クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date April 01, 2024 (追記:2024年6月13日)
40 - (4) 経済制裁下の2023年イルクーツク(バイカル)とクラスノヤルスク (4)
    ナターリアとイルクーツク
        2023年10月13日から11月13日(のうちの10月23日から26日)

Путешествие в иркутске(Баикал)и Красноярске, 2023 года (13.10.2023−13.11.2023)

ロシア連邦地図イルクーツクとクラスノヤルスク
 
  バイカルとイルクーツク            
 10/13-
10/14
 2022年頃 ビザ  日程と費用  ウランバートル  イルクーツク着  カラトゥエフさん アンガラ川入り江   ソ連時代からの劇場 
2 10/15-
10/19
バイカル湖へ オリホン島 オプショナル・ツアー  メルツ先生   コンサート(1) 森の小川、   エレメーエヴィ家  フジール空港 島の博物館   コンサート(2)
3 10/20-
10/22
村の学校 バイカルを去る  シェレホフ市  オルガンホール  エルサレムの丘 アルカージー宅  音楽功労者   『軍事』博物館   カトリック教会  アンガルスク市
10/23-
 10/26
ナターリアのお供
音楽カレッジ  第19学校  フンボルト学校  外国語大学  七宝焼き   ロジャンスカヤさん     シベリア鉄道
   繁栄するクラスノヤルスク            
 5  0/26-
10/27
クラスノヤルスク着 リュ−ダさん  繁栄するクラスノヤルスク  軍事高等学校   新興団地 アカデミゴロドク区の学校   避難訓練  契約兵募集ポスター  ソスノヴォボルスク町
 6 10/28-
10/31
ハカシア共和国 プチャーチン  アバカン博物館   フルシチョフカ・アパート  ベヤ村 牧場  ベヤ村周辺   白イユース川   トゥイム崩落
 7 11/1-
11/4
中央アジアからの出稼ぎ
 ヴラディスラフ君 タクシー  郷土史博物館  金日成記念碑  エニセイスク市へ  ヴィサコゴルヌィ橋  エニセイスク市博物館     記念物
 8  11/5-
11/13
 リューダさんとの談話 墓参  クドリャーツォヴァさん  ジェレズノゴルスク市  パドゴルヌィ町   タマーラさん クラスノヤルスク空港  イルクーツク ウラン・バートル空港 
 ナタ−リアのお供で
 いつものカフェで朝食、チーホンとマーシャ
 知育おもち試作品室か
 イコン工房もある新築寺院
 10月23日、この日の朝食もチーホンとマーシャ、それにナターリア・ベンチャーロヴァも加わってカフェで食べた。もうニキータもいない今日と明日の予定をナターリアさんに書いてもらった。
 ほぼその予定どおり11時過ぎ、ナターリアとタクシーでイルクーツク国立大学科学図書館 научная библиотека ИГУと言うところに行って、イリーナ・プロセキナ Ирина Просекинаと言う若い女性に会う。ナターリアは障害児教育とか、少人数の初等教育とかに携わっているので、ここへ来たのだと思う。プロセキナさんは、知育おもちゃの発案者のようで、いくつもの試作品をつくっている。販売ルートに乗ったのもあるらしい。彼女たちは自分たちの実践などについて長々と話している。私は死ぬほど退屈だった。

 さらにタクシーに乗るナターリアに連れられて、黙って付いていったところは『イヴァトゥ ИВАТУ Иркутский военный авиационный инженерный институтイルクーツク軍事航空工学大学(1931−2009)』というすでに廃校になっても広い面積の残る一部に 『聖祝福された大公ドミートリ・ドンスコイ寺院 храм святого благоверного великого князя Дмитрия Донского』という新しいロシア正教の寺院があって、それに附属しているイコン(聖画)製作工房だった。ナターリアはエレーナ・アレーシア Елена Алешинаと言うイコン聖画の匠に会いに来たのだ。 ナターリアはロシア正教の熱心な信者だから、イコン工房のスポンサーにもなっているのかも知れない。アレーシナさんはイコン(の描き方)を教えている。だから工房には生徒の描きかけの絵や、見本の絵などがあった。イコンは先人の絵を忠実に写さなくてはならない。そして描かれている聖人には表情があってはならない。なるほど、どの顔も無表情だ。何か感情を表わしている聖人の画像は、確かに見たことがない。聖人として描かれて、祈りの対象となる人物にはやはりよけいな表情がない方が祈りやすいのかも知れない。
 ここでも私は退屈だった。アレーシナさんとナターリアさんは自分たちのことを話していて、私は所在ない。ろうか続きの新築教会へ行ったり、キッチンになっている部屋をのぞいたりして、彼女たちの要件が終わるのを待った。やっと3時半頃、そこを引き上げてカフェで昼食をとった。
  音楽カレッジ(高等専門学校、単科大学)
 音楽学校オーケストラ教室
 ショパン像の横でニネーリ先生と
  ナターリア・ベンチャーロヴァさんの予定では16時に音楽カレッジへ行くと書いてある。ここで、私のガイド役はナターリアさんからチーホン君に変わった。チーホンに連れられて、ほぼその予定通り、16時半には私は音楽カレッジの大きめの教室でタチヤーナ・アキーモヴァТатьяна Акимова先生のオーケストラのクラスに案内され、教室の後ろの椅子に座って、練習を聞いていた。ハープや打楽器やオーケストラのすべての演奏者がそろっているようだった。指揮者、つまり先生は高めの椅子に座って教えている。私が座った椅子は打楽器の近くだった。演奏の途中でも打楽器の暇なときは奏者の男の子や女の子が楽しそうに話している。彼ら、若いんだなあ。
 やがて、私をこの教室に置いて、去っていったチーホン君が戻ってきて、次の教室に案内してくれた。それは先日のニネーリ先生のピアノの教室だった。チーホンが1曲弾いてニネーリ先生が見ている。これは私のためにやってくれたのかも知れない。チーホンは今、ニネーリ先生に習っていないと言うから。
 それからはニネーリ先生に学校を案内された。『ショパン名称イルクーツク音楽学校』と言うからショパンの像もあってその横で、ニネーリ先生と写真を撮った。
 予定通りほぼ19時には、ヤーナ・リシツィナ Яна Лисицинаさんという画家のアトリエ(仕事場)にナターリア、チーホン、彼の恋人のいつものマーシャと一緒に座っていた。ここはアトリエだけではなく、住居もあるのか、台所もあった。本と絵もぎっしりあった。ここでの会話は私も加わることができて、とても興味深かった。私が興味深かったウクライナ戦争について彼らの『アメリカに利用されているウクライナにロシアは負けない、アメリカはウクライナを使ってロシアと戦争をしている』という意見を詳しく聞くことができたからだ。23時近くなって私たちはおいとました。
  第19学校
 プラネタリウム室
 第19学校内
  10月24日。この日のナターリアが書いてくれた予定に寄れば;
11時、第19学校へいって、ミハイル・メルクーロフ Михаил Меркуловさんに会い、学校のプラネタリウムを見せてもらう。
12時、グムボリッド Гумбольдт(ドイツ語)センター学校へ行く
13時30分、アルカージー・カリフマンさんの案内でイルクーツク外国語大学日本語科の学生と談話。
17時、イルクーツク郷土博物館内の七宝焼きの工房でセルゲイ・アンドレイコ Сергей Андрейкоさんと会う。そのあと、『アジアへの窓』という展示場に行く。となっている。

 早速、朝、ナターリアとタクシーで第19学校へ向かった。
 イルクーツク第19学校というのは2018年新築の、びっくりするほど現代的で、かつての(いまでもあるソ連時代風の建て方をした)ロシア学校らしくなかった。私はやたら先進性を押しつけられるような居心地の悪さを感じた。生徒は乗ってはいけないようなエレヴェーターで階上に上がり、プロネタリウム室へ入る。プラネタリウム室には、外来者か、役人らしい年配の男性が学校関係者らしい人と話していた。誰が私を案内してくれるのか、どこへ立てばいいのかわからず、投影している男性に近寄って、今見えているはずの星空を写してほしいと頼んだ。意外にも承知してすぐ写してくれた。もっとそこにいれば説明もしてくれたに違いない。しかしナターリアに呼ばれて、部屋から出た。学校附属プラネタリウムとしてロシアで最も大きく、ドイツの光学器械もいれてでできたという。プラネタリウムの他に、この警備の厳しそうな学校を見て回りたいと思ったが、ナターリアに促されて、タクシーに乗り次の予定地へと向かった。
 フンボルト・ドイツ学校
 フンボルト学校前のベンチャーロヴァさん
 折り鶴を折る
 建物の正面に『ヴィリゲリン・フォン・グムボリド Вильгельм фон Гумбольдт名称HUMBOLDT教育センター』とあるので グムボリドとは誰だろうと、帰国後ネットで調べてみると、ヴィルヘルム・フンボルト(1767−1835)のロシア語読みで、彼はプロイセンの教育改革者だったそうだ。フンンボルトと言えば、ヴィルヘルムの兄、アレクサンドロフ・フンボルトが探検して名付けられたフンボルト海流が有名で、そこに住むことで名付けられたフンボルト・ペンギンなら水族館に行けば面会でき、子供達に大人気だ。こんなところでペンギンの名付け親の親戚の名に会ったのだ。
 そこは小さな私立の学校で、教育の他、翻訳やドイツ関係の情報・連絡などもやっているらしい。つまり在イルクーツク・ドイツ・センターのようなっものか。
 6、7歳くらいの子供の少人数教育をやっている教室に案内された。ドイツ語の早期教育もやっているのか。見たところ幼稚園のようでお絵かきなどをしている。同行のナターリアが、私を紹介して「日本のことを教えてもらいましょう、例えば日本の漢字を教えてもらいましょう」と言うので、私は漢字の山と木という象形文字を絵と文で書いた。最もわかりやすい。それから子供の名前を日本語で書いてあげると、それをまねて上手に書く子もいて、大げさに褒めてあげると、「私も、僕も」と言われて、私は大忙しだった。一段落して折り紙で鶴の折り方を教えてほしいというナターリアの声かけで、難しい鶴の折り方を教えた。子供は、なかなか折れないので、途中まで子供の手で不正確に折った鶴を持って、これからどう折るの、と聞いてくる。またもや私は大忙しで、ほぼ全員の分の鶴を折る羽目になった。それも、途中まで子供が折ったのを訂正しながら折り直したので時間がかかったが、これで、子供は自分が折ったと満足してくれたようだ。2羽折った子もいた。
 イルクーツク外国語大学
 日本語の対話(の授業)
 かなりの人数の日本語科の学生達
 1時半には予定通り外国語大学の前で、アルカージー・カリフマンさんと合流した。大学の前では学生がぞろぞろ歩いて、歩きたばこを吸っている学生もいたのは、やっぱり日本と違うかな。
 ナターリアはカリフマンに私を預けると、去って行った。彼と私は、日本語科の控え室に案内される。イルクーツク大学の日本語科は堅実そうな学科で、控え室も独自にあって2人の教員がいた。その一人が私に名刺をくれた。表にロシア語表記、裏に日本語表記の自家製の名刺だった。『Кандидат исторических наук、Шалина Ирина Викторовна、доцент кафедры востоковедения』とあって、日本語は、『歴史科学博士候補 シャリーナ・イリーナ・ヴィクトロヴナ 東洋学専攻准教授』とある。その講座では日本語を教えていて、だから、日本語母語者の私と学生達との生の会話を企画したのだ。控え室内にも交流と関係のあるものが多く飾ってあった。実を言うと私は日ロ交流には全く興味がないし、ロシア人と日本語でも話したくはない。しかし、この日本語の先生達の控え室では、日本からの展示物を感心して眺め、彼らの日本語力を褒めちぎった。しかし、会話はロシア語で行った。
 学生との交流と言うことで、2年生のクラスに案内された。交流と言うより本物の日本語を学生に聞かせてやりたいと先生達は思ったのだろう。20人余ほどもの学生が行儀よく座っているので、びっくりした。クラスノヤルスクでは一クラス数人だった。と言うことはイルクーツクでは日本語の需要があるのか。2年目の日本語学習者にしては、かなり学力があったと思う。易しい日本語で、ゆっくりはっきりしゃべった私の日本語を半数以上の学生は正確に理解したと思う。学生もしゃべる機会があって、時間いっぱいは質問と答えだった。好きな食べ物とか好きな作家とかの質問で、初等読本をマスターしていることがよくわかる。ペリメニと餃子の違いを質問するなんて、日本へ行ったことのある学生だろうか。みんなとても感じよく、真剣なまなざしで私を見つめてくれていた。昔、クラスノヤルスクで教えていたとき学生や生徒達はこれほどではなかった。時々、私からの質問がわからなそうな時は露訳してあげた。本当は横に立っていた先生に任せればよかったかも知れない。そのために同席していたのだから。
 最後に廊下の端の広場に出て集合写真を撮った。
 (後記:2024年3月に、准教授さんから突然SNSで連絡があった。4月に大学で日本語弁論大会をおこなうが、審査員の一人になってくれないだろうか、ZOOMか、SKYPEで通信し合うので、名簿など詳しくは4月にと言う。私は一応は承知した。
  (さらに後記:4月19日にコンテストが行われ、私を含む3人の日本人がズームで審査をした。今は東京でイルクーツク大学の日本語をリモートで教えているという若い男性と、ノヴォシビリスク大学からのこれぞ教員といった感じの中年女性がズームの画面に現われた。ボランティアで引き受けたことを心底後悔しつつ、最後まで付き合った。こんなこと1度でたくさんだ。
  チモフェイ七宝焼き、アジアの窓
 七宝焼きのアンドレンコさん
 『アジアの窓』2階倉庫にあった彫像
 集合写真も撮って3時前に外国語大学を出ると、待ち構えていたナターリア・ベンチャーロヴァさんがカリフマンさんから私のガイドを引き継いだ。またカフェで食事をする。値段はともかく、日本のファミレスより雰囲気のよいカフェが町のあちこちにある。ここでナターリアさんは彼女の長男のチモフェイ君が恋人と日本へ行っていると話す。私がロシアにいる間にニキータやチモフェイが日本へ行っている。それも私の住む市へ。ちなみに、父親と息子は別々のコースで別々の場所を別々の日程で訪れている。
 チモフェイは料理に関心があって、コックとしても自立している。日本の料理はおいしくないと母親にメールしてきたそうだ。おいしいレストランへ行かないからだ。私は高級料亭の名を教えてあげた。

 カフェを出て、5時過ぎ、町の中心にある郷土博物館に行く。そこの附属工房ではセルゲイ・アンドレイコ Сергей Андрейкоさんと言う人が七宝を焼いている。電気焼き釜は小型だから、七宝焼きは小型のものしか入らない。大作をつくりたいときは小さな板でいくつもつくって組み合わせる。私たちが行ったときは、オームリ(*)というバイカル湖の固有種の形を焼いていた。絶滅危惧種で漁獲禁止とされているとか言われているが、バイカルでのランチはいつもオームリのスープとか焼きオームリだった。バイカルといえば、ゴロミャンカ голомянкаと言う絶滅危惧の固有種も有名だ。それは食べない。
   (* オームリ омуль サケ目サケ科コレゴヌス属。北極海で餌を採り、産卵のためにロシア、アラスカ、カナダの川に上がってくる。バイカル・オームリはその亜種。最近では独立種とされる) 
『アジアの窓』2階倉庫にあった絵
 アンドレイコさんはオームリの絵を七宝焼き用の金属板の上で描いていた。工房には、20センチくらいの七宝焼きのオームリの他、10センチ位のもの、花、蝶、葉っぱ、果物、小鳥など、可愛い七宝焼きがたくさんあった。アンドレンコさんは、どうやって焼くかも実演してくれた。ここは、七宝焼き教室でもあるので、お弟子さんの作品もある。つやつやしてどれも美しいので、10センチくらいのオームリを購入した。700ルーブルぐらいだったか。(お土産として日本に持ち帰ると、芝垣海岸に住む友達が、これはいいと言って、持って行った。芝垣では、2024年1月1日、そのすぐ近くで大地震があって、津波も来た。彼の家は津波には流されなかったそうだ)。

 郷土史博物館の展示品を見てから、『アジアへの窓』という画廊へ行った。1階には売り物があって、その中には先ほどの七宝焼きの可愛い作品もショウウィンドウに並んでいた。画廊の2階は倉庫のように、ものが雑然と置いてある。レーニンとスターリンの石膏胸像があったので今時珍しいと写真に撮った。高2の孫にメールで送って誰かを当てさせた。中3の孫も当てたが、ある普通の日本人女性はトルストイとドストエフスキーと答えた。それ以外のロシア人の名前は知らないそうだ。倉庫にはモナリザの絵にフォット・ショップでオーナーの女性の顔がはめ込まれた絵があった。高2は正解に応えたが、前記の彼女はアンナ・カレーニナという答え。普通の日本人はロシアについて知らないのだな。
 タチヤーナ・ロジャンスカヤさん、植物園
 植物園前で、ロジャンスカヤさん
 オルガンホール前で、ロジャンスカヤさん
  10月25日。この日の予定としてナターリアさんが書いてくれたのは;
10時、植物園でタチヤーナ・ロジャンスカヤ Татьяна Рожанскаяさんと待ち合わせる。12時30分彼女とオルガン・ホールで、オルガン演奏鑑賞。チケットは10月18日にネットで3873ルーブル(多分半分は指定席料)で購入済み(ニキータが払ったのか)。
16時、イルクーツク駅からシベリア鉄道でクラスノヤルスクに向けて出発。
というものだった。
 タチヤーナ・ロジャンスカヤさん(70歳代)は、ナターリア・ベンチャーロヴァさんの友達のナースチャさん(30歳代)運転の車で現われ、ナースチャさんは私たちを植物園の入り口前で下ろすと去って行った。(後のことになるが、このナースチャさんに、新版10年生用ロシア史教科書を手に入れてもらったのだ。後述)
 タチヤーナさんはとても感じのよい女性で、本当はクラスノダール市に住んでいる。娘はフランスにいる。イルクーツクにある家を売る手続きのため、ここに逗留しているそうだ。クラスノダールは、ここシベリアよりずっとウクライナに近い。彼女は、クラスノダールでは、前線に送る医薬品などの箱詰めボランティアでも活動していたそうだ。彼女は現在のロシアを批判はしている(当然だろう)が、戦争には負けないという。

 キエフ・ウクライナは10世紀には大国だったが、12世紀までには封建的に細分化し、内紛で弱体化。13世紀にはモンゴル(キプチャック・ハン国)の領土の一部となった。その中には最も南西のハールィチ(ガリツィア)・ヴォルィーニ公国やモスクワ公国など多くのモンゴルへの朝貢侯国があった。東北の森の中にあったモスクワ公国がキプチャックハン国の中で勢いを伸ばしてきたが(*)、ガリツィア(ハールイチ)公国は内紛で弱体化、リトアニア大公国やポーランド王国に合併された。
 (*)キプチャク・ハン国の後継国家として、ヴォルガのカザニ・ハン国、カスピ海のアストラハン国、ウラル西のシビルハン国、黒海北岸のクリミアハン国と並んで、モスクワ侯国も後継国家と考えてもいい。18世紀まで残ったのは後にロシア帝国となったモスクワ公国とクリミアハン国のみ。
 現在のウクライナは、ポーランド王国およびリトアニア公国(初めは同君連合、後にレーチ・パスポリータ Речь Посполитаяと制度的にも合体した『共和国』だった)の辺境の地だった。(ここから、『ウクライナ』、つまり『辺境の地』の意味の地名が生まれたと言う説がある。別説もある。ウクライナと言う名称が正式に国名として用いられたのは1918年ウクライナ人民共和国だ。)
 キエフ大公国が滅亡した後の、現代のウクライナのドニプロ川中下流(キエフとその南、右岸も左岸も、東はドネツ川から西はドニエストル川あたりまで)は『荒野』と呼ばれた人口希薄な未開地だった。15世紀ごろ、この地にはポーランドやロシアなどからの逃亡農奴や先住の遊牧民、タタール人、その他近辺の各地から集まってきた自由人による武装自治集団、つまりコサック集団がいくつも生まれ、ドニプロ川にはザポロージェ・コサックが勢力を持っていた。15世紀から17世紀は、『荒野』はリトアニアと同君連合をなしたポーランド王国領だった。バルト海から黒海までの広い領土をもつポーランド(レーチ・パスポリータヤ)は当時は中欧の大国だったのだ。その東部領土の『荒野」にできたザポロージェ・コサック集団は、ポーランドの南部国境を守る傭兵としてポーランド王国に仕えた(ウクライナのほぼ全土はポーランドの宗主権下だった)。17世紀にはコサックの勢力は、ヘトマン国家を作り、首領フメリニツキーがポーランドと戦った。この時、フメリニツキーは有利に戦うため、ポーランドの敵国ロシアの宗主権を認めるペレヤスラフ協定(1654年)をかわしたのだ。
 1667年アンドルシェフ講和では、荒野のヘトマン国家をドニプル川でポーランドと2分して左岸(東)はロシア帝国領となった。1709年ポルタヴァの戦いの後、ザポロージャ・コサックのヘトマン国家は廃止。1782年エカチェリーナ2世によるかつてのヘトマン国家(ドニプロの中下流の左右岸)のロシア帝国直轄領化(西ウクライナをのぞいて)で、ノヴォロシイスク地方となる。1793年ポーランド分割で西ウクライナはオーストリア・ハンガリー帝国領になる。
 オースリリア・ハンガリー帝国領だったその西ウクライナは第1次大戦後、独立の西ウクライナ人民共和国をたて、キエフのウクライナ人民共和国と合体を目指したが、ポーランド(第2共和制)領となった。つまり、西ウクライナは西ウクライナで独自の歴史をたどったのだ。また現在の南ウクライナ(狭義ではオデッサ州、ニコラエフ州、ヘルソン州、広義ではドニプロペトロフスク、ザパロジエクリミアも含む)も独自の歴史をたどった。20世紀から現在のウクライナになるまでの現代史を見ても、住民も政府も境界もわかりづらい。ウクライナの歴史のおさらいが、ロジャンスカヤさんと少しはできたわけだ。

 私たちはウクライナ戦争の原因についても話した。『民主主義の国ウクライナへのロシアの侵略』と日本の報道では言っている。ウクライナは不当に侵略された。しかし、ロシアはウクライナと戦っているのではなくアメリカと戦っているのだ。彼女は、ウクライナが西側に利用されていること、西側は、ウクライナ人の手で、ロシアと戦っている。アメリカはウクライナ人の命でロシアと戦っている、ウクライナ人は自分たちのためではない理念のために戦死している。西側はウクライナを強めるために援助しているのではなく、ロシアを弱めるためにウクライナに武器を与えているという。なぜ弱めたいか、ロシアの資源と市場を狙っているからだ。ソ連崩壊後のエリツィン時代、シベリアの地下資源を狙っていた.プーチンは欧米と戦う。だから、ロシア人は戦争を支持している。と、タチヤーナ・ロジャンスカヤさんは言う。それはわかるが、言論の自由のないロシアと比べると、まだ西側の方がいいと、私はその時言ったものだ。私は、その時も、西側イコール自由と民主主義陣営、ロシアは権威主義の国という通説のままだった。彼女は戦場の兵士のために靴下を編んでいる。(第2次大戦時代の銃後の生活のようだ)。
 しかし実際は、ロシアの地下資源は欧米のものではない、ロジャンスカヤさんのものでもない、ロシアのオルガルハのものだ.彼女はそのしずくならもらえるかも知れないが。それは言わなかった。
 当然のことだが、普通のロシア人と交わした『政治論』は単純なものだ。資源があるだけでは技術は発達しなくて途上国に落ちるいからこそ、プーチンのロシアは教育学術に力を入れている。スポーツと並んでソ連の得意な分野だ。古くなってしまったドンバス工業地帯があってもなくてもウクライナはそうはいかないのかな。
 私たちはイルクーツク国立植物園にいたのだから、屋外や屋内、温室内を廻っていた。屋外には、ほとんど植物は冬眠していたが。屋内には植物がいきている。植物の化石もあった。アンモナイトの化石もあった。
 12時半には、タチヤーナ・ロジャンスカヤさんと、オルガン・ホールで『自然の音色звук природы、デチェバル・ゲオルゲイヴィッチ・グリゴルツェグДечебал Георгиевич Григоруцэг (1968, イルクーツク生まれ、ルーマニア人作曲家、オルガン奏者)を聴いていた。(チケット代450ルーブル)。演奏曲目は、ヴィヴァルディ、グリーク、ムソルグスキーだった。
 2時にはチーホンとロジャンスカヤさんと3人で、またカフェでランチ。 
  シベリア鉄道18時間
 車内食
 ビデ用ホース付きトイレ
  イルクーツク駅まで、チーホンは私を送ってくれた。チケットは、バイカルに着いた日に、ニキータに頼んでネットで買ってある。クラスノヤルスクで迎えてくれるリューダさんの都合もあるだろうから、明るい時間にクラスノヤルスクに到着する列車がいいと選んだのだ。移動日は私のロシア滞在日数のちょうど半分過ぎた日を選んだ。それでも、12日間もリューダさんは私を受け入れてくれるかどうか、礼儀上からも尋ねてみた。どうぞと言われたが、住んでみて都合が悪くなったら(迷惑そうだったら)イルクーツクに戻ればいいと思った。だから、クラスノヤルスクからイルクーツクの帰りの便は、リューダさんの顔を見てから購入することにした。日本出発前に、日本からロシアまでのチケットは買ったが、ロシア国内のチケットは、その場所で買うことにしていたのだ。
 私が乗ったのは、チタ市からモスクワの6,206キロを4日と18時間で行く069号という急行列車で、8両目の車両の9番ベッドだった。4人用コンパートメントで2段ベッドの下段を3,873ルーブルで買ってある。069号列車は、ソ連時代からの薄汚い車両ではなく、清潔そうなコンパートメントで、トイレも底の見えないちゃんとした水洗で、シャワールームまである。同室になったのはどうやら出稼ぎの男性移民で、一人はアゼルバイジャン(へ帰るのか)、もう一人はチタからだった。ベッドはもう一台空白なので、車掌さんにそこへは男性が来るのか女性かと尋ねてみた。男性だという。男性3人と同室とは肩身の狭いことだ。車掌さんに、いやだなあ、と言うと、ここのコンパートメントは性別を決めていないので、と言われる。しかたない。
 アゼルバイジャンからの若い男性は親切で、座席のイスをベットに取り出す力仕事をやってくれ、車掌さんは、私が毛布を袋型シーツに入れようと奮闘しているのを見かねて手伝ってくれた。一段落した頃、ロシア航空便の機内食のようなチキンやマカロニを入れたアルミケースと、別のケースには、サラダやデザート、水の入った車内食が配られてきた。長距離の機内食より貧弱だが、短距離の機内食より豪華な、車内食というものを、私はロシアの列車で始めてみた。帰国後、ロシアの列車のサイトで調べてみると、この列車には車内食マークの他に、食堂車マークもエアコンマークもあった。
 車内の廊下のインフォーメーション用掲示板に、車両内の温度は夏場は24度プラス・マイナス2度、冬場は22度プラス・マイナス2度、車内の掃除は毎日9時から10時と18時から19時。乗客の質問(文句))を聞きに(伺いに)列車長が毎日10時から11時、19時から20時に廻ってくると書いてあった。半分も守られていなかった。しかし半分近く守られているだけでも上等だ。
 
 車内の廊下の契約兵士募集の
タブレット暮鐘
 列車に乗ると廊下を歩き回って掲示板を読むことにしている。その掲示板も昔と比べて垢抜けしている。チタからモスクワ(069号列車)への時刻表も、モスクワからチタ(070号列車)への時刻表も驚いたことに現地時刻で載っている。昔は飛行機の時刻は現地時間だが、列車の時刻はモスクワ時だったので、場所によって時差を計算しなくてはならなかった。今はスマホでは自動的に現地時刻を示してくれるから、ダイヤも現地時間表記になったのかな。
 別のインフォーメーション用掲示板(ダブレット)には、契約兵士募集ポスターも出てくる。『軍隊で契約軍人となること、それこそが自分たち(私)のすることだ』といった文言が現われてくる。後のことになるが、クラスノヤルスクでも、この種のポスターを至るところで見かけた。ヘルメットに銃を構えた強面の男性、微笑む若い男性など絵柄はいくつかあって、文言も同様な感じで数種ある。契約金額や月収はいくらとか書いてあるのも、クラスノヤルスクでは見かけた。きっと、具体的な金額は、州や地方によって異なるのだろう。だからチタからモスクワまでの列車内のポスターには金額はなかったのかもしれない。
 同室の男性とは数語言葉を交わしただけで、没交渉だった。話しかけてもよかったが、控えた。帰国後、アゼルバイジャンのことも聞けばよかったと思ったが。
 トイレは、前記のように、底がパカッと開いて線路上に汚物が流れていく昔のものと違って、まっとうな水洗だった。床は、水が飛んでも足が濡れないようにネットが張ってあり、ビデ用ホースも付いていた。ビデと言っても、日本の温水シャワーとはもちろん異なって、別栓ホースから水を出して洗浄するものだ。慣れないと目当ての場所に命中できない。これは、ペーパーではなく水と左手で洗うイスラムに配慮したものだ。日本では公衆トイレに、誰でも用の広い個室がない場合でも障害者用手すりが必ずあるな、と連想した。
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