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up date | March 05, 2025 | 校正2025年4月3日 |
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41 - (7) 2024年経済制裁下プーチンのロシア モスクワ、チェチェン、ペテルブルク (7) 2024年10月12日から11月3日(のうちの10月29日から31日) |
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Путешествие в России, Москве, Чечене и Пётре 2024 года (12.10.2024−3.11.2024)
モスクワ | ||||||||
1 | 10/12- 10/15 |
計画、費用 | 北京大興国際空港 | モスクワ、シェレメチエヴォ空港 | マーディナ宅 | モスクワのショッピングセンター | トレチャコフ美術館 | |
2 | 10/16- 10/17 |
新興私立学校 | 拡張した新興モスクワ市のヤーナ宅 | 電飾のモスクワ夜景 | モスクワ大聖堂モスク | |||
チェチェン | ||||||||
3 | 10/18- 10/19 |
グローズヌィ | 山岳イトゥム・カリ村 | 新興ヴェドゥチ・リゾート | イトゥム・カリ博物館再訪 | ミラーナとの会話 | ||
4 | 10/20- 10/22 |
預言者イエスのモスク | 英国宮殿 | アルグン市とシャリ市のモスク | ヴェデノ村 | カゼノイ・アム湖 | グローズヌィ・シティ | ズーラ宅 |
5 | 10/23- 10-24 |
グルジアとの国境 | トルストイ・ユルタ村 | マーディナの悩み | アフマト博物館 | ガランチョージ区 | ||
サンクト・ペテルブルク | ||||||||
6 | 10/25- 10/28 |
ペトログラード島 | パヴロフ宮殿 | 薬局 | ショッピングセンター『ギャラリー』 | ネフスキー大通 | カーチャ宅 | |
7 | 10/29- 10/31 |
市内バスツアー | サンクト・ペテルブルク大聖堂モスク | 旧マチルダ宅 | マリインスキ−2劇場 | 映画『モンテクリスト伯』 | 息子プラトン | |
8 | 11/01- 11/03 |
仏教寺院 | ゼレノゴルスク市 | セストロリツケ市 | クロンシュタット市 | 『ナヴァリヌィ』のシール | モスクワ | 上海乗り換え |
市内バスツアー |
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前日アンジェリカさんとネフスキー大通りに行ったとき、その道端でテーブルと写真を出し、サンクト・ペテルブルク観光の案内をしていた。つまりお上りさん用の『はとバス』のチケットを売っていたのだ。かつてモスクワで『はとバス』に乗ったことがある。座っているだけで町の要点を案内してくれ、説明もしてくれた。日本でも観光地で乗ったことがある。乗ってるだけでいいから楽ちんだ、と思ってサンクト・ペテルブルクでも利用することにした。途中歩かされる『はとバス』はごめんだ。観光スポットだけ短時間で効率的に廻ってくれるのがいい、と市内中心コースというのを買ったのだ。アンジェリカさんはパスして今日の私のお相手はセルゲイさんとなった。 まず、いつものようにタクシーを呼んで家の前の道路で待つ。入口は裏通りにあるが両隣は商店だ。左は花屋で、右は食料店の裏口だ。道には陰鬱な大きな水たまりがあって、向家の家の剥がれ落ちた壁をうつしている。道路の向いはごみ置き場らしい。ごみ用コンテナに入りきらない段ボールやポリ袋や不燃物が散乱している。ごみ箱前の車の通らない道路にある小さめの水たまりでは鳩の群れが水浴び(まさか、餌あたりだろう)している。からすの害はないのかな。 滞在中何度も家にタクシーを呼んだが、いつも私達はごみと鳩の群れを見ながら待っていた。タクシーはいつも通知があってからすぐ来てくれたのがありがたい。 セルゲイさんと私はネフスキー大通りまで行き、『はとバス』出発地で待っていた。車内は概ね満員で、ガイドは思いっきり厚化粧の太った女性だった。化粧するなら、なぜもっと上手にしないのだろう。バスは中国製らしい。中国漢字を日本風にすると『宅通客車(多分そうなる)』と書いてあった。 バスはオーロラ号の前に止まる。ソ連時代はレニングラード観光の目玉で、だから多分私も昔入っただろう。今回有料の船内には入らなかった。今はどんなものが展示されているのだろう。セルゲイさんと周囲の通を散歩した。ナヒーモフ Нахимов海軍学校のある横通りだ。『ロシアの栄光並木道』といって、ナヒーモフ提督(クリミア戦争中の黒海艦隊司令長官)の彫像もあった。並木道は良かったが寒かった。(サンクト・ペテルブルクでは私はいつも中途半端な服装をしていたのか、外では疲れているか寒かった)。 次は車窓から、サンクト・ペテルブルクの中心観光地を見て、ペテロパブロブスク要塞近くの駐車場で下ろされた。ペテルブルク発祥の地に建てられた要塞で、その内部の大聖堂など、こちらも観光目玉だ。何十年も前、最初に日本人観光グループでロシア旅行以来、何度も見ているだろう。今回は、寒かった。厚化粧のガイドの話はよく聞き取れないし、よくわからなかった。だからはとバスグループの端っぱしで震えていただけだ。はとバス乗客が建物内部に入るわけでもない。家から、わざわざタクシーでネフスキーまで行き、そこからはとバスに乗って来なくても、この要塞のある公園はガルブノヴィさん宅の隣にあるではないか。 やっと引き上げてくれて暖かいバスに戻った。発車すると、車窓からサンクト・ペテルブルクのランドマークになる記念物がよく見える。私にはこれだけでいい。旧海軍省の尖塔もアレクサントロフスク庭園(ガルブノヴィさん宅近くのアッレクサンドロフスキーは『公園』だ)の青銅の騎士も、聖イサーク大聖堂もみんな車窓から見た。『乗客さんに見せましたよ』というものだ。そして、バスは案の定大きなお土産店の前で止まった。ガイドは店内で紅茶は無料で飲めますと言ったが、砂糖はなかった。良かったのは清潔なトイレがあったことだ。せっかくなのでキーホルダーなどを買った。 |
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サンクト・ペテルブルク大聖堂モスク | ||||||||||||||||
サンクト・ペテルブルクにはこの大聖堂モスクの他に、Kolomyazhskayaコロミャジスカヤ・モスクという2009年にできたモスクがペテルブルク北のプリモルスキー区(沿海区)にある。そのほかにモスクのようなドームやミナレットはないが、祈りの場は数カ所あると、ネットには出ている。 セルゲイさんと自宅へ戻る途中に見えたのはコロミャジスカヤ・モスクだ。大聖堂のミナレットは遠くからも見える。だから、行ってみることにした。セルゲイさんは敬虔なロシア正教徒だが快く承諾してくれた。大聖堂モスクは1913年建立で、当時はヨーロッパで最も大きな立派なモスクだったそうだ。5千人が同時に祈れ、2つのミナレットの高さは49メートル、ドームの高さは39メートルだ。 大聖堂モスクはクロンヴェルスキィ大通りКронверкский проспектと言うところにある。近づくと道路に立て看板があった。これこそ兵士募集の看板だった。一時金が2,100,000ルーブルで月給は210,000ルーブル、任地は特別軍事作戦場(ロシア政府は当初からウクライナ戦争を特別軍事作戦Специальная Военная Операцияと呼んでいたから、略してCBO)。金額の下にはスローガンが書かれている。”У города -героя - CВОи герой英雄都市には自分たちの英雄がいる”。(*) (*)独ソ戦の時レニングラードはドイツ軍と長期にわたり戦ったが、降伏しなかったので英雄都市という称号が与えられた。その称号は1941年から1945年の大祖国戦争中に英雄的な防衛で有名になった(つまり一般人の戦死者も多かったと言うこと)ソビエト連邦の12の都市に与えられたものだ。都市として最高の栄誉という(政府の後ろめたさを隠しているように私には思える)。 CBOと言う略字と、自分たちのСВОИと言う単語をかけている。各都市は異なる金額で異なるスローガンだが、スローガンには必ず「英雄Герой」という言葉が入るようだ。 ターコイス・ブルーの大聖堂モスクが近い。近づくと、また募集看板が見えてきた。写真に撮る。大聖堂モスクの入り口は実に美しい。しかし柵がしてあった。セルゲイさんは普通の日は閉まっていて入れないのでないか、と言うが、横へ廻ってみた。ここにも柵があったが歩行者が通れる柵は開いていた。通過すると呼び止められた。横に番人小屋があるのだ。男性が出てきて私にかぶり物で髪を隠すように言う。無人のように見えたので現行ではないかと思ってしまったが、そうではない。チェチェンのモスクともモスクワのモスクとも比べて信者も観光客も見えず、あまりにひとけがなさすぎると思った。人々からうち捨てられているのかと思ったくらいだ。きらびやかな装飾の正面玄関は何かのイヴェントの時だけ開くのだろうか。多数派ロシア人がロシア正教の地のここ、サンクト・ペテルブルクではイスラームはひっそりと暮らし、祈るのか。チェチェンとは違うのだ。 セルゲイさんは入り口で待っている。私はチェチェンのモスクに入っていったように、靴を脱いだ。1階は男性用なので2階へ上が前に、1階ホールをのぞいてみた。柱も絨毯もシャンデリアも壁もイスラーム的で美しい。私は素足で歩く分厚い絨毯が好きだ。カトリックやプロテスタントの教会は椅子があるが、正教の教会は椅子もなく床は冷たい石だ。セルゲイさんを待たすのも悪いので早めに出た。 帰りはタクシーと頼む。タクシーが来るまでモスクの前で、待っていた。そろそろ夕方の礼拝があるのか、頭にかぶり物をした女性も入っていった。しかし服装はチェチェンのようなロングスカートではない。車で乗り付ける信者(?)もいた。番人は急いで車用の門を開けに出て来た。通常の日の5回の祈りでも、ムスリムの人が集まるのだろう。アンジェリカさんによると、大きな行事(ラマダンとか)の時には、入りきらなかったムスリムがその周囲一帯に、要塞の近くまでも、敷物を敷いて、全員で祈るそうだ。一帯は祈りの人で満員になる。何万人というムスリムが祈るのだろう。だから近くの道路に兵士募集の張り紙がいくつもあるのだ。契約兵士に応募するのは中央アジア出身者が多い。そこはイスラムの国々だ。タジキスタン、ウズベキスタン、タジクなどの中央アジアの国は失業者が多い。旧ソ連邦構成国だったからロシア語がわかる。言葉のわかるロシアに出稼ぎに来る。募集して、何年か兵役に就けば、国籍も与えられるとか。平均賃金の10倍近い給料ももらえる。だから、サンクト・ペテルブルクの中心街には募集看板はないが、中心街でもムスリムの集まるここにはいくつもある。 |
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旧マチルダ宅(ロシア政治史博物館) |
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この日、夕方第2マリインスキー劇場にバレーを見に行くことになっている。だから遠くへは外出しない。近くに、連邦文化遺産『クシェンスカヤ邸宅 Особняк Кшесинской М.Ф. 1904-1906』と言うのがあるとアンジェリカさんが探し出してくれた。マチルダ・クシェシンスカヤはポーランド系ロシア人で、1872年生まれ、サンクト・ペテルブルクでプリマ・バレリーナになり、1971年パリで死んだ。皇太子だった後のニコライ2世の愛人だったバレリーナで、『マチルダ、禁断の恋』というビデオもアマゾンで見られる。皇太子と関係があったのは1892年から2年間だけだ。1894年のニコライ2世としての即位と皇后との結婚によって終ったが、マチルダはロマノフ家の大公とのつながりを通して多くの資産を蓄えた。ロシア革命後、マチルダはフランスへ逃げ、同じく亡命していたアレクセイ2世の孫アンドレイ大公(ニコライ2世のいとこ)と結婚した) ウィキペディアによると、このクシェシンスカヤ宅は1904年から1906年にかけてマチルダのために建てられが、1917年2月革命でマチルダは邸宅を出た。空になった建物は革命軍や新聞社などが入居した。レーニンはここで働き、邸宅のバルコニーから演説をした(あっ、あの写真は、ここで演説していたときのものか)。つまり『レーニン主義の本拠地』となったのだ。マチルダの去った邸宅には1957年頃まで(前記のようにレーニンを初め)ボリシェヴィッキの機関が置かれていたが、その後1991年までは革命博物館だった。1991年以後、ロシア政治史博物館となっている。 と言うことは知らずに、かなり前に見たアマゾンの『マチルダ、禁断の恋』の主人公マチルダが恋人と別れて別の恋人と過ごしていたという邸宅(私宅)だから、彼女のバレー衣装などの遺品や写真が展示してあるのかと思っていた。 入って見ると内部は近代的な博物館だった。20世紀初めの建築様式に、現代的にリフォームしたり、建て増ししたのか。マチルダの遺品や写真のあるホールも確かにあったが、別のホールにはマフノも含めて革命家の写真と説明文が照明を落としたへやに展示してあった。説明文をすべて読めば、ソ連時代初期の政治史について現代のロシアの歴史学者の視線で認識が深まったかも知れない。写真しか眺めなかった。入場者はインテリ風若者が多かった。 ここからは市電に乗って帰った。地下鉄のように上ったり降りたり(エレベーターだが)、乗り換えのために階段付き通路を長々と歩いたりしなくて良い。 |
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マリインスキ−2劇場 | ||||||||||||||||
前記のように、ソ連時代レニングラードを訪問して、年末(多分)コネで入っていたキーロフ劇場は廊下も階段も狭かったことを覚えている。19世紀の貴族風の建物はこんなものだと思っていた。マリインスキー劇場の起源は、1783年に女帝エカチェリーナ2世の勅令により、オペラとバレエの専用劇場としてサンクト・ペテルブルクに開設された『帝室劇場』だとネットで知った。1859年、ネオ・ビザンチン様式の現在の劇場の建物が竣工して、皇帝アレクサンドル2世の皇后マリア・アレクサンドロヴナに敬意を表して、マリアの劇場『マリインスキー劇場』と皇室ゆかりの名前になり、グリンカのオペラ『皇帝の生涯』で開幕したそうだ。革命後皇后の名は消えて『バレー・オペラ国立アカデミー劇』と言う名前になった。だが、1935年暗殺されたキーロフにちなんで、ソ連中どこも地名も施設も『何々キーロフ』とか、『キーロフ何々』とかになったが、ここも『キーロフ劇場』と改名された。1992年もとの名称、伝統あるマリインスキー劇場と戻ったそうだ。 まず、『マリインスキー2』と言うのも知らなかった。これは古い貴族的なマリインスキー劇場本館の隣のクリューコフ運河を挟んで、2013年にオープンした新館(別館)だ。上空から両館を撮った写真を見ても。第2館の方が大きい。ロイヤルボックスも入れて2,000席あるそうだ。 新館のメイン・ホワイユ(幕間などにぶらぶら歩ける広い廊下)は『クリスタルの泡の形で作られたスワロフスキーのシャンデリアで飾られ、目に見えない糸に張られ、内側からのLED照明で光っている。壁はオニキスでできており、内側から照らされているため、パノラマの窓とデカブリストフ通りを見下ろす多数の狭い窓の開口部のおかげで、夕方の建物の外観が著しく変化する。大理石の床と多数の階段が内部空間を美しく完成させている、全長約35mのガラス階段は、ロシアの公共建築物で構造用ガラスを使用した最初の例の1つであり、リミットステート方式を使用して設計されてる』とネットにある。 しかし、この別館(第2館、新館)というのがペテルブルク人にはたいそうな不評で、コンクリート箱とか、地下鉄駅とか、ショッピング・センターとか言われ、巨大な納屋が歴史的な街の中心部に置かれ、それを劇場と呼んでいる、とできたばかりの劇場の取り壊しを求める請願書が集められたとか。確かに、帝政時代的な由緒ある名前に似ず、現代的だ。 しかし、アンジェリカさん自身は、そんなキザなサンクト・ペテルブルク人ではないから、このオニキスの壁の新館は気に入っているそうだ。 ちなみに2016年ウラジオストクにもマリインスキー劇場沿海州別館が(建物は2013年オープン)開館。さらに、1958年に設立された北オセチア・アラニア共和国国立オペラ・バレエ劇場は、2017年からは、マリインスキー劇場の支部となっている。 帰国後、チケットの値段を調べてみると、例えば、旧館1月4日(土)の18時開演バレー『くるみ割り人形』は10,000ルーブルから30,000ルーブル。新館での『くるみ割り人形』別の日の19時30分開演では10,500ルーブルから25,000ルーブルと、劇場そのものの値段差なのか、日時の違いなのか、出演者の違いなのか、ちょっとだけ差がある。劇場図を見ると本館は平土間の背後に5階、新館は4階(5階)まである。1週間前までのチケットがネットで売り出されている。6日後の新館17時開演チャイコフスキーのオペラ『オルレアンの少女』は売り切れている。7日後の木曜日旧館19時からの『くるみ割り人形は』5,000から12,000ルーブリで、それでも良い席は売り切れだ。ネットで公然(誰でもが購入できる)と売りに出されないコネ席というのもかなりあるのだろう。 アンジェリカさんは私のサンクト・ペテルブルク到着すぐに、チケットを見て、5日後のを3枚買ってくれたが、良い席はもう売り切れ、3席並んでいるのは少なかった。4階の後列の席だったが、舞台はよく見えた。バレーだから、ストーリーを知っていても知っていなくても舞台の踊りを見ていればいいのだ、と思って、予備知識なしでただうっとりと眺めていた。 帰国後、『コルサール』とはどんな意味なのか調べた。ロマンチックな意味で海賊、かつてフランスの私掠船のことだ。この作品はギリシャ独立戦争に参加したバイロンの詩にアドルフ・アダムという人が作曲したクラシックバレーで、マリンスキー劇場レパートリーの一つだ。 第2マリインスキーとは言え、世界でもで1流の名のある劇場で一夕を過ごしたことに大満足。幕間にはアンジェリカさんとメインホワイエとか言う廊下をぶらぶらして写真など撮ってまた満足。バレーを見たというと、ボリショイ劇場ですかと日本の知人に言われるが、モスクワのボリショイは、サンクト・ペテルブルクのボリショイ(マリンスキーと名付けられる前にはボリショイと言われていた)よりも古く、やや大きい。モスクワの方にも、2002年に1000人収容の新館ができたそうだ。 帰りもタクシーを呼んでもらった。タクシーがくるまでげんかん近くの歩道で待っていると、玄関から外套にくるまれた車椅子の男性が出てきた。そして、すでに止まって待っているランクルのような車のシートに4人ほどの男性が介助して座らせてあげている。ロシアの町では車椅子の人も盲目の人も滅多に見かけない。こんなに段差のある道路では身障者ばかりか、体が弱った年配者も歩きにくい。白杖だけが頼りでは、絶対歩けない。先ほどの男性は、4人もの男性にお世話されて、特別な身分かと思う。 |
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映画『モンテクリスト伯』 | ||||||||||||||||
11月31日(木) 夕方ジェーニャが妻のエヴドーキアЕвдокия(愛称はドーニャДуня)とやってくる。夕方なので昼間の時間を潰さなくてはならない。 私は、モスクワのマーディナのタワマンでも、ここサンクト・ペテルブルクのペトロパヴロフスキー島のガルブノヴィさん宅でも、夜の暇な時間、テレビをつけてもらった。日本では契約できないようなアプリで(たぶんカード決済ができないから)日本では見られないビデオが見られる。例えば『オネーギン』2023年だ。日本ではYoutubeで予告編だけ見られる。ロシアのアプリでは全編が見られる(日本語字幕はない)。『オネーギン』のほかにも、自分でリモコンを持ち、ビデオ・サーフィンをやった。『巨匠とマルガリータ』なども見ていた。『モンテクリスト伯』の映画化はどこの国でも、何度もやっている。が、2024年フランス版が近くの映画館で公開されているという。ロシア語の吹き替えだ。字幕なら私は読み切れない。 午前午前11時過ぎに開演なので、歩いて行ってみた。ペトロパヴロフスク島はサンクト・ペテルブルクの中心なので、彼らの家は裏通りにあるとは言え、周りに何でもありそうだ。行ってみると日本の昔の映画館(ソ連時代の痕跡が色濃く残った1990年代や2000年代の映画館も)とは大違いの、アミューズメント・センターの2階にあった。館内には座席数が少ない。それというのもテーブルも出せる大きなリクライニング・シートが数列あるだけだ。そればかりか上映中であっても1階の売店から飲み物やつまみを専用携帯(多分)で注文して、持ってきてもらってボリボリ食べながら見ることもできるのだ(今の映画館はみんなこうかな)。平日の昼間だったので、観客は少なく、予約した席は隅だったが、真ん中へ移動してゆっくり見た。途中の休憩時には、もちろんトイレも見に行った。温水洗浄式便座でこそないが、それ以外は満足。 映画の方は馬鹿馬鹿しいほどつまらなかった。その点では3人とも意見が一致した。文学作品の映画化は、回を重ねると原作に忠実にやっても面白くないのか、いかに筋を違わせるかで、新作をつくっているのか。原作の名をかたるのなら内容も忠実にやってほしいものだ。このフランス製2024年版モンテクリストはあんまりだった。リクライニング・シートが良かっただけだ。 |
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ジェーニャと息子プラトン | ||||||||||||||||
6時過ぎにジェーニャ達一家が到着した。5時過ぎから、今どこそこのあたりだからあと何分ぐらいで到着だというSNS が度々入ってきた。ジェーニャは『ナビ遣い』だ。ジェーニャは、1ヶ月前赤ちゃんが生まれて、あまり動けないのだ、とアンジェリカさんが盛んに弁護する。滅多に彼女の家にも来られなくなったそうだ。産んだのはエヴドーキアという妻ではないか。それも1ヶ月も前に、と思ったが黙っていた。エヴドーキアのお世話する人がいないので、ジェーニャがやっているそうだ。少子化の日本では出産後のお手伝いさんサービスがある。ロシアもたしか少子化歯止めが叫ばれていて、例えば新生児家族には補助金がでるそうだ。かなりの額だが、その新生児が成長するまで使えないのだったか。エヴドーキアには母親も姉妹もいるが手伝ってくれないとか。その母親(赤ちゃんの祖母)は生まれたとき1度見に来ただけだとか。つまり、産婦と新生児の面倒はジェーニャ一人で見ているそうだ。しかし、産褥期も過ぎているからそろそろ普通の生活に戻ってもいい頃だ。しかし、日本とロシアは考え方が違うかも知れない。(だいたい日本とロシアはお腹を壊したときに食べるものも違う。日本人がロシア風にしたら治らないと思う)。1ヶ月も経てば、正常出産ならすっかり健康になってもいいと思ったが、ケアする人がいないのでジェーニャが離れられないとアンジェリカさんは繰り返す。ジェーニャの母親だって元気なはずだ。果たして親戚との関係がうまくいっていないのか。彼らが動きにくいのなら、私達がジェーニャ宅に行ってもいいのだが。それは都合悪いらしい。
だから、赤ちゃんをかごに乗せて連れてきた。写真では見ていたエヴドーキアだか、静かであまりしゃべらない。ふくよかなのは、結婚後なかなか妊娠しなかったのでホルモン補充療法をやったとか。アンジェリカさんも若いときはガリガリだったが、妊娠のためのホルモン補充療法で太ったそうだ。それも、日本とロシアの産科は違うのかもしれない。 プラトンПлатонと言う名をつけられた赤ちゃんは、寝ているか、起きてお母さんのおっぱいを飲むかだった。私も起きているときにそっとだかせてもらった。彼らは9時過ぎ、またプラトン君をぶ厚く包み、籠に入れて去って行った。プラトンとは哲学者プラトンから着いた男子の名前で、ギリシャやビザンチンばかりかs、ロシア正教の聖職者の名にも多い。『戦争と平和』にもプラトン・カラタエフという重要な脇役が出てくる。名ばかりか、名から姓になったプラトートフも多い。 ジェーニャと始めて知り合ったのは2015年、一緒に車でセルゲイさんのコミに行ってウィルドな旅を楽しんだ。ガルヴノヴィさん達はその前から知り合いだ。カーチャは当時からサンクト・ペテルブルクの学校(大学)にいっていたし、ガルブノヴァさんは度々サンクト・ペテルブルクに行ってジェーニャと会っていたはずだ。その頃すでにジェーニャは30代半ばでカーチャは20歳になったばかりだったが、二人とも独身だった。アンジェリカさんは、私のジェーニャ評ばかりかジェーニャが(当時の)女友達について何と言っているかも気にしていた。ジェーニャとカーチャも会っているようだった。しかし、2020年代初めの頃ジェーニャはエヴドーキアという地味な女性と、カーチャはアルチョームと言う青年と結婚した。 今になって、アンジェリカさんが打ち明けるには、アンジェリカさんは二人が結婚することを望んでいたそうだ。ジェーニャは30代半ばまで花嫁候補のえり好みしていた(?)位だ。アンジェリアは彼が娘と結婚してくれないかと思って、そっと彼に意向を聞いたそうだ。しかし、ジェーニャは、年齢が違いすぎるからと断ったそうだ。カーチャは美人だが、ジェーニャとは違うタイプだ。多くの候補の中からエヴドーキアを選ぶジェーニャが、派手なカーチャを伴侶として選ばない。と、アンジェリカさんの打ち明け話を聞いて私は密かに思った。 |
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