| up date | November 27, 2025 |
| 42 - (5) 2025年秋、懐かしいイルクーツクとクラスノヤルスク クラスノヤルスク地方を回る 2025年9月15日から9月29日(のうちの9月25日から27日) |
Иркутск, Красноярск в 2025 года (15.9.2025-29.9.2025)
| 1 | 9/15 -9/27 |
懐かしいイルクーツクとクラスノヤルスク | 北京経由イルクーツク | ベンチャーロフ家 | バイカル湖へ | オリホン島の『ベンチャーロフの館』 | バイカル湖岸を歩く |
| 2 | 9/18 -9/19 |
1キノコ狩り、東岸へ | フジール村村長 、ブリヤートの話 | 『館』のピアノ・コンサート | バイカルのブリヤートの聖なる所 | サクロ石の湖岸 | 元校長宅、バイカルを去る |
| 3 | 9/20 -9/21 |
ガイダイさん | トゥンキンスキー盆地 、ジェムチュグ温泉 | アルシャン | ペンション『松林』 | ブリヤート・アルシャンのチベット寺院 | チェブレーク 、イルクーツクのオルガンホール |
| 4 | 9/22 -9/24 |
アルカージーさんとイルクーツクの町を | クストーヴァさん宅訪問 | チーホンの料理、シベリア鉄道 | リユーダさん。補償金アスターエフ記念館 | クラスノヤルスク発電所 | アリーナ、ウスペンスキー修道院、別荘 |
| 5 | 9/25 -9/27 |
ヴィサコゴールヌィ橋 | エニセイスク市 | 国旗、連邦大学、丘陵公園 | バレエ の夜と噴水 | 軍事学校、キリスト像 | 川岸通り、エニセイ河川駅『ロシア』、医科大学 |
| 6 | 9/27 -9/29 |
レストラン『マルーン』 | クラスノヤルスクのシナゴーグ | 兵士募集 『祖国の防衛者の日』 | ブフロフの絵画、イル郷土博物館、モスク | ブロンシュテインの画廊、オペレッタ | 出国、帰国、ロシアは。 |
| 費用 |
| ヴィソカゴールスキー橋 | ||||||||||||||||||||
2年前クラスノヤルスクに来たとき、エニセイスク市へも行った。途中の道でヴィソカゴールスキーと言う2024年夏に開通したばかりの新しい橋があった。この橋を渡ってエニセイ右岸(アンガラ川北岸でもある)に出て356キロ行くとセーヴェロ・エニセイスキィСеверо-Енисейский町に出られる。行ってみたいと、話していた。その後のメールでも、その橋を渡ってタイガの右岸を奥深く行く話をよくしたものだ。だからこの日はリューダさんが私の長年(たった2年)の願いを叶えてくれることになっていた。356キロはむりだろうが、せめて10キロほどはと思っていた。それで早朝8時過ぎには家を出た。コンビニによってコービーを飲みヨーグルトを買った。 アリーナさんも付き合ってくれる。後部座席に孫娘と一緒に座ってくれれば、英語で話題も弾むかと期待したが、二人とも何を話していいかわからなかったらしい。孫娘が質問してもわからないという答えだったとか。 クラスノヤルスクからエニセイの左岸をまっすぐ北上する地方道『04K-044エニセイ街道』は私の大好きなコースだ。シベリアのタイガの中を行く。時々エニセイ川が見える。いくつも村を通り過ぎる。標識に書かれている地名はみんな懐かしい。何年も前にランチを食べたウスチ・トゥングースカ村も通り過ぎた。リューダさんは夏に友達と1泊でここへ行ってきたとか。 12時過ぎ、クラスノヤルスクから約200キロのアバルコーヴォ Абалаково村を過ぎると、ついに青く塗った橋が見えてきた。2年前はこの橋を渡ったが、渡ったところで引き返してきた。今回はセーヴェロ・エニセイスキィまではいけないにしても、数キロは行ってみよう。ヴィサコゴールスキィ村は10キロとあるから、そこへ行くか。詳細地図の大好きな私は、なぜこの橋がヴィサコゴールスキィ橋と名づけられたのか、知っている。右岸に寒村ヴィサコゴールスキィ(『高い山』の意)村があり、橋が架かっているところから最も近い集落だからだ。もっと景気のいい名前にすればよかったのに。 帰国後、最近の地図を見ると、ヴィサコゴールスキー村からエピシノ村までの道路整備が進行中とある。エピシノは橋から70キロほど右岸に沿って川下へ行った村だ。新しい橋からそこまで川岸の4つの寒村を通る古い道があるが、現在、通年通れる広い道に工事中だ。(一部は完成)。 『北のほとんどすべての道路は、アスファルト舗装はしてない。アスファルトは、シベリアのタイガ・ルートが主に対象としている大きな温度変化や大型トラックの重量に耐えることができないからだ』。しかし、夏場、沼地にもならない堅い道路(シベリアは永久凍土なので表面が溶けると泥沼化する)は産業に不可欠なのだろう。橋は『人口はまばらだが森林と鉱物が豊富なエニセイ川右岸の交通アクセスを改善するための作業の強化に弾みをつけました』とサイトにはある。アンガラ川北岸、エニセイ川右岸は昔から金の鉱山があるところだ。セーヴェロ・エニセイスキィ町もその一つだが、奥深いタイガの中にあり、交通は超困難。それをプーチンのロシアはこうやって交通インフラを向上させている(スターリンの時代なら政治犯の強制労働力を用いたか)。 橋を渡るとタイガ林を広く切り開いてできた『堅い』道が前方に通じている。葉っぱを半分落とした白樺や、とんがったトウヒ類が道の両側に見えるだけで無人の道路だ。空も広い。しばらく行くと十字路に『左折2キロ、ヴィサコゴールスキィ。直進61キロ、エピシノ。直進350キロ、セーヴェロ・エニセイスキィ』とある標識が見えた(写真)。前記のように、最近の詳細地図を見てみると橋を渡ると道は自然にエニセイ右岸に沿って5つほどの寒村を通って、エピシノ村へ通じている。5つのうち最初に通るのがヴィサコゴールスキィ村だが、建設中の道から村は離れているので、村へ行くためだけの迂回路もある。十字路で『エピシノ61キロ』とあるのが村を通らない近道・直進の道路だ。エピシノはエニセイスク市の対岸にあり、クラスノヤルスクからの地方道04K-044『エニセイ街道』はエニセイスク市までの345キロで、そこでフェリーで対岸のエピシノ村へ出る。エピシノ村からは無人のタイガの中を突き進んで、1920年代末からの金産地セーヴェロ・エニセイスキィまで行く旧道04K-053(エピシノ~セーヴェロ・エニセイスキィ293キロ)が古くから通っている。旧道、つまり悪道だ。エピシノから69キロも南に橋ができたのは、アンガラ北岸の金鉱へも近いからだ。プーチン時代の今、橋の完成後、橋から右岸沿いに北へ伸びるヴィサコゴールスキィ経由エピシノへの道の整備、南へ延びる道の計画、旧道04K-053の『高速道路化』が行われている。まさに『人口はまばらだが森林と鉱物が豊富なエニセイ川右岸の交通アクセスを改善されつつあるようだ』の通りだ。 私たちたちは直進しないで、ヴィサコゴールスキィ2キロの方に曲がった。私はせめて橋の名になった村を見たいと思ったのだ。村はなんと言うこともない田舎の村だったが、店があった。田舎の店というのは興味深い。小さな建物でドアには『イストーク店 Исток10時から21時まで開店』とあったので、アリーナとドアを細めに開けて覗いてみた。整然と商品の並ぶ昔風の田舎の店で、冷蔵ケースの向こうには白髪にめがねの初老の女性がたっていた。「入ってもいいですか」と私は恐る恐る聞いてみた。愛想よく、「勿論いいですよ、そんなところに立ってないで、どうぞ」と言われたのでアリーナと入った。孫娘もついてきた。私たちがどこから来てどこに行こうとしているのか、なぜこの村へ寄ったのか私は説明した。その店員さんは話し相手がいなくて寂しかったのかもしれない。うれしそうにおしゃべりしてくれて、後から入ってきたリューダさんには、こんな女の子だけでセーヴェロ・エニセイスキィ町なんかにはとてもいけませんと、詳しく道路事情を説明してくれる。プーチン政権(その政権下のクラスノヤルスク地方庁政権)が頑張って、04K-053道を整備してくれてはいるがまだまだぬかるみ部分が多い。ランクルは頼みになる車だが、あの道で故障したのでは女の子だけではどうしようもない。 ではせめて橋がよく見えるところへ行きたいと私が言う。それには、「元来た道を少し戻って、橋の手前を右に入って・・・」 と口で言うだけではだめだからと、納品表の紙の裏に自己流の地図を書いて渡してくれる。イルクーツクの国境警備のパスポート審査員たちと比べて何と言う親切さ。私のことを『おばあちゃん』とは言ったが、うれしくなった私は、彼女の名前を聞いたり、「ここで生まれたの」と個人的なことまで聞いたりしてしまった。レソシビリスク市出身のようだった。そこで彼女は計画倒れに終わった中部エニセイ発電所Среднеенисейская ГЭСの話をする。 エニセイ川には上流にサヤノシューシンスカヤ水力発電所(ロシアで最大)があり、その下流にクラスノヤルスク発電所がある。1980年代初めに、さらに下流の、アンガラ川が合流してきて水量がぐっと増えた地点、つまりアンガラ川の合流点よりやや下流のレソシビリスク近くに発電所をつくる計画があった。案が練られ下準備もできていたが、ソ連崩壊で、たち切れになったそうだ。店員さんはそんな発電所ができていたら大変なことになるところだったという。どれだけ多くの村や畑や森がダム湖に沈んだか知れない。実は中止になった原因はダム湖に沈む地域に亜鉛などの大産地があったからだ。 エニセイ水系にはアンガラ川も含まれる。水量が実は本流のエニセイより豊富なアンガラ川にはすでにイルクーツク発電所(1950年着工)や、ブラーツク発電所、ウスチ・イリムスカヤ発電所、ボグチャンスカヤ発電所があり、ボグチャンスカヤ下流のモティギンスカヤ発電所はまだ計画の段階だ。ロシア連邦全体には20以上のプロジェクトがあるが、モティギンスカヤ発電所は、プーチンも認める国家計画書で、スレドネエニセイスカヤ発電所より上位となっている(早く着工)。アンガラ川のカスケード(段をなす滝)の方が密だ。 スレドネエニセイスカヤ発電所が中止(ほとんど)になって、リューダさんも喜んでいる。私も、だ。何かと自然に手を加えすぎない方がいい。 アリーナが今の店で『アリョンカ』の小型チョコを3個買った。店の商品は几帳面に整理され並べられ、値段もわかりやすくついている。こんな店の店員に私もなってみたいと思ったくらいだ。 私たちは書いてもらった略地図をあまり当てにしないで、進んでいった。あまりにも略地図でリューダさんがさっぱりわからないと言っていた。それでも、ランクルを、ここかなと言うところで右折させ、エニセイ右岸らしい泥道を下流に向かって進んでいった。04K-053でも、04K-039でもない漁師さんが通るような道は本当に泥道で、あっという間に車は泥だらけになってしまった。私はこんな車は慣れているが孫娘はそうでもなくて、降りるときズボンが汚れたと文句を言っている。それは車の進行方向を見て、車体の泥を予測しなかった孫娘が悪い。 降りたところは、店員さんが教えようとした岸辺かどうかわからないが、橋がよく見えた。私たちはクラスノヤルスクのスーパーで買ったヨーグルトを飲みエニセイの風に震えながら写真を撮って、15分ぐらいで、橋まで引き返した。 |
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| エニセイスク市 | ||||||||||||||||||||
川岸のカフェなので窓からエニセイが一望できる。食後は川岸に出る。ここには2年前来たときに『エニセイスクの創立者(*)』の3人の像ができていた。ソ連時代のロシア人(官僚)の好みは指導者レーニン像を造ること、今は各都市の創立者の像を造ることかな。シベリアの町を作ったのはシベリア征服コサック兵団でその隊長や、同行してきたロシア正教の僧侶、征服を命令した当時の権力者などが関係していた。だから、そのような17世紀風の服装の像が町の始点だったというところなどに21世紀になってから立ち始めている。 *エニセイスクの創立者像 その創設をになったのは貴族の息子Пётр Албычевと兵の小隊長 Черкас Рукинと修道士 Тимофейが創設者とされている。2017年に設置 コサック兵は当時北西から川伝い(支流から別の川の支流へと)に来たので,町の始点は川岸だ。エニセイスク市はシベリアの父と呼ばれている。それは1619年という早い時期にコサックの柵が作られて、ここからその先の南や南東や東にコサック兵団が進出したからだ。また、エニセイスク市はクラスノヤルスクよりずっと早くに人口が増え、勿論教会もふえた。18世紀からの立派な石造り教会がたくさんある。ここ10年20年の間にみんな立派に改装された。川岸広場にあるボゴヤブレンスカヤ・サボールБогоявленская собор(主顕節大聖堂、1730-1750)もそうだ。頭にショールを巻いてみんなで入る。彼女は自分以外の信仰習慣のない3人のためにちゃんとショールを用意してくれていた。 次にリューダさんが車を止めたのはウスペンスカヤ教会の建造物群ансамбль Успенской церкви(1793-1819)(聖母被昇天教会建築群。ウスペンスカヤは聖神女就寝)だ。 もう5時になっていたが『カンナ博物館』の前で車を止めた。リューダさんはここへ行きたかったのだろうか。『カンナのコレクションというのはロシア中で、もしかして世界中でここしかないかも知れない』と、エニセイスク市の数年前発行された旅行案内書に載っている。ここのオーナーヴィタリー・イスレンチエフВиталий Ислентьевさんも入場者の私たちに最初にそう言っていた。 その博物館の入口ホールには大きな世界地図が貼ってあって来館者はそこに自分たちの来た都市の名を書いて張りつけるのだ。勿論ロシア国内の名札がぎっしり貼ってある。アフリカも数カ所あったが中国は少ない。東京があった。どんな人だろう、こんなところまで来るなんて。私は漢字で金沢と書いてシールを貼った。オーナーさんは喜んでいるようだった。 この博物館は一つとして同じものはないロシア中から集めた1500以上のカンナが棚に整然と並んでいる上、斧や、私には用途のわからない大工道具がさらに並んでいる。オーナーの手作りもあるそうだ。そしてすべてのカンナ類が使用可の状態だそうだ。このホールも棚も椅子もテーブルもオーナーの手作りだろうか。 カンナ・コーナーとは別のコーナーには、オーナーの趣味で集めた古いレコードのジャケットや古いアコーディオンが並んでいて、手回しポータブル蓄音機まである。オーナーにとってこちらのコレクターの方が愛しそうだった。テーブルにはオーナーの自叙伝の冊子が積んであり、リューダさんが購入していた。 クラスノヤルスクへの帰りの道を走っていたのはもう6時。家までの道のりはこの日長くて暗かった。助手席に座っている私は眠ってはいけない。運転手と話をしなくては。帰宅したのは10時も過ぎていた。 |
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| 国旗、連邦大学、丘陵公園 | ||||||||||||||||||||
前日に約束したとおり9時半にはディーマさんがマンションにやってきた。ディーマさんが来たと言うことは夫婦で交代して案内してくれるのかな。 ウラル山脈より東では最も大きいロシア国旗がはためいているニコラエフスカ丘(標高505m)の見晴台に行った。2年前にクラスノヤルスクに来たときもこの硬化ガラス張りの見晴台はできていたが、旗はなく旗竿だけだった。それは、この高さ(100m)でこの重さ(33x22m、84kg)の旗をこの風に当てるとすぐにボロボロになり、あげるのも下ろすのも大変で破れても修理が難しいというので、国旗はなかったが、今回はあった。プーチン政権下のクラスノヤルスク地方庁政府は、国旗を丈夫な材質にして揚げておくべきと判断したかのようだ。下からじっと見つめていると国旗ごと旗竿がゆっくり倒れてきそうだった。本当は雲が動いているのだ。 11時にはクラスノヤルスクの一番の名所、市の象徴にもなっているカラウルナヤ丘(Karaulnaya Hill)の『パラスケヴァ・ピャトニツァ礼拝堂часовня Параскевы Пятницы』にいた。クラスノヤルスクに来た以上はここへ来なくてはならない。10ルーブル紙幣にも印刷されている。観光バスも止まっている。クラスノヤルスクの中心が見晴らせる。元々はコサックの見張り(カラウリ)塔だったのだろう。この辺りは先住民のカーチンスキィー・タタール(ハカシア人やエニセイ・キルギスと呼ばれていたテュルク系の人々)の居住地だったからだ。 ディーマさんの会社にも行ってみたい。何年も前には町中にあったが、今は郊外の広い敷地内に事務所や修理棟、広大な部品置き場を構えている。事務所前の広場には日本から購入したばかりらしい車が置いてある。修理棟にはリフトが何台もある。天井にはハニカムで明かりがついている。修理用道具は日本の根本氏からの遺品だそうだ。オフィス棟は1階が顧客受付の窓口(店)になっていて、2階に事務室や社長室、応接室などがある。社長室にはプーチンの写真があった。応接間には日本のお土産や中国のものが並んでいる。会社名が『ヴォストーチヌィ(東方の)・テルミナール』だから、日本も中国も含む。中国車や中国車部品は売ってないが、ディーマさんには中国通の親友がいて、度々自身も中国に行っている。実はその親友が20年前、私にディーマさんを紹介したのだ。日本の中古車との取引が成功してから、彼の会社は大きくなったと思う。 2階にはこの会社の技術者のための特別制服もあって、孫娘は試着させられていた。中国茶もごちそうになる。部品用倉庫に行ってみる。強化プラスチックで半円形に建てられた2階建ての長屋だ。遠くまで棚があってすべてに番号がついている。どんな部品がどこにあるか、すべて、コンピューターに入っていてすぐ見つけ出せるのだろう。 彼の会社を出て、3人でロビンソンというカフェに入った。これは彼の昔の会社の近くにあり、私がかつてクラスノヤルスクへ行った時にはよく入ったところだ。 2時にはシベリア連邦大学の前にいた。ここで私たちのお相手はディーマさんからリューダさんに変わる。かつて私が日本語を教えていた頃はクラスノヤルスク国立総合大学と言った。高等教育制度の改革があって、国立大学は東シベリアでも格が上がって連邦立となった。新築の棟がたくさん建った。私たちが2時に着いたのは旧校舎前だが、外観は新しくなり、大学図書館が入っているようだ。 私たちがクラスノヤルスクに到着した日に孫娘がそんな格上になった連邦大学を見たいと言ったのだ。彼女の大学は、学部は難関でも、地方大学だ。外部の者が大学に入るのは難しいが、リューダさんは友達とコネを使って、日本の大学から来た学生が連邦大学の見学をしたいからと、大学に入る許可をもらったらしい。正確には、大学の玄関で迎えてくれた大学職員が案内するというものだ。男性が迎えてくれた。後でわかったことだが、彼は副学長の一人だった。リューダさんの発信から何人もの人を通したおかげで、日本の大学生が、この大学に留学したいので下見に来たと伝わっていたのかも知れない。 医学部(医科大学)は別にあるので、私たちが案内されたのは生物学の学部長室だった。その学部長は長々と英語で話をしていて、正面に座った孫娘は神妙に拝聴していた。となりのアリーナは英語がわかるはずだが、生物学には興味はないだろう、その隣に座った私とリューダさんは英語がわからず、死ぬほど退屈だった。学部長と孫娘が英語で対話したわけではない。学部長が母国語ではない英語で一方的にしゃべり、私たちは聞いているだけだった。 やっと終わって、案内された次の部屋は実験室だった。そこの職員は私たちの誰を相手に何を話せばよいかわからないようだった。私に話そうとしたので、「私は英語はわからない」とロシア語で答えた。年配の研究者が来たと思ったのかな。 実は、建物の外観は変わったが、内部は私が何十年も前にいた頃とあまり変わってはいなかった。本物の人工衛星が天井からぶら下がっていた。昔はこの太陽電池パネルが剥がれていたものだ。副学長(後でわかった地位)は、日本文化センターも案内してくれた。私がいた時から日本文化センター室はあった。見慣れたドア模様だったが、このときは閉まっていた(近々の大学祭(?)の準備とか)。私がいた頃と違うのは、この近くに食堂ができていることだ。それも一般食とハラル食に分かれている。 副学長は、後はご自由にどうぞと別れていった。日本の大学からこの大学へ留学希望者らしくなく、私たちはふらふらと大学の階段を上ったり降りたり、新しい棟から古い棟に行ったり、クラスノヤルスク地方とハカシア共和国にあるスキタイ時代の遺跡の写真展示コーナーを見たりして、3時半頃引き上げた。それ以上見るところがなかったからだ。 4時頃には、アリーナは家に帰り、代わりにマトベイが後部席に座った。4人でグレミャーチィ・グリーヴァ Гремячая грива(轟き渡る長い丘と訳せるか)という丘陵公園に行ってみた。2年前にもマトベイと3人で来たことがあり、今はより一層整備されていた。2年前地面だったところが石畳になっている。地面の斜面だったところにはスチール製の網階段ができている。階段の所々の見晴らしのよいところには広い踊り場がある。もっと先まで上っていける。2年前は足場の悪い山道(崖道)だった。今は、段が途中で抜けたりしていない安全な階段だが、私は登りがつらいのでパス。マトベイと孫娘が上っていった。なかなか戻ってこなかった。長い間、周りの景色。森、木々、枝、葉を眺めていなければならなかった。やっと降りてきた孫娘はどこまで行っても階段で、もうヘトヘトになったと言っている。頂上まで行ったらしい。マトベイは平気そうだった。 |
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| バレエの夜と噴水 | ||||||||||||||||||||
クラスノヤルスク・オペラ・バレエ劇場は、昔の滞在中何度も行った。その頃はチケットも安く、出演者もモスクワやサンクト・ペテルブルクと比べると(多分)それほどでもないだろうと思っていたものだ。オペレッタ劇場の方が行きやすいし、興味深いプログラムが多いと思っていたものだ。『コルサール』は実は2024年サンクト・ペテルブルクのキーロフ劇場(世界1流のはず)で見ている。 リューダさんたちと駐車場を見つけるのに苦労はしたが、なんとか6時半頃劇場の入口に着いていた。プログラムによると、ヒロインにはこの劇場のプリマ、アンナ・クドリャクツェヴァАнна Кудрявцеваが演じている。ロシア功労芸術家だ。日本なら『紫綬褒章』が授与されたバレリストか。功労芸術家より上位には『人民芸術家』がある、こちらは日本で言えば人間国宝に近いニュアンスだそうだ。出演者にはそのほかクラスノヤルスク地方功労芸術家さんも2人プログラムに載っている。 やはりバレエの国ロシアだ、地方都市クラスノヤルスクと言っても素晴らしい。素人の私には、キーロフ劇場とクラスノヤルスク劇場の『コルサール』の舞台の装置や踊りの振り付けが違うことはわかるが、バレエの水準の差がさっぱりわからない。どちらがよかったかわからない。クラスノヤルスクの方が劣るとはとても思えない。『コルサール』は少年のマトベイも感動したようだ。初めてバレエを見た孫娘も、だ。何度も見ている(しかし、久しぶりの)私とリューダさんも、だ。 9時半には終わって劇場前広場に出た。ここは昔からクラスノヤルスクの中心だ。噴水はここ数年の地方庁政府の援助で立派に修復され、広場には老舗のクラスノヤルスク・ホテルやカフェが面していて、通りを隔ててクラスノヤルスク市の役所群が建っている。9時半頃劇場を出て広場に降りると、一面のネオンの夜景だった。噴水を色とりどりの光で照明している。音楽が鳴っていて、その曲に合わせて噴水が踊り、色が変わる。広場には大勢の親子連れやカップルであふれている。楽しい音楽に合わせ、噴水と一緒に、または噴水の周りで踊っているグループもいる。誰もが心もウキウキとして、噴水の色変わりと踊りに見惚れていた。噴水は何本もあってお互いに曲に合わせてくっついたり離れたり飛び上がったりしている。色と踊りと曲がぴったり合っていた。広場は満員のクラスノヤルスク人たちだ。流れる曲の中には『ロシア!ロシア!』と愛国的なのもあった。このときだけ愛国主義を許す。楽しそうな人々を見ていると、これが戦争をしている国かと疑いたくなる。全面戦争ではなく『特別軍事作戦』だから、人々の生活は平穏で豊かでなくてはならない。 10時には音楽は止み、照明も色のない動かない静かなものになり、噴水ももう踊らなくなった。私たち4人はまだ帰宅しない。ニコラエフスクの丘から市内の照明をリューダさんが私に見てほしいと思ったのだろう。夜景は素晴らしい。電気代の安い国だからね。モスクワの夜景は近くで見たが、クラスノヤルスクでこうして郊外の高台から見るのもいい。昼間の眺めとも違う。ウラルの東で一番高い旗竿とはためく国旗も夜景に浮き出て、ロシアの威力を示している。マトベイ少年は車の中で眠っていた。 |
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| 軍事学校、キリスト像 | ||||||||||||||||||||
この日は、夕方クラスノヤルスクを去る。リューダさんはぎりぎりまで私たちの相手をしてくれた。朝は9時半に、マヤーク丘の別荘から丘の下のアカデミガラドク地区のマンションまで来て、ドアの鍵を開けてくれる。 マンションの隣は軍事教育センターだ。こちらも勿論2年前より拡大している。2年前には外壁に『特別軍事作戦』で戦死した卒業生の写真と業績を示したプレートがあったので、軍事技術高等専門学校かと思っていた。2年間で勿論死者は増えている。別のところに墓銘があった。展示品は、地対空ミサイルシステムなどがふえている。それだけでなく学校の背後の2年前は藪だったところが、学校生徒(と思った)が行進練習(たぶん)をするような広場になっている。使ってないときは一般市民もそこで休める。片隅には屋根付きのチェス・サロンができている。つまりチェス盤のテーブルと椅子のセットがいくつも並んでいる。ロシアの映画に出てくるような、町中や広場で町の人たちが誰とでもチェスを楽しめるようなチェス・サロン、無料貸席だ。 帰国後、この学校について調べてみた。この軍事教育・訓練センターというのは昨日のシベリア連邦大学の中の一つの単科大学のそのまた一部だ。 つまりシベリア連邦大学(総合大学)にはインスティツィート(単科大学、だが、『学部』と取った方がわかりやすい)が、23(学部)ある。人文や工学、建築、有色金属、経済、環境、教育、石油・ガスなどなどで、最重要なのが軍事・技術単科大学(学部)だ。その下に5個の下部組織があって、その第1が、私たちが見ている『Военный учебный центр им. Героя Российской Федерации генерала армии Дубынина Виктора Петровичаロシア連邦の英雄である陸軍大将ヴィクトル・ペトロヴィチ・ドゥビンニンに因んで名付けられた軍事訓練センター』だ。そのセンターには軍事教室・講座(軍事学科Военная кафедра、軍事訓練プログラム)が8講座あって、この建物にはそのうち4講座が入っている。シベリア連邦大学には昨日訪れた本部の他、実に多くの棟があるのだ。 ロシアでは徴兵制があって、18歳から30歳の男性は12ヶ月の兵役義務があって、毎年春と秋に平時徴兵される。しかし大学在学中は徴兵が猶予される。多くの大学には、シベリア連邦大学のように軍事学科(軍事教育・訓練部門)があり、学生が通常の学業と並行して一定期間訓練を受けることができる。。この訓練を終了すると、卒業時に予備役士官запасной офицерに登録され、通常の兵役義務を免除される。つまりロシアでは大学教育と結びついて『徴兵免除の代替えルート』として機能している。 無料貸席チェス・サロンを通り過ぎて、アカデミガラドク区を通り、それから近くの崖上の新しい教会に行く。鐘を鳴らしていたからだ。八端十字架をつけた金色のドーム(タマネギ型)が6個もあるロシア正教の典型のような教会だ。2001年に建設が始まったそうだ。『ロシアの新殉教者たちおよび告白者たちの教会 Храм Новомучеников и Исповедников Российских』という。 教会の横の崖上ぎりぎり(マンションのあるアカデミガラドク地区はエニセイ川の崖上にある)のところには、リオ・ネジャネイロにあるような、両手を広げたキリスト像がある。キリストは崖下を背にして立っている。つまり、崖上の高台で自分のところに近づく人々を迎えるように。 この絶壁上からのエニセイ川の眺めも素晴らしいのだ。翼があったら飛びたいくらいだ、とクラスノヤルスク人は言っている。 |
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| 川岸通り、河川駅、『ロシア』,医科大学、 | ||||||||||||||||||||
クラスノヤルスク市旧市街 1ドゥベンスキィ像、2医科大学、3エニセイ河川駅 4,オペラ・バレエ劇場![]() |
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クラスノヤルスクの川岸散歩道には、エニセイ川河川駅がある。その河川駅はソ連時代の堂々とした建物の一つだ。正面は中心街の一つの広い道路の突き当たりにあって、スターリン時代風の尖塔がある。クラスノヤルスク市のシンボルの一つでもあった。建物の2階には、クラスノヤルスクで当時最も有名なレストランの1つが営業していた。しかし、私が、1990年代に見たときは古びた(うすよごれた)建物だった。正面から見てもひと気がなく、乗船客がチケットを買ったり出航まで待ったりする様子は見えなかった。正面の反対側、乗船のために出る川岸側から見ても、河川駅は荒れた感じだった。だが、川岸を散歩する人は多かった。私も、かつてクラスノヤルスクに住んでいたときはよく散歩していた。飲み物など売っている屋台もあった。屋台のような小屋の一つでエニセイ川航行の船のチケットを売っていた。 今はエニセイ川が市内を流れる範囲ぐらいの近郊の遊覧船(観光ガイド付き遊覧船か)のチケットが売られているようだ。平日でも2000ルーブル、休日なら25000ルーブルで、第4船着き場(船付き場は7カ所はある)から出ている。私たちは、あまりに短すぎるからと乗らないことに決めた。順番も長かったからだ。 帰国後ネットで調べたことだが、2025年は2隻の客船(荷物もちの乗客が多い)がクラスノヤルスク河川駅からエニセイ川下のドゥジンカまで航行している。下りは3日と14時間、上りは5日と8時間かかる。エニセイ川が凍結する冬場は運行していない。2025年度の初出航は6月11日で、最終船はクラスノヤルスクを10月3日に出て帰りの乗客は10月16日の20時に戻ってくる。運賃は普通のカテゴリーでも1万から2万ルーブルはする。 私たちが散歩していた日には2隻のうちの1隻が長期航行用船着き場7に舫っていた。 川岸通りには河川駅の隣に立派で近代的な建物が建っていた。国立センター『ロシア』Национальний центр «РОССИЯ»のクラスノヤルスク支部の入っている建物だ。かつてこの辺に何があったか忘れたが、今は『ガレリア エニセイ』、『ロシア・エニセイ』と書かれ、大がかりに改装された大きな長い建物があって、そこに前記のように国立センター『ロシア』が設立されたそうだ。完全に完成するのは年末だが、リューダさんと入ってみた。展示会のすべてのエリアはインタラクティブになっているそうだ。ハイテクだ。 帰国後調べたウェブによると 『総面積は 40,000平方メートル以上 で、地域最大級の文化施設。もすくわにあるz『全ロシア博覧センターВДНХ』の支部か。 目的とコンセプト; ロシア各地の文化的独自性を保存・発信する国家プロジェクトの一環。 地域ブランドや成果を紹介する 常設展示・イベント拠点 。 主なゾーン • 常設展示:クラスノヤルスク地方の歴史、自然、産業、文化、社会的成果などを紹介。 • グルメエリア:地元生産者やロシア各地の食品ブランドによる飲食スペース。 • ユニバーサルショップ:ロシア企業の商品を販売。 • 映画館「シネマ・パーク」:9つのシアター、ロビー、カフェテリアを備えた複合施設』とあった。 確かにハイテクだった。ヴァーチャルでクラスノヤルスク岩山公園にも登れる。クラスノヤルスクの様々な観光スポットを背景に自分の写真を撮り、QRコードを通じて自分の写真のライブラリーに入ってくる。 川岸通りの散歩にも疲れたので、せっかく有料駐車場に止めたのに、取り出して川下の方へ行った。フィルハーモニーホールの横を通り過ぎて坂を上ってゆくと、国立クラスノヤルスク医科大学の建物がある。ソ連時代風の正面だ。21世紀も25年も過ぎたからと言って、ソ連時代を思わせる建物も残っていた方がいい。内部も、新しそうではない。『大主教ルカ(ヴォイコ・ヤセネツキィ教授)名称クラスノヤルスク国立医科大学,Красноярский государственный медицинский университет имени профессора В. Ф. Войно-Ясенецкого』と正式名称では言う もしかして見学させてもらえないだろうか、日本の医学部に学んでいる学生が来ているのだけど、とリューダさんは受付で聞いてみたが断られた。ロシアでは大抵のところの入り口には遮断機があって、外部の者は入れない。連邦大学には入れたのはコネの紹介者がいたからだ。遮断機の外側の玄関で出てくる学生を見ていた。 白衣を着たまま出てくる学生もいた。日本なら、のりのきいた真っ白の白衣だが、薄汚れた白衣だったので、内部の施設はどうなっているのだろうと思ってしまった。ロシア人女性は長い爪のマニキュアが好きらしいが、医療関係者には全くそぐわない。そんな女性も出てきた。 私たちは仕方がないので、医科大のソ連風の建物の正面や、大学の名称ともなった大主教ルカの像の前で何枚かの写真を撮って、車は不法駐車させたまま、カーチャ川がエニセイに合流する場所を見晴らす高台に行った。その展望台には、クラスノヤルスクの町を厳しい目で見下ろし、威嚇的に手を伸ばしているドゥベンスキーの像が立っている。 (*)コサックの隊長ドゥベンスキーАндрей Дубенскийが、1628年テュルク語系住民が住んでいたカーチャ川がエニセイに合流する三角点(岬)に柵(防衛要塞)を作ったのが、クラスノヤルスクの始まりとされていて、この像は私のクラスノヤルスク滞在中(1997年)に建った。エニセイスク市の創始者コサック隊長像の設置よりかなり前だ。(エニセイスク市はその頃まだソ連崩壊の荒廃中だった)。現在のクラスノヤルスク付近にはドゥベンスキーがカーチャ川河口の適所に木製の砦を作る前までに、コサックの越冬小屋や、原住民から毛皮などを徴収する基地があって、カチンスキー(カーチャの形容詞)と呼ばれていた。それで、ドゥベンスキーの要塞は『新カーチンスキー』と1659年まで呼ばれていた。カーチャ川はエニセイ川左岸の高地森林地帯を100キロも大きく弧を描いて流れてエニセイに合流する川で、河口近くに18世紀頃住んでいたテュルク系(ハカシア人のカーチンツィ方言を話す)民族をロシア人は川の名前でカーチンツィと呼んだ。カーチャ川岸に住む民族と言う他称だ。(あるいは自称カーシャという民族が住んでいた川の名前をロシア語風に歪曲してカーチャと読んだのか)。 17世紀半ばから「クラスヌイ・ヤール」という名称が使われるようになった。それは、今のクラスノヤルスクの場所をカーチンツィ語の「キジル・チャー」といい、意味は赤い色(クラスヌィ)のヤール(高い土手または丘、崖)。これをロシア語に訳したものだ。 |
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