クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date April 01, 2024 (追記:2025年6月18日)
40 - (7) 2023年経済制裁下のイルクーツク(バイカル)とクラスノヤルスク (7)
    クラスノヤルスクとエニセイスク
        2023年10月13日から11月13日(のうちの11月1日から4日)

Путешествие в иркутске(Баикал)и Красноярске, 2023 года (13.10.2023−13.11.2023)

ロシア連邦地図、イルクーツク、クラスノヤルスク
 
  バイカルとイルクーツク            
 10/13-
10/14
 2022年頃 ビザ  日程と費用  ウランバートル  イルクーツク着  カラトゥエフさん  アンガラ川入り江   ソ連時代からの劇場 
2 10/15-
10/19
 バイカル湖へ オリホン島 オプショナル・ツアー  メルツ先生   コンサート(1) 森の小川、グルジーニンさん   エレメーエヴィさん  コンサート(2)  
3 10/20-
10/22
 村の学校 バイカルを去る  シェレホフ市  オルガンホール  エルサレムの丘 アルカージー宅  音楽功労者   『軍事』博物館   カトリック教会  アンガルスク市
10/23-
10/26
 ナターシャのお供
音楽高等学校  第19学校  フンボルト学校  外国語大学  七宝焼き   ロジャンスカヤさん  シベリア鉄道  
   繁栄するクラスノヤルスク            
 5  0/26-
10/27
 クラスノヤルスク着 リュ−ダさん  繁栄するクラスノヤルスク  軍事高等学校   新興団地 アカデミゴロドク区の学校   避難訓練の掲示板  契約兵募集ポスター  ソスノヴォボルスク町
 6  10/28-
10/3
1
ハカシア共和国 プチャーチンさん アバカン博物館   アパート   ベヤ村 牧場 ベヤ村周辺、ベヤを去る  白イユース川   トゥイム崩落
 7  11/1-
 11/4
中央アジアからの出稼ぎ者
 ヴラディスラフ君 タクシー  郷土博物館  金日成記念碑  エニセイスク市へ  ヴィサコゴルヌィ橋  エニセイスク市博物館  エニセイスク市観光  
 8  11/5-
11/13
 リューダさんとの談話 墓参  クドリャーツォヴァさん  ジェレズノゴルスク市方面  パドゴルヌィ町   タマーラさん クラスノヤルスク空港   イルクーツク空港  ウラン・バートル空港 

 中央アジアからの出稼ぎ労働者
 クラスノヤルスク市の北東部、
移民が多く住む区にあるイスラム寺院
 11月1日。9時半にはリュ−ダさんが迎えに来てくれてハカシア共和国アバカン市を出た。今日中にリュ−ダさんはクラスノヤルスクに帰らなくてはならない。翌2日には早朝、長男のヴラディスラフがオーストリアからトレーナーと帰ってくるので、飛行場に迎えに行かなくてはならないからだ。そのほかにも早めに帰ってすることがある。例えば洗車だ。ロシアでは冬(とは限らない、年中)車は泥だらけだ。道に融雪剤(塩かも)を蒔き、それは溶けて泥になるからだ。今回、除雪車は見かけなかった(時期が早かったのかも)が、除泥車を見かけたくらいだ。しかし、泥は主に人力でやるらしい。道路清掃者は、ほとんど中央アジア、タジクとかトゥルキスタンとかキルギスからの出稼ぎ、または移民だという。
 リュ−ダさんはこの移民(エミグラント)、または外国人(出稼ぎ)労働者(ガスタルバイテル гостарбайтер、госто客と арбайтерアルバイターが結合してできた語)が増えているという。政策上増やしているのだとも。数年前に来たときから、建設現場や道路工事で一輪車をひいている非ロシア人の労働者はよく見かけた。今はもっと多いそうだ。集団で組織的に入国してくる。
 後でだんだんとわかってきたことだが、タジクやトゥルキスタンやキルギスでは仕事がない。出稼ぎに行こうにも言葉がわかった国の方が仕事が見つけやすい。かつてのソ連圏(中央アジアの国を含む)の学校ではロシア語が必修科目だった。今、ロシアは好景気で、(ロシア人の嫌う)肉体労働なら働き口があるのだろう。クラスノヤルスク(他の都市でもそうだろう)では、そうした移民が固まって住む町もある(環境のよくない場所で住居費が安い)。リュ−ダさんの夫のディーマさんもそうした移民の一人を引き取って、つまり身元引受人、保証人になってあげて、しばらくは自分の会社や、(個人契約で)自分の家で働いてもらったそうだ。ちなみに、バイカルのニキータも、そうした身元引受人になって、ウズベキスタン人のミーシャに国籍を取らせてあげた。国籍を取ると、彼らかつての出稼ぎ中央アジア人達は自分の家族親戚を呼び寄せる、また、かつての『恩人』と不仲になる場合が多いとか。私が聞き知った限りでは。
 また、政府が移民を奨励しているのは、彼らが契約兵になってくれるからだ。1年間、契約兵として勤めれば国籍が授与されるとか。また別の人の言うには、契約兵士になる条件でロシア入国が許可される場合もあるとか。半ば強制的にさせられているという人もいるが、しかし、これは信じがたい。
 単純肉体労働者としても多くの中央アジア系労働者を見かけたし、リュ−ダさんによると、モスクワではたいていのタクシーの運転手は出稼ぎとか。ナビが使えて、多少のロシア語が理解できれば、大手タクシー会社に雇われて働ける。後のことになるが、そうした運転手のタクシーにも私は一人で乗った。強制的に兵士にさせられているとは思えない。
 (後記;2024年3月のモスクワ市郊外クラスノゴルスカ市でのクロッカス商業施設での爆破テロ犯4人がタジク人だったので、入国や移民が厳しくなったそうだ。中央アジア人への差別感情も強くなったとか)
  ヴラディスラフ君
 
 ↓ヴラディスラフ君とマトベイ↑
 
 
 ダイニング・キッチンで朝食
  11月2日。早朝にリュ−ダさんは空港にヴラディスラフとトレーナーを迎えて、トレーナーを家に送り届け、息子と帰宅した。4,5歳の頃のウラディスラフを知っている。彼は注意欠陥・多動性障害だった。この歳の男児の一時的な性格かと思ってみていたが、しかし、これは性格以上だった。両親は様々な精神的治療を試みたらしい。ウシューや転地などを試みたが、スポーツが最もよかったようだ。彼らのアカデミガラドク地区にはアルペンスキー場がある。エニセイ川対岸のバプローヴォイ・ロックにもある。アルペンスキーが彼には合っていた。10歳くらいの時に会った時は、多動だが、感じのよい活動的な少年だと思った。今では、全ロシア少年の部(16歳以下)で優勝するまでになっている。世界大会にロシアは参加できないが、オーストリアのスキー場は、国籍に関係なく使える。未成年だからトレーナー(成人)の同行が必要だ。幼い頃のウラディスラフを知っている私には、その心身の成長ぶりが驚きだった。今、彼は背が高く、好青年、スポーツマンになっていた。古いスターだがジャン・ポール・ベルモントにちょっと似た感じだと、思った。教育にお金はかかるが、リュ−ダさん夫妻にとっては教育費は惜しくない。 
 お土産のレゴを組み立てている
 
玄関のヴラディスラフ
その背後、ドアの横に見える黒い箱が
銃保管用金庫だという 
 彼らには23歳の長女のアリーナもいる。アリーナも、6歳の頃から、つまりまだ彼女が一人っ子だった時代から知っている。私がディーマさんとクラスノヤルスクの北や南の旅に出かけたとき、父親に付いてきたものだ。父親が1ヶ月ほど日本へ仕事に来たときも付いてきた。学校の卒業間近の頃(ロシアでは17歳の11年生の頃)日本へ留学に行くことも父親は考えた。しかし彼女は勉強が好きではなかった。進学せずにカフェなどでバイトをして、男友達(ユダヤ人)とイスラエルへ行くお金を貯めた。父親がそんなお金は出さないと言ったためだ。イスラエルで何をするのか、行ってみないとわからない、と言っていた。1年ほどで一人帰ってきて、今はモスクワの専門学校で学んでいる。卒業後は親が面倒を見るのかどうか知らない。アリーナは父親っ子だった。今回、リュ−ダさんはアリーナのことはあまり話題にしなかった。
 ヴラディスラフは、弟にスペース・ウォーのレゴを買ってきた(弟が注文したのかな)。私が使っている部屋はウラディスラフの部屋で、棚も机も彼のものがあって、私はそっと除けてスペースをつくって使っている。ベッドは、私が寝ているので、彼は玄関の間にある臨時のベッドに寝ることになる。
 次の日、ヴラディスラフはアルペンスキーでとった大量のメダルや賞状を見せてくれた(後述)。

 リュ−ダさんの夫のディーマさんは、これまでの旅行記で書いたように、多くのロシア人男性と同様ワイルドな自然派で、シベリアの奥地の川で魚釣りをしたり森で狩猟をしたりするのが趣味だ。猟銃を持っている。もちろん許可証はあり、保管場所は金庫の中だ。玄関横に鉄製の細長い長方形の箱があり、これが、銃保管用金庫だと、リューダさんが教えてくれたのでわかったのだ。それ以後、玄関を通ると時々私は「あ、カラシニコフね」と言ったものだ。もちろん戦争時の有名な自動小銃カラシニコフAK-47dではない。リュ−ダさんは私の「カラシニコフ」を聞く度に笑っていた。
  クラスノヤルスクのタクシー
 ザステペンコさん
 アルペンスキー・ロシア少年の部
のチャンピオン
 その多くのメダルや賞状
 11月2日は、前からアナスタシア・ザステペンコさんの母親ガリーナさんに会う約束がしてあった。私がクラスノヤルスク滞在中で、アナスタシアさんが20代の時、知り合ってよく会っていたし、二人で旅行したこともあった。アナスタシアさんは日本の私の家に2週間ほどホームスティしていたこともあったし、私がクラスノヤルスクに行ったとき彼女の家に泊めてもらうこともあった。その後、父親はなくなり、彼女は結婚して、別の家に移り、今は元の家に母親のガリーナさんが一人で住んでいる。アナスタシアと会いたかったが、今は夫とキプロスに旅行中だという。その前はアルメニアだった。だから、日時を合わせて、母親のガリーナさんに会いに行くことにしたのだ。リュ−ダさんに送ってもらった。途中でケーキ屋さんに寄ってケーキも買って手土産とした。
 アナスタシアは次女なので母親のガリーナさんは80歳を過ぎているだろう。乳がんなどの手術も経験したそうだ。ごちそうを用意して待っていてくれた。できるだけ多くの人と会って、ロシアのことを聞きたいと思って出かけたクラスノヤルスクだが、ガリーナさんはそうした話し相手にはならなかった。ウクライナ戦争についても自分の意見はなさそうだった。あえて黙しているようでもなかった。アナスターシアさんは、若者で、当然反プーチンだ。私もそうだったから、話は合っていた。私は、ずっと反対派で、プーチンを尊敬しているという『愛国』ロシア人とは機会ある毎に口論してきた。しかし、戦争が1年も続いた頃から、日本のテレビ報道番組やNHKの解説番組愛好者の知り合いの日本人に、私は反対意見を言うようになってしまった。だから、今のこの時、アナスタシアさんに会っていたら、私の知見も広まっていただろうが、ガリーナさんは(けしかけても)何も話さなかった。だから、昔や今の写真を見て、結婚のいきさつを聞いたら、話すことがなくなった。
 帰りはタクシーを呼んでほしいとリュ−ダさんから聞いていたので、ガリーナさんにタクシー会社にかけてもらった。私の携帯は電話として使うときは国際ローミングしなければならないので、WFが使えるところだけでのSNS無料通話以外は使わない。
 現金決済をしないのが普通の今のロシアでは、登録してあるタクシー会社に電話すれば、車を回してくれて、カードがなくても、あらかじめ電話で知らせた目的地まで乗せてくれる。料金は銀行から引き去られている。(今、日本でも、私が利用しているのは、例えば、灯油の配達など、カードを登録しておけば、勝手に入れて行ってくれて、納品書だけ残していき、料金は後から引き去られている)。
 タクシーの運転手から、指定の場所に到着したという電話があって、ガリーナさんに送られて、外に出た。車は古い日本車だった。しばらく進むと、無線で、そのカード(リュ−ダさんの登録カード)には銀行に残金が残っていないという配車係の女性の声が聞こえた。
「おばあちゃん、タクシー代は誰が払うのかね」と訛りのあるロシア語で運転手が聞く。
「私よ」と答える、5000ルーブル札が財布にあるはずだったから即座に答えた。暗くて顔も見ていないのに、おばあちゃんと呼ばれたことにショックだった。80歳のガリーナさんと出てきた私達の歩き方からおばあちゃんと思えたのだろう。そうでなくても、本当はおばあちゃんだが。
 日本製の車なのでナビの表示が日本語だ。車体内部の状態(エンジンか)も画面に出るようになっている。そこで、ロシアで一人でタクシーに乗った時は必ずするように運転手に話しかけた。会話をしておいた方が、雰囲気的に安心だと私は思っているからだ(女性一人がロシアでタクシーに乗るのは危険だと思っていた昔の名残だ)。
「日本製の車なのね、表示が、日本語だわ。私は読めるわよ、あなた、さっき私のことおばあちゃんと言ったでしょう、私はおばあちゃんではないわよ」という調子で話しかけたのだ。ナビの文字を読んであげたが、どうも、そのナビは機能していないようだった。彼は、ウズベキスタン人でキルギスに住んでいたと言う。もう何年も前から、クラスノヤルスクで家族を呼び寄せて住んでいる。初めは、差別された、そうだ。
 車が止まったところは、見覚えのないところだった。ここは違うと言ったが、確かに家の番地は合っているという。そうかもしれない。建物のいつもと違う角に泊まったのだろう、降りて探してみようと思ったところに、リューダさんが来てくれて、タクシー料金(300ルーブルほど)を払ってくれた。いつもと違うところに止まるかもしれないタクシーを待ち構えてくれて、出てきて払ってくれて本当によかった。
 自分のカードではなく、ヴラディスラフの登録カードでタクシーを注文したため、銀行に残金がなかったのだという。5000ルーブル札では絶対おつりはもらえない。タクシーの運転手は最近はエミグラント(移民、特に中央アジアからの)が多い、「モスクワのタクシーなんてほぼエミグラントよ」と、リュ−ダさんは言う。

 その日の夕食後、ヴラディスラフが入賞メダルをベッドに並べて見せてくれた。10個以上はある。中国語のものもある。青少年ロシア・チャンピオンになっているから、将来アルペインスキーのプロにもなれるのではないか。いや、いや、母親のリュ−ダさんによると、青少年部では優勝できても、成人の部に入ると難しい。ましてプロになるには道は険しい。ヨーロッパのスキー先進国に留学しなければならない(日本はその先進国ではない)。彼は職業としてトレーナーにはなりたくないそうだ。トレーナーは教え子の親から給料(謝礼)をもらう身分もあり、国から(安い)給料をもらう身分もあるのだろう。そんなのが彼には否なのか。
  クラスノヤルスク郷土博物館
  11月3日。2人の息子の世話もしなくてはならないリュ−ダさんもたいへんだ。今は秋休みでマトベイも家にいるし、反抗期の15歳のヴラディスラフも帰ってきたし、日本からのホームスティ客ももてなさなければならないし。
 この日、クラスノヤルスク郷土博物館会館に一人で行ったらどうかと言われる。開館の10時過ぎに、リュ−ダさんは博物館前まで送ってくれて、迎えに来る時間を決めて、私を置いて去って行った。チケット売り場で、5000ルーブル札を出すとせせら笑われた。博物館は公立だからおつりはあるかと思ったのだが、ロシアではそうはいかない。幸い、200ルーブルはあったのでチケットを買うことができた。
 郷土史博物館の展示物
シベリア征服のコサック隊長
 入ってみると、何年も前と展示は変わりなかった。ここで、リュ−ダさんと約束した時間まで2時間以上も時間を潰さなくてはならない。考古学と歴史の部はアバカンの方が遙かに充実している。それでなくとも、何年か前と、全く一緒だった。リュ−ダさんは博物館だからWFがあるはずだと言っていた。WFでネットサーフィンでもして時間を潰すか、と考える。しかし、どうすればWFに繋げられるのだろう。自動的にはつながらない。展示場に座っている職員(監視・巡回の女性、学芸員ではない。例外なく年配の女性だ)に聞いてみた。WFとは何かわからないらしかった。(先進的な)若い職員に聞いてみてあげると言われたが、その人は今日は休日。宿直の男性が知っているかも知れないと、3階から1階にまで降りて聞いてみたが、知らないという(知ってるはずはないだろうとは思ったが)。そうやって、階段を上がったり降りたりして少し時間が潰せた。
 しかたないので、博物館では一番興味深いはずの考古学コーナーと北方民族(と言ってもクラスノヤルスクの北方のみ)コーナーにまた行って、うろうろしていると、職員の女性に声をかけられた。「どこが一番面白いか」のようなことを聞かれた。私が現われたり消えたりしているのを見ていたのだろう。
 「何年も前から展示が変わらないわね」と答えた。
 「そうです、私は6年前から働いていますが、展示は変わりっていません」と、相手になってくれた。館内の訪問者は疎らで、暇そうなその女性と話し込んでもよかったが、そろそろリュ−ダさんとの約束の時間だった。
 金日成(大統領)訪問記念碑
 スリズニョーヴァ村見晴台の『魚の王様』記念碑
 その見晴台からエニセイ川を望む
 クラスノヤルスク発電所ダム
 キム・イルソン訪問記念碑(拡大)
 昼食後、リュ−ダさんがまた私のために車を出してくれた。クラスノヤルスク市内や近郊は再訪や再々訪、いや何十回にもになる。しかし、以前との違いもあるだろうと(違わなくとも、違わなかったということを見届けため)左岸上流、クラスノヤルスク発電所ダムの方面へ出かけた。途中のスリズニョーヴァ村にはエニセイ川への見晴台(高台)がある。そこには、この近くにあるオフシャンカ村出身のソ連の作家アスターフィエフの代表作『魚の王様』の記念碑がある。ここで魚の王様とはチョウザメのことだ。網にかかった2mくらいのチョウザメの彫刻と、その部分のアスターフィエフの本の開かれたページの彫刻(文字が彫ってある)がある。見晴台は1990年以上前からあったが、上るための階段を整備したのは2000年以後のことで、チョウザメを置いたり、足下や手すりを整備したのはもっと後、2010年以降のことだろう。
 見晴台は昔からクラスノヤルスクの観光スポットの一つなので、お土産屋がある。入ってみた。日本への何か良さそうなお土産があれば買っていこうと思ったのだ。ロシアのお土産らしいものが並んでいた。ロシアのお土産と言えばマトリョーシカだろう。可愛い顔で派手な色の5個組のがあったので買うことにした。誰にあげるかは後で考えよう。2400ルーブルほどだった。もし5000ルーブルで釣り銭があったら買いましょうというと、店員(オーナーかも)は一生懸命かき集めて、釣り銭をくれた。博物館のチケット売りおばさんより愛想がいい。
 見晴台を降りて、まっすぐ上流への道を行くと発電所(ダムの堤防)に当たって、その道は終わる。その手前に橋があって、左岸に抜けることができる。以前はここが南のハカシアやトゥヴァを通ってモンゴルとの国境へ行く国道(今は連邦道256)だが、狭くて、曲がりくねり、事故多発地帯だ。それで、町中を通らない広いバイパスが、連邦道255と257を結んでいる。発電所へ行くには旧道の曲がりくねった256道を通る。橋を渡ったところで、エニセイ川岸に降りる道があって、これは以前にはなかったものだ。
 発電所(ダム)は、後ろのダム湖の水を、年に数回放出する。川幅いっぱいを遮っている高い堤防の壁から一斉に水が噴き出し、下のエニセイ川にまで落ちて水煙を上げる光景は、クラスノヤルスクの名物・呼び物の一つに今はなっているらしい。私がクラスノヤルスク滞在中にも見たことはあるが、それほどの圧巻ではなかった。しかし今は、イルミネーションも華やかに、放出時には見物客が押し寄せ、近くには車を止める場所もないという。
 放出は夏場で、今はもちろん普通に発電所は運営しているだろう。だが、以前の殺風景なコンクリートの壁のダムと違って、放出・イヴェントもないのにそれなりに美しく照明がしてあった。ロシアはどこへ行っても観光業に熱心になった。
キム・イルソン訪問記念碑

 帰りがけ、川岸に見慣れない石碑が建っているのに気づいた。新しい石碑で文字盤が打ち付けてある。呼んでみると、『1984年5月20日、朝鮮人民共和国大統領の、同志キム・イルソンが、クラスノヤルスク発電所を訪れた』とある。全く新しい碑なので、初めは現代の金正恩かと思ったが、1984年だから金正日でもない2代前の金日成だと、碑文を読むまでもなくリュ−ダさんが気づいてくれた。なぜ今頃こんなところにこんな古い記念日のための新品の石碑が建っているのか。ロシアが急に北朝鮮のご機嫌を取りたくなったのかな。
 帰りにまた橋を渡って、巨大な堤防が美しくイルミネーションされているのを、遠く正面から見た。橋の上からはダムが正面に見える。
 エニセイスク街道をエニセイスク市へ
朝日が昇る 
『エニセイスク道』を行く 
 ↑途中いくつも見かけた兵士募集のポスター↓
 11月4日。クラスノヤルスクからエニセイ川下流に348キロ離れたエニセイスク市へ行く日だ。リュ−ダさんも私へのおもてなしにたいへんだ。私もリュ−ダさんが賛成してくれそうな目的地を決めるのもなかなか難しい。以前リュ−ダさんと259キロ下流のウスチ・トゥングースカ村まで行ったことがあり、その時、レソシビルスク市(300キロ)まで足を伸ばしたが、エニセイスク市までは行っていない。2010年、私はエニセイ川下流のヴォログダ村まで冬道で行ったとき、帰りにエニセイスク市で1泊した。それは13年も前のことだ。
 リュ−ダさんとエニセイスクは日帰りできる距離だから、行ってみようと言うことになった。クラスノヤルスク市から地方道(国道かも)04K044(旧R409)『Енисейский тракт エニセイ道』では348キロだが、(陸上の道のなかった)昔のようにエニセイ川を航行すると415キロだ。道はほぼエニセイ川に沿ってある。
 私達は7時前に出発した。北へ向かう草原の道路を走っている時、朝焼けが見えた。8時半には金色の太陽が地平線から昇ってきた。広い草原のずっと彼方に人家が見える程度なので、地平線から上ったと言ってもいいだろう。数分で全身を現わしたばかりの太陽は低い空に大きく見える。
 クラスノヤルスク市からエニセイスク市までも道沿いにはいくつもの村がある。エニセイスク上流から下流へだいたい川に沿って、ロシア・ツァーリ国のコサック隊がシベリア征服のために作った柵の跡地にできた村や、開拓者(侵略者)たちの冬ごもり用小屋群からできた村が転々とある。それらは、漁業基地か、狩猟基地だった。シベリアは『柔らかい金、つまり毛皮』のために開発された、とも言われている。19世紀の終わりや20世紀には流刑や、強制移住先だった。材木集散地として人口が増えた村(市に昇格)もある。村々はエニセイ川、またはその支流に沿った場所にあり、道はそれらの集落をたどっていく。(カザチンスク村だけは、つい最近、村を迂回するバイパスができた)。それらエニセイ川岸の村々にとって、この連邦道は唯一の中心大通りだから、村役場なんかもその道沿いにある。
 そして必ず、契約兵士募集のポスターが各村毎2,3カ所には目に付いた。村なので仕事がなく、契約兵になって稼ごうという若者を狙っているのかな。
  エニセイ川にかかる新橋=ヴィサコゴルヌィ橋
ヴィサコゴルスキィ橋(ネットから) 
主要道から分岐し橋へ向かう道 
試しに渡ってみる 
 このエニセイスク市へのエニセイ川左岸に沿った350キロのアスファルト舗装道は、クラスノヤルスク滞在中から何度も通っているが、今回、始めて、エニセイ川右岸へ渡る新しい橋を見たのだ。クラスノヤルスクから281キロのアバラコヴァ Абалаково村を過ぎたシベリアの雪原の広がるエニセイ両岸に忽然と端正な鉄橋が現われた。エニセイ川は広く流れも比較的速い川なので、橋があるのは、大都市のクラスノヤルスクと、上流のハカシアの首都のアバカン、トゥヴァの首都のクィジールぐらいだ。クラスノヤルスク市内の橋も長い間、鉄道橋をのぞいては3本だけだったが、ほんの21世紀になって、連邦道255号線のバイパスの橋(俗名プーチン橋、またはバイパス橋 2009年開通)とリューダさんといつも通るニコラエフスク橋ができた。クラスノヤルスク地方にはクラスノヤルスク市から北には、エニセイ川に沿った陸上の通路は、連邦道はせいぜいエニセイスク市まで、その先は冬道(沼や小川が凍ったときだけ通行できる)でヴォロゴヴォ村までしかない。道に沿った小さな村々はほとんど左岸にあったし、右岸にある小さな村には渡し船で渡った。つまり、モンゴルから北極海まで流れるエニセイ川にはクラスノヤルスク市より上流の200キロ以上には橋はなかった。
  アブラコヴァ村を過ぎて突然現われた鉄橋は長さ1195mで、つい最近の2023年8月31日開通。対岸のヴィサコゴルヌィ村は人口が数百人の小さな村で、もちろんそこへ行くためにできたのではなく、北緯60度のセーヴェロ=エニセイスク町へ行くためにできたのだ。
 エニセイ川右岸(東)は、右岸支流の大河アンガラ川右岸(北)でもある。バイカル湖から流れ出すアンガラ川は、3分の2は、イルクーツク州を北上するが、ウスチ・イルムスクを過ぎると西へ曲がり、クラスノヤルスク地方を東から西へ流れて、南から流れてきたエニセイ川右岸に合流する。そのエニセイ東岸とアンガラ北岸の間には資源が豊富で、かつては未開で、今でも人口希薄な広大な土地が広がる。金鉱山もある。もっと北のエヴェンキヤ地区にはユルブチェンЮрубчен油田が開発され、輸送のためアンガラ川のエニセイへの合流点から322キロ川上流に『バグチャニ・ユルブチェン・バイキットБогучаны=Юрубчен=Байкит橋』が2011年開通している。これはカンスクからボクチャニ町への地方道0K-020道の続きとしてクラスノヤルスク地方最長と言う橋を渡って、エベンキアの新石油産地へ通じる橋だ。
 『ユルブチェン』橋が、アンガラ川がエニセイ川に合流する地点より320キロ上流にあるのにたいして、今回初めて目にしたヴィサコゴルヌィ橋は合流点より30キロ下流のエニセイ川にかかる。どちらの橋を通っても、アンガラ右岸の金鉱山や、エヴェンキヤの油田、また1922年からすでに有名なセヴェロ=エニセイスクの金鉱山へ陸上だけで(フェリー船なしで)到達できる。セーヴェロ=エニセイスクはクラスノヤルスクから(地図上の)直通でも485キロある。エニセイに架かる橋がないときは、エニセイスクまでエニセイ道350キロを走り、そこから渡し船でエピシノ Епишино村へ渡り、そこからはほぼ無人の中央シベリアを、木々の間をぬって穴ぼこと水たまりばかりの地方道『4K043』で300キロも走らなくてはならない。橋の開通以来、その先の道路も整備されていることだから、是非ともセーヴェロ= エニセイスクへ行ってみたいとリューダさんと話していた。クラスノヤルスクからセーヴェルエニセイスクへの600キロもの道のりなら日帰りはできない。実は2012年の秋、渡し船と穴ぼこだらけの道を通り丸1日かかって訪れたことがある。
  エニセイスク市博物館
  エニセイ川沿岸にできた町としては、今も残っている中で、トゥルハンスクに次いで、エニセイスク市は古い(1619年)かも知れない。だから見所も多いに違いない。と言っても、古都というのは日本でもロシアでも、見所は宗教施設だ。つまり、ロシアで歴史的建造物と言えば教会だが、それはソ連時代に破壊を逃れたか、ソ連崩時代の破壊後再建されたか、または半壊状態を修理したのかのどれかだ。
都市の近くには必ずあるソ連時代のレーダー 
博物館のガイドと 
カフェのテラスからエニセイを望む 
 カフェ横の広場に2017年建立の市の創設者記念碑
ボヤールの息子ピョートル・アルビチェフ
百人隊長チェルカス・ルーニン
修道士チモフェイ
市の創設者記念碑広場 
 17,18世紀、エニセイスクは、政治的にも産業的(通商)にも東シベリアの中心都市の一つだった。(その頃はまだシベリア南部はチュルク系侯国の支配下であって、ロシア・ツァーリ国の進出は難しかった)。エニセイスクはモスクワからトボリスク、エニセイスク、アムール、中国と行く交通の要所でもあった。当時の主要交通は河川航行だったから、エニセイ川岸の集落は交通要所でもあった。エニセイスク市がその中心だったのだ。シベリア先住民から毛皮税として集めた毛皮がモスクワへ向かう通過点(集散地)でもあった。しかし、シベリア街道が南のクラスノヤルスクを通ったことで、エニセイスクは取り残された。が、19世紀の40年代、エニセイ右岸の針葉樹林帯に金が見つかったことで、エニセイスクは金採掘業の基地となった。当時ロシアの金の9割はエニセイ右岸で採掘されたのだ。

 始めてエニセイスクを訪れたのは2002年だった。それから数回訪れたが、寂れた町だった。しかし、今は違う。クラスノヤルスクのような大都市ではないが、金採掘や材木集散地ではなく、観光都市として栄え始めているのか、立派な寺院が目立つ。郷土博物館はアバカン博物館のように、古い建物は残して、新たに新装して移転したらしい。
 11時過ぎにその新装博物館について、ガイドを頼んだ。ガイドまで頼んで見物する来館者が少なかったのか、外国人らしい私に気を遣ったのか、長い時間をかけ、詳細に説明してくれた。
 エニセイ川中流は、古アジア民族の生き残りと言われるエニセイ語族のそのまた唯一の一派と言われるケット人が住んでいる。エニセイスクは孤立語のケット語とその民族研究の中心でもある。博物館の展示品にはそのケット人の民族文化の写真などもあった。
 また、20世紀初めのオビ・エニセイ運河の出入り口がエニセイスク市の北にあった。悲劇の運河と言われている。
 エニセイスクは、また、帝政時代やソ連時代の強制流刑地であり、矯正ラーゲリ群の中心基地でもあった。北極海にまで及ぶ面積の広いクラスノヤルスク地方は、全ロシアの中では、ソ連政府(スターリン)から反ソ的傾向があって潜在的に敵に回る可能性のあるとみなされた民族や、個人が送られてきた数では最も多い地方だった。居住地を制限された人たちが.クラスノヤルスク地方北に最も多かったのだ。1953年1月1日時点で151,502人だった。
 博物館展示の資料によると、ドイツ人62,442人
 1940−1941年(独ソ戦前)にバルト諸国から3,703人
 1945−1949年(独ソ戦後)にバルト諸国から35,585人。
 1951年リトアニアから富農10,827人
 カルムィク人16,269人
 クリミア・タタール119人など。

 ガイドは、私が日本からと聞いて、珍しいからと一緒に写真を撮ってほしいと頼んだくらいだ。
 12時半ごろ、博物館の人にどこで食事をしたらいいのかと聞いて、教えてもらったところは、エニセイ岸にあるいかにもコサック風のどっしりとした木造のカフェ ≪ブリヌィの田舎屋 Блинная изба≫といって、シベリアの郷土料理がメニューにある。(シベリア料理ならクラスノヤルスクにもあるが)
 ロケーションもよく観光ブームで新築カフェのせいか、値段も高そうだが、リューダさんが払ってくれた。(ルーブルをあまり持たず、ロシアで使えるカードもないので)クラスノヤルスクに到着したとき、彼女に食費として手持ちの日本円を全部進呈しておいた。彼女がまた日本へ来ることもあるだろうし、ディーマなら必ず日本に来るから。だが、もっと持ってくればよかった、とつくづく後悔した。
  エニセイスク観光、エニセイスク市の記念物
 閉まっていたモスク(イスラム寺院)
 スパソ修道院
 レソシビリスクの教会
 ロシアには記念碑がやたら多い。大部分の記念碑を建てるのは(この地方の)政府だから、昔のレーニン像はもちろん、政治的なもの、つまり愛国的、郷土愛的なものが多い。クラスノヤルスク市にも、ここに初めにシベリア征服のための柵(砦)を作ったというコサック隊長の、もったいぶった身振りの像がある。それは、当時のツァーリの命で柵を作ったらしいエニセイ川岸近くに立っている。
 エニセイスク市でも、同じくエニセイ岸にコサック群像が建っていて、河岸通り公園となっている。1619年の夏に、ボヤール(豪族)の息子ピョートル・アルビチェフと『長身の』百人隊長チェルカス・ルキンが率いるトボリスク・コサックの分遣隊によってエニセイスク柵が建設されたことになっているからだ。エニセイスク要塞は元々はトゥングースキイ柵と言った。トゥングースとは当時エニセイ右岸から太平洋まで広く分布していた先住民の他称だ。(今はエヴェンクと自称で呼ぶ)。だから彼らの居住地を流れていたエニセイ川右岸支流を、ロシアからやってきたコサック達は下流トゥングース(現在、ニジナヤ・トゥングースカ川)、中流トゥングース(現在パド・トゥングースカ川)、上流トゥングース(現在アンガラ川)と言った。
 この像も川岸通り公園も、以前はなかった。最近の好景気で観光客が増え、資金もできた当局が、さらに観光客を呼び込むために、つくったのと思える。そしてエニセイスク市は、そのネーム・ヴァリューから、ロシア人(コサック隊)の古い町というイメージがあり、古い町には教会が多い。事実、かつて、エニセイスクは東シベリアの宗教中心地の一つだった。遠方から人を呼び寄せるには教会の復興が最適だ。エニセイスク市にあるツーリストにもお勧め宗教施設としては;
Ансамбль Успенской церкви聖母被昇天教会のアンサンブル
СпасоПреображенский мужской монастырьスパソ・プレオブラジェンスキー修道院
Церквь Иверской Богоматертイヴェロンの聖母教会
Богоявленский соборエピファニー大聖堂
Воскресенская церковь復活協会
などがある。
 リュ−ダさんは信心深い。だから、教会は必ず廻って、門の中に入り写真を撮った、私は、エニセイスクにイスラムのモスク(寺院)があることがめずらしかった。『タタールのモスク Татарская мететь』と言って、1905年完成。2013年に修理されたそうだ。そのモスクの前に車を止めてくれたが、リュ−ダさんは車から降りなかった(キリスト教とは厳しい一神教だから)。私は一人降りて門を開けようとしたが開かなかった。別の方角の問へ行ってみたがそれも開かなかった。
 帰りにはレソシビリスク市を通る。バイパスもあるが、数年前に完成した教会を見るために立ち寄った。
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