を持って現われた。10年生用は1917年から1945年まで、11年生用は1945年から21世紀初めとなっている。
 (ロシアでは愛国主義を養うのに歴史教育は最重要だ。だいたい、教科書は政府のプロパガンダと言われている。特に重要なのは現代史を教える高学年の教科書だ。ロシアの歴史教育は6年間以上かけてみっちりとやる。日本のようにらせん的に繰り返すのでも、選択教科でもない。6年生ではロシア史では古代と言える9世紀から16世紀の初めまで。7年生では16世紀と17世紀、8年生では18世紀、9年生では19世紀から20世紀初めの帝政の終わりまでを学ぶ。この学年毎の時代区分は、教科書によって若干異なる。また、3年生から5年生でも古代世界史を学ぶようだ(イラスト多めの教科書か)。ちなみに9世紀以前のロシア史は、スラブ民族史のようにちらりと出てくる。ロシアが10世紀のキエフ大公国の後継民族だとしても、ロシアという国は14、15世紀以前にはほとんど現われなかった。この点では、ウクライナ史の教科書にあるように、大キエフ公国の後継民族は現在の西ウクライナのガリツィアにうつったルス人(ラテン語でルテニア人、現在ウクライナ人と言う)で、東北の森林地帯にできたモスクヴァ公国はフィン系人がロシア語を話しているに過ぎない、と言う説も当たっているかも知れない)
 ロシア史11年生教科書
 私が最も興味のあるのは21世紀のロシア、プーチン時代だ。その中でも『今日のロシア、特別軍事作戦』の最終章だったから、その部分の50ページほどはすぐ写真を撮りおわった。
 この新しい教科書のコピーは帰国後丁寧に読んだ。後のことになるが10年生教科書のページはその時コピーしなかったが、帰国の直前にナターシャの友達のアナスターシヤ・シュメレヴァ Анастасия Шмелеваという人が手に入れてくれた。(後述)
 メディンスキー(検収)のこの教科書については、読んでみて言いたいことはたくさんある。オリホン島の学校では最後の50ページしかコピーしなくて、帰国後悔しい思いだったが、ネットに全ページのPDFが載っていた。おかげて、ロシア側の見方がよくわかった。『歴史科学というより、政治ジャーナリズム』であり、愛国心を引き出すような、感情に訴えることの多い、それらしいイラストと写真の、ロシアお得意プロパガンダ論調の教科書でも、それを読んで、西側プロパガンダに染まったままにいるよりはよい。
 教科書の発売が遅れたわけは、カディロフからクレームが入った生だそうだ。それは、11年生用ではなく10年生用の時代になる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
 3年生のクラス
 担任の先生とクラスノ子供達
 私の希望で、ヴァレンティーナさんは学校を案内してくれた。是非とも教室に入ってみたいものだ。彼女が、まだ親しくしているアンナ・ヴィクトロヴナ・ヴォロボィヨーヴァВолобоёва Анна Викторовна先生の3年生のクラスに案内してもらって、一緒に集合写真を撮った。この年代はとても人なつこい。抱きついてくる子もいる。訪問記念に浮世絵の絵カード(50枚綴りの単なるメモカード)一束を贈ると、お返しに、先生から子供用の絵本が贈呈された。この歳の子供達は人なつこい。一人の男の子がずっと私に付いてきた。名前を聞くとチムールという。それを聞いたヴァレンティーナさんが、近年増えてきた中央アジアのキルギスやタジキスタンやウズベキスタンからの移民家族が、最近はオリホンにも増えてきたのだという。確かに、以前は島にはブリヤート人(モンゴル系)とロシア人しか見かけなかった。ニキータのペンションにも以前からタジク人が働いていた。それが最近では彼らが家族を呼び寄せ、その子供達が学校に通うようになったのだという。それを言うヴァレンティーナさんは好意的な口調ではなかった。
 チムール君

 中央アジアからのキルギス人、タジク人やウズベク人達は、故国では仕事がなく、出稼ぎ先として言語のわかるロシアに多く来ているのだそうだ。彼らはロシア人のあまりやりたがらない仕事を安い賃金で引き受け、ロシア軍の志願兵にも応募させられている(?)のだとか。何年も前から、建築現場や道路工事で働いている中央アジア系の顔つきの人は見かけている。最近は特に国策としても増やしているのだとか(後述。クラスノヤルスクのタクシー運転手)(2024年3月22日のモスクワ郊外テロ事件の実行犯は4人のタジク人だった。)
  バイカルを去る
 エレメーエヴィさん宅の前で
 ヴィクトル運転車の後部座席のニキータ
 
 フェリー船
 日陰にはもう薄雪が溶けずに
 ニキータ宅の居間、奥のドアを開けると子供べや
 ニキータ宅前の水たまり
 12時頃になっていて、コンスタンチン・セルヴァコフさんとバイカル湖岸を散歩した。ピアニストの彼だけが、私が今回ロシアで話したロシア人の中で、政府に批判的だった。ロシアが戦争している状態では、ウクライナの支援国に演奏旅行にも行けない。(しかし、日本では特別にロシアから演奏家を招いてコンサートを開いた団体もいると聞いているが)。セルヴァコフさんは、今まで何度か日本やロシアで会ったが、今回が一番好意的で、自分のことについても自分の立場についても、イルクーツクでは住めないと言うことについても、ここニキータのペンションだけが自分の住めるところだと言うことについても、バイカル晴れの湖岸を歩きながら話してくれた。彼はペンションの敷地内の独立した一角に楽器と共に住み込んでいる。自炊しているのかは知らない。ツーリストの多いシーズンには、あのホールでコンサートを開いているのだろう。昨日、私のためのコンサートが今年度最後だと言っていた。
 この時、革の手袋もくれた。私にぴったりのサイズで手を入れても心地よく、快適で何よりも温かそうだ。ピアニストは手を大切にしなければならない、という。こんな、高級そうな手袋をもらって、私は何もお返しがなかった。おいしい味噌汁のパッケージでも、今度の機会にプレゼントしようと思った。その手袋は、ハカシアの雪の中を歩いた時にはめた他は、新品同様に家に持って帰ると、孫に請われたので、譲って上げた。自転車に乗るときに手が冷たくないそうだ。すり減っても破れてもいいが落とさないで使ってほしいな。
 3時過ぎヴィクトル運転のジープの助手席に私が乗り、後部には荷物と一緒にニキータが座った。床には彼の愛犬が陣取っている。ニキータに必死でついて回る大きな犬だ。
 初日にエメレーエフさんから貸してもらった襟巻きを、返し忘れていたので、彼らの家に寄って返した。その時、マリア像の絵が贈られてしまった。額縁に入れて室内に飾りその写真を送ってほしいという注文付で。(帰国後、早々に私は約束を果たした)。そして、また、バイカル晴れの空の下、教会近くの彼らの家の前で写真を撮って別れた。
 オリホン海峡をフェリーで渡ったのは16時過ぎ。シーズン・オフの9月以降でも30分に1本は運行しているし、11月以降でも氷が張るまでは客の少ない真昼ごろ以外の朝夕に、数往復しているらしい。時刻表とはあまり関係なく2隻のフェリーが往復し、乗せた車を下ろして、待っていた車を乗せた頃出航するというのを、繰り返しているのだろう。10月後半の今、乗せる車も少なくて、3,4台だった。このフェリーはセミョーン・バタガーエフ Семен Батагаев号という。バタガーエフは1915年オリホン区(の範囲は、オリホン島全体と、そのイルクーツク州側の対岸)のオングリョーン村(オリホン島の対岸)生まれのブリヤート人で第2次大戦中の栄光勲章受章者(1級祖国戦争勲章)という英雄だったそうだ。ロシアでは何かにつけ英雄さんの名前が付く
 16時半には大陸側のサヒュルタ岬に着き、そこからは3日前に来た道をイルクーツクに向かった。路肩にはもう薄雪が積もっている山道を過ぎ、前方にオレンジ色の夕日が見えた頃、イルクーツク・サヒュルタ間の道のりのちょうど半分のところの曲がり角に着いた。来たときも食事を取ったバヤンダイ村だ。帰りも食事を取る。7時頃、食事が終わって車に乗ると、もう真っ暗だった。周囲は草原でほとんど地平線まで見渡せるので三日月が西の空に沈んでいくのがよく見えた。
 ニキータのマンションはスハ・バートル街というイルクーツクの中心地にはあるが、環境は快適とは言えない。ロケーションだけはいいが、家の前には深い水たまりがあり、冬場は凍るがプラスの気候では完全には蒸発しないので腐敗臭がする。この水たまりの前のドアを開けると1階に鉄製の扉があって、それは隣人だ。段差が異なるので転びそうになる階段を上がると、途中に鉄格子があって、その鍵を開けて、階段を最後まで上がると、ドアがある。鍵を開けると入り口のドアが2枚あって、2軒のアパートだが、右側が、元々のニキータ宅で、私も5年前泊まったことがある。左側の入り口ドアから入ったアパートは最近(もしかして数年前)購入したものらしい。後のことになるが見せてもらったところ、リフォーム中で、材料などがおいてあり、住み心地はとても悪そうだった。ここに、ニキータと、彼の次男のチーホンが、私のイルクーツク滞在中は住んでいた。私は、設備の一応整った右側のアパートに一人で住まわせてもらった。不便のないように、ニキータが、食料などを冷蔵庫に入れておいてくれて、チーホンがベッドメイキンギをしてくれた。このニキータの元々のアパートは広いダイニング・キッチンとグランドピアノや縦型ピアノもある広めの部屋と、多分ベランダを改造して小部屋をつくり、そこが子供部屋(と言っても、その子供達はもう大きくなって上の子は独立しているが)になっていたらしい。つまり、今はチーホンの部屋(かつての子供部屋)の彼のベッドに寝たわけだ。彼らが金沢に来たときはたいしてお世話をしてあげなかったのに、こんなにしてくれて悪いなあ。イルクーツクでの私の予定も考えてくれた。
  アルカージー・カリフマンさんとシェレホフ市、植物園
 博物館のガイド研修生達と
 博物館前の館長
 10月20日。チーホンとニキータは私のために近くのカフェで朝食をおごってくれようとする。私は朝起きてすぐ胃腸のために軽い朝食を取るから、カフェへ行くまでもないが、チーホンがガールフレンドのマーシャを呼んだので一緒にコーヒーを飲む、
 この日はニキータが計画してくれて、私と再会したがっているというアルカージー・カリフマンと、ニキータが注文したというタクシーに乗ってシェレエフ市に出かけた。
   *アルカージーは、現在のルーマニアやモルドバや西ウクライナにあった旧ベッサラビア出身のユダヤ人だ。彼の両親は、ナチスドイツに占領される直前ロシアのウラルのほうへ逃げ出してきたそうだ。間に合わなかった親戚のユダヤ人は皆殺されたとか。西ウクライナは中東部のウクライナとは違った歴史を歩んだのだ。

 シェレホフ市は、イルクーツク市の南東12キロ(新道では7キロか)のところにある4万人余のイルクーツクの衛星都市だ。西のノヴォシビリスクから1860キロも延びてきた連邦道R255(別名『シベリア道』)がイルクーツクで終わり、さらに東に向けて連邦道R258(別名『バイカル道』)が1113キロ伸びてチタ市に至る。シェレホフ市は『バイカル道』 が始まったばかりにある市だ。
 カリフマンはなぜシェレエフ市と決めたのか。石川県根上町(現在は能美市)と1976年から姉妹都市であるからだ。アルカージーは、私がロシアについては彼ほどには知っていないと思っているかも知れないが、事と物によっては私の方がよく知っている、と言うことは、彼には言わなかった。せっかく案内してくれたのだから。日本から私が来ると聞いて、是非ともシェレホフ市を案内しようと思っていたのだろう。
 彼はタクシーで、日本人抑留者のバラックがかつてはあって、記念碑が建っているはずだという公園に案内してくれた。記念碑はなぜかなかった(撤去されたのか、アルカージーの思い違いだったのか)。ついで、シェレホフ市の博物館に案内してくれた。実は、私はシェレホフ市には全く興味がなかった。アルカージーのお付き合いというものだ。展示品にあるだろう日本ロシア友好協会の記念品(写真や贈呈品)に私は関心がないのだ。
 しかし、この『グレゴリー・シェレホフ博物館』はシベリアの豪商のシェレホフの業績をたたえてできている。シェレホフは18世紀の探検家、航海士、実業家で、アラスカや北西アメリカで最初のロシア人入植地を設立し、彼と娘婿ニコライ・ペトロヴィチ・レザノフとノースイーストカンパニー(後にロシア・アメリカ会社)を創設している。ロシア・アメリカ会社は、1799年7月8日(19日)に皇帝パーヴェル1世の勅令によって半国家植民地貿易会社になる。1867年にアラスカがアメリカ合衆国に売却された後、会社は操業を停止、と言う歴史がある。
 博物館というのは、初めは気が進まなくても、本当は興味深いものだ。ここでは、富商シェレホフの娘孫となったレザノフの、アメリカでの恋人(コンチータ)には触れていない。そのメロドラマはクラスノヤルスクでこそ有名だが、この博物館では言及されていないのでほっとした。世界一周をしたレザノフの展示やロシアの航海士達の航路地図があった。
 博物館長は、私が石川県から来て、根上の町長のことも知っている(個人的ではないが)と聞いて、とても親切だった。30年ほど前クラスノヤルスク滞在中にイルクーツク大学で日本語を教えている友人の招きでシェレホフを訪れたことがある。当時のシェレホフ市長(今は故人)宅へも、その時は招かれたものだ。
 展示されている交流の展示物や写真について、そこに写っている人物やものについて私がよく知っているというので、館長は感激してくれた。マグネットや絵はがきセットを、私だけでなくアルカージーにも贈呈してくれた。
 
 
 森茂喜氏の墓
 
 売られていた苗木
 それから、頼んだわけでもないが、アルカージーは交流に尽力したというかつての石川県根上町町長の墓に案内してくれた。その町長と交流の厚かったシェレホフ市の女性市長の墓も背後にある(前記、彼女宅を訪問したこともある)。父親の根上町長に墓参りをしたとか言うかつての日本の総理大臣が墓地でプーチンと会ったという話も、かなり昔になるが覚えている。生まれた場所が近かったとか、彼の息子と同じ高校を出たからとか、姉妹都市だからと言うだけで、墓参したいとは全く思わない。事情のあまり知らない善意のアルカージーには、それとなく言って、すぐに引き上げた。
 イルクーツクに日本と関係のあるものが多いと言うことにさっぱり感動していないと言うことを、アルカージーに印象づけるのは気の毒だ。
 苗売り場

  次に行ったのは植物園、というよりは苗売り場だった。オーナーの趣味で日本庭園があるという。だが、日本庭園趣味というほどではない。入り口にはイースター島の石像を模した大石があって、びっくりした。縄でつくった大蜘蛛は傑作だ。オーナーは多方面の趣味を持っているらしい。日本庭園だよというところは、イルクーツク人趣味の庭園だ。興味深かったのは苗売り場だった。これが日本だったなら、私はたくさん買って、自宅の庭に植えただろう。ナナカマドの苗や実のなる灌木や、青いもみの木の苗などが安い値で並べてあった。日本のような温かい湿気の多いところではよく育たないかも知れないが。売り場の女性も出てきて、購入はできないがという私に親切に説明してくれた。
  オルガン・ホール
 
 ブロンシュテイン氏の個人美術館
 
 アンガラ川
  2時過ぎにはイルクーツク市にある新しくて現代的な建物の3階にあるカフェで、ニキータと合流して食事した。この建物のオーナーはブロンシェテイン氏という。彼は数年前にニキータのグループと一緒に金沢に来た。2,3日、私が有料で通訳兼ガイド兼運転手をやったものだ。彼がオーナーであるという建物の1階は美術館で2階は売り場だった。美術品はブロンシュタインの趣味で集めたものか。彼の何番目かの若い妻は美術館の館長をしているとか、当時聞いたものだ。博物館もあって発掘物が展示されていた。
 
 アンガラ河岸の凱旋門
 
 イルクーツク砦を建てたという
コサック隊長パハーノフ像
 
 オルガンホール
 夕方、アルカージーとアンガラ川岸を散歩した。以前にはなかった凱旋門『モスクワ門』ができ、シベリア征服者(つまりコサック隊長か)の像が建っていた。
 オルガン・ホールも川岸通りの近くにある。このオルガン・ホールは、かつてはカトリック教会だった。数年前に新しいカトリック教会が別の場所に立てられている。(そこへは後日行った)。6時半らこのホールで『昔の巨匠達による音楽 Музыка старинных мастеров』と言うのがあって、チケットが2枚用意されていたのだ。このホールの前でアルカージーの妻のタチヤーナ・カリフマナさんが来るのを待つ。私の付き合いを引き受ける人が、アルカージーからタチヤーナに変わるのだ。アルカージーはあまり音楽に興味がなく、タチヤーナさんに譲ったのか。彼女は花束を持って現われた。演奏の後、気に入ったアーティストに贈ればいいと言われる。チケットは650ルーブルだった。多分、公的文化機関からの補助がないからだろう。タチヤーナさんは、音楽はそれほどはよくなかったという感想だった。第一部の女性歌手がそれほどではないという。民俗楽器の4人組も私の趣味ではなかったが、その一人に花束を贈った。
 コンサートの後、近くのスーパーで自分用の買い物をし、タチヤーナさんはニキータへのケーキを買って、ニキータのアパート、つまり私の逗留先へ行き、3人で少し話した。何を話したかは覚えていないが、戦争については話さなかった。彼らが春に金沢に来たとき、十分話したからだ。その時はみんな反プーチンだった。特に私はそうで、ヨーロッパとアジアを向こうに回してロシアは無謀な『侵略』戦争をして、弾丸も戦車も武器もつきて戦争に負けてロシアは分裂すると言うことを話したものだ。タチヤーナさんの意見は覚えていない。
  『エルサレムの丘』
 
 ナタリアさんの私宅。
障害児教育施設となっている
 
 『エルサレムの丘の家』正面のプレート
 
 エルサレムの丘公園
 
 公園横の分別ゴミ箱
  10月21日。この日、午前中にナターリア・ベンチャーロヴァさんが主に住むというグリャズノヴォ通にある一軒屋にチーホンに連れられて行った。後で、クラスノヤルスクとイルクーツクを比べてみると、イルクーツクはクラスノヤルスクほどインフラが整っていない。ナターリアさんが主に住むというグリャズノヴォ(グリャズヌイ Грязныйとは泥だらけの、ぬかるみの意味)通りはその名の通りだと思った。しかし、後で、グリャズヌイと言う革命家の苗字からつけたとわかった。グリャズノヴォ通りも、ニキータのアパートのあるスホ・バートルも中心地にあって、道路状況はとても悪い。
 ナターリア・ベンチャーロヴァさんの家は古い時代に建てられ、都市計画から忘れられたような外観だった。中は、古くて大きな家を、部分的にリフォームしてある。ここでナターリアは障害児の教育活動をしているようだ。家の前には Открытое творческое инклюзивное пространство ≪Дом на Иерусалимской горе≫オープン・クリエイティブ・インクルーシブ・スペース『エルサレムの丘の家』と言う看板と内部で障害時が作業している写真などがあった。帰国後ネットで検索したところ
『エルサレムの丘の家は、イルクーツクの古い木造家屋の2階建ての居住空間です。グランドピアノのある居心地の良いホールがあり、音楽ライブのほか、展示会やセミナーが開催されています。1階の大きなテーブルでは、ストーブの火がパチパチと音を立てる横で会議、講演会、お茶会が開催されます。家の中庭は、特徴的なイルクーツクの中庭の季節毎に移り変わる様子が見られます。『エルサレムの丘の家』は相互の豊かさの場所であり、都市の文化的空間がどのように構築されているかを探しているすべての人が、自分にとって興味深いものを見つけるでしょう。』と言うような文と数枚の写真があった。
 この文にあるように、1階にはナターシャの趣味らしいインテリア、大きなテーブルと台所、2階にはグランドピアノのあるホール(ここはリフォーム済みで床も窓も新しい)。1階のテーブルで食事を取っていると、子供達とその保護者が次々に訪れてきた。おもちゃが多いのは、その子達のためだ。チーホンが遊んでやっていた。ナターシャがこうした活動に熱心だとは聞いたことがある。儲かるペンションのオーナーの単なる伴侶ではなく、こうした社会活動に、情熱を燃やしている、というわけだ。
 アルカージーが現われて、11時過ぎ、彼と一緒に、そこを出て近くの『エルサレムの丘』というところに行った。正確にはエルサレム墓地といって、1772年から20世紀初め頃まで墓地だった。現在は、『エルサレム丘歴史記念複合施設』になっている。アルカージーがここにはロシア正教の墓地、カトリックの墓地、ルーテル派(プロテスタント全体のことをこう呼ぶ)の墓地、古いユダヤ教徒の墓地、新しいユダヤ教徒の墓地があるという。ここで発見された墓碑を刻んだ古い石柱もある。
 アルカージーとその旧墓地を散歩、12時半ごろ電話でタクシーを呼んだ。タクシーを待って、公園を出たところの歩道には分別用の4個の色別ゴミ箱が置いてあった。『紙』『プラスチック』『金属とガラス』『分別できないゴミ』とわかりやすく書いてあった。グローズヌィの『チェチェンの心』モスク前広場でもこんな新しい4連のゴミ箱を見たことがある。
 この美しい4連のボックスが飾りか見せかけでないとすると、道路にある公共のゴミ箱にはロシアではいっぱいにごみがあふれているはずだ。
  アルカージー宅 イツクーツク市中心
 タクシーを呼んだのは、彼の家に行くためだ。指定した場所に私達を迎えに向かったはずのタクシーは、アルカージーの説明が不十分だったのかどうか、いつまで経っても来なかったので、パスで行くことにした。バスで市内をぐるぐる行くのもいいものだ。かなり遠かった。バス代は距離に関係なく一定で数十ルーブル。アルカージーの分も出してあげると、私のコインの手持ちはちょうどなくなった。こんな時でないと使えないものだ。(日本にまた持って帰っても、使う機会がない)。
 
 タチヤーナ・カリフマンさん
 2時過ぎにはカリフマン家のマンションに着いた。最近は招かれるどのお宅も、ソ連時代風の調度ではなくヨーロッパ的なインテリアだ。部屋数は多くなく、やや狭苦しいとしても、どの部屋もきれいにリフォームがしてあって居心地が良さそうだ。トイレ、バスやキッチンもだ。ちなみに、1990年代末や2000年代初めのクラスノヤルスク滞在中に、私が不動産屋を廻って見せてもらったアパートはどれもソ連時代風の暗くて古くて薄汚い貧しいものだった。カリフマンさん夫婦の部屋には大きなソファがあり、壁はその家族の趣味で飾られている。タチヤーナさんは私のためにわざわざ大きな魚を1匹焼いてくれた。今回彼らとはウクライナのことは全く話さなかった。今でも彼らが反プーチンのインテリゲンチャかどうかは確かめられなかったのだ。
 4時過ぎ、ニキータと話ができていたらしいバトミントン選手のナターシャという人が車できて、下で待っていると、アルカージーに電話があった。
 
 アルカージー・カリフマンさん
  
市の中心観光スポット。テンをくわえる豹

 できるだけ多くの人と会いたいと思っていた私は、そのナターシャの車に乗った。彼女の娘リーザが日本語を勉強していて、春のニキータの日本訪問団に入るはずだったが、パスポートが間に合わずに行きそびれたのだという。だから、日本人と聞いて、ナターシャは私に会いたい、そして娘を私に会わせたいと思ったのか。元々卓球選手だが、バトミントンもやっているニキータは、スポーツセンターかどこかで、そのナターシャと知り合ったらしい。しかし、ニキータに聞いても、ナターシャの苗字は知らないという。ロシア人同士はそういうこともあるものだ。リーザはリモートで日本語を習っているそうだ。では先生は日本人なの?と聞くとタチヤーナ(ブリヤート人)だという。知っている。以前ニキータのペンションで働いていて、ニキータが日本へ来るときは通訳していた。その後、他の都市へ行って語学力を高めたらしい。彼女は7,8年前、2度ほど私の家に滞在したこともある。
 ナターシャと会ったのは、遅い時間だったが、彼女は私をアンガラ川畔のピクニックに参加させた、と言っても、彼女の友達の母娘二人がいただけだが。ついで、イルクーツクの中心観光名所に案内された。イルクーツクのシンボルというクロテンをくわえたバルス(豹)の像がある広場にも行った。イルクーツクに始めてきたわけではない私は。この名所にももちろん来たことがある、がそれは黙って、観光客らしくリーザと写真を撮っていた。
  音楽功労者
 
 ニネーリさん宅の部屋の一つ
 
 ニネーリさん
  ニキータのアパートに戻ると、ニネーリ Нинельさんと言う人が私に会ってもいいと言っている、と伝えられた。前々からある年配の女性と会うかも知れないという話はニキータから聞いていたが、年配なのでその機会を作れるかどうかわからないと言われてきた。私が、できるだけ多くの人とイルクーツクでは会いたいと言っていたからだ。彼女はイルクーツク音楽カレッジのベテランのピアノの先生で、翌日も私をその音楽学校見物に招待してくれているそうだ。ニネーリというのは今では珍しいソ連時代につくられた名前だ。綴りがレーニンЛенинと逆だ。
 彼女の家はオルガン・ホールの裏にある。つまりソ連時代音楽功労者に与えられたアパートの一つだ。リフォームはしてなくて古いままの重厚なインテリアで、さすが大きめの部屋が3部屋もある。もちろんピアノもある。
 キッチンのテーブルに座ってお茶を出されたが、手づかみでチキンも出されて閉口した。何を話したか覚えていない。控えめの質問も 鋭い質問もするような雰囲気ではなかった。かなりの歳なのに、帰りは自分の運転する車で送ってくれた(同じ町内)。
 この日、何だかまとまらない日だった。誰ともウクライナ戦争の話はしなかった。プーチンを激しく非難する意見も、戦争のロシアの正当性を断固主張するような話も、曖昧な意見も聞かなかった。話ができるような相手とは会わなかった。新しい知識もなかった。
  不燃物廃棄物から個人が創立した『軍事歴史博物館』
 
 廃品でつくったという展示物
 騎士の集団の他 戦車群もあった。
 テレンチエヴィさん宅の食卓
彼らはかつて大学でドイツ語の先生だった。
  10月22日。アルファニーダ夫妻のナターシャとセルゲイ夫妻に案内されて、ニキータと一緒に行ったのは、郊外にある『軍事歴史博物館』と入場チケットに印刷されているところだ。イルクーツクの固形廃棄物埋立地の責任者であったアレクサンドル・ラストルグエフと言う人物によって、2015年設立されたそうだ。郊外なので場内は広い。その一カ所には第2次大戦中の戦車のようなものの縦横の列。それはすべて廃品を組み合わせてつくったもの。別の原っぱには馬に乗って鑓と盾を持った中世の騎士の群れ。これもすべて廃品でつくったものだ。さらに別の場所にはSFのキャラクター、悪役ロボット、怪獣と戦士の戦いの場面など、すべて廃品でつくってある。美しく優しい作品は一つもない。砦もある。廃品でこれだけ工夫してあるのは驚異的だが、できあがったものがグロテスクすぎる。ある種のロシア人男性の趣味の展示会場だ。
 屋内ホールもあって入ってみると、戦前からの古いコレクションが所狭しと並んでいた。日本にもこのような古道具屋がある。あまり見て歩くのは好きではない。しかし、同行のナターシャやその夫は、『まあ懐かしい、こんなものまであるわ。おじいさんが使っていたものだわ、最近までうちにあったものだわ』と感心してゆっくり見ている。その時には、何だか、ソ連時代の古い道具類を懐かしむ余裕がなかった私は勝手に外に出てしまった。
 それからナターシャ・セルゲイ夫婦とニキータの4人で行ったところは、これもナターシャという名の主婦がいる近くの別荘だった。かつては小屋だったかも知れないが、労力とお金をかけて立派な一軒屋になっていて、ごちそうを用意して、私たちを待っていてくれた。夫さんはテレンチエフ・アンドレイ Терентьев Андрей で奥さんは前記のようにナターシャ Наташаと言う。手帳に書いてもらったのだ。
 
 別荘の苗
 食卓ではウクライナ戦争について聞くことができた。みんなは口をそろえてロシアは負けないと言う。
(ロシアの別荘は自分で建てたものが多い。つまり専門家でないが黄金の腕を持つロシア男性で、何でもできるという訳だ。しかし、家の建て方はやはり甘いと思う。
  イルクーツク・カトリック教会
 
 カトリック教会
 
 教会正面で
 
 キリル・クリモヴィッチ司教と
 
 ポーランド公使と
  テレンツエヴィさん宅で食後、家の中や庭を見せてもらった後、私とニキータは新築のカトリック教会に着いていた。ニキータの家近くでアンガラ川岸のスヘ・バートル通りにあるオルガン・ホール(かつてポーランド教会と言われた)は、19世紀に亡命ポーランド人達が建てたカトリック教会だそうだが(*)、ソ連時代は閉鎖され、様々な非宗教的な用途でで使われていて荒れていたが、、1978年にフィルハーモニー管弦楽団オルガン・ホールとしてオープンし、現在もそこにある。     (*)19世紀末、ポーランドをプロシャとオーストリア帝国と分割したロシア帝国に反対したポーランド人達が多数流刑されたのがイルクーツクだったそうだ。

 一方宗教施設としては、それとは別に、別な場所に、新たに立派なものが、カトリック大聖堂として2000年新築されたСобор Непорочного Сердца Божией Матери(神の母の汚れなき御心大聖堂)。写真では見たことはあるが、訪れたのは初めてだ。後部席に座っていると、ナターリア・ベンチャーロヴァの顔も見えた。ベンチャーロヴィ夫婦はロシア正教とのはずだが、ポーランドと関係が深いのか。ニキータはオリホンやイツクーツクの子供達の文化活動(スポーツや音楽)を組織して、日本を含む数カ国に行っている。ポーランドにも度々行っているらしい。その関係か。この日、ポーランド領事という人も来ていた。ニキータの後で私も挨拶した。
 教会にはアルメニア人も来ていた。アルメニアはアルメニア使徒教会と言って、ロシア正教ともローマカトリックとも独立した組織だ。アルメニアは、歴史的には王国が、301年世界に先駆けてキリスト教を初めて公認し、キリスト教を国教と定めている。また、ローマカトリックと近い距離にあるアルメニア・カトリック教会というのもある。私が、イルクーツク大聖堂の玄関先で見たアルメニア人のグループはアルメニア・カトリックの信者だろうか。
 
 ミサの後のランチ会
 礼拝の後で、食事会もあって、ニキータや私、領事も招待されて、教会内の一室で、事情が飲み込めないまま私も食卓に着いた。尼僧達のつくるカトリック教会のランチは特別においしいのだろう、が、すでに前の別荘での食事で満腹していた私はあまりいただけなかった。司教はキリルという。副司教かも知れない人も後から同じ食卓に着いた。彼は巨漢でウエストは私の3倍以上はある。後でナターシャが言うには、カトリックでは妻帯が禁じられている。だから美食家になるのだとか。
  アンガルスク市 ジャンナ・フェドーロヴァさん
 
 中央広場(レーニン広場か)のレーニン像
 
 時計泊仏間のガイドと
  2時には聖堂前でマステルスキッフさん夫婦が待っているという。私がイルクーツクだけではなく、近郊カチュークへ行きたいとか、ウーソリエ・シビリスクへ行きたいとか初日に言っていたので、中でも比較的近い(イルクーツク市から40キロ)アンガルスク市に行くことにしたのだ。そこにはナターシャの知り合いもいて連絡済みだとか。私としてはイルクーツク州第2の新しい工業都市より、古びた僻地へ行きたかったが。例えばカチュークのような。
 3時半にはアンガルスク市の中央、つまりレーニン像の建つ広場に着いていた。

 2017年に石川県小松市と友好都市提携をしたというアンガルスク市は、シェレホフ市同様、それほど興味はなかった。北極圏のニッケルの産地ノリリスクと同様、最も環境の悪い都市だと聞いたこともある。(ノリリスクは外見がサンクト・ペテルブルク並に美しい町で、ごみだらけという意味ではない。近くに有害な工場があるという意味だ)。しかし、行ってみると、有害工場はともかく、町並みはサンクト・ペテルブルクのような整備された美しい町だった。ソ連時代の計画経済でできた多くの新興の工業都市と同様、計画的に1948年、矯正労働囚人(アンガラスクの場合はドイツ人捕虜)によってによってもできた町だ。現在は人口は22万人(シベリア全体では第15位)の市だ。
 ネット資料によると、1945年からキトイ川がアンガラ川に合流するところに石油精製基地城下町として建設が始まった。1951年に市に昇格した。(ちなみにノリリスクは1935年北極圏にニッケル採掘精製基地城下町として矯正労働囚人の労力によってつくられた)。
 本当の環境はどうか知らないが(*)、意外にも全ロシア都市間ではアンガルスクはクリーン第1位だそうだ。つまり住みよい町と言うことだ。都市の経済的基盤は、化学工業、原子力および建設工業の大きい企業である。アンガルスク石油化学会社とアンガルスク電解化学プラントもある。

    (*)アンガルスク州立技術アカデミーの生物物理学研究所が実施した、アンガルスクの人口の健康障害の生態学的に決定された評価によると、リスクは高い。これは、1997年以前の約35年間、大気中のさまざまな汚染物質のレベルが上昇したこと、に影響されている。罹患率と死亡率のリスク形成の主な要因は、多くの工場、CHPP-10、CHPP-9、CHPP-1からの排出物による大気汚染である。2010年現在、アンガルスクはシベリアで3位、ロシアで6位、最も環境状況の悪いロシアの都市のリストにランクされている。1980年代後半から1990年代初頭にかけて環境問題(いわゆるアンガルスク環境運動)が激化し、地域外でも広く知られるようになった。アンガルスクにはシベリア鉄道が通り、首都モスクワから東へ5,150 km、州都のイルクーツクから西へ40 kmにある。近郊には大規模な油田があり、石油化学コンビナートが建設されている。また、原子力発電所も操業している。核燃料サイクルや核燃料の備蓄を行う国際ウラン濃縮センター(International Uranium Enrichment Centre)も2007年に稼動を開始した。
 
 カトイ川畔。公園になっている
 
ジャンナさん達と

 ナターシャ・ベンチャーロヴォの知り合いのジャンナ・フェドーロヴァ Жанна Федороваさんというアンガルスク在住の人に到着した、と電話して会いに来てもらう。ジャンナさんが夫さんと来てくれた。30分ばかり5人でぶらぶらと町中を歩いた。確かに町中はクリーンに見えるだ。計画的にできた町だから道路幅も広く、建物の高さもそろっている。アンガルスクで一番の名所と言えば時計博物館だそうだ。そこへ行って5人分のガイド付入場料を払うと領収書をくれた。1700ルーブルと高め。(私の手持ちルーブルは滞在3週間目ぐらいになくなった。つまりその時はまだ5000ルーブル札が2枚あった)。ガイドが丁寧に説明してくれて、ゆっくり見た。地元のジャンナさん夫婦は、入り口で待っていてくれた。コレクションはさすがだ。日本の時計もあった。マステルスキッフさんは盛んに写真を撮っていて、後でどっさり転送してくれた。博物館でガイドを頼み、日本から来たと知ると、とても丁寧に説明してくれる。このところ日本などからの旅行者が少ないからだろうか、今回、端折って説明するガイドには出会わなかった。
 博物館見物も終わって、またジャンナさんと合流すると、アンガルスクの名所のキトイ川(316キロ)畔の広い公園に案内された。ロシアで工業都市として新たに都市計画でつくられた町には、必ず、住民のための憩いの場所もつくるのだ。トファル語(イツクーツク南部サヤン山脈に住んでいるサモディーツ系先住民、トゥヴァ系やブリヤート系でもある)かまたはトゥングース(エヴェンキア)語の方言でオオカミの口という意味のキトイ川が、アンガラ川に交わるところにできたのが、アンガルスク市で、市の紋章も伝説の女性アンガラとアンガラ川だ。ロシア都市の紋章は猛禽の図案が多い中で、石油化学コンビナートの町にしてはやさしい紋章だ。
 キトイ川公園には、オオカミの像があった。
 6時半頃近くのカフェに入って、お茶とお菓子を食べた。ここでも、ジャンナさんたちにウクライナ戦争の話をしてみた。ロシアは絶対に負けない、正義はロシアにあるという答え。
 メニューにマンジュウと言うのがあって、それはどんなものかウェイトレスさんに聞いたところ、ガラスケースを見に来てくださいと言われる。小さなお団子があって、勧められたので注文してみた。お味は、と聞かれたが応えられない。

 ニキータはもうイルクーツクを発っている。ヴェトナムに行き、セルゲイ・グルディニンに会い、それから日本へ行く。広島でテレビインタビューがあるとか。私が帰国する頃彼もイルクーツクに戻る。いれちがいだ。
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