クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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40 - (2) 2023年経済制裁下のイルクーツク(バイカル)とクラスノヤルスク (2)
    バイカル湖
        2023年10月13日から11月13日(のうちの10月15日から19日)

Путешествие в иркутске(Баикал)и Красноярске, 2023 года (13.10.2023−13.11.2023)

ロシア連邦地図、イルクーツク、クラスノヤルスク
 
  バイカル湖とイルクーツク           
 0/13-
10/14
 2022年頃 ビザ  日程と費用  ウランバートル  イルクーツク着  カラトゥエフさん   アンガラ川入り江   劇場
2  10/15-
10/19
 バイカル湖へ オリホン島  オリホン島観光 メルツ先生  コンサート1 森の小川、グルジニン  エレメーエヴィ  フジール空港  島の博物館  コンサート2
3  10/20-
10/22
 村の学校 バイカルを去る シェレホフ市  オルガン・ホール  エルサレムの丘   アルカージー宅 音楽功労者 軍事博物館  軍事博物館 カトリック教会  アンガルスク市 
 0/23-
0/26
 ナタ−リアのお供  音楽カレッジ 第19学校   フンポルト・ドイツ学校  外国語大学  七宝焼き  ロジャンスカヤさん  シベリア鉄道
   繁栄するクラスノヤルスク           
 5  0/26-
10/27
 クラスノヤルスク着 リュ−ダさん  クラスノヤルスク観光  軍事教育センター  振興団地   アカデミゴロドク区の学校  避難訓練の掲示板  契約兵士募集  ソスノヴォボルスク市 
 6 10/28-
10/31
 ハカシア共和国  プチャーチンさん アバカン博物館  アパート   ベヤ村 牧場  ベヤ村周辺  ベヤ村を去る  白イユース川  トゥイム崩落 
 7 11/1-
11/4
 中央アジアからの出稼ぎ ヴラディスラフ君   タクシー 郷土史博物館  金日成
記念碑 
エニセイスク市へ  ヴィサコゴルヌィ新橋   エニセイスク博物館 エニセイスク市観光 
 8 11/5-
11/13
 リュ−ダさんとの談話 墓参 
クドリャツォーヴァさん   ジェレズノゴルスクし方面 パドゴルニィ町  タマーラさん宅  クラスノヤルスク空港  イルクーツク空港  ウランバートル空港、帰国 
  バイカル湖へ
 イルクーツクの食料品店
 バヤンダイ村のカフェで
 タジェランスキー草原
 10月15日。10時半にはカラトゥエフさんに、市の中心スヘ・バートル街にあるニキータ・ベンチャーロフさんのアパートまで送ってもらった。カラトゥエフさんと別れて、エブゲーニー・マステルスキッフさん運転の車に乗り換えた。車にはマステルスキッフさんの妻のレーナさんもニキータと同乗していた。レーナさんはイルクーツクでも大きな書店チェーンの店員さんなので、彼女の店に寄ってもらう。目当ての新学期の9月出版11年生用ロシア史教科書はなかったが、店員のレーナさんが、代わりの本をいろいろ探してくれて、新版地図を買って従業員価格の代金(多分)を払う
 ついで、市場へ行ってニキータ達は大量の食料を買った。なぜならニキータの民宿のあるオリホン島フジール村は食料の種類が少なく高いからだ(店の商品はイルクーツクから搬入したものだからだろう)。
 11時過ぎカチューク街道を北上し、バイカルのオリホン島に向かう。バイカルはもちろん必ず訪れるが、もう4度目のイルクーツクなのでどこか新しいところをまわりたいと、ニキータに頼んだ。この道の終点カチューク村 Качукはどうだろう。カチュークは沿バイカル山脈の東側から流れ出るレナ川岸にあって、イルクーツクからカチューク街道を240キロ行ったところにある昔からの宿場町だ。エヴェンキア語で『川の曲がりくねった』という意味だそうだ。昔はイルクーツクからヤクーチアへの郵便馬車の通り道で、ここでレナ川航路を取ることもできた。レナ川を航行すれば、ヤクーチア(現サハ共和国)の各地へ行ける。現在でも、すごい田舎のようで、きっと僻地好きの私の好みにあう。が、そんなところに行っても何も見るところがないと断られる。多分、240キロも日帰りで行くのはきついし、そうかといって、知り合いもいない田舎では泊まるところも見つけられない、と私の案は受け入れられなかった。
 では、ウソーリエ・シビリスク Усолье-Сибильскоеはどうだろう。イルクーツクから連邦道を西へ70キロほど行ったところにある人口7万人の市だ。17世紀に岩塩蒸留地としてできた町だ。シベリアでも古い町の一つで、また流刑地でもあったところだ。ニキータの故郷で、兄弟が住んでいる。しかし、よい返事はなかった。
 イルクーツクから130キロのバヤンダイ Баяндай(Усти-Ордынскийウスチ・オルディンスキィ・ブリヤート管区にある)についたのは1時過ぎで、いつものようにここで昼食を取る。いつ来てもここで昼食をとったものだ。まだまだ北上するカチューク街道をここで出て、右に折れてまっすぐバイカルに向かう。オリホン島までの船着き場のあるサフュルタ Сахюртаまでの130キロの道のりが好きだ。つまりバヤンダイ村はイルクーツクからオリホン島への船着き場サフュルタのちょうど真ん中にあるのだ。(2008年2018年の紀行文を参照)
 サフュルタまではタジェランスキー草原 Тажеранской степиを通り抜ける。ここには木が生えていない。雨量が少なく風も強いせいだろう。
  オリホン島のペンション『ニキータの館』
 バイカル湖のフェリ−船
 マステルスキッフさンとフェリー船の上で
 オリホン島の道。フジール村が見えてくる
 ペンションのダイニング
 今はシーズン・オフなのでオリホン海峡を渡るフェリーにはほとんど順番がない。2隻で往復している船のうち1隻が着いて、積まれていた車と船客が降りると、すぐ新船客は乗りこめた。同乗は私たちと中国人個人旅行者だった。
 オリホン島に到着しても、フジール村に行くまで40キロもアスファルト舗装のない道を行かなくてはならない。バイカルのオリホン島が、これだけ観光地になったのだから舗装しても良さそうなものだと、みんな言っている。
 ニキータのペンションに着くと、バイカル湖が見晴らせる2階のよい部屋をあてがわれた。シーズン・オフなので旅行者は少なく、宿泊客のいる棟はここだけのようだ。こじんまりしている。ニキータのペンションには、古い順にいくつも棟があるのだ。食事は台所横のオーナー用ダイニングでニキータと彼の妻のナターシャと、私たちを乗せてきてくれたマステルスキッフさん達だけのようだ。泊り客もいるがその横の食堂で食べる。
 マステルスキッフさんは次の日にはイルクーツクに戻るそうで、彼らに日本の家族への絵はがきを託した(このオリホン島ではなく、イルクーツクのポストに投函してくれるようにと)。
 夕方、マステルスキッフさん達とバイカルへの散歩に出かけた。夕日があまりに美しかったからだ。しかし、恐ろしく寒かった。イルクーツクから来たレーナさんにもバイカルの風は寒かったようだ。途中でエレメーエヴィ Еремеевыさん一家の乗る車に出会った。挨拶をすると、アナスタシア・エレメーエヴァさん(妻)とセルゲイ・エレメーエフさん(夫)が降りてきてくれた。彼らには14才の長男を先頭に子供が4人もいるのだ。この時車に乗っていたのは上の二人、スヴァトスラフ(14才)君とリュボフィ(12才)さんだ。アナスターシア・エレメーエヴァさんと上の二人の3人は、2023年5月末から6月初めに日本の私の住む市にも来て、私が市内や近郊を案内してあげたことがある。3番目はラーザリ(9才)君、4番目はセラフィーマ(4才)ちゃんだ。全員には、後に彼らの家を訪問した時会った(後述)。
 エレメーエヴィさん一家と

 バイカルの夕日は素晴らしかったが、寒そうにしている私たちを見て、セルゲイさんは、車で飛んで帰って、家にあるマフラーを何枚も持ってきてくれた。後でそのことをニキータに言うと、新品のカシミヤ製マフラーをプレゼントしてくれた。(これは、後にハカシアで首に巻いたほかは新品で持って帰ったが、色合いや品質がいいと、孫に取られてしまった)。
  オリホン島観光
  10月16日。朝食は台所横のオーナー用食堂で、ナターリアとニキータのベンチャーロヴィ夫妻やマステルスキッフさん夫妻と取る。この日、彼のペンションの泊まり客用のオプショナル・ツアーに、参加することになった。泊り客は多くないから(1、2グループくらいか)、1日に1台ぐらいしか島内ツアーの車は出ていないらしい。フジール村に来るのは、ニキータがペンションを開いてからでも、2004年、2008年、2018年と4回目だから、ほとんどの島内オプショナル・ツアーには参加して、ほぼ隅々までまわってしまったようだが、今回、新しいルートだからどうかと勧められた。冬だから北端のホボイ岬までは行けないのだが、東岸を廻るという。
 ペンションの私の部屋
 オプショナル・ツァーの仲間達と
 落葉松の林で、スタヴローポリからのレーナ

 ワンボックスカーに乗ると、運転手は顔見知り。つまり彼は長くニキータの運転手として仕事をもらっているのだろう。ガイドを兼ねるくらい、長く島内をまわっているのだろう。前回来たときは上海などから来た中国の若い女性達グループと一緒だったが(中国の春節の頃だった)、今回はロシア人の2人ずつの2グループだった。聞いてみると2人連れの夫婦はスタヴローポリ市から、二人の若い女性はウラジオストック市からで、旅行会社の募集で、イルクーツクに集まり、7日間の日程で回った後、イルクーツクで解散するそうだ。その7日間の日程には、イルクーツク市内見物だけでなく、バイカルのオリホン島の宿泊と島内見物も含まれているのだ。添乗員なしだ。彼ら後部席のロシア人と比べ、助手席に座った私は異邦人だった。運転手兼ガイドに質問するウラジオストク出身の若いロシア人に混じって私も質問してみた。する『この時期はるばるここまでバイカル湖を見に、たった一人で旅してきたロシア語は話すが、若くもない外国人』と言うことがわかったらしい。それは、彼らには(もしかして誰が聞いても)普通ではないようだった。一人旅をするような若者には見えなかったので、『失礼ですが、お歳は?』と聞かれた。ただの旅行者にしては普通に(?)ロシア語をしゃべるので、職業も聞かれた。
 これらの会話は、車中ではなく、バイカル湖畔の見晴らしのよい場所で運転手兼ガイド兼コックが準備してくれたバイカル湖の特産魚オームリ(サケ科)のスープで昼食を取っていた時に交わされた会話だ。私の返答を4人がそろって好奇心いっぱいで聞いていた。年齢を聞いて、「日本人は長生きだからね」とウラジオストックから来た女性がつぶやいていた。私としてはこの歳で夜間飛行に耐え、やっとの思いでここまで来たのだが。
 昼食が終わって、湖岸をそれぞれに散策に出たとき、私はスタヴローボリから来た夫婦にウクライナ戦争について尋ねてみた。ロシアに正義がある。ロシアは負けないという答え。
 オリホン島はこの時、落葉時の季節だった。どの木も葉っぱが黄金色で、地面も黄金色だった。ウラジオストックからの旅行者もスタブローポリからの旅行者も見とれていた。もちろん私も。一緒に写真も撮った。島には支柱が9本も出ているという樹齢三百歳らしい落葉樹もあって、QRコード付説明文のある柵までできていた。
 メルツ先生の意見
 この日、島内ツアーから帰って、フジールの唯一の学校の校長だったイヴァン・イヴァノヴィッチ・メルツ先生宅へお客に行った。彼は先祖がドイツ人だ。彼自身もドイツ系ロシア人で苗字はメルツというドイツ語だ。先祖は18世紀後半のエカチェリーナ2世の政策でドイツからヴァルガ中流に移民してきた、と歴史の本にはあるドイツ系ロシア人の一人だ。彼の祖父母や両親はレーニンの時代と独ソ戦の初めまで(1924−1941)ヴォルガ・ドイツ人自治ソヴィエト社会主義共和国(と言う民族共和国)に住んでいたが、スターリンの粛正で(敵に内通するかも知れない)、ドイツ(系ロシア)人はシベリアや中央アジアに強制移住となった。彼(の両親)はアルタイに住むことになり、そこで育った彼は、地元のヴァレンティーナさんと結婚した。正確には初めは別の女性と結婚したが別居した。当時、別の男性と結婚していたが別居していたヴァレンティーナさんと結婚して、オリホン島フジール村という当時は超壁地に赴任することになったそうだ。(メルツ先生と妻のルミャンツェヴァ先生の略歴)
 始めてオリホン島に来て、メルツ先生に会ったのは多分1989年か、もしかして1988年だ。だから、35年も前になる。その時はお互いに若かったし、お互いの子供達も小さかった。この35年間に5回ぐらい彼の家に行っただろうか。4回目以降は毎回、彼は「(私が)老けたな」とか「ロシア語が下手になったな」とか言う。今回も言いそうな顔だったが口には出さなかったのでほっとした。歳とって、妥協的になったのか。
 イヴァン・イヴァノヴィッチも、このウクライナ戦争でロシアは絶対に負けないと主張した。それどころか、ウクライナは武器を西側からただでもらって、それをイランに売っている。さらにイランはその西側からの武器をハマスに売っているのだという。ハマスにイスラエル攻撃するだけの武器が多かったのもそのせいであり、ウクライナはそれでもうけているという。つまりウクライナは賄賂・汚職の横行する腐敗国家であると言いたかったわけだ。私は、裏ではそういうこともあるかと思った。独立ウクライナは結局1991年に生まれはした失敗国家ではないだろうか。
 二人とももう学校から引退していたが、つながりはあるだろうから、元地理の先生だったヴァレンティーナさんに新出版で、生徒にすら入手困難となっている高校生用(10,11年生)ロシア歴史教科書を見せてくれるよう頼んだ。歴史の先生にすら供与不足とか言う教科書がここにはあるかも知れないと思ったのだ。前記のように、教科書はいったんは発行されたが、クレームが付いたそうで回収され改訂版がまだできていないとか。
 (私のための)コンサート、1回目
 夕方7時頃、ニキータが慌てて私を迎えに来た。コンスタンチン・セルヴァトフさんが、私のためにわざわざコンサートを開いてくれるから、と言うのだ。コンスタンチンさんは2015年ナターリア・ベンチャーロヴァと一緒に金沢市に来た。音楽活動の足がかりを探っているようだったので、関係ありそうな人を紹介してあげた。その後その一人のチェロ奏者と、金沢だけでなくイルクーツクでも演奏活動が成功裏に行われていたようだ。しかし、新型コロナの流行のため国外活動ができなくなって、さらに、2022年のロシア軍のウクライナ侵攻の制裁処置として、ロシア人の『西側』での文化活動はやりにくくなったらしい。彼は、イルクーツク市出身、サンクト・ペテルブルクの音楽大学卒業後イルクーツクの交響楽団でピアノを弾き、かなり前、1度はその楽団と日本に来たという。彼は芸術家的な神経の持ち虫で、イルクーツクの生活は耐えられないそうだ。だからフジール村のニキータのペンションで客人の生活を続けている。夏場のツーリストの多い時期には、ペンションのホールでコンサートを開く。今は、ツーリストはいないが(数組はいるはずだが)私のために特別のコンサートを開くから、とニキータが迎えに来てくれたのだ。
 ペンションのコンサート会場
 セルヴァトフさんと

 ニキータというよりはナターリアの意向で、舞台の上にはグランドピアノもあって、数十人は入れるコンサート会場が、こんな田舎のフジール村にはある。フジール村(オリホン島全体でも)観光業を始めたのはニキータが最初で、バイカル湖観光が発展するにつれ、ニキータの経営体も繁盛し、ナターリアはモスクワのアパートを売ったお金もつぎ込み、施設は充実していき、収入も増え、自分の好みに合った経営ができるようになり、音楽学校(うまくいかなかったらしい)やコンサート・ホール、日本文化館(少しのコレクションのほかは展開できなかったようだ)、障害児教育施設(イルクーツク市のナターリア宅を改造して)(後述)を、今回と、前回(2018年)に見せてもらったのだ。
 コンスタンチン・セルヴァトフさんのピアノは素晴らしい。プログラムは、彼がその時弾きたかった曲で、後に、教えてもらったところによると
1. バッハ・ジロティ 前奏曲 ロ短調
2. ショパン練習曲第 12 作品 25 練習曲第 12 作品 10 バルカロール
3. チャイコフスキー サイクル「季節」より 舟歌
4. チャイコフスキー - ラフマニノフ「子守唄」
5. ラフマニノフの練習曲 ニ短調第 8 番作品 60 39、習作の絵 イ短調 #2 op. 39、スケッチ画 変ホ短調 #5 op. 39、スケッチ画 嬰ヘ短調 #3 op. 39、ヴォカリーズ、E. ワイルドによるピアノ転写、前奏曲嬰ハ短調
6) チャイコフスキー - プレトニョフ くるみ割り人形バレエ団の演奏会組曲からの 4 曲: アダージョ、行進曲、砂糖梅の妖精の踊り、アンダンテ マエストーソ。
7. チャイコフスキー、バレエ「白鳥の湖」のラストシーン
 というものだ。私のメモ帳に書いてもらったのを翻訳。

 クラシック音楽は、私はいつでも大歓迎。生演奏を聴くなんて贅沢だ。大喜びで聞き惚れる。会場には古くからの知り合いのセルゲイ・グルジニン Сергей Грудининさんも来ていて、礼儀正しく、私が外套を脱ぐのを手伝ってくれた(ロシア男性にこれをやられると私は照れる)。ニキータとナターリア、それに、知り合いらしい数人の若い女性だけで、私は全く恐縮してしまった。終わってから、8年ぶりのコンスタンチンさんと話す。私が感激して頼んだせいか、2日後にも開きましょうと言われる。その時のプログラムも、後に書いてもらった。
 森の小川。グルジーニンさん
森の中の小川で水をくむニキータ
 枯れ葉のチュムに入ってみる
 10月17日、この日の予定もニキータは苦労して考え出したに違いない。11時頃、ヴィクトルという年配の男性のジープに乗り、島の中央にある小川に、湧き水を汲みに行った。ジープなので大型ボトルに何本も水を汲めて足下に置けた。ニキータとヴィクトルさんが小河からジープへと水入りポリボトルを運んでいる間、私は周りを歩き回っていた。落葉松の針葉や広葉樹の落ち葉、松かさに覆われて地面も見えない空き地を歩き回っていた。小河に落ちた針葉は、小川の流れに沿って直線に並び、倒木などのために流れが曲がるところでは、水面に曲線を描いている。
 森の中の空き地とはそこの狭い範囲だけ木の生えていないところだ。ロシア語ではパリャーナ полянаと言って辞書には「森林中・森辺の小草原」とある。ロシアの森を歩くといくつも出会う。ピクニックで来たときは格好のランチ場となる。
 ヴィクトルとニキータが落ち葉や枯れ枝を集めてたき火をしてくれた。枯れ枝がパチパチと燃えているのはいい気持ちだ。しかし、実は、オリホン島はたき火禁止だった。数年前、旅行者の火の始末が悪くて森林火災になったそうだから。それでなくとも少ないオリホン島の森林資源が失われているそうだから。
 しかし、土地の者たちはたき火禁止なんて条例にはあまり気にしないのだろう。
 近くには枯れ枝を集めて仮寓がつくってあった。ヴィクトルが言うには、きっと遠足に来た子供が作ったものだろうとのこと。うまくできていた。大きな木に沿って何本もの小枝が円錐形に立てかけられていて、小さな可愛いチュムができていた。チュムは北方民族の移動式住居で、円錐形に組み立て、外側を毛皮などで覆う。
 それでも、ヴィクトルがたき火を
 ゲルジーニンのペンションの食道で
 ヴィクトルにもウクライナとの紛争の行方を聞いてみた。ロシアがいかに、それまで正当に対処してきたか、西側にそそのかれたウクライナがいかに不当に立ち向かってきたかと、彼は激しい言葉で述べ立てた。私は真剣に聞いていた。もちろん、日本の報道番組の主張を受け売りして反論などしない。ロシア人の生の考えを聞くためにこんなに遠くに来たのだから。ウクライナは自分の力では戦っていないというのは本当だ。西側の反ロシア政策、単純に言えば、西側はロシアを弱らせて、ロシアの資源を有利に利用したいと言う政策があって、そのために利用されて西側の代わりにロシアと戦わされている、という見方はロシアでは誰もがもつ。

 森から出て、私とニキータは、昨日セルヴァトフさんのコンサートでも再会したセルゲイ・グルジーニン宅に寄った。2018年冬にも彼のヴォスクレセンスカヤというペンションに寄ったが、今そのペンションはシーズン・オフのため営業していないようだ。彼のことを書くのは3度目だ(2004年2018年の旅行記)
 彼とも、メルツ先生同様1989年からの知り合いだ。その頃若いセルゲイはナターシャという女性と結婚していて、(後で知ったことだがナターシャの連れ子の)リョーシャと、彼らの共通の子パーシャがいた。その後、ナターシャはバイカル湖で溺死し、セルゲイは再婚、再々婚し、今はダーシャという若い女性と結婚していて、数日後には二人でヴェトナムへ旅行するという。ナターシャ死後の再婚と再々婚にはそれぞれ子供が生まれている。女の子と男の子(ディーマ)だ。2018年に、ヴァスクレセンスカヤ・ペンションに訪れたときは、セルゲイにとって実子の(法律上は次男か)のパーシャ(パーヴェル)がいた。ナターシャの連れ子のリョーシャ(アレクセイ、法律上は長男か)は、ウラルの方に住んでいる、と言う。パーシャのためにヴォスクレセンスカヤ・ペンションの近くに、独立のベンションを建てる予定だと、その土地に案内されたことがある。やっぱり、パーシャは実子だし、リョーシャは義理の子だし、2番目の妻との女の子は母親の側に付いているし、3番目の妻からのディーマもイルクーツクにいるからね、と思っていたものだ。今日、彼のペンションでバーベキューを焼いてくれたのは、法律上長男のリョーシャだ。彼の家族は複雑で、来る度に、情勢が変わっている。
 セルゲイ父息子(義理の)は私とニキータのために特別に火をおこし、バーベキューでおいしい豚肉を焼いてくれた。おいしかったが私は自分の消化器のことを考えて控えめに食べた。
 エレメーエヴィさん一家
末っ子とその友達 
長男スヴェトスラフと次男ラーザリ 
 エレメーエフさんの地下貯蔵室から
 夕方は、初日から招待されているエレメーエヴィさん(妻アナスターシア、夫セルゲイなので苗字は複数形になる)宅にニキータと行く。およばれに行くのに手ぶらではまずいと、いつものように同行のニキータが自分のペンションの食物倉庫から手土産を選んでいる。いつも、ニキータは私の付き添いで行ってすぐ帰るのに、私のために自腹で手土産を持っていってくれる。こんなことができるニキータを悪く言う人は一人もいない。彼は、私だけにではなく、みんなに気遣いができるのだ。金沢に来たときも、彼は必ずおごってくれる。
 エレメーエヴァさんの家は、島の教会の近くにある。教会は数年前建てられた、はずだ。ロシアでロシア正教会を新築するのにどこから資金が出ているのかわからないが、一部寄付金からと言うなら、ニキータは相応の寄付をしたと思う。大工仕事を寄付した人の一人はセルゲイ・エレメーエフさんだと思う。セルゲイは正式の教会の位階は持っていないかも知れないが、助手ぐらいは務めているだろう。そして教会の近くに自分の家を建てたのも、自力だろう。それは、一昔前の田舎で見かけたような小屋ではなく、都会風のコッテージだった。家族の住宅部分と、ペンション部分のある立派な家だった。子供が4人もいるから。男の子用と女の子用の寝室がある。中央には広い居間があって、小さな子供が遊べるし、楽器やマッサージ・チェアも、ダイニング・テーブルもある。地下室(チルドの穴倉)には瓶詰を並べた棚や、根菜を積めた箱もある(どのロシア人の家にもある。もちろんアパート住まいにはない、その場合は郊外の別荘・小屋にある)。壁には聖画が掛かっていた。一家は信者だ。ペンションは同じ棟だが、入り口は独立してあるし、数グループが宿泊できる。バイカルのペンションはみんな宿泊料が安くない。資本を投下さえすれば、必ず元が取れる、と思う。
 子供が4人もいるし、おまけにその時は小さい子の友達も来ていて、部屋中飛び回って遊んでいたので、特に食事のセレモニーもなく、なんとなく座って、勧められる料理を食べた。セルゲイさんはひげが濃くて、それは妻のアナスターシアさんには気に入っているそうだ。しかし、口の周りにぎっしり毛が生えているなんて、私からすれば、あまり美観とは思えない。彼がそのまま日本に来たら、縄文人が現われたと思われかねない。日本へ来るときは短くした方がいいわよと余計なことも言った。ひげを生やす前の写真はあるかしらと、次の日にメールしたところ、アナスターシアさんは、アルバムを探したのか、若いときの仲良し写真を送ってくれた。
 送られてきた昔の二人
私「ずいぶん若く見えます」。
彼女「そうです、あまりにも」。
私「何だか2姉妹みたい」。
彼女「だから、ひげを伸ばすことにしたのですよ」。
私「でも、(歳取った)今ではひげなしでも(姉妹には見えないから)もういいのでは」。
彼女「今は特にそのために必要というわけではないでしょう。現在は男女の服の違いはほとんどないようなものだから(モノセックスの時代だから)」
 昔の話を聞かせてもらった。フランス語を勉強したアナスターシアさんがフランスに行ったとき、将来の夫と知り合って、ロシアに戻ってからは、ロシア各地をまわった後、このフジール村に落ち着いたそうだ。2004年に私がニキータに会いにオリホン島に来たときは、夏だったのでペンションが満員になり、彼らの住む一角に泊まったこともあった、と覚えている。その頃には子供は一人も生まれてなかった。
  フジール空港
フジール空港正面 
フジール空港、側面 
 10月18日(水)。この日もヴィクトルの車で島の中央にピクニックに行った。ヴィクトルがバーベキューの準備をしている間、私は落葉松の針葉や松ぼっくりを踏んで歩き回り、眼下に見えるバイカル湖の写真などを撮っていた。持ってきた肉は残念ながら品質が悪くて食べられないと言うことだった。だから、たき火を消して車に乗って、私の希望でフジール空港に行く。昔は、この空港にイルクーツクからのプロベラ便が飛んでいた。その後閉鎖され、ほとんど荒野になっていた.しかし、この観光ブームで、ウラン・ウデからのプロベラ便が週何回か飛んでいると、日本出発前から知っていた。今近くで見てみると確かに稼働している飛行場のようではあった。
 帰国後ネットを調べてみると、月水金の週3往復便もある。ウラン・ウデ9時発フジール9時40分着。同日10時20分フジール発、11時ウラン・ウデ着で、チケット料金は片道1263ルーブルと出ていた。運行しているのはUTエアと共同運行のシベリア軽飛行機社(ウラン・ウデに本拠があるらしい)というところだった。
 私たちが行ったのは水曜日だが午後1時も過ぎていたので、滑走路広場とターミナルを含む敷地には鍵がかかっていた。
 この日、ペンションに帰ってから観光客の誰もいないバイカル湖岸を散歩した。バイカルの観光地は、シーズン中とシーズン・オフではこうも違うものか、と思う。人に会いたかった私にはシーズン中の方が良かったが。
  『タンザニアのボルシチ』、島の博物館
  この日だったか、ピアニストのコンスタンチン・セルヴァトフさんが日本の味噌汁を食べたい、材料はあるというので、台所を借りてつくってみた。味噌はあるという。ついで持ってきたのは湿気た鰹節だった。きのこもあった。にんじんも少し入れてみた、できあがる頃、これもあると昆布を見せられたのでちぎって入れた。ニキータやナターリアさんとお味見した。『タンザニアのボルシチ』とナターリアに言われた。上等のインスタント味噌汁のパッケージを、今度お土産に持ってこようと思った。(後記: 翌年春、日本を用事で訪れたニキータに大袋2個をことづけた)。
 
 どこの博物館にも必ずある独ソ戦英雄

 暇そうにしている私を、ニキータが島の博物館に連れて行ってくれた。この博物館は3度目だが、ガイドも展示品も入れ替わっているだろう。他にすることもなかったのでニキータに連れられていった。ロシアの博物館はシーズン・オフには勝手に閉館する。だが、ニキータが話をつけてくれて、入館料まで払って、私を残して去って行った。1時間後ぐらいに私を迎えに来てくれたかも知れないが、急ぐことのなかった私は5時頃まで2時間もガイドを引き留めていた。オリホン島の考古学も興味深い。フジール村近くにシャマーン岬という現在は観光スポットになっている場所がある。そこは新石器・青銅器時代(紀元前5千年から前2千年頃)の墓地がある。『シャマーン岬1』遺跡と言って写真と説明文が掲示されていた。近くのエルガ村にも紀元前4千年紀中から3膳年記中頃の『エルガ3』という遺跡もある。『ハランサ1』遺跡は紀元前4千年から15世紀までモンゴル時代までの埋葬遺跡だ。どこの博物館にも必ずある戦勝記念写真・ポスター展もそれなりにから興味深い。スターリン時代の強制収容所の記録も、島の名所の説明も、ガイドを独占してゆっくり見ていた。その間にニキータはセルヴァトフさんと島の体育館でバトミントンでもやっていたようだ。
 コンサート−2
 この日7時半からコンスタンチン・セルヴァトフさんが私のための2度目のコンサートを開いてくれることになっていた。妻のダーシャと翌日ベトナムに行く予定のセルゲイ・グルジーニンさんは見えなかった。一昨日見かけた若い女性も(滞在客ではないらしい)見えなくて、ニキータ夫妻とヴィクトルぐらいが聴衆だった。だから、贅沢なコンサートだった。オリホン島へ来てよかったことは彼の演奏を2回も聴けたことだ。彼がメモしてくれたプログラムは以下のよう。
 ベンチャーロヴィ夫妻とセルヴァートフさん

10月18日 19時30分、 今シーズン最後の大感謝コンサート。(と名づけているが私のために特別の)
バッハ・タウジッヒ。トッカータとフーガ ニ短調
バッハ・ダルベール。パッサカリアとフーガ ハ短調
フォアワイルド。 「目覚め」/アプレ・アン・レーヴ
サン=サーンス。 "白鳥"
チャイコフスキー - ワイルド。小さな白鳥の踊り
クライスラー=ラフマニノフ。 「愛の苦しみ」
ラフマニノフ。前奏曲 イ短調 Op. 32
ドビュッシー。 「イメージ」シリーズより「金魚」
ストラヴィンスキー。 「パセリの家で」
ガーシュイン・ワイルド。スケッチ「私の愛する人」
ラフマニノフ=ヴァルト。 「歌わないで、美人さん」、「ここがいいよ」、「湧き水」、「夢」
スクリャービンの練習曲 嬰ハ短調 Op. 2 #1, エチュード 嬰ニ短調 Op. 8 #12 (「悲愴」)』
 と、たくさんの曲目が並んでいるが、それらの一部を弾いただけだ。
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