クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date November 26, 2025  
    42 - (4)   2025年秋、懐かしいイルクーツクとクラスノヤルスク
               イルクーツクからクラスノヤルスク
    
                                  2025年9月15日から9月29日(のうちの9月22日から24日

Путешествие в Иркутск, Красноярск 2024 года (15.9.2025-29.9.2025)

 1  9/15
-9/27
懐かしいイルクーツクとクラスノヤルスク 北京経由イルクーツク  ベンチャーロフ家  バイカル湖へ   オリホン島の『ベンチャーロフの館』 バイカル湖岸を歩く 
 2  9/18
-9/19
 1キノコ狩り、東岸へ フジール村村長 、ブリヤートの話 『館』のピアノ・コンサート  バイカルのブリヤートの聖なる所  サクロ石の湖岸   元校長宅、バイカルを去る
 3  9/20
-9/21
 ガイダイさん トゥンキンスキー盆地 、ジェムチュグ温泉 アルシャン  ペンション『松林』  ブリヤート・アルシャンのチベット寺院  チェブレーク 、イルクーツクのオルガンホール
 4  9/22
-9/24
 アルカージーさんとイルクーツクの町を歩く クストーヴァさん宅訪問  チーホンの料理。シベリア鉄道  リユーダさん。補償金。アスターエフ記念館  クラスノヤルスク発電所  アリーナ。ウスペンスキー修道院。別荘 
 5  9/25
-9/27
 ヴィサコゴールヌィ橋 エニセイスク市  国旗、連邦大学、丘陵公園  バレエ の夜と噴水  軍事学校、キリスト像 川岸通り、エニセイ河川駅『ロシア』 
 6  9/27
-9/29
 レストラン『マルーン』 クラスノヤルスクのシナゴーグ  兵士募集 『祖国の防衛者の日』 ブフロフの絵画、イル郷土博物館、モスク ブロンシュテインの画廊、オペレッタ  出国、帰国、ロシアは。
 費用

 イルクーツクの町をアルカージーさんと歩く
 
黄色がかつてのベッサラビア。ドニエステトル川と
プルート川(下流でドナウ川に合流)に挟まれた地域。
現在はブコヴィナとブジャック以外は モルドヴァ共和国。
旧ベッサラビア(モルダヴィア社会主義共和国)は
ブコヴィナとブジャックウクライナに譲渡する代わりに、
ウクライナからドニエストル川左岸の細長い地
(トランスニストリア)が分与された。そこは
1991年以降はモルドヴィアの非支配地
『沿ドニエストル共和国』となっている
 
イルクーツク市中心にある通りと碑 
 
『1945-2025。80年。勝利を誇りに思う』 
 
チーホンがペリメニ(餃子)を茹でて
カリフマンさんと私たちによそってくれる 
 9月22日(月)。
 この日の朝食も9時半頃チーホンとマーシャの4人でいつもの近くのカフェで食べた。この日はアルカージー・カリフマンАркадий Калихманさん(実は物理数学博士で元教授、と言うことはロシアでは質素な生活をしている)が私たちのお相手をしてくれる。アルカージーさんは祖先がベッサラビアБессарабияのユダヤ人だ。ベッサラビアの大部分は、今はモルドヴァМолдова共和国になっているが、ベッサラビアとモルドヴァ、ルーマニアとの関係がわかりにくい。
 19世紀のルーマニア人のモルダヴィア公国Молдавский княжество(1346-1859)の宗主権がオスマン・トルコにあった。1806年の露土戦争の結果オスマン・トルコは戦勝国ロシア帝国にモルダヴィア公国領東部を割譲した。割譲されたモルダヴィア公国東部地方をロシア側がベッサラビアと呼んだのだ。モルダヴィア公国の残余部分(西)は1859年、ワラキア公国と同君連合を形成し、1881年にルーマニア王国となった。1918年、ベッサラビアは革命後のロシアから独立を宣言。第一次世界大戦終結時にはルーマニア王国と合併した。第二次世界大戦初期の1940年、ソヴィエト連邦によって併合された。その翌年ドイツ軍による1944年までのルーマニア占領期を経て、大戦末期の1944年、ソヴィエト連邦が再占領し、モルダヴィア・ソビエト社会主義共和国に再編した。旧ベッサラビアの北部(北ブコヴィナ地方)と南部(ブジャックБуджак地方、トルコ語の『端』の意)の一部地域はウクライナ・ソビエト社会主義共和国に組み入れられた。1991年、モルダヴィアはソヴィエト連邦から独立を宣言し、モルドヴァ共和国となった。
 アルカージー・カリフマンさんの両親はドイツ軍に占領される直前に、逃れたという。ためらっていた親戚のユダヤ人はみんな絶滅収容所に送られた。

 アルカージー・カリフマンさんに、歩いて回れる範囲でイルクーツクの町を案内してもらった。この日は月曜日で博物館などは閉まっていたので、スへ・バートルからアンガラ川の川岸通りを回る。イルクーツク市を流れるアンガラ川は不快な匂いがするそうだ。それでも川岸通りのアレクサンドル3世像やガガーリン像などを眺めてきた。道順なので森茂喜広場にも寄った。町の中心部にある由緒ある古い建物の説明もしてくれた。アルカージーさんは、ソヴィエト政権に苦しまれてきたので、悪人レーニンと呼ぶ。
 一度帰って、チーホンの茹でるペリメニ(冷凍食品)を食べ、また町に出て、歩きに歩いて、カリフマンさんのように早朝マラソンをするスポーツマンでない私はすっかり疲れてしまった。もう歩けないからタクシーを呼んでほしいと言ったが、遊歩道をさらに歩かされた。ほらすぐそこに本屋があるからと言われて『すぐそこまで』20分も歩いた。チタイゴーラッドчитайгород(と言う書店チェーンだ。читайというのは読みなさいの意。これは キタイ・ゴーラッドкитай город(中国街の意をもじった)に着いたが、店は3階。この本屋にカリフマンさんは、自分の本を何冊か置いている。彼は学者だから著作物がかなりあるのだ。妻のターニャも地理学博士だ。
 クストーヴァさん宅訪問
 この日の私たちの夕方からの予定もニキータは考えなくてはならない。イルクーツクにはニキータのグループで日本に来て私に案内された人が何人もいる。その中で私たちのお相手を急にでもやってくれそうな人を、ニキータは見つけたらしい。エレーナ・クストーヴァЕлена Кустоваさんという。彼女は仕事帰りにニキータの家に私たちを迎えに来てくれた。「ニキータが急に言うものだから何も準備してないわ」と盛んに言い訳しているのを聞いて、ニキータに無理に接待を押しつけられたのかと思った。でも、私に再会できてうれしそうではあった。いそいそと自宅へ案内してくれて、私もうれしかった。
 すぐには思い出せなかったが、彼女は確かに2025年5月に日本へ来て私が案内した一人だ。グループは全部で20人ほど来たらしいが私の車には3人か4人しか乗れないので、小グループに分かれて少しずつ違うところを案内したのだ。3日間だったから10人ほどのロシア人とだけしか知り合えなかった。1つめの小グループは、男性が3人で、観光の帰りに我が家に寄ったとき、2024年1月の能登半島地震で倒れていた庭石を「えいやっ」と直してくれた。ロシア人男性は力持ちだ。3つめの小グループがガイダルさんたちで、2つめのグループがカリフマンさんたちやクストーヴァさんたちだった。グループ構成はニキータが考えたものだ。
 
 クストーヴァさん

 その時(彼らのグループが日本に来たとき)は、クストーヴァさんと、それほどは話ができなかった。自分はスクール・カウンセラーとして働いていること、彼女の娘はアメリカでロシア語教師をしていると話していた。(と、その時やっと、思い出した)
 タクシーから降りて、彼女のアパートに入っていくとリフォームしたばかりの、まだ完全には完成していないが快適なマンションだった。エレーナ・クストーヴァさんは、年金生活のおばあさんからほぼ市の中心にあるが、状態の非常に悪いこのアパートを安く買ったそうだ。それを彼女は(日本と違い)長い間かけてかなりの金額もかけてここまでリフォームしたそうだ。床も天井も壁もキッチンも風呂場もトイレもみんな新しい。リフォーム代は、アパートそのものの代金より高くついたでしょうと言ったら、そうでもないと言う答え。やはり都市では不動産は高いか。
 急な招待で何も準備がないが、とあるものを並べてくれた。サーラсала(ニンニクや香辛料と一緒に塩漬けまたは燻製にした豚の脂で普通は冷凍保存する。実は私は、その薄切りが大好き、ロシアでしか食べられない。ウクライナ料理だという)や、サラダやパンがデープルに出され、(写真はリサのアルバム)ゆっくり話ができた。
 彼女の娘はアメリカで働いている、それは学生時代ワーキング・ホリディのような形でアメリカに行き、その後、試験を受け、論文を出し、面接を受けて、ある大学にロシア語講師として採用されたそうだ。娘さんは30代後半だから、それは、まだ何事もなかった時代の話だ(特別軍事作戦前)。今や、娘さんはロシアに来にくくなった。いったんロシアに行けば戻ってこられなくなるかも知れない。また、エレーナさんは以前のようにアメリカへは行けなくなった。ロシア国籍人のヨーロッパ入国ビザを西側はほぼ交付しないそうだから。
 しかし最近エレーナさんはアメリカへ行ってきたのだそうだ。その方法を教えてくれた。カザフスタンのアスタナの領事館を通じるのだそうだ。必要書類をそろえて申請し、面接の呼び出しがかかるのを長い間待ち、やっとアスタナまで出かけて面接し、彼女は無事合格したそうだ。面接でなぜ夫と一緒でないかと聞かれた。エレーナさんはなぜ一緒でないかの長い話を私たちにしてくれた。
 イルクーツクで彼女は結婚した。その後、彼らはずっと北の、イルクーツク市から100キロも東北にあるボダイボБодайбо市(地図)へ移った。ボダイボには19世紀末から知られている有名な金鉱がある。ソ連時代は金の最大の産地の一つでもあり、スターリン時代は『ラーゲリ金鉱(政治囚や強制移住者たちが働かされていた)』だった。1960年代は世界最大級の金鉱と確認できたが、1990年代ソ連崩壊の混乱で操業は停滞。現在再開発がはかられているがまだ低生産。人口は1992年までは漸次増えて2万人余になり都市インフラも整ったが、その後は減る一方で2021年では9千人。
 エレーナさんによれば、ボダイゴの夏は30度以上、冬は零度40度まで下がる。インフラ設備がない(多くが廃止になった)。で、夫とイルクーツクに帰ろうとしたが、夫は自然人で極寒のタイガで猟など楽しむ。イルクーツクではそれができない。エレーナさんはボダイゴに夫と残り、壊血病にすらかかってしまい、歯や髪が抜けたそうだ。他の病気にもかかった。これ以上は住めないと、別れてイルクーツクに戻ったそうだ。エレーナさんのロシア語はわかりやすく、私たちはテーブルに座り落ち着いて話していたので、彼女のロシア語をほぼ全部孫娘に訳してあげることができた。普段は私が相手のロシア人に対応するのが精一杯で訳している余裕はない。このような落ち浮いた談話なら訳す余裕があるものだ。楽しいひとときだった。帰りもタクシーだった
 チーホンの料理、シベリア鉄道
 
二人で朝食を作ってくれる 
 
 郷土博物館の分館の一つ。古い家具の展示
 
 同上
 
チーホンたちの料理で
マーシャのママや弟もごちそうになる 
 
コンパートメント。上段には先客が。 
 
 シベリア鉄道では窓の外を見ると言っていた孫娘。
自撮りもしていた
 
長い貨車が通り過ぎる、『トランスオイル』とある
所有者はサンクト・ペテルブルクの会社か 
 
17時50分ジマ駅で 。ここでは27分停車
 9月23日(火)。この日の朝食はチーホンとマーシャ(マリーナ・カロリコヴァ)が腕によりをかけて作ってくれた。なしを薄切りにして油で炒めたり、チーズをおろし金で削ったりして、凝ったパン料理だった。プロのコックさんの兄チモヘイもこんな朝食を作るのだろうか。チーホンとマーシャはまだ結婚していないようだが、何年も前から、いつも一緒だ。母親のナターシャによると、似合いのカップルだ。チーホンは音楽をやりたいのか絵画をやりたいのか何をやりたいのか一定でない。一方マーシャはとてもしっかりしてチーホンを導いていける。ナターシャはナイーブな次男をマーシャに預けておけば安心と言うわけだ。なるほど。
 チーホンはその後『お茶席』ももうけてくれた。ニキータの趣味で生産地不明の茶器と茶葉がコレクションされている。中国製の茶と茶器だが、ここは感心してチーホンの入れてくれたお茶をいただく。
 月曜日カリフマンさんと行こうとして休館だった博物館にチーホンと行ってみる。そこはイルクーツク郷土博物館の分館の一つで、この日は古い家具の展示をしていた。新しく気持ちのよい入口ホールに入ってロッカーの中に荷物を入れる。来館者もいなくて、ホールは静かで清潔で気持ちよかった。受付の女性は外国人の来館者が来てくれたことを喜んで(と思われた)とても愛想がよかった。年金生活者割引にしてほしいと私が言うと、分厚い本を引っ張り出して、外国人は適用されない。「でもいいわ」と、チーホンが250ルーブルだったのに私は200ルーブルの券を売ってくれた。ガイドさんもついてていねいに説明してくれた。イルクーツクに住んでいた先住民の家具や、西から移住してきた初期の頃のロシア人の家具などきれいに整備され展示されていた。つまり、この分館展示ホールは古い家具のコレクションのみが置いてあるのだ。郷土史のうち家具に特化したホールだ。

 ランチもチーホンたちが用意するという。そして、今まで一度も会ったことのないマーシャのママが忙しい職場を昼休みと言うことで抜けて会いに来るという。17歳の弟のディーマも来た。ディーマは去年姉たちと金沢に来たことがある。多分40代後半と思われるマーシャのママは年齢よりも若く見える。市役所で働いているとか。私が理解した限りでは、彼女は土木課のようなところで工事を受注したり監督したりするところだ。悪くないポジションだ。
 チーホンはエプロン姿で肩にタオルを掛けて、また凝ったスパゲッテイ料理を作っている。マーシャが手伝う。確かにおいしかった。カフェで食べるよりずっといい。
 2時半過ぎ、もう時間だからとママはディーマと帰って行った。
 私たちもシベリア鉄道でクラスノヤルスクへ出発する時間だった。15時50分イルクーツク発だ。以前は飛行機の時刻は現地時間でも、列車時刻はモスクワ時間だった。時間帯・タイムゾーンが11もあるから、出発時と現在の時刻と到着時をすべてモスクワ時間(UTS+3)にしてあったのだ。だから、車中で現在の現地での時刻を知るには時差を計算しなければならない。現地到着や出発を間違えないようにモスクワ時間を計算しなければならない。しかし最近は現地時間になった。スマホの時刻も自動的に入れ替わる(しかし、Wi-Fiがあるのかないのか、少し遅れる、急に時刻が早まったりする)。
 駅に入るにはロシアではどこでもそうだがレントゲン検査がある。面倒だ。
 私のチケットは6362.6ルーブルだが孫娘は7029.20ルーブルだ。二人とも同じ車両の下段の寝台なのに、どうしてこの値段の差があるのか。チーホンは自分でも不思議に思うと行って、窓口の女性に聞いている。「買った時期が違うからよ」とか、「わからないわ」と答えられた後の3人目のおばさんが私の値段はシニア料金だからと教えてくれた。たしかによくみると『60+/seior』とある。そうか外国人でも割引されるのか。
 ロシアで目当ての列車に乗るのは、昔は一人でやっていた。今、チーホンのようなお世話してくれる男性がいると大助かりだ。目当ての列車がどのプラットホームに着くかは直前にならないとわからない。そのプラットホームも自分の足で荷物を持って降りて上がらなければならない(駅によっては上がって降りる。一人で困った顔で階段にたっていると助けてくれる男性もロシアにはいるが。)
 今は、荷物を持ったチーホンについて行くだけでよかった。荷物と言っても、たった3日間のクラスノヤルスク滞在なので不要なものはみんなニキータのアパートに置いてきた。階段を降りて上がってちゃんと目当てのプラットホームに案内してくれ、目当ての車両の前まで行ってくれる。すると、入口近くに立っている車掌さんにチケットやパスポートを見せる。よしとなると中に入れくくれるのだ。私はいつも、日本へ来たロシア人は、日本のやり方を知らずにとまどうのではないかと思ってしまう。
 私たちのパスポートをみた車掌さんは、「あら外国人ね。言葉が通じなくては困るわ」と言うのでチーホンが「彼女はロシア語がわかります」と言ってくれる。車両は20号でベッドは021と023、つまり奇数は下段だ。昔の列車は上段でも面白かったが、今は、窓は全く見えないようになっているから、シベリアの自然を眺めていたいという孫娘には不向きだ。ニキータに下段を取ってもらってよかった(値段も違う)。この4人用クーペ(コンパートメント)には私たちが乗ったときは上段に男性が寝ていた。もう一つの上段は私たちが降りるまで誰も乗ってこなかった。つまり、4人用コンパートメントに3人で乗っていたのだ。たまたま乗り合わせた同室の乗客と話をするのも面白いものだ。以前、愉快なおばさんと同室になって身の上話を聞いたことがあって、退屈しなかった。だが、今その上段の男性とは、挨拶の他は行き先を聞いただけだ。クラスノヤルスクと彼は答えていたが、クラスノヤルスク市乗客駅では降りなかった。
 発車してしばらくすると車掌さんがパスポートの確認ですと回ってきて、シールも置いていった。この列車のシーツが苦手で、袋型のシーツに毛布を入れるのに苦労しているので出発前から孫娘に手伝ってくれるよう頼んでおいた。4本の手があれば楽に入る。孫娘は毛布はいらないとシーツだけかぶって寝るようだ。
 すれ違う貨物列車は青色の円筒形を倒したような石油ガソリンの運搬車だった。さすがシベリアだから。
 急行列車なので、一応早く進むのだろう。イルクーツクの後は2,3分の停車駅の後19時40分にはジマーЗима駅に27分間止まる。乗客は空気を吸いに外へ出る。外はすっかり暗く、プラットホームを照らす構内のランプが煌々と輝き、車掌さんがゴミ袋を持って走っている。トイレ前にはゴミ袋があるので、大きな駅についた時捨てておくのだろう。列車には列車番号と車両番号、それに行き先を書いた蛍光板が見える。この列車は『№009 Новосибирск Владивосток009号列車ノヴォシビリスクリスク・ウラジオストック』 と書かれてあった。
 暇だったので車掌さんのところで紅茶を買ってくる。コップをもらってお湯を入れて飲む。ずっと昔から列車だけにある枝付き入れ子のガラスコップなのがうれしい。
 トイレも昔のようにペダルをふむと線路が見えるようなポットンでなく、ビオ・トイレだそうだ。ビオ・トイレというのはペーパーを捨ててはいけないとは思いつかなかった。私のすぐ後入った女性が車掌さんに言いつけたのだろう。クペーのドアを開けて、ちょっと申し訳なさそう「はじめに言わなかったのが悪いのですが、ペーパーはゴミ箱に捨ててください」と言われた。「すみません。これからそうします」と謝る。孫娘からは「ゴミ箱が横にあったじゃない」と、車掌さんより厳しい口調で言われた。
クラスノヤルスクのリューダさん、補償金、アスターフィエフ記念館
9月24日(水)。
 朝、スマホの時刻をみてまだまだかと思っていたのに、急に進んだ。時刻変更ポイントにスマホが合わなかったのか。それでも8時29分到着にはまだまだ間があったので、孫娘の寝顔でも撮っていた。
 ロシアの寝台車は降りる前にシーツを剥がしてタオルと一緒に車掌さんに返さなければならない。シーツは剥がして返してきたが、タオルがあまりきれいだったので、返さないでテーブルに置いておくと車掌さんが、タオルが足りませんと言いにきた。すぐ渡すと、ほっとしたようだった。気の毒に。私たちが外国人で気を遣ったね。
 
 エニセイ川を渡るとすぐクラスノヤルスク駅
 
クラスノヤルスク駅前、背後の柵は地下鉄工事中 
 
 朝食を作ってくれるリューダさん
 
ブラディックの部屋 
 
キッチン奥の居間 
 
初年度4,620ルーブル保証のポスター 
 
『第4の橋』を渡る。
対岸には新興団地『静かなる朝焼け』
 
スリズニョーヴォ見晴台の『魚の王様』 
 
見晴台からエニセイ川上流を望む 
 
国立アスターエフ記念センター(ネットから) 
 
 8時25分にはエニセイ川の鉄橋をわたり、29分前には到着していた。降りると迎えのディーマさんがすぐ見つかってほっとする。クラスノヤルスク駅も階段が多くて息が切れる。外へ出てみると工事中の塀が多い。地下鉄をついに作っているのだとか。クラスノヤルスクの地下鉄工事は多分30年も前から始まっていて、長い中断の後、一、二度は再開ときいたが、何だか不透明。今度こそ完成するかも。第一期の工事はエニセイ西岸の旧市内を通るもので、だから、市中心部の主要道路は通行不可や一方交通となっていつも渋滞している。(夜間にだけ工事をするなどという配慮はない)
 ディーマさんに再会できてうれしい。初めて会ったのは、20年前、私が新潟空港まで迎えに行ったときだった。ディーマさんや長女のアリーナちゃんとクラスノヤルスク地方を北から南へとよく回ったものだ。船でエニセイ川も下ったことがある。今では彼も50歳を超え白髪だ。
 駅前広場の工事中の塀の前で写真を撮って、彼のランクルで懐かしいアカデミガラドク街のマンションへ向かう。ドアを開けると待ちかねていたリューダさんと、マトベイが立っている。ディーマさんは妻のリューダさんより5歳ほど上らしいが、彼女が18歳の時結婚して生まれたのが今26歳の長女のアリーナ。8年後に今18歳の長男ブラディック(今はモスクワの大学に)、そして次男マトベイは11歳。
 リューダさんの準備してくれた朝食を食べる。彼女が言うには、このマンションで6人も住むのは窮屈なので、彼ら4人はマヤーク別荘団地にある自分たちの別荘に住む(車で15分ほど)。このマンションは私たちが好きに使っていいそうだ。前回来たときに私が占領したブラディックの部屋は、また私が。奥の居間の大きなソファベットには(ソファとして使っても眠れるが拡大すると広くなる)孫娘が寝ることにした。朝食を終えるとディーマさんとマトベイは職場と学校へ去った。私たちはリューダさんの車(これもランクル)でひとまず、エニセイ川右岸のバザイハ村方面へ。
 途中の道には契約兵士募集の看板があって金額は初年度4,620,000ルーブルとあった。少し前に聞いたことだが、私たち共通の知人のディーマ・キーステインさんはクリミアに住んで、義勇兵(?)として戦っていたのだが、戦死した。遺族への補償金は手厚かったそうだ。それで、キースティンの寡婦は子供にマンションを買ってやれたという。戦地の兵士たちの家族への住宅や医療、教育といった特別福利厚生の話は、イルクーツクでもブリヤートでも聞く。
 補償金の話がでたので、リューダさんはディーマの兄サーシャの再々婚の話をした。サーシャはマリーナという子持ちの女性と結婚してハカシア共和国のアバカン市近くに住んでいた。しかし、二人は別れて、共通の娘をサーシャが引き取った。サーシャは、マリーナと一緒の時から付き合っていたレーナという女性と結婚して、母親の住むベア村で放牧業をする継父の手伝いをすることになった。しばらくしてレーナが別れて去る。それからサーシャはウクライナ戦争未亡人と再々婚したのだ。その女性は、もちろん遺族補償金をたんまり受け取っていた。その中の一部で豊乳手術したとか。残りの補償金を持ってサーシャと再婚したのか。
 リューダさんは夫の家族が好きではない。なぜかサーシャのことはいつも悪く言う。私は親切なサーシャ、優しいサーシャと思っているのだが、リューダさんは好きではないらしい。今では50もかなりすぎたサーシャに豊乳の妻がいるとリューダさんは笑って言う。私もちょっと笑ってしまった。

 クラスノヤルスク市の『第4の橋』をわたってエニセイ右岸へいく。それは最近できた 『Национальный центр В.П. Астафьевアスターフィエフ記念国立センター』へ行くためだ。V.P.アスターフィエフは日本ではほとんど知られていない。ロシアでもそれほど知られてはいないがクラスノヤルスクではみんな知っている。かつて『現代ソヴィエト作家選集』のようなシリーズが日本で出版されて、翻訳で読んだことはある。私は小説には大人になってから距離を置いている(読んでも感動しない。やっとやっと最後のページまで読んだと言うこともたびたび。それで内容は覚えていない)。アスターフィエフはソヴィエト時代の自然派(たぶん)の作家で代表作は『魚の王様царь Рыбы』だ。魚の王様とはチョウザメのことだ。アスターエフがクラスノヤルスク市の近く、右岸のオフシャンカОвсянка村で育ち、晩年はそこで暮らしたので、記念館ができた。それが2024年大きく模様替えして、と言うより別の場所に新たに建設され、(マイナーな)観光客や文学研究者に人気らしい。
 オフシャンカ村のアフィターエフ記念館へ行くために道は1本、エニセイ川にかかる前記の『第4の橋』を渡って(もっと下流の橋でもよいが)右岸に出て、川岸通りをまっすぐ上流に向けて進む。エニセイ川はユーラシアの中心の高地からサヤン山脈を(自分の水力で)切り開いて(浸食作用)シベリア平原へ出てきたような力強い川なので、この辺はまだ両岸とも絶壁だ。だから山と川の間の狭い道がへアピンカーブをなして続いている。この道はクラスノヤルスク市より40キロ上流にクラスノヤルスク発電所(1956着手-1972竣工)を作るために施設された鉄道と平行に設けられた道だ。
 記念館のあるオフシャンカ村へ行くまでに、『スリズニョーヴォ見晴台』(近くにスリズニョーヴォ村がある)の下を通る。もちろん車を止めて見晴台に上り、エニセイ川と対岸を見晴らす。この見晴台も1992年私が初めてクラスノヤルスクに来た時からあった。しかしそのときは足場の悪い石段を上ったところで、エニセイ川を見下ろせる高台というだけだった。その後、足場がよくなって結婚後のカップルの訪れるところとなり(そんな伝統がロシアにある)、数年前にはアスターフィエフの代表作『魚の王様』の本のページ(石)や網にかかったチョウザメの像もできた。眼下の広いエニセイ川、対岸のタイガ、それにチョウザメの像は、全くぴったりだ。『魚の王様』はどん話だったかすっかり忘れてしまったし、アスターフィエフの愛読者でもないが、見晴台に上がると、エニセイのクラスノヤルスクに来たという実感がわく。リューダさんに感謝だ。

 前記のように、サヤン山脈を浸食してシベリア低地へ流れ出しているエニセイ川の左岸の絶壁下に鉄道と道路が建設された。それはクラスノヤルスクから発電所建設村のジヴノゴルスク市へ行くためだ。この古い道を延長して、発電所手前の橋を渡ってエニセイ左岸に出て、南下する道は2010年まで『M54』と呼ばれていた。今は『R257別名エニセイ』という。ロシア連邦の連邦道は、アルファベットと数字で統一され、R257 はクラスノヤルスク市からハカシア共和国のアバカン市、トヴヴァ共和国のクィジール市を通ってモンゴルとの国境に通じている。トゥヴァへ行くにもハカシアへ行くにもジヴノゴルスクへ行くにもこのヘアピンカーブの危なっかしい道を通らなくてもいいように、数年前から、バイパスができている。バイパスは左岸のクラスノヤルスク市から左岸をまっすぐ南下するため途中タイガを切り開いてできたような無人の森の中の起伏の多い道だ。シベリアの陸上交通はこのように人口希薄で資源豊富な僻地に現代的な舗装道を次々に建設して、プーチン時代、急激(政府側はそう言う)に発展している。
 ある人によれば、もっと急激に発展できたはずだ。汚職がなければ、また政治システムが悪いから、発展が遅かった。中国の方が、道路網などが発展している。シベリアには東西に1本しかない。ヤクーツクには未だにレナ川に橋が架からない。(その人には私は賛成できない。汚職の国と言うことには同意。あれだけの汚職でよくもこれほど発展できたものだと、私なら思う)
 事故多発の危険な道路を通らないでアバカン方面へ行くバイパスができたおかげで、この旧M54(R257)の車通りは少なくなったかも知れない。ヘアピンカーブで起伏が大きいものだから、ブレーキが故障した車のために緊急避難路まである。これを私は1992年の始めてみて、用途がすぐ理解できたものだ。
 オフシャンカ村は、ソ連時代はエニセイ川を通じて材木をいかだにして流す中継業か漁業しか生業はなかったが、今は都会人の別荘地となっている。オフシャンカ村出身の作家であるV.P.アスターフィエフの功績を讃えるために、かなり前にV.P.アスターフィエフ図書館・博物館が設立された。今の記念館はその図書館から少し離れたところに新たに建てられたのだ。国立センター記念館の案内書には『シベリアの自然や人々の暮らしなどが描かれた文学作品が保存されている。地域の文化的なランドマークとして重要な役割を担っており文化的な交流の場としても機能している』、とある。
 アスターフィエフ記念館は超現代的な建物だ。来館者を退屈させない展示で、最近の優れものだ    
クラスノヤルスク発電所
 
1997年発行の1尾ルーブル紙幣。
現在はコインに変わっている 
 
眺望テラス 
背後にシップリフトが見える
 
エニセイ左岸にある金日成の記念碑 
 前記のように、クラスノヤルスク市から上流40キロのところに完成当時、世界最大の発電量のクラスノヤルスク発電所の建設が始まり(現在ロシアではクラスノヤルスクより上流のエニセイ川にできたサヤノシューシンスカヤ発電所が最大)、そのための鉄道も引かれ、当時ひなびた修道院村だったスキット(*)の近くにジヴィノロルスクという町もできた。10年間もクラスノヤルスクに住んでいたので、多分10回以上も訪れたことだろう。が、10ルーブル紙幣にも印刷されているクラスノヤルスク発電所をもう一度見るか。
 (*)スキットскитは正教会の小規模な修道院、または修道士たちが隠遁生活を送るための施設。山奥や森の中など人里離れたところに建てられる。日本語では庵、山寺、隠遁地か。

 オフシャンカ村を通り過ぎ、ジヴノゴルスクも通り過ぎると、エニセイに架かる橋がある、その手前に眺望テラスができていた。ここだけでなく、クラスノヤルスク市へは行く度に何か新しい観光スポットができている。テラスは水面に向かって張り出しており、川とダム、対岸の山並みを一望できるようになっている。手すりの塀が透明(硬化ガラス?)だ。発電所と右岸近くのインクラント式シップリフト(船をそのまま貨車に乗せて急斜面を移動させる。クラスノヤルスク発電所ダムのリフトは、レールの軌間が9mで世界最大級)が見える。しかし私は移動中の船を見たことはない。
 エニセイ川の橋を渡る。橋の上からも発電所がよく見える。ダム湖の水は年に数回放水する。ネオンも輝いて、ここでしか見られない景色だろう。それを見るための眺望テラスだろう。このテラスができる前は、右岸の川岸近くへ降りた。今でも、そこへの道がある。2年前はそこで思いがけなく朝鮮民主共和国の金日成の記念碑を見てしまった。今もあるだろうか。確かめたくて右岸の川岸に降りてもらった。眺望テラスができたので、ここまで降りる車はあまりないのだろうが、それでも、数台が止まっていた。『1984年同志金日成がクラスノヤルスク発電所を訪れた』という新しい記念碑(2年前と同じ)がちゃんとあって、バラやカーネーションの花まで添えられていた。
アリーナ、ウスペンスキー修道院、別荘
 
ウスペンスキー修道院 
 
修道院のケリヤ 
 
修道院近くのエニセイ川岸 
 
マヤーク団地のディーマさん家の別荘の入口 
 
 地下貯蔵庫、リューダさんが持つのは白樺ジュース
 
 別荘(ダーチャ)庭で魚を焼く
 
マヤーク団地の小さな協会 
 
マトベイの右には孫娘、左にはディーマ 
 2時近く、リューダさんの別荘団地マヤークの下にあるスーパーに向かう。別荘から長女のアリーナが歩いて降りてきてその近くで待っているという。子供の頃のアリーナはよく知っている。彼女は学校を卒業して進学はせずに、男性の友達とイスラエルに行った。父親から旅費は出せないと言われたので、カフェで働いてお金を貯め、行ったそうだ。イスラエルで働きながら学んでいたのかどうか知らないが、一人で帰ってきて、しばらくしてモスクワの学校でインターネット関係の勉強をしていた。今はネットでの仕事をしているとか。本部はモスクワにあるのでモスクワ時間で生活している。つまり4時間遅い生活だ。久しぶりで会ったアリーナは広い額と大きな目で、ほっそりとして26歳とは見えない。英語ができるので(誰でもそう思うかも知れないが) 孫娘と話が合うかと思っていたが、語学だけでは話が弾まないものだ。アリーナと孫娘が英語で話さなければならないことは何もない。私とは日本語で、私は彼らとはロシア語で話してしまう方が、事が早く済む。スーパーで何を買うかも、どこへ行くかも英語の必要はないが、二人の女の子は仲良く歩いていた。
 マヤーク別荘団地の下の左岸通りの先へ行くと、ウスペンスキー修道院がある。私がクラスノヤルスクに住んでいた頃は、荒れたままでかろうじて小屋のようなところに僧侶がいた。ウスペンスキー修道院というと、私には榎本武揚だ。彼は箱館戦争(1868-1869)で敗北したが、後に、駐露特命全権公使(1874)に任命されて後、サンクト・ペテルブルクに行き、樺太・千島交換条約を締結した。帰りは1878年シベリアを横断してウラジオストックに到着。『シベリア日記』という彼の紀行文によると、クラスノヤルスクでは、このウスペンスキー修道院に宿泊している。
 修道院は数年前から立派な建物が建っている。入り口の掲示板には『クラスノヤルスク主教区ロシア教会、ウスペンスキー(和訳では『聖母就寝・昇天』)男子修道院。1879年創立(つまり、榎本は正式な竣工式前の修道院に宿泊した)、1918年閉鎖、2000年再建。モスクワおよび全ロシアの総主教キリル、クラスノヤルスクとアーチンスクの府主教パンテレイモン、修道院長典院インノケンテイのもとで、および、アレクサンドル・ウス(当時の知事)氏の後援と尽力による』とある。門を入ると広い石畳の広場に出て、そこには何軒かの教会建物がある。最も大きく高いのは、聖母就寝・昇天教会だ。信心深いリューダさんのことだからもちろん中に入る。私も入ってろうそく買い、点す。信者ではないが、私はいつでもそうする。
 石畳の広場には大きな聖母就寝・昇天教会の他にいくつか小さな教会(礼拝堂)があり、記念館があり、さらにケリヤкурьяの長い建物もある。ケリヤは修道士が一人住んで祈る独房だ。今は歴史宗教記念物になっているのか。
 ウスペンスキー修道院は前記のように左岸川岸にある。門を出て、川岸に行ってみる。ここで習い事をサボったと言うマトベイが合流した。習い事の場所はこの近くらしい。川岸にはおしどりがたくさん泳いでいた。手づかみできるくらい近くの浅いところや砂(石)浜で、褐色の地味なはねの雌鳥や緑色の頭の雄鳥が屯していた。砂浜(砂利)には鳩も寄ってきていた。

 それからみんなで近くのカフェへ行く。ランチを食べ終わったのはまだ4時前で(ロシアのランチとはこんなものだ)、マヤーク団地の別荘を見せてもらう。夏の間はここに住み、つい最近までも住んでいたが、私たちのためにマンションを開けて、彼ら4人はまた別荘暮らしだ。3日間とはいえ、申し訳ない。
 
 別荘、2階への階段から
 
 入口に立つリューダさん
 地下室から2階まで見せてもらう。地下室の瓶詰めはいいな。リューダさんが自分で作ったのだけでは足りなくて、ハカシアの実家からもっともらうそうだ。きゅうりやトマトのピクルスの他ジャムの瓶も蜂蜜のケースもある。ジャガイモやタマネギのぎっしり入った重そうな袋もある。
 5時過ぎ、ディーマさんが帰ってきた。今日は庭で魚を焼くという。準備ができるまでの間、アリーナと3人で別荘周りを散歩することにした。マヤーク団地はエニセイ左岸の絶壁の上にあって、回り中が松と白樺とオシーナ(Осинаやなぎ科ポプラ属)林だ。いくら歩いても木々と落ち葉しか見えない。唯一、来るとき目にとめたのだが小さな木の教会がある。勿論しまっていたが寄ってみた。聖イオアン・クロンシュタット教会という。これを建てるときにはディーマさんも貢献したそうだ。家に感謝状があった。教会の外壁にはベンチがあって、座って木々を眺めているのもいい。
 1時間もしないで帰ってみると魚はもう焼けていた。食卓に座って、春に貯めたという白樺ジュースと一緒にいだいた。ジャガイモとちょうどいい具合に焼けた鮭がおいしい。黒パンも食卓に載っている。

 10時過ぎには朝食用の黒パンやチーズをもらってマンションに送ってもらった。私たちは中から鍵をかけない。自力で開けられないと困る。外からかけてもらった。夜中に外に出ることもないから。
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