up date | 2006年12月6日 | (追記:2020年10月9日、2020年11月22日、2022年4月6日) |
18-(2) モスクワ、北西の古都、クラスノヤルスク(2) 2005年2月9日から2月24日 |
1)帰国 | 2)ペチョールィ |
モスクワ | モスクワからクラスノヤルスク |
サンクトペテルブルク | クラスノヤルスクの通り |
ノヴゴロド | 懐かしいクラスノヤルスク |
プスコフ | モスクワ(後記:セルゲイ) |
2004年9月に断続的だが10年間滞在していたクラスノヤルスクから帰国した。翌年2月にモスクワやクラスノヤルスクに訪れてみた。2006年12月6日にこの旅行記を書こうと思ったが、書けなかった。2020年10月になって、当時の日記や写真などから思い出して書いてみた。(前ページより続き) | ||||||||||||||||||||||||||
ペチョールィ Печоры | ||||||||||||||||||||||||||
ペチョールィはプスコフから53キロ西で、10時過ぎ出発して12時前ぐらいに着いた。プスコフとペチュールィの間には『年代記』初出がプスコフより早いイズボルスクも通った。ここにも有名なクレムリンがあるが、通った時はそんなことは知らなかった。 ペチョールィ市の中心から3キロ北に、延長93キロのうち60キロはエストニア領内を流れ、13キロはロシアとの国境を流れ、さらに北へ20キロ流れてプスコフ湖に注ぐというピウサ川 Пиуза または Пимжа があって、両岸にはそれぞれの国の税関がある。(ロシア側は自動車道の税関クニチナ・ガラ Куничина гора、しかし、この国境通過は当事国民のみ許可)。 ペチョールィは、エストニア語やセートゥ語ではペツェリ Petseri という。ポーランドとリトアニアの間にあるロシア連邦の飛び地カリーニングラードを除けば、ペチョールィはロシア連邦の最も西にある。 ペチョールイの略史は; 16世紀、プスコフ=ペチェルスキィ修道院 Псково-Печерский монастырьに隣接する集落として誕生した(1472年とも)。同修道院は1489年(1392年)に開かれた洞窟修道院(*)で、ロシア語のペチョールィ Печоры という地名も ペチシェーラ(пещера 洞窟の意、下記)が由来であり、街の紋章にも洞窟が描かれている。 (*)洞窟修道院 は現在でも、ロシア、ウクライナやバルカン、クリミア、カフカース、近東にある。ペチョーラ Печора, Печёра はペチシェーラ Пещераの古い形。有名なのはキエフ・ペチョールスキィ大修道院とここだ。この集落はやがてロシアの国境貿易の重要な街となった。イヴァン4世の時期にはモスクワ大公国の西部国境を守る要塞でもあった。このような位置関係から、ロシアに侵入する様々な軍により攻略されている。前記ポーランド・リトアニア共和国の国王ステファン・バートリの1581年プスコフ包囲戦にも巻き込まれた(ペチョールィは持ちこたえたとか。またスウェーデン軍やポーランド軍が16から17世紀、何度かペチョールィを占領した。また戦場になった。正教の修道院の門前町だったペチョールィには、13世紀にカトリックになり、16世紀にはプロテスタントになったエストニアから(だから宗教避難民の)正教徒も移住してきたとか(後述セートゥ人も)。長い間ペチョールィはプスコフの郊外とされてきたが、18世紀後半または19世紀末には郡の行政中心地の市になった。 1918年から1920年のエストニア独立戦争後のタルトゥ条約で、ペチョールィとその周辺地域はエストニアに帰属することになった。 戦間期(1920-1940年)ペツェリ(ペチョールィ)は当時のエストニア共和国を構成する11の県の一つ、ペツェリ県の中心だった。1940年6月にソ連軍がエストニアへ侵攻して占領し、7月エストニア・ソヴィエト社会主義共和国が成立し、8月にはソ連邦への編入が行われるとペツェリは再度ロシアの支配下に置かれた。
ちなみに、現在エストニアの面積は45,226平方キロで人口133万人に対して、プスコフ州だけでも面積は55,399平方キロで人口は62万人だ。エストニアにエストニア人は69.7%、ロシア人は25.2%。独立直前の1989年は、エストニア人61.5%、ロシア人30.3%だった。 エストニア人の反露感情なら、2、3日間ずつの滞在だったが、1983年から1985年と3回も(団体旅行でだが)訪れたタリンで感じた。そこに文通友達がいたのだ。この時、タリンではロシア語で話しても無視されることがあるから英語を使った方がいいと同行のツァー客が言っていた。また、1991年から1992年、私がクラスノヤルスク地方のゼレノゴルスクにいた時、あるロシア人知人女性が自分の不幸を私に愚痴ったことがある(誰にでも愚痴っていたのかも知れない)。彼女は最近、移住先のエストニアから、父親のいるゼレノゴルスクに戻ってきた。エストニアでロシア人として暮らすことが難しかったからと言うようなことを言っていた。ソ連時代(戦後)に、エストニアに大量に流入してきたロシア人(彼女も含めて)は自身の文化を保持したままで、エストニア人とも解け合うことはなかっただろうし、独立後1993年の「外国人法」によって実質的なロシア人の国外退去までが迫られたからかも知れない。彼女はエストニア語は話せない。 1991年エストニアの独立後もロシアとエストニアの国境問題になっているのは、ペチョーラ区と、レニングラード州西のナルヴァ川右岸のイヴァノゴロッド区だ。住民の大多数がロシア人というエストニアのナルヴァ市で、それは戦後エストニア人の居住が禁止されていたからだとか。 エストニアの古都のナルヴァだが、何とシベリアのクラスノヤルスク地方にもナルヴァ村がある。(当時の私には不思議だった)。村ができたのは19世紀末で、エストニアからの移住者が作ったのだと、クラスノヤルスクの知人が言っていた。クラスノヤルスクにはほぼエストニア人のみの居住地がいくつかある(下記)。 私たちは帰りのプスコフ行きのチケットを買ってから、200ルーブルの修道院ルート(観光)をとる。二人の旅行の主導は私が握っていた。観光はやはり、ペチョールィの中心、プスコヴォ=ペチェルスキィ生神女就寝修道院 Свято-Успенский Псково-Печерский мужской монастырьだ。これがプスコフ洞窟修道院の正式名らしい。修道院内を案内してくれたガイドは、修道院について概略を話してくれたのかも知れないが、私はあまり理解できなかった。(この旅行記は2020年に書いていて、2005年に知っていたことは少ない)。だが、ガイドが「ほらここからドイツ軍の進撃が実際に見えたのですよ」と教えてくれたことは覚えている。ロシア人にとってドイツ軍の占領と、それを破ったことは、2005年ばかりか2020年にも声だかに宣伝されている。いかに悲惨だったか、そしてそれを破ったことがいかに誇りであるかと言うことだ。(ロシア愛国教育の柱だ。これでロシア人の心をまとめようとしている)。ガイドは「ほらあの方向からドイツ軍が攻めてきたのですよ」と建物と建物の間を差す。 そのガイドは、多分ロシア人でもエストニア人でもなくセートゥ人だったと思う。修道院の城壁の隣には博物館があって、私たちはそこへ案内された。(今、2002年発行の地図を見ると、郷土博物館とも歴史博物館ともなっている)。何が展示されていたのか全く覚えていないが、ガイドが熱心に少数民族セートゥについて話したことは覚えている。セートゥは民族として認められていない。しかし、少数ではあるが、エストニア人とは別個の民族であると強調していた。『過ぎ去ったときの跡 ...Следы времен минувших...』展のパンフなどを特別にくれた。これはエストニア大使館協賛セートゥ文化の展示会で、それが2004年にあったものなのか、2005年の当時も続けられているものなのかよくわからない。特別展の方は終わったが、展示はセートゥ文化コーナーに展示されていたのかも知れない。ガイドは日本人の私に特別に『20世紀セートゥの文化』と書いたポスターもくれた。セートゥ文化について、どんな説明をしてくれたのか覚えてはいないが、セートゥには独特の織物の模様があると言うことが、そのとき写した写真からわかる。(ちなみに、フィン・ウゴル系の民族にはそれぞれ固有の模様があると強調され、各フィン・ウゴル族の織物のカラーの本も出版されている)。 現在1万人余のセートゥ人の住むところは伝統的にセートゥマー Сетумаа と言う。その場所は南東エストニアとペチョールィに当たる。1897年のロシア帝国(バルト諸国やフィンランドも帝国に含まれていた)の国勢調査では1万6千人いた。1920年から1940年の独立エストニアの時代はペチョールィ区もエストニア領だったが、今は分断されている。エストニア側セートゥマーには1万人から1万3千人、ロシア側のセートゥマーには200人のセートゥ人が住んでいるそうだ。長い間、固有の民族として認められていなかったので人口は不確かである。ペチョールィ区の1945年の調査では5,700人だったが、1999年は500人。現在は300人未満。 エストニアではセートゥは固有の少数民族とされていない。セートゥ語はエストニア語の方言とされているが、セートゥ人自身は固有の言語とみなしている。セートゥ語の学校教育はなされていなかったが、2006年、セートゥ語の雑誌も刊行された。2009年にはユネスコで消滅の危機にある言語の一つに登録された。最近では南エストニアではセートゥ語教育がなされ始めているそうだ。ロシアでは2010年、固有のロシア少数民族として法的に認められた、とウィキペディアにはある。2005年の時のガイドが熱望していたことだ。 セートゥマーのセートゥ人がいつどのように形成されたかについてはいくつかの説がある。セートゥはエスト人の子孫でリヴォニア騎士団(北方十字軍のひとつ)から東へ逃れてきたのか、元々古くからこの地に住んでいたバルト・フィン系民族なのか、エストニア人とセートゥ人は同じ頃その共通の先祖と分かれたのか。セートゥマーの西のエストニアは13世紀カトリックを受け入れ、16世紀ルター派を受け入れたが、ペチョールィは正教の修道院がある門前町だった。セートゥ人達の村に修道院が建てられたので、その村は門前町ペチョールィと呼ばれたのか。ペチョールィに住んでいたセートィはロシア人に融合して、信仰も言語もロシア化していったのか。 クラスノヤルスク地方ゼレノゴルスク市近辺のエストニア 19世紀末から20世紀初めのヨーロッパ地域からシベリア方面への移動政策で、ウラル地方のペルム県や現在クラスノヤルスク地方のエニセイ県でいくつかのセートィ人のコロニー・居留地ができた。1918年エニセイ県には5-6千人のセートゥ人が住んでいたとウィキペディアに載っている。 私が1992年から2年間住んでいたゼレノゴルスク市の近くにはノーヴァヤ・ペチョーラと言うエストニア人が住む村があった。またその近くにはイスクラというコルホーズ村があって、そこにもエストニア人のみが住んでいると、ゼレノゴルスクの私の知人が言っていた。ゼレノゴルスク(旧クラスノヤルスク45市)は閉鎖都市だった。だからいったんそこに住んだ外国人の私は、勝手に出入りができなかった。また、ゼレノゴルスクからクラスノヤルスクに移ってしまうと(1997年)、もうゼレノゴルスク市には入れなくなる。しかし、住民達は検閲所を通らなくても出入りできる抜け道をいくつか知っていて、普通に通行していた。林道、あるいは獣道をタイヤで踏み固めたようなものなので天候によっては悪路になったり、通行不能になったり、時々は内務省職員が立っていたりするが、私は無事に何度も通った。 旧クラスノヤルスク45市に行くには、正式にはザジョールニィ市を通りすぎ、専用の広い舗装路を走って、検問所で許可証などを見せてからまた舗装道を通りオルロフカ村やオクチャブリィ村(だからこれら普通の村も閉鎖地区領内に入ってしまった)を通り過ぎてゼレノゴルスク市に入る。しかし、正式ではない入り方の一つは、ザジョールヌィに入る7キロほど手前で野原の田舎道に入る、アレクサンドロフカ村を通り、ノーヴァヤ・プリルーカ村を通り、ノーヴァヤ・ペチョ-ラ村を通り、イスクラにでて、そこから踏み固め道を通ってセレノゴルスク人の菜園団地に入るというものだ。ロシアでは大小の都市の郊外(元の荒野)にいくつもの菜園団地がある。ダーチャ・別荘と呼んでいる。当時、シベリアにエストニア人だけの村があるとは、不思議に思ったものだ。知人はそこではエストニア語しか話されていないと言っていた。今、インターネットを検索してみると、ノーヴァヤ・ペチョーラ村などについていくらかわかる。住民は200人ほど。1921年村の初等学校ではエストニア人がエストニア語の授業を行っていたが、1937年教員達は粛正されロシア語教育になった、とある。イスクラにも以前はエストニア人が住んでいたが今は住民がいない。ちなみに、ノーヴァヤ・プリルーカ村はウクライナ(当時は帝国領)のポルタヴァ県プリルーカ村からの移住者達の村だった。 ペチョールィにいたのは2時間半ほどだ。15時前にはプスコフ行きのバスに乗り、16時にはプスコフのホテルで荷物をまとめ、18時発の3等寝台車でモスクワに出発した。 |
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モスクワからクラスノヤルスク | ||||||||||||||||||||||||||
2月18日(金)早朝6時25分にプスコフからモスクワのオクチャブリィ駅着。ガーリャ宅までおくってもらう。8日間もセルゲイと北西ロシアの古都(ラドガ以外)を回ったことになる。セルゲイが同行してくれたおかげで回れたと言える。知らない町でホテルを取ったり、交通機関を利用したり、ガイドを頼んだりするのは、私一人では難しかったかも知れない。しかし、絶え間なく彼の恩怨と言うより怨恨を聞かされていた。『外国人のロシア滞在証』を手に入れたのは自分であるのに私はそれに感謝しない。私のロシア人の知人はすべてKGB(FSBの前身)の手先である。私に日本語を習っていたロシア人は習えるという特権を与えられた。自分は日本人と結婚したことで狙われている。盗聴されている。自分は殺される。云々。と以前にも言っていたことを執拗に繰り返す。本人は本気でそう思っていたのかどうかわからないが、これだけ繰り返されるとそうかも知れないと思ってくる。(これは根拠のない情報を聲高にながして、扇動・洗脳するデマゴーグの古い方法だ)。その後2020年になっても自分は殺される(つまり助けてくれ、日本に呼んでくれと言うことか)とメールに書いてきていた。(しかし、私は意地悪にも、15年以上も目的を達せられない殺し屋がいるのか、と返事した)。 2002年頃の灰色の共同生活を思い出して、モスクワに戻ったときには陰鬱になっていた。セルゲイのネチネチした苦言にうんざり、これ以上はモスクワにとどまらないで、早くクラスノヤルスクに行ってしまおうと思った。クラスノヤルスクには友達が大勢いる。帰りの飛行機はモスクワ発だからまたモスクワに戻ってくるが、クラスノヤルスクに行く、とセルゲイに告げる。私のモスクワ到着にあわせて2週間の休暇を取ってあるからと、セルゲイは言うが、あの『セルゲイ節』はもう聞きたくない。別れた。 ガーリャ宅で朝食をとり、ガーリャと一緒に家を出てドルの両替を手伝ってもらい、クラスノヤルスク行きのチケットを買うのも手伝ってもらった。14時15分ドモジェドヴォ空港を2時間遅れで出発して、4時間時差のあるクラスノヤルスク空港に夜中の1時に到着した。電話で連絡しておいたニーナ・フョードロヴナとナースチャ・ザストゥペンコさん母娘が空港に迎えに来てくれていた。タクシーでナースチャ宅に行く。 |
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クラスノヤルスクの通り(町名) | ||||||||||||||||||||||||||
クラスノヤルスク市にはゼレノゴルスクから転居した1997年から、最終的に帰国する2004年まで住んでいたが、3回アパートを換えた。最初はエニセイ川に平行に建った9階建ての集合住宅の4階の2DKだった。3年半ほど住んだが、家主のおばあさんから孫が兵役から帰ってくるからもう貸せないと言われた。大学での教え子のターニャ・シェルバコヴァの両親が、(当時あまりプロらしくなかった)不動産屋を回って見つけてくれたのは、最初のアパートからほど近くで廊下の窓からエニセイの一角が見える家具付きの1DKだった。そこがセルゲイの持ち家だった。 クラスノヤルスク市は左岸支流のカーチャ川がエニセイ川に合流するところに、シベリア侵略の先兵コサック達がケット語系部族やエニセイ・キルギス系侯国を征服するための基地・柵を造った(17世紀前半)のが始まりで、18世紀初めは850人ほどの辺境の基地村だった。市になった頃(18世紀-19世紀)には、左岸にエニセイ川と平行の3キロ以上の長さの広い通りが3本あり、その中の真ん中はボリショイ大通りと名付けられた。やがて、通りの中程にヴォスクレセンスキィ大寺院(復活の意で、市の最初の石造り建築。その後再建1937年破壊され、地方庁となった)が建てられたので、ヴォスクレセンスカヤ大通りと改名。革命後の1921年にはソヴェトスカヤ大通り。1937年にはスターリン大通り、1961年には現在のミーラ大通り(平和の意)となった。大聖堂前は広場で,定期市場が建っていたので,バザール広場と呼ばれていた。今は革命広場と言ってレーニン像も建っている。ソ連時代は政府主催の記念行事も行われていたのだろう。 3本の大通りのうち外側は、はじめはカーチャ通りと言ったが、19世紀初めにブラゴヴェシェンスカヤ教会(聖母受胎告知の意、市で3番目の石造り建築)が建ったので、その名で呼ばれることになった。現在はレーニン通り。3本のうち最もエニセイ川に近いのがマルクス通りだが、かつてはゴスチンナヤ(客、宿の意)やウーゼニカヤと言った。 まっすぐに東西に3-4キロにわたって平行に走る通りとほぼ並んで、エニセイ川の近く、川に沿って5キロのドゥブロヴィン通りがあって、これはかつて川岸通りとノヴォ・クズネツォヴァ列と呼ばれて荒れ放題だったが、20世紀初めにアレクサンドル(皇帝の名)川岸並木道として整備された。市で最初の並木道だった。直接川岸に面しているので古くから渡し船(後には浮船橋)の出発点だったし、1952年には立派な河川駅もできた。通り名の方は、1921年オクチャブリスカヤ(10月革命の意)となり、1936年にはエニセイ県の革命家ドゥブロヴィンスキィ Яков Федорович Дубровинский(1882 – 1918)にちなんでその名がついた。私のはじめの住所はドゥブロヴィンスキィ106番地だった。 マルクス通りとドゥブローヴィン通りの間にそれらと平行の短いウーリツキィ通りがある。かつてはペソチナヤ(砂の意)通りといった。ウーリツキィ Моисей Соломоновия Урицкий(1873-1918)はペテルブルクのチェーカー(秘密警察)の議長だった。暗殺されたせいか、2013年でもウーリツキィの名のついた建築物、村、町、通り、広場などの地名などは旧ソ連内で700カ所くらいはある。そのウーリツキィ通りと、ディクタトゥーラ・プロレタリアート通り(プロレタリア独裁の意)が交わるところに私が2度目に住んだディクタトゥーラ・プロレタリアート12番地がある。もちろんこの革命的な地名が付く前はエニセイ県の第1代知事ステパノフ Александра Петровича Степанова (1781-1837)の名を取って ステパノフ横町と呼ばれていた。1891年には貢献の大きかったという知事パダルク Василия Кирилловича Падалка (1800 – 1865)の名がつけられた。革命後の1921年には独裁横町 переулок Диктатурыと改名、1953年にはプロレタリアート独裁 переулок Диктатуры Пролетариатаと語を補い。1936年には『横町』ではなく『通り』となったのだ。 エニセイ川と3本(短いのも入れると5-6本)の平行に走る通りに直角に交わる通りが、ディクタトゥーラ・プロレタリアート通りのほかに10本ある。大通りを横切る路なので、かつては独裁横町のように何々横町、小路と言われていた。その中でも、中央を貫いているのはエニセイ川に架かるコムナリニィ橋(1961年開通)から続くヴェインバウム通り(革命家の名から)で、19世紀はヤコブレフ横町と言った。中学校横町とか、病院横町とか何度か名が変わって1921年にはヴェインバウム横町となり、1936年から今の名だ。今は横町どころかすっかりメイン・ストリートだ。 ヴェインバウムと平行にそれより下流のパリ・コニューン通は河川駅のあるドゥブロービンから始まるが、河川駅の向かいがロシア中央銀行クラスノヤルスク支店であり、その裏に銀行員の宿舎がある。そこのアパートから借りたスペースが3回目の住所だった。 パリ・コミューン通もクラスノヤルスクでは古い通りで、はじめは横分割通り улица Раздельной поперешнойと呼ばれたのは、この通りで市を2分したからだそうだ。1869年孤児院ができたので孤児院横町переулок Приютскийとなった。孤児院が引っ越ししたので、クラスノヤルスク柵を作ったコサックの隊長の名を取ってドゥベンスキィ横町 переулок Дубенскогоとなり。1921年(この年、町名の改名委員会が開かれたらしい)今の名前になった。ロシアは政権が変わらなくても変わっても地名が代わる。 特にこだわったわけではないが、エニセイ川左岸の旧市街地にいつも住んでいたのだ。私を空港に迎えてくれて、今回ホームスティさせてもらうナースチャの家はレーニンにあり、いざとなったら泊めてくれるニーナさんのアパートはエニセイ川の橋を渡ったすぐの右岸にある。大学は左岸北西の郊外にある。 |
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懐かしいクラスノヤルスク | ||||||||||||||||||||||||||
2月20日(日)お昼頃、シェルストヴィトヴィ宅 Шерстибитовыへ行った。ここのおばあさんは3度目の住居を世話してくれた銀行員(多分職務は上の方)で、その娘は車の部品販売をやっており、娘の夫は警察官、息子は中学生だった。クラスノヤルスク滞在中は車関係の通訳もやっていたので、それで知り合ったのだ。この店は日本のいくつかの会社と取引をしていた。息子のミーシャに日本語を教えてほしいと頼まれて通っていたが、あまり進歩はなかった。日本との関係作りになるので、私を息子を通じて引き留めてくれたのだろう。日本へ去る1年前、私はクラスノヤルスクで乗っていた『いすすビッグ・ホーン』という中古のジープを彼らに売った。車関係と警察関係が一体となった彼らだから、私の外国人用ナンバーを抹消して誰かに高く売ったらしい。 今回シェルストヴィトフ宅で日本訪問という具体的な話が出た。彼らは静岡県の会社の招待でかつて訪日したこともある。今度は私と関係のあるOM社の招待で行く予定らしかった。(後のことになるが、これは成功しなかった。彼らが訪日に手間取っている間に、OM社が、彼らの来日より早くクラスノヤルスクの別の会社と契約書を交わしたからだ)。 午後からニーナ・フョードロブナ・イワノヴァ宅にお呼ばれした。彼女の家はヴェインバウム通りからまっすぐ行ったエニセイに架かる橋(上記のように1961年開通だが、その後も長い間、鉄道橋以外のエニセイの橋はここ1本だった)を渡って右岸に出たばかりの『橋の前広場 Передмостная площадь』から続く『クラスノヤルスク・ラボーチィ誌』名称大通りに住んでいる。その大通りは9キロの長さでエニセイ川右岸に平行してある。18世紀半ば頃からここはモスクワ街道と呼ばれていた。なぜならモスクワから(正しくはウラルから)イルクーツク(キャフタ、またはネルチンスク、つまり中国貿易)へ行くモスクワ・シベリア街道のクラスノヤルスク市郊外部分だったからだ。物資が運ばれ、流刑者、徒刑囚も運ばれた。 右岸は工場地帯だが、橋の前広場のあたりはまだ商業地区だ。ニーナ・フョードロヴナさんは1933年1月1日生まれで、妹と弟がいて父親は軍人だった。彼女のアパートに飾ってある写真を見ると長女にそっくりの目をしている。3回結婚したが夫達は病死。3度目の夫と先妻との娘がゼレノゴルスクに住んでいて、すでにその夫も亡くなっていたが繼娘に会いに行って、私と知り合った。1992年だった。ニーナさんは秀才でモスクワ国際交流大学中国語科を卒業して、クラスノヤルスク空港で通訳をしていた。と言うのも当時はソ連と中国の関係が良好でクラスノヤルスク空港に中国人が大勢出入りしていたからだ。ソ連時代は(多分今も)外交官を養成する大学だったから、彼女の同級生は中国大使になったとか。中ソ関係が悪化して中国語の需要がなくなっても英語で身を立てていた。定年後は文化宮殿(公民館)で英語や中国語を教え溌剌としていた。文化宮殿で日本語もやるように世話をしてくれたのも彼女だった。 ニーナさんには子供がいない。高齢者の一人住まいだった。元気いっぱいとして、古い友達や新しい友達、中国人の友達や日本人の友達(私のこと)を大切にして、よく自宅に招待してごちそうを振る舞っていた。弟のヴァレーリィは2000年頃亡くなった。彼は私の部屋の家具の位置換えを手伝ってくれたのに。アル中だったとか。妹のヴァーリャさんには息子が二人いて、特に長男(アンドレイ)の息子(甥孫)をかわいがっていた。 この日、私がナースチャ母娘と訪れた時、妹のヴァーリャさんもいた。昔、ヴァーリャさんのダーチャへ悪路を『いすずビックホーン』で出かけたことがある。後のことになるが、彼女たちがすっかり老境にさしかかった頃、仲違いをした。ニーナさんによればヴァーリャさんは姉のように秀才でなかったので劣等感に悩まされ、ことごとく姉に当たっていたが、もうそれに我慢ができなくなったニーナさんが絶交を宣言したからだそうだ。 2019年10月21日にニーナさんが亡くなったと甥のアンドレイからメールが来た。その1年前には仲直りすることなくヴァーリャさんもなくなっていたと、メールにはあった。 2003年セルゲイの家を出て(別居)3週間ほど泊まらせてくれたのは、この右岸のアパートだった。帰国後も数回クラスノヤルスクに行ったが、ニーナさんは快く泊めてくれた。そのアパートは甥のアンドレイ、またはその息子が、今は所有しているはずだ。ロシアの都会で若夫婦が自力でアパートを持つのは難しい、と思う。2020年夏にはクラスノヤルスクを訪れ、機会があればアンドレイと墓参したいと思っていたが、新型コロナウィルスの蔓延で飛行機もキャンセルになった。 2月21日(月)クラスノヤルスク大学へ。今はシベリア連邦大学と言うが、当時はクラスノヤルスク総合大学で、現代外国語学部という小さい若い学部があった。外国語学部はクラスノヤルスク教育大学にもあり、そこの方が伝統があったが、1990年代の外国熱が高まったとき、総合大学にも日本語科を含んで開設されたらしい。私が1997年に始めて教えたときの5年生が第1期生だった。つまり1992年開設だった。当初ロシア人教師や日本語の名字を持つ韓国人の先生が教えていた。その後日本人の先生も来ていたが、私と入れ替わりに帰国した。ここで私は7年間教えていた。6年目に日本から日本語教員の免許を持つ女性が教えに来ていた(経験を積むためという)が、学生と関係がよくなかったのか数ヶ月で帰国。私と入れ替わりにイルクーツクで日本語を教えていたシルヴァーの男性教師,石井先生が来ていた。授業を見せてもらったり、懐かしい食堂へ行って食事をしたりした。 教員室に現われた私を見て学部長のラズモフスカヤ先生が別室に呼んだ。私が復職を希望してクラスノヤルスクに来たのかと思ったらしい。その意思のないことを告げてすぐ分かれた。モンゴル人で中国の国籍を持ち日本で暮らしていた思さんという男性が私の仲介でクラスノヤルスク大学に留学に来ていた。彼とも会う。 大学は市の郊外のアカデミー町にあって、近くは高級住宅街になるほど環境のよい場所だった。だから、私は川岸通りを歩くのも好きだが、ここの自然の中を散歩するのも好きだ。(治安がよくないので明るいときのみ)。植林された松林もある。
4時頃、ナターリア・ギギレーヴァさん宅訪問。彼女は医学部在学中に私のアパートへ日本語を習いに通ってくれていた。セルゲイは彼女が大嫌いで、彼女は日本語を習うよう特命された一人だと繰り返し私に言っていた。日本語の授業のほかに、私は彼女と(ロシア語で)当時のロシアが抱えていた問題(チェチェン戦争とか)について話すのが楽しかった。彼女には迷惑だったかも知れないが真面目に受け答えしてくれた。2004年帰国後2度ほど会ったが、その後音信が途絶えた。当時、ロシアでSIMカードは容易に手に入った。機器は高価だったし、通信料も前払いだったが、SIMカードは安かったので一人が何枚も持って携帯に入れ替えて使っていた。また頻繁に番号も変えた。メールアドレスも、よく変わった。プロバイダーが不安定だったからか。だから、2004年までの知り合いは、度々連絡を交わしてないと消息不明になる。 7時半頃ギギレーヴァさん宅を出てバスでナースチャ宅へ向かった。途中まで母娘で迎え手に来てくれた。ナースチャ宅にはアリョーナが来ていた。 2004年にはナースチャと3人でトムスクへ行ったことがある。マッサージを勉強していて,2004年の冬頃、同僚のマッサージ師を紹介してくれたこともある。女性達4人で楽しくペリメニを作っておいしく食べた後、彼女がマッサージをしてくれた。 2月22日(火)。クラスノヤルスクで最後となる。ナースチャとお昼頃から家を出て写真を撮りながら中心地を回る。かつてセルゲイと住んでいた建物も写真を撮る。住民として登録されていた私の名前も延長手続きをしなかったために抹消されたとか。今はセルゲイから購入した人が住んでいるのか、セルゲイが私の前で(だけ)恐れていたように、何らかの機関を通じて入手した人(セルゲイから取り上げた人)が住んでいるのか。 地方庁のある革命広場に立つレーニンも写真に撮った。かつての新バザール広場で革命後,その名になったのだ。滞在中は待ち合わせの場所として利用していたものだ。「レーニンの横で待っているね」と言えば迷子にはならない。ここは以前も今も景観がよくない。1990年代半ばから着工(中止)の地下鉄駅ができるからで、醜い塀や塔がレーニンと並んである。何回か再開されたが中断、2024年以前には開通されないと言われている。開通されればロシアで8番目、旧ソ連邦では17番目の地下鉄になる。 また、滞在中よく行ったオペラ・バレー劇場にも行ってみる。当日のチケットはなし。ナースチャと分かれて私だけニーナさん宅へ。夕方4時頃、本屋でナースチャ親子と合流してかつての見張り塔のある丘パクロフスカヤ・ガラへ。現在はパラスケヴァ・ピャトニツァ礼拝堂 Часовня Параскевы Пятницыとなっている建物はクラスノヤルスクのシンボルで、エニセイに架かる橋やクラスノヤルスクダムとともに10ルーブル紙幣に印刷されている。 |
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モスクワ | ||||||||||||||||||||||||||
空港には連絡しておいたセルゲイが迎えに来てくれていた。彼と8時間ばかりモスクワを歩いた。レーニン名称国立図書館の前で写真を撮る。ドストエフスキィの像があったからだ。カフェで食事もした。ガルブーシカというギペルマーケットでDVDを買う。プーシキン通の本屋グロブス Глобусで本を買う。民俗学の本を選んでいるとセルゲイはいやなことを言う。「今度の男は民俗学者なのか」と。どうせ数時間後には9000キロの彼方に別れるから,無視するか。公共交通機関をたどってシェレメチエヴォ空港まで送ってもらって別れる。 10時40分発大韓航空の飛行機だ。隣の席に座ったのは愛想のよい若いロシア女性。外交官に成り立てて、別れてビジネスクラス搭乗の上司と一緒にソウルへ行くそうだ。2004年クラスノヤルスクから国際列車で中国、満州里へ行こうとしてロシア側の国境でストップさせられた話をしてみる。日本人は中国へ2週間以内ならビザは不要だった。私には外国人用ロシア滞在許可証があった。だから、キルギスへ行ったときのように、ロシアから出国して帰国できるはずだ。だから国境を通さないというのは違法ではなかったか、とこの若い外交官さんに聞いてみた。答えは国境警備隊の方が正しい。外交官だからまさか間違いだとも言えないのかも。電話で聞いたハバロフスクの領事館員はできると言っていた。国境によっては隣接国民(例えば中国人とロシア人)のみしか通行できないところもあるが、ザバイカリスクは国際列車も通る大きな国境だ。よくわからないことは不可としておく方が自分の安全のためになるのか。 後日 このあと、もう一度モスクワに行った。短時間だがセルゲイに会った。それ以後、彼には会っていないが、何度もメールが来た。日本への招聘状がほしいと言うものだった。当時は身元引受人がいないとビザは出なかったのだ。私は日本での彼の身元引受人になろうとは思わなかった。彼は国外へ出られるパスポートを入手したらしい(申請から1週間、1万円くらいの手数料で入手できる日本と違い、ロシアでは時間もかかり簡単ではないらしいが)。 |