クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date March 05, 2025  (校正 2025年3月14日)
  41 - (3)   2024年経済制裁下プーチンのロシア
              モスクワ、チェチェン、ペテルブルク (3)
    
                                  2024年10月12日から11月3日(のうちの10月18日から19日)

Путешествие в России, Москве, Чечене и Пётре 2024 года (12.10.2024−3.11.2024)

       モスクワ
 1 10/12-
10/15 
 計画、費用 北京大興国際空港  モスクワ、シェレメチエヴォ空港  マーディナ宅  モスクワのショッピングセンター   トレチャコフ美術館 
 2 10/16-
10/17
 新興私立学校  拡張した新興モスクワ市のヤーナ宅    電飾のモスクワ夜景  モスクワ大聖堂モスク
     チェチェン
 3 10/18-
10/19 
 グローズヌィ市へ 山岳イトゥム・カリ村   新興ヴェドゥチ・リゾート   イトゥム・カリ博物館再訪   ミラーナとの会話
 4 10/20-
10/22 
 預言者イエスのモスク 英国宮殿   アルグン市とシャリ市のモスク ヴェデノ村   カゼノイ・アム湖 グローズヌィ・シティ  ズーラ宅 
 5 10/23-
10-24 
 グルジアとの国境  トルストイ・ユルタ村  マーディナの悩み  アフマト博物館  ガランチョージ区
      サンクト・ペテルブルク
 6 10/25-
10/28
 
ペトログラード島 パヴロフ宮殿   薬局  ショッピングセンター『ギャラリー』  ネフスキー大通 カーチャ宅 
 7 10/28-
10/31
 
 市内バスツアー サンクト・ペテルブルク大聖堂モスク    旧マチルダ宅 マリインスキ−2劇場   映画『モンテクリスト伯』  息子プラトン
 8 11/01-
11/03
 
 仏教寺院 ゼレノゴルスク市   セストロリツケ市  クロンシュタット市 『ナヴァリヌィ』のシール   モスクワ  上海乗り換え

 モスクワからグローズヌィ市へ
 10月18日。この日も、午前中、マーディナはアディーリがチャイル・シートのテーブルに足をのせて哺乳瓶からミルクを飲んでいる横で、コーランの勉強をしていた。ヒジャップなしのスリップ姿だから写真は公開できないが。

 1時すぎ、アーダム運転の車でシェレメチエヴォ空港に向かった。私のチケットもアーダムやマーディナのチケットも購入してあったが、アーダムはチェチェンへは行かないことになったので返金したそうだ。なぜ、行かないのか、チェチェンの首領ラムザン・カディロフとの関係からだそうだ。詳しい説明はしてくれなかったので、私が勝手に推測したところでは、チェチェンにはカデロフツィ (カディロフ人達とでも訳すか、つまりカディロフ派)という兵団がいる。日本のメディアでもよく言われているから、私は彼らはラムザン・カディロフの私兵だと思っていた。つまりラムザン・カディロフが彼らに給料を払い、機材を持たせていると思っていた。しかし、チェチェン人からなるロシア軍の一隊をカディロフツィと言っているだけだ。他の自治共和国にもその国の隊はいるだろうが、チェチェンの隊だけを、カディロフツィと呼ぶのは、(カディロフだけに忠誠をつくす元)私兵からなっていたからなのだろうか。日本の日本のメディアではカディロフツィの評判は悪い。特に人権侵害とかがはげしいとされる。
 ちなみにロシア軍の囚人部隊もメディアでは有名だ。それは希望者が入る隊だが、メディアの知らないところでは過酷で強制的かも知れない。そしてチェチェンでは親カディロフでないような、あるいは浮浪者を犯罪者に仕立てて強制的に軍隊に入れ兵士の数の多さでラムザン・カディロフはプーチンにおもねっている、と言うことまで言われている。だからアーダムはモスクワにとどまるのか。マーディナは、彼女の家がカディロフとの関係がよくないからとか言っていたが、それはどんなことなのか、それ以上はわからない。

 私のチケットは、私の到着前に彼らの都合の良い日にちで購入してもらっている。料金の7734ルーブルは受け取ってもらえない。
 シェレメチエヴォ空港の規模も大きい、ターミナルは、A,B,C,Dとある。北京からの到着便はCだが、国内便でグローズヌィまで行くのはBターミナルからだ。帰りの11月2日には、一人でサンクト・ペテルブルクからシェレメチエヴォに戻って上海行きの飛行機に乗るときに、迷子にならないだろうか。マーディナはその頃自分たちもモスクワに戻っているだろうから迎えに行ってあげると言うが、この広い場所でどうやって会えるだろう。空港で(ロシアの番号の電話を持たない)外国人にはWi-Fiは使えない。マーディナはSIMカードを貸してあげるから電話すればいいという。いや、そこまでしなくても、ロシア語がわかる自分だから時間さえたっぷりあれば、無事乗り換えができるだろうと答える。 (帰りのモスクワは後述)
 
ゲームを話さないアディール 
 
 ママにくっついている
 
 私の寝室
 
 食堂
 
 奥の部屋の一つ
 
 奥の部屋の一つ


 モスクワからグローズヌィの機内3時間は真ん中の席だった。初めマーディナはアーダムと3人の横3席を取ったのだろう。グローズヌィの空港に着いたときはもう暗くなっていた。SNSで連絡があったようにマリカ(マーディマの母のファティマのいとこ)も迎えに来てくれていた。私達はファーティマ運転のBMWで彼らのマンションに向かう。夕食はボルシチだった。5年前、火が通っているから安心といつも食べていたものだ。

 チェチェンでの観光はどうなるのだろう。(前記のように)クリミアへ行きたいと、言ってある。ここはカフカスだから、クリミア大橋(ケルチ海峡大橋)を渡って車で行けるのではないだろうか。彼らの親戚の軍関係の人に当たってみると約束してくれたが、難しそうだ。クリミアの観光地、保養地に私は興味がない。ウクライナ軍に何度か爆破されたと、日本で報道されているケルチ海峡にかかる橋を渡ってみたいのだ。そして、いったいクリミア半島とはどんなところで、人々(先住のクリミア・タタール人以外は今は、ほぼロシア人という)はどう住んでいるのだろうと、この目で見たいのだ。半島に1日でも身を置きたい。(後述、サンクト・ペテルブルクへ行っても、そう言ってみた)。
 ファーティマは、私をクリミアまで運ぶ車は見つからないが、自分の親戚のミラーナというガイドが明日イトゥム・カリへ案内するために10時に来る、と言ってくれる。5年前の前回はトゥルパルと言う親戚の男性がチェチェンを案内してくれた。旅行会社の車でイトゥム・カリへも行った。その時はトゥルパルも、親戚の男性として、私やマーディナに付き合ってくれた。(知らない男性の運転手と女性は身内の男性の同伴なしで乗ってはいけないらしい)。今回トゥルパルは、後日、1度だけ市内を案内してくれた(後述)。

 マーディナはアディーリがいるので自由がきかない。後でマーディナが言っていたことだが、アディーリを安心して任される人はグローズヌィ市にいない。マリカもズーラも当てにはできない。妹が来ることになっていて彼女に任せようと思っていたのだが、妹の子供がインフルエンザで、アディーリにうつすかもしれないから、ナリチック市の夫の実家から出られない。と言うわけで、ファーティマは自分のいとこの娘で、プロとしてガイド業を始めたというミラーナに頼んだらしい。費用は親戚だから無料か有料かは知らないが、有料ならファーティマが負担した。ルーブルをそれなりに持参した私は、自分が払うと言っても、「マーディナの客には払わせられない。マーディナは娘だし、あなたは我が家に滞在しているのだから、私の客でもある」と断られる。ミラーナは大伯母(?)のお客様という待遇で私のガイドをしてくれたのか、大伯母を通じた旅行者という待遇だったかは知らない。私は男性の運転手と二人だけで乗っても平気だから、自分で料金を出してガイドと運転手を雇えば良かったのだ。チェチェンは観光国をめざしているとは言え、(この)ガイドは全く良くなかった。(後述)。

  ファーティマのマンションは市の最も中心部にあるが、一つ裏通りにあって静かだ。8階建ての最上階の2軒分を合体したので、8部屋もある。家具は、ドゥバイやイタリアで購入してコンテナで運んだという。2軒分を合体してリフォームしたとき、キッチンは一つにしたそうだ。バストイレは2軒分ある。私にあてがわれたのはダイニングキッチンを残した方の部分で、ファーティマやマーディナの寝室は別の側にある。
 前回の5年前と同じ部屋で、キングサイズのベッドが真ん中にあり、大きなドレッサーが足下に、横に洋服タンスがある。タンスの一部は開けてあったので私の衣類を入れた。ドレッサーの引き出しは開けないで、テーブルの上に私物を並べた。5年前と同じだ。いくつもある部屋を見せてもらった。どの部屋も重厚な、つまり重そうな、彫刻付きの家具が置いてある。戸棚には高価な食器セットが一揃いおさめてある。ダイニングにも食器一揃えを並べるためだけの棚がある。奥の部屋にもある。人形や置き時計が並んだ棚もある。ファーティマさんは、これらは娘達のためにそろえたもので、今のところ彼女たちの家に置き場所がないから、ここに置いておくのだとか。高価な食器セットのおさめられたガラスの棚は、ロシアの富裕層の象徴だった。今もそうらしい。奥のそれぞれの部屋は、部屋ごとデザインが統一されている。広いバストイレもある。(私にあてがわれた部屋のとなりにもある。私専用となった)。
 山岳イトゥム・カリ村へ
 
朝食 
 
 イトゥム・カリ方面の途中では
治安部隊から検問を受ける
 
 見晴台から眺めるアルグン峡谷
 
 アレクサンドル2世の行幸のためにつくられた橋
現代の国道の横にあった。
 イトゥム・カリ村の入り口
 
イトゥム・カリ村を通り過ぎて南東へ向かう 
 10月19日(土)
 9時半ごろダイニングのテーブルに私の分だけの朝食が並べられた。手をつけなかった皿もあって、翌日からは少なめになった。

 昨日言われたように、ミラーナという40過ぎのごっつい女性運転の車(多分BMWだった)に乗って出発した。後で彼女が言うには、この車を買うために3年稼いそうだ。イトゥイム・カリ方面へは複数回行ったことがある。出発して、今、まず東に行ってから南だろうと思っていた。初対面のミラーナと会話を見つけようと、「私達は東の方へ進んでるの」と声を掛けても、「イトゥム・カリの方よ」と素っ気ない返事。それはわかってる。方向など気にしないで黙って乗っていろという感じだった。町中には塀で囲った建物が多い。中を見せたくない機関・施設なのか。「なぜここはずっと塀なの」と聞いてみても「工事中だから」と返されただけ。

 イトゥム・カリへの、このアルグン川沿いの道は、2度のチェチェン戦争の時も、それどころか、19世紀のカフカス戦争の時も戦場となり、多くの逸話が残っている。アルグン川が山側から平野に降りる直前は『アルグンの門』と言って、ガイドのミラーナが知っているかどうか知らないが、山岳チェチェン人が平地からの遊牧民を撃退する場所として、チェチェンの歴史上は有名だ。チェチェンの地理と歴史は、最初の2016年の日帰りの訪問以来、私は本とインターネットでつぶさに調べたものだ。だから、チェチェン中のいくつかの(戦場になった)村の歴史さえも、かなり知っている。
 今はどこに検問所があるかも知っている。検問所の写真を撮ってはいけないことは知っているが、隠し撮りならできる。しかし横の運転手ににらまれていてはできない。アルグン川沿いにあるこの道は、始めてきたときより整備されている。村々の入り口にあるアーチにはカディロフ親子の写真や『アフマトは力だ』という5年前には見かけなかった(男性賛美の)スローガンが掲げられている。
 道路から、アルグン川の峡谷が見える。高い山は雲に隠れ、低い山並みは紅葉していた。5年前と違って道路の途中に見晴台ができている。そこに停車して峡谷を眺めた。また、カフカス戦争後、ロシア帝国領となったチェチェンにアレクサンドル2世が行幸した(*)。その時できた(あるいは皇帝が通った)という橋というのも、ミラーナが車を止めて見せてくれた。
 (*)1817年から1864年のカフカス(コーカサス)戦争以前は、南カフカスのグルジアなどはロシア帝国領(1783年からロシア保護国に。1801年には併合された)になっていた。1828年にはアルメニアも併合、アゼルバイジャンも支配下に置いた。が、チェチェン人、ダゲスタン人やチェルケス人の住む北の山岳地方は帝国に対して平穏ではなかった。しかし、1864年、アレクサンドル2世時代に最終的に北カフカスがロシア帝国に併合された。アレクサンドル2世が新領土を行幸したという跡地がチェチェン山岳地方にはいくつかある。

 イトゥム・カリ村の入り口アーチにもマフマト・カディロフの写真があり、写真の多さ、検問所の多さは5年前と変わらない。イトゥム・カリ村は通り過ぎて、南へ向かうグルジアとの国境へ道へは向かわず、Ведучиヴェドゥチの方へ向かう。5年前来た時は、このリゾート地のアトラクションはまだ工事中で重機やダンプカーが走っていた
 新興ヴェドゥチ・リゾート
 
 リゾート・センターの食堂
 
 下の方にベドゥチ村が見える
 
 ロープウェイに乗っていたのは私達だけ
 
 帰りは向かい風、一瞬のうちに出た霧。
  今、新観光保養地スキー総合施設リゾート・ヴェドゥチ(自然環境保護保養地と言う)は、この建物(サービスセンター)とロープウェイだけが完成しているが、まだ整備中だ。駐車場に止めて車から降りると、風が吹き付けてめちゃくちゃな寒さだ。標高1360mとあった。スキー用具などのレンタル基地、食道やトイレやキッズルームもある新しい建物(前記・サービスセンター)に入る。観光地ヴェドゥチはまだ建設中らしい。だから食堂には、工事関係者が座っていた。私達の食事中、一組だけ観光客が入ってきた。食事がセルフで、ミラーナは食堂のコックさんと顔見知りらしい。

 マカロニのスープのようなものと餃子(ペリメニ)のようなものを食べて、外へ出る。このサービスセンターではロープウェイのチケットも売っている。ミラーナはガイドなので無料か。私の分は、ファーティマの支払ったガイド代に含まれているらしい。
 ロープウェイの始点も寒い。私達二人が近づくとチェチェン人の職員が現われた。通年リゾート施設だが、できたばかりだし、夏場でも冬場でもないので客が少ないようだ。膝掛け用の毛布をもらって乗ったのは私達だけだった。カフカス山南麓の景色は抜群だ。下方、少し離れたところには、リゾート地の名を取ったヴェドゥチ村(人口600人)が見える。
 隣に座ったミラーナは、チェチェン民謡のような歌をうたいながら自分をビデオで撮っている。15分も乗っていたかも知れない。谷間を渡り2108m(案内地図ではそうなっていた)の高さまで行く。そこが今のところロープウェイの終点らしい。ロープウェイから降りても、今は何もない。すぐの帰りのロープウェイに乗る。ミラーナが言っていたように、帰りは風が正面から来るので寒い。来るときは見晴らせた山にも、もう霧がかかっていた。

 リゾート地として発展しようと、特に冬場のスキー地を目指しているようだが、宿泊設備がなくてはならない。サービスセンターから近いところに『エーデルワイス』というホテルが建っていた。完成はしていないようだったが。
 出資者は ルスラン・バイサーロフРуслан Сулимович Байсаровという。チェチェン出身のロシアで有名な出資者だ。
 イトゥム・カリ博物館再訪
 
イトウム・カリ村にはちゅうせいのようなたて 
 
イサエフ関係の展示物 
 
地元のガイドとロシア人ツーリストの男女と 
 ヴェドゥチ・リゾートはヴェドゥチ村からも、イトゥム・カリ村(人口千人余)からも少し離れた高所にある。
 イトゥム・カリ村には博物館があるので、その前に車を止めたのは3時半ぐらいだった。ミラーナは近くのガイドの別の車とスマホで連絡し合って同時に到着したようだ。博物館の門を入って一人待っていると、その別のガイドの車からロシア人の男女が降り、同時に博物館のガイドだという地元の男性も現われた。
 この辺りへは、レールモントフも訪れてスケッチも残した。中世の塔も修復されながら残っている。博物館はファコッホ塔と言う中世の遺物に附属している。
 5年前にも、マーディナと来たことがある博物館だ。フセイン・イサエフ名称博物館Исаев Хусейн Абубакаровичと名付けられている。イサエフというのは2004年アフマト・カディロフを狙った爆破(アフマトを含め7人死亡、50人以上負傷)で巻き添えを食って死亡したチェチェン国会の議長だった人だ。博物館のホールの一つがイサエフ記念館になっている。古いチェチェンの民族調度なども別のホールにわずかに展示してあった。

 一緒に博物館と塔を廻ったロシア人の若い男性と年上らしい女性は感じが良くて、ガイドに案内されているうちに仲良くなった。するとやはり、年齢をたずねられた。こんなところまで日本から一人で来るとは、よほど珍しいらしい。そして、返事はいつも「日本人は長寿だからね」だ。長寿日本人にもかかわらず、塔の石の階段は厳しくて私はやっとの事で上り下りしていた。若い方の男性が私の手を取ってくれたほどだ。ロシア人の男性は優しい。この博物館については2019年訪問記に詳しい。
 イトゥム・カリ村を去る前に、グルジアのシャティル Шатили へ通じる道のせめて写真を撮った(*)。ミラーナが峠に車を止めてくれ、ここからよく見える、あれがその道だと教えてくれたのだ。イトゥーム・カリからベドゥチ・スキー場のように西へ向かわず、南へ伸びている。この先にはロシア軍の国境警備詰め所がある。だからイトゥム・カリ区の民族比ではチェチェン人が64%しかいないのだ。基地のあるチェチェンの村はロシア人の割合や、非チェチェン人の割合が多い。 そうでないところはほぼ100%チェチェン人だ。
 (*) アルグン峡谷に沿った道は実はグルジアまで行ける。チェチェン独立派軍は『イチケリア派』と呼ばれてテロリスト扱いだが、今でも健在のようでだ。チェチェン・イチケリア共和国時代に(3方がロシア連邦に封鎖されていたので)南のグルジアのシャティリ に抜ける自動車道が整備され、独立派によって物資や人の輸送に使われていたが、今は連邦軍によって厳重に警備され、通行は不可だ。つまりここの道を通ってグルジアには行けない。

 


 
この道を行くとグルジアのシャティルに出れる 
 
アルグン川の向う岸にある双子の塔 
 チェチェンの山道を車で走るのは気持ちがいい。ウシュカロイの双子の塔の前では写真を撮るために止まってくれた。5年前には、ここではアルグン川に橋をかけて向こう岸の岩間にカフェの建設がなされていた。今見ると、完成して『双子の塔ウシュカロイ』という観光センターができていた。宿泊、レストランカフェ、見晴台などある複合センターと言われる。

 車に揺られての窓からの眺めはうっとりする。カフカス山脈は褶曲山脈のようで、アルグン川に削られてできた絶壁はミルフィーユのような層がぐにゃりと曲がっているのがよく見られる。だが隣の席の運転のミラーナはひとえに自分のスマホでしゃべりっぱなしだ。チェチェン語で話しているから、もちろん私にはさっぱりわからない。仕事の予約でも取り決めているのかと、好意的に解釈してあげる。私とは退屈なので友達とおしゃべりしていたのかも知れない。
  ミラーナとの会話
 グローズヌィ市に入った頃、私の方から質問してみた。それはウクライナ戦争のことだ。ウクライナ政府は分離独立派のイチケリア派(プーチンの子分カディロフツィに反対)を支持しているとネットには出ている(チェチェン・イチケリア共和国を承認しているとか)。チェチェン分離独立派(による亡命政権)にとっても、ウクライナのゼレンスキーにとっても、敵の敵は味方なのか。つまり、イチケリ軍がウクライナでロシア軍と戦っている。プーチンの従者(子分)カディロフのカディロフツィ(カディロフ派)はロシア軍でウクライナと戦っている。
 今では大概のチェチェン人は、多分ミラーナも含めてイチケリア派を支持しない。5年前にチェチェン人に「主権国家になりたいか」という質問をすると、「なりたいが」と言う答えだった。ロシアの手先になったアフマト・カディロフも密かに独立を狙っていたのだとアフマト崇拝者は言っている。「独立は今は不可、でも将来はめざす」と言う答えが返ってきたものだ。今では、主権国家とか独立というのは戦争と廃墟を意味するようだ。ミラーナは、独立を放棄したのはやむを得ない。国土は廃墟となって、これ以上は生きていけなかったから、という。思えば、何かのために命までを失うとは虚しいことだ。命を失ってでも得なければならないものがあるだろうか。あるかも知れないが、しかし

 チェチェン人の由来について聞くとそれはメソポタミアのシュメール人だという。カフカスの少数民族は皆自分たちの祖先はシュメール人だ、自分たちの祖語はシュメール語だという。ミラーナもチェチェン語でシュメールのくさび形文字の70%は読めるのだと主張する。謎の民シュメールについては定説がないから、様々な仮説があって、その一つがカフカス民族の祖先説だ。シュメール人はカフカスから移動したのか、カフカスへ移動したのか。「カフカス民族とシュメール人の関係」説は日本の天皇スメラミコトはシュメールがもじったものだという説より、カフカスの歴史学者には支持されている。本も多いらしい。
 ミラーナは、シュメール人とチェチェン人の共通説は遺伝子学からも証明されているという。私の遺伝子の一部にもかすかにネアンダルタール人やデニソヴォ人の遺伝子が見つかるかも知れないから、チェチェン人の遺伝子にシュメール人やアッカド人やフリル人やウラルトゥ人、ペルシア人達の遺伝子があっても不思議はない。世界で最も古い文明人が自分たちの祖先だと言うことが何か自慢にでもなるのだろうか。現在は弱小民族だが、昔は偉大だったと証明しようと(一部の)歴史学者は試みているらしい。地元歴史学者にはその主張が多い。
 日本の縄文(時代)文化はメソポタミアより古いとは反駁しなかった(文字がなかったから、縄文時代は文明とはいえないか。美術品並みの縄文土器や、大きな集落に長期滞在して栗の木など栽培しても新石器農耕文化とは言えないか)。そればかりか、縄文文化なんて全く知らないミラーナにロシア語で説明するのは難しいと思ったからだ。その代わり、私達全生物の祖先はバクテリアだった、私達生物は皆40億年前のバクテリア、つまり、最後の共通祖先から進化したのだ、と生物学の初歩の方がロシア語で言いやすかったので、運転席の横に座って、バイサングロフ地区の電飾(*)を眺めながらそう言ったのだ。「あなたはダーヴィン主義者なのね。ではどうして、猿がすべて人間にならずに猿のままなのか」と反論されて驚いてしまった。21世紀でもこんな質問をする人がいるのか。
 (*)2020年にオクチャブリ地区という名称がバイサングロフ地区と改名、だからチェチェン人が考える18世紀の英雄バイサングロフの新たな像も電飾されている)
 
玄関、家具類を元に戻してくれるファティマさん 
 
テーブルの上に荷物が積み上げられてあった。 

 イスラームはユダヤ教から出ているので旧約聖書の天地創造を信じている。ミラーナも全能の神がすべてを創ったと固く信じている一人だ。突然変異というロシア語はとっさには思いつかなかったが、なぜ旅行者の私がガイドのムスリムに生物学の授業をしなければならないのか。それで私はこれ以上ロシア語は知らないと言って打ち切った。彼女は自説を上から目線で主張するので、一緒に車に乗っていて不快だった。私は無知で彼女こそが説明する側だと思われていたらしい。ロシア旅行で様々な運転手やガイドと会話を交わしたが、彼女ほど傲慢な相手は今までなかった。
 彼女はガイドだが、あまり説明をしない。山の斜面が北向きの場合は木が生え、南向きの場合は岩だらけになるという地質学の知識を何度も繰り返していた。北側斜面の方が雨量が多くなるためだが、それは何年も前のトゥヴァ旅行の時、もっとわかりやすい斜面を見てきたし、中学生でも知っていることだが、一応は感心したように聞いてあげた。「あなたは、さすが地質学の知識もあるのね」とお世辞も言った(私は、普通は運転手やガイドにはお世辞を惜しまない)。後のことになるがその地学の知識を「あなたは何度言ってもわからないのね」と繰り返されてすっかりうんざりしたものだ。

 暗くなってから帰宅した。この贅沢なマンションの写真を撮らせてもらう。軽い家具は裏返しになっているという。アディールが開けるからだ。だから撮影のためファーティマさんが元に戻してくれた。小さな子供がいると、その子に合わせて室内配置をするところはどこも同じだ。
 奥の豪華な部屋では、大きなテーブルの上に敷物やダンボール箱、紙袋などが積まれている。これらは、ナリチク市でインターネット販売をしているマーディナの妹に送るものなのか。
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