クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date November 26, 2025  
    42 - (3)   2025年秋、懐かしいイルクーツクとクラスノヤルスク
                    アルシャン
    
                                  2025年9月15日から9月29日(のうちの9月20日から21日

Путешествие в Иркутск, Красноярск 2025 года (15.9.2025-29.9.2025)

 1  9/15
-9/27
懐かしいイルクーツクとクラスノヤルスク 北京経由イルクーツク  ベンチャーロフ家  バイカル湖へ   オリホン島の『ベンチャーロフの館』 バイカル湖岸を歩く 
 2  9/18
-9/19
 キノコ狩り、東岸へ フジール村村長 、ブリヤートの話 『館』のピアノ・コンサート  ブリヤートのバイカル湖、聖なる所  サクロ石の湖岸   元校長宅、バイカルを去る
 3  9/20
-9/21
 ガイダイさん トゥンキンスキー盆地 、ジェムチュグ温泉 アルシャン  ペンション『松林』  ブリヤート・アルシャンのチベット寺院  チェブレーク 、イルクーツクのオルガンホール
 4  9/22
-9/24
 アルカージーさんとイルクーツクの町を クストーヴァさん宅訪問  チーホンの料理、シベリア鉄道  リユーダさん。補償金アスターエフ記念館  クラスノヤルスク発電所  アリーナ、ウスペンスキー修道院、別荘 
 5  9/25
-9/27
 ヴィサコゴールヌィ橋 エニセイスク市  国旗、連邦大学、丘陵公園  バレエの夜と噴水  軍事学校、キリスト像 川岸通り、エニセイ河川駅、『ロシア』 
 6  9/27
-9/29
 レストラン『マルーン』 クラスノヤルスクのシナゴーグ  兵士募集、『祖国の防衛者の日』 ブフロフの絵画、イルクーツク郷土博物館、モスク ブロンシュテインの画廊、オペレッタ  出国、帰国、ロシアは。
 費用

 ガイダイさん
 
プラドのトランクにいたアーニャ 
 
クルトゥック町のバイカル湖 
 
 クルトィック待ちバイカル湖のフォトスポット
 
またトランクルームに潜り込むaアーニャ
 9月20日(土)。
 8時にガイダイГайдайさんが迎えに来るからと、前日から言われていた。彼の車は大きくて上等だから荷物もたくさん詰め、5人は楽々乗れるとニキータが言っていた。(後で本人から聞き出したことは、ランクルのプラド、ロシアで新車で買ったそうだ。)
 来日前、ニキータからバイカルの他はどこへ行きたいかという問いに、できたら「アルシャンという鉱泉場で有名」なところに行きたいと答えた。その保養地の名はイルクーツク人からよく聞いていたのだ。しかしそこはイルクーツク州ではなくブリヤート共和国だ。だからかなり遠くて、日帰りはつまらない。誰かが、私たちを案内してくれるかも知れないが、(ニキータ流では私に義理がありそうな)知り合いに当たってみるという返事だった。そして、電話で連絡がついたのか、私に「1泊でアルシャンに行きたいか、春に金沢に来たことのあるガイダイさんが招待している」と告げた。イヴァン・ガイダイさんと妻のリュドミーラ・イヴァニイИванийさんが、金沢にきた時、近郊を案内してあげた。そのとき一緒に白山ホワイト・ロード入り口付近の中宮温泉にある旅館の湯につかったことがある。
 ニキータのやり方は日本へ行きたい知り合いを募り、その一部の人の日本(金沢)観光を私に任せる。私がイルクーツクに来たときは、それらの人に働きかけ、私の観光を任せる。と言う理にかなったものだ。私がイルクーツクに来ていると、どこかから知った彼らが自発的に申し出ることもある。ニキータによるとガイダルさんは後者だった。彼は、イルクーツク市から70キロも離れたウソリエ・シビリスク近くのマリタ村Мальтаに住んでいて、いくつかの商店のオーナーだそうだ。村は3000人ほどだが多分唯一の商店で、何でも売っている。
 そういえば、白山方面に車を走らせていたとき、リョドミラさんは、自分たちのことを話していた。マリタ村とは20世紀前半に後期旧石器時代のマリタ遺跡(2万年から2万5千年前)が発掘された。大抵の考古学の教科書には載っている『マリタのヴィーナス』は、エルミタージュ美術館にある。つまり遺跡の発掘現場は残っていないし、有名な発掘物だけは国立博物館などにある、と言うわけだ。2万年以上前の石器人がどんなところに住んでいたのか、場所だけでも見に行きたくもあるが。
 日本の縄文時代の遺跡を示されたロシア人(イルクーツク人)は自分たちのところには、もっと時代が遡った石器時代の遺跡があると言うが、マリタの石器時代人は絶対にロシア人の祖先ではない。
 マリタ村はイルクーツクから70キロも離れているから、8時に彼らが到着できなかったのも無理はない。ガイダイさんはそれほどイルクーツクの地理を知らないのでスヘ・バートル街11をすぐには見つけられなかったのだろう。しかし、車のナビと、ニキータとの携帯電話のおかげで8時30分頃には、彼らが到着。私たちも後部座席に乗り込めた。驚いたけれども納得したことには、後部座席の後ろの荷物を置くスペース(プラドだから広い)に彼らの娘のアーニャが乗っていた。クッションにくるまって居心地も良さそうだった。
 ガイダイさんはマーシャ・マレヴァーノヴァさん宅へも、ナビを見ながらやっとたどり着き、マーシャを乗せた。ニキータが言うには、アルシャンではバーベキューもするから助手が必要だとか。彼女は英語をしゃべるから、孫娘とも話ができる。(実際は。この2日間、マーシャはロシア語しかしゃべらなかったし、孫娘は日本語しかしゃべらなかった。母語以外をしゃべらなくても周りと通じるときは母語しかしゃべらないものだ)
 マーシャを乗せると車はイルクーツク市を出て連邦道R258別名『バイカル』(*)で100キロも南下すると、バイカルの南岸のクルトゥックКултук町郊外に出る(地図)。クルトゥック町はバイカル湖の最南岸にあって、湖岸にはフォト・スポット場もある。そこで、アーニャもトランクから這い出して、家から持ってきた魔法瓶のお茶を飲んで一休みして、出発したのは11時過ぎだ。

 (*)ロシア・シベリアの連邦道、ノヴォシビルスクからイルクーツクまでの連邦道R255(別名『シベリア』)はイルクーツクのバイパスで終わり、イルクーツクからはR258(別名『バイカル』)となってチタ市まで行って、チタ市からはR297(別名『アムール』)となり、ハバロフスクまで行き、そこからはA370(別名『ウスーリー』)となって、ウラジヴォストックで終わる)。ロシアを東西につなげる主要道で鉄道もほぼ並行して走っている
 ブリヤート共和国トゥンキンスキー地区ジェムチュグ温泉
 
 拡大地図はこちら
 
 ジェムチュグ村
 
ジェムチュグ村
 
 カフェ
仲良しさん 
 
浴後のマッサージ 
 
 ジェムチュグ村の『モンゴル市場』
 今まで通ってきた連邦道R258を、もっと先へバイカルの南岸をぐるりと回って500キロほども進めばウラン・ウデ市に着く。しかし、私たちはモンゴル(フブス・ヌール湖近くの国境)へ通じるA333(別名『トゥンキンスキー街道』)へと西に曲がる。A333はクルトゥック(イルクーツク州)からモンゴルとの国境の村モンディМонды(ブリヤート共和国)まで220キロだ。そのうちの40キロほどがイルクーツク州スリュジャンスキーСлюдянский地区で、残りがブリヤート共和国トゥンキンスキーТункинский地区だ。
 ブリヤート共和国はモンゴルとの国境からバイカル湖の南岸にせまり東岸に沿って、人口希薄で山岳の北部に広がる。ロシア連邦内で15番目の面積、人口は53番目だ。共和国は国土の8割以上がバイカル湖北部の(上記のように)バイカル山脈やヤブロノヴイ山脈などの山岳地帯(人口希薄)に位置している。バイカルに流れ込むセレンガ川沿いの首都ウラン・ウデが43万人(うちロシア人55%)、バイカル湖最北のセーヴェロバイカリスクСеверобайкальск(バム鉄道拠点、80%以上がロシア人)市が2万5千人、グシノアジョールスクГусиноозёрск(かつて大規模な火力発電所があった、人口75%はロシア人)の他、数千人の市町村しかない。

 イルクーツク人に人気のあるのはトゥンキンスキー国立公園だ。東サヤン山脈の東端トゥンキンスキー・ゴリツィТункинские гольцы(ゴリツィというのはголый『裸の・禿げた』からの意)の南麓を流れるイルクート川(*)でできたトゥンキンスカヤ盆地(峡谷)付近が国立公園となっている。盆地は長さ190キロ幅25キロほどだ。盆地の南北の山々も国立公園に含まれる。タイガの山々に囲まれ鉱泉・温泉が多くて、ブリヤート文化が残っているトゥンキンスキー国立公園は1991年に設定された。
 *イルクート川はモンゴルとの国境のブリヤート側の山地(1875m)から東北東へ448キロ流れアンガラ川に合流する、合流地点にできたのがシベリア征服コサック隊の柵で、川の名からイルクーツク柵といい、後にイルクーツク市になったのだ。ちなみに同じような地点からイルクート川の北を316キロ流れ、アンガルスク市でアンガラ川に合流するキトイ川Китойや、ずっと北に630キロも流れ、アンガラ川をせき止めてできたブラーツク湖に注ぎ込むオカ川などの源流地点は同じような場所にある。

 このイルクート川が流れる谷間に連邦道A333が通り、私たちはここを50キロほど行ったジェムチュック村近くの広場で車を止める。まだアルシャンではない。ガイダイさんが前にも来たことがある温泉村だ。アーニャもバックドアから這い出て、みんなで広場に面したカフェの一つに向かう。私たちはサラダとボルシチを注文したが、ガイダルさんはみんなに肉汁入り大型餃子(ブーザбууза)を注文した。モンゴル人(もちろんブリヤート人だ、彼らはほぼ同じ民族だ)の少年ウェイターたちが働いていた。外のテーブルに座って食べていると人懐こい野良犬がくりくりとした目を光らせ、しっぽを振って離れない。やがて大きな犬が来るとその犬は黙って去っていった。私たちはどの犬にも何もやらなかったが、ここの犬の世界はそれなりに厳しいのだ。食事が終わると、有料の野外温泉小屋に向かう。9歳のアーニャと孫娘(18歳)はすっかり仲良しになって手をつないでいる。同じ英語を話すロシア人マーシャ(26歳)は大人すぎるとみたのかな。
 温泉小屋のチケットのもぎりは警察官のような男性だった。スリッパのない孫娘にマーシャアが使い捨てスリッパを売店から買ってくれた。男女別更衣室で水着に着替える。と言っても私は水着を持ってきていないので、ガイダルさんが大きなTシャツを貸してくれたのだ。マーシャの予備の水着は孫娘が着けた。
 野外の天蓋の下にある温泉プールは深い大人用と浅めの子供用があるが、水着を着ているから男女の区別はない。水中へ下りる階段はつるつるで滑りやすい。降りて立ってみると底は砂地だった。この温泉プールは水替えをしたり浴槽を洗ったりはしないと思う。40度以上の温泉水を絶えずパイプでたれ流し込むだけだ。だから温泉の成分が壁や階段や手すりにこびりついて表面がぬるぬるになっているのだ。浴客はロシア人も多かった。大人用浴槽は私にはぎりぎりの深さで怖かったので、隣の子供用に移る。ここでは子供が飛び込みをやっていた。隅のほうにモンゴル顔のおばあさんが浸かっている。
 ネットによると温泉の湯は『弱放射性で、冬でも37度から55度の温度。ミネラルが豊富で、 シリコン、フッ素、臭素、ラドンなどを含み、筋骨格系、皮膚、神経系および呼吸器の疾患の治療が期待できる。観光客は、水が薄緑色であることに気づきます。 日陰と心地よい香り、そしてプールからの蒸気が雰囲気を作り出します』とある。
 温泉では浸かっているほかは何もすることはない。体を洗う場所も真水のシャワーもないから、更衣室での着替えも入れて1時間ぐらいで出てきた。先に出たガイダルさんとリューダさんは日本製とよく似たマッサージチェアーに座っている。上の壁には『10分100ルーブル』などと書いた紙があってある。横のフットマッサージ機数台は間違いなく日本製で、日本語で『フットFootキュット』と書いてある。こんなところで意外な日本製を見たものだ。
 私はマッサージより、外に出て『モンゴル市場』の屋台の品々の方が興味深かった。たっぷりの蜜に漬かった巣蜜が500ルーブルで売っていたので購入。ロシアの田舎で巣蜜を見つけると、その安さで、買ってしまう。前回は、カフカスの山村の村で買ったが、帰りのスーツケースの中で漏れてしまった。(後のことになるが、クラスノヤルスク市で食器店を回った時、愛国軍国主義的柄の安い密封容器を見つけて買って、無事日本まで持ち帰った)。市場にはモンゴル製ラクダの毛で織った上着(本物)などと並んで、中国製安っぽいバッグなども並べてある屋台が数軒あった。
 ネット(旅行案内書)には『ジェムチュグの村の中心部にある小さなモンゴル風のアレンジを加えたお土産市場は、モンゴルとの近さを指しています。トゥンキンスカヤ渓谷はモンゴルと国境を接しています。ここでは、モンゴルの伝統的な製品、例えば、暖かいラクダの靴下、 ベルト、ベスト、毛布、銀製のジュエリー、 ハーブティー、松の実やハーブなどを購入できます。観光シーズン(夏と冬)には活気があります。ショッピングだけでなく、地元の文化に浸る機会でもあります。売り手は、製品や雰囲気についての話をすることがよくあります。東洋のバザールに似ています。価格は手頃な価格で、交渉もできます』とある。
 アルシャン
 
 トゥンキンスカヤ盆地
 4時ごろアーニャはまた荷物席にもぐりこんで、私たちは来た道のA333 に出て北へ曲がる道に入る。曲がるとすぐイルクート川を渡り、トゥンカ川(**)がイルクート川に北から合流する地点のトゥンカТунка村(*)の横を通り、トゥンキンスキー・ゴリツィへ北進する。まだまだ盆地で回りの草原にまばらに見える黄色い葉っぱの木々の根元には馬が群れている。草原の彼方には山並みが見える。車が向かう道の先にも高い山が見える。
 *トゥンカ村は盆地の中でも古い村(1676年)だ。シベリアの起源のはっきりしている村はたいていコサック兵が、原住民が遊牧しているようなところの川の合流点などに柵を立ててできた集落だ(防衛のためばかりではなく原住民から毛皮を集めるため)。多くのシベリアの村同様、帝政時代は流刑地だった。また、この近くには旧石器時代後期(3万年前のものと5万年前のもの)の遺跡がある。この辺の盆地は、当時は住みよい場所だったのか。
 **トゥンカ川はトゥンキンスキー・ゴリツィから南へ45キロ流れてきてイルクート川の左岸に合流する。村の名も山の名も、この川の名からきている。トゥンカというのは13世紀この地に住んでいたモンゴル支族のトゥンカтункэнからついたという説がある。トゥンキンスキー盆地も山も村も、この川から名づけられている。トゥンカ川の左岸支流にアルシャンで有名なクィンガルガ川 Кынгарга(26キロ)がある。滝もいくつかあるこの川が盆地に出たところにできたのがアルシャン保養地だ。
 
 有料トイレ
 
 有料トイレ30ルーブル。ナプキン40ルーブル
窓口の少年
 
クィンガルガ川 
 
 アルシャンの神へ
 
チベット仏教 
 30キロほど進んで、『アルシャン』と書かれたランドマークを過ぎると車が多くなる、道路わきに駐車している車も多くなるのだ。山に近づくにつれて、(多分)クィンガルガ川ほとりの聖所に向かって進むにつれて、道路わきにぎっしり止まっている車のせいで道が細くなる。山側へ向かう一方通行かと思うくらいだ。駐車スペースなど全くない。どうしようもないので運転手のイヴァン・ガルダイさんを残して私たちは下りて徒歩で進むことにした。イヴァンは止められるところを探してさまようことになる。
 クィンガルガ川のほとりへ行く道は屋台がひしめくマーケットになっていて、ここは歩くしかない。ジェムチュガ村の屋台同様モンゴルのラクダ毛のベストや、帽子、マフラー、手袋などが売っている。中国製らしいおもちゃもあって、アーニャがおねだりしている。ミント茶のたまらないほど良い香りの葉っぱが売っている屋台では、香りにつられてсаган далиという見慣れないはっぱを1カップ買った。リューダさんはイヴァン・チャイとかチェブレーツчебрецを勧めてくれたが、それはいつもニキータが日本へ来るときにお土産に持ってきてくれる。
 歩いていくと有料トイレ小屋が見える。一人1回30ルーブルだ。ナプキンも売っていて1個40ルーブルと書いてある。窓口にはかわいい顔の少年が座っていた。モンゴル人でもブリヤート人でも日本人と同じ顔だ。特に子供は日本の小学生と変わらない。
 アルシャンの地の神を祭った小屋がある。周りのロープにも木にも南シベリアの習慣(地元の宗教的)通り、ぎっしりと色とりどりのリボン(布きれ)が結んである。
 『健康の小道』と書かれ門があって、そこから入るとアルシャンの目的地鉱泉場へ行ける。小道はロシア人も歩いている。クィンガルガ川のほとりに到着する。木々の間を縫って流れてくるが今見たところ、何でもない石ころだらけの山川だ。川に沿って手すりのついた古びた階段がみえる。危なっかしそうな階段を何人かの人が昇っている。クィンがルカ川の上流や中流へ行くためのこれでも安全な足場だ。上中流には有名な滝があるが。階段は途中までしかない。その階段の途中にはアルシャン(鉱泉の意)の湧き出るところが数カ所あるらしい。私は同行者には悪いが、滝も鉱泉もパスした。だからリューダさんたちとこの石原のベンチに腰掛けて、先ほどの道で買ったアイスを食べたり、ただ休んでいたり、自撮り他撮りをしていただけだ。対岸には青い塀が見える。帰国後地図で知ったことだが、結核療養所らしい。この敷地内にも鉱泉が出る。
 アルシャンの空気を吸って、私たちは引き上げた。鉱泉にも浴びず、滝も見ないというのは邪道で、後にブリヤート人やイルクーツク人に「アルシャンへ行った」というとみんなに鉱泉を浴びてきたものと思われる。実は、私はトゥヴァ(同じ南シベリア)でこの冷たい鉱泉浴びは何度か経験している。
 『健康の小径』を出るとイヴァンに再会できた。一緒に屋台通りの裏にある『瞑想の仏陀』にもお参りする。蓮の上に座る仏陀は青色で、赤い法衣を身につけている。ヘアスタイルはガンダーラ様式(ギリシャ仏教美術)ではなくグプタ様式(インドのグプタ朝は320-550年)だった。飛鳥時代初期の仏像は、インド西北部・ガンダーラでヘレニズムの影響を受けて、中央アジアから中国西域を得て朝鮮半島・日本と伝わったので、ガンダーラ様式だ。白鳳・天平(7-8世紀)の仏像はグプタ朝から中国唐を経て伝わったのでガンダーラ様式は見られない。一方、ブリヤートなどモンゴルは、ガンダーラ、グプタ時代はまだ遊牧国家(匈奴、突厥など)だったので仏教は未発達(未浸透)。7-9世紀チベットが仏教を導入、このとき、グプタ様式のインド仏像様式がチベット仏教に移入、11-13世紀頃に密教美術と融合し、チベット仏教美術が形成、このチベット仏教が13世紀モンゴル帝国のフビライの時に国教となった。
 だから、アルシャンの仏像はこんな風に派手なチベット仏教様式なのだ。
 ペンション『松林』
 
ペンションの管理小屋 
 
 手前がダブルベッド、向こうが拡張ベビーベッド
 
 火をおこして魚を焼く
 
 バーベキュー場横のテーブルに並べる
 
 昨日獲ったた魚が焼けたぞ
 ペンション『サスノービィ・ボルСосновый松の 意味、борは林』というのが、ガイダイさんの予約した宿泊施設だ。
 クィンガルカ川を渡って、主要アルシャン通りから離れたところを探してようやくみつけた。ヴェロソーヴァ通りул. Вересова, 115と言う住所だ。10台の駐車スペースありと、ネットには載っていたそうだ。それはいいが、探し当てた住所にある古びた木造の2階建てが管理小屋だそうだ。出てきた男性は少ない髪を後ろで束ね、いやに愛想がいい。こちらへどうぞと案内されて、敷地内に無秩序に建っている1,2軒のバンガロー小屋の横を過ぎて案内されたのは、2階建ての外階段だった。オーナーに、トイレとシャワーはあるでしょうね、と確かめると、「もちろんですとも」と答えられる。外階段を上がってドアを開けると、靴がたくさんある狭い玄関に出た。ニキータのペンションでも、各部屋に自分の玄関があるのに、共通の玄関とは、といやな予感がした。玄関を入ると、それでも広いリビング。しかし、テーブルの上には食べ物や食器が雑然と並び、迷惑そうな顔のロシア女性が座っている。リビングの壁にはドアが4つ通じていて、それぞれ2,3人が泊まれるようだ。オーナーの男性はここですと一番奥のドアを開ける。ダブルベッドが一台とサイドテーブルが2台、ベビーベッド(!)が入り口ドア近くにある。ベビーベッドに誰が寝るのか。オーナーが申し訳なさそうに「ほら足下を少し広げることもできます、今シーツを持ってきます」と不満げな私たちに、必死に愛想よく振る舞おうとする。つまり、この2階全体で12人ほどの客が1台の狭くて悪臭のトイレを使い、身動きもできないような狭い排水の悪い場所でカーテン越しにシャワーを浴び、他人(この2階の宿泊客)の歯ブラシが並んだ洗面所で歯を磨いたりしなければならない。極めつきは奥の部屋のランプがつかないことだった。フィラメントのようなものが切れているのではない。別の電球と取り替えても点かなかった。
 私は、せめて設備のよくなかった頃のペンション『館』のように自分だけのトイレとシャワールームがあると聞いていたのに、12人(もしかしてもっと大勢)に1台とは厳しい。同居者(の一人の女性)は、同居人数が増えることに不満そうだった。(後でわかったことだが、私たちと友達になりたそうな人たちもいた)。おまけに明かりのない部屋とは、何だ、と言うわけで、ガイダイさんが強く文句を言った。リューダさんは他に空室のあるペンションはないかと電話で探している。土曜日で空き部屋は絶対にない。明かりの点く大きな別のランプを、オーナーがいそいそとどこからかもってきたことと、他に代替えないことで、私たちは承知した。
 ニキータがガイダイさんたちとのアルシャン行きの話の時、私と孫娘は快適なアニメティもあるホテルに泊めてくれるよう頼んでおいた、と私たちに言ったものだ。私たちのホテル代はだからニキータが払うという。後で、ニキータから聞いたところではガイダイさんはニキータから宿泊費を受け取ることは断ったそうだ(ニキータにもガイダイさんにも、自分たちのわがままのせいで何だか申し訳ない)。
 ガイダイさん親子はトイレもシャワーもない電気とベッドとテーブルだけのバンガロー小屋に泊まったし、マーシャは一人だったので知らないロシア女性と相部屋(相バンガロー)になったそうだ。私と孫娘は全くわがままな外国人だった。
 帰宅度、ネットでペンション『松林(サスノーヴィ・ボル)』のレビューを見た。私たちの後に、あの2階屋の一室に泊まった宿泊客たちからの辛口の評価が載っている。ネットの広告で見たのと大違いだと書き込んでいる。ガイダイさんも、ネットの写真では松林にある快適なペンションで、こんな不便なところとは思わなかったと繰り返している。
 オーナーが3回目に持ってきた大きな電球のおかげで、強い明かりの点いた部屋で孫娘は拡張ベビーベットのサイドテーブル、私はダブルベッドのサイドテーブルに自分の荷物を落ち着かせると、リビングで話しながら食事している他人のグループにちょっと挨拶して外に出た。
 ガイダイさんが火をおこして魚を焼いている。ともかく、ネットの広告ベージにあったようにバーベキュー用の炉と、その近くにテーブルと椅子はあった。マーシャがジャガイモをアルミホイルに包んでいる。丸焼きにするためだ。リューダさんはサラダを作ったり、自宅から持ってきたごちそうのタッパーウェアーを開けたりしている。アーニャも何だが荷物を運んでいた。私たち以外みんな、バーベキュー大会に忙しそうだった。何をすればいいかわからないので周りをうろうろして、テーブルに座ったり立ったりしていた。
 出された料理は昨日に、ガイダルさんが(アンガラ川から)釣ってきたと言う魚だった。最近のロシア人は魚好きだ。魚の方が体にいい。しかし、私は出された一匹の魚を前にナイフとフォークで悪戦苦闘した。箸がないと食べられませんともいえない。孫娘の方がきれいに食べていた。アルミホイルで包んで焼いたジャガイモはおいしかった。

 このペンション用の蒸し風呂があるそうだ。私はパス。暗くてどこへも行きたくない。秋色も見えないアルシャンの小径も散歩しない。2階へ上がってみると、先客のロシア人たちはリビングのテーブルに座って話し込んでいる。上のロープには彼らのタオルが掛かっていた。
 アルシャンのチベット仏教寺院
 
バンガローの隅で携帯コンロで 
 
バンガローの外観、ペンションのサイトから 
 
後片付けの荷物を運ぶアーニャ 
 
ホイモル・ダツァン 
 
 マヤ車もある
 9月21日(日)。
 この日は雨模様だった。朝食は、外のバーベキューの場所では寒いから、私たちの2階のリビングでとろうと、昨夜ガイダイさんは言っていた。だが朝になって、アーニャが、自分たちのバンガローで食べることにすると言いに来てくれた。約束の9時頃、行ってみるとガイダイさんが携帯コンロで料理を作ってくれていた。バンガローの宿泊客は屋外の寒いトイレ(もちろん、ボットン・トイレ)へ夜中でも行かなくてはならないし、シャワーは、ペンションの蒸し風呂だ。だから三角屋根のバンガローのドアを開けると、そこはリビング兼ベッドルームだけだった。
 ガイダイさんたちが準備している間、私たちは決まり悪げにただ座って、アーニャと仲良し写真を撮っただけだ。アーニャは本当にかわいい子だ。
 ガイダイさんたちが住むマリタ村のいくつかの店舗はリュドミラ・イヴァニィさんと彼女のママの所有らしい。イヴァン・ガイダイさんは初婚ではないらしい。アーニャとイヴァンはあまり似ていないように私は思ったが。もちろん聞けない。イヴァンは長いあごひげで、彼が日本へ来たときは、みんなから見つめられ、時にはアイヌ人かと思われたとか。
 朝食が終わると、みんなで片付けた。アーニャもかいがいしく段ボールを車まで運んでいる。
 アルシャンには何軒かダッツァン(チベット仏教寺院)がある。マーシャ・マレヴァーノヴァ малевановаが行ってみたいと言ったので、ペンション群からやや離れたホイモルスキィ・ダツァン(*) Хойморский дацан (Бодхидхарма菩提達磨)の前に車を止めた。
 *ダッツァン トゥヴァの新築仏教寺院(ウスチ・フレー)に行ったこともあるし、最近ではサンクト・ペテルブルクのダッツァン(仏教では最も西方にあるという)の入り口も見た。ブリヤート共和国はモンゴルのようにチベット仏教の国で仏教寺院や僧院(僧坊、庫裏)が多い。ウィキペディアにも15個の項目がある。最も有名なのはイヴォルギン寺院Иволгинский дацан «ハンブィン・フレーХамбын Хурэ»だろうが、ホイモル寺院も、ウィキペディには載っている。それは別称アルシャン寺院という。

 寺院の前にあった謂れ(いわれ・由緒)によると、この寺院は20世紀のロシア仏教の歴史における重要な人物の一人の声かけで1917年に設立された。が、1936年には閉鎖。1990年代に再興され、トゥンキンスキー地区の仏教の一派の中心だそうだ。

 チベット仏教寺院にはマヤ車がある。回してみる。ストゥーパもある。『ストゥーパとは元々の意味はサンスクリット語で『積み重ねる』『高く顕われる』という意味で、初期には釈迦牟尼の遺骨(仏舎利)を納めるために作られた塚のことだった。仏教の広まりとともに、その教えや悟りを象徴する祈念碑(記念碑)としての性格を強め、形も半球型のドーム型や釣り鐘型のストゥーパが建てられた。日本ではストゥーパと言う言葉は中国を経て日本に伝わる課程で音訳され、卒塔婆(そとば)と呼ばれている。(ストゥーパは日本では形も意味も少し違うが五重塔や卒塔婆の原型になった)』以上ウィキペディから。
 ブリヤート共和国のチベット仏教のストゥーパを、現地のしきたり通り、決まった方向に3回まわってお参りする。このストスーパの前には次のような説明文があった。
『ストゥーパ(仏塔) は仏教の伝統的な建造物であり、宇宙の働くモデルを表すものです。それはブッダの悟りのエネルギー、彼の智慧、慈悲の力を内に宿しています。ストゥーパのそばで発せられたすべての言葉や願いは、その力によって増幅されます。ストゥーパは太陽の進む方向(時計回り)に回って参拝します。
 お願い
ストゥーパ(スバルガン)の上にキャンディー、クッキー、ひまわりの種、ナッツ、タバコ、米、あらゆる種類の穀物を置かないでください。それらは雨に濡れるとアリを集め、ストゥーパを汚し、外観を損ないます。寄付をされる場合は、鉄製の献金箱をご利用ください。』
 寺院の中ものぞいてみる。中央に僧侶がいて、低いテーブルを挟んでブリヤート人に話している。これは、表の説明板に書かれていたように、僧侶に自分や近しい人の健康や福を祈ってもらっているのだろう。そのためには用紙に名前を書いて会計窓口に出さねばならない。説明書にはそのほかに、
『故人への特別な祈り。ラマから星座に基づく今年の運勢と個人的な問題への助言。ダッツァン(チベット寺院)付属の予防・リハビリセンターでチベットからのラマによる助言や治療が受けられる。祭具や護符を手に入れる。』とあって、入り口の横には会計窓口もある。順番を待っている人が窓際の椅子に腰掛けている。見ていると、信者は紙に多分自分の名前を書いて、窓口で1000ルーブル札を手渡している。マーシャ・マレヴァーノヴァに聞いてみると、金額は決まっていない。
 ラマと話してみたいと思い、ラマのロシア語がわかりにくいかも知れないから、彼女に一緒に来てもらうことにして500ルーブル払って順番についた。僧侶の前に座ると、生年月日を聞かれて自分の名前の下に書いた。何やら僧侶がちょっと言って終わった。マーシャ・マレヴァーノヴァによれば、明朝、私のために、なんとかというお経を唱えると言ったそうだ。(トゥヴァでラマに占ってもらったときも、シャーマンに占ってもらったときももっと詳しく言ってくれたのに。あまりありがたくないお寺だなあ)。
 ガイダイさんたちは中へ入りもしなかった。
 この寺院は東サヤン山脈麓の自然いっぱいの場所にある。すっかり黄色くなった木々と緑のこんもりとした木々が混ざり合う山々に囲まれている。
 チェブレーク、イルクーツク市に戻る、オルガン・ホール
 
 左背後には清潔な有料トイレ
チェブレークを完食する前
 
契約兵士募集のポスター 
 
 ニキータ宅で一休み
 
 遅刻したオルガンホール
 11時半ぐらいにはダッツァンを出て、元来た道を進んだ。前にもアルシャンへ来たことのあるマーシャ・マレヴァーノヴァはこの辺の有料(30ルーブル)でも清潔なトイレのあるカフェを知っているという。それが一番大事だ。12時過ぎには探し当てて、用も済ませ、テーブルに座っていた。ガイダイさんは魔法瓶に入れて持ってきた残りのコーヒーを飲んでいる。湯だけをもらって紅茶も自分たちの持ってきたのを入れる。カフェで注文したのはチェブレークчебурекといって、うすい小麦粉の生地に挽肉(羊肉や牛肉)やタマネギを包み、油であげた料理だ。モンゴルや中央アジアのカフェで普通に出されるメニューだそうだ。私は中身をチーズにしてもらった。出てきたチェブレークは自分の顔より大きい。食べきれないと思ったが、おいしく完食した。
 日曜日の午後と言えば郊外のダーチャからイルクーツクに戻る車で道は混んでいる。途中の民家の壁に契約兵私募集の張り紙があった。3,920,000ルーブリとある。これは前線で最初の1年間軍務にたいする支給金額だ。去年見たモスクワとサンクト・ペテルブルクの値段とはかなり違う。イルクーツクなどでは仕事がないので前線へ言って稼いでこようという男性もいるそうだ。軍務についただけで家族には何かと特恵が付与される。
 ちなみに、2年前にモスクワで見た看板では初年度5,200,000ルーブルで月収が52万(これは初年度の一時金と月給を含めた額のようだ)。サンクト・ペテルブルクでは2,100,000万ルーブルの一時金に月収が21万ルーブルだった。後述になるが、今年のクラスノヤルスクでは初年度は4,620,000ルーブルを保証。制服、装備は支給。住宅ローンの返済免除、最大1千万ルーブルまでとあった。
 4時半頃ニキータのアパートに到着できた。ガイダイさんたちは少し休む。彼らは、まだマリタ村まで80キロも走らなくてはならない。ニキータはこの日の5時半からのオルガン・ホールのチケットが買ってあると言っていた。
 5時過ぎ、ガイダイさんたちと別れて、ニキータのアパートのスヘ・バートル14番地からスヘ・バートル1番地にあるオルガン・ホールに行った。しかし、すでに入り口は閉まっていて案内係のおばさんから、今演奏の途中だから入れないと言われる。ニキータの思い違いで開演は5時半ではなく5時だったのだ。それでも、そっと入って購入チケットにある席(後方側面)を見つけ座った。後でニキータが持っていたチケットを見ると『オルガン・ホールでの出会い』17時開演650ルーブルとあった。ニキータに関しては確かめた方がいい。
 外にあったポスターで、オルガン奏者はヤーナ・ユデンコヴァЯна Юденковаと知る。曲目はバッハ、ヘンデル、タリベルディエフレゼル、ニクーリンなど。バッハ、ヘンデルは、私たちは聞き逃したのだろう。
 
 7時半にはチーホン、マーシャ(マリーナ・カロリコヴァ)と待ち合わせたカフェで夕食を取った。このカフェはマーシャ(マリーナ・カロリコヴァ)によるとイルクーツクでも古いカフェで、彼女の家に近い、子供の頃からよく行ったなつかしい場所だそうだ。昔ロシアは円に換算して驚くほど値段が安かったものだが、今は違う。円安のせいか換算してみると、日本のカフェより高い。今回ロシアで私はほぼルーブルは使わなかった。カードは使えないから、ニキータが支払った。一応、手元にルーブルがあった方がよいかとニキータに5,000ルーブル両替してもらったが、ちょっとしたお土産を買った程度で、後でそのルーブルを返したものだ。
 ニキータにおごってもらうたびに、もう遠慮は止めて、おいしそうなデザートも必ず注文して食べた。日本にニキータたちが来たらお返しをしよう。
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