クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date March 05, 2025  (校正 2025年3月23日)
41 - (4)   2024年経済制裁下プーチンのロシア
        モスクワ、チェチェン、ペテルブルク (4)
    
                              2024年10月12日から11月3日(のうちの10月20日から22日)

Путешествие в России, Москве, Чечене и Пётре 2024 года (12.10.2024−3.11.2024)

       モスクワ
 1 10/12-
10/15 
 計画、費用 北京大興国際空港  モスクワ、シェレメチエヴォ空港  マーディナ宅  モスクワのショッピングセンター   トレチャコフ美術館 
 2 10/16-
10/17
 新興私立学校  拡張した新興モスクワ市のヤーナ宅    電飾のモスクワ夜景  モスクワ大聖堂モスク
     チェチェン
 3 10/18-
10/19 
 グローズヌィ 山岳イトゥム・カリ村   新興ヴェドゥチ・リゾート   イトゥム・カリ博物館再訪   ミラーナとの会話
 4 10/20-
10/22 
 預言者イエスのモスク 英国宮殿   アルグン市とシャリー市のモスク ヴェデノ村   カゼノイ・アム湖 グローズヌィ・シティ  ズーラ宅 
 5 10/23-
10-24
 
 グルジアとの国境  トルストイ・ユルタ村  マーディナの悩み  アフマト博物館  ガランチョージ区
      サンクト・ペテルブルク
 6 10/25-
10/28 
ペトログラード島 パヴロフ宮殿   薬局  ショッピングセンター『ギャラリー』  ネフスキー大通 カーチャ宅 
 7 10/28-
10/31
 
 市内バスツアー サンクト・ペテルブルク大聖堂モスク    旧マチルダ宅 マリインスキ−2劇場   映画『モンテクリスト伯』  息子プラトン
 8 11/01-
11/03
 
 仏教寺院 ゼレノゴルスク市   セストロリツケ市  クロンシュタット市 『ナヴァリヌィ』のシール   モスクワ  上海乗り換え

 預言者イエスのモスク(マルヤムの息子イサ) 
 
寝室の窓から見た傘の遊歩道と遠景
 
いつも一人で食べる朝食、これはデザート 
 
傘の遊歩道、マリカとアディール 
 
 アフマト広場
 
 グロズヌィ・シティの横を通る
 
イエスのモスク 
 
мечеть им.пророка Исы(а.с.) 
預言者イサのモスクと書かれている
 
モスク1階 
 
モスク2階 
10月20日
 ファーティマのマンションはホテルのスウィート・ルームのようだ。そして使われていない部屋がいくつもある。そこにはきらびやかなシャンデリアが下がり、分厚い絨毯が敷かれ、豪華な家具だけが置いてある(前ページ写真)。5年前と違うところは、子供用品が増えていること、子供がおもちゃしないようにものが上にあること、前記のように段ボールやスーツケースを集めた部屋ができたことなどかも知れない。5年前はファーティマさんの夫がいたが、今は故人だ。
 窓からの眺めもいい。中心街の横町かの遊歩道(大通りとか並木道という意味のフランス語でブルヴァールと言う)が上から見える。ブルヴァール・エサムバエフ Бульвар Эсамбаева 5−14と言うのがこの建物で最上階8階に住む。遊歩道なので両脇にはカフェやレストラン、ファッションの店が並び、道路の真上数メートルには色とりどりの傘が整然と下がっている。遊歩道の商店街の向こうには建設中の高層建築が見える。
 9時半ごろ一人で朝食を食べた。いつもテーブルに食事が並んでから呼ばれる。彼らは一定の時間に3食食べているのだろうか。家の主人(または客人)から順番に一人ずつ済ませるのか。

 午後からマリカが来た。まだモスクワにいたとき、クリミア旅行の可能性をマーディナに聞いた。マーディナは同行できない。それなら、マリカはどうだろうか。私がグローズヌィで知っていたのは一家の他には、ファーティマのいとこのマリカと、時々遊びに来る親戚のズーラ戸全開車を出してくれたトゥルパルだけだ。トゥルパルは治安関係の仕事に就いたから暇はない。ズーラは、夫が全盲になったので世話をしなければならないから離れられない。マリカは足が痛い、血圧が高い、そのほか生活習慣病(と私には思われた)がひどくて、旅行できる状態ではない。グローズヌィからクリミアまでは1000キロ以上はある。知り合いの軍関係の人に当たってみるが可能性は薄いと言われる。事実実現しなかった。
 マリカは日本のミスドのようなドーナツ(それより大きい)を6個買ってきてみんなにごちそうしてくれた。マーディナが外出着を着て、アディールをベビーカーに座らせ、遊歩道や広場へ散歩に出かけたのは3時過ぎだった。ぶらさがっている傘が賑わう遊歩道を通って、『チェチェンの心』モスク前の『アフマト広場』に向かった。モスクの高い尖塔のミナレット(63m)背後にはグローズヌィ・シティの高層建築が見える。ここがチェチェン一番の見せ場、観光地だ。
 このとき、去年車で案内してくれたトゥルパルから電話があったらしい。彼が車で市内を案内してくれるらしい。私達はトゥルパルのカムリに乗って(ベビーカーをトランクにしまうのも暇がかかるのだ)、大通りを走る。大きな写真(絵かも)が広い壁に貼ってある。右の壁はプーチンと握手するアフマト、左はカフカス山脈とチェチェンの塔をバックに白馬にまたがるアフマトだ。前方に、大通りをまたいてアーチが見える。この大通りをまたいた大アーチは『アフマトは力だアーチ』という名だそうだ。この辺がミヌトカ(*)広場と言って、この広場に面して、『預言者イサ名称モス』』が、2024年8月開館したばかりだった。
    (*)ミヌトカとは1分という意味、ここに、グローズヌィの駅の一つがあり、1分しか止まらなかったからその名が付いたと聞いたことがある

 預言者イサとはイエス・キリストのことだ。イスラームではイエスがアラーから託された預言者の一人とされているし、イスラームを信じるムスリムにとって、キリスト教徒は啓典の民と、他の異教徒とは区別されていることは知っていたが、イエスのモスクとはキリスト教会のことかと、到着するまではマーディナに尋ねていたくらいだ。キリスト教ではない、まさにイスラームだとマーディナは語気を強める。
 到着してみると、確かに、ドームとミナレットのあるイスラーム礼拝場(モスク)だ。ティムール朝様式で建てられたそうだ。イサ・イブン・マルヤム(マリアの息子イエス)はイスラームの教義の中では重要な意味を持ちコーランにも幾度となく言及されているそうだ。正面には確かに『預言者イサ名称モスクМечеть им. Пророка Исы(А.С.) 2024』と言う文字が周囲のアラビア文字に囲まれて記されていた。完成式典にはプーチンも訪れたそうだ、ウィキペディアにその写真がある。

 ロシア正教徒のロシア人は他宗教施設には足を踏み入れない。単なる観光地であってもためらう。ロシア国内にあるイスラームの礼拝所モスクには、正教徒であるロシア人は決して入らない。日本に来るロシア人旅行者は神社仏閣に入ることはあまり抵抗を感じないらしいが、ロシアにあるチベット仏教寺院にははいれない。
 マリアの息子イエスの名がある聖所は、自分たちの正教教会とどう違うのだろうか。宗教とは心の問題ではなく、政治の問題なのだなあ。
 
 100粒連なった数珠の束
 女性用の2階へ上がって、内部を概観する。壮麗だ。青い絨毯が敷き詰められている。天井の幾何学模様もシャンデリアも、並々ならない美しさだ、としか言いようがない。アディーリは絨毯の上を走り回っている。走り回ったり寝そべったりしているのはアディーリばかりではない。小さな男の子達も時間を過ごしている。白い珠の数珠がいくつも、隅の棚にかかっていた。珠は10粒で一区切りの印があって全部で100粒ある。祈りの回数毎に1粒毎移動させていく。
 マーディナと私は、誰もいないからと、階下(実は男性用)の青絨毯の上で写真を撮った。

 トゥルパルのカムリに乗って、グローズヌィの町を行く。広い交差点の目立つところにはアフマトの大きな写真が掲げられている。交差点でないところにも『アフマトは力だ』と言うスローガンが掲げられた建物が見える。そして警官か軍人かの姿も多い。
 両側のアフマトの巨大写真。通の向こうにあるアフマト・アーチ
 英国宮殿
  2020年まではザボッドスキー(ザボットとは工場の意)地区と呼ばれ、今はシェイフ・マンスルスキー(*)と言う市の南西にあって工場地帯でもあった地区へ行く。やはりクレーンもあったしダンプカーもあった。工場を建てるのではなく、またまた新しい施設の基礎工事でもやっているのだろう。
 (*)18世紀のチェチェンの英雄で、帝政ロシアと戦ったシェイフ・マンスル (1760?1794)に因んで改名された
 
 正面の緑の文字は『アフマトは力だ』
グロズヌイ国立石油技術大学
 
記念物として残されている『英国宮殿』
1階には戦争後の修復があえてされていない 
 
 木枠だけ残っている入り口
 
かつてのグローズヌィ油田の採掘写真 
 
戦前グローズヌィ市街の写真の横に立つ
マリカとマーディナ 
 
英国宮殿の裏側は整備されている 

 この近くに窓の青い堂々とした建物が見える。正面の一つ一つの大きな文字をたどっていくと『アフマトは力だ』と読める。これは『アフマドは力だ』大学ではなくグロズヌイ国立石油技術大学と屋上にアフマトと比べては小さな字で書いてあった。

 鉄道も渡って、カムリが着いたところは、廃墟のような2階建て建物で、『英国宮殿』と呼ばれているのだとマーディナが説明してくれる。ヨーロッパ的な横長の英国の貴族が住むような整然と窓の並んだ建物で、明かりはついてはいるが、外壁には爆破の跡がそのまま残ってはいる。入り口のドアは枠だけになっている。入ったところの当時の掲示板によると、これはグローズヌィ石油技術機関の建物だった。19世紀からグローズヌィ山地(グローズヌィ市の北、テレク川南の丘陵地)に多くの石油ガス産地が発見され、英国をはじめ西欧資本が入り、開発された。革命前のロシアの地下資源は大部分西欧資本で開発されたようだ。1920年代にも英国資本の研究が続けられたらしい。その頃設立されたこの『英国宮殿』は、今ではグローズヌィ石油開発の歴史博物館のようでもある。

 窓枠だけが残っていて粗壁だけのホールに当時の写真とその説明、まだ木造の19世紀の石油採掘の塔の写真、当時の器具類の展示がされている。『英国宮殿』のかつての写真も多く展示されている。別のホールではチェチェンの民族文化の展示があり、廊下には、グローズヌィ石油産地の地図や全貌の写真、当時の工場の写真、チェチェン戦争で破壊される前のチェチェンの町の写真とその説明、破壊されて(ロシア資本による?)復活前の写真、繁栄する現在のグローズヌィ市の写真が展示してあった。マーディナとマリカは、爆破される前のチェチェン市の写真を見て、自分たちがかつてどこに住んでいたのか、話し合っている。マーディナはもう10代だったからよく覚えているのだろう。

 2階にの廊下からベランダに出られた。出てみると、雑草が生えていた。2階の一翼は内部が改造されてカフェがすでに開店していた。
 別の入り口(入ったときの入り口の反対側)から出てみると、そこは、石畳に囲まれた芝生と噴水(水なし)の整備されたばかりのような公園となっていて、一角には、高級車数台の展示場まであった。

 壁が所々剥がれ、無数に砲弾の跡のある建物は写真展示も含めて、チェチェン戦争記念館として残すのか。砲弾の後はすさまじい。建物に身を潜めて兵士が銃を構えているような、市街戦の写真を見たことがある。この建物からも、ロシア軍兵士が撃ってきたのだろうか。マーディナが否定する。「いや、私達が建物に逃げ、逃げた建物をめがけてロシア軍兵士が撃ってきたのだ」。「この建物にも逃げたの?」。「逃げられるところにはどこへでも逃げた」。

 トゥルパルのカムリに乗ってマディナの家近くへ行く。途中の建物、どこにでも『アフマトは力だ』のスローガンと写真が目立つ。6時頃、マーディナ行きつけのカフェについて、トゥルパルと別れる。

(*)かつてグロズヌイ石油研究所(GrozNII)は、ソビエト連邦で最初の研究機関であり、石油精製の分野では世界最大級の研究機関だった。ソビエト時代には、GrozNIIは石油地質学、石油探査、深部掘削、石油とその精製の包括的な研究の分野で研究活動に従事していた、とウィキペディアにある。今ロシアの石油と言えば、シベリアだろう。
 アルグン市とシャリー市のモスク
 10月21日(月)
 前日はガイドのミラーナは別の仕事をしていたらしい。この日、他の旅行客のグループも合同して、カゼノイ・アイ(湖)へ行くと言われた。9時過ぎに彼女の前回より大型の、8人乗りくらいの古い車がマンション下に到着した。乗ってみると後ろの席にすでに3人の女性が座っていた。ミラーナによるとタタルスタン共和国のカザンКазаньから来た旅行者だという。親子のようだった。私が乗った後、ミラーナはもう一軒民宿へ寄って、二人連れの若い女性を乗せた。こちらもカザン市から来たそうだが、親子の3人よりロシア的な風貌だった(だが、タタール人だろう)。
 
  町中にあるアフマトの写真
 
アルグン市の アイマニ・モスク
 
清掃収集車の職員が、カメラに手を振ってくれる 
 
シャリー市の ムハンマド・モスク正面
 
ミラーナ 
 
ムハンマド・モスク内部 

 ミラーナはヒジャプをかぶりロングスカートのイスラーム女性で、男性旅行者をガイドしない。夫婦の旅行者なら乗せる。ミラーナはファーティマさんのいとこの子だと言うから、ファーティマの客である私は、たとえムスリーム(イスラムを信仰する人)でなくても乗せたのだろう。チェチェンへの旅行者はムスリームが多い。国外から見ても国内から見ても、チェチェンはムスリーム以外には観光地とは写らないのかも知れない。

 ヴォルガ川中流にあるタタルスタンは、10世紀のヴォルガ・ブルガール時代からイスラームの国だ。2021年の調査では、過半数54%がタタール人でロシア人は40%。16世紀のカザン・ハン国がロシア・ツァーリ国に併合されてからロシア正教の範囲にはいっって首都カザン市にもロシアで15番目に大きいという『クル・シャリフ・モスク』がある。カザンは今人口130万人の大都市で、イスラーム寺院とロシア正教会が、お互いすぐ近くにある。タタルスタン全体で1193軒のモスク、305軒の正教会がある。
 タタルスタンからチェチェンに来るのもうなずける。最近になってチェチェンでは大規模イスラム寺院が建っている。もしかしたら、カフカス以外ではタタルスタンやバシコルトスタンだけからしか旅行者は来ないのではないか。もちろん、そんなことはない。ロシア各地にムスリムは多い。しかし、わざわざ遠くから観光のためだけにチェチェンを目指してくる旅行者はまだあまり多くはないような感じだ。私の知り合いのロシア人は誰も行ってはいない。私がチェチェンへ行ったと言うと驚かないロシア人はいない(私がロシア人に驚いてもらって楽しむ数少ない機会だ)。
 後部座席にカザンからの2組の旅行者がそろうと、ミラーナは簡単にみんなを紹介した。後部座席からの、私がロシア語を話せるのかという質問に、ミラーナは、「多少はね」と答えた。前々日のダーウィン進化論の議論を思い出した。
 
 私達は、あの白馬のアフマトを通り過ぎ、『アフマトは力だ』アーチも通り過ぎ、預言者イサ名称モスクのあるミヌトカ広場も通り過ぎ、グロズヌィ市の出口にあるアーチ(いつの間にかどこもかしこも『アフマトは力だ』の大きな文字列に統一されていた)も通り過ぎ、自動車道をちょっと走ってアルグン市に着いた。
 ここのアイマニ・カディロヴァ名称モスクを見るためだ。アフマトの未亡人でラムザン・カディロフの母親の名をつけたこのモスクには何度も来ているし、外も廻ったし中にも入った。ハイテク・モスク(ロシアで初めて超近代的な形で建てられたモスク)だという。同行のカザンからの5人は初めてだろうが、私としてはパスしたかった。が、私は主客ではなく附属だからそんなことは言えない。
 11時近くにアイマニ・モスクを出て、アルグン・シティを通り過ぎる。この道で始めて、日本で見かけるような清掃収集車を見かけて、写真に撮った。
 ミラーナはグループの女王様で、私はかつての旅行の時に運転手に頼んだように、止まってほしいところに止まってほしいとは言い出せなかったが、彼女は自分の好きなところに車を止める。例えば、パン屋の前とかだ。運転しながら一人でピロシキなどをパクパク食べている。

 シャリ市に近づいたのは11時半ごろだ。ここに2019年に完成した『予言者ムハマンド名称ムスリムの誇り』モスクというロシアどころか、ヨーロッパ最大のモスクがある。一度に収容できる人数も最大3万人、周辺地域を合わせて最大7万人を収容できると言う最近のチェチェンの見所だ。当初は『ラムザン・カディロフ名称モスク』と現チェチェン首長に忖度としか言いようもない名前にすることになっていたようだが、本人はさすが、遠慮したのか、開所式には『ムハンマド名称モスク』と公表された。
 ここは5年前はまだ完成してなくて、次回にはマーディナと訪れようと約束していたモスクだ。チェチェンも巨大なモスクを次々に建てるという資金がよくあったものだ。アフマト・フォンドからでているという。それはラムザン・カディロフの母親のアイマニが管理している。つまりカディロフ一家か。
 入り口の白いアーチも美しい。アーチからモスクまでが外苑というか、白い石畳(大理石か)の両脇にバラの花壇や灌木の茂みがある。外苑庭園か。ここを先ほどのピロシキを食べながら歩いているミラーナの写真もある。
 内部は白い壁と天井、青い絨毯、ステンドグラスの壮麗なモスクだ。ロシア中の都市に高層建築が建ち並び、広い道路や橋のインフラが整備されている国だから、チェチェンにもこうして次々に観光目玉が建てられても驚かないが、その 予算を福祉や医療や教育にと言う声はあまり上がらないのだろう。福祉は家族が負担するものだとカフカス人はみなしている。孤児や高齢者を施設に送るのは一族の恥だ、としているカフカスだ。

 12時頃にはヴェデノ村へ向かう道を走っていた。相変わらず『アフマトは力だ』の看板だ。そしてこの道にも検問所はある。
  ヴェデノ村、ハラチョイ村、ハラミ峠
 
 ヴェデノ村の野外市場
 
 ハラチョイ村の食堂。女性3人はカザンから
 
 チェチェンのアブレック(カフカスの山地で、
特にロシア帝国の権力と法の外でギャング的な
生活を送った)の1人で、
カラチョイ・タイパ(部族)の代表。
彼はチェチェン人の国民的英雄で
チェチェンのロビンフッドとも呼ばれている
像の左横に鷲の像と滝がある
 
 ハラミ峠の分かれ道左へはダゲスタン
 1時前頃、ヴェデノ村の泥だらけのぞっとするような屋外市場の前で、車が止まった。グローズヌィ市の食料店で買うより、田舎の市場で買った方が安い。ミラーナは泥だらけの道を歩いて、次々と店にはいり、物色している。後ろのカザン市からの客がトイレを探す、と車から降りた。私もトイレのあるという方向へ、やむなく泥道を歩いて付いていった。プレハブのような有料トイレで、ドアの前では料金を受け取るおばあさんがいる。カザン女性に「清潔なトイレかしら」と言ってみた。「知らないわ」。ドアに手を触れるのも気持ち悪かったが、何十ルーブリかの料金を払って入ってみると、ちゃんとした水洗トイレだった。

 ミラーナの買い物も終わったらしく、雨の中、1時過ぎには出発した。6年ほど前に来たときもできていたがアスファルトのヘアピンカーブの道を上っていく。ハラチョイ村の道路沿いの食堂の前で止まる。マーディナと行くようなカフェではなく、こぎれいとは言えないが、多分安価なのだろう。ここで私達は有無を言わさず食事となった。
 私はボルシチだけを注文する。注文カウンターの上にはハーブ、ミネラル水やジャム瓶が並んでいる。プラスチック容器に詰められた巣蜜もあった。横10センチと縦20センチくらいのプラ容器に巣蜜が入って2000ルーブル(3000円弱)だった。巣蜜なら、こんな遠くから日本にまで持ち帰る価値がありそうなので、購入。
 食事時か、食堂は混んでいた。多分ハラチョイ村には唯一の食堂なんだろう。ロシア軍服姿(検問所で働いているのか)の男性もいた。

 6年前、ザクリエフさんと来たときもハラチョイ村を通り過ぎ、チェチェンとダゲスタンの国境(どちらも同じロシア連邦だが)を2回通り過ぎて、カゼノイ・アムに向かったが、後に、ハラチョイ村にはゼリムハン・グシュマズカエフ(1872年1月 - 1913年9月26日)の像があると知ったのだ。      
Родовое село известного чеченского абрека Зелимхана Харачоевского.
 今回ミラーナはその像のある場所へ寄ってくれた。アブレークの像を見ると言うより、ハラチョイ滝を見るためだが。カザン女性達はその滝の横にある鷲の像を撮っていた。

 ヴェデノ村やハラチョイ村は山岳チェチェンにあって、イチケリ地方だ。ヴェデノ村は19世紀カフカス戦争時のシャミール軍の首都でもあった。つまり、カフカス戦争やチェチェン戦争の時にもロシア連邦と戦う勢力の根拠地の一つでもあったので、戦争中は廃墟にされてしまった。今でも、ヴェデノ区の主要道には検問所が多い。ヴェデノ村の奥にハラチョイ村があり、その西隣はダゲスタン共和国で、舗装道はダゲスタン共和国に少し入りすぐ出る。入る前には検問所がある。検問所を過ぎてタゲスタン領に入ると、すぐ『Казеной Ам カゼノイ・アムまで直進9キロ、Ботлихボトリフ左折37キロ』と道標が見えてくる。この分かれ道(*)がハラミ峠でこの道路では最も標高が高い。6世紀から14世紀の中世の頃、ダゲスタンにあった王国、侯国(カフカス南やカスピ海岸)から、アラニア帝国(今のオセチアなど北カフカスにあった)へ抜ける道でもあった(*)。また、遺跡(**)も発掘されている(交通の要所にあったので青銅器時代人も住み着いたのかも)
  (*)1999年8月チェチェン独立強硬派というバサエフとハッターブ達チェチェン・イチケリア軍が、ハラミ峠からダゲスタンのボトリフへ侵攻した。第2チェチェン戦争の始まり
 (**)カヤケント・ハラチョイ文化 Каякентско-Хорочоевская культура青銅器後期(紀元前2千年紀から紀元前1千年紀初頭)という。



  カゼノイ・アム湖
  ハラミ峠は標高が高いので、一面の霧だった。カゼノイ・アイはその南の狭い谷間にある。カフカス山脈で最も深い湖(最深は72m)で表面積1.7平方キロ、そのうち1.5がチェチェン国内に。東の一部はダゲスタン領にある。地震による地滑りで、この辺を流れる小さな川をせき止めてできた海抜1854mの湖で、排出する水路はない。
 
 カゼノイ・アムが見えてくる
 
 マカジョイへの道が谷間の向こうの山の斜面に
 
 今では有料のホイ博物館
 
 ホテル・カゼノイ
 
 ここには政府高官の別荘も多い。
ホテル横にはモスク
 
 カゼノイ・アム、見晴台から
 3時過ぎには湖の全貌が見渡せる見晴らし台に来ていた。向う岸は氷河が垂れ下がっている険しい山だ。湖の北岸だけに道路があるようだ。進むと、チェチェン人の祖先の村々、カゼノイКазеной, ホイХой, アルソンАрсон,サドイ Садой, ブニБуни, マカジョイМакажой などがあり、チェベルロイ区 Чеберлоевский районとして人口が17000人ほどあったそうだが、1944年の強制移住でチェチェン人が中央アジアへ強制移住させられた後は、ダゲスタン領となった。1956年チェチェン自治共和国の復活後も、この地区に戻ることは禁止されていた。(山岳地区は、ガランチョイなども居住が禁止されていた。中央政府の統率が届きにくいのか、歴史的に反政府の温床だったからか)。2012年にはチェベルロイ地区として行政的(形式的に)に復活されたが、廃墟のままの集落も多い。1944年以前には11の農業共同体(農村ソヴィエト)があり160の農場があった。今、ウィキペディアで調べても、廃村の名前が数十も出てくる。チェベルロイ地区は現在の行政地区としてまだ扱われてないようだ(ウィキペディアではそれらの村(廃村)はヴェデノ区やシャロイ区の一部になっている)。ヴェデノ区とされているマカジョイ農村地区とホイ農村地区があり、これがかつてのチェベルロフ地区の残っている比較的人口の多い村だろうか。

 カゼノイ・アムのすぐ近くにあるのがホイ村で、6年前ザクリエフさんと来たときは見事な廃墟だった。1944年という20世紀まで、こんな古代のような石の家に住んでいたのかとザクリエフさんが嘆いたくらいで、緑の雑草の間に廃墟となった壁の一部が見えていた。

 今ここはホイ博物館とでも言うように復元廃墟が建ち並び入り口から入場料を払って入らなければならない。そこには売店もあってどこでも同じで、値段だけがすっこしずつちがう土産物を売られている。ザクリエフさんと来た6年前は、チェチェン民族(の古い部族)の発祥の地の一つ、古いチェチェン語の方言を保持していた部族の一つの故地、しかし、非道なスターリンによって強制移住させられた歴史的な廃墟だと、雑草や廃墟の陰の周りを歩き回ったものだが、今は、全く違う。廃墟のままの壁なんて一つもない。かつての廃墟の壁をつなぎ合わせたのか、昔の記憶をたどっていったのか、一連の石造りの無人の村となっていた。家々には屋根ができ、窓もでき、家と家は石畳の道でつながっている。

 6年前のホイ廃墟村とは全く違う人工の廃墟村だった。寒いだけだったので、歩き回ることもしなかった。カザンから来た年配女性と、一区画歩いただけだ。彼女にこんな風にチェチェンの観光化が進むことについてちょっと不満を述べた。放置して置けば廃墟は崩れてしまうから、このように手を入れたことは正しいのだという返事だった。石造りの建物だからたとえ屋根がなくなっても、数百年は崩れないと思うが。
 寒かったせいか、後部座席のカザン女性も早めに戻り、私達は出発した。マカジョイへの道が谷間の向こうの山の斜面に見えた。これは『アレクサンドル2世』の道とも呼ばれている。19世紀、カフカス戦争で征服し、ロシア帝国領となったカフカスのチェチェンを行幸(に来た)皇帝のためにできたとか。こんなことこそ、ガイドが説明してもいいはずなのに、私が「マカジョイへの道だ」と言っても、何も付け加えない。知らないのかな。 ミラーナはチェベロロイ区に残った村には寄らない。復興廃墟村博物館より、マカジョイ村が見たかった。
 先ほど通りすぎただけのカゼノイ湖湖畔のカゼノイ・ホテル前に戻って、駐車場に止める。ホテルは湖を望む絶景地に建てられている。ここから湖全体の写真が撮れる。しかし、雪がちらつき、湖面には霧が立ちこめていた。若いカザン女性2人組が、ホテルでお茶でも飲むと言って去って行った。私は、一人、やはり所在ないので、ホテルに入ってみた。6年前ザクリエフさんと来たときは、外から見て三角の斬新な建物だと思った。今回、ひとりぽっちになった私も、他に身を寄せるところもなかったので入ってみたのだ。広い食堂があって、数組の客が座っていた。50ルーブルでお茶をいっぱい頼む。一人ぽつんと座っている私に意外と愛想の良いウェイターがティーパックとお湯を入れたコップを持ってきてくれた。せっかくだからトイレも見物。イスラームのトイレだから洗浄用水を入れる水差しもある。
 ミラーナはここで1時間近くも駐車していた。5時前でまだ明るいので帰り道にもまた対岸の見晴台に止まった。先ほどの三角ホテルやその近くのモスク、別荘群などリゾートの全貌が遠くに見渡せた。そろそろ薄暗くなっていたし、霧も出てきた。

 帰りのヘアピンカーブの道は先が見えなくなってきたが、ミラーナはスピードを落とさない。私がシートベルトを締めようともぞもぞする、と言うのもこの古い車は滅多に締めないのかバックルが見当たらない。「タカコがシートベルトを締めようとしているわよ」とミラーナが後部座席のカザン女性達に嘲るように言う。「保険に入っていませんからね」と私が即座に答える。「誰も入ってないわよ」とミラーナ。崖から落ちた死体をカザンまで運ぶのは日本まで運ぶより安いかもよ、とは言い返さなかった。しかし、ミラーナは車を止めて、バックルを座席下から探し出してくれた。私は実は、旅行保険にはかけたことがない。期間が長いことの他、今となっては私の条件では拒否されるかも知れない。
 霧の中、暗くなってのヘアピンカーブのドライブは気持ちの良いものではない、後ろの座席のカザンからの若い二人組も、車酔いしてしまった。しばらく止めて休憩したくらいだ。1時間近く走ってやっとヴェデノ村の家々が見えるところまで来た。そのうち、ミラーナは大音響でチェチェンの歌謡曲を鳴らし始めた。そればかりか、自分も大声で歌い出した。全く私の趣味の曲ではなく、聞きづらかった。ガイドにならなかったら歌手になりたかったのかも知れない。自分が眠らないために声を張り上げて歌ったり大を均したりを掛けたのかも知れないと思って我慢した。
 
 照明されたモハンマド・モスク

 シャリー市に付いたのはすっかり暗くなった夕方7時前だった。夜景にあのモハンマド名称の大モスクは見事だった。ミラーナは、最もカメラ映えのする地点の近くに車を止める。それは昼間見たモスクの反対側近くにある歩道橋の下だった。さすがガイドなので見所を知っている。歩道橋上の高見から全景を見る。禄の広場を含めて『予言者ムハマンド名称ムスリムの誇り』モスクは前景の白い広場に細く建ち並ぶ照明の背後に、真っ黒な夜空に青紫色に浮かんでいる。昼間見たときは真っ白だったのに照明されると、何と色が映えることか。青色のグラデーションの尖塔のミナレットに囲まれた青色の巨大なドームのモスク。イスラームのおとぎの世界だ。千夜一夜物語の挿絵だってこんなに美しいのはない。それほど豊かではないチェチェンの財政は気になったが。
  グローズヌィ・シティ
 
遠景はグローズヌィ・シティ
その前の『チェチェンの心』モスク
近景は『アフマト広場』 
 
ハートの公園 
 
ハートの公園で待ってくれるマリカとアディール 
 
カザンからの二人とマーディナ、私 
10月22日(火)
 この日はミラーナは別のツーリストを案内して、イトゥム・カリへ行ったらしい。だからマーディナとマリカが私のお相手をしてくれた。午前中にズーラも来た。ファーティマが家中のカーテンを洗うのを手伝いに来たとか。ズーラは来るとしばらくして人のいないへやへいって、ひざまずきお祈りをしていた。その時間なのだろう。その後、年配者3人で写真(マリカ、ズーラ、私)。

 午後、マーディナとアディーリの丹念な外出の準備を長く待った後、ベビーカーを引いて通へ出た。出るとすぐ、色とりどりの傘のかかっているエサンバエヴァ歩道(Бульвар Эсамбаева)だ。そのまま進んでいくと、『チェチェンの心』モスク前のアフマト広場だ。『チェチェンの心』モスクの外苑を通り過ぎて、進んでいくと公園に出る。スンジャ川を渡るとグロズヌィ・シティの高層建築群が見えてくる。その近くは花の公園(ハートの公園)とか言う6年前にも歩いたことがある公園だ。その時も今も季節外れなのか葉っぱしかなかった。遊園地もある。チェチェンではどこでも黒ずくめの制服を着た2,3人組(警察か保安員か)を見かける。

 アディールをマリカに残して、マーディナと二人、グローズヌィ・シティの高層建築の一つに上ってみることにした。以前マリカと上ったことがある。ここだけがエレベーターで一般客が上れて、屋上にヘリコプター離着陸地点がある。エレベーターで上った先にも、外に2階分の階段がある。その階段を上れないからとマリカはベビーカーのアディールと下のベンチに座って私達を待つことになったのだ。

 上ってみると相変わらず見張りがいる。この高所からラムザン・カディロフ首長の公宅が見下ろせるので誰にも写真を撮らさせないように見張っているのだ。ラムザン・カディロフが公宅にいるはずもないのに。屋上に、1組のツーリストがいた。女性2人組で、前日のカザン・グループの2人組だ。彼女らはこの日はグローズヌィ見物で、翌日はもう帰るそうだ。この広いチェチェンで2度会うなんて奇遇だなあ。マーディナも入れて4人で写真を撮る。

 下でマリカとアディーリに再会して、またぶらぶらと歩いて、傘のエセンバエム通りに戻り、4人でカフェに入る。ロシア語のメニューから私の食べられそうなものを選ぶのはむずかしい。
  ズーラ宅
 
ズーラの長男宅のダイニングキッチン 
 
 10歳前後の孫達はかぶり物なし 
 
 嫁さんと孫息子も加わって  
 
ズーラ夫妻 
   夕方からは、前々から約束していたズーラ宅を訪れる。ズーラは嫁にカボチャのパイを焼くよう言いつけておいたそうだ。ズーラはいつもはバスだか電車だかで市の中心にあるファーティマ宅に来るが、私とはタクシーで行く。帰りもあるから、マリカも同伴する。ズーラの家は、最近グローズヌィ市(のバイサングーロフ区に)含まれるになったような郊外にある。道も悪くなる。タクシーが止まったところは大きな閉まった門の前だ。カフカス民の住居はみんな高い塀に囲まれた頑丈な門の内にある。敷地内には、ズーラの息子家族が暮らす大きめの家やズーラが盲目の夫と暮らす小さめの家の他に、倉庫や菜園などもあったかも知れない。暗くて見えなかったが。

(*)グローズヌィ市には現在、北東にアフマトフスキー(アフマトから名付けられた)区、南東にバイサングロフスキー区(19世紀の英雄バイサングルから)、南西にビサイトフスキー区、北西にかつてオクチャブリスキー区と言われ、今はシェイク・マンスル区の4つがある。バイサングロフスキー区にかつて農村部だったプリゴロドノエ村(ズーラが住む)とギカロ村が加わった。

 玄関はなく外で靴を脱いで入ると、ダイニング・キッチンだった。キッチンセットも新しく立派で、大きなテーブルと椅子が人数分あって、すでに、カボチャのパイやサラダ、肉料理、フルーツが並んでいた。嫁さんが流し台に立っていた。何人かの子供達の姿も見えた。新築の家のようだった。

 ズーラの多分長男の嫁はダグマラと言って、昼間は働いている。長男は今日は夜勤のようだ。今のところ孫が4人いる。女の子が3人と、末っ子は待望の男児ムハマッドちゃんだ。長女のハーヴァは12歳で、末っ子は4,5歳だった。上の10歳前後の3人の孫娘はおとなしくテーブルに座っていた。よく似ているが少しずつ違っている美人さん達だ。他人の私が同席していてもかぶり物はない。ズーラはいつでもかぶり物をしていて、頭髪は見たことがない。マリカは、食事中邪魔になるのか外していたが、写真を撮るときだけかぶる。嫁はもちろんかぶり物を外さない。若い女性の場合、髪は後ろで束ねているから、かぶり物をしていても、後ろが膨らんで見える。少女達も髪は後ろで束ねている。飛び跳ねているムハマッドちゃんは、もじゃもじゃも髪を延ばしている。切らせてくれないのだそうだ。

 テーブルのカボチャのパイというかクレープは、オイルに浸して食べる。私は次の日、早朝にミラーナの車でグルジアに出かけるので、長居はしなかった。お暇(おいとま)する前に、ズーラと夫さんの住まいも見せてもらう。同じ敷地内の奥まったところで、こちらも新築のようだった。全盲の夫さんがベッドの端に座っていた。横に座って、彼の手を取り「こんにちは」という。イスラームの全盲の人にどう接していいのか私は知らないが、ズーラさんも私の横に座って笑顔で写真に撮られたから、それでよかったのか。マリカとタクシーで帰宅した。かつての郊外の村から市の中心までは12分。
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