クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date March 05, 2025  校正20225年3月29日
       41 - (5)   2024年経済制裁下プーチンのロシア
                 モスクワ、チェチェン、ペテルブルク (5)
    
                                   2024年10月12日から11月3日(のうちの10月23日から24日)

Путешествие в России, Москве, Чечене и Пётре 2024 года (12.10.2024−3.11.2024)

       モスクワ
 1 10/12-
10/15
 
 計画、費用 北京大興国際空港  モスクワ、シェレメチエヴォ空港  マーディナ宅  モスクワのショッピングセンター   トレチャコフ美術館 
 2  0/16-
10/17
 新興私立学校  拡張した新興モスクワ市のヤーナ宅    電飾のモスクワ夜景  モスクワ大聖堂モスク
     チェチェン
 3 10/18-
10/19
 
 グローズヌィ 山岳イトゥム・カリ村   新興ヴェドゥチ・リゾート   イトゥム・カリ博物館再訪   ミラーナとの会話
 4 10/20-
10/22 
 預言者イエスのモスク 英国宮殿   アルグン市とシャリ市のモスク ヴェデノ村   カゼノイ・アム湖 グローズヌィ・シティ  ズーラ宅 
 5 10/23-
10-24 
 グルジアとの国境  トルストイ・ユルタ村  マーディナの悩み  アフマト博物館  ガランチョージ区
      サンクト・ペテルブルク
 6 10/25-
10/28
 
ペトログラード島 パヴロフ宮殿   薬局  ショッピングセンター『ギャラリー』  ネフスキー大通 カーチャ宅 
 7 10/28-
10/31
 
 市内バスツアー サンクト・ペテルブルク大聖堂モスク    旧マチルダ宅 マリインスキ−2劇場   映画『モンテクリスト伯』  息子プラトン
 8 11/01-
11/03 
 仏教寺院 ゼレノゴルスク市   セストロリツケ市  クロンシュタット市 『ナヴァリヌィ』のシール   モスクワ  上海乗り換え

 グルジアとの国境
10月23日
 朝4時半に迎えに来るからとミラーナからの伝言をファーティマさんが前日に伝えてくれていた。しばらくグロズヌィ市内を走った。5時前はまだ暗い。まず、ホテル・コスモスに寄って後部座席に夫婦の客を乗せる。男性はリビア人、女性はイタリア人だという。夫婦ともムスリムでイスラームの国チェチェン観光に来て、グルジアのトビシリ国際空港からイタリアかリビアに向かうのだろうか。チェチェンからグルジアへは、イトゥム・カリ経由の近道はあるが国境は開かれていない(前記)。オセチアのかつてのグルジア軍用道路(ロシア帝国時代はそう言った。今は国道A301と言う)が、ほぼ唯一のカフカス山脈越えで南のグルジアへ抜けられる道だ(ロック・トンネル経由もあるが,南オセチアまでしか今は行けない)。19世紀のミハイル・レールモントフも通って、『現代の英雄』には素晴らしい描写がある。そこを通れるなら誰とだっていい。グルジアへは日本国籍者はビザないでいける。

 6時を過ぎると明るくなり始める。その頃はイングーシア共和国のナズラン地区を走っていた。久しぶりだなあ。6年前や7年前、アスランАслан Диовとウラジカフカス市からグローズヌィ市へこの道を逆に通って行ったものだ。今通ってみると、その頃より道幅が広くなっている。6時半ごろには地平線の向こうから朝日が昇ってくるのが見えた。かつて紛争のあったイングーシとオセチアの国境のチェルメン通りも通り過ぎる。もう緊張感がない。オセチアに入り、ウラジカフカス市の細い道を通り過ぎると、

グローズヌィからほぼまっすぐ西へびる連邦道
からは、南から昇る朝日が見える 
ウラジカフカスで南進してカフカス山脈に向かう 
国境付近、通関待ちするトラックの列 
ロシア(オセチア)側の国境 
このガソリンスタンドで、タクシーを待つ 
ウラジカフカスの町 
 かつてのグルジア軍道の、まっすぐ南に向かう国道だ。道の先に見えるのはカフカス山脈だ。近い山並みの向こうには万年雪の高峰が見える。

 国境に行き着く国道なので、大型トラックが多い。グルジアとの貿易物資を運んでいるのか。国境に近づくと、それら大型トラックは通関に時間がかかるのか右車線に列をなして停車している。私達乗用車は空いている左車線をまっすぐ走っていく。テレク川沿いに造られた国道は次第に山中に入っていく。ここまで来て私はパスポートに貼られた私のロシア入国ビザは1回限りと書かれていたことに突然思い当たった。1回ロシアに入国して期間内に出国すると、そのビザはもう無効になる。両脇のカフカス山脈に狭められている国道を進むと、『ヴェルフニィ・ラプス(国境の村の名)、ストップ』と書かれたところに出る。ここがロシア側(オセチア側)の国境だ。

 今、グルジアへは行けるが、再びマーディアのところへは戻れない。もちろんトビリシのロシア領事館へ行けばビザは取れるだろうが。そうした体験も、今から考えれば、やってみても良かったが、手続きも期間もわからない。(日本で取得する場合と同じとしたら、招聘状または旅行会社の保障が必要だろうし、時間もかかる。トビリシの大使館は日本人にビザ手続きをしたという経験が(たぶん)ないだろうから、拒否されるかも。日本までの地球大回りのチケットをカード(ここでは有効だ)で購入して、旅半ばにして帰国と言うことになるかも。とそれは想像しただけだ。

 ここまで来て、ミラーナに、私のビザはシングルだと言った。それで出入りができるかどうか聞いてみると彼女は言う。通関の手前で車を止め、私のパスポートを持って彼女は降りていった。もちろんいくらミラーナでもだめだ。引き返すことになる。私を一人、税関の前に下ろしてリビア人とグルジアに行くこともできないだろうが。
 車が引き返して、元来た道を走ると、リビア人はどうしたのかと聞く。不思議だっただろうなあ。どこまでひきかえすのか。15分も行ったところにあるカフェも併設したガソリンスタンドまでだ。ここで私とミラーナが降りる。私をグローズヌィまで運ぶタクシーを呼ばなくてはならない。ミラーナはひとりぼっちになる私に、カフェにいた制服男性(つまり保安員か警察、国境近くだから)に、私の安全を託してくれた。タクシーの番号も言って、ミラーナはリビア人の待つ車に乗る。リビア人は私と愛想良く別れてくれた。

 ここで私は30分ばかり、そのタクシーを待っていた。今から考えれば、カフェの女の子と話していても、制服男性と世間話をしていても良かったが、私は不安で落ち着かなかったのだ。この日もカフカス晴れで、真っ青な青空に接して白い万年雪の高峰や樹木の少ない山裾が見えていた。何台か給油に車が入ってきてそのたび、私の予約車でないかと外まで出てみた。制服さんは、まだですよと一度ぐらいは声を掛けてくれた。

 9時近くなってそのタクシーが来てくれた。運転手はオセチア人だった。制服さんにお礼を言って乗り込む。運転手はもちろんミラーナから行き先を聞いている。ミラーナは何カ所かに電話していた。グローズヌイまでは遠すぎると断った運転手もいたかもしれない。今から考えてみれば、グローズヌィに急ぐことはなかった。久しぶりにウラジカフカスに来たのだから、アスランの家に寄ってみても良かったのだ。しかし、住所は忘れたし、携帯の電話はWi-Fiがないとつながらない。6年前とそれほど変わっていなければ、近くまで行けばわかるかも知れない。在宅の可能性は低いが、彼の家族とでもあるいはお隣さんとでも挨拶できるか、などと思わないこともなかったが、運転手に頼もうと決心がつかないうちに、通り過ぎていった。見知らぬ通だったからだ。オセチア人の運転手ともあまりしゃべらなかった。グルジア近くの国境から国道を通ってチェルメン通りを抜け、連邦道M29を通って、グローズヌィまで2時間あまりで着く。グローズヌィ市を(古い)ナビだけを便りに迷いながら行き来し、ついには袋小路にたどり着いてしまった運転手に、国立図書館の近くだと教えてあげる。うろうろしているうちにマーディナから電話がかかり、近くまで来ていることがわかった。タクシー代は4,000ルーブル余だった。
 トルストイ・ユルタ村
 
 トルストイ・ユルタの墓地
 
左にシェイフ・ドッカの霊廟が見える
 
シェイフ・ドッカの墓 
 
 帰りのグローズヌィの通
  昼食後、ファーティマさんがかねての約束通り、自分たち一族の出身地だというトルストイ・ユルタに案内してくれた。5年前も、暗くなってからだったが、トルストイ・ユルタにある別荘を見せてくれたことがある。本宅にあるような家具、電動の門と監視カメラなどに感嘆したものだ。5年前、その町のまだ建設中の大きな家の門の前で、ここは兄弟の家だとか、おじさんの家だとか言っていた。今聞くと、トルストイ・ユルタの別宅は売ったという。親戚に売ったのか。娘達がモスクワへ移住しつつあるので、チェチェンの不動産は整理しているのだろうか。
 しかし、埋葬地は先代や先々代から住んでいたトルストイ・ユルタ村にある。イスラームの墓地はそれぞれの個人(家族・一族)ごとの囲いがない。土まんじゅうの端に石の墓碑が立っているだけだ。立派な墓碑もあれば、慎ましいのも、古いのもある。古いと言ってもチェチェン戦争前の墓石はないのかもしれない。「チェチェンにあるすべてが、都市も村も爆撃され、墓地も例外ではなかった」と5年前言われたことがあるから。

 ファーティマさんが墓地の門を入って、黙って案内してくれたのは入り口からほど近い土まんじゅうだった。隣の土まんじゅうとの間は歩けるくらいにあいている。しかし、世話をしないと崩れてくるし草も生えてくるそうだ。ここにはぎっしりと何百もの比較的新しい土まんじゅうと石の墓碑がある。少し離れたところにも、そうした一群が見えた。そこは時代がちがうのか、葬られている故人が、こちらの故人と仲間でないのか、ファーティマさんに聞かなかった。墓地で質問はあまり良くないと思ったからだ。

 彼女はここに葬られている偉人の墓も案内してくれた。それは土に葬られていなくて屋根付きの墓所に緑の布を掛けて安置してあった。アラビア語やチェチェン語の文字盤があったが、ロシア語で私が読み取ったのは、シェイフ・ドッカШеих Докку(Докка 1836-1914)の墓であり、Зиярат(聖所訪問)とあった。

 トルストイ・ユルタはグローズヌィ区(市ではない)にあって、グロズヌィ市から東北に12キロしか離れていない。トルストイ・ユルタとグローズヌィ市との間にはテレク丘陵という低い丘陵があって、その頂上からトルストイ・ユルタ村全景が見晴らせる。
  18世紀初めにロシア帝国によってできたスターリー・ユルタ村が現在のトルストイ・ユルタ村だ。作家のレフ・トルストイにちなんで、1958年または1977年に名付けられたと言うから、トルストイが立ち寄ったのかもしれない。スターリーもトルストイもロシア語だ。チェチェン語ではデブカル・エブル Девкар Эвл村と言う。意味は『父親達の誇り』だそうだ。
 この村は、1991−1993までロシア最高会議議長であったルスラン・ハズブラートフの生地でもあり、1997−2005までチェチェン・イチケリア共和国第3代大統領だったアスラン・マスハードフが爆撃された地でもある。
 マーディナの悩み
  帰宅後、アディールをベビーカーに乗せて、またマーディナと散歩に出かけた。モスクワにいるときからマーディナは夫アーダムの不満を言っていた。確かに高学歴で資産家の神経精神科医のマーディナの夫として、日本人の私から見てもアーダムは夫らしくない。31歳の彼の年齢の男性たちには2度の戦争と混乱の戦後があった。教育を受けた男性は多くなかったのだろう。マーダムは13年前に専門学校へ入学して、卒業はしていない。彼の言葉によれば、家具のデザインが本職だ。それは『まだ』全く芽生えていない(ビジネスになっていない)。白タクの運転手をしている。マーディナはそんなもの職業とは言えない、と言う。収入はあるかも知れないが家計には入れていない。生活は全面的に妻のマーディナにたよっている。不動産の名義もすべて妻だ。彼の母親や妹とはマーディナは関係が悪いそうだ。5年前、結婚前のマーディナとアーダムに私は会っている。マーディナがなぜアーダムを選んだのか納得できなかった。しかし、好き嫌いに干渉できない。私の関知しないことだ。親戚でもないのだからと思って、マーディナがアーダムの美点を並び立てるのを黙って聞いていたし、婚礼前の二人のデートにも付き添っていた。(独身の男女が二人だけで会ってはいけない)。
 
玄関の間でアディールをベビーカーに座らせる 
 
アーダム(モスクワに居たとき撮った写真を 
アーダムの部分だけトリミングしたもの)

 私がモスクワに到着したときから、マーディナはアーダムについて不満を漏らした。夫婦のことに口出しをしたくはないが、マーディナも妻らしくない。夫にとげとげしく話しかける。二人に言わせれば、それが普通だという。特にマーダムは、チェチェン語というのは厳しい撥音で知らない人が聞いたら乱暴に聞こえるものだという。
 それでもアーダムは私に、マーディナの目の前で「自分は夫としてどうか」などと私に問いかけたことがある(前述)。

 5年前マーディナ宅で1週間ほど過ごしたときは、チェチェン戦争とイスラームについて話した。私が、宇宙をつくった全能の神アラーを、いったいあなたは信じないのかと詰問されたものだ。しかし、今回のマーディナとの対話は夫婦間のことだけだった。
 アーダムと分かれても、自分は十分やっていけるという。そうだろう。育休中とは言え堅固な職業、モスクワに豪華なマンション、頼りになる親戚(多分)を持っているのだから。母親のファーティマには内緒だが自分はアーダムと離婚しようと決心していると、アディーリのベビーカーを押しながらマーディナは言う。「いや、まず別居すればいいのではないか」と答えてみる。私が子持ちの離婚者なので、近親感をだいて経験などを聞いてくれるのかな。私の正式離婚の前には長期の別居があった。

 アーダムはマーディナが出産という頃、浮気をしたとか。許せないとか。彼女の友人達はどう忠告しているのかと尋ねると、みんな別れればいいと言っているそうだ。彼女の二人の妹の夫達はどうなのか。もっと悪いそうだ。妹たちは自分よりずっと夫に対して権力的である、と言う。マーディナは夫アーダムにきつい、権力的な物言いをする。妹たちは、もっとなのか。

 マーディナは別れたいが、もう一人子供がほしいという。「男なんていっぱいいます」と答えたら爆笑された。私からそんな答えを聞こうとは思っていなかったのだって。
  アフマト博物館
 
故アフマトの執務室の再現コーナー 
 
マーディナとイッサさん 
 
トルストイ・ユルタにあるイッサ宅 
以下3枚の写真は後にSMSで送付されたもの
 
 彼の息子
 
14年前になくなったイッサさんの母親の部屋と
肖像画 
 グローズヌィの町を難しがるアディールりをあやしながら、私達は歩いていた。劇場をのぞいても良かった。博物館に入っても良かった。しかしどこへも入り損ねて、グローズヌィでも最も面白くない『アフマト・アブドゥルハミドヴィッチ・カディロフ名称栄光のメモリアル複合施設』に入ることになった。ここに入ろうかというマーディナの提案に反対はしなかったのだ。この複合施設内の中心は、アフマット・ハジ・カディロフ博物館だ。その2階建ての建物に入った。この博物館のカディロフ記念品の展示はもう何度も見たから別のところへ行きたいとも言えなかった。豪華な館内には私達と職員しかいない。6年前にも5年前にも見たことのある展示物の前を通り過ぎ、絵画展示ホールのある2階もぶらりと廻って、疲れたのでベンチに座って、マーディナを待った。

 マーディナは初老の男性と話し込んでいる。呼ばれていって見ると、その男性イッサ・ハムルザエフと彼女は遠い親戚だとのこと。彼はこの博物館の上級職員らしい。館長かも知れない。彼の事務室に案内された。彼の招待を受けても受けなくてもマーディナはどちらでも良かったかも知れない、私もそうだった。彼はお愛想に招待しただけかも知れない。とにかく、私達は彼の事務室(博物館の学術員室か)に入った。何を話したか覚えていないが、チェチェン人の出身の話をしたと思う。彼もどうやら『シュメール派』だ。その解説した本を紹介してくれた。『古代からのチェチェン国家構造の歴史に関する概論』という。
 コーヒーもごちそうになった。話しているうちに、いつもの通りの日本への招待の話になった。私はお世辞でも何でも「どうぞ、日本へ」と言う。たいていの相手はありがとうと言って終わりだ。彼とは具体的になった。ロシア語を話す本物の日本人と知り合いになれて喜んでくれたのかも知れない。飛行機代だけなら千ドル以下だと教えてあげる。仮に私の家だけに宿泊し私の車だけで観光したとしても、飛行場から我が家までも交通費が必要だ。そこまでなら千ドルで収まるかも知れないが、京都東京観光に日本土産となると、その数倍はかかりそうだ。それは言わなかった。実はイッサさんは資産があるのかもしれない(カディロフ博物館に勤めていると言うだけからもコネはあるのだろう)。イッサさんはかなり乗り気になった。目の前に日本人がいるし、来年は私の招待で日本へ行くという親戚の女性(マーディナ)もいるのだから、現実的になる。

 30分ぐらいでお暇(いと)まして、外へ出る。国立図書館へ寄って、彼が推薦した本がないか聞いてみた。次の日のことになるが、マーディナと夕方散歩していて本屋へも寄ったのだが、3軒目ぐらいの本屋にその本を見つけた。6500ルーブルもした。マーディナでさえ、手持ちがないから買えないと言う。私には手持ちがあった。迷った末購入した。読破できないだろうが、あると安心というものだ。

 その後SMSで文通は続けている。イッサさんについていろいろわかってきた。彼は歴史学者だ。グローズヌィの大学を出て、ウラジカフカースの大学院で修士論文を通したそうだ。彼の歴史的知見は『シェメールとチェチェン人は密接な関係あり』派かも知れない。
 そういう人の始めての日本を案内するのは楽しい。彼の家はトルストイ・ユルタにある。写真を送ってもらったが、豪華なものだった。ちょっと我が家には泊められないくらいに。 ロシアのことだから(特にチェチェン人にとってか?)国外用パスポートを撮るのに何ヶ月もかかったようだ.(招へい状が送られてくればそれがビザになって、旅行者と違う待遇だと、もしかして思っていたかも知れない)。

 ガランチョージ区
 10月24日(木)
 チェチェンの僻地と言えば、山岳地帯にあるイトゥム・カリ区やシャロイ区、先日行ったカゼノイ・アムのある チェベロエフ Чеберлоевский区やガランチョージ区だ。そうしたチェチェン南のカフカス山麓(と言っても標高はかなり高い)の峡谷にはかつて多くの村々があり、村の塔があり墓地があった。1944年のチェチェン・イングーシ人の強制移住以来、村は廃村となり、廃墟となっている。チェベロエフとガランチョージには特に古いチェチェンの部族がいた。民族発祥の地かも知れない。チェベロエフ方言はチェチェン語の古い形を保っていると言われる。1944年の強制移住の前には、チェベロエフ区とガランチョージ区にはそれぞれ百以上の村があり、いくつもの農村ソヴィエトがあったが、強制移住でチェチェン人がいなくなると、隣接の別の民族が住んだり廃村になったりしていた。1957年チェチェン自治共和国が復活しても、その2区にだけは居住は禁止されていた。2012年になって、かつてのチェベロエフ区やガランチョージ区は区(自治体)としてとして復活されたが、まだ実際にはチェベロエフ区のマカジョイ村やホイ村は隣のベデノ区内と言うことになっているし、ガランチョージ村も隣のアチホン・マルタン区の一部になっている。イトゥム・カリ区や、シャロイ区は区としてはチェチェン人の強制移住解除後からあったが、かつての村の多くは廃村となっている。

 シャロイ区へは5年前、イトゥム・カリ村から行こうとしたが、雪の峠を越えられないからと引き返してきた。昨日知り合ったイッサさんは、山岳愛好家らしく、こうした僻地を勧めてくれたが、すぐには交通手段がない。チェベロロイ区の方はカゼノイアム観光のためヘアピンカーブの自動車道ができている。カゼノイアム村やマカジョイ村には住民がいる(戻った)。

 
連邦道を西に行く
パブロフスカヤ直進、サマシキ右折の標識 
 
 連邦道から出て南進の田舎道に入る
アチ本・マルタン町の入口 
アチ本・マルタン町の食料品店の一角 
 バムート村のモスク
 フォンタンガ川
バックミラーに映った治安部隊の駐屯地 
エギチョズЭги-чож遺跡群 
 
ツェチャ・アクキ遺跡 
 
山岳のガランチョージ区 
 
 フォンタンガ川近くの廃墟
 
ガス管工事のトラックが道を塞いでいた 
 
 羊の群れを馬で追う牧童と車で追う私達
峠を越えて道が続いている 
ゲヒ川沿いにできた絶壁にかこまれた道 
『オスヒ・トンネル』か 
ガランチョージ湖 
 しかしガランチョージ区は全区が廃村のままだ。観光施設は全くない。大部分がアチホン・マルタン区の一部となっている。ミラーナがもし天気が良ければガランチョージに行ってもよいとファーティマさんに言ってくれたそうだ。ミラーナの横に座るのは、もう止めたいと、カゼノイ・アムへ行ったときから思っていた。その後のグルジア行きで、通過できなかった私を責任を持ってグローズヌィまで戻す手配をしてくれたことには感謝していた。ガランチョージ行きは魅力的だった。今までに、イトゥム・カリ村もカゼノイアム(湖)も、グルジアとの国境までのオセチア内の帝国時代のグルジア軍事道路も、初めてではなかったが、ガランチョージはそれこそ神秘の秘境だ。中世のチェチェンだと思ったのだ。

 9時過ぎに迎えに来てくれたミラーナの車に乗る。ガランチョージにはカフェも食堂も何もないからと、ファーティマさんがお弁当を包んでくれた。出発してしばらく走ると、ミラーナは無言でカフェの前に車を止め、無言で出て行った。朝食を取ったのだろう。一言言えばいいのに。「朝食はまだなので、急いで食べてくる間、待っていてください」と言うのが礼儀というものだ(お互いに言葉が通じないわけでもないのに)。

 グローズヌィから南西に向けて、アルハン・ユルト村を通り過ぎ、ゲヒ川を渡り、アチホイ・マルタン区に入る。シャラジャ川 Шаража(テレク川の右岸支流スンジャ川の、右岸支流アッサ川の、さらに右岸支流で延長40キロ)も渡る。隣の運転手が、ファティマに頼まれていやいや運転している人だとしても、収入のためにガイドしている人だとしても、チェチェン晴れのもと、広いアスファルト道を行くのは気持ちよかった。

 『パブロフスカヤ直進、サマシキ右折』と書いた標識のある立体交差路が見えてきた。パブロフスカヤというのは(もうチェチェンではなく)クラスノダール州の都市だ。東のアゼルバイジャンとの国境のダゲスタンのサムールから西へ1118キロ伸びる『連邦道ルート217カフカーズ』の終点(始点)で、そこからは『連邦道ルートM4ドン』でモスクワへの高速道路がつながっている。サマシキというのは、19世紀のカフカス戦争の時も、20世紀末のチェチェン戦争の時も、住民の虐殺のあったところで有名だ。『私がチェチェンにいるということはママにだけは言わないで』という戦争歌でも取り上げられていたそうだ。

 私達はそこまで行かない。立体交差道路に入る手前にある目立たない道を左折して羊の群れが草を食んでいる横の道路を通って、アチホイ・マルタン町へ入る。町はフォルタンガ(チェチェン語ではマルタ川という)川とアチフ川が流れていて、そこからこの町の名が付いたそうだ。町の入り口には必ず治安部隊(?)の車が止まっている。

 ここの食料店の前で、ミラーナは車を止め黙って店に入っていった。田舎の店というのがいつでも私には興味があるので、何も言われなかったが、私も入る。大きくて清潔、そして値段もそこそこのような店だった。野菜果物はおいしそうで日本よりずっと安そう。しかし自分の消化器のことを考えて何も買わない。ミラーナはランチ用に食料を買ったようだ。

 帰国後ウィキペディアで調べたところ、アチホン・マルタン区の西にはセルノヴォドという南北に細長い小さな区がある。もとはそこはスンジェン区と呼ばれていたが、西隣のイングーシにも同名のスンジェン区があり、チェチェンとイングーシの国境を定める際、チェチェン側の方がセルノヴォド区と改名されたようだ。

 車に乗って、白い雲が所々迷っているようなチェチェン晴れの中、まっすぐ南方カフカス山脈の方へ進んでいく。バムート村も通り過ぎフォンタンガ川も渡ると、道路のアスファルト舗装がなくなった。何度か川(フォンタンガ川か)を渡る。この辺ではフォルタンガ川がイングーシとチェチェンの境になっていると、帰国後地図でわかった。
 ソ連時代チェチェン・イングーシ自治共和国と呼ばれていたが1993年分離した。国境は正式には定められていなかったが、2019年、フォンタンカ川中流の右岸(東)がチェチェン、左岸(西)がイングーシと定められた。1944年以前にあったガランチョージ区については境界が今でもウィキペディアには載っていない。(公式には復活されたが実際にはまだ住民は住めない)。ガランチョージ区には今は廃墟となってしまった村が120もあったと言う。

 進んでいくと『関所』のようなところがあった。チェチェンではよく見かける検問所だ。それは、この無人地帯(かつてのガランチョージ区)に住む分離独立派(イチケリア派と今では言う)を監視するため(撲滅するため)にあるのかと思っていたが、国境警備の治安隊だったのだ。北オセチアとイングーシの平地(国道あり)での国境になっているチェルメン村は、まだ物々しいが、こんな山奥の国境でも一応銃を持った兵士が立つ。
 写真は禁止だと横のミラーナは言う。兵士に気づかれないように素早く撮ることは可能だが、横のミラーナに気づかれずに撮ることはできない。ガイドとは治安部隊の回し者だ。しかし、通り過ぎてからバックミラーに映る2階建て緑の屋根、赤いレンガの壁の立派な駐屯地(宿舎)を撮っておいた。こんな無人の地に!泥だらけの道端に。しかし、直線距離(20キロ)でも、山道でも(30キロ)グルジアとの国境に近い。今は、たとえ舗装が悪くて天候によっては通行不可になるにしても、道路はあるから、ひとけの全くない山中だとしても、警備しなければならないのか。テロリストが今でも武器を運ぶのに利用しているようには見えないが。
 この駐在所に保安員は少なくとも2名はいる。もっといるのかも知れないが目にしたのは2名だ。こんなところに交代員が来るまで、住んでいるのも悪くないなあ。ミラーナは、その兵士と、前からの知り合いのように親しそうに言葉を交わして通り過ぎたが、度々旅行者を乗せて通っているのだろうか。

 それは11時13分だった。11時20分にはエギチョズЭги-чож遺跡群のそばを通った。遺跡は中世はじめから16世紀頃建てられたもので、文化遺産になっているそうだ。そんなことを書いた標識がでていた。フォルタンガ川の両岸に戦闘用城塞や、防御用要塞、住居兼要塞が今でもいくつか残っているそうだ。なるほどフォルタンガ川の左岸東岸では中世から部族が異なっていたのか。今は左岸がイングーシ領で右岸はチェチェン領だ。
 エギチョジ遺跡にはミラーナは車を止めなかった。私は車窓からその辺らしいところの写真を撮っただけだ。さらに、両脇から高い木が垂れ下がっているような砂利道を進む。ガードレールもあって、道沿いに電線も伸びている。『下り坂12%注意』の標識もある。1944年以来無人の地だったガランチョジ区の村々を復活させようとしている。

 フォンタンガ川右岸にあるツェチャ・アクキ Цеча-Ахк遺跡近くへ車を回してくれた。ミラーナは、今までのそこそこの道を抜け、フォンタンガ川の方へかなり状態の悪い道を通って、目当ての廃墟まで行き、客の乗客に「おお」と言わせたところで引き返す。それがミラーナ流ガイドで、その遺跡の由来も一切説明しない。知らないのかな。私は彼女にせめて遺跡の名前をメモ帳に書いてもらった。そのメモを元に、帰国後ウィキペディアで調べたところ、16世紀から20世にチェチョイ氏族が住み、1944年強制移住で廃村になったそうだ。東のイングーシと西のチェチェンに住む大きな部族オルストホイの古い故郷の村だったとも。残った塔や城壁は今や文化遺産になっている。ガランチョ−ジ区には、中世前期からチェチェン人の祖先が住み、1944年の強制移住で廃村となり、かつての城壁や墓地が残っているというところが至る所にある。
 険しい山道をゆっくり15分ぐらい進むと道の下の谷間にまた石造りの廃墟が見えてくる。遠くの氷河の山々と同じ高度に上ったかと思うくらいでも目の下の谷間に廃墟が見える。廃墟の一角に現代の人が戻ったような小屋も見える。菜園のようなものも、廃車までも見える。

 ずっと行くと工事用トラックも止まっていて道をいっぱいに塞いでいる。作業中のトラックにわざわざ道を空けてもらって通り過ぎた。ガス管を敷設しているようだ、と言うよりガス管に黄色いペンキを塗っているようだった。もちろんガスはまだ通っていない。こうしてガス管を装備していると言うことはこの先に集落をつくろうとしていることだ。フォンタンガ川をさらに遡るとそのような村の一つらしいムジカブМужгана(セルノヴォッド村から56キロ南)と言う再建中(かつての名前で、かつての地に)の村近くを通る。道路案内板も見える。数分行くと、道端に ダカブッフДака-Бух とチェチェン語とロシア語と英語(英語表記の道路標識は古いチェチェンにはない、国際観光地チェチェンを早めに気取っているようにも見える)で書かれた新しい標識がある。これは、フォンタンガ川の右岸支流13キロのメレジМереджи川の畔に、もとの名前で、もと村が復活するので生活インフラを整えているのだ。黄色いガス管はその先も続いているようだった。

  セルノヴォッド区は北からセルノヴォッド市区とアッサ農村区、さらに最近アチホン・マルタン区から割譲された南の山岳バムート区がある。そのバムート区に1944年以来廃村となり1956年チェチェン人の強制移住が解除されても居住禁止となっていた無人の南部山岳地帯,つまり、今通っているガランチョージ区に、私達が見るように新しくガス管付きの村ができあがりつつあるのだ。それは、ツェチャ・アフキ村 Цеча-Ахки, とムジカブ村 Мужь-Гате Мужген 、ダガブ村 Дака Бухаだ。その3村再現は2022年末に決定されたそうだ。

 道端に犬が吠えていたかとみると、やがて羊の群れにであった。白いひげの厚着の牧童さんも馬に乗っていた。羊たちは黄色いガス管に沿った道を去って行った。ここにも作業用トラックが何台か止まっていた。トラックの荷台の向こうにヤルハロイЯрхаройと書いた標識が立っていたから、ここでも再建村ができるのだろう。下の谷間には塔(廃墟)や、壁だけの建物がぽつんと見え、遠く向こう側の斜面にも廃村らしい跡が見え、それらを繋ぐ道路もある。
 ウィキペディアによるとヤルハロイはウールス・マルタン区の南西部山中となっているが(ガランチョージ区は公式にはあっても事実上はないからか)、1928年の地図を見ると、ガランチョージ区は現代のアチホン・マルタン区の南部、ウールス・マルタン区の南部、シャトイ区の西部、イトゥム・カリ区の北西部の広く山岳地帯を占めているから、2022年から再建している黄色いガス管の行方の村々はすべて、かつてはガランチョジ区だったのだろう。前記のように、1944年の強制移住の後、1956年のチェチェン自治共和国復活の後も、山岳地帯は居住禁止地帯で、ガランチョージ区はそれら隣接の4区に分割されていた。今、かつての場所にガス管付きの村をつくって、帰村希望者が住めるように整備しているのだろう。
 ヤルハロイ村と標識のあるところから数分行くと『ジェンチュ村からの見晴台』と書かれた標識が見えた。かつて、ジェンチュ村があったのだろう、ウィキペディアで調べると、ジェンチュ村は高度1720m、ヤルハロイ農村部落に含まれていたそうだ。
 見晴台で車からは降りなかったが、車窓からは、下の谷間にヘアピンカーブの道路がつくられているのが見えた。私達はこれらのカフカス山中の険しい自動車道を通る。所々に崖下の平地に石の家やトタン屋根の家と大型トラックが止まっているのが見える。道路には黄色いガス管が伸びているのが見えるし、水道管でもないだろうが黒い太いパイプも見える。もっと先へ行くと、これからガス管になる数メートルの長さのパイプが予定地の道路脇に縦に並んでおいてあった。

 やがて見事な絶壁の下の道を通る。もうフォルタンガ川ではない、ゲヒ川(フォルタンガより東に南の山岳から流れ来て、スンジャ川に合流する、57キロ)の支流だったかも知れない。電柱も立っているが電線は引いてあったりなかったりする。絶壁の下の川に沿ったありがたい道路だった。ダイナミックに褶曲している岩肌が見事だ。この道路は昔からのカフカス馬道を広げたものだろうか。道路の遙か下に流れが見えたり、川筋と同じ高さに道路が延びていたりする。私達は言葉なく走り続けていた。道路は 時々流れから離れてゆき、両側の岩の間を通る。それでも電線と電柱は続いている。浸食されものか先のとがったいくつもの奇岩も現われる。確かに絶景だ。悪路を運転してくれているミラーナに何かしゃべらなれば、と思って
「日本にもこんな素晴らしい景色はないわ」とお世辞を言った。彼女はにやりと笑ったものだ。
 岩をくりぬいたように道路が続いているところもあった。これはある程度自然の力でできた岩の間の空洞をトンネルとして利用したのもか。トンネルとしてわざわざ削ったにしては天井が高すぎるから、道路の高さに合わせて空洞の底部を均したのか。ここではわざわざ降りて写真を撮った。オスヒОсухи川(ゲヒ川の左岸支流)の右岸のようだった。私のiPhoneの位置情報ではそう読める。その写真ではオスヒ・トンネル(自然の抜け穴)の向こう側には氷河の山が見える。1時半ごろだった。

 さらに黄色いガス管が延びている山道を進む、ガス管は道路脇を通ることも、近道するのか岩肌の中に消えていくこともある。

 2時頃、ガス管の横に飯場用の小屋のようなもの、大きなゴミ箱、古そうな重機のある小さな広場が見えてきた。ここにも新村建設だろうか。近くには石造りの大きな廃墟が残っている。かつてはガランチョージ区の大村だったのか。。何せガランチョージは120もの村、12の大村があったそうだから。その半分はウィキペディアにも緯度経度の位置情報が載っている。だが、今見ているこの廃墟がどれに当たるかはわからない。私のiPhoneの位置情報ではアチホン・マルタンスク区とあるだけだ。前記のように、ガランチョージ区は公式には復活されているが実際には行政中心地の区役所どころか、住民登録されている集落もないから、ひとまず、ガランチョージ区の未完の村々はアチホン・マルタン区に含まれることになっているのか。

 どうやら、この大きな廃墟のあるところが、ガランチュージ村らしく、その近くに陰鬱な色の湖があった。これこそガランチョージ湖だろう。それらは帰国後、iPhoneで写した写真とその位置情報を見て、判明したことだ。なぜガイドのミラーナは沈黙しているのか。観光客の私にかつてのガランチ−−ジ村を教えたくなかったのか。
 湖の周りには道があった。ぐるりと廻って反対側まで行て、ミラーナは黙って車を止める。そこには座り心地の悪そうなベンチがあり、小石で囲ったキャンプ用の手製炉もあって、周りは空き缶やポリ袋などごみだらけだった。そして寒かった。ミラーナは黙ってごみを集めて火をつけだした。私もてつだった。しかし、寒い。時刻は2時も過ぎていて、空腹だった。私は車に戻って、ファティマさんが包んでくれたお弁当を食べることにした。やがて、ミラーナは黙って車に戻り発車させた。ファティマさんのお弁当のカボチャのパイ(一昨日のズーラの嫁さんが焼いたものだ)を少し食べた私はつつみを後ろの席に置いた。

 そこでミラーナが怒り出したのだ。ファーティマさんのお弁当を自分一人で食べて彼女に勧めもしなかったと。私はひどく間が悪かった。どんなタイミングでむっつり無言のミラーナに勧めたら良かったものか、彼女はアチホン・マルタン町で食料を買ったはずだ。私の分まで買ってくれたのかどうか知らないが、道中友好的な対話は一切なかった。間の悪かった私はひとえに謝った。車をちょっと止めてくれれば後ろから包みを出してくると言ったが。「もう遅い」と断られた。

 
 スポーツセンター『ビリムハン』入り口門
 それから5時頃グロズヌィの家に到着するまでも彼女は無言だった。もっと悪いことには、カフカスの絶景の山道を通るときには左手でもった携帯でビデオを撮りながら、チェチェンの歌謡曲のようなのを歌い始めた。カゼノイ・アムに行った帰りにも大声で歌っていた私の趣味ではない歌と声だ。ひとえに一刻も早く家に帰り着くよう我慢して座っていた。時々撮った写真の位置情報から、オスヒ川を遡ってゲヒ川との合流点に向かっていたとわかる。ロシヒャ川沿いアルニシニ・チュ村を通り、その辺からはミラーナは道路通行エチケット無視の乱暴な運転で家に着いた。こんな運転でも事故が起きなかったのは、ひとえに周りの車が除けてくれたからだと思えた。そうでなかったら、3年働いてやっと買えたという彼女の車も事故車になっていたかも知れない。悲惨名じこもなく無事帰宅した。
 
 夜暗くなってから、またマーディナとベビーカーのアディールと散歩に出かけた。スポーツセンターの方向だった。門も前にはアフマトの写真と、Билимханоиと言うチェチェンの有名なスポーツ選手(だろう)の写真があった。もちろんチェチェン戦争後、立派に再建されたもので、マーディナにとっては、かつてこの場所は懐かしいのだそうだ。向いには、マーディナの通った学校もある。マーディナはなつかしそうに戦争中みんなを助けるために奮闘した父親の話をしてくれた。
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