クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date March 30, 2024 (追記:2024年4月25日)
40 - (1) 2023年イルクーツク(バイカル)とクラスノヤルスク (1)
    イルクーツク着
        2023年10月13日から11月13日(のうちの10月13日から14日)

Путешествие в иркутске(Баикал)и Красноярске, 2023 года (13.10.2023−13.11.2023)

 
 バイカルとイルクーツク           
10/13-
10/14
 2022年頃 ビザ  日程と費用  ウランバートル 経由 イルクーツク着  カラトゥエフさん  アンガラ川入り江  劇場
2 10/15-
10/19
 バイカル湖へ オリホン島 島のツアー  メルツ先生   コンサート(1)  森の小川、グルジーニン   フジール空港、
エレメーエヴィ家
 コンサート2 
3 10/2-
10/22
 村の学校 バイカルを去  シェレホフ市 
 オルガン・ホール エルサレムの丘   アルカージー  音楽功労者 『軍事』博物館  カトリック教会  アンガルスク市 
10/23-
10/26
 ナターリアのお供  音楽高等学校 第19学校のプラネタリウム    フンボルト・ドイツ学校   七宝焼き  ロジャンスカヤさん   シベリア鉄道
 繁栄するクラスノヤルスク           
 5 10/26-
10/27
 クラスノヤルスク着 リュ−ダさん  クラスノヤルスク観光   軍事高等学校  新興団地   アカデミの学校  避難訓練掲示板  契約軍人募集 ソスノヴォボルスク市
 6 10/28-
10/31
 ハカシア共和国 プチャーチンさん   アバカン博物館 フルシチョフカ・アパート   ベヤ村  牧場 ベヤ村周辺  白イユース川   トゥイム崩落
 7 11/1-
11/4
 中央アジアからの出稼   ヴラディスラフ君 タクシー  郷土史博物館  金日成訪問記念碑  エニセイスク市へ   ヴィサコゴルヌィ橋  エニセイスク博物館 エニセイスク観光 
 8 11/5-
11/13
 リューダさんとの談話  墓参   クドリャーツォヴァさん ジェレズノゴルスク方面  パドゴルヌィ町  タマーラさん宅  クラスノヤルスク空港   イルクーツク空港  ウランバートル空港

 2022年頃
 1992年から2004年の間に10年間もロシアに滞在し、その後も年に1,2度は長期のロシア旅行をしていた。2019年春、イルクーツクのバイカル湖(すでに何度も訪れているが、この時は同伴者の希望で)へ行こうとビザを取得しチケットも購入したが、新型コロナウィルス感染の流行で、どこへも行けなくなった。
 そして2022年2月24日のロシア軍の『特別軍事作戦』とかのウクライナ侵攻で、ロシア渡航はためらわれた。その時以降はロシアに前にも増して嫌気がさしたのだ、こんな国へはもう行くことはないかとすら思った。テレビを見たたいていの日本人同様私も、ロシアの侵攻に大憤慨したものだ。日本中が(私も含めて)ウクライナに同情した。多額の寄付、物品の寄付が集まったものだ。集会もあった。私は、寄付はしなかったし、支援集会にも参加しなかった。

 ウクライナ避難民には政府からの支援金や補助が厚かった。ロシア軍が4州のかなりの部分を占領したという報道で、たいていの日本人同様私も、ウクライナ頑張れとテレビの前で応援していたものだ。個人的にも我が家の別棟にウクライナ避難民を受け入れた。(これは数ヶ月後、どちらかと言えば失敗だったとわかる。『39の2022年7月から』に詳しい)
 ロシアのウクライナ侵攻に憤慨したが、こんなことは、つまり、ロシア帝国やソ連邦による他民族の領土合併や侵攻には歴史的な伝統がある、と歴史の本を読み返したものだ。(一方的な歴史の本というのもあるが)。テレビではロシア軍の残虐さが毎日報道されていた。それで戦時中の侵略的な国へはもう行かない。新型コロナ感染が治まって,海外渡航が容易になっても,と思っていた。当初は数ヶ月でロシアは戦力がつきて、欧米からの派手な援助を受けているウクライナに負けて撤退すると思っていた。つまり、ロシアが勝つはずはないと思っていた。
 しかし、西側とウクライナ側に立って報道しているテレビ報道番組などを見ているうちに、誰もが本当はどうなのかと疑問を持つものではないか。紛争の報道は中立とは行かないものらしい。ましてや『自由と民主主義の』西側対『権威主義の』ロシアだ。当初の番組ではプーチンは悪玉、ゼレンスキーは英雄と印象づけるような報道の仕方だった。コメディアン出身のゼレンスキーだが、力点をつけ熱を入れるところは逃さない演説だと感心して聞いていた(聞き惚れていた)。後から思えば、彼は英雄の大統領を演じていたというわけだ(2015年ウクライナの絶大人気テレビ番組『国民の僕』のように)。
 この間私の知り合いのロシア人が数人、金沢にやってきた。彼らに侵略者ロシアは今度こそ負けると私は言った。いくら何でも世界中を相手には戦えまい。(中立の国や棄権した国、ロシア排除に積極的でない国も多く、ウクライナ側に立っていたのはNATOのほかは日本と韓国ぐらいだったから、世界中とはとても言えないが)。私はロシアの歴史的な侵略性(これも本当は括弧付きだが)について熱っぽく彼らに言い続けた。外敵をつくって国民の目を内政からそむけさせてきた(これはどの国でも支配者はそうしてきたか)。ロシア人は、それには控えめに反対した。(日本は完全にウクライナ側だし、自分たちは訪問者だから控えたのかも知れない)。
 2020年のテレビの報道番組は完全にアメリカとNATO側に立っていて、まるでロシアを勝たせたくないようなことを言う解説者しか出てこない。本当らしく見える事実は、そう見えるように報道しているだけかも知れない、と思えるようになるものだ(これが情報戦らしい)。この頃、鳴り物いりで始まったウクライナの『反転攻勢』というのも、さっぱり進展してないようだった。ウクライナ政治の腐敗、収賄、横領もちらほらと(控えめに)報道される。そりゃそうだろう、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国はソ連邦の共和国だったから、末期ソ連の欠点を小型化したようなものがあるだろう。ウクライナではなくても、旧ソ連邦構成共和国はなかなかそこから脱却はできないだろう。ロシアの政府が汚職と収賄にあふれているなら、ウクライナにロシア流の汚職と収賄がないはずがない。欧米から援助されている武器の行方も疑問視されている。本当はどうなのだろう。

 ロシアの新学期9月に向けて、10年生と11年生(最上学年)用の新しい歴史の教科書が発行されているそうだ。10年生は1914年から1945年までの歴史を学ぶ。11年生は第2次大戦後から現在まで、つまり、ウクライナ戦争も含めて学ぶ。ルガンスク州などの4州(のロシア軍占領地域)も、ロシア連邦の新しい領土として学ぶ。
 メディンスキー編のその新教科書を読んでみたい。日本では決して手に入らない。ロシアでも、10,11年生は歴史教科書なしで新学期を迎えたという。印刷が間に合わなかったのか、記述に何か問題がある(あった)らしい。チェチェン共和国のラムザン・カディロフ首長が、訂正を要求したとか。最初の版はどんな内容で訂正版は、どう訂正したのだろう。どんな問題だったのか(後述)。ロシアに行って何とかして手に取ってみよう。

 たったこの2つの目的のために、この歳で一人、直通便のないロシアへ、旅立つことにした。実は、その頃日本へ車関係のディーマさんが来ていた。タシュケント経由で来日したそうだ。帰りに同行したら、たった一人で言葉もわからない知らない空港(タシュケント)で乗り換え便を待たなくてもよくなる、と思ったことが、この旅行を思い立ったきっけだった。が、ディーマさんの帰国はいつになるか不明で、私は、ひとまずビザ申請の準備に取りかかった。結局は一人で行くことになった。
  ビザ
  今では電子ビザというのがあって、バウチャーなしでも52ドルくらいで、4日間で取得できるそうだ。しかし、その制度はできたばかりで、不備も多いとロシア人も日本の旅行会社も言う。電子ビザは自力でも取れるが、書類の不備を指摘されそうなので、手数料を出して旅行会社に頼むことにした。電子ビザは到着日と出発日を含めて16日間しか滞在できない。ちょうどよい乗り換え便は週に1,2便しかないので、ロシアに滞在できるのは10日間以下になる。これではビジネスマンなら間に合うだろうが、せめてイルクーツクとクラスノヤルスクぐらいはゆっくり見て、知り合いと話したと思っている私には合わない。
 あまり当てにならない電子ビザを自力で取るより、ニキータに頼んで普通のビザを取得するためのバウチャーを出してもらうことにした。
 10月13日にウランバートル経由でアエロ・モンゴル航空で出発すると、待ち時間も少なくイルクーツクに着けそうだった。しかし、ニキータから送られてきたツーリスト・ビザ用バウチャー見ると期日が不備だった。ニキータが頼んだそのイルクーツクの旅行社の怠慢か。ニキータは10月13日にはイルクーツクについてほしいと言っている。そのためには取り直しで取ったバウチャーを使って緊急ビザ(と言っても6,7日後の発行)を取るほかなくて、通常期間(12日以上)発行ビザは取得料が12,500円のところ、16,599円かかった。それはニキータが負担すると言ってくれた。
 航空便チケット発券の間際になって、アエロ・モゴル航空は10月のウランバートル・イルクーツク便は欠航すると言ってきた。イル・アエロ IrAero便(イルクーツクに本拠地)は飛んでいるが、それは日本からは直接手配できない。(ロシアと日本の決算はできない、つまり日本のカードはロシアで使えない。その逆でもある)。モンゴルという第3国にある携帯旅行会社を通せば買えないことはないが、高くなるそうだ。それならと、ニキータにネットで買ってもらった。そのイルクーツク便に間に会うのはミヤット・モンゴル航空便だけなので、それも注文し直した。帰りのイルクーツクからウランバートル便は、搭乗まで日数があったせいか、3分の1の値段だった
  日程と費用
  結局、旅費としては
1)ロシア・観光シングル・ビザ(有効期間)10/12から11/10(実費16,500円)。取得手数料(8800円)
2)10/13 ミヤットMIATモンゴル航空 成田(14:40)からウランバートル(19:15)と、11/8のウランバートル(08:55)から成田(翌日14:30)の往復便(102,980円)
3)上記チケット取得手数料6,600円(ネットで取ると言うこともできるが、それで困ったことが以前にあったので)
4)10/14 イル・アエロ航空でウランバートル(02:00)からイルクーツク(03:00)便が19,986ルーブル(32,853円)
5)10/25 シベリア鉄道でイルクーツク(16:01)からクラスノヤルスク(翌日の09:31)の18時間半(時差1時間)乗車のシベリア鉄道のコンパートメントが3,873 ルーブル(6,385円)  
6)11/7 UTエア航空でクラスノヤルスク(11:35)からイルクーツク(15:00) (時差1時間)が6,134 6,134ルーブル(10,388円)
7)11/8 イル・アエロ航空でイルクーツク(00:05)→ウランバートル(01:00)が10,734ルーブル(18,182円)
8)行きのウランバートル空港のコンビニで114トゥグルグ現地通貨(114円)
9)帰りのウランバートル空港で有料ラウンジ90,000トゥグルグ現地通貨(4,032円)
以上の海外旅費190,334円の他
11)金沢駅から成田空港駅まで17,210円 x 2
12)成田空港から自宅までスーツケースの宅急便2,190円
13)お土産(ニーナ・カラトフエフさんとリューダ・ユリエヴナさんに成田空港で化粧品)13,500円、
14)博物館入場、お土産など 10、000ルーブル(14,780円を出発前にディーマさんに両替してもらう)、2,350ルーブル(3,580円を前田ナタリアさんから両替)手持ちの45,000円を、クラスノヤルスクのリューダさんに食費として、受け取ってもらう。

 (11)から(14)まで、国内旅費とお土産代に96,260円
 となった。滞在26日間で、お土産と滞在・観光費も入れて合計286,594円だった。以前のように直通便ならこの半額だったかも知れないし、北京経由イルクーツクなら数割は安かったかも知れない。しかし、北京空港で深夜便を待つよりウランバートルの方がいいかと思ったのだ、北京の有料ラウンジは知らないし。

 実は、ロシア旅行と言ってもちっとも心が躍らなかった。目的地はイルクーツクとクラスノヤルスクだが、前者は何度も訪れているし、後者は10年間も住んでいたところだ。ロシアへ行くならカフカスかクリミア、せめてもサンクト・ペテルブルクやコミにしたかったが、そこまで行く体力はないと思った。親切な受け入れ人のいる近場でも、目的は達せられるし、5年半ぶりの2都市の変化も見られる。が、出発前から早く終わらせて、快適な日本の我が家に帰りたいと思っていたものだ。

 ロシアへ行くと知人達に言うと、そんなことはこの時期に可能なのか、可能としても危険はないのかと心配された。戦争に巻き込まれるのではないか、と思われたのだ。みんなは本当に日本の報道に洗脳されている。シベリアはモスクワで何があろうと安全な土地だ。まして、モスクワも、ウクライナとの旧国境地帯(1991時点での)も、新たにロシア連邦領となった旧ウクライナの4州も、前線でない限り安全だと、私はわかっていた。日本でテレビを見ているとロシアはどこも危険とうつるのか。また、ロシア人がヨーロッパへ今行くのは難しいと言われているが、日本へのビザは、以前と変わりなく発行される(個人旅行は身元保証人が必要)。ヨーロッパのスポーツ大会などにはロシアは招待されない場合もあるらしい。日本でコンサートなどは、招聘者がいる場合は開催できるらしい。
  ウランバートルのジンギスカン国際空港まで
  この日早朝、家からバス停までスーツケースを転がしていき、金沢駅からは新幹線で東京まで、それから成田エクスプレスで空港まで行った。17,210円。(この国内旅費が高い。別のもっと安い行き方もある)
 成田空港の免税店で13,500円で2個組みの資生堂クリームを買う。かなり世話になりそうなイルクーツクのニーナ・カラトゥーエヴァさんとクラスノヤルスクのリューダ・ユリエヴナさんに進呈するため。手ぶらで行っては格好が付かないから、形ばかりでも。
 出発ロビー、22時、まだほぼ無人

 14:40発のミヤット・モンゴル航空の飛行機に乗る。座席指定はしてあったので、いつものように後方から3列目の通路側に座る。横8列のまあまあ大型飛行機でほぼ満席だった。だから、19:15(時差1時間)にウランバートル空港に着いたときは、かなりの人数の日本人客と少数のモンゴル系とヨーロッパ系の人たちと、出入国検査窓口の順番に着こうとした。ふと見るとトランジットという看板がある。もしかして、無人(順番のない)のこちらの方かも知れないと、職員のモンゴル人に聞いてみると、そうだという。成田発の飛行機でトランジットでロシアへ行くのは、はたして私一人だけかと怪しみながら、拙いロシア語を話す警備職員に連れられて、レントゲン室など(そこではすんでのことでお土産品(錠剤)が液体だからと没収されそうになったが)に通されたあげく、人の大勢いるホール(国際線出発ホールらしかった)に案内されて、ここから出発だと言われる。私のスーツケースはどこにあるのか、ボーディング・チケットはどこで手に入れるか、と再三ロシア語で聞いても、乗り換え便の航空会社は違うと再三言っても、心配ないというそのモンゴル人の自信ありげな答え。そして離れていった。モンゴルの空港に(一人旅の日本人女性が珍しいからと言って)無責任な警部職員がいても不思議はないと思った。私は迷子になったようだ。
 親切そうな空港女性職員に、事情を話してみると、日本語が通じた。7年間日本に留学していたとか。彼女に連れられて、成田からのスーツケースも無事受け取り、イルクーツク便への搭乗窓口も教えてもらえた。空港の建物が日本関係の事業者が建てたとのことで設備(ウォッシュレット付トイレ)やつくりが日本風だとのこと。コンビニもあった。モンゴルのお金は持っていなかったが、ここまでは日本発のカードが使える(ここを出てロシア領に入るともう使えない)。
 6時間以上も待つのはつらいが、WFの使える環境だったので、スマホを見て,翌日2時の出発までの時間を潰した。
 出発ロビーは、深夜は順番待ち客用のロープのみで無人だったが、出発時間近くには(ほぼ)ロシア人(のみ)の乗客が搭乗窓口に順番を着いていた。
 搭乗窓口にも先ほどの親切な職員がいて笑顔で挨拶してくれた。
 イルクーツク着
 ウランバートルとは時差のないイルクーツク空港に1時間後の03:00に到着した。深夜なのに迎えに来てくれているカラトゥーエフ氏を待たせまいと、私は出入国検査窓口に急いだ。私の後ろにも前にも順番があった。私の番が来て、長々と調べているように見えた国境警備の職員に、横で待っていてほしいと言われた。こんなことは初めてではない。出入国書類に手落ちはないはずとおもって窓口を離れると、別室のドアが開いて、別の職員が現われ、私はその別室に案内された。列を作っていたロシア人達は一斉にこちらを見た。ロシア人らしくない私がどんな理由で入国に問題があるのだろうといった目つきだった。密入国を図った外国人くらいには思われたかも知れない。
 ひどい訛りの英語で話そうとしていたその若い職員の男性は、私がロシア語で話してほしいというと、何だか安心したようだ。別室には年配の制服男性がいて、ボスのようだった。私は、何かパスポートに問題があるのですか、と聞いてみた。いやいや、問題ないです。と言う答えだ。しかしと言われて、ロシア入国の目的は何か(答え:知人訪問)とか日本での仕事は何か(答え:無職、年金生活者)とか尋ねられた。そんなことはみんなビザ取得の時、申請書に書いたことだ。私が別室へ呼ばれた理由は、未使用のビザがパスポートに貼ってあったからだという。それは4年前取得したが、その直後、新型コロナ流行のため,海外に出られなくなったためだ。説明は簡単で、納得のいくものだ。今回のビザをパスポートに貼り付けたのは東京のロシア領事館だ。「すいません。ご足労かけました」のようなロシア語をかけられ、私は解放されて、もう一度、出入国窓口に行った。もうロシア人の順番はなく、急いで、出口に向かい、カラトゥエフ氏からの歓迎の花束を受け取った。
 
 案内された部屋
 
 3つめの門をリモコンで開けると自宅

 こんなに深夜に長時間待たせて申し訳ない。深夜到着便については前もって言ってあったので,それでも迎えてあげると言ってくれたカラトゥエフ氏には感謝だ。あの別室に引き留められてさらに長時間待ってってもらって、本当に申し訳ない。
 早朝の4時半頃、彼の別荘について、すぐ部屋に案内された。パジャマ姿の妻ニーナさんも,わざわざ挨拶に出てくれて,ますます申し訳ない。  カラトゥエフ氏の、アンガラ川の入り江の畔にある別荘については豪華だと聞いていたが、住むのが気が引けるくらい立派だったことにしよう。富裕層向け別荘地は大概,その地域(団地)全体が閉鎖されていて、誰でもが地域内に入れない。つまり入り口に門があって、遮断機がおりている。門番付もあれば無人でリモコンで開く門もある。一つ目はリモコンで開けても、次の二つ目は有人の場合もあって、そうした門によっていくつかのブロックに別れているようだ、カラトゥエフ氏の別荘に行くには、2つの門をリモコンで開けなければならない。彼の別荘の門は3つめで、そこをまたリモコンで開けると彼の個人所有の地所になる。そこにはでんと、3階建てくらいの建物があって、その前の空き地には2台ほど車が止まっていて、その奥のガレージにも車やスポーツ用4輪車のようなものがある。
 正面玄関はどこかわからない。雑然としたガレージの車の隙間から屋内に入らなくてはならない。正式の客を案内するときには整頓されたファッサードになるのかも知れない。今、車の隙間からドアを開けて住居部分に入ってみると、装飾された階段には驚く。後に私は、ヨルダン階段(エルミタージュにある)と呼んだ(お世辞もあるが)。ニーナさんがこの別荘建築について言ったことによると、この設計は彼女の案によるとのことだ。中央の階段をいかに左右対称にして装飾するかに頭を悩ませたとか。その左右に分かれた大理石の階段を上っていくと、階段の踊り場と廊下に面して部屋のドアがある。私の部屋は2階の、彼らの息子さん(今は留守)の部屋だった。真ん中に大きなベッドがあって、隣の小部屋がシャワー・ボックスとトイレだった。着いたのは深夜4時半だったのですぐ寝た。その日はもう10月14日になっていたが、目を覚ましたのも14日で、9時半だった。
 カラトゥエフさんのウクライナ観(コサック)
 
 1階、右はキッチン
 
 1階 奥に階段
 
 キッチン
 
 中2階から1階を見る
 
 中2階にあるカラトゥエフさんの書斎
 
地下室のプール 
 
地下室にある卓球台 
 朝、大理石のヨルダン階段を降りて一階へ行くと、そこは広いダイニング・キッチンで、朝食の用意がもう整っていた。
 ダイニングと言っても料理のできる応接間と言ってもいいくらいで、装飾のある流し台や調理台、無数の棚が備え付けてある。だから、どこに何を入れたか覚えておかなくてはならない。大きな大理石のテーブルがあって、朝食が並んでいた。カラトゥエフ氏も席に着いていた。
 朝食後、屋内を案内してもらった。地下から最上階まで抜けるヨルダン階段を中心に建てられているこの『邸宅』にはそれぞれの階の左右に2部屋。中2階や中3階に1部屋と、1階には卓球ができるホール、地下にはプールがある。
 最上階はソファだけがあり、窓から10月のまだ暖かい日差しが差し込んでいた。そこに座って、カラトゥエフ氏とウクライナ戦争について話してみた。彼は、ロシアは絶対に負けないという。反対に、この戦争が終わる頃にはウクライナという国はなくなっているだろう。ドンバスのロシア語話者の多いところはロシア連邦の一部になっている。西は歴史的にポーランドのものだ(*)、北西はベラルーシ領になる。中央も、ソ連時代のようにロシア勢力圏に入るか。この意見は、私がロシア旅行中に聞いた最もロシア寄りの予測だ。戦争は、2022年2月に始まったわけではなく、2014年マイダン革命後に始まったのだが、アメリカや西側諸国がロシアの地下資源を狙っていたのはソ連時代末期からだろう。ソ連崩壊後の国有財産の私有化の頃が最も盛んだった(**統一ロシア史教科書11年生)

   (*)教科書によれば、19世紀末20世紀初めから、オーストリア・ハンガリー帝国は当時同帝国が支配していた西ウクライナ(現リヴォフや州やザカルパチア州など)のルテニア人(ルス族のキエフ大公国の南西の後継者を、ラテン語でルテニア人といい、東北のモスクワ公国は、ギリシャ語でロシアと言った)を、同じスラブ系で近親感のあるロシア帝国から放すためにルテニア人(ウクライナ人)はロシア人ではないという歴史論を広めていた。キエフ公国がモンゴルによって滅びた後、キエフのリューリック朝の後継者ハルィチ(ガリツィア)・ヴァルィニ公国がリトアニアと合併され、そのリトアニアとポーランド王国が1385年同君連合(リトアニア台行為はヤギェウィ家の世襲、ポーランド王位は選挙制)で合併した。1569年にはルブリン会議でリトアニアとポーランドは制度的にも合同した。中世以来現代のウクライナに住む農民は外国人勢力に支配されてきたのだ。住民はほぼ農民で、支配層はポーランド貴族などだ。つまり、19世紀ごろまでは、ドニプロ川右岸(西)はポーランド地主の領土で、左岸(東)はノヴォロシアとしてロシア皇帝に忠実なコサック軍団に譲渡されていた。
 (コサックとは時代と地域によって、内容が異なる。元々は、タタール・モンゴルの支配の後、荒地となっていた現ウクライナ草原(ドニプロ川流域など)に、先住のタタール人などとロシア帝国やポーランド国から逃亡して来た農奴などからできていた武装自治集団。それらを統合してヘトマン国家もできた。コサックの反乱は成功することもあったが、勝利しても別の帝国に利用された。1654年ペレヤスラフ協定でコサックの長へメリニツキーがモスクワ大公国の宗主権を認めた・・・・・・・・・)
 
 キッチンのニーナさん
 
 朝食

 カラトゥエフさんの家族は4人で長男は独立して別の家に住んでいる。どうしてこんなに大きな家が必要なのだろう。家だけではない。設備の運用にも資金がいる。王朝風の重厚な家具のいくつものセットも安くはなかっただろう。富裕層になると、こんなクラシックな家具を並べたがるのだろう。イルクーツク市から30分ぐらいのところではあるが、これは別荘だ。イルクーツク市にマンションはあったが、そこは最近手放したそうだ。2軒も家を持つなんて不便ではないか。車があれば市の中心まで30分ほどだし、リモートで仕事もできる。
 ニーナさんが庭を案内してくれた。幾何学模様に石が並べてあり、ステージのようなところもあるが、冬なので整理されていない。
 後に、ナターリア・ベンチャーロヴァさんに、カラトゥエフさんの別荘へ行ったことがあるかと尋ねた。カラトゥエフさんとニキータ・ベンチャーロフさん(ナターリアの夫)は卓球友達で、2度も一緒に日本(私の住む市)へ来たことがある。ナターリアさんの評価は辛かった。
「かつて、(知人を通じて、つまりコネか)資材が安く手に入った頃、あんな大きな家を建てて子供達と一緒に住もうとしたらしいが、長男は別に住んでいる。今となってはあんな家を維持するのもたいへんだろう。電気代も安くない」とのことだ。確かに、彼らの生活そのものは、場所取りの家具ほどは豪華ではないかもしれない。明かりはいちいち消していたし、地下室のプールも今は泳ぐ人はいないだろう。水は抜いてある。孫が来たときにでも昔は遊ばせていたのか。
 大理石の階段は、彼らの老後にはふさわしくないと密かに思った。転ぶと痛いし、茶碗をうっかり落としても割れる。バリアフリーではない。が、こうした優雅なフォルムのアンティーク家具に囲まれて、ネット環境で生活するのもいいだろうな。しかし、各部屋(寝室)に付いている小部屋のシャワー・ボックスの使いにくさにはまいった。小部屋を水浸しにしてしまって、ニーナさんには悪かった。
  アンガラ川の入り江のゲーティッド別荘群
 
 
 
 
 
 
 お昼頃、ニーナさんと近くに散歩に出かけた。バイカル湖から唯一流れ出るアンガラ川には、エニセイ川に合流するまでの1,779キロの間に発電所がいくつか建設されている。最も上流にあるのは最も初期の1950年代完成のイルクーツク発電所でそのダム湖はバイカル湖にまで届いている。バイカル湖から流れ出て50キロほどのところでせき止められたので、バイカル湖の水面は1.4mも上昇したとウィキペディにはある。つまり、バイカル湖はイツクーツク発電所ダム湖の一部(と言うより大部分)ともなっているのだ。それくらいだからイルクーツク市南東から流れてくるアンガラ川(今ではバイカル湖と共にイルクーツク発電所ダム湖)は、水量も増え、元の陸地が水没して美しい入り江も多くできた。その中でもいくつかの入り江は富裕層向けの別荘地になっている。(ソ連時代からの組合から給付された自給自足用の畑と自力で建てたような小屋も『別荘(ダーチャ)』と言うが、不動産資本が造成して売り出したようなゲーティッド団地も『別荘(ダーチャ、またはコッテージ)』という)。
 
 門番小屋付きの遮断器
 
 団地のプライヴェート船着き場

 カラトゥエフさんのコッテージはイルクーツク市からアンガラ川右岸のバイカル街道を21キロ行ったところの入り江の畔にある。(バイカル街道はイルクーツク市からバイカル湖岸のリストヴャンカまで65キロある)。
 この場所は別荘団地村『バイカルの真珠 Байкальская жемчужина』と言うところだそうだ。自分たちだけの入り江がある.小さな船着き場もあるから、カラトゥエフさんは自分のモーターボートでバイカル湖まで行けるそうだ。もちろん魚釣りというレジャーも家から数歩で楽しめる。残念ながらロシアでは富裕層向け別荘地と言っても道路はよくない。(自分の別荘の前の歩道だけ敷石を敷き詰めてある目立つ別荘もある)
 午後から、バイカル湖のリストヴァンカ Листовянка村へ行って魚料理を食べるという予定が立てられていた。3人でバイカル街道をさらにバイカル湖の方へ進んでいく(前記のように、カラトゥエフさんの別荘は、イルクーツクからバイカル湖への途中にある。リストヴァンカはアンガラ川右岸のバイカル湖への河口にある)。30年以上前に来たときも道はアスファルト舗装されていた。その頃からリストヴァンカには魚を売る店やバイカル博物館があったと思う。今は、バイカルに面した道路はぎっしり駐車している車としゃれたカフェ・レストランが並んでいる。そのうちの一つに入る。カラトゥエフさんはいつもこのレストランに入るらしい。2階の湖への眺望のよい個室で食事することもあるらしい、が、今は入らなかった。旅行するとごちそうが出るが、私は自分の消化器のことを考えて恐る恐る食べる。だから私に豪華な食事をごちそうすることはないのだ。
  ソ連時代からの立派な劇場
 
 イルク−ツク・アカデミー・ドラマ劇場
 
 劇場内
 
 『12の椅子』の場面
 夕方は、イルクーツクの国立劇場で『12のイス』を見た。イルクーツク・アカデミー・ドラマ劇場という市の中心(なので、もちろんその住所の名はカール・マルクス通りと言う)にあって、その建物はロシアのたいていの劇場のようにヨーロッパ風で平土間と、両側には4階もの桟敷がある。私の席は2階右がわ桟敷席で、チケットの料金は100ルーブル(140円)。劇場へ出向いたりコンサートを開いたりするのは、ロシア帝政時代は貴族の娯楽で、そこは社交場だった。ソ連時代そうした文化の享受は庶民のものになり、俳優や音楽家達は公務員になって、給料は興行利益からではなく政府が支払っている。だから入場料100ルーブリでもこんな立派な音楽付劇が上演されるのだ。ソ連が崩壊してもその伝統は続いている。ハードもいいし、ソフトもいい。劇場内は豪華だし、出し物の質も高い。(ソ連時代チケットを手に入れるにはコネがものを言ったかも)。日本でこうした観劇は数千円以上はする。
 だが、大都市モスクワなどでは料金は高くなっているそうだ。帰国後ネットで調べてみると、ボリショイ劇場で『スペードの女王』を見るには最低11,500ルーブルだ。しかも、その値段のチケットは早く売り切れて、高めの席がパラパラとしか残っていないようだ。クラスノヤルスクのバレー・オペラ劇場では300から1800ルーブル、だから、明日の公演でもチケットが買える。しかし、イルクーツクでは、100ルーブルのチケットの入手は難しいようだ。ロシアでは、劇場やコンサート会場は空席にはほぼないらしい。
 チケットの値段に比べ、薄っぺらなパンフレットも同額だった。『12のイス』は、ソ連時代の有名なユーモア小説で、私も昔買った本を持っている(『積ん読』状態)。YouTubeで映画(字幕なし)を見たこともある。筋はだいたいわかったが、今回は音楽もはいっていて楽しかった。
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