クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 2006年12月6日   (追記:2020年10月9日、11月23日、2022年4月4日)
18 - (1)   モスクワ、北西の古都群、クラスノヤルスク(1)
  2005年2月9日から2月24日      
Москва - Питер - Новгород - Псков - Печеры - Красноярск - Москва (9 - 24 февраря 2005)
 1) 帰国  2) ペチョールィ
  モスクワ   モスクワからクラスノヤルスク
  サンクトペテルブルク   クラスノヤルスクの通り
  ノヴゴロド   懐かしいクラスノヤルスク
  プスコフ   モスクワ   後日

  2006年12月6日にこの旅行記を書こうと思ったが、書けなかった。2020年10月になって、当時の日記や写真などから思い出して書いてみた。
 帰国
 物不足のロシア・シベリアのクラスノヤルスク45市(現在ゼレノゴルスク市)に住み始めたのは1992年。1994年から1996年までは日本にいたが、再びクラスノヤルスクに戻って8年目、2004年9月3日、2個のスーツケースにどっさり荷物を詰めて日本に帰国した(書籍は前もって船便で発送済み)。もうロシアには住まないと決めた。実は、1年前の夏休みに帰国したときも、勇んでロシアに戻ったわけではなく、ロシア生活には少しうんざりしていたのだ。何事にも不便で、欠けた石のロシアを見ていると気が塞いだ。当初はそれも面白く、ロシア語しかしゃべらない生活がとても気に入っていたのだが。しかし、体の調子も悪かったので引き上げ時だと思った。
 帰国後は、手術入院したが、年末には心身ともに健康体に、つまり、ロシアぼけも治っていた。『外国人のロシア滞在許可証』は出国後6ヶ月以内にロシアに再入国しなければ無効になるようだ。それで、『昔いたことがある』のロシアに2週間ばかり行ってみることにした。クラスノヤルスクでパートナーだったセルゲイとも会ってみるか。彼は、『ロシア滞在許可証』を私のために取得してあげたと、ことあるごとに恩に着せている。その彼は今はモスクワ州の両親宅にいるとか。

 2月9日 07時03分 金沢駅を出発
関西国際空港 13時00分発、ソウル・インチョン空港 14時50分着
ソウル・インチョン空港 17時10分発、モスクワ・シェレメチエヴォ空港 13時00分着
 復路は
2月23日22時40分 モスクワ・シェレメチエヴォ空港発、2月24日13時00分 ソウル・インチョン空港着
2月24日14時40分 ソウル・インチョン発、関西国際空港 16時20分着 
 と言う大韓航空のチケットを購入した。

 モスクワには、2004年夏に再会したバイカル湖オリホン島のニキータの妻ナターシャの家がある。ナターシャはニキータと結婚するまでモスクワでキャリア・ウーマンだった。モスクワに行くなら世話ができると言われていたので、連絡してみた。彼女の家は今、賃貸ししているが、モスクワに宿泊できるところを見つけられると言われた。それで、空港までの出迎えと宿を頼んだ。というのは、かつてのパートナーのセルゲイにも行くことは知らせてあったし、彼は空港まで迎えに行く、宿も考えてあると言ってきたが、当てにはならないと思ったからだ。彼は、何というか、結局は最も唾棄すべきロシア男性の一人であったと私(だけではない)には思える。さわりの付き合い程度で彼を見抜くのは外国人には難しいが、それほど深く付き合わなくても(もしロシア女性なら)わかったはずだった。

 1999年頃、セルゲイは市の中心にある自分のアパートを賃貸しして、郊外の安いアパートに住むと言う家賃の差額で生活していたらしい。市の中心にあるそのアパートを借りたのが私で、その後、一緒に住むようになったのだ。というのは、合法婚をしようと申し込みされたからだ。事実婚では難しい『外国人のロシア滞在許可証』を私のために入手できると言うのがこの申し込みの『売り』だった。それまで私はそんなものがあるとは知らなかった。夏休みの帰国毎、大学からビザを出してもらうのが、煩雑だった。手続きというのがここではめっちゃ足と時間と神経がかかる。その許可証があれば選挙権以外はロシア国籍者と同じという。少なくともロシア入国ビザは必要ない、と説明された。そんな口実はあるにしても、少なくとも私を気に入ったからだと思った。「興味本位でやってみようではないか」とうそぶいて彼は13歳年上の日本女性に結婚申し込みをしたというわけだ。それに、実は私は(この機会に)国際結婚と言うものを一度はしてみたかった。相手の容貌もそれほど悪くはないように思えた。面白半分でとはロシアらしいかも知れない。カップルとして力を合わせて家庭を築くには年齢も環境もふさわしくない。共通の財産も子供もあり得ない。女性にとって結婚は人生の最大イヴェントという大正生まれの母親に育てられた昭和生まれの私は、不思議な気持ちでロシア側と日本側の手続きを済ませた。彼は日本に住みたかったのだろうか、日本国籍でも取得できると考えたのだろうか。
 しかし、同居生活をして数週間で相手の人格に疑問を持った(自分のことを棚に上げて言えばだが)。親の教育の失敗例というものだ。私は必ずいずれは帰国するが、日本で生活できない彼を伴ってまでとは、思えなくなった。先のことは不問にして共同生活を続けた。
 ロシア人にすら不便なクラスノヤルスクで生活していたとき、ロシア人のパートナーは頼もしいではないか。彼も「妻が日本人だ」と言って得したこともあったようだし、私の車を利用できたし、何よりも経済的に得をした。彼は無職だったので一切の支出は私が受け持った。はじめ、私は一時的に失業しているのかと思っていたが、いつまでたっても就職しなかった。「創造的な休暇中だ」と外部に言って、感心させていた(と言うより、相手の二の句を塞いだ)。私には大学からのわずかなだが定期収入と家庭教師による収入、通訳の臨時収入があって、二人が食べていけたのだ。日本からの持ち出し外貨はあまり減らなかった。
 私は数回彼と一緒の旅行をした。2000年末には列車でウラジヴォストック、2001年初めには列車でモスクワ、3月イルクーツク、その秋には車でハカシアやトムスクへ行った。しかし、2002年『モスクワ・ゴールデン・リンクの旅』は旅行社に2人分の代金を支払った後、彼は行きたくないと言った。私の愛情が足りなくなったからだそうだ。私は拝み倒して同行してもらった(実は彼の同行を当てにしてこの旅行の申し込みをしていたからだ)。同年『エニセイ・クルーズの旅』も、旅行社に予約した後に、寒い北方なんか興味がない、船の上から人知れず落とされるかも知れないと彼らしいあり得ないような理由で行きたくないと言ったので、もう説得するのはやめて、旅行社にシングル・ルームと換えてもらった。クルーズ船には大学の教え子もバイトで乗っていたので、彼女を当てにできる。さらに、2003年『チェコ旅行』では、彼が行きたいと言って申し込み支払いをしたのだが、私は前もってチェコ語会話集など買って楽しみにしていた。それを見ていた彼から前々日にまさかの拒否。なぜなら、旅行社に自分がチェコに行って不法滞在されないよう両親の詳細まで聞かれたからだという。もう拝み倒すのはやめて私は一人で心細い旅に出た。一体これらドタキャンはわざとやっていることだろうか。
 チェコ旅行の前になるが、2002年夏の帰国に彼を同行させようとしていたとき、それは彼との2度目の帰国予定だったが、ハバロフスクの領事館でビザ取得を手伝ってくれるという私のかつての教え子のロシア人について、あまりに汚いことを言うので、私が切れた。
 年下の男性パートナーは相手に過剰に干渉すると言うが、その通りだ。私が日本語の家庭教師をしている相手にはすべて悪口を並べたし、それ以外の私の知人にも裏や表で悪口を浴びせた。朝から晩までくりかえし「誰それ(知人のロシア人)はスパイだ」「自分が日本人と結婚したために親戚の誰それは差別された」「自分はすごい迫害に遭っている」「日本人と結婚したため殺される」「秘密警察からスパイになるように言われたが断ったので、命を狙われている』「あの日本語の雑誌を誰それ(ロシア人)にやったな」「このアパートに男性を引き入れている」などなど、全く根拠がなく、荒唐無稽、私が聞いて不快になるようにと繰り返し言うのだ。性格だと思った。自分に自信がない半生(38年間)を送ったからだろう。私の「外国人用ロシア滞在許可証にある住所が間違えて記されていたのは(当時は手書きだった)故意である。このアパートを乗っ取るために仕組んだことだ」とあまりに繰り返し聞かされたものだから、私もまさかと思うようになったくらいだ。だが、知り合いの大使館員に相談して笑われた。同じことを繰り返し聞かされると根拠がなくても洗脳されるものだ。彼のアパートは1DKだったが場所がよく、若いときに何らかのコネで手に入れたらしいが、彼にとっては大財産だ。だから、絶えずこのアパートを奪われると言っていた。
 いいかげん、私は彼のアパートをでようと、ネット環境があって安全な地区で、あまり高価でない賃貸しアパートを探したが、当時、クラスノヤルスクの住宅事情は厳しかった。中心地区でもネズミやゴキブリと同居するか、ヨーロッパ風リフォーム(と呼ばれていた)済みの家は私の大学からもらう給料より高かったのだが、そこを借りるかだった。彼の言動を無視すれば同居できるかと虫のいいことを考えて、1年間ほどは決めかねていた。が、クラスノヤルスクを訪れてたまたまお世話をしてあげた日本人からもらった雑誌(日本語で書いてあると言うだけで彼には貴重に写ったのか)を、あるロシア人に勝手にあげたと言って、彼が暴力を振るった時、私は知り合いのアパートへひとまず逃げ出した。しばらくして、私はそこから、クラスノヤルスクでは3軒目のアパートに移ったわけだ。
 別居後、彼はしばらく一人で生活していたらしいが、まともな収入のなかった彼をモスクワ州から父親が来て引き取っていったと、後にアパートの管理人から聞いた。モスクワの彼からのメールによると、両親のアパート近くにできたミシュランの工場に就職したとか。立派なものではないか。クラスノヤルスクでは自分の無職の状態を『創造的休暇中だ』と気取っていたが、完了したのか。
 帰国後、昔のあのパートナーはどうしているか、私も何度か返事のメールを出した。実害はないからだ。彼はよりを戻そうとしていたのか、日本へまた行きたかったのか、もっと大胆なことをあわよくばと目論んでいたのか知らないが、頻繁にメールを書いよこした。半分はあることないことの罵倒の内容だったので、私は遠くて安全な場所から適当な返事を送っていた。
  モスクワ Москва
 
 居間のオーリャ
 
 台所のユーリャ
 2月9日(水)シェレメチエヴォ空港着。迎えのタクシーの運転手はナターシャが差し向けてくれたのだ。運転手には『タカコサン』と書いた紙を持ってもらったらどうかと言われていたが、『ニキータの友達』という文言にしてもらう。セルゲイも来るかもしれないと思ったからだ。前述のように、当てにならないセルゲイを当てにして空港で途方に暮れてはやばいと思って、堅実なナターシャに頼んでおいたのだ。この時、空港にはなんと、ちょっと張り切ったようなセルゲイも迎えに来ていた。しかし、私はセルゲイの非難を無視してナターシャの差し向けたタクシーの方に乗って、ナターシャの用意した宿に向かった。セルゲイは、昨日買った携帯を持っているという。別れる前に番号を教えてくれた。
 タクシーが案内してくれたところは普通の集合住宅の一つ。後でわかったことだが、普通の家族の家だった。女主人のオ-リャと娘さんのユーリャが住んでいて、きっとどこかに登録してあれば泊まり客を斡旋してもらえるのだろう。私はその家の個人的な客のような待遇で、彼らと一緒に寝泊まりしたわけだ。セルゲイは夜の10時半ぐらいに電話をかけてきて、明日9時に迎えに行くという。
 
 2月10日(木)9時には彼は現われなかった。後で彼が言うには、駅の待合ホールで寝ていたが眠れなかったので家に帰ったとか。それで午後4時になって現われる。彼が今住んでいる両親の家は首都と同名のモスクワ州と言ってもひどく田舎で、カザニ駅から電車やバスを乗り継いで片道3時間はかかる(当時)。
 
 モスクワ州(緑色、南北に310キロ、東西に340キロ)と
カルーガ州に囲まれたモスクワ連邦市(赤文字)。
モスクワ市の東北部を囲む延長約100キロの
モスクワ環状道路内は
モスクワ市の三分の一を占める(黄緑)。
都市管区の行政中心市は黄色でも
 1993年からは法令でモスクワ州にはモスクワ市は含まれないことになったそうだ。モスクワは連邦市となり、サンクト・ペテルブルクや後のセヴァストーポリの3連邦市は別格のロシア構成主体なのだ。ロシア連邦にはモスクワ州やクラスノヤルスク地方、トゥヴァ共和国など現在85の連邦構成主体がある。モスクワ州にはモスクワ市をぐるりと囲んで63の都市管区があり、そのうちの東の端のアレホヴォ・ズエヴォОрехово-Зуево都市管区の南西にあるダヴィドヴォ村に彼の両親の住むアパートがある。2002年(モスクワ・ゴールデン・リンク・ツアーの折に)に一度だけ訪れたことがある。彼の父親は村の機械工場で働いていたと紹介された。後にネットを見ると、戦争中からダヴィドフ機械工場があって軍需製品を造っていて、その工場は成績優秀だったらしい。1984年には農業用品も生産する社員2200人の工場だったとある。
 2004年7月フランスのミシュラン社のタイヤ工業がダヴィドフ村で操業開始した。社員は1000人で日に5000個のタイヤを製造とか。 製品はロシアのフォードやトヨタやプジョ-に納品するとサイトに載っている。彼はここに現地採用されたということだ。

 4時になって現われたセルゲイとぶらぶらとモスクワの町を歩き回り、喫茶店でコーヒーを飲んだ。今や定職に就いている彼にはそれなりに経済力があるだろうから割り勘にできる。ミシェランに勤めていることが得意そうだった。タイヤの品質選別のグループの一つの責任者になっているとか。絶対に秘密だとか言ってポケットから鍵束を出してチラリと見せてくれた。何の鍵なのかどう秘密なのか私にはちっともわからなかったが、彼の「秘密」には興味がないので聞き流していた。工場では全く傷のない製品をより分けてトヨタなどの一流社に納品し、多少の傷物はどこそこへ、と言ったことだけ聞き取った。トヨタはどこでも威張っているのだな。
 彼は工場で妻が日本人だと自慢しているらしい。(当時、正式には離婚していなかった)。何しろミシュランは外国の会社だから、現地採用の社員たちはフランスから派遣される経営陣に一目置いているような口ぶりだった。工場長は単身赴任のフランス人という。妻が日本人だと自慢話を聞かされた彼の同僚のロシア人が、ではなぜ妻はダヴィドヴォ村ではなく日本にいるのかと皮肉に聞き返したそうだ。「工場長の妻もフランスにいるではないか」と答えたとか。私がだしに使われても、実害はないからいいか。
 その工場ではフランス人のみが上に上がっていき、ロシア人(工員が多い)はずっと同じ地位だと不満を言っていた。フランス語がよほど堪能で、よほど実力があって、抜け目のない現地採用者でなければ上に上がるのは難しそうだ。後に知ったことだが、定年まで単純作業をやって地道に稼ぐ気のない彼は、その後数年で退職したそうな。
 北西ロシア

 2月11日(金)朝、彼の携帯に電話してみた。長い間呼び出し音は鳴ってはいたが、つながらなかった。これは、後で彼が言うには電話の音にも気がつかず駅で寝ていたそうだ。だがあまりしつこく音がしているので、通行人に起こされたそうだ。
 やがて現われた彼と、モスクワ見物もそこそこにサンクト・ペテルブルクへ行くことにした。私が行きたいと言ったのだ。モスクワ発サンクト・ペテルブルク行きの昼間の急行に乗って12時30分発、21時着。
 日本の電車のように座席が並んでいる。ロシアで昼間の急行に乗るのは初めてだ。ユーノスチ Юность(青年の意)という列車名で、チケット590ルーブは高くない。車内食も予約できる。ヨーロッパ並みのサーヴィスと言う(いつも聞くこの言葉、ロシアの程度はヨーロッパの下だと芯から認めているのか)。8時間半(それは当時の所要時間、その後には7時間半となる)かかるのは停車駅が多いからだ。急行なのに停車駅が多いという理由でも、運賃が高くないという理由でも、その列車名のように青年に人気のあった列車だった。2009年には特急列車サプサン(ハヤブサの意)号に取って代わられた。2020年ならサプサン号に乗れば4時間かからない(約1700ルーブル)。今、寝台列車『ユーノスチ』号という名でハバロフスクとコムソモール・ナ・アムール間を走っているとか。
 
 ドアの上のテラスに『ホテル ガラクト」と言う看板
当時はこんなホテルらしくないホテルもあった

 サンクト・ペテルブルクの宿は決まっていなかった。どこか清潔で安そうなホテルを探し回ったあげく、元寄宿舎を改造したというホテルに決めた。『ガラクト Галакт』という。1泊1300ルーブルだった。3泊した。今(2020年)ネットで検索してみるとちゃんと出てきた。こぎれいな普通のホテルの室内やロビーの写真が載っている。ツインは1900ルーブルとあまり値上がりしていない。
 サンクト・ペテルブルク、かつてのレニングラードに始めて行ったのは1982年だった。それから1992年まで毎年のようにレニングラードへ行った。ロシアで訪れたのはレニングラードと、途中の中継点モスクワとハバロフスク、都合でペトロパブロフスク、それにイルクーツクだ。1992年のあとは訪れていない。だから13年目のサンクト・ペテルブルクだった。かつてのレニングラードでは当時外国人が訪れることのできた名所というところは大概見て回ってはいた。
  サンクト・ペテルブルク Санкт-Петербург
  2月12日(土)現在(2018年頃)のサンクト・ペテルブルクは、かつてのレニングラードとは様変わりしている。が、2005年のサンクト・ペテルブルクは、かつてのレニングラードとはあまり変わりはなかった。(レニングラードからサンクト・ペテルブルクへの改名は1991年)。
 血の上の救世主協会
 
 海のニコライ大聖堂
 サンクト・ペテルブルクの通り
 宮殿前広場
 エルミタージュ美術館への順番
 ダムの上の道を通りコトリン島へ渡る
 11時にガラクト・ホテルを出て、クンスト・カーメラへ行ってみた(入場料60ルーブル)。以前に入ったことがなかったからだ。『血の上の救世主教会(ハリストス復活大聖堂)』は、かつては修理中だったが今は見られる(100ルーブル)。カザン大聖堂へも行った。ネヴァ川岸通りも歩いた。運河に架かる橋も渡った。かつてあんなに足繁く通った末、何年も見なかったあのレニングラードをもう一度見ることができて奇妙な感じだった。それも別の人と。もちろん宮殿前広場へも行った。
 (自分の顔ばかりが写っている写真だが、当時は観光客がまだ少なかったことと、懐かしいので掲載した)
 
  2月13日(日)ホテルを9時過ぎ出発して、エルミタージュ美術館に行く(入場料100ルーブル)。20分ほど順番について2時半ほど見物。撮った写真が多い。
 ガスティンニィ・ドヴォールも行った。
 観光バスで、2時過ぎクロンシュタットへも行った(300ルーブル)。フィンランド湾コトリン島にあるクロンシュタットは1996年まで閉鎖都市だった。つまり、一般ロシア人もましてや外国人は許可なく訪れることができなかった。ロシア革命で有名だったと思い出して、セルゲイに勧めて行ってみることにしたのだ。2016年にも訪れたのだが、その時とは違って2005年のコトリン島は裏寂れた町で、内装が海の模様できらびやかな『海のニコライ大聖堂』も当時は修理中だった。外から見ただけだ。6時過ぎサンクト・ペテルブルクに戻る。
 また『夕べのサンクト・ペテルブルク』という観光バスに乗る(100ルーブル)

 2月14日(月)11時頃から市内観光のバスでペトロパヴロフスキィ砦などへ行く。屋根の上を歩く。めっちゃ寒い。今回セルゲイとアレクサンドル大修道院も青銅の騎士もオーロラ号も当時の観光地はすべて回ったらしい。覚えていないが写真があるから。
 16時バスでノヴゴロドへ向けて出発(190ルーブル)。サンクト・ペテルブルクとノヴゴロドの間は180キロで、1日に何本も路線バスが通っている。10年間もロシアにいたが、ウラルの西へは数回しか行かなかった。旅行が不便だったからだ。ノヴゴロドと言えば、ロシア史の副主人公ではないか。と、ここまで来たついでに行ってみる気になったのだ。
 3時間ほどの乗車で、19時過ぎノヴゴロド着。ヴォルホフ・ホテルは高いのでその隣の950ルーブルのホテルに泊まる。
 ヴェリーキィ・ノヴゴロド Великий Новгород
 聖ソフィア大聖堂、11世紀中頃、戦後修復
 ロシア建国千年記念碑(ウェブサイドより)
背後は聖ソフィア大聖堂
 Ярославово дворищеヤロスラヴォ取引所
 Новгородский детинец内城
初出1044年、現在の城壁(クレムリン)は15世紀
 2月15日(火)ヴォルホフ・ホテルが高級そうなのは、ノヴゴロドと言えばヴォルホフ川だからだ。ヴォルホフ川の畔にノヴゴロドができた。バルト海のフィンランド湾に流れ出すネヴァ川を遡るとラドガ湖にでる。そのラドガ湖に注ぐのがヴォルホフ川、そのヴォルホフ川を遡るとイリメニ湖にでるが、その直前のヴォルホフ川岸にできたのがノヴゴロドだ(地図)。イリメニ湖からラドガ湖まで流れる全長224キロのヴォルホフ川の下流にあるのが古代都市ラドガ、上流にあるのが古代都市ノヴゴロドで、ロシア史のはじめからその名が出ている。このバルト海(フィンランド湾)からイリメニ湖のルートは当時の交易路の一部でスカンジナヴィア人(ヴァイキング)の通り道・勢力圏でもあった。10世紀前後のロシア史の舞台はここだ。
 北東ヨーロッパのロシアの地形は西ヨーロッパと違って平坦で、だから高低差の少ない丘陵地帯や平原を河川が緩やかに流れ、水系を分ける分水嶺も低く、別の水系に渡るのもそれほど難しくはない。
 考古学調査によって9世紀頃かそれより前にヴォルホフ川上流支流のプロスチ Прость 川岸にスロヴェネ族(北東スラヴ)やフィン・ウゴル人、バルト人、スカンジナヴィア人の集落ができていたとわかっている。それらヴォルホフ川上流に鎖状にあった諸集落(プロスチ川畔の集落、左岸はペルィニ Перынь の地とも言った)を古ノルド語でホリムガルド Хольмгард と呼んでいた。それは、つまりノヴゴロドのスカンディナビア人、つまりヴァイキング(ヴァリャーグ)という(武力も使う)交易人達が名付けた地名だ。
 公式には『原初年代記』の記述からノヴゴロド創設は859年とされる。また、その『年代記』によると、
「ヴォルホフ川上流にいたイリメニ・スロヴェネ族(最も北に移住した東スラヴ人)、クリヴィッチ族(西ドヴィナ川、ドニエプル川、ヴォルーガ川の上流域に形成された東スラヴ族の連合体)、チュヂ族(フィン・ウゴル系)、ヴェシ族(フィン系)、メリャ族(フィン・ウゴル系)らが自分たちの内戦を収めるべく相談し、海の彼方のヴァリャーグの元に諸族を統治する公の派遣を要請した。862年、この時招かれた公の名をリューリックという」
と、これは『ヴァリャグ人招致物語』だ。
 考古学的調査からノヴゴロドは10世紀頃に現われたそうだ。
 その後キエフ・ルーシ封建侯国の中でノヴゴロド公国(共和国)は北方で栄えていた。モンゴルの侵入も免れたが(貢納はした)、1478年、東北ルーシの新興のモスクワ公国に征服された(交易の主導権がモスクワに移った)。が、16世紀の動乱期にも消滅せず、今に残っているので、再建されたにしても名所がめっちゃ多い。
 
 ペルィン僧院の聖母降誕教会
十字架が空に映る写真をもらった 
 
 1862年ノヴゴロドのクレムリン内に高さ15.7メートル、ブロンズ製の『ロシア千年紀』が建てられた。(碑の写真は撮ったが全体が写って
ないので、ウェブサイドからのコピーを掲載)。為政者や文化人の128体の像が三段になってぐるりと並んでいる。最上段は、十字架を抱え持った天使(正教会を象徴)と跪く女性(ロシアを象徴)の2体の像が宝珠に乗っている。中段は17体、下段は109体と、天使も入れて確かに128人いる。第2次大戦中ドイツ軍にかなり解体されたが、戦後少しずつ修復されたそうだ。(帝政ロシアの為政者は862年からロシアの歴史が始まったという自己流の歴史観、それが現在にも引き継がれている.後記) 
 ノヴゴロド市は1999年ヴェリーキィ・ノブゴロドと改名した。なぜならノヴゴロド(新しい町の意)はロシア各地にあるので、ヴェリーキィ(偉大なの意)をつけて区別したわけだ。ロシアで最も古い町の一つが、ノヴゴロドと命名されたのは、ヴォルホフ川上流に、当時、多くの集落があって、その中で新たに城壁を作ってできた町だからかも知れない。

 私たちは10時過ぎホテルを出て、ノヴゴロドのクレムリンを見て、11時30分から4時過ぎまで1000ルーブルでガイドを頼んで観光した。(割り勘なので一人500ルーブル)。写真は何枚か撮ったが、何を撮ったのか忘れてしまったものが多い。覚えているのは市の南の外れのヴォルホフ川左岸のペルゥイニにあるスキット群内の教会だけだ。スキット скитというのはコプト語からのギリシャ語で、元々人里離れたところにある修道僧の住むところの意.クラスノヤルスクにもあった。そこには聖母降誕教会 Церковь Рождества Богородицы という14世紀から1764年までおつとめが行われていたというスキット群内教会があった。(1764年エカチェリーナ2世の教会土地改革・教会財産を国庫へ没収によって廃止・聖ユリエフ修道院に移行、1828年スキットを併設して再興、1919年閉鎖、1991年復興)。ノヴゴロドの南にある12世紀に初出という聖ユリエフ修道院から6キロ南にあるが、『聖ユリエフ修道院ペルィン聖母降誕教会・スキット Святой Юрьев монастырь Перынский скит в Перыни』という。僧院を案内してくれたのは僧院関係者か写真家か覚えていないが、照明された十字架が低い雲に浮かび上がる写真をくれた。スキットの由来や、奇跡のような映像の説明をしてくれたと思うが覚えていない。今その時もらったパンフやネットの記事を参照すると;
 『年代記』によるとペルゥイニの地には、古代ロシアの最高神・雷の神ペルンを祭る大神殿があった。それは980年、まだキリスト教洗礼前のウラジーミル大公が建てたものだ。989年ウラジーミル大公が洗礼を受けた、ということはノヴゴロドとキエフなどの、大公の勢力範囲の東スラヴ人も洗礼を受けたと言うことだ(辺境の東スラヴ人は12世紀になっても洗礼は受けなかった)。つまり、特にウラジーミル周辺では、ペルン神などを祭る『異教の偶像崇拝』から、一気にキリスト教になったと言うことだ。巨大な偶像のペルン神はヴォルホフ川に投げ込まれた。伝説によれば、995年かつて神殿のあったところに木造の聖母生誕教会と修道院が建てられた。僧院・スキットは前記のように閉鎖や再興を繰り返した。13世紀建立という石造りの聖母聖誕教会は1960年代に調査修復。1992年にはユネスコに登録。2001年には修復完了
と言うことだ。
 頂点にある三日月付きの十字架は夜明けの十字架と言って、八端十字架より古い様式だそうだ。三日月はイスラムと関係ない。なぜこの形なのかとは、いくつか仮説がある。その一つは、三日月はビザンツ帝国の象徴であり、ビザンツ帝国がオスマン・トルコにより征服されてからは、星を取り囲んだ三日月はイスラムの象徴となったが、三日月は元々はキリスト教の象徴だった。あるいは、これは三日月ではなく船である、そうすれば十字架は帆である。船である教会はその帆によって神の国へと導かれる。別説では、それは幼いイエスが眠ったベツレヘムのゆりかごである。またはエルサレムの盃である、など。
  プスコフ Псков
  2月16日(水)。プスコフと言う古都もロシア史を読んでいると度々出てくる。ミハイル・ポクロフスキィの『簡略ロシア史』には「ノヴゴロドの『外市 пригород』のプスコフ」とも書いてある。ここまで来たのだから足を伸ばしてみようということになった。プスコフ州はノヴゴロド州の隣だ。135ルーブルでノヴゴロドからプスコフ行きの列車の乗車券を買う。
 
 ルーガ駅
 
 プスコフのクレムリン(クロム)へ向かう
 
 ドゥブノントフ側の門
 
 クロムの中、至聖三者大聖堂
 7時半ノヴゴロド発、10時頃ルーガ Луга 着、12時15分ルーガ発、14時50分プスコフ着、と日記には書かれているから、今でもそんな列車が走っているかとサイトを調べたがない。「ノヴゴロドからプスコフ」と検索すると、ペトロパブロフ発の急行列車『ラストチカ(ツバメの意)』号しか出てこない、この『ツバメ号』直通列車では500ルーブル前後の運賃で4時間から4時間半で行き着く。運行地図を見ると、ノヴゴロド・ナ・ヴォルホフ(とも言う)駅からドゥノー Дно駅経由でプスコフへ4時間だ。2005年に私たちの乗った列車はルーガ 駅経由で7時間以上かかったわけだ。ノヴゴロドからプスコフは『ツバメ』号のようにドゥノー駅経由だと220キロ、ルーガ駅経由だと244キロだ。(サンクト・ペテルブルクからノヴゴロドより少し遠い)。
 2005年の時、ルーガで乗り換えるチケットを買ったのか、直通だがルーガで2時間近く停車するような列車(たぶんサンクト・ペテルブルクからの別の列車に連結してもらうため)のチケットを買ったのか覚えていないが、ルーガ駅では降りて、記念に駅の写真も撮った。
 ルーガ市はレニングラード州の南東にあって人口3万人余で、第2次大戦の時ドイツ軍との激戦地だったそうだ。サンクト・ペテルブルクから138キロ南にあったルーガ駅は、1862年開通のペテルブルク=ワルシャワ鉄道間の主要駅だった。その路線は1907年には運行されなくなったそうだが、サンクト・ペテルブルクのワルシャワ駅(という名前の駅。現在駅舎としては廃止、記念建造物として修復され、商業センターとして使用)を出て、ガッチナ、ルーガ、プスコフから今日のラトビアやリトアニア、ベラルーシを通ってポーランドのワルシャワに通じる1333キロの鉄道だった。
 今は軌道幅が異なる国境を渡ったり、シェンゲン圏もまたがなくてはならないので、直通列車は運行されていないそうだ。サンクト・ペテルブルクからプスコフまで、またはエストニアとの国境のペチョールィ駅までの急行しかない。ルーガ駅やプスコフ駅の列車時刻表を見ても国際列車はない。しかし、かつての帝国の鉄道路線の主要駅ルーガだったらしく、駅舎もなかなか立派だった。ペテルブルク=ワルシャワ鉄道路線間にある53駅が5級まであるうちの2級(1級は6駅)という。
 お昼過ぎにプスコフに着き、1泊550ルーブルのオクチャブリスキィ(10月の意)ホテルをとった。ロシアでは10月(旧暦の10月革命から)と5月(メーディー)のみがやたら多い。1月にはロシア正教で降誕祭があるがヤンヴァーリ(1月)ホテルとかは聞いたことがない。数字の上ではソ連時代を脱していない。
 プスコフにはせっかく来たのに滞在したのは半日で、1時間半の市内観光(200ルーブル)で見たところはプスコフのクレムリン кром ぐらいだったかも知れない。クレムリンとその中にある至勢三者大聖堂の写真とクレムリンの高見から見たらしいヴェリーカヤ Великая 川かプスコフ川の写真しかパソコンにない。
 プスコフのクレムリンは11世紀末から12世紀初め頃に、ヴェリーカヤ川とプスコフ川の合流点にできた。合流点というのは大抵、交易の、だから軍事的な主要地点になるものだ。ヴェリーカヤ川はベラルシアとの国境地帯の丘陵から、多くの支流を集めながら北へ430キロ流れてプスコフ湖に注ぐ。ヴェリーカヤ川がプスコフ湖に注ぎ込む少し前に、北東から流れてきて合流するのがプスコフ川だ。
 プスコフ湖は正確にはその北のチュード湖 Чудское озеро と細いチョープロエ湖 Теплое озеро でつながっていて、チュード・プスコフ湖という。ヨーロッパで5番目に大きい湖だそうだ。プスコフ湖はロシア領。チュード湖とチョープロエ湖は西がエストニア領で東がロシア領。チュードというのは古代ロシア人がセートゥ Сету 人を含む古代エストニア人、またはフィン・ウゴル系の諸族全体を(侮蔑的に)呼んだ語。エストニア人は自分たちをチュードとは決して呼ばない。だから、チュード湖もエストニア語ではペイプシ湖、チョープロエ湖もレーミ湖、プスコフ湖もピヒクバ湖と呼ぶ。
 プスコフは2020年の人口は21万人。『年代記』の初出は903年だが、それ以前からももちろん人々(バルト系人の祖先)は住んでいた。私たちが訪れたプスコフのクレムリン(城郭、内城、クロム)は厚い壁に囲まれた3ヘクタールの中に、至聖三者大聖堂Троицкий собор など歴史的な建造物がある。至聖三者大聖堂は10世紀に初めの木造の建物が建てられ、現在のものは17世紀末だそうだ。クロム(プスコフのクレムリン)というのは、プスコフの砦(クレポスチ крепость)の核だ。つまり、内城のクロムは今のプスコフ市の旧市街の215ヘクタールを囲むプスコフの砦=クレポスチ=外砦とヴェリーカヤ川に囲まれている。と言うことは、敵はクロムに行き着くにはクレポスチを破るかベリーカヤ川を渡るしかないのだ。
 中世のプスコフはロシアばかりかヨーロッパでも屈指の大都市として交易の中心、また、ロシアの防衛基地でもあり、防衛ばかりかロシアがヨーロッパに(西方に)攻め込む時の基地としてもあった。それで、幾度となく西方や北方から攻められた。クレポスチ(砦)は当時最も難攻不落に作られ、15世紀だけでも26回も包囲されたが持ちこたえたそうだ。リヴォニア騎士団 Ливонский орден(ドイツ騎士団のリヴニア地方にあった分団)、リトアニア大公国、ポーランド王国およびリトアニア大公国 Речь Посполитая(*)、スウェーデンなどからだ。18世紀頃までは(ペテルブルクができる頃までは)ロシア帝国の前哨だった。
 (*)『プスコフの包囲』として、1581年から1582年のポーランド・リトアニア大公国のステファン・バートリ王の包囲を持ちこたえた、または撃退したという事件がロシア側のロシア史では特に有名で、トレチャコフ美術館に大きな絵(**)がある。ロシア軍(イヴァン4世)がリヴォニアやエストニアを狙って、ポーランド・リトアニア軍(ステファン・バートリ王)やスウェーデン軍と戦かったリヴォニア戦争の終盤にあった包囲戦だ。力をつけてきつつあったモスクワ大公国(のちにロシア)が、西へ南へと膨張しようとした時期の戦争だった。南の方は弱体化したモンゴル継承国を征服できたが、西の方は当時(ロシアより100年は進んでいた)強大なポーランド国に阻まれ失敗した。教皇の仲介で1582年ヤム・ザポルスキの和約 Ям-Запольский мир によって休戦が確立した。条約の条件として、バートリはプスコフの包囲戦をあきらめて、ヴェリーキィ・ルーキ(***)の町を去った。ロシア語のサイトでは、プスコフを包囲したが破ることのできなかったバートリは、やむなくイヴァン4世と和睦して去ったとなっているが、リヴォニア戦争はバートリ側の勝利だった。リヴォニアはリトアニアに、エストニアの一部とイングリアを獲得し、カレリアはスウェーデン領となり、ロシア・イヴァン4世の西方進出は阻まれた。(16世紀は軍事大国スウェーデンのバルト帝国の時代だった)
 (**)トレチャコフ美術館の絵 。プスコフのクレムリンを包囲し破壊しようとしたがどうしてもできず、撤退したというポーランド軍の場面を描いたカール・ブリューロフ(1799-1852)の縦48メートル横68メートルの巨大な絵『プスコフ包囲』がトレチャコフ美術館にある。絵画の明暗でプスコフ側(ロシア正教)が善、ポーランド側(カトリック)が悪とよくわかるように描かれている。
 カール・ブリューロフを検索してみると、彼は1836年に縦55センチ横71センチの小型の同名の絵を描いている。習作だったのかも知れない。そちらの方はロシア美術館保管となっている。トレチャコフのもロシア美術館のも未完となっている。
 (***)ヴェリーキィ・ルーキ Великие Луки  現代のプスコフ州には、
9-10世紀頃から多くの集落があった。ヴェリーカヤ川と平行に北に流れてイリメニ湖に注ぐロヴァチ Ловать川にも多くの集落があった。ヴォルホフ、ヴェリーキィ、ロヴァチの沿岸が10世紀前後のロシア史の主要舞台の一つだ。ロヴァチ上流岸に35カ所もの9-10世紀の工房が発掘されている。『ロヴァチ川の城壁都市Городок на Ловати 』とネットの検索に出てくる。スカンジナヴィアとバルトと西スラヴ要素のある陶器類が発掘されているそうだ。1161年初出というベリーキ・ルーキ市の方はその3キロ北にある。1211年にノヴゴロド公国がクレムリンを建設している。ヴェリーキィ・ルーキは、プスコフやノヴゴロドの南を守る戦略的に重要な都市となった。
 
 10-12世紀のプスコフはキエフ公国の一部だった。12-13世紀はノヴゴロドと一体化していた。
 1241年にドイツ騎士団に占領されたが、ロシア史では必ず出てくる英雄アレクサンドル・ネフスキーのチュード湖上の戦いで撃退した。ロシアの歴史教科書にとっては大きな出来事だった。
 1348年ノヴゴロドから独立し、プスコフをハンザ同盟に加入させた商人達によるプスコフ共和国の首都として栄えていたが、1510年にはモスクワ大公国の一部となった。

 プスコフ近郊には古い町が多い。この地方はロシアの中でも最も早い時期に東スラヴ人が住んでいた地の一つだ。『年代記』にプスコフ(古くはペレスコフ Плескова) がスラヴ人も住む町として表れたのは前記のように909年だ。プスコフの30キロに市にあるイズボルスク Изборск は862年が初出。3人のヴァリャーグが要請を受けて、種族間(氏族間)の戦いが絶えないロシアに現われたという物語『年代記』にその名が出てくる。長兄リューリックはノヴゴロドに、次兄シネウスはベロオーゼロ、3番目のトゥルヴォルТруворがクリヴィッチ族のイズボルスクを得た。2年後シネウスもトゥルヴォールも死に、すべてがリューリックのものになった、とある。
 考古学的調査ではプスコフの地には2000年かそれ以上前の遺跡がある。はじめはバルト人とフィン・ウゴルの諸族が住んでいた。6世紀頃東スラヴのクリヴィッチ族が現われた、そうだ。
 プスコフを回っていると「ペチョールィは・・・」「ペチョールィには・・・」とよく耳にした。ここまで来たのだからそのペチョールィも回ってみよう。
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