クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
              Welcome to my homepage

アクセスカウンター
home up date November 26, 2025  
    42 - (2)   2025年秋、懐かしいイルクーツクとクラスノヤルスク
               バイカル湖オリホン島
    
                                  2025年9月15日から9月29日(のうちの9月18日から19日

Путешествие в Иркутск, Красноярск 2024 года (15.9.2025−29.9.2025)

 1  9/15
-9/17
懐かしいイルクーツクとクラスノヤルスク 北京経由イルクーツク  ベンチャーロフ家  バイカル湖へ   オリホン島の『ベンチャーロフの館』 バイカル湖岸を歩く 
 2  9/18
-9/19
 キノコ狩り、東岸へ フジール村村長 、ブリヤートについて 『館』のピアノ・コンサート  ブリヤート人のバイカル湖、聖なる所  サクロ石の湖岸   元校長宅、バイカルを去る
 3  9/20
-9/21
 ガイダイさん トゥンキンスキー盆地 、ジェムチュグ温泉 アルシャン  ペンション『松林』  ブリヤート・アルシャンのチベット寺院  チェブレーク 、イルクーツクのオルガンホール
 4  9/22
-9/24
 アルカージーさんとイルクーツクの町を クストーヴァさん宅訪問  チーホンの料理、
シベリア鉄道 
リユーダさん。補償金アスターエフ記念館  クラスノヤルスク発電所  アリーナ、ウスペンスキー修道院、別荘 
 5  9/25
-9/27
 ヴィサコゴールヌィ橋 エニセイスク市 国旗、連邦大学、丘陵公園  バレエ の夜と噴水  軍事学校、キリスト像 川岸通り、エニセイ河川駅、『ロシア』 
 6  9/27
-9/29
 レストラン『マルーン』 クラスノヤルスクのシナゴーグ  兵士募集 、『祖国の防衛者の日』 ブフロフの絵画、イル郷土博物館、モスク ブロンシュテインの画廊、オペレッタ  出国、帰国、ロシアは。
 費用

 キノコ狩り、湖東岸でバーベキュー
 
洗面台、洗濯機、トイレ、シャワー 
 
暖炉とキッチンとダイニング 
 
タヨージナヤ通りの家の前(門の内側) 
 
キノコ狩り 
 
 バケツのキノコ、段ボールにも採った
 
 東岸の崖上で
 
 バーベキューの準備
 
チキンが焼けたか調べるヴィクトル
サラダ用具材を切るクセーニャさん 
 
『消化するまでの歌』をギターで歌うヴィクトル 
 
 9月18日(木)。
 10時過ぎ出発と聞いていたが、早めに起きて、この家をゆっくり見た。シベリアの家らしく広い玄関の間があるから、外からの寒気がここまでで遮断される。次のドアを開けると広間(リビング)があって、暖炉が2台もある。そのうち一つの暖炉近くはキッチンでその横にはダイニング・テーブル。テーブルの上にはビスケットや紅茶パック、フルーツなどが置いてある。もう一台のテーブルの方は2台目の暖炉近くにある。キッチン・ダイニング・リビング兼用のホールに続いて奥には、部屋が2つとトイレ・シャワー室へのドア、2階への階段がある。この日はクセーニャさんに2階に寝てもらった。知らない場所の知らない家だから、その方が安心だ。普段は、彼女は近くの自分の家で寝泊まりしているのか。ニキータに客があったときだけ、お世話係を務めてくれるのか。
 昨日の約束通り9時頃朝食にしてくれた。この家は、元々古いそうだ。つまり土台と支柱が古いのか。ニキータは大がかりなリフォームをしたのだ。
 10時過ぎ、予想していたが一向にニキータは現れなかった。自分のペンション『ニキータ・ベンチャーロフの館』に大量のツーリストが泊まっているから、抜け出せないのだろう。私たちは家の前の椅子に座ったり、ひと気のないタヨージナヤ通りを右へ行ったり左へ行ったりしていた。道の両側の家々は都会人の別荘らしい。
 針葉樹(タヨージナヤ)林通りと言うだけあって松ぼっくりが通り中に散らばっていた。
 11時近くにヴィクトルの黒くて古いワンボックスカーが現れた。クセーニャさんは乗っていたがニキータはいない。だから、私たちをまず乗せてから、『館』まで行ってニキータと荷物(バケツや段ボール)を乗せ、島の中央に向けて出発した。島の南部や湖岸近くには林はないが、中央の山地には木々が茂っている。バケツにはナイフが何本も入っている。バケツにナイフにダンボールと言うことは、キノコ狩りというわけだ。自然好きのロシア人にとって秋の一番のレジャーはキノコ狩りだ。都市近くの森にもキノコはいっぱい生えているが、狩られてすぐなくなる。だが、ここは人口の割に断然キノコが多い。ヴィクトルがこの辺かというところで車を止めると、ナイフとバケツが渡された。
 食用キノコでも、カテゴリーがある。ここではちょうどいいくらいに成長した虫の食わない、裏がきれいなルィジックРыжик(アマナズナと訳されている)が一番のカテゴリーだ。他にも生えているが、よいものがあるときはそんな2級品は採らない。一歩歩くごとに枯れ葉の陰から傘が見える。ナイフでスパッと柄を切って傘の裏を見る。白くて腐ったところも虫食い跡もなければバケツに入れる。大きすぎるのは切ってみると傘の裏が茶色い。捨てる。キノコ狩りはクラスノヤルスクにいた頃もやったことはあったが、こんなに続々とは生えていなかったし、2級品3級品が多かった。上等のキノコが群生していなければ、下級のキノコでも採ってもらえる。ここではルィジックの群れがどこまでも続いている。ヴィクトルが「全部はとれるものではない」と言っている。彼は多分大バケツに2杯は採った。私たちは1杯だ。
 ロシア文学を読むと、キノコ狩りの場面がよくある。私も今回ロシア文学の主人公になった。
 小一時間ほども集めて、引き上げた。途中の山道ではエーデルワイスが咲いている。バイカルは国立公園だから採ってはいけないのかも知れないが、ヴィクトルが摘んでくれた(住民のためのキノコはとってもよい)
 ゆっくり山道を通ってオリホン島の東岸の崖上に出た(地図)。大陸(と言うがイルクーツク州の陸地のこと)のタジェランスキー草原半島の続きのように伸びているオリホン島は半島のように細長くバイカル湖の南西に延びている。つまり、オリホン島はバイカル湖の西岸近くに、大陸と平行に延びているわけだ。大陸とオリホン島との間のバイカル湖は狭い。オリホン島西岸と大陸東岸との間のこの狭いバイカル湖は『小さな海』と呼ばれている。狭いから暖まりやすいのか、オリホン島の大小の集落は西岸にある。フジール村があるのもオリホン島の西岸だ。西岸と大陸の間は、前記のように狭いので、フジール村から対岸の大陸側の山脈が見晴らせる。(バイカル湖は概ね山脈で囲まれている)。
 しかし東岸からは対岸(ブリヤート共和国)はかすんで見えない。東岸のバイカル湖は『大きな海』と呼ばれていて、バイカル湖は東岸沖合で深くなっている。世界最深の場所(1642m)が北東岸沖合にある。

 ヴィクトルが私たちのバーベキュー場所として止まったところは、そんな東岸の崖上だ。ニキータが折りたたみ椅子を2脚並べてくれ、ヴィクトルとニキータはたき火の用意をする。クセーニャさんはスイカやメロン、キュウリやトマトを切っている。私たちは偉そうに(?)崖上の椅子に座って膝の上にスイカやメロンの皿をのせ、バイカルの景色を満喫している。チキンはゆっくり焼ける。私たちは長い時間をかけて果物や野菜や肉を食べ、孫娘は自撮り他撮りをしていた。バイカルの風は冷たく、私はダウンコートを出してきた。クセーニャさんは綿入れのような長いコートを着ている。その模様が中央アジアかモンゴル的だった。聞いてみると、ニキータがキルギスから大量に仕入れて、自分のペンションの売店で売っているとのこと。クセーニャさんはそのうち1枚をニキータからプレゼントされた。ニキータから私たちにも今度売店に行って好きな柄とサイズのコートを選んでくださいと言われる。後のことになるが、私はド派手な綿入れコートを選んでしまった。しかし、キルギス草原の冷たい風にも耐えられるくらいだから、日本の冬、室内で着ても暖かいだろう。早朝(人がいない)のゴミ出しにも着ていける。
 チキンはみんなで食べたが、豚肉は私たちだけが食べた。ニキータたちはイスラムでもユダヤ教でもないが『肉』は食べない(チキンは『肉』ではない)。食べ終わって、丹念に火の後始末をした。完全に消火するまでヴィクトルが『消火するまでの歌』とか言ってギターを弾いていた。

 5時近くなっていた。帰りも東岸をぐるりとまわって景色のよいところでは車を止め、自撮り他撮りをした。日はまだ高く、真っ白な雲と青く光るバイカル、足下の厳しいゴツゴツした低い草の地面が写真に写っている。ツーリストなら足を止める絶景の場所の一つか、マイクロバスが近づいてきた。降りた団体客は皆ロシア人だ。外国人観光客はやはり少ない。いても個人客だ。
 フジール村村長さん宅、ブリヤートについて
 ペンション『ニキータ・ベンチャーロフの館』に戻ると、大口団体客がブリヤートの踊りを中庭で習っているから、仲間に入らないかとニキータが誘ってくれた。行ってみると輪になって踊っていて中にブリヤート衣装の人もいた。仲間になりづらかったので外(あの乾いたぬかるみに破れ板の)に出てみると、ブリヤート衣装の男性(勿論ブリヤート人)がニキータと話していた。ニキータが紹介してくれたところによると彼はサーシャАлександр Васильевич Шарыгинと言ってフジール村の村長だそうだ。彼が村長になる前はヴェーラという彼の妻が村長だったとか。
 ニキータは11月に日をずらして4つのグループを日本に案内する計画だ。1つはフジール村から希望者が12人(全員がブリヤート人)、2つめは撮影グループ、3つめはアーティスト・グループ、4つめはバトミントンなどのスポーツグループだ。彼は日本へのビザ代行やチケットを扱う代理店と懇意で、度々グルールを組織してビザを取る。(もしかしてハバロフスク領事館かウラジオストック領事館かとも懇意か)。ペンション業の利益で彼は何度でも、マルチ・ビザで日本に来ている。わざわざ別府温泉に漬かりにきたり、広島県の珍しい祭りに合わせて来たりしている。日本が好きで、日本に私などの知り合いもいるから、自分の知人たち、自分のペンションの宿泊客や希望者に日本旅行を提案しているのだろう。ニキータ経由で来日の旅行者に聞いたところビジネスと言うほどにはニキータはもうけていない。道楽でやっていると言ってもいいくらいだ。
 英語の若い女性通訳を2,3人確保して同行させている。彼女らにはマルチ・ビザを取ってやっている。チーホンやチーホンの婚約者のマーシャ(マリーナ・カロリコヴァ)にも取ってやっている。
 
 急いで準備してくれるヴェーラさん
 
 ごちそうを出されてしまった
 
 馬の絵と日本の刀の前で写真を撮るよう勧められたので

 村長のサーシャは、今回の来日予定のフジール村グループの一人だ。だから、私に紹介されて喜んでいた。彼らの12人のブリヤート人グループは、大阪から金沢、奈良、京都、大阪という10日間のコースで、金沢に4日滞在する。すると私の家にも寄るだろう。と言うわけで、彼は、今晩彼宅に招待してくれた。ブリヤートの踊りは彼なしでもやれる。妻のヴェーラさんも、少し後、『館』の別の場所でニキータに会い、私たちを招待すると言ってくれた。
 そんなわけで、7時には彼らの車で、彼らの新築の家の食卓に座っていた。急な来客で準備もなかったらしいが、ヴェーラさんは精一杯もてなしてくれ、サーシャさんはブリヤートの習慣だからと言って地酒(?)のようなものを出してくれた。スイカやメロン、サラダやジャガイモ、肉や豆などの料理が並んだが、あまり食べられない。サーシャさんとはブリヤートの歴史について話が弾んだ。私はロシアの少数民族の大の味方だ。もしかして彼ら自身よりその民族の歴史を知っていたりする。ロシアに住むブリヤート人も現在のモンゴル、中国(内モンゴルなど)に住むモンゴル人も、同じモンゴル系だ。18,19世紀ロシア帝国が清国と国境を決めたときロシア側に入ってしまったのがバイカル湖周辺に住んでいた今のブリヤート人とも言われている。
 ブリヤート人は古テュルク系とトゥングース・満州系と、サモディーツ(旧サモエード、今はツンドラ地帯に住む)を祖先も持っていて、匈奴が滅びた頃、バイカル湖畔に住み始めたとウィキペディアなどにはある。
 中国の文献で知られている限り古くから北アジア、東北アジアに住んでいた鉄勒теле、骨利幹Курыканыは古テュルク系らしい。テュルク系の方がモンゴル系より古くから歴史に顕われていた。6世紀に中央ユーラシアに存在した突厥可汗国は、テュルク系遊牧国家だ。モンゴル系はモンゴル帝国で名を知られている。
 18,19世紀ロシア人がバイカル地方へ入ったとき、先住民だったのは現在のブリヤート人の祖先だった。私がブリヤートの歴史に話題を持って行くと、彼はエニセイからアムールまでブリヤートの領土(勢力範囲、正しくは居住地)であったという。大雑把に言ってそれは間違っていないので私は大いに賛同した。現在のブリヤートの祖先がバイカル湖周辺のテュルク系人を北に追いやったという説もある。そのテュルク系というのは今のハカシア人の一派のサハ(ヤクート)で、ブリヤートから北に追いやられてそこにいたトゥングース系(エヴェンク人)を、北に追いやった。エヴェンク人は北のサモディーツ人をさらに北へ追いやった。陸の民族移動は、東でも西でも、まるでところてんの押し出しのようだ、といつも私は思う。
 
1ヶ月後、ニキータのグループで来日、
我が家のヴェーラさんたち 
 
我が家の庭で、グループのブリヤート人たち 

 モンゴル系であるブリヤート人は、だから14,15世紀頃は屈強な民族だった。しかし、18,19世紀、ロシア(コサック)の武力には負け、ロシア帝国領に組み込まれた。ロシア連邦の少数民族はどれも少数過ぎて主権国家にはなれない。ブリヤート人としては60万人強。半数の30万人がバイカル東岸から南岸のモンゴルとの国境地帯にあるブリヤート共和国(旧自治共和国)に住む。ロシア連邦内の『共和国』とはその民族が先住民として住んでいた地で、現在でも、比較的その民族が多く住むところだ。もちろん、現代では、大抵の旧自治共和国(その前は民族自治区とも言った)では、ロシア人の割合が多い。ブリヤート共和国にブリヤート人は30%住んでいて、これは比率の高い方だ。しかし、自分たちの民族的領土にあって少数派だ。イルクーツク州内にはウスチ・オルディンスキー管区(以前は自治管区)にブリヤート人は5000人、ザバイカル地方のアガ・ブリヤート管区に5万人(管区内に住むブリヤート人の比率は63%)、サハ共和国に7000人、国境の向こうの中国(内モンゴル自治区)やモンゴルにもかなりのブリヤート人が住む(モンゴル人とブリヤート人は区別されるか)(前ページの地図)。
 彼は、前記アガ・ブリヤート管区に行ったこともあるそうだ。そこには、ブリヤートの伝説的な地で今は仏教の聖地となっているアルハナイ山がある(国立公園になっている)。私も21年前に行ったことがある。と言う風に話が弾んだが、8時から、コンスタンチン・セルヴァトフКонстантин Серватовさんのコンサートがある
 『館』のホールでのピアノ・コンサート
 セルヴァトフさんは何年か前、音楽関係者との交際を求めて、ナターシャ・ベンチャーロヴァと来日し、私の家に泊まったことがある。チェロ奏者の友人を得て、彼と日本やイルクーツクで活動していた。数回の来日はいつもナターシャさんと一緒で、東京にも行ったらしい。私が関与したのは初回だけだ。きっかけをつくった私のことを、二人の音楽家は覚えていてくれている。それだけでもありがたい。2018年の冬にも2023年にも彼と『館』で再会した。
 セルヴァトフさんはイルクーツクに住んだり、フジール村に住んだりしている。コロナで国外に出られなくなり、それが収まっても、彼は制裁で日本にも来られなくなった。彼はイルクーツクとこの『館』だけで音楽活動をしているのかな。2年前も、彼のピアノ・コンサートをきいた。その時シーズン・オフだったため、ツーリストも少なく、まるで私のためだけに開かれたようなコンサートで、私は賓客のような気分だった。
 
この日のセルヴァトフさん 
 
翌日、お別れにみんなで撮った。向かって左から
ナターシャ、チーホン、ニキータ、セルヴァトフ
背後は『館』の棟の一部、
このような棟が行くつっもある 

 今回、サーシャの車で、急いで来てみると、会場は満員だった。シーズン中最後の団体客で『館』は賑わっていたからだ。私たちはよく見えるように最前列に座る。彼はいつも力強い演奏をする。今回はそれがもっと力強くなったように思われた。その音に比べ、次の曲名を告げる彼の声は弱く小さく、早口でほぼ聞き取れなかった。私の知っているような曲はなかったので、彼の作曲かと思ってしまったくらいだが、後でニキータに聞いてみると、私が知らないだけで、ショパンやチャイコフスキーなどの曲だった。セルヴァトフさんはいつも黒装束だ。
 『館』に来た初日、セルヴァトフさんはここにいるだろうか、会えるだろうかとニキータに聞いてみた。「いるが、体の調子が悪いから会えるかどうかわからない」という返事だった。だからコンサートがあると聞いて意外だった。今、ピアノの前の彼を見ても、病んでいるようには見えなかったが、現れて、演奏し、すぐに去って行く様子から、芸術家の彼の気質が、ニキータの言う『不調』の原因かと思った。
 演奏の途中には、ナターシャとチーホンの詩の朗読があった。誰の詩で、どんな内容だったかも全くわからなかった。ロシア語の詩なんて大体私には難しい上、彼らが小声で朗読していたからだ。専門の朗読者なら、舞台前方に立ち朗々と読み上げるだろうが。何のためかわからない数分だった。後列に座っていたロシア人聴衆にも不明だったと思う。
 演奏が終わると、聴衆の中にはセルヴァトフさんに近づいて感謝や賞賛を述べようとする人たちもいたが、多分、彼はすぐ去ったと思う、私はナターシャを見つけて彼に挨拶したいと言ったが、彼は演奏の後では疲れているから誰とも会わないと言われた。
 しかし、次の日(9月19日、夕方オリホン島を去った日)のことになるが、2時過ぎニキータと『館』の食堂(チモフェイの『レストラン』とは違い、『普通の食堂』)でランチと前日に採ったキノコのお味見をしていると、どこかのドアからコースチャが現れた。セーターに半ズボン・サンダルだったので、孫娘も驚いた。私は、彼に会えたことがうれしかったし、演奏のお礼も言えたし、それなりに場を持つ話ができたと思う。こんな時写真は本当に助かる。写真を撮るだけでも場が持つ。
 その日、いよいよ『館』を去るという3時頃、ナターシャやチーホン、ニキータたちと、写真を撮る、このときコースチャは日本の友人のチェロ奏者宛ての小さな手紙を私に言付けた。帰国後、大げさにならないように、彼のレッスン場へ行き、届けた。確かに届けたよ、と言うことも報告しなくてはと思って、ワッツアップで、コースチャに簡単な挨拶を書いた。意外なことにすぐ私への賞賛の返事が来た。
 ブリヤートのバイカル湖、聖なるところ
 9月19日(金)。
 
朝食を準備してくれるクセーニャさん 
 
トヴォーログの鉢も準備済み 
 
東方へ牛乳の水滴を飛ばす瞬間 
 
サルツェフ・リス 
 この日も朝食はクセーニャさんが作ってくれた。ロシアで朝食と言えばトヴォーログтворогだ。牛乳を発酵させてホエー(水分)を除いたもので高タンパク、低脂肪でカルシウムも豊富だが、私はあまり食べられない。孫娘はもっと食べられない。これはロシア朝食の定番のそばの実のグレチカгречка(そばの実を水または牛乳で炊いたもの、玄米ご飯のようで、味がない)より食べやすいのだが。クセーニャさんはいつも約束通りの時間に朝食を作ってくれる。私たちは一度も完食しなくて悪かったな。
 この日は、またヴィクトルの車で島の、今度は西岸を北進する。ニキータは『館』をこれから留守にするので、忙しくて来られない。いつものようにクセーニャさんがお世話係だ。
 オリホン島西岸中程に位置するフジール村が島では最も大きいが、その少し(6キロ)北のハランツィХаранцы村(前ページの地図)も最近、元からの住民の他にイルクーツク人の別荘地として家が増えている。ここには空港がある。ハランツィ村にあるが『フジール空港』という名だ。小さな飛行機が草原(地面、アスファルト舗装なし)から飛び立ち、草原に着陸するようなシベリアの田舎にある空港だ。ソ連時代はここからイルクーツク便があったが、その後長い間閉鎖され、数年前からの観光ブームで、空港は再開。今や毎日2便が運行している。ネットによれば、ウラン・ウデ09:40発からフジール10:40着と言う便と、ウラン・ウデ13:30発からフジール14:30着で、復路便も11:25-12:25,15:10-16: 10と言う2便。料金は1500ルーブルから。確か2年前に調べたところではたった週に3便だった。
 ハランツィ村近くには、ハランツィ島や、ワニやらライオンに見える岩の島があって、冬場バイカルが凍ると、観光スポットで多くのマイクロバスが氷上に集まる。今の季節でも、見晴らしのよい岸辺から岩島を眺めるためにワンボックス・カーがたくさん止まっている。
 私たちはそこを通り過ぎて湖岸をさらに北へ向かう。ブドゥン岬мыс Будун(後にヴェーラさんに確かめて、その正確な地理的地名を知った)と言って、断崖やステップ地形からなるバイカル湖西岸に少し突き出た岩場の岬だ。バイカルの絶景ポイントの一つでシャーマン岩と同様ブリヤートの宗教的な意味もあるそうだ。しかし、ここは主要な旅行案内書にもウィキペディアにも載っていない。
 クセーニャさんに言われて、この絶景の岩の間の草原でブリヤート風(シャマニズムとチベット仏教が融合した習慣で、ブリヤートやトゥヴァでも行われる)の『儀式』を行った。つまり、東西南北の4方向へ牛乳の水滴を飛ばす(注ぎかける、散布sprinkling)という儀式だ。『ミルクの濯ぎокропление молоком』という。自然の精霊や祖霊へ供物を捧げ、敬意と祈りをあらわす。自然との調和と感謝と言う意味を持つそうだ。
 この湖岸、断崖の上の岬でいくらバイカルの風が強くても、私はニキータが仕入れてきたキルギスのド派手な長い綿入れコートを着ていたから平気だった。

 神聖な場所はさらに続く。ねじれた幹で枝の張った大木の近くでヴィクトルは車を止める。樹齢300年以上というポプラ類の木でサルツェフ・リスСарцев лисと言い地区指定天然記念物だ。バイカル湖の風の強さに耐えて幹も太くねじれているのだろう。この老木もシャマニズムの信仰対象で、バイカルの精霊が宿る木だ。木の周囲には柵が設けてある。これは、ツーリストが根元を踏んで痛めないように、幹の樹皮を剥がしたり枝を折ったりしないように保護してあると、私は思った。日本ではそうだ。しかしクセーニャさんはその木の柵を乗り越えて、木に触りに行き、私たちを招く。写真を撮ってあげようというのだ。
 石榴石の砂浜
石榴石の砂浜で石蹴りをする 
↑砂浜に見える
石榴石の粒子 
↑その部分を薄く剥いで
家まで持ってきた 
 
 牛さんたちがよってくる
 
 残り物をあげる
 さらに湖岸を北に向かった。ペスチャナヤ湾БухтаПесчаная あたりだと思う。砂浜に所々赤褐色の部分が見える。これが先ほどからクセーニャさんが予告していた石榴石(ガーネット)の浜だ。この辺り一面の砂浜に赤褐色の部分が見えるのは、ガーネットの微粒子が含まれているからだ。クセーニャさんはなぜガーネットの粒がオリホン島北西岸の砂浜や断崖下に見えるのか、説明してくれた。帰国後ChatGPTで調べたことからも補完すると、この地域は変成岩や片麻岩が多く、そこに含まれるガーネット(主にアルマンディン)が風化・浸食によって細かくなり、湖岸に打ち上げられ赤い粒の混ざったように見えるそうだ。変成岩や片麻岩があってもバイカルの荒い波がなければ粉にならないし、湖岸に打ち上げられないし、ちょうどよい砂浜がなければ、ガーネットの砂浜ができないとクセーニャさんは言う。
 そんな楽しい湖岸で、孫娘は水切りをしようと石を投げていたし、私は石榴石の粉の多そうな部分を薄く剥いでいたし、ヴィクトルは火をおこし、クセーニャさんはまたすいかやうりを切ってもりつけ、サラダも作ってくれる。ヴィクトルの起こしてくれた火にやかんをつるし、お茶を飲んだ。そうしているとこの辺りの牛が、何かおいしいものでもあるかと寄ってきた。牛たちはガーネットの砂浜を荒らさない。上の草原に寝そべったりもそもそ歩いたりしている。
 私たちが食べ終わった残りを牛にあげて、早い時間に引き上げた。この日のうちにイルクーツクに着かなくてならないから。
 『館』に戻って、前記のようにニキータと昼食を食べ、キノコのお味見をして、ピアニストのコースチャに会い、集団写真(と言っても6人)も撮った。『館』に来た以上はニキータのママのアントニーナ・イヴァノヴァさんにも挨拶しよう。2018年冬に来た時は彼女の棟に入り、ゆっくり話したものだ。(嫁の悪口ももちろん聞いた)。
 元校長宅、バイカルを去る
 
メルツ先生宅 
 
7時38分 
 ニキータは、フジールの学校の元校長のイヴァン・イヴァノヴィッチ・メルツ先生宅には4時に行くと連絡してあったたらしい。昔と変わらない懐かしい門を開け、彼らの居間兼キッチンのドアを開けると、私たちを待ち構えた夫妻が迎えてくれた。30年以上前にバイカルに来た頃、ニキータには住居がなかったので、メルツ先生宅に泊まった。水道のない田舎家だった。次に来たときもそうだった。2004年にバイカルに行った時は、もう『館』ができていたのでそちらに泊まった。それからも、バイカルに行く度に、メルツ先生宅を訪問した。家はだんだん整備され、2年前は都会のマンションと変わらなくなっていた。しかし、ドアを開けて入る居間だけは、何だか元のままだ。メルツ先生も、妻のヴァーリャさんも昔と変わらない顔で、ただ、しわがやたら多くなっているだけだ。ドイツ人(*)のメルツ先生は超愛国保守派だ。最近ドイツの新首相になった反露の首相の名がメルツだと言うと、そうだ、いやなやつだ、同じ名字だが、と言うようなことを言っていた。この話題で少し場が持った。メルツというのはドイツでよくある名字だろう。
 (*ドイツ系ロシア人。18世紀、荒野だったヴォルガ中流にエカチェリーナ2世の招きで移住してきたドイツ人の子孫。ソ連時代の第2次大戦前までは彼らのために作られたヴォルガ・ドイツ自治共和国(1924−1941)に住んでいた(現在のサラトフ州とスターリンウラード州にあった)。しかし、大戦中は敵国民と言うことでシベリアへ強制移住させられ、自治共和国は解体された。フルシチョフ時代になって強制移住が解かれた。しかしヴォルガ・ドイツ人共和国は再建されず、現代もサラトフ州となっている。多くのドイツ系ロシア人は1980年代後半から1990年代にかけてドイツへ『帰還移民』として大量に移住した。または戦時中移住されたシベリアや中央アジアに残っている)
  ニキータは先を急いだので彼らとお茶を一杯飲んでお別れにハグする時間しか滞在しなかった。

  ヴィクトル運転の車でフェリー乗り場まで行き、5時にはオリホン門海峡を渡っていた。ヴィクトルがパンをカモメに投げていたが、風が強くて、パンがカモメのところまで届かない。
  7時は、カティーク街道を走っていた。ほとんど地平線が見えるくらいの平原だから、赤い夕日が長い間見られた。緯度が高いから日は斜めに沈み、なかなか沈みきらない。東の空が真っ黒になっても、西の空はまだ薄明るい。
HOME  ホーム ВАСК 前のページ ページのはじめ NEXT 次のページ