と滞在後記
校正2025年4月1日 |
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41 - (6) 2024年経済制裁下プーチンのロシア モスクワ、チェチェン、ペテルブルク (6) 2024年10月12日から11月3日(のうちの10月25日から28日) |
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Путешествие в России, Москве, Чечене и Пётре 2024 года (12.10.2024−3.11.2024)
モスクワ | ||||||||
1 | 10/12- 10/15 |
計画、費用 | 北京大興国際空港 | モスクワ、シェレメチエヴォ空港 | マーディナ宅 | モスクワのショッピングセンター | トレチャコフ美術館 | |
2 | 0/16- 10/17 |
新興私立学校 | 拡張した新興モスクワ市のヤーナ宅 | 電飾のモスクワ夜景 | モスクワ大聖堂モスク | |||
チェチェン | ||||||||
3 | 10/18- 10/19 |
グローズヌィ | 山岳イトゥム・カリ村 | 新興ヴェドゥチ・リゾート | イトゥム・カリ博物館再訪 | ミラーナとの会話 | ||
4 | 10/20- 10/22 |
預言者イエスのモスク | 英国宮殿 | アルグン市とシャリ市のモスク | ヴェデノ村 | カゼノイ・アム湖 | グローズヌィ・シティ | ズーラ宅 |
5 | 10/23- 10-24 |
グルジアとの国境 | トルストイ・ユルタ村 | マーディナの悩み | アフマト博物館 | ガランチョージ区 | ||
サンクト・ペテルブルク | ||||||||
6 | 10/25- 10/28 |
ペトログラード島 | パヴロフ宮殿 | 薬局 | ショッピングセンター『ギャラリー』 | ネフスキー大通 | カーチャ宅 | |
7 | 10/28- 10/31 |
市内バスツアー | サンクト・ペテルブルク大聖堂モスク | 旧マチルダ宅 | マリインスキ−2劇場 | 映画『モンテクリスト伯』 | 息子プラトン | |
8 | 11/01- 11/03 |
仏教寺院 | ゼレノゴルスク市 | セストロリツケ市 | クロンシュタット市 | 『ナヴァリヌィ』のシール | モスクワ | 上海乗り換え |
サンクト・ペテルブルクのペテログラード島 |
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10月25日(金)
空港ではセルゲイ・ガルブノフさんと、ジェーニャが待っていてくれた。私達はロシア風に抱擁する。ジェーニャの車でセルゲイ宅に向かう。(夫セルゲイ・ガルブノフは男性名詞、妻アンジェリカ・ガルブノヴァは女性名詞、ガルブノヴィは複数となる)
前記のように、セルゲイとアンジェリカ・ガルブノヴィ夫妻夫はロシア北のコミ共和国スィクティフカル市に住んでいるが、娘のカーチャがサンクト・ペテルブルクの大学に行くようになってから、ペテルブルク中心のペトログラード区に不動産を買った(*)。古い物件で当初はシャワーボックスとビオトイレをやっと供えたような仮住まいだったが、最近大規模にリフォームして、居住範囲だけは新築のようになっている。しかし、マンション共通の入り口や、廊下、階段は古いままだ。だから2階までも階段は欠けた部分もあるし、手すりも触りたくない状態だ。そして、住居部分の鉄の丈夫なドアを開けると、そこからは別世界だというロシアでよくある家づくりだ。このマンションはペテルブルクの郊外にあるような新興住宅地ではなく、ほとんど都市発祥の地といえる由緒あるネヴァ川河口の島ペテログラードの、しかし鄙びた通りにある。サブリンスカヤ通り13-15と言うのが住所だ。最寄り地下鉄駅はゴーリキー駅で、近くにでアレクサンドロフ公園や情報技術・機械工学・光学大学Information Technologies, Mechanics and Optics Universityと言う由緒ある高等教育機関などがある。 (*) サンクト・ペテルブルクには2005年7月25日改正で、18の行政区(районラヨン)がある。ペトログラード発祥の地とも言ってよいペトロパブロフスク城塞のあるペトロフスク地区はネヴァ川の河口デルタにあって、マーラヤネヴァ川、マーラヤネヴカ川、フィンランド湾に囲まれてる中州(ペテログラード島)だ。つまり中心にあるのでサンクト・ペテルブルクのたいがいの観光地へはほぼ徒歩で行けるくらいだ。 アンジェリカさんはごちそうを作って待っていてくれた。限られた居住面積内にリフォームしたので、広めの部屋は一室のみで、ダイキング・キッチンがリヴィングに続いているし、そこそこ浴室は広いがトレはとても狭い。ありがたいことにトイレにはイスラーム式のようにホース付き蛇口がある。温水シャワレット付き便座ではないから、手動で命中させるには経験が必要だ。冷たい水だし、ボタンの押し具合で出過ぎたり、飛んだりする。マーディナ宅のように広い浴室にトイレ付きではないが、その浴室もトイレの向いにある。 奥の部屋の大きなベッドをお使いくださいと言われたが、夫妻にとって、大きな部屋を私が使うことになったら不便だろう。居間のソファを使わせてもらうことにする。トイレも近いからと言って。またキッチンにも近くて勝手に早朝にパンを食べたりお茶を飲んだりできる。 到着して、ジェーニャとガルブノヴィさんたちに日本からのお土産を渡して荷を軽くする。1ヶ月前息子が生まれたジェーニャには鯉のぼり(季節外れだがアマゾンから購入できる)を、アンジェリカさんには資生堂の化粧品などをわたす。ジェーニャは、私が絶対興味があるからとサンクト・ペテルブルク周辺に住むフィン系の民族を解説した本『レニングラード州の先住民族』をくれた。彼はまた、アンジェリカさんに、サンクト・ペテルブルクでは民族博物館に私を案内したらいいと助言する。 フィンランド湾奥のサンクト・ペテルブルク周辺は18世紀初めの北方戦争までは、ロシア帝国領ではなかった。フィン系民族が住むフィンランドも合わせてスウェーデン領だった。10世紀以前のノヴゴロド時代から、この地方はフィン人が主に住む土地だった(スラブ人も住んでいた)。北方戦争でスウェーデンに勝利したピョートル1世のサンクト・ペテルブルク建設後も先住のフィン人は住んでいて、フィンランド湾奥はインゲルマンディアと言った。7年前に訪れたときはそのことにとても興味があり、フィン系の建物もあるというゼレノゴルスク市まで行って、プロテスタントの教会にも入ったものだ(スウェーデン、フィンランドはルター派)。帰国後、ネットでインゲルマンディアについては詳細にできる限り調べた。5年前コミ共和国のスィクティフカル市のガリーナ・ヴィテレヴァさん宅に逗留したとき、第2次大戦中インゲルマンディアからフィンランドに(強制的に)移住し、今はエストニア国籍の女性から、当時の飢えと寒さに苦しんだ体験も聞いたくらいだ。ジェーニャが贈呈してくれた写真が半分以上の一般読者向け本に書いてある程度のことはすでに知っている。サンクト・ペテルブルクの民族博物館はソ連時代に見たことがある。多民族国家ロシアには興味はあるが、今の私はウクライナ戦争をしているロシアに関心があって、そこを自分の目で見ようとやってきたのだ。 食卓を囲んで、今まで私のいたチェチェンの話をする。なぜ、チェチェンはそんなにも繁栄しているように見えるのか、つまり、なぜモスクも含めて公共設備(スポーツセンター、道路、レジャー施設などで、福祉関係は知らない)は整っているのか。ジェーニャによれは、チェチェンではカディロフの独裁だ。他のカフカスの共和国にはトップが何人かいる。トップ同士でモスクワからの補助金を取り合う。一人あたり少ないから(自分たち一家の取り分のあまりを)公共施設に回せる金額も少ないという意味か。だから、カフカスの他の共和国は繁栄しているようには見えない、そうだ。 ジェーニャはペテルブルク市ではなく妻とプーシキン市に住んでいる。ペテルブルク市のマンションには母親がすんでいる。妻の1ヶ月前の出産後、夫は妻の介護が必要だそうだ、妻側の家族も、夫側の家族も手伝ってくれないそうだ。だから私とはあまり会えない。都合をつけてアンジェリカの家に家族で訪問する日と、私をペテルブルクに案内できる日を見つけようと言って去って行った。 |
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パヴロフスク宮殿 | ||||||||||||||||||||||
以前スィクティフカル市へ行ったときはセルゲイが車で案内してくれた。しかし、ペテルブルクでは車がない。セルゲイは飛行機で来たし、ジェーニャは忙しい。 ガルブノヴィさん達の一人娘の美人のカーチャが11時頃、私達とパヴロフスク公園と宮殿見物に行くために来てくれた。パヴロフスク見物はカーチャの推薦だ。カーチャはアルチョームという青年と結婚したとはアンジェリカとの文通で知っている。そして、ペテルブルクの別の地区にアルチョームと共同で不動産を買い、アンジェリカ主導で大リフォームして暮らしているという。しかし、夫のアルチョームはセルビアに去った。2022年秋の部分動員の時、国外に逃れたそうだ。このとき国外に去った高学歴(といわれている)の若者は多い。(だから、その後はロシア政府は不評の徴兵は止めて傭兵にした)。カーチャは、アルチョームが高度技術者であり、そんな専門家は絶対に徴兵はされないと言っても、セルビアに去ったそうだ。初めはカーチャも経済援助をしていたが、アルチョームは帰国の意思はないそうで、今は二人はどんな関係かは知らない。カーチャは別の男性ジェーニャ(ジェーニャという名の男性は多い)と付き合っていると言う。 カーチャと4人で、まずマンション近くの地下鉄の駅ゴリコフスカヤから、テフノロギー・インステトゥート地下鉄駅で乗り換えてプースカヤスカヤ地下鉄駅まで行く。そこから足場の悪い道を歩いて ヴィテプス鉄道駅へ行く。 ペテルブルクには鉄道駅は5駅ある。北へ向かうフィンランド駅、バルト諸国へ行くバルト駅、モスクワへ向かうモスクワ駅、ラドガ方方面へのラドガ駅ララルーシに向かうヴィテプス駅だ。 ヴィテプス駅からベラルーシのミンスクまでは14時間ぐらいかかる。私達はそこまでは行かない。途中のパヴロフスク駅までは32キロで50分だ。サンクト・ペテルブルクの5つの駅の中ではヴィテプス駅が最も古い。ニコライ2世の時代1904年建立と言う記念碑があり、帝政時代風のどっしりとした暗くて冷たい建物だ。中央ホールには大理石の階段があり踊り場にはニコライ1世(彼の時代1837年にツァールスコエ・セロまでの鉄道が開通したという)の胸像とその上に大きな時計が見える。 チケットを買って、まだ発車までに時間があったので、アンジェリカさんから駅構内を見ようと誘われた。家から地下鉄を乗り継いで、そこからまた足場の悪い道を歩いてきてこんな陰気な駅について発車まで待つというので、私はもう疲れ始めてはいたが、アンジェリカさんと見て回った。構内には売店や食堂もある。 この日は晩秋のサンクト・ペテルブルクらしくどんよりした日だった。ヴィテフスカヤ駅から発車した電車の窓から通り過ぎる町々を見ても陰気だった。パブロフスク駅につくと向いが公園だった。観光客も多い。駅から公園の入り口までの道は悪い。公園内はひとえに小径と樹木で、時々リスがいた。こんな公園を歩くときはその時の体調と気分がものを言う。実はグローズヌィの後サンクトペテルブルク滞在中は体調が良くなかった。この日も、良くなくて、この広い公園を歩くのは楽ではなかった。足を前に出したつもりでも進まなかった。景観を楽しむ余裕はあまりなかった。若いカーチャやセルゲイ、アンジェリカさんに遅れずに広い公園を歩くだけで精一杯だた。 1778年ツァールスコエ・セロ(今プーシキン市と言ってサンクト・ペテルブルク連邦市の24キロ南,その数キロ南が現在のパヴロフスフスク市)に別荘があったエカチェリーナ2世が息子のバーヴェルと彼の妻マリア・フョードロブナに与えた地所だという。公園の奥に、マリア・フョードロブナ皇后好みの宮殿(基礎は1782年)がある。ガッチナ宮殿(サンクト・ペテルブルクより、線が異なるが42キロ南)を好んだパーヴェル1世の死後(その死に謎がある)、皇后はパヴロフスク宮殿にもっぱら住んだ。 私達はもちろん公園だけでなく宮殿も見る。ロシアはどこでも警備は厳しい。サンクト・ペテルブルクから32キロも離れたここパブロフス市近くには外国人観光客は見かけなかったが。 (*)サンクト・ペテルブルクには宮殿は、かつての帝都だけあってとても多い。郊外は皇族貴族の別宅が多い。第2次大戦で破壊された宮殿も多いが、長い間かけてたいていは復興されている。 前記のようにパブロフスク市はサンクト・ペテルブルクの中心から南に32キロだ。ヴィテプス駅からの電車で来ると、途中にあるプーシキン市(ツァスコエ・セロという有名な名の駅がある)の数キロ南にある。サンクト・ペテルブルク連邦市にはの2005年以来、19の地区があるが、その一つプーシキン地区にはパヴロフスク市、プーシキン市の他にシュシャリー村など3村が含まれている。 宮殿見学希望者はチケット購入後、一室に集められる。ここで希望者が2、30人たまるまで待たされる。それだけの人数が集まると、次の部屋へ案内される。そこで、ガイドが現われる。やっとガイドの女性について宮殿を回り始めたのは4時近くだった。私は集団のなるべく先頭に立ち、ガイドの説明を必死で聞いていた。が、ほぼ理解できなかった。後でカーチャが言うにはそのガイドの口調は曖昧で聞き取りにくく不明瞭だったそうだ。ガイドは私達のグループを部屋から部屋へゆっくりとしずしずと廻ってふにゃふにゃと説明していく。当時の皇太子一家(パーヴェル1世は4年間しか帝位についていなかった)の用途に沿った部屋や美術品を並べた部屋などがある。独ソ戦中ほぼ破壊されたが、長い間かけて復興したようだ。ソ連時代(1980年代)始めてレニングラードに来たときは、パヴロフスク宮殿も、プーシキン市のエカチェリーナ宮殿も、ガッチナの宮殿も復興途中だった。 宮殿は立派だったが、それは18、19世紀らしい趣味の美術品だろうが、たくさん見ていくうちに飽きてきた。ガイドのロシア語のふにゃふにゃ説明が理解できたとしても、メリハリのない説明で見る美術品には飽きてきた。ガイドの不明瞭なロシア語を聞きながら、同じ場所にとどまらなければならないというのもつらい。確かに再建されたパヴロフスク宮殿(博物館というべきか)は展示品や家具ばかりか天井も床も窓も壁もすべてが、ヨーロッパ有数のお金持ち皇室ロマノフ家らしく豪華だ。新古典派というのだろうか。ここに未亡人となった皇后マリア・フォードルヴナが、長く住んだそうだ。 アンジェリカさんは歴史上の彼女を崇拝している。ロマノフ家に詳しいアンジェリカさんから、マリア・フョードルヴナという皇后が二人いたと知った。パーエル1世の妻でドイツのヴェルテンベルク公の娘と、アレクサンドル3世の妻でデンマーク王の娘だそうだ。アンジェリカさんはかつてのロシア民のようにロマノフ朝関係者を崇拝している。 1時間もガイドについて集団で廻っていた私はすっかり疲れ、宮殿も博物館もどうでも良くなって、一人玄関へ向かった。カーチャはもっと早くにガイドに見切りをつけて両親を置いて去ったらしい。玄関ホールでガルブノヴィさん達とガイドの説明に文句を言い合い、私達は退出した。 ヴィテプスカヤ駅についたのはもう7時過ぎで、地下鉄を乗り継いで帰宅する元気のなかった私はタクシーを頼んだ。 |
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薬局 |
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10月27日 この日も気分が良くなかった。ここ2,3日の、私にしては強行進のせいで、身体の調子も壊したようだ。尿道炎になったようだった。医師のマーディナにメールでどんな薬がいいか聞く。『モヌラル Монурал』がいいという返事。それは抗生物質だから処方箋なしでは買えないかも知れない、とアンジェリカが言ったが、薬局へ行って、3グラム経口投与用顆粒が2包が1056ルーブル(約1700円)で一箱買ってきてくれた。このロシア語のままネットの検索窓に入れてみると日本語で『ホスホマイシン』と出てきた。製薬会社は明治製菓ファルマで、商品名『ホスホミン』と言う。薬価は1錠500mgで64.1円だ。日本では処方箋なしでは買えない保険薬だ。もし日本でホスホマイシン6g(モヌラルは2包で6g)を買うと64.1円x12=769.2円だ。処方箋を持った患者はその3割とか1割だけを払えばいい。モヌラルの服用法もホスホミンの服用法も、1日3グラムとほぼ同じだ。モヌラルは3グラムの顆粒を溶かして1日1回だが、ホスホミンの方は、ネットによると2gから3gを1日3回から4回に分けて服用となっている。
マーディナはもしモヌラルか買えないようだったらと他に2品指名してくれた、Нимесил ニメスリド(肝毒性が強くて日本を含む多くの国で使用禁止、ロシアでは可能か)と、ツィストル Цисторと言う名前だった。これらは一箱何錠も入っていて値段も安い。(購入しなかったから実は知らない、ネットを見ただけだ)。ロシアの国産の薬は高くはないが輸入薬(特許が外国か)はとても高そうだ。 日本で尿道炎になったときは病院へ行って抗生物質の処方箋をもらって、1週間服用して治したものだ。モヌラルを服用してたった2日で菌を叩ききれるかと思ったが、治った。抗生物質は処方箋なしでは購入できないものだが、ロシアでは、アンジェリカさんによると新型コロナ感染以来、購入しやすくなったとか、その反対だったか。薬局が判断するのか。 飲むと眠くなって、この日は1日中休んでいた。居間のテレビ前の長椅子が私のベッドだったから、ガルブノヴィさん達は、近くのアレクサンドロフスク公園でも散歩して時間を過ごしたらしい。 ロシアでは医療サービスは無料だが、順番待ちだ。高度な技術や薬は私立のクリニックで有料、つまり全額支払わなくてはならないらしい。(高度な技術と言っても、それは日本では保健でできる普通の治療も含む)。医療サービスが(有料でも)高度(?)な病院は、大都市にしかない。都市と農村の医療水準も差が大きい。田舎で大病になれば、近くの州庁所在の大病院へいく。お金があればモスクワの病院にかかる。医療は不平等だ。日本以外は、どこもそんなものだ(日本に生まれて良かったことかも)。 今回薬局体験でわかったことは、多い。1990年代まで生理用ナプキンというものはなかった。脱脂綿にガーゼを巻いて当てていたようだ。(その頃クラスノヤルスク45市の学校教師になった私に学校側から脱脂綿一束とガーゼ一巻きが供給されて驚いたものだ)。1990年代のテレビのコマーシャルは輸入した生理用ナプキンのオン・パレードでいやになったものだ。今はもちろんロシアの薬局で生理用ナプキンは売っている。ロシアには(私が今回見た限りでは)薬はスーパーのような大型ドラッグ・ストアでなく、ガラス仕切りの向こう側に薬剤師(店員)がいて、薬は彼らの背後の棚にある。だからどんなものがあってどんなものがないかは、薬剤師のおばさんに聞かないとわからない。 後のことになるが、私は一人で(アンジェリカさんに購入を頼まずに)薬局に行った。小さな薬局が町の至る所にあるのだ。さすがロシア、24時間開業局も多いだろう。 「ロペラミンはあるでしょうか」と恐る恐る聞いてみた。 「もちろん、あるわよ」とすぐ出してくれた。これは日本の薬局よりずっと安かったが30錠も入っているには驚く。それも日本では1錠1グラムなのにここでは2グラムだ。ロペラミンなんてロシアでは家庭薬で普通に飲んでいるのだろうか。 (日本帰国後、ロシアの薬局でロペラミンを買って服用したと医師に言うと、ロシアでもあるかと驚かれた)。 ついで、私は日本からもってきた『ウィスパー45cc』を見せて、こんなのが欲しいというと、生理用パット5袋入りを奥から持ってきた。最大容量吸収パットにしてほしいと頼む。その方がウィスパーの代わりになるかも知れない。2パック10枚を購入した。ロペラミンと比べて、これがやたら高額だった。個装を開けて広げてみると、普通のナプキンの縦横広がる4倍くらいはある。カーチャなら使っているだろうから見せてもらえば良かった。 |
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ショッピングセンター『ギャラリー』 | ||||||||||||||||||||||
2包6gのモヌラルが効いたのか尿道炎は治まったようだ。朝起きると、いつものようにセルゲイが朝食の準備をしていた。アェジェリカさんが惚れて10歳近く年上のイケメン・セルゲイと結婚したそうだが、彼がどんな定職に就いていたかは知らない。今、稼いでいるのは妻のアンジェリカだ。断片的に聞いたところでは、彼の母親がテレビ局のトップだったので、息子の彼は演劇とか映像の仕事をしていたとか。この10年間、彼は自分を紹介するときは『旅行者』と言っていた。世界中を旅行してビデオに撮って自分のナレーターでネットに流す。自費出版の旅行記も出した。どう考えても、彼は費やす方で稼ぐ方ではない。それは深くは尋ねない。アンジェリカさんの私立幼稚園経営を手伝っていると言う。最近は浮気もしないでアンジェリカさんの頼みは何でも聞いているようだ。5年前は彼も太ってお腹がぷっくり出ていたが、その後ダイエットと運動に励んだのか、今は腹部は飛び出てはいない。毎朝起きると1時間ほど歩いてくるのだそうだ。アンジェリカさんが起きるのは9時過ぎだ。 11時過ぎ、アンジェリカさんと町の中心部へ出かける。タクシーを呼んでもらった。どこの都市でもタクシーの運転手はたいてい中央アジアからの出稼ぎ男性が多く、無愛想だ。ネフスキー大通りのカザンスキー寺院前で車を降りる。10分ほど歩いてリゴフスキィ Лиговский大通りにあるショッセンターセンターに入る。『ショピング&エンターテイメント・センター”ギャラリー” торгово-развлекатальный центр галерея』と言って、6年前にもジェーニャと入ったことがある。入り口近くにユニクロ店(2010年営業開始)があったが、今はもちろんない。 6年前、階上カフェのベランダ席から外を見ると、古い建物の屋根が見渡せた。荒廃した建物や、工場跡かと思われるような建物もあったように覚えている。『罪と罰』の映画はここで撮ればいいと思ったくらいだ。当時、ジェーニャはこの地区は刷新しようとしていると教えてくれた。古びた屋根の並ぶ建物は取り壊す計画だと教えてくれた。(帰国後このネフスキー通りからモスクワ門広場まで続いていて、長さは6kmの有名なリゴフスキィ大通りには、歴史的な建物が多かったが、それらは新ホテルやオフィスを建てるため多くが取り壊された、と知った。) 前記のように、この『ギャラリー』へ6年前のジェーニャも、今回のアンジェリカも案内してくれたのだが、ここがサンクト・ペテルブルクのショッピングの目玉なのか。日本の都市にあるショッピング・モール群ほどではない。サンクト・ペテルブルクの普通の住民が買い物にわざわざここへ来ることはまれなのかも知れない。中心街にあるから駐車場がない、あっても有料だろう。 アンジェリカさんも私に見せるためにここへ連れてきてくれたので、日常品や食料品なら自宅近くの小さな店やスーパーやバザールで買う。ロシアでは今でもバザールがある。ロシアでバザールというのはちょっとした広場に露天より少しましな、プレハブのような店舗が建っていて、『ギャラリー』より安い値段で、外にはみ出すぐらいぎっしり商品が並べてあって、店員も(オーナーだろう)とても愛想がいい。 アンジェリカさんと私は日本へのお土産に、ロシア産暖かいもの、つまりマフラーや手袋、帽子などを探していたが、ラベルを見るまでもなくそれらは中国産だ。日本にも売っているが、サンクト・ペテルブルクからのお土産と言うことがいいかもしれない。全部で10000ルーブルほども購入。ここまでで、私の手持ちルーブルは、これ以上遣う必要がなくなった。帰りの飛行機のチケット3枚はすでに購入済みだから、あとは空港で水を買う程度のルーブルと、ニキータに借りた2万円分のルーブル(使わずに返却するつもりだ)があればいいので、この日の夕方アンジェリカさんに食費とタクシー代や入場料などとして手持ちルーブリのほぼ全額を受け取ってもらった。(ロシアではタクシーやチケット購入は必ず、そのほかの買い物も、カードで行うから)。アンジェリカさんから多すぎると言われて、サンクト・ペテルブルク出発間際に、彼女からのお土産としてセーターと絵皿が贈られた。 『ギャラリー』の階上にはカフェが並んでいる。その一つで食事する。レシートをiPhoneにとっておいたので、復元すると、アッサンティー1杯460,チキン一皿490,ジャガイモ付きチキンレバー1皿710,野菜とモッチェレチーズのサラダ1皿650、合計2310ルーブリとなっている。それにチップ(1割も)が必ず。 2時には外に出て地下鉄に乗った。長いエレベーターには電光掲示板の広告が、上り客が見えるような面と、反対には下り客が見えるように真ん中に設置してある。兵士募集の広告がないかと、iPhoneを構えて注意していたが、ここサンクト・ペテルブルク中心の地下鉄付近にはなかった。前年行ったクラスノヤルスクには各バス停には貼ってあったものだが。 |
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ネフスキー大通り | ||||||||||||||||||||||
ぶらぶら歩いてエルミタージュ前の広場に行く。アマチュア・ミュージシャンが大音響で自分の曲を流していた。迷惑な雑音だなあ。エカチェリーナ2世だかの宮廷女性の衣装を着た二人がおしゃべりをしている。私と目が合うと愛想良く「500ルーブルでどうか」と話しかける。モスクワでスターリンが2000ルーブルで懲りていた私は通り過ぎようとする。すぐ「200ルーブルでは」と値下げする。無視。 アンジェリカさんと広場横のミリオンナヤ通りのほうへ行く。左手の建物はエルミタージュの続きで、新エルミタージュのようだ。そこは有名な柱廊玄関で、10人の巨大なアトランティス人がバルコニーを支えている。そうだそうだ、かつてレニングラードに行くたびにここに来て、巨人の血管の浮き出ている足を触ったものだ。 アンジェリカさんが、冬宮(エルミタージュ)近くのこの通にはお金持ちの人たちの邸宅が並んでいたのでミリオン通りと言う名がついたと教えてくれた。今は誰が住んでいるのか知らないが、日の丸の旗が見えた。アンジェリカさんが日本領事館だと教えてくれた。そういえば、この前をかつて通ったことがあった。当時同行のペテルブルク女性から寄ってみたらと言われたことはあったが、用もないのに入るのは気まりが悪いからと通り過ぎたものだ。今見ると数人の順番ができている。玄関ドアには張り紙がある。読んでみようと近づいた。それは領事館の開館時間とビザ受付や支給時間を書いたものだった。この日のこの時間はビザ支給時だった。玄関のガラス・ドアの向こうにはロシア人男性が立っていて、中から一人出て行く毎に外の順番から一人入れている。その男性が私を見て「日本人ですか。どうぞ」という。言われるままに私は順番ぬかしで中に入った。パスポートも見せてほしいと言われて、見せた。何のご用ですかと聞かれて困ってしまった。ここは日本語で「特に用事はありません。中を見たいと思っただけです」と答える。この私の日本語を理解したのは、椅子に座ってビザ支給を待っているロシア人だけだったようだったので、受付のロシア人男性にロシア語で繰り返す。狭い待合室だった。日本人形や『にぽにか』と言う雑誌など置いてあり、横の壁には手続きの要旨を書いた紙が貼ってある。窓口の向こうには受付の女性がマイクに向かっている。そうだ、かつて(2005年)私がモスクワ大使館に行った時も、こんな窓口で「出国が拒否されましたが、どうすれば」とマイクに向かって話したたものだ。 手持ち無沙汰だったので写真を撮ってもいいですかと聞いて、パチパチ撮っていた。一人の若い女性がわざわざ立って私に向かってきた。挨拶をして日本語で自分は1ヶ月の予定で日本留学に筑波に行くのだというようなことを言った。日本へは2度目だという。アンジェリカさんを外に置いて入ってきたので、待たせては悪い。5分くらいで領事館を出たと思う。留学の女の子はもっと私と話したそうだったが。 マルスコエ・ポーレ(軍神の広場)と言う名所をちらっと見てトロイツキィ橋(ソ連時代レニングラードに来たときから、何度も渡った橋だなあ)を渡り、アレクサンドロフ公園に入る。アンジェリカさん達のお気に入りの散歩道だし、サンクト・ペテルブルクの観光名所の一つだ。ロシアの偉人の彫像(以前はなかった)の前で写真。本当は、この公園には見るものがたくさんある。私の今までの旅行はできる限り何でも見てやろうという旅行者らしいものだった。しかし、今回は帰国までの日を数えていた。水たまりだらけで、水たまりを除けても泥道にはまりそうな公園の散歩は楽しめなかった。「家まで何分ほどかかるの」と聞いたところアンジェリカさんの答えは「20分」。園内をかなりあるいたところで、また聞いてみると、同じ答え。私はすっかり歩き疲れていたのに。
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カーチャ宅 | ||||||||||||||||||||||
タクシーは暗い裏通りに入って止まった。建物はかなり古いようだ。共有玄関から入ると、また欠けた階段と曲がった手すりがあって、上っていってマンションのドアを開けたところで別世界になる。美しくリフォームしてあって、狭いが便利で住みよい住居となる。リヴィング・ダイニング・キッチンと寝室だけの、アンジェリカさん主導でこの限られた面積で最上になるようにリフォームしたそうだ。アンジェリカさんと私は今日『ギャラリー』で買ったカーチャへのお土産を渡す。ハロウィン・イヴェントはロシアまで普及していて、割高のカボチャやほうきなどのグッズが店の目立つところに並んでいたのだ。 カーチャは濃いめの化粧をしていた。(なぜか薄化粧の上手な女性は今回見かけなかった)。やがて、彼女の現在のパートナーのジェーニャ(前記のように、ジェーニャという名はロシアに多い)がケーキの箱をもって来る。ジェーニャは勝手知ったる我が家と言う風に、カーチャを手伝って食卓を整える。実はカーチャはこの時始めて両親にジェーニャを紹介するそうだ。同時に外国人の私も同席というのではジェーニャも緊張したのかどうかは知らない。そんな様子は見えなかったが、厚化粧のカーチャはいやにはしゃいでいた。些細なことで大声を出して笑い、イヤリングを神経質そうにいつも触っていた。彼女がコケティッシュなのは両親にではなくジェーニャャにであろう。食卓ではアンジェリカが年長女性らしく会話を受け持っていた。ジェーニャはかいがいしくブドウ酒の瓶を持ってきてみんなに勧める。私はジュースを、しかも「氷入りで」などと言って主婦を困らせる。氷なんて冷凍庫に数ヶ月前つくってしなびたものしかない。 ジェーニャの腕いっぱいには怪物のようなものを描いた入れ墨があった。もっとよく見せてと頼んだら袖をまくってくれた。背中にも続いているのかどうか聞かなかった。入れ墨をおしゃれで入れる若者もいるが私は(だけではない)いい感情を持たない。入れ墨を入れた尊敬できる人を知らない。しかし、そんなことはもちろん口に出さない。袖を下ろしながらジェーニャは「気に入った?」と私に聞く。曖昧に返事をする。 せっかく若者がいるのだからと私はウクライナ戦争について尋ねた。サンクト・ペテルブルクは契約兵士の支払われる一時金も月給も、モスクワと違い半額以下だ。それでも高額で、他の地方の州よりも高い。ジェーニャは2年前の徴兵では免れたのか、もしかしてまた徴兵令が出たらどうするのか、と話題が進んだところで向いに座っているカーチャが私をにらんでいることに気づいた。遅ればせながら、彼女の夫アルチョームが2年前の部分徴兵の頃、セルビアへ去って帰国しないと言うことに思い及んだ。この話題は不愉快なのだ。私はどぎまぎして下を向いてサラダの皿をつついだ。 帰国後のことになるが、モスクワから金沢に来た34歳の青年(アッパー・ミドル層)に2年前にはどうしたのか聞いてみた。ただ徴兵礼状が自分のところにこなかっただけだ、今度来たら応ずる、と言う。ブリヤート共和国の村から来た年配女性に聞くと、彼女の村から2年前徴兵された若者の何人かは帰らなかったという(戦場から帰らなかった兵士に捧げた哀愁を込めた歌は多い)。2年前国外へ去り、また帰った人もいれば、再度の徴兵令を恐れ帰らない若者もいるだろう。亡命地がロシア(での妻との生活)より気に入って帰らない若者もいる。ドイツやポーランドに行った若者も多いだろうが、彼らを個人的には知らない。日本で西側からの報道を聞いているだけの私にはわからない。ロシアにわざわざ来ても、容易にはわからない。 1時間半ほどで彼ら二人を解放してあげる。マンションのドアを開けて共通の廊下へ出ると、向いの住人のドアが壊されて、テープで貼ってあった。どうしたのか。カーチャは、ここには一人住まいの老人(?)が住んでいて音信がなくなったから警察がこじ開けたという。つまり孤独死か、ロシアにもあったのか。 帰りもタクシーにしてもらった。 |
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