クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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    (41)   2025年秋、懐かしいイルクーツクとクラスノヤルスク
               北京経由イルクーツク、バイカル湖へ(1)
    
                                  2025年9月15日から9月29日(のうちの9月15日から17日

Иркутск、Красноярск в 2025 года (15.9.2025−29.9.2025)

 1  9/15
-9/27
懐かしいイルクーツクとクラスノヤルスク 北京経由イルクーツク  ベンチャーロフ家 バイカル湖へ   オリホン島の『ベンチャーロフの館』 バイカル湖岸を歩く 
 2  9/18
-9/19
 キノコ狩り、東岸へ フジール村村長 、ブリヤートの話 『館』のピアノ・コンサート  ブリヤートのバイカル湖、聖なる所  サクロ石の湖岸   元校長宅、バイカルを去る
 3  9/20
-9/21
 ガイダイさん トゥンキンスキー盆地,,ジェムチュグ温泉 アルシャン  ペンション『松林』  ブリヤート・アルシャンのチベット寺院  チェブレーク 、イルクーツクのオルガンホール
 4  9/22
-9/24
 アルカージーさんとイルクーツクの町を歩く クストーヴァさん宅訪問  チーホンの料理、シベリア鉄道  リユーダさん,補償金,アスターエフ記念館  クラスノヤルスク発電所  アリーナ、ウスペンスキー修道院、別荘 
 5  9/25
-9/27
 ヴィサコゴールヌィ橋 エニセイスク市 国旗、連邦大学、丘陵公園  バレエ の夜と噴水  軍事学校、キリスト像 川岸通り、エニセイ河川駅、『ロシア』 
 6  9/27
-9/29
 レストラン『マルーン』 クラスノヤルスクのシナゴーグ  兵士募集 、『祖国の防衛者の日』 ブフロフの絵画,イルク−ツク郷土博物館,モスク ブロンシュテインの画廊、オペレッタ  出国、帰国、ロシアは。
 費用
 いつも最後から2番目の旅だと思ってロシアへ行く。はじめの頃はツーリストのようにその土地を見て回った。
高緯度地方の日本とは違う太陽の動きを実際に見て確かめもしたかった。南シベリアの遺跡に興味は尽きなかった。
未知のカフカス地方と独立戦争があったチェチェンの暮らしも見たかった。2022年ウクライナ侵攻の後のロシアの人々の考えも聞きたかった。
 
 ↑ ロシア連邦地図
  ↓ バイカル湖を中心にイルクーツク州、ブリヤート共和国ザバイカル地方とモンゴル
 @アンガラ川(青く太くなっているのはブラーツクダム湖)、Aオカ川、Bイルクート川、Cキトイ川、Dセレンガ川、Eレナ川。 黒太線は連邦道、だいだい線は自治体の境界、赤線は国境、オルドとはウスチ・オルディンスク(旧ウスチ・オルダ・ブリヤート自治管区の行政中心地)の略、アギンスク(旧アギンスコエ・ブリヤート自治管区の行政中心地)。 フジール、ハランツィはオリホン島にある村。

 懐かしいイルクーツクとクラスノヤルスク
 イルクーツクへは1980年代から何度も行った。バイカル湖へ始めていったのも1980年代後半だった。21世紀になってからはバイカルへは2004年、2008年、2018年、2023年と行き、今回が5回目だ。クラスノヤルスク市には1992年から断続的に10年間住んでいたし、その後も度々訪れている。イルクーツクから近いので(急行列車で約900キロを17時間半、飛行機で2時間弱)、2018年も2023年も今回もついでに訪れた。日本からハバロフスクやモスクワに直行便が飛んでいた頃は、イルクーツクへ寄ったことはあまりない。クラスノヤルスク市を拠点にクラスノヤルスク地方の北や南、エニセイ川の上流、下流とまわったものだ。
 新型コロナ流行時と、ウクライナ戦争初年度以外は訪れているロシア旅行を、そろそろ止めてもいい頃だ。最近は、行く前から早く帰りたいと思うし、行っている間でも、やっと半分の日程が終わったと思ったりする。しかし、もう1回ぐらいは訪れようと、いつも思っては、続けている。
 『懐かしい』と言えば、当時はレニングラードと言ったサンクト・ペテルブルクが最も懐かしい。サンクト・ペテルブルクとなってからは3回(最後は2024年)訪れている。
 今回、北西ロシアのコミ共和国のスィクティフカル市を久しぶりに訪れてみようかと思って、ガリーナさんにメールを出してみた。今の季節は、イベントは何もないが、もちろんどうぞという返事。アンジェリカ・ガルブノヴァさんからも、いついらしても大歓迎という返事だった。スィクティフカルまでは、北京で乗り換えてモスクワ経由で行くので、時間もかかるし費用もかかるが、それでも行くつもりで飛行機の運行も調べてみた。モスクワ乗り換えなら、マーディナさんのお世話になろうかとも思って都合を聞いてみた。
 大学1年になった孫娘に、一緒に来るかどうか念のために聞いてみると、意外にも行くという。彼女とは3年前イルクーツクのバイカル湖へ行こうとビザもチケットもとったが、新型コロナ流行で大抵の飛行場は閉鎖され、やっとチケット代の返金だけは受けたということがあった。孫娘はロシア語を全く話せないが、英語は話せるし、若いから荷物も持ってくれるだろう。今までのすべての旅は心細い一人旅だったが(実はそれが私の旅のスタイルで気に入っているのだが)、話し相手がいるなら、空港での待ち時間も長くは感じないかもしれない。孫娘だから気を遣うこともないだろう。帰国後振り返って思ったことだが、一人と二人(または1人半)では、周りの私たちを見る目も何だか一人だけの時とは少し違う。

 孫娘にとって大学1年の夏休みは、これから忙しくなる前の遊べる最後のチャンスだそうだ。彼女は、夏休み中、家族や友だちと、香港や沖縄と言ったところに旅行して、私とは10月1日に始まる後期の学期の直前に帰国する海外旅行と言うわけだった。彼女を連れてコミまで行くのはかなりきついと思った。イルクーツクは私を受け入れてくれるニキータがいるので遠慮はいらない。しかし、スイクティルカルの知り合いには、2人も受け入れてもらうのは気が引ける。初めてのロシア旅行の孫娘にはちょっと遠すぎる。
 。
 なによりも、インターネット・ビザをとるのに、私のロシア語力ばかりか彼女の英語力があって心強いと思っていたが、実際には、大学生の彼女の方がネットに慣れていて、自動翻訳も使ってイービザ(eビザ)を簡単にとってくれた。ビザ代金は約51ドルとあったが、カードで8010円引かれた。支払い明細書によると、191.00AED(アラブ首長国連邦通貨ディルハムで、1ディルハムAEDは約40円強)で、大体51ドル強で、手数料も入れてそれだけの金額になる。彼女は自分の分は自分のカードで払って、請求は7944円だった。その差の66円はカード会社の手数用の差だろうか。 
 航空券はすべてイルクーツクのニキータにとってもらった。何度もイルクーツクと日本を往復している彼は格安航空券の取り方を知っている。しかし私の希望は格安ではなく快適な乗り換え便だった。それで、何度もニキータとメールのやりとりをして決めたのが、
 9月16日09:05関西空港発エアー・チャイナ便、11:20北京首都空港第3ターミナル着
 同日 17:55北京首都空港第1ターミナル発ハイナン・エアライン便、21:05イルクーツク着
 と言う往路便。早朝出発なので前泊しなければならない。北京首都空港で夜を過ごさなくてもいいがターミナルを渡らなければならない。この便は41、750ルーブル(8万円)と安いけれど。しかし、前泊の大阪でのホテル代6000円(ツイン・ルームで12000円だった)も必要だ
 復路便は北京空港経由でも安くはなかったので(中国の祭日があったとかで)、イルクーツクからウラン・バートル経由で40,032ルーブル。その内訳は
 9月29日00:05発イルアエロ便 01:00ウラン・バートル着 
 同日07:45ウラン・バートル発MIAT便、13:40成田着 と決めた。
 ビザの有効期限は16日間だ。
 13日間もイルクーツクにいるより(バイカルを眺めているより)、そのうち数日間はクラスノヤルスクへも行ってこよう。シベリア鉄道なんかに乗ったことのない孫娘に、片道だけ体験させてやろう。イルクーツクに戻るのは飛行機でよい。だからクラスノヤルスクーイルクーツク往復の費用は13、553ループルかかった。
 北京経由イルクーツク
  関西国際空港から9時5分出発便に乗るために、(前記のように)近くのホテルに1泊した。直前に友達と沖縄旅行もしたという孫娘にホテル予約は任せた。『OME関西空港星野リゾート』という空港駅から1駅のりんくうタウン駅から徒歩1分というホテルだ。空港まで無料シャトルバスが出て、宿泊料はツインで12000円と言うから割り勘で6000円。15日中に到着すればいいのだが、ホテル泊がうれしかったので午前中に家を出発して、お昼過ぎには、到着していた。宿泊手続きもスマホでする。わからない人のために日本語の話せる外国人が一人受付にいた。
 意外にも近くに商店街があって、夕食や朝食を買いがてら、孫娘とぶらぶらしていた。彼女が大学に行くようになった4月から、交通の便がよくない大学まで週3,4回送り迎えをしている。孫娘にお抱え運転手のようなサービスをしてあげて、内心喜んでいる私だ。
 大浴場のあるホテルで、日本のビジネスホテルをじっくり味わう最後の日(この数日間だけの最後の日)だった。
 9月16日(火)。
 6時のシャトルバスで、空港着。エアー・チャイナ便への搭乗手続きの時、一応北京からの乗り換えのエアライン・ハイナンのチケットも発行してもらえないかと頼んでみたがだめだった。ChatGPTの助言では可能かも知れないとあったのに。
 出国して出発ロビーの免税店でお土産の資生堂ハンドクリームを購入。資生堂は外国にも知られているし、去年プレゼントしたロシア人には好評だった。ハンドクリームなら好みのうるさい人にも使ってもらえる。
 9:05関西国際空港発、機内食が珍しいのか孫娘は写真を撮っている。機内食の箱には9月16日製造9月17日賞味期限(多分)と印がされていて、「合格」と中国語(日本語も同じ)で書かれたシールが貼ってある。味の濃い機内食だった。
 11:20北京首都空港第3ターミナル着。乗り換えが6時間あるとは言え、一度出国してシャトルバスに乗り、かなり離れた別の第2ターミナルに移動するのは、出発前から実は不安だったが、孫娘と一緒に2時間もかからず、目的の搭乗待ちロビーまで移動できた。まだ乗客もまばらだった。なんだかここで空腹となり、喫茶店を見つけて、ここまでは使える日本のカードを使って軽食をとる。
 
 『合格』された機内食
 
 緯度が高くなったので入り日が長く見える
北京から出発6分後
 
 入国審査窓口への順番。撮影禁止

 17:55発のエアライン・ハイナンのイルクーツク行きの飛行機では、今までめったになかったことだが窓際席に座ったので、北京の空の夕焼けを堪能できた。暗くなると距離を置いて明かりが見える。多分内モンゴルや、モンゴルの空を飛んでいたのだろう。この辺は遊牧地でポツンポツンと村があるだけで下界の暗くて広そうな土地は草原か。
 21:05イルクーツク空港に着く。乗客の大部分はロシア人だ。チーホン・ベンチャーロフ(22歳)が迎えに来てくれているはず。入国手続きの窓口は、ほぼ全部開いていた。2年前は新型コロナ流行のため使用できなかったビザがパスポートに貼ってあったため、別室に呼ばれたものだが、今回はeビザも問題はないはずだ。出入国窓口の順番の長さには閉口だ。短そうで、早く進みそうな列を選んで、後尾に立つ。チーホンを待たせては悪いから早く出ようと思ったのだが、これは徒労だった。
 私の番が来たとき、男性の検査官は、イルクーツクからどこへ行くのか、目的は何かなど、前回別室で尋ねられたようなことを聞かれた。バイカルには知り合いがいてその人のところに行く。この空港へはその人が迎えに来てくれているはずだというような、無難な旅行者らしい対話をして、私は通過できた。しかし、その後に窓口に立った孫娘は通過できずにバーの外側に待たされたのだ。バーの内側の私と外側の孫娘とは会話もできない。先ほどの検査官にどうしたわけかと尋ねた。「待て」という返事。何度も尋ねたが、同じ。順番についていた入国者が全員終わった後、彼女は別室に連れて行かれた。私が先ほど質問されたようなことをロシア語で質問されているとしたら、私は彼女の祖母だから通訳できると、近くにいた女性の検査官に話してみたが、部屋に入ることは許可されなかった。長く待っていたように思う。中国人が出てきた。後で知ったことだが、彼が下手な英語で通訳したのだという。最終目的地はどこかと尋ねられて孫娘はウラン・バートルと答えたのだって。違う、違う。彼女は北京、イルクーツク、ウラン・バートルの位置関係がわかっていなかったのか。まさか、ウラン・バートルという今まで聞き慣れない地名が最も遠いと思ったのか。(それらは、後で、無事、別室から出てきた孫娘から聞き出したことだ)。別室では、先ほどの男性職員は、ただ、関係なさそうな電話をかけているだけで、下手な英語を話す中国人との会話もその程度で、座ってただ待っていただけだという。ウラン・バートルも問題にならなかったと、私に叱られた孫娘は弁解する。日本人のような友好国からでない入国者に対してはすんなりとは通さず、時間をかけたと言うだけのようだとは、後からわかったことだ。そのときは、18歳でロシアははじめての女の子が一人だからと怪しまれたのだと思って、「私の孫娘です」と通り過ぎる職員に必死で訴えていたものだ。
 先ほどの男性職員が出てきて、「大丈夫です。帰りもここを通るのですね、そのときは問題ないですよ」と親切げに行ってくれたものだから、「ありがとう」と答えたものだ。(ちなみに帰りは別の職員だった)
 ターン・テーブルに行くとやはり、私たちのスーツケースだけが残されていた。急いで受け取ってレントゲンを通って外へ出る。
 やっとロシアのイルクーツクに入国できた。
 イルクーツクのベンチャーロフ家
 
 2つめの玄関(ホール)
 
 キッチン
 
 かつてチーホン用の子供部屋で、
今回、孫娘の部屋となった
 
 ピアノが2台の居間、右の長椅子が私のベッド
 空港の待合ホールではチーホンがちゃんと待っていてくれた。待ちくたびれた様子もなかった。タクシーに乗ってスヘ・バートル14番地近くまで来てスーバーで食料を買って、ニキータ・ベンチャーフ家(ニキータの次男がチーホン)のアパートに入った。
 私は慣れている。孫娘は黙っていたが、どう思っていただろうか。入り口近くには年中乾かない大きな水たまりがあって悪臭がする。入り口の鍵を開けて入ると、浮浪者が住んでいるかと思うような入口とすぐの階段の登り口。隅にはほこりとゴミがたまっている階段を数歩上ったところに鉄の格子。そこを開けて続きの階段も手すりに触れられないような埃。何年も前から置きっぱなしのようなニキータの荷物も置いてある踊り場をすぎて、さらに数歩階段を上がったところに薄汚いが丈夫そうなドア、そこを開けるとさらにドアが左右に二つある狭い空間(一つ目の玄関)。
 左が、ニキータ・ベンチャーロフ家の新しいアパート(と行っても数年前に購入したらしい、まだリフォームが完成していない)へのドアで、右が元々のアパートへ通じるドアだ。もうこのドアは錠をかけなくてもいい。右のドアの古くから住んでいた方のアパートに2年前も泊まった。今回もだ。その右のドアを開けると広めの玄関(二つ目)で、外套かけや長持ちが置いてあり、ここでスーツケースを下ろし、スリッパに履き替える。この広めのホール(2つめの玄関)にはバス・トイレへの入り口と、ダイニング・キッチンへの入り口、居間への入り口がある。私はこんな古いロシアに慣れているが、孫娘は日本から着いたばかりだ。最初に予告はしておいたが。
 日本では大抵の家はせめて玄関をきれいにするが、そんなことには、ニキータたちは無頓着だ。ニキータの妻のナターシャはここに住んでいないらしい。ここには2つのアパートにニキータとチーホンが住んで、要するに男所帯なのだ。ニキータはどんな状態のところでも寒くさえなければ住める。22歳のチーホンに掃除は思いつかない。
 私と孫娘の寝床が用意してあっただけでも上等で、トイレを見た私たちがトイレット・ペーパーを補充してくれとか、タオルがほしいとか、シャンプーやリンスもほしいと注文をつけても、孫娘がドライヤーがいるのだと言っても(私たち居候らしからぬ要求を出しても)、チーホンは急いで用意してくれた。近くに住んでいる婚約者のマーシャ(マリーナ・カロリコヴァ)宅から調達してくれたのか。
 明日は8時頃朝食で、9時ヴィクトル運転の車でバイカルへ行くと言って、ドア向こうのアパート(左ドアのほう)へ消えた。
 
 バス、洗面所、トイレ
 イルクーツク市からバイカル湖へ
  9月17日(水)
 9時前にチーホンの婚約者のマーシャが会いに来てくれた。一緒に朝食を食べるためだ。4人で近くのカフェヘ行く。前回(2年前)もマーシャとチーホンとこのカフェで朝食を取ったものだ。朝食後、マーシャは授業があると去って行った。モスクワの大学院に在籍しているそうだ。そこでインターネットのセキュリティ関係の勉強をしていると、私は理解して、孫娘にも教えてあげた。自分が理解し、ロシア語で答えるだけでも集中しなければならないので、孫娘に日本語で説明する(通訳する)のはこの先、10回に1度くらいになった。孫娘に聞かれれば答えたが、孫娘も遠慮したのかあまり聞かなかった(それとも雰囲気でわかったのか)。
 そのマーシャの大学院は、最近はよくあることだが、学生がどこにいてもウェブで勉強すればよく、年に数回決まった時期にモスクワへ出ればいいという。ロシアでは私の知り合いの多くがこんな風にして学位や修士を取っている。
 
 マーシャと4人で近くのカフェで朝食
 
 バヤンダイ村の食堂で
 
 『オリホン門』海峡をフェリーで渡る

 9時にはヴィクトルの車は現れなかった、朝の渋滞のため遅れるとチーホンの携帯に連絡が入った。だから、私たち3人は30分ほども遅れて出発しただろう。イルクーツク市から市外へ出ると、バイカルとはほぼ平行に延びるカチュークКачук街道を通って北進する(地図)。イルクーツクからカチューク村までのカチューク街道の道路の状態があまりよくないのは、モスクワからウラジオストックまで東西に通じているか、またはその支線で国境まで続いているような連邦道のカテゴリーに入っていないからだ。
 11時50分頃には、カチューク街道を120キロほど言ったところのバヤンダイБаяндай村に着いた。バイカルへ行くには、ここでカチューク街道を出て右(東)へ曲がる。曲がる前に、いつもこのバヤンダイ村の食堂でランチにする。こんなところでは私はボルシチにしている。孫娘も同じ。
 この、バイカルの西岸を行くカチューク街道を私たちのようにバヤンダイで東へ曲がらず、そのまま北へ直進すれば、前記のように、カチュークにつき、そこはレナ川ほとりの村で、昔のロシア帝国郵便道(と言うが中央政府が地方を把握するための公道、陸路ばかりでない。郵便物とは公式文書)はここからレナ川を航行してヤクーチア(サハ)へ行った。ちなみにレナ川は、バイカル西岸に細く伸びる沿バイカルの山脈から流れ出る。水源は、バイカル湖からたったの20キロのところで、標高もたったの1640mだ。この距離と高さでバイカル湖から隔たされる。つまり、バイカルに流れ込まずに反対方向へ、東北シベリアの東部平原をすべての水分を集めて東北へ4400キロも流れて、北極海の一部ラプテフ海に流れ込む(地図)。
 バヤンダイから右(東)へ曲がると、昔はひどい道だったが、今は舗装されている。9月後半から紅葉が始まっている森を抜けて、道はバイカル湖の方へ続く。エランツィЕланцы村(人口4500人、目的地オリホン島も含む地区の行政中心地)の近くまで80キロも進むと道はまたバイカルと平行になる。タジェランスカヤ草原Тажеранская степьと言う何度通っても魅せられる木の生えてない見渡す限りの草地と遠くの岩だらけの丘を見ながら北へ50キロほど進む。この細長いタジェランスカヤ草原の自然はオリホン島のさきまで100キロ以上は続いている。というのは、この半島草原は途中で狭いが深いオリホン門海峡で分断はされているが、その自然は、オリホン島に続いているのだ。
 その分断点の大陸側サヒュルタCахюрта村で、私たちはフェリーを待つ。バイカルや、オリホン島が観光地として発達したために2隻のフェリーは30年前(フェリーなんてなかったかも知れない、船着き場もなかったかも知れない頃)と比べようがないくらい立派になった。早朝から遅くまで2隻が交互に絶え間なく運行する。1隻が着岸して乗っていた車を下ろし、待っていた車を乗せるとすぐ出港する。途中で逆方向から出港したフェリーと行き交い、数分で向こう岸に着く。追いかけてくるカモメにパンを投げてやる間もないくらいだ(しかし、投げてやった、空中キャッチするカモメはいなかった、風が強くてカモメのところまで飛ばないからだ。カモメは水面に落ちたパンを食べる)。
バイカル湖のオリホン島フジール村の『ニキータ・ベンチャーロフの館』
 オリホン島に着くとフジール村までの30キロ余は、アスファルト非舗装道路だ。これだけ観光業が発達しても島の舗装は完成していない。(去年から少しずつ舗装化の工事が進んでいるそうだ。そのためには島の電力が必要なので家々は度々停電になる。)
 同乗のチーホンが、私たち二人は『ニキータ・ベンチャーロフの館』ペンションではなく別の一軒家に滞在することになると言う。『館』は今泊まり客であふれかえっている。大きな団体客が到着しているためだ。だから、ニキータ所有の静かな1軒屋に泊まってほしいと言われる。『館』はバイカル湖に近いが、そこから徒歩では20分もかかるそのタヨージナヤ(Таёжная『針葉樹林の』の意)11番地の一軒家は林の中にあって静か、設備も整ってクセーニャさんというお世話係もいる。朝食を作ってくれたり、いろいろ用も足してくれたりすると言う。ニキータは『館』の他に、やや離れたところにこのような一軒家を何軒か所有しているのか。
 タヨージナヤ11番地についたのはまだ明るい頃だった。そこに荷物を置くとすぐ、今までのヴィクトル運転の車で『館』に着く。彼はニキータに運転手として雇われている。今回は私たちの専属の運転手になって、どこへ行くにも彼の車だった。
 『館』に着くとすぐニキータが出迎えてくれ、その後、すぐ、なぜか、この『館』専属の美術家の小屋(棟、戸)に案内され、ニキータは去って行った。バイカルのオリホン島に憧れて様々な分野の(まだ)一流ではないが様々な芸術家が訪れる。そのうちの数人かは滞在する。彼女の場合は『館』の美術担当となり、仕事場兼住居(『館』の一棟)が与えられて仕事をする。宿泊費や食費は多分払わない。給料は多分少しもらうのだろう。昔から、このような半分居候の芸術家や何かの専門家はいた。彼らは数ヶ月か数年で去って行く。中にはすっかり住み着く元滞在客もいる。彼らの住む住居(棟、小屋)は台所もあるし、アトリエもあるが、建物は古い。新しくて景色もよい部屋は旅行客用だ。
 
 タヨージナヤ通りのニキータ所有の一軒家
 
 ダイニング、キッチン、リビング。
左ののレンガは暖炉
 
 『館』の棟から別の棟へ。
この地には、昔、煉瓦工場があったので、
町名もレンガ通りという。
今もレンガ用土を掘った穴の跡が残って水たまり(池
となっている。
 
 チモヘイの『レストラン』で。後方左はアーニャ、
その向かいでドアを背に立つのがナターシャ

 ニキータがすぐ去って行ったのは、私たちに今関われない用事があるが、到着客の私たちをうっちゃっておくこともできなかったから仮に彼女に任せたのだろう、と私は気づいていた。その芸術家の女性は自分の作品を見せ、精一杯もてなそうとしているようで、会話が途絶えると「お茶はどうですか」と言われてしまった。お礼を言ってお茶のお呼ばれに同意したところでニキータがやってきた。ここで彼女には悪かったが、ニキータについて行った。ニキータの館は資金ができるにつれて順番に建てられていて、古いところと新しいところは離れていたり、狭い通路で並んでいたりする。棟(戸・軒)とその間の通路は歩きにくい。ぬかるみにところどころ折れた板を渡してある。オリホン島にはそれなりの資本を投下したバンガロー団地もあって、整然と建てられているが、ここはニキータの性格そのもの、雑然と無秩序だ。それでも(それ故にか)大繁盛している。私は慣れているが、孫娘には不可解だったらしい。ここはロシア、しかも田舎、日本のようでないところもいい、と言える。
 ニキータが案内してくれたのが、『館』のレストランだった。『館』の宿泊客には朝食代が含まれていて、専用の食堂がある。この『レストラン』は食堂ではなく、コックが腕によりをかけて作る創作料理のようなものが出されるようだ。料理はともかくインテリアは長いテーブルと椅子があるだけで、『レストラン』と言う華麗な名称はただ普通の料理を出す食堂と区別しているだけだろう。コック長はニキータの長男のチモヘイだ。彼は12歳くらいの時、小さな弟のチーホンや両親と日本の私の家に滞在したことがある。食べることが大好きな子供だった。モスクワの大学に入ったが、サンクト・ペテルブルクの大学に転校したとか、そうした経済学だとか何か学問より料理に興味があったらしい。料理の学校(?)に進んだ。それは『館』の経営にも好都合だ。アムール地方のチタ市出身の女の子と一緒に(つまり一緒に住むパートナー)しばらく、『館』で働いていたらしい。2022年秋の部分徴兵が行われた時期にはベトナムのホテルで働いていたという。(チーホンは6ヶ月間、ビザの上では日本の私のところにいた)。今チモヘイは別の女の子アーニャと『館』のレストランのコック長をしている。チモヘイの妻(多分)アーニャは『レストラン』の会計をしていると紹介された。前妻(正式ではないか)は、支配的な性格で、母親のナターシャにも父親のニキータにも気に入られず、チモヘイとも合わなかったとか。
 魚のペリメニ(スープ餃子)が出された。さすがお味は凝っていた。私たちのテーブルの横ではアーニャがパソコンを開け、横にはナターシャが立っていた。30年も昔、娘を連れてイルクーツクに来たとき、ナターシャは娘にも会っている。だが、孫娘はナターシャには初対面だ。かつての娘と同じくらいの年齢だ。「ママより美人ね」と言ってくれる。(実は数年前、来日したナターシャと娘とはちょっとした確執があったのだ、だから娘はバイカルへ行こうとはしない)。
 ごちそうを作るのも食べるのも好きなチモヘイは、少年の頃と比べて、今会ってみると縦も横も増え、いい具合にぽっちゃりしている。レストランの横の厨房では見習い(?)が数人はいるらしい。ニキータの館にはシーズン中、バイカルを見て過ごしたいという非ツーリストが多いのだ。コーヒーを入れる専門家だというポップな格好のお兄さんも出入りしている。隣のテーブルに着いた男女はロシア語のメニューがわからないらしく、ニキータが説明している。メニューは見なかった私だが、聞いていると価格はかなりのようだ。そうだろう。これだけのお味だから。
 孫娘がデザートを食べたいというので、出してもらった。こちらも創作ケーキで、奥深いお味。泥だらけの小道に破れ板を引いた通路に囲まれた『館』の諸棟には、似合わない高級さだ。
 食事後はもちろんバイカル湖を見に、『館』を出た。ニキータの通る近道というのは、なぜか開いたままになっている他家の敷地を、家畜の糞を踏まずになんとか通り過ぎ、また開いたままのドアを通って出たところで、バイカル湖岸に出る。つまり、『館』は絶景の地に無秩序に建てられたのだ。
 バイカル湖岸を歩く
 
 ブルハン峠のシャマーン岩
 
 幸せそうな牛だなあ
 
観光スポット、後方左はハダク(チベット仏教で、
聖なるところに結びつけるリボン)が
結びつけられた見晴台
 
 『ヴォスクレセニエ』カフェで
 孫娘に、日が傾きかけたバイカル湖岸を散歩させて、観光スポットのブルハン岬のシャーマン岩(地峡でつながっている)を右側から正面から左側からと、自撮りや他撮りの写真をたっぷり撮ってもらい、牛さんにこんなに近づけたとはしゃいでもらい、7時近くの日没を眺めていた頃、大量ツーリストのお世話が一段落したらしいニキータが、散歩している私たちを見つけに来てくれた。
 それから、私がフジール村に来たときは必ず寄ることにしているセルゲイ・グルジーニンСергей Грудинин所有のペンションに向かう。グルジーニンとニキータは40年ほども以上前初めて卓球選手として一緒に来日(北海道)した。2度目の来日が金沢でその時、私はニキータと知り合った。やはり30年以上前私が初めてオリホン島フジール村に行ったとき、グルジーニンには妻と二人の息子(上の子は妻の連れ子)がいて、みんなでバーベキューやテント泊などしたものだ。その後のことは伝聞だが、彼は妻を亡くし、何度か結婚し、一時は『ニキータの館』の副支配人をやったり、フジールの村長を務めたりしていた。今は、自分のペンション『ヴォスクレセニエ(『復活』の意)』のオーナーで、何人目かの若い妻と暮らしている。ペンションは今営業しているのかどうか知らないが、立派なカフェは開いていた。
 ニキータと店に入ると支配人のような女性から、グルジーニンは妻とヴァカンスに出かけて留守だと言われた。オリホン島は、10月はもうシーズン・オフなのか。カフェの(雇われ)支配人(?)だか店員にニキータは「よおっ」という具合に挨拶して、私たち3人はテーブルに座る。
 1階にはスウィーツを並べたウィンドウとテーブルが3脚ほどだ。2階は広くて大抵のテーブルには客が座っていた。店員さんが時々お盆に注文品をのせ、階段を上っていく。前回(2年前)来たときもそうだったように、階段の壁にはぎっしり絵が飾ってあり、値札もついている。10年くらい前、セルゲイが自分の何番目かの息子とニキータとチーホンの4人で日本に来たとき、もらったお土産は、これらの中の1点だったのかも。
 オーナーがいなくても、なかなか繁盛しているようだった。おいしそうなスウィーツが並んでいる。ニキータに勧められて孫娘が、イチゴのケーキを選ぶ。こんな風に孫娘はロシアに来ておいしいスウィーツばかり食べているので太ったそうだ。カフェに住んでいるらしい慣れた猫としばらく遊んで、店を出た。ニキータとグルジーニンの間柄なので、「セルゲイによろしく」と言うだけで、お茶代は払わなくてもいいそうだ。
 外へ出ると真っ暗だった。オリホン島には派手で高価なカフェやペンションがどんどん建っているが、道路事情はとても悪い。特に今は道路工事中で、どこから新道で、どこが今通れる旧道なのかもわからない。街灯なんかないから、歩きづらい。クセーニャがいてくれる一軒家までは歩けばかなりあるらしい。タクシーを呼んでくれた。こんなところにタクシーなんてあるのか。
 明日は10時過ぎ出発、湖岸でバーベキューをと言われて別れた。しかし、出発時間は、ニキータの手が空いたときと言われた。それはいつかわからない。
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