サンクト・ペテルブルクの仏教寺院
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11月1日(金)
1日ぐらいは私を車に乗せてサンクト・ペテルブルクの町を廻ってあげるとジェーニャは言ってくれていた。サンクト・ペテルブルクはかつて私のあこがれの街だった。高校生時代に愛読した文学作品の舞台にもなっているし、歴史のエピソートも多い。私のロシア人の知人はみんな、モスクワ派ではなくペテルブルク派だ。ソ連時代のレニングラードに、私は何度も訪れた。ソ連崩壊2年後にも訪れた。2005年頃にも訪れたが、ソ連時代と変わらない外観だった。2015年にトゥヴァからサンクト・ペテルブルク経由でコミのスィクティフカル市へ行くとき数日滞在した。床がピカピカの空港に、トゥヴァから来た私は感心したものだ。
2016年にはジェーニャが車でサンクト・ペテルブルクの北西方面やクロンシュタットを廻ってくれた。それは11年ぶりに見る『新興国ロシア』の古都だった。ソ連時代とは大違いだった。ジェーニャは『先進国』の都市と変わらない外観のサンクト・ペテルブルクを私に見せて、国の力は『先進国』日本に劣らないと強調した。確かに、1990年代のロシアとは違っていた。
今回もジェーニャはどこを見たいかと聞いてくれた。ロシアはウクライナ戦争〜(特別軍事作戦と言わなければならない)にもかかわらず好況だ。そこを見たいと言った。ジェーニャはサンクト・ペテルブルクの町すべてを知っているわけではないだろうが、彼の好きな場所は、フィンランド湾岸にあるサンクト・ペテルブルク連邦市の北西方面らしかった。前回も廻ったからだ。同じ方面を見ても、ここ数年の変化が見られていいかと、私も賛成した。しかし、新しいサンクト・ペテルブルクだという巨大な建物は数年前建て始めていたものが完成したような『ガスプロム・アレーナ』だったり、上海やサンパウロやナイロビにでもありそうな高層建築だった。ヨーロッパで最も高いという462mの同じくガスプロムのラフタ・センターも見た。肝心なのはハードではなくソフトだと思ったが。『先進国』ロシアの高層建築やデジタル機器に囲まれて、なんとなく居心地が悪いのは、『ひと、つまりサービス』のせいかもしれない。
とにかく、郊外の新しい車道は申し分ないが、観光中心地でもなく、新郊外でもない普通の市内の車道やその両脇の歩道は、モスクワに比べて、水たまりと泥だらけだった。(モスクワは車で移動しただけで歩かなかったが)。
郊外を走っているとジェーニャが、仏教寺院があるよ、と教えてくれる。実は、私がサンクト・ペテルブルクに到着した日、ガルブノヴィさんに、私を案内すればいいだろうという場所として、民族博物館と、仏教寺院の名が上がっていたのだ。ロシア連邦内の民族については学童でないから博物館に行く必要はない(ネットで興味のある範囲で調べ尽くした)、仏教寺院は、サンクト・ペテルブルクまで来てわざわざみなくてもいいと思っていた。ロシアの仏教寺院は、チタ市の近くでも、ブリヤートでもトゥヴァでも訪れた。日本とちょっと違ってチベット仏教だ。その時は僧侶(ラマかその見習い)と話したり案内をしてもらったものだ。
その寺院があるという道を通るとき、周囲とは違う建物がちらりと見えた。せっかく近くを通ったことだから、「写真でも撮ってくるわ」と少し通り過ぎてから、私だけが降りた。歩道の水たまりを除けながら横道から近づいて行った。そのグイゼチョイネイ・ダツァンはブリヤートやトゥヴァでよく見かけるチベット仏教寺院と変わりない。前記のように、南シベリアに21世紀になってから再建されたトゥヴァなどの立派な寺院に行ったときは、ラマ(その見習い僧)と話ができた。しかし、ここで、そっと正面ドアを開いて入ってみると、大勢のヨーロッパ観光客が赤い僧衣を着たラマを囲んでいた。
グイゼチョイネイ・ダツァンはヨーロッパで20世紀初め、最初に建造された仏教寺院だそうだ。トゥヴァの寺院に比べて、よりロシア的な正面(ファサード)だと思った。建物の横にはマニ車が3個しつらえてあった。寺院の中には売店もあってダライラマの写真も展示してある。ジェーニャを待たせているので、すぐ車に戻った。
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ゼレノゴルスク市 |
30分も走ると、以前にも来たことのあるセレノゴルスク市に入る。ここは、連邦市サンクト・ペテルブルクの北西になる。1948年まではテリオキТериокиと言ってフィン系の民族が住んでいた。テリオキというのはフィン語のTervajokiのスウェーデン語風になまったものだ。テリオキというフィン語の名前の町がゼレノゴルスク(緑の町)といういかにも『最近ロシア語に改名しました』という名になった。
ゼレノゴルスク(旧テリオキ)のあるサンクト・ペテルブルクの北西、フィンランド湾北岸とラドガ湖に挟まれた地はカレリア地峡と言って、昔からフィン人が住んでいた。フィンランドがスウェーデン領であった時代はこの地域がスウェーデンとロシア帝国の国境地帯だった。カレリア地峡は1712年北方戦争でロシア帝国領となり、1809年にはロシア宗主下のフィンランド大公国(フィンランド大公はロシア皇帝が兼ねる)の一部となった。ロシア革命後1918年から1940年まではロシアから独立したフィンランド国領となっていた。しかし、1939年から1940年の第1次ソ・フィン戦争(冬戦争)後のモスクワ講和条約でソ連領になった、と言う歴史を持つ。現代のフィンランドはもちろん、カレリア地峡や、北ロシアの原住民はレニングラード州やその周辺も含めてフィン人だった。フィンランド人の祖先は紀元前8500年くらいからこの地に住み着き始めたと言われている。歴史的名称ではこの地域(カレリア地峡やサンクト・ペテルブルク周辺)をイングリア、イジョラ、インゲルマンランディア、(スウェーデン語ではインゲルマンランディア、エストニア語ではインゲリ)フィン系の人をイングリア人と呼ぶ。
ソ連領となったカレリア地峡にはフィンランド第2の都市ヴィボリ(ロシア語でヴィボルグ)もあった。ヴィボルグは現在のフィンランドとロシアの国境から38キロしか離れていない。私が2度も訪れたゼレノゴルスク(旧テリオキ)から道沿いに88キ西だ。
実は、サンクト・ペテルブルクへ来てアンジェリカさんにどこへ行きたいかと訪われて、ヴィボルグと答えたのだが、遠くてそこは面白くはないと断られたのだ。スウェーデン軍防御のためロシア帝国が建てたヴィボルグ城や、有名な庭園もあるのに。
ともかくもジェーニャはゼレノゴルスクに案内してくれた。中央広場らしいところで車を止める。前回もここで車から降りた。その時立派な(プロテスタントの)ルーテル教会があった。フィンランド人が戦後も多く残っていたからなのだろう。しかし、今回、教会は寂れて鍵がかかっていた。1度目に来たときは自由に入れた。その時は入ってみると数人の信者が座っていたものだ。今は、教会で時々コンサートが開かれているらしい。鍵の掛けられたドアの前にポスターが貼ってあった。毎日曜日の夕方のプログラムの予告が書き出してあった。例えば10月27日(日曜日)17時からのプログラムはヘンリー・パーセル(バロック時代の英国作曲家)、ヘンデル、バッハ、ジョセフ・ブワチエ(フランスのバロック音楽作曲家)とあって演奏楽器と演奏者の名もあった。毎回演奏と牧師さんの言葉がある、入場には寄付を700ルーブル以上お願いしますとも書いてあった。 教会前には、『75人のテリオキ兵士が葬られている』という石碑があった。1993年建立とあるから前回来たときも見かけたのだろう。
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セストロリツケ市
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ジェーニャがゼレノゴルスクまで来たのは多分、ここから海岸通りの道をレピノ町まで戻る途中のカフェに入りたかったのだろう。このあたりのフィンランド湾沿岸は彼のお気に入り妻妻とも何度も来ているようだ。そのカフェも、カフェの前にある池も小動物園も、前回に来たことがある。カフェは『ロシアの猟師』という名で、雰囲気も良く料理もおいしかった。
その後、ジェーニャお気に入りの湾岸に出て何枚も写真を撮った。この先サンクト・ペテルブルクまでの道にはセストロレツクСестрорецкという町がある。かつてソ連時代の1980年代私は3度もロシア語学習ツアーというので訪れたことがある。昔、私がロシアにはまっていた頃だ。『サナトーリ(保養所と言う訳だが長期滞在ホテルのよう)・デュヌィСанаторий Дюны』と言うところに滞在した。その保養地は今でもある。
カレリア地峡がフィンランド領だった1948年から1940年までは、セストロレツクから2キロ北に国境があったそうだ。第2次大戦中ここはフィンランド軍との前線だった。だから1937年頃は保養所の建物が軍事施設になっていたそうだ(それもネットで知った)。
1978年には500室を超える10階建ての宿泊施設ができたと言うから、80年代半ばに私達ロシア語学習ツアー客が滞在したのもそこだろう。その後2001年には保養所として大改革されたそうだし、治療付きミネラル水(つまり温泉か)の8日間の宿泊料も高価になったようだ。
かつてツアーの一員としてセストロリツクに滞在したときは、全く無知だった。カレリア地峡の歴史を知り、ヴィボルグやゼレノゴルスクの歴史も最近になって知ったわけだ。セストロレツクの地名はフィン語のSiestarjokiからきているし、町の名は、そこを流れていたセストラ川から来ている。セストラ川はフィン語のRajajokiからきている。カフェのあったレーピノРепино町も1948年まではフィン語のKoykkylaの変型 ( koukkuとはフィン語で釣り針)をロシア語風になまったフィン語のままクオッカラ kuokkalaと呼ばれていた。レーピノと言う今の名前は画家レーピンからとった。
ジェーニャに頼んででてもらった湾岸は、かつての懐かしいデュヌィとは違って、ジュブキ公園парк Дубкиと言う別の場所だった(その地名は、実は、帰国後iPhoneのカメラ情報を見てわかったのだ)。この公園も砂浜があった。デュヌイДюныは海辺の砂丘Дюнаの複数形だから、近くに来たと言えるか。シーズンオフのせいか、この砂浜(砂丘)に遊具がぽつんとあるだけで人影は見られなかった。何もないからとすぐに引き上げたジュプキ公園はそれなりに歴史があって、ピョートル大帝の屋敷があったそうだ。ジュプキとはドゥーク(樫の木)から来ている。この公園はロシア最北の樫の林があるそうだ(帰国後にネットで知った)。
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クロンシュタット |
4時半ぐらいだった。さて、次はコトリン島のクロンシュタット市へ行こうと言うことになった。前回の2018年も行っている。2005年に行ったときの寂れた感じと比べると、2018年はきらびやかに変身していた。2024年は、もっと変わっただろうか。この時間ここからはそれ以外のところに行けそうもなかったので承知した。フィンランド湾の堤防の上を渡って、それほど気は進まなかったが、コトリン島へ行く。クロンシュタットに新しい博物館ができたとジェーニャに言われたが、外からその電飾(また電飾だ)を見ただけだった。クロンシュタットの『海のニコライ大聖堂』にも訪れた。大聖堂は広い石畳の『錨の広場』(広場の石畳の模様が錨だから)の奥にある。大聖堂の電飾の光が川面のように濡れた石畳に反射していた。この広場の片隅に、1905年と1906年、1921年のクロンシュタット反乱に倒れた兵士達の3角形の記念碑があったはずだが、今回は見かけなかった(あったのかも知れない、もう一度見てみたいと思ったのだが)。
そのあとは、もう夜の道をガスプロム社所有の高さ462mラフタ・センターの電飾を見ながら帰宅するしかない。センターは完成はしていないそうだ。ジェーニャのスマホに何度かエ妻のヴドーキアからの『いつ帰るの』のSNSが入る。ジェーニャは自分のスマホのナビの画面を私に見せて、公共機関の市内電車の何番が今どこを走っているかリアルタイムの画面でわかるのだ、日本にもこんなのがあるかと自慢する。私のスマホにはこんなアプリは入ってない。「東京など大都市に住む人は入れているかも知れない。私には不要だから」と答えておいた。
ロシアが1990年代や2000年代初めと違って、大都市から順番にインフラが充実しつつあり、住みやすくなっているのは確かだが、昔のロシアも悪くないところもあった。今の繁盛しているロシアになっても、住む人のことが本当に考えられていない気がする。弱者(高齢者、障害者)には特に住みにくい。
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ナヴァリヌィのシール |
家の近くまできた頃、ジェーニャはアジア食品店に寄りたいと言った。彼は日本食のファンだ。時々彼流の日本食をつくり、写真に撮っておくってくる。ロシア風東アジア料理とも言うか、彼の趣味だから褒めておいた。米と麹から日本酒もつくったそうだ。密造酒だな。私がプレゼントした酒器セットでセルゲイさんと酌み交わしている写真も送ってくれた。
アジア食品店はそれほど広くはない。日本製らしいものも並んでいた。日本で名前の知られているメーカーの味噌や醤油が、日本とは違うラベルで並んでいた。『うすくち』とか『調味料入』とか日本語で書いてある。ジェーニャはどれが一番おいしいかと聞く。私は適当に答えておいた。私の推薦にしたがって購入したジェーニャだが、本当においしいかどうか本当は知らない。『チャーハンの素』と日本語で書いた袋もあった。作り方も日本語で書いてあったが、その上にロシア語の訳文が貼ってあった。『せきもとフーズのしそ入り梅干し』1パック(日本スーパーにあるくらいの量)が1600円だった。カルピス・マシュマロが210円(これは賞味期間切れで値下げされたが、本当は300円)。ハングル文字のものや中国漢字のものも多い。三角おにぎりも『アジアの味』と書かれてたくさん並んでいた。おにぎりは普通のロシアのスーパーでも品ぞろいがある。
外に出てみて驚いた。店の前に駐車していた立派な車のリアガラスに『ナヴァリヌィНАВАЛЬНЫЙ20!』という目立つ大きなシールがあってあるではないか。つまりこの車の持ち主は反体制派で逮捕され獄死したナヴァリヌィ氏の支持者か。支持者であると公表しても平気なのか。世の自称『民主主義国』はロシアに民主主義はない、言論の自由はないと言っているが。大衆行動(デモ)ではなく、個人行動ならかまわないのか。たの多くの国と変わらないではないか。
ジェーニャは今はいくつかの仕事を掛け持っているが、以前はある議員の秘書の一人だった。なぜその職を辞めたのか、それはその議員が収賄で逮捕され今監獄にいるからだ。政治家や公務員の収賄の暴露は全く珍しくないという。毎日2件以上は『コメルサントКоммерсантъ』誌に載っているとスマホの画面を見せてくれた。そこには押収された収賄物、幾束もの高額紙幣、高価な時計や装飾品がずらりと並んだ写真が載っている。すごい現金だ。氷山の一角かも...しかし、暴露されるだけでも...
帰宅すると、アンジェリカさんは、私が食事代とタクシー代に渡したループルが多すぎたからと、セーターと飾りざらを『スーツケースが重くなってごめんね』と言ってプレゼントしてくれた。そのセーターの柄が気に入ったので帰国後も愛用している。
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サンクト・ペテルブルクからモスクワ |
11月2日(土)
飛行機は12時30分にサンクト・ペテルブルクのプルコフスカヤ空港を出発するので、早めに朝食をとった。昨日のレーピノ町でのジェーニャと行ったカフェで食べた『春のサラダвесенний салад』がおいしかったといったので朝食には「ヴェセンニー・サラダはるのさらだ」それと、私の好きなブリヌィやスメタナ(ヨーグルトのような)やカーテージチーズをたくさん出してくれた。どの写真を見てもアンジェリカさんは優しく微笑んでいる。
9時過ぎにはセルゲイとタクシーに乗って空港へ。アエロフロー便便の飛行機は定刻12時30分に出発してくれて、モスクワ・シェレメチエヴォ空港へ14時10分に到着(9708ルーブル)。国内線(またはアエロフロート航空便)は、Bターミナル着らしい。ここで私は荷物を受け取ってCターミナルへ移動しなければならない。3週間前は、北京からCターミナルに着いて、マーディナたちに迎えに来てもらったものだ。
今回、シェレメチエヴォ空港の移動は、あまり自信はなかったが、案内標識を見て自力で行けるだろうと思っていた。親切なマーディナは迎えに来てあげる、SIMカードも貸してあげるからお互いに電話して会おう、とまで言ってくれたが、それには及ばない。
この時、BターミナルからCターミナルへの移動通路を歩いていると、アーダムの姿があるではないか。彼も私を見つけたらしい。頼もしいアーダムを見つけてほっとしてすごくうれしかった。一緒にCターミナルへ行き、彼は、何時からどの窓口で私の上海行きの飛行機の搭乗手続きが始まるのかすぐ見つけてくれ、近くの椅子に一緒に座った。彼は私がモスクワ滞在中欲しいと思っていた2023年版の『オネーギン』のビデオと、ヤーナ宅に忘れてきた私のマフラーをもってきてくれたのだ。『オネーギン』のCDはモスクワ滞在中はいくつか店に寄ったが見つからなかった。マーディナはネット販売なら必ず見つかるからといっていた。忘れないで取り寄せておいてくれたのだ。ヤーナの家に行ったとき確かにマフラーを忘れた。諦めていたのにヤーナはわざわざマーディナのタワマンまで届けてくれたのだ。マーディナは、グローズヌィからまだモスクワに戻っていなかったから、ヤーナはマフラーを入り口のガードマンに預けて帰ったという。(後記:マーディナはさらに何日もグローズヌィに滞在して、夫のアーダムはモスクワ暮らしだったらしい)。
シェレメチエヴォ空港での待ち時間は長い。それというのも、サンクト・ペテルブルクからシェレメチエヴォに到着するアエロフロート便はこれしかないからだ。他の空港、たとえば、ブヌコフや、ドモジェエドヴォに到着する便もあるが、それではシェレメチエヴォまで、モスクワの町を横切ってこなくてはならない。
やっと、搭乗手続きの時間がきて、アーダムに付き添われて登場窓口へ行って、パスポートを出す。上海ではバゲッジスルーだと確かめる。登場窓口のロシア人男性が私に介助は必要ないですかと聞く。パスポートから見た年齢から私には介助が必要な乗客と正しく判断して、規則通り尋ねてくれたのだろう。私はすぐいらないと答える。アーダムが日本人は長生きだからと添える。モスクワの国際空港では高齢者にどんな介助をしてくれるのか試してみても良かったが。搭乗券を受け取って、アーダムと別れ、手荷物検査ホールに入った。
手荷物検査には長い列ができていた。それというのも窓口は全部開いていなかったからだ。そのうち新しい窓口が開いたが、前からの順番待ち客は無視された。これが日本と違うところだ。
上海行きのゲート前で長く待った。出発の19時10分まで6時間もあったのでショッピングに廻っても良かったが、欲しいものはなかったし、お腹も空いてなかった。スマホの電池が切れないようチャージしていたが、そのチャージコンセントはやたら速度が遅かった。どこの空港のスマホチャージでも、コンセントにさせば必ずチャージできるわけではないと、知っていなければならない。6時間待ってもなおゲートは開かなかった。上海行きの飛行機の乗務員がゲート前に順番をついても開かなかった。遅れていることについて何のアナウンスもなかった。周りはロシア人や中国人の旅行者で、私は一人、とても心細かったが、待つしかない。そして30分ほど遅れて、やっとゲートが開かれた。
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上海乗り換え |
11月3日(日)
上海での乗り換え時間は当初より短くなったが、乗り換えに支障はなかった。バゲッジスルーだし通路はほぼ一方通行で、上海もわかりやすい空港だ。羽田行きのゲート前には、若いインドネシア人のグループが座っていた。話しかけてみると日本に行く研修生(つまり労働力)だった。男女合わせて数人が一緒だから知らない国に行くのもあまり心細くないかも知れない。が、私と話したフィトリアイルタント・アルシャという女性はやっぱり心配だと言っていた。私にインドネシアのお菓子だと言って、ビスケットを一袋くれた。ちょっと話して知り合いになっただけなのに、持ってきたお菓子をくれるとは親切だ。それで、私は日本で買ってきて旅行中持ち歩いていたリッツを一袋お礼にあげた。インドネシアはイスラームの国だから女性は頭にスカーフを巻いていた。私がカメラを向けたもう一人の女性はVサインを見せてくれた。
上海から羽田までの3時間の機内で隣り合わせになったのは、日本語の流暢な中国青年だった。私は必ず機内の2人席、または4人席で通路側を予約する。このときは2人席だったが、先に通路側に座っていた私に、窓際の方がいいですか尋ねて気を遣ってくれた青年だ。彼は姓が王、名は金と言うそうだ(その反対だったか)。それで友達からゴールドキングと呼ばれたとか。日本に何年も住んで東京近郊で働いている。日本でそれなりに生活しているようだ。今回上海に里帰りに行ったとか。彼は30代半ばになっているが結婚できない。できたら日本女性と結婚したいそうだが、中国に対する差別を感じるという。彼のお眼鏡にかなった性格のよい女性になかなか出会えないそうだ。中国女性ならどうなのだろう。その年の中国女性は少ないのではないか、とか中国では今失業者が多いのではないかとか言う私のテレビ報道からの知識も、彼は否定しなかった。感じの良い男性で、羽田までの時間もすぐ過ぎた。
今回の3週間の旅行では、内容がそれほど豊富ではなかったかもしれないが、リピートは私の旅行のタイプで、繰り返しによって深まらないものはないと思う。今回は体の調子が良くはなかったが、予定通り回れたし、国境で問題もなく、無事帰ってこれた。私の見た限りのモスクワ、サンクト・ペテルブルク、チェチェンは戦争をしているような国には見えなかった。まさに『広くて新しい道路にはピカピカの高級車が走っているし、ショッピングセンターでは経済制裁で引き上げた西側製品を補うように自国側製品を豊富に並べ、買い物客があふれている』という文言は本当のように見える。おまけに高価な劇場も満席ではないか。兵士募集の電光掲示板は中央アジアからの出稼ぎ労働者が多い地区のみに建てられているように見えた。(各バス停毎ではない)。福祉の医療や介護については、今回も、何人かの知人から知り得たことを合わせても、あいかわらず遅れている。
今回の何度目かのモスクワ訪問で、モスクワがダントツに繁栄しているとわかった。中心部のタワマン、拡張したモスクワ市の整備された郊外。日本では数十年前にやり遂げてしまっている各公共施設(空港や駅など、何々センターなど)も、大都市から順番に新築していっている。(日本はもう老朽化しているとか)
残念だったのは、前回マーディナとイスラームやチェチェンの歴史について大いに話し合ったが、今回は夫アーダムのことだけだった。クリミアにもグルジアにも行けなかった。グローズヌイの博物館で知り合った、歴史学者のイッサとはこの先話し合えるかも知れない。果たして、イッサや、マーディナは日本へ来てくれるだろうか。日本の私の町でもイスラームの習慣が守れるだろうか。
帰国後は疲れていたので、今回でロシア・リピート旅行のピリオドだと思っていたが、いや、私と一緒にクリミアへ行ってくれる人が現われるかも知れない。北ロシアのコミ共和国には友達がたくさんいる。近いところでは、バイカルか。そこは何度行ってもいいと、また思うようなった。
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